5
アルヴァの城門前に、四頭立ての四輪大型馬車が止まる。
その前後にも、大勢の軍隊や、二頭立て馬車がついていた。
リウォインの国旗と王家の紋章の装飾を持つ大型馬車は、ただ一人の主のものだ。
側近の一人が、恭しく腰を折り、手を差し出す。
しかしその手がとられることもなく。白鷺王ヘルガは悠々と馬車から降りた。
最上級の賓客である。黒獅子王とその側近らも出迎える。
「ご機嫌よう、黒獅子王」
「息災か、白鷺王」
表面上は和平を結んでいるため、作り笑いで挨拶を交わす。
二人の王が顔を会わせることは滅多に無く、最後に会談を行ったのは二年も前の話だ。
「王妃様はお元気かしら?」
「しぶとく生きている」
白々しく聞くヘルガに、エンディミオは素っ気なく返した。
両王家の因縁は長い。その初まりを知る者はいないが、歴史の中で幾度となく衝突をしたことは事実。
王に
しかしあくまで会談に来たヘルガは、張り詰める空気を楽しむだけ。エンディミオが促すと、あっさり従いて、黒獅子王の領域に足を踏み入れた。
フリードリヒが目覚めると、医師が白い大腿の付け根に、点滴の針を刺していた。
「いったっ」
「も、申し訳ございません! ああ、お目覚めになられましたか」
医師の率いる看護師らが、急ぎ道具を片付ける。
身体の弱い王妃が妊娠したとあってか、大勢の優れた医療従事者たちが王室に入ったのだ。
たくさんの見知らぬ顔に戸惑うが、優しい医師は変わらず側に居た。
その事に安堵し、フリードリヒは診察に体を預けた。
「私が思っていたよりも、良い塩梅です。眠っている間の拒否反応も減りましたし……このまま、何事もなければ良いのですが」
フリードリヒの体調は、実の所変化が少ない。
悪阻も軽く、眠気のせいで怠さや痛みが軽減されていた。その辺りはとても運が良かった。
ただし、睡眠時間は増えている。
栄養失調を防ぐために、医師はあれこれと手を打っていた。
フリードリヒの両腕は、点滴痕によりぼろぼろで、医師はさらに効率の良い大腿部の血管に切り替えた。
この部分に針を刺すことは嫌がられる事が多く、今まではやらなかったのだ。
診察を終えると、医師は話もせずに一礼して、すぐさま退がった。
謹慎中の王妃に配慮してのものだ。
フリードリヒは話したいことが沢山あったが、仕方ない。自分が引き起こした事態なのだから。
外界との関わりを絶たれたとて、フリードリヒにとっては、ロメンラルにいた頃とたいして変わらなかった。
会話をする侍女がいるだけ、こちらの方がよほど楽しい。
謹慎を言い渡されてから、二週間が過ぎていた。
その間は、体調を考慮して、神域に行くことはなかった。
ただひたすらに、“忌まれし森”の事を考えていた。
「ケツァルコアトル様ー」
密かな声で呼べば、蛇を纏う神はすぐさま顕れた。
いつもなら慈悲深い微笑を向けてくれるが、今日は様子が違う。彼方を真剣な目で見ている。
『……イツテラコリウキの魔女が来たようですね』
「ヘルガ様が?」
『探りますか?』
願えば、ケツァルコアトルは確実に、どんな情報も与えてくれるだろう。
しかしヘルガに気づかれることも、覚悟しなければならない。これ以上、エンディミオに迷惑はかけられない。
「いえ……いい、です。それより、神域に、行きたいの、です」
その発言に、ケツァルコアトルは少し驚いた。
あんな恐ろしい目にあっては、フリードリヒはもう神域に行くことはないだろうと、諦めていたのだ。
凄まじい忍耐力にいたく感心した。それに応えようと、ケツァルコアトルは余計な事は言わず、神域に接続した。
ほくそ笑む口元が見えぬよう、ヘルガは扇で巧妙に隠した。
アルヴァの王妃を手にかけられなかったのは残念だが、イツテラコリウキでは、王妃が契約した神に敵わないことは重々承知。
謹慎になったというのは、ヘルガとしては成功だ。邪魔者がいなければ、黒獅子王をうまく動かすことができる。
「ねえ、王妃さまから聞いたのだけれど、あの方は、呪いを解くことができるようねえ」
「何かと思えば、そんな話をしに来たのか」
食いついた。妃を出せば、こんなに単純に話に乗るとは。
つまらぬ男になったものだと、ヘルガは喉の奥で笑った。
「ああ、可哀相な王妃さま。何の報いもなく、死を選ぶなんて」
書類をめくっていたエンディミオの手が、止まった。
「不確実なことを、あんな坊やに任せてしまうなんて、黒獅子王らしくないわあ」
「黙れ。不敬で裁くぞ」
「くはは。ねえ黒獅子王、私がこんな暑苦しい所に来たのは他でもない。
共に“忌まれし森”を殺しましょう」
「ケツァルコアトル様、あの大きな星は、何というのですか?」
フリードリヒと神域を繋ぐ起点は、どうやらロメンラルの屋敷の自室らしい。
窓から夜空を見上げ、青星が霞むほどの輝きを尋ねる。
『あれは月というものです。かつては、現世でも世界を照らしていました』
「月、ですか」
あれほどの光があれば、夜は困らないだろうなあ、とフリードリヒは思った。
いつまで見ていても、飽きない。ケツァルコアトルに促され、フリードリヒは自室を出た。
「あれ?」
廊下に出た途端、アルヴァの宮殿に変わった。慌てて振り返ると、閉めた扉は、確かに自室のもの。
「な、なにこれ」
『ここは神域ではありますが、同時にあなたの意識内でもあります。適当に歩けば“忌まれし森”に会えます』
実家のことをあまり覚えていない、という事態が、この奇妙さを招いたらしい。
人の心は常に変化する。フリードリヒにとっては、故郷よりもアルヴァの方が大事という表れだ。
この道のりは覚えているぞ、とフリードリヒの胸は高鳴る。
侍女らと何度も歩いた、庭園への廊下だ。
「うん?」
つと、また妙なものを見つけた。
本来は何もないはずの壁に、扉があった。
蛇の意匠が施された、翠色の扉。
フリードリヒの本来の好奇心旺盛さが頭をもたげる。取っ手に触れたが、ケツァルコアトルが制止した。
『そこから先はわたしの領域、わたしの意識です』
「んん?よくわかりません」
『わたしがあなたの意識に間借りしている状況でした。契約した今となっては、侵食してしまっています』
「開けたら、駄目ですかー?」
ケツァルコアトルが自分の心を見ているならば、その逆をしていいようにも思える。
何より、長年共にいた神が、どんなものなのか、気になる。
『見られるのは気にしませんが……。わたしたちの情報量に、人は耐え切れません。即死します』
なんと恐ろしいものが、自らの内にあるのだ。全き善良ではない、というイツテラコリウキの言葉が、再び頭をかすめる。
『開かなければ、問題はありません。さあ、行きましょう』
促され、フリードリヒは見なかったことにした。
というのに、角を曲がるとまたも不可思議な扉が。
鏡が取り付けられた、どす黒い扉だ。鏡は曇っており、何も写っていない。
ぎぃ、と音を立て、ゆっくりと黒い扉が開いていく。
石炭の
“忌まれし森”ではないことは、フリードリヒでも解る。これは、森よりもずっと恐ろしいものだ。
漂ってきた、むせ返る血の匂いに、フリードリヒは吐き気を催す。
突然、ケツァルコアトルは扉を足蹴にして閉めた。ついで鏡を拳で割ってしまう。
「……お、おおぅ」
『すみません、先へ行ってください。わたしはこれをやっつけてますので』
早口に言うなり、ケツァルコアトルは扉の向こうへ消えた。
かの蛇神は無表情であった。きっと大変なことになっているに違いない。
フリードリヒは全てを忘れることに努めた。
「化け物を殺す? 馬鹿を言うな。やれるならば、とうにやっている」
エンディミオはヘルガの言葉を一蹴した。
歴代の王たちが、呪いを解かんと動かなかったわけではない。
しかし、どんな兵法も、魔女のまじないも、教会の奇跡も、意味を成さなかった。
兵を出せばむしろ被害は拡大し、化け物の不死身さを痛感するばかり。
悔恨を残し、死んでいった先人らを思うならば、余計な犠牲は出さずに、国を豊かにすることを考えるべきだ。
「うくく、馬鹿ねえ。今の技が、昔のものに劣るはずがないじゃない」
ヘルガはやけに自信に満ちている。
その理由を、エンディミオは聞いてみた。
「死角の多い森林で戦うから不利なのよ。“忌まれし森"をこちらに召喚し、一網打尽にすればいい……そうでしょう?」
「随分と簡単に言うではないか」
「簡単ですもの。贄がひとつ、あればいい」
「なるほどその贄に、貴様がなると」
「つまらない冗談ね。アルヴァの王妃さまに決まっているじゃない」
その言葉に、エンディミオは書類を卓に放り、ヘルガを睨む。
「貴様こそ、冗談は大概にしろ。あれに余計なことを吹き込むな」
「だから謹慎にしたのでしょう。本当につまらないわ。黒獅子王ならば、何の躊躇もなく伴侶を差し出してくれると思ったのに」
「教会を敵に回す気はない。ついでに、あれの腹には子もいる」
ヘルガは鼻で嗤い、おぞましい言葉を吐きつづける。
「子なぞ、その辺の女に産ませればよいこと。価値を見出だしてあげなさいな」
「価値だと?」
「大した預言もしない神憑きに、何の価値があるというの。
どうせすぐに死ぬるのだから、死出の花道を用意してやるのが、慈悲というもの」
エンディミオは、怒ることはなかった。ただヘルガを見据え、静かに言い放つ。
「貴様は、何を焦っているのだ」
「――なに」
「見目は若い女といえど、貴様は齢五十を過ぎた。呪いを疎ましく思っているのは、貴様の方ではないのか」
「あら、私は呪いごときで、民が反抗するような政治はしていなくてよ」
余裕の笑みを見せるヘルガ。
しかしてエンディミオは知っていた。白鷺王は、自身よりも短気で我が儘であることを。
「では何故、子を生さぬ。やはり呪いは、魔女をも蝕むのか」
くく、と笑えば、対してヘルガは無表情になった。
凍てつくような視線を寄越し、だが女王は虚偽を重ねる。
「馬鹿なことを、唯一無二たる私が、あのような出来損ないの命に蝕まれると?」
「そこまでして、教会に勝ちたいか。他人の妻を犠牲にしてまで」
反論はさせまいと、畳み掛ける。
エンディミオは、呪いは解ければ重畳であるが、本来は無関係の妃を犠牲にしなければならぬほどに、追い詰められているわけではない。
しかし王妃はただ一人のために、自らを省みなかった。
何と無く、庭園へ行けば“忌まれし森”に会えることは分かった。
ケツァルコアトルが力を与えたのは、一人でも神域内を動けるように、とのことなのだろう。
無尽蔵に入ってくる情報をかわし、興味深げに月を見ながら歩く。石床の、こつこつとした感触を楽しみながら角を曲がり、歩みを止めた。
「父様」
フランツが息子を見据えて立っていた。
何故、父が出てくるのか。どうせなら、エンディミオがいいのに、とフリードリヒは思った。
無視して歩もうとしたが、フランツが肩を掴む。
フリードリヒはぎくりと身を固くし、父を見た。
「フリードリヒ、平和の君主」
「父様……」
フランツの肩に、金糸雀が止まる。白い羽毛の、金糸雀が。
「もたらされたものに気づかねば、お前は何も救えない」
「何を、おっしゃっているのですか?」
「ついて来い」
これは“忌まれし森”の罠ではなく、また別の何者かの干渉だと理解した。
フリードリヒは不思議と恐怖もなく、父の背を追った。
長い廊下から、角を曲がり、庭園に入ったところで、父の姿は無かった。
代わりに庭園の中心には、黒耀石の刃に貫かれ、固定された“忌まれし森”の姿が。
「……あの、父様を、見ていませんか?」
「ささ.さあね→白い小/鳥ならば:いた/たよ」
呑気に質問するフリードリヒに、森も呑気に答えた。
フリードリヒはしばし周囲を巡りて父を探すが、見つかることはなかった。
そうこうしているうちに、翡翠がフリードリヒの肩に止まる。
『わたしの愛しい子。どうかしましたか』
「んと、なんでもないです。
あ、そうだ。聞きたいことがあったんです」
『どうぞ』
「なぜ“忌まれし森”は、生まれたのですか?」
むしろ、なぜ今までこの疑問を持たなかったのか。
“忌まれし森”は何も言わず、フリードリヒを見ている。
『生まれた、という表現は正しくはありませんが、いいでしょう。情報を開示します』
フリードリヒが両の手を出すと、翡翠はそこに乗る。
『これは教会が設立されて間もない頃の話です。
教会開祖に反抗した弟子の一人が、開祖を殺すために暗躍していたのですが、もう一人の弟子である魔女が、それを察知して止めようとした結果、反抗した弟子が魔女を罠にかけ分解したのです。その手腕は見事としか言いようがありません』
「魔女を……」
『魔女の『死にたくない』という抵抗と、世界の『死を呑んで新しい生命を生み出す』という機能が矛盾し、ただ莫大なる力が発生しました。それが、あれです』
ああ、哀れな存在よ。
憐憫の情をもって、フリードリヒは森を見る。
『“忌まれし森”は封印され、教会開祖はその責を問われ旧王国に処刑されました。
しかし我々の不手際で封印は解除され、イツテラコリウキの魔女は“忌まれし森”を殺そうと、アルヴァの王をたきつけました。
それも失敗し、腕を奪われ今に至ります』
北方の魔女は、なんと業が深いのだろう。
フリードリヒは、生まれて初めて、心から他人を憎く思った。
「リウォイン王家は、なぜ教会ではなく、森を屠ろうとするのですか?」
『我らがそうするように、森を死にやることは、魔女や教会にとっても重要なことです。
表向きはともかく、実際は教会は魔女と敵対など全くしていませんよ』
フリードリヒは迷った。
“忌まれし森”はただの結果で、あるいは死した魔女の魂の叫びだ。
教会が最初から、もっときちんと森や魔女を管理していればよかったのだ。というに、今日まで教会はフリードリヒに対して預言しか要求してこない、なんとも欲の深い連中だ。
フリードリヒは涙声で、森を指して言った。
「あれは僕と同じです! なぜ産んだと、父母を恨み、世界を諦めた僕と同じです」
飛び立とうとする翡翠を捕らえ、本音と主張をぶちまける。
「神憑きだからと、何も与えられず、父を呪い殺されて。陛下の愛は望みなく、お客様は預言にしか興味がない!
それでも幸せと思い込んできたけれど、果ては、あの哀れな存在を殺せとおっしゃいますか?
残酷なる神よ!」
こんなに沢山喋ったのは初めてだ。
フリードリヒは息を切らせ、翡翠を解放した。
その場に座り込み、いじけるフリードリヒに、ケツァルコアトルはごく冷静に諭した。
会談を切り上げたヘルガは、客室の椅子に座り、いらいらと愚痴を重ねていた。
気まぐれに殺されはしないかと、侍従らは青ざめた顔で、かいがいしく女王を世話する。
「まさか黒獅子王が、あんなに王妃に入れ込んでいるなんて……面倒だな」
葡萄酒を煽り、ヘルガは傍らの鷺に話す。
もちろん、鷺は侍従らには見えない。しかし魔女という、人知を超えた存在に、疑問を挟む者はいない。
鷺は慰めもせず、当然のことを語る。
イツテラコリウキは、石のように頑なな性質だ。
『風との盟約で、かの契約者とは接触できなし。ざんねんむねん』
「せめてお前が、“忌まれし森”の定式を持っていれば、解析してくれたものを……。なぜケツァルコアトルから奪わない?」
『たとえ保有していても、風の使命はじゃまできない。森を殺しもできない。星の恋しいひとよ』
現世が体だとすれば、神域は魂だ。
体に個性があるように、魂にもまた個性がある。
定式とは魂を構成する霊質の、いわば設計図で、全ての生物に例外なくこれは存在する。
その設計図をもがれたが故に、歴代の王は腕の無い状態で、生まれる。
ただの力の塊にすぎない“忌まれし森”は、他者から奪った単純な式をつぎはぎし、存在している。
ケツァルコアトルはこれを解析し、森を探索したり、攻撃をしているのだ。
一方、イツテラコリウキは“忌まれし森”に関する使命を持っていないため、ヘルガの我が儘で、仕方なく森を捜し当てていただけだ。
これは規定違反であり、ケツァルコアトルに攻撃をされても、しようのない事だった。
「いいのよ別に、殺せなくとも。召喚した森が、黒獅子王の妃を殺してくれさえすれば」
『さすがきたない。わざわいだわざわいだ。恋しいひとよ』
ヘルガは“忌まれし森”に接触する度に、さる銀髪のみすぼらしい青年が、肺をくれてやるそうだぞと、吹き込んでいたのだ。
神域での損害は、現世に影響する。
肺を片方無くせば、生きてはいれない。ヘルガはフリードリヒに協力するつもりなど、毛頭なかった。
しかし黒獅子王は、妃を犠牲にする案を断った。
このまま呪いが解除され、めでたしなぞ、あまりにつまらない。
別の嫌がらせはないかと、考えていたヘルガに、思わぬ報が届いた。
『わたしに対する怒りは、いずれ解消されるでしょう。
それよりも、わたしの愛しい子。あなたはいつまで、自分を不幸だと嘆くのですか』
思いがけない言葉に、フリードリヒは驚く。
幸せの価値がわからずにいた昔とは違うのだ。本当の意味での生きるという実感を知ったからこそ、今までが不幸だと言える。
「ではケツァルコアトル様は、隔離されて、何も与えられなかった僕を、幸せ者とおっしゃいますか?」
『いいえ。ですがあなたは視野が狭い。
何も与えられないとは言いますが、あなたは父から夫から、その周囲から、どれほど与えられたかわかりますか?』
厳しさの混じる声音に、フリードリヒは怯み、何も言い返すことができない。
ケツァルコアトルは、続けてこう言った。
『考えたことはないのですか。何故あなたの父が、あなたを遠く離れた国にやったのか。
何故あなたの夫が、預言を強要せず、しかし見捨てもしないのか』
「そ、れは……ロメンラルは、困窮していたからで。陛下は、恐らく、僕が身篭っているからかと……」
その推測は正しいと思っていた。
しかし翡翠は、そうではないと言う。
『女王の手から逃がすためであったと、考えはしなかったのですか?』
「……それは、真実なの?」
そのような考えを持つに至ることはなかった。
フランツは言葉足らずに、息子に対し、強国アルヴァへ行けと命じただけだった。
その命令の裏側にあるものが、息子を思う不器用な愛だとすれば、あまりに悲しい。
“生きる"ことを知ったフリードリヒに再会できぬまま、父は死んでしまったのだ。
「どうしてそれを、早く教えてくれなかったのですか!」
『自分で気づかねば、意味がありません』
厳しい一言と真実に、今度こそフリードリヒは打ちのめされた。
「あんまりです、ケツァルコアトル様」
酷い勘違いを起こしていた。
いわば、フリードリヒは不幸に酔っていたのだ。
“忌まれし森”と同じだなどと、とんでもない。
様々な人から与えられ生きてきたフリードリヒと、奪うことしか知らぬ森では、何もかもが違った。
フランツもエンディミオもケツァルコアトルも、フリードリヒに与え続けていた。ただ、言葉が足りなかっただけで。
「父様……父様ぁ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
気づくのが遅かった。
父は死に、王の愛には気づかず拒否してしまった。
フリードリヒはさめざめと泣き出す。
自分はなんと傲慢なのか。呪いを解くなど、森を滅ぼすなど、おこがましい。
解放された翡翠は元の姿を顕現し、フリードリヒの涙を拭うてやった。
『諦めないでください。まだ間に合います』
「……ぇぐっ、な、にが」
『少なくとも、あなたの王にはまだ愛を告げる機会はいくらでもあります』
フランツは間に合わなかった。もう何も知らぬままに、失うわけにはいかない。
『大丈夫。あなたは一人ではありません』
フリードリヒを孤独にし、不幸にしていたのは、何よりも自身だった。
ロメンラルの侍女らと関係を築けなかったのも、フリードリヒが勝手に嫌がられている、と思い込んでいたからだ。
本当に嫌悪していたら、近づきもしないだろうに。
『生きている限り、機会はいくらでも得られます。
わたしの愛しい子、どうか世界を諦めないで』
エンディミオは読み終えた書状を握り潰し、その拳を机に打ち据えた。
その剣幕に、衛兵は身動きが取れず、官僚らは冷や汗を垂らす。
こういう時、唯一声をかけることができるのは宰相ダイケンのみ。
「陛下、何事ですか」
「金大猪王が、会談を望むそうだ」
結婚式以来会っていない、サイーラの王。バスティアンの申し出。
さしもの宰相も、口ごもる。意図がわからない。
ヘルガがアルヴァに滞在を始め、四日が過ぎた。強国の女王が去るまでは、諸国は会談の申し込みは遠慮すべきである。
「私か魔女の近くに、あの豚の間者がいる」
エンディミオが断言するには、理由がある。
書状には、長い挨拶文の後にこう書かれていた。
『――ところで小耳に挟んだのですが、お二方は呪いを解く方法を話し合っているようで。
微力ながら、我が国もお力になりたい。
二つの大国が教会に下るそれを防ぎたいと思うのは、諸国としては当然のこと――』
今回の会談は、あまりに内密だった。詳しい会話は、公式記録にすらしていない。
一応、表向きには和平交渉の一種ということになっている。
どころか会談内容まで筒抜けだった。これは国の情報網および防備の問題だ。すぐに当たれば、間者はそれほど時間もかけずに見つかるだろう。
ヘルガの方に伝達を寄越し、エンディミオは舌打ちした。書状を投げ捨てる。
つと、黒獅子王の脳裏をよぎったのは、妃の存在だった。
周囲から、王妃の預言の精度の高さは聞いている。
一月先の天候から、辺境の情勢。果ては大臣の妻の出産日時から、何故か夕餉の献立まで。
世界の全てを把握しているのではないか、とまで言われていた。
確かに王妃に聞けば、事の次第は判明するだろう。
忌ま忌ましい魔女や猪の奸計も、看破すに違いない。
しかしエンディミオの脚は、妻の寝室に向くことはなかった。
「……王妃の部屋の防備を強化しろ。それから、エリンを呼び出せ」
「仰せのままに」
命令を受けた近衛兵が、伝令に耳打ちした。
エンディミオは預言に頼ろうとは思わなかった。
一方、白鷺王のいる客間では、優雅に凄惨な時間が過ぎていた。
「嫌いなのよねえ、真珠」
大粒の白真珠が嵌めこまれた、百合を模造した金の髪留め。
貴族でさえ滅多に手に入らないそれを、ヘルガは放り捨てた。
髪留めは石床に落ちて跳ね返り、血まみれで伏している男の近くで止まる。
男の歯は殆ど抜かれ、口から血と唾液、嗚咽を漏らしていた。
全裸のうえ、両腕は後ろで拘束され、女王の近衛兵により、腹ばいに抑えつけられている。
ヘルガの元にも、バスティアンの書状が届いていた。
内容が内容だけに、ヘルガは間者がいると見抜き、すぐさま拘束、拷問にかけた。
兵の一人が、間者の足の爪を剣の柄で潰す度、情けない悲鳴が上がる。失禁したものか、すえた臭いがあがる。
「うるさいわぁ」
間者を捕らえた魔女の力は、確かに恐ろしい。
しかしそれ以上に、拷問の様子を、甘い菓子を口にしながら眺めるその姿こそ、恐るべきものだった。
ヘルガは書状を見直し、喉の奥で笑った。滞った嫌がらせの計画を、再び構築させる。
「面白い。うくく、大豚め、それならお望み通り、贄にしてやる」
泣きつかれたフリードリヒは、目元が腫れることも気にせず、乱暴に涙を拭うた。
そして、月光りに照らされる“忌まれし森"を見る。
「鼻_な水:出てぃ>る」
「ふぇあ……。んと、今まで、あなたを勘違いしてました。ごめんなさい」
「――<同?情/.」
フリードリヒは首を横に振りかけたが、思い直して頷いた。
勝手に自己を投影し、自分の思い違いが解決すれば、与えようとする。これを同情と呼ばずなんとするか。
「だ.だだっ=たら_肺を<をちょう+だい.」
「だめです。いくら繋ぎ合わせても、人にはなれません。ケツァルコアトル様も言っています」
「もうう→押し〉し〉問ん/答には飽きひた/_」
フリードリヒはひとつ、気づいたことがあった。
ケツァルコアトルは『殺せ』ではなく『死を与えよ』と繰り返していた。
確かに言葉のままに取れば、それは『殺せ』と同義である。
しかし神はこうも言った。『生まれてもいないから、死ぬことができない』と。
すなわち“忌まれし森"を生物としてこの世に生み出せばいい。
そしてこれは運命か。フリードリヒはその方法を、ひとつだけ持っていた。
「……けど、やっぱり少し怖い」
全てが上手くいく、という保証はないのだ。
フリードリヒは自分の思いついてしまった残酷な提案を、ケツァルコアトルに言った。
『それは……成る程。その発想は、全くありませんでした』
ケツァルコアトルは同意した。
だが、フリードリヒはいまだ不安だった。故に、神に願い上げた。
「んと、駄目だったら、殺してください。僕ごと」
その言葉に、ケツァルコアトルは痛ましい表情を見せた。何も、自身が死ぬ必要はないと諭す。
「でも、失敗したら、今度こそ陛下に合わせる顔がないです」
『あなたの伴侶は、悲しみますよ』
「大丈夫です。陛下は」
譲らないフリードリヒに、ケツァルコアトルは頷いた。彼の覚悟を汲み取り、約束をした。
フリードリヒをこの手で殺せば、ケツァルコアトルも大いなる定めにより、消滅する。だが道連れにされるのも、悪くはない。
ケツァルコアトルが手をかざし“忌まれし森"を拘束する、黒耀石の刃を消した。
蔦と肉が地面にどたりと落ちる。わけがわからない、という風に、森が仮面の顔を傾げた。
「死を→死―は怖く.くないいいい_の:か」
死に怯える生物から、肉体を奪ってきた“忌まれし森"にとって、死はどこか身近であった。
あんなに怯えてばかりいた青年が、今は立ち向かおうという意思を見せている。彼を動かすものを、森は知りたかった。
フリードリヒはしばし沈黙した後、立ち上がりて“忌まれし森"に近づく。
森に攻撃の意思は見られなかった。
「『死の何が恐ろしいのか。我らは血肉にまみれて生まれるというのに』……父様が唯一、教えてくれた言葉です」
「……よ/くくわ/から_/ななあ/い」
「僕もまだ、理解できていません。けれども、僕はあなたにひとつだけ、与えられるものがあります」
「_はは肺/で/は/なくて―て?」
「そう。僕の――」
フリードリヒが話す最中、ひどい揺れがあたりを襲った。
よろめくフリードリヒを、ケツァルコアトルが受け止める。
「な、な、なに?」
『イツテラコリウキ! 三度の干渉、たとえ魔女の意思といえど、許しませんよ』
上空より、薄汚れた鷺が舞い降りる。
鷺は“忌まれし森”の蔦の上に立ち、言い放った。
「大いなる力よ、我が子が呼んでいる。急く我が下へ召喚されたし」
「ワ→タ←シ/はこののひと/とお/はなな/しし/てい/るの_」
“忌まれし森"は拒否したが、次の言葉に歓喜した。してしまった。
『お前の望む肉をひとつ、与えてやろう。それを条件に、こちらにこい』
それを聞いた“忌まれし森"は、喜んでと言い残し、フリードリヒの領域から消え去った。