4

 意識が霞んだまま、フリードリヒは目覚めた。
 大欠伸をかまし、寝返りをうとうとするが、点滴に気づく。
 なんとか起き上がり、目を擦りながら、のろのろと天蓋布を開いた。

「まあ、おはようございます、フリードリヒ様」

「おふぁああ……よう」

「医師をお呼びしますね」

 こくりと頷くと、侍女は一礼して去った。
 待つ間に、喉を潤そうと、寝台の近くに置いてある杯に手を伸ばす。
 が、うまく力が入らず、杯を落としてしまう。

「あらあら、大丈夫ですか?」

 入れ替わるように、エリッサが現れ、杯を片付けた。

「うー……ごめ、なさ」

「フリードリヒ様、どこか具合でも悪いのですか?」

 王妃はゆるゆると首を横に振るが、エリッサは安心しない。
 何せ、フリードリヒは二日も眠り続けて起きなかったのだ。
 それを伝えると、やけに薄い反応が返ってきた。

「……へぇ」

「やはり、本当にどこか悪いのでありませんの?痛い所は?」

「ん、とぉ……ねむ、い」

 埒が明かない。エリッサは、フリードリヒが眠らないよう、医師が来るまで話し相手になることにした。
  
 医師はいつものように微笑んではいたが、とてつもなく怒っているのがフリードリヒには解った。
 それも、自らの無力さに怒りを感じているのではなく、自分の思い通りにならない王妃に憤怒している。
 医師は微塵もそんなそぶりを見せないが、フリードリヒは自然と解ってしまった。

「……ごめ、んなさ……ふああ」

「何を謝るのです?貴方が選んだ事でしょう」

「だって……怒っててぇ」

「怒っている? 私が?」

「……わか、るんです……入って、くる……ふああぁ」

 人々の考えている事や感情、風の流れ、果ては建物がどのような均衡を保って建っているのかまで、フリードリヒには解ってしまった。

 望む望まないに関わらず、あらゆる情報がフリードリヒになだれ込む。
 医師にわかってもらえるよう、周りの侍女が何を考えているかを二つ、三つ言い当てた。

「成る程、わかりました」

「……よか、たあ」

「全情報の取得が行われています。普通なら、溢れる情報に混乱しますが、王妃様はその殆どを見過ごしておられる」

 力の扱いを、自然と心得ているのだろうと言われ、フリードリヒは少し照れた。
 同時に、医師の博識ぶりに、いたく感心した。
  
 契約して以来、フリードリヒの眠気は、想像を絶するものとなっていた。
 今までは、頑張れば堪えうるものだった。
 だが、もはや歩くことすらままならない。
 せっかく体力もついて、たくさん外に出ることができるようになったというに。これでは意味が無い。
 寝台から食卓につくまでも、だらだらと時間がかかる。
 とはいえ、無理にでも栄養はつけなければならない。フリードリヒは懸命に食事を摂る。
 ロメンラルにいた頃のように、寝台で寝転び、夢現をさ迷うていた。
 フリードリヒはただ、先日送った手紙は、無事に目的の人物に辿り着けたかと心配していた。
 アレックスを信じるより他にない。普通に手紙を出せば、エリッサに咎められるに違いあるまいし、下手をすれば反逆者の疑惑を持たれるだろう。

 そういえば、とんとケツァルコアトルを見ない。
 用が無くとも、姿だけを見せることはあったのだ。
 フリードリヒは無駄と思いつ、呼びかける。

「……ケツァル、コアトルさまぁ」

『はい、なんでしょう』

 意外にも即答。しかも、本来の姿でフリードリヒの傍らに顕現した。

「な、なん……」

 いつもは、ケツァルコアトルの都合で顕れたではないか。
 フリードリヒの意を汲み取った神は、ゆっくりと説明する。

  
『契約をしたからには、あなたの呼びかけにいつでも参じましょう。それで、なにか?』

「……ねむ、い」

 ぞんざいな一言にも、神は機嫌を損ねず答える。

『すみません。あなたにはあまり負担をかけたくはないのですが、それが限界なのです』

「げ……んか?」

『これ以上の力を与えれば、眠気以上の障害が表れます。どうか我慢してください』

 よく理解できないが、考えることもままならず、頷いておいた。いずれわかるだろう。

「こ、なで……呪、い……なんか」

 回らない舌で必死に喋るフリードリヒに、口を閉ざすよう神は言う。

『無理に喋らずとも、表層意識を汲み取ります。まずはこの状況に慣れるべきです』

「む……」

 無理だ、と言いかけた王妃の意識は、眠りに堕ちた。




 耳元でばちん、と音がした時、フリードリヒは境界に立っていた。

 ケツァルコアトルが呼んだのだろうか。さっきまで会話したばかりではないか。
 蛇を纏う神の姿を探すが、一向に見当たらない。
 もし境界でも、眠気や疲労があれば、フリードリヒはすぐさま諦めていただろう。

 ふらふらと、変わらぬ風景を歩いていると前触れもなく、何かとぶつかった。
 一瞬、触れてはいけないと注意された、虹色の壁ではないかとぞっとした。

 慌てて顔を上に向ければ、異形がいた。
 それは、何かの石像にも見える。
 直立したまま動かず、口を大きく開けて虚空を見据える。

 姿は痩衰えた初老の男性。石と黒耀石を散りばめた布を服としている。
 額から後頭部にかけて、矢が貫いていた。恐らく、これは作り物なのだろう。
 そう思い、怖々と離れるフリードリヒを、石像の深紅の眼が追う。

「ひぁっ」

 生きている。驚愕のあまり、腰が抜けたフリードリヒは、その場に尻餅をついてしまう。

『しんぞうのないめが腐っている』

「しゃべった!」

 よく耳をそばだてねば、聞き逃してしまうだろう。小さく低い声で、それは意味不明な言葉を紡ぐ。

『しんぞうのないめが腐っている。盲目を司る者だからわかる。だがこのこは、盲目の名をもたない』

 ようく見れば、異形の頭からは、二対四本の角が生えている。だが、うち二本は無残にも根本から折られていた。

 角を見たフリードリヒは、確信し、座り込んだまま尋ねた。

「あ、の……神様なのですか?」


『冷え切る星。かがやきを失った星。さいかのぞむ、お星さま』

「ケツァルコアトルさまー、助けてー」

 困り果て、いまだ姿を見せぬケツァルコアトルに呼びかける。
 しかしフリードリヒに返答したのは、神ではなかった。

 つと、背筋に冷たいものが奔る。
 かつかつと、靴の踵を踏み鳴らす音が響く。
 白く艶めかしい脚が、フリードリヒの視界に入る。

「喧しい人。上品さのかけらもない」

「……っ!」

 あまりに意外すぎる人の登場に、フリードリヒはしばし言葉を忘れた。
 白銀の髪、汚れなき白い肌。纏う風格もドレスも、全てが豪奢。

「ヘ、ルガ様……」

「お久しぶり、アルヴァの王妃」

 北方を統べる隻腕の女王が、そこにいた。
 かの美しい貌(かんばせ)を、忘れることができようか。

フリードリヒは慌てて立ち上がり、深く頭を下げる。

「あ……お久しぶりでございます。あの、んと、な、何故こちらに?」

「うくく、境界だと、しかとした受け答えね。
――何故かと。貴方が呼んだのよ……こんな文を寄越されてはね」

 ヘルガは、簡素な文章の書かれた紙をフリードリヒに見せた。

 実はフリードリヒは、兄への手紙に、ヘルガ宛てのものを忍ばせていた。
 次兄ローレンツはリウォインの軍部に所属している。自身の地位も利用し、兄を介して、白鷺王に文書を送ったのだ。

 確実に、そして周囲に知られないようにするには、これしかなかった。

「んはは、しかし汚い字だこと。誤字も酷くてよ」

「申し訳ございません。……でなくてあの、どうしてここに」
  
「うふふ、王妃様、なぜリウォインが神憑きを排除する文化か、知っていて?」

「え、あ……存じません」

 ヘルガは左手を伸ばし、不動の石像に触れた。
 石像が女王を見る。

「私もまた、神をこの身に宿すからに他ならない。長きに渡る魔女の権力を脅かす神憑きは、絶対に排除したいのよぉ」

「え」

 しかし、それならば説明がつく。

 教会を嫌うのは、魔女が神の力を存分に振るうためだ。
 もしそこに、同等の力を持つ者がいれば、魔女の支配は終わる。

「では、その方が……」

「そう。代々のリウォイン王が継ぐ神。名をイツテラコリウキ」

 名を呼ばれた石像は、変わらず動かない。
 神は神聖故に、ケツァルコアトルのように美しいものばかりかと思ったが、それは間違いのようだ。

「おほほ、では本題に入りましょう。この文によれば、貴方は“忌まれし森”の呪いを解けるのね」

「は、はい。それでその……どうすれば良いかを、ヘルガ様に伺いたく……」

「成る程、考えは悪くなくてよ。魔女はそういったことの専門家ですもの」

 それを聞いたフリードリヒが安堵した矢先、ヘルガはイツテラコリウキの体を叩いた。

「けれど間違いでもある。イツテラコリウキは、森の情報を一切私に与えないし、何より森は、被害者に興味がない」

「興味が、ない?」
  
「腕を奪ったから、もうこれ以上は取るものもない、という所かしら。全く忌ま忌ましい……何度呼びかけても、さっぱり応えようとしないもの」

「呼びかけって……ヘルガ様は、森と対話できるのでございますか!?」

「森の意識を見つけるのは、そう難しくはないわ。ただし、森は奪った者に興味がない。けれど普通の人間に、森との対話なんて不可能……確かに、貴方が適任なのでしょうね」

 それを聞いて、フリードリヒの決心は固まった。
 早速、対話の方法を教えてもらおうとする。

 しかし、ヘルガはすっぱり否定した。

「私が貴方に託す理由がないわ。アルヴァが滅ぶのは、むしろ喜ばしいことだものぉ」

「っ、何故ですか?呪いが解けば、ヘルガ様の御子も――」

「くかか、貴方に頼まずとも、どうとでもなるわ」

 フリードリヒは口をつぐむ。ヘルガの発言に、迷いは無い。

「何十年もの間、何十人もの神憑きが失敗し続けたの。私が殺した数を除いても、精神崩壊、自害は多い」

 その中でも、契約に至り、森自体に近づけたものはフリードリヒだけだと言う。ヘルガはその点だけは褒めた。

「しかし神憑きに不確定要素が多すぎるわ。そんなものに頼る必要など無いのよ、ごめんなさいね」

 嘲るヘルガに対し、フリードリヒは怒ることもなく、ただ考えていた。
 この悪辣極まる女王に、正攻法など無意味なのだ。

 フリードリヒは仕方なく、脅しとも取れる発言をした。

「……陛下から、お聞きしました。わたくしの父、フランツを殺めたのはヘルガ様と」

「証拠はどこに? 憶測で無礼な事を言うものではないわ」

 当然だ。憶測が通るならば、この世に法は無い。
 しかしフリードリヒは、ひるむことなく。

「そして、先のアルヴァ王妃を追い込まれた。きっかけは陛下ですが、自害するまでに至ったのは、貴女の嘘の予言です」

 婚約儀式の際に賜った予言に、フリードリヒは疑問を持っていた。
 予言は全く外れていた。しかし、婚約してしばらくは、フリードリヒの不安を煽っていた。
 ケツァルコアトルと契約し、あらゆる情報を取得できる身となった今ならば理解できる。
 ヘルガは否定的な言葉で、王妃の情緒を不安定にし、破滅に追いやる。
 前王妃だけではないだろう。一体幾人が、女王の言葉に操られただろうか。

 真に恐ろしいのは、魔女の呪いではない。
 わずかな言葉で人心を巧みに操作する、優れた頭脳と、妖しい魅力だ。

「――それが、どうしたというのかしら?」

 ヘルガは動じることなく、フリードリヒに近づく。
 そして左手で、王妃の首を優しく撫でた。

「それをここで言ってどうするというの?私は貴方を殺すこともできるというのに」
  
 女王の怒りに負けじと、フリードリヒは奮える足を叱咤し、必死に言い返す。

「へ、ヘルガ様こそ、わたくしの地位と、神憑き故の、教会の後ろ盾を……あ、侮らないでくださいっ」

 吃る声を嘲り、さてこの王妃をくびり殺してやろうか、とした時。
 今まで不動を貫いていた石像が、ヘルガの手を掴んだ。

「何だ?」

 零度の視線も、ものともせず、イツテラコリウキは呟いた。

『冷えた星では、風に敵わぬ。それに、もうきた』

 イツテラコリウキが言い終えないうちに、境界を凄まじい揺れが襲った。
 同時に、虹色の障壁を破って、何かが侵入する。

 かち、かち、と喧しく鳴き声を上げる、かささぎであった。

 カササギはイツテラコリウキの周囲を旋回し、ふいに布に散りばめられた黒耀石を啄む。


「わ、わ」

 フリードリヒがよろめくと、彼を背後から支える者が現れた。

『お待たせしました。大事ありませんか?』

「ケツァルコアトル様っ」

 フリードリヒの無事を確認したケツァルコアトルは、この揺れの中でも悠然と立つ魔女たちに呼びかけた。

『“折れた灰刃”よ、規定に背くことなきよう。これ以上は裁定者の介入も有り得ます』

『風よ、魔女のやることにどうか赦しを。……かの鏡に喰われる前に、たいさん』

 鵲が五つ目の黒耀石を啄む前に、ヘルガとイツテラコリウキは消えてしまった。
  



 またも王妃が、原因不明の長い眠りについたと、王宮は騒然としていた。
 神憑きは儚いもの。子を産まぬまま、命尽きてもおかしくはない。

 しかし、医師の恐ろしく冷静な判断により、点滴をしたまま安静にされていた。

 三日目の昼、侍女がせめてもと、王妃の身体を拭いてやっていると、なんと国王が顔を見せたではないか。
 暴虐なる王にも、一応は人の心があったのだろうか。そう思いつ、侍女たちは慌てて退がる。

 エンディミオは寝台の近くに座り、眠り続ける妻を見る。

 点滴を打ち続ける腕は、とうにぼろぼろだ。細く、生気のない白さも相まって、実にみすぼらしい。
 何事もないように眠る妃の頭に、エンディミオが手を伸ばす。

「夢を見るのはやめよと、言っても聞かぬ性分か……」

 頬を少しつねってみるが、何も変化はない。

 エンディミオは嘆息した。
 確かに呪いを解けるならば、そうするべきだ。

 だが曖昧な事柄に、王妃がそこまで苦心する必要は無い。
 産まれた時から隻腕の身であるから、不自由と思った事は一度もなかった。

 どころか、権力も頭脳も武力も、そこいらの人間を凌駕する。
 エンディミオにとって、国の存続と繁栄以外に、望むものはない。というに――

「……私は、そなたにどう報いれば良いのだろうか」

 王は、眠る妃の目が開くことを望んでいた。
 この王妃は、つくづく憐れな者だ。

 いずれは教会や、それに準ずる権力に喰われるだろう。
 宰相らが言わずとも、エンディミオは唯一の保護者として、伴侶の地位は全うするつもりだった。


 はてさて、このまま目覚めないのではないかという、王妃の銀髪を撫ぜていると、わずかに動きがあった。

「……へ、いか?」

 これは夢か現か、しばらく逡巡していたフリードリヒだが、点滴の針の痛みが、答えを打ち出す。

 慌てた妃は、いつになく素早い動作で起き上がる。
 だが、突然の動きに驚いたエンディミオが、反射的に王妃の頭をひっぱたく。

「あいたっ」

 額を摩り、恐る恐るエンディミオを見る。

 心底呆れたような王の表情に、フリードリヒはひどく安堵した。
 堪えていた恐怖がどっと溢れ出し、それは涙となって零れた。

「あ……も、申し訳、ございません……」

「みっともない。さっさと拭え」

 エンディミオは敷布をフリードリヒの顔に当て、やや乱暴に拭き取る。

「あ、の……も、大丈夫です」

 王の手を取り、洟を啜りつ礼を言う。
 エンディミオは興味をなくしたように、その場から去った。

 入れ代わりように、侍女や医師が戻ってくる。

 ぐずぐずと洟を鳴らすフリードリヒに、まさか王が泣かせたのではと悶着があったのは、言うまでもなく。
  
 夕食を済ませ、尚こんこんと眠りつづけるフリードリヒ。
 熟睡しているというに、つと、額に冷たい感触があった。

「……ん、ケツァル、コア、ふあああぁ」

『すみません。ですが起きてください』

 蛇がしぺろと舌を出し、フリードリヒを舐める。

 ケツァルコアトルがフリードリヒを起こすことは初めてで、何事かと起き上がる。

「この、蛇は……」

『これはわたしの身体の一部ですよ。あなたが怖がるかと思いまして、花に擬態させていましたが、杞憂でしたね』

 ケツァルコアトルが手を翻すと、枕元にある灯火が点火した。

『来ましたか』

 虚空から、灰に薄汚れた白鷺が現れた。

『それ以上近づかぬよう、夜の風がお前を裂きます。イツテラコリウキ』

 あのみすぼらしい鷺が、夢に見た石像の化身らしい。
 またもヘルガが何かを仕掛けるのかと、警戒するフリードリヒだが、イツテラコリウキは普通に話しかけてきた。

『我が魔女はああ言うが、やはり呪いを解くには貴様らの力が必要だ。我々は協力を惜しまない』

「……ちゃんと、お話、できるんで、すね」

『わたしが翻訳しています。ではイツテラコリウキ、わたしたちと盟約を交わしなさい』

 どこまでも能天気なフリードリヒはさておき、ケツァルコアトルが話を進める。
  
『了承した。ケツァルコアトルの在る限りは、我々は契約者に危害を加えず、また神域に手を出さぬ』

「しん、いき?」

『わたしたちの存在する領域です』

 神々のおわす領域。人々が憧れ、夢想する地。

『そして全ての意思の在る所。“忌まれし森"と危険を避けて接触するならば、神域での接続を推奨する』

『要は、わたしはあなたを神域に送ります。あなたは神域で、森と対話をすることができます』

 イツテラコリウキの難しい言葉を、ケツァルコアトルは噛み砕いて伝えた。

 夢で見た、あの仮面。問答無用で腕を奪う化け物に、対話など可能なのか。

 消極的な考えに、フリードリヒは頭を振った。
 流されるままでは、何も成せない。
 ケツァルコアトルを見る。共存する神は、フリードリヒの心中を察して微笑む。

「神域て、どんなとこ、なんですかー?」

『現世の裏側、とでもいいましょうか。言葉では表しがたいですね……行けばわかりますよ』

 フリードリヒは素直に頷くが、ひとつ気掛かりなことがあった。
 神域にはやはり意識だけが行くのだろう。フリードリヒは一体、何日間眠るのか。

「あの……また長く、眠るのは……」

 侍女や医師に負担をかけたくはないし、またエンディミオを怒らせてしまうだろう。
 なんとかならないだろうかと問うフリードリヒに、ケツァルコアトルは少し迷った後、提案した。

『代役を立てましょう』

「だい、やく……?」

『あなたが眠る間、諸々の生活や公務を、わたしが用意する者にさせます』

 所謂、影武者というものだろうか。
 不安は残るが、ケツァルコアトルを信じることにした。

 フリードリヒの決心を確認したイツテラコリウキは、不穏な一言を残し、虚空に消えた。

『ケツァルコアトルは慈悲深いが、全き善良ではない。お前の眼は手遅れだ』







『全ての夢は繋がっています。世界の夢も、あなたの夢も』

 そこはただ暗闇の空間。天地も左右もなく、頼りになるのは神の声と自身の手足の感覚のみ。フリードリヒの周りを翡翠が飛び、語る。

『自らの夢に、呑まれぬよう気をつけなさい。戻れなくなってしまいますからね』

「う……頑張ります」

 しかし、この殺風景な景色はいつまで続くのか。手足の感覚を無くさぬよう、ただひたすら歩く。
 時折、鳥が飛んでは消えていくのが見えた。

「神様は、寂しいところに住んでいるのですね」

『寂しい、ですか……』

 道中、妙に人懐こい鴨や夜鷹に擦り寄られた。
 それでも風景は変わらず、いつになったら“忌まれし森"に接触できるのか。

「ケツァルコアトル様、まだですか?」

『もう少し歩いてください。森は神域内を移動しています』

 体力と根性が欠けているフリードリヒは音を上げはじめた。
 仕方なしに、足を引きずるように歩く。
  
『見かねたぞ、“翡翠の雪ぎ”』

 フリードリヒの前に、ペリカンが舞い降りた。
 厳格な男声とは食い違う、滑稽な姿に、フリードリヒは遠慮のない感想を口にした。

「か、かわいいかも」

 その言葉はペリカンの逆鱗に触れたらしく、巨大なくちばしでフリードリヒの腕を覆うようにくわえ込んだ。

「あわわわ、すみませんごめんなさいーっ」

『やめなさい』

 ケツァルコアトルがペリカンを突き、フリードリヒは解放された。
 ペリカンは何事もなかったかのように、話を再開した。

『“忌まれし森”も学習している。二十秒毎に座標変更し、常に移動し続けている。“翡翠の雪ぎ”の情報収集能力では無差別にすぎる』

『やはり……。イツテラコリウキはどうやって接触しているのですか』

『“折れた灰刃”の検索選別能力はお前より高い。あとは奴の魔女の高い感性で、見事に捜し当ておる』

『わかりました。では、あなたは何の用件で?』

『お前は手際が悪い』

 鋭い指摘に、しかしケツァルコアトルは反論しない。

『幾多の契約を結び、その全てにいいように扱われ、失敗してきた』

『ええ、そうですね』

『甘やかすと優しくするのは、違うぞ』

『……わたしと争いたいのですか?』

 剣呑な雰囲気に、ぼけっとしていたフリードリヒも行動した。
 宙の翡翠を捕らえ、仲裁のため鵜に訴える。
  
「け、喧嘩はやめてください。それに、ケツァルコアトル様は優しいです! 父より兄より、わたくしを慮ってくださいますっ」

 翡翠が苦しげに鳴いたため、フリードリヒは手を離す。
 ケツァルコアトルはフリードリヒの肩に止まり、得意げに鳴いた。

『ありがとうございます。わたしの愛しい子。あなたの人生を蔑ろにしたのはわたしなのに』

「でも、神憑きでなければ、陛下に会えませんでした」

 全てを受け入れようとする、迷いのない言葉。
 実のところ、人に興味がない鵜であったが、軟弱フリードリヒの妙な強さには、ほんの少し興味が沸いていた。

「ですからあの、ケツァルコアトル様を責めないでください」

『責めるつもりはない。いずれ罰が与えられる身だ』

『ではわたしたちは行きます。あと三時間で裁定者が目覚めるでしょうから』

 フリードリヒが促されるまま歩もうとすると、ペリカンが大きく鳴いて呼び止めた。

(や、やっぱりかわいいっ)

 笑わないように我慢をしているフリードリヒを尻目に、鵜は協力を申し出た。

『待て。我輩が裁定者の夢に接続し、“忌まれし森”の接続先を辿ってやろう。というかそのつもりで来たのだ』

『そういうことはっ、最初に言いなさいよこの、滑稽鳥!』

 鵜は金の眼を閉じ、ぺたぺたと水掻きのついた足で歩き始めた。
 その姿に、フリードリヒは口を塞ぎ顔を背け、腹に力を込めることで、なんとか笑いを抑える。だが肩が震える。
 いくらなんでも、見た目と性質に隔たりがありすぎた。
 知ってか知らずか、ペリカンはあくまで真面目に教えてくれる。

『年々、処理能力が上がっているな……。待て、近づいている。その人間に反応しているのか。“翡翠の雪ぎ”、切断しろ!』
『今すぐですか――っ』

 ケツァルコアトルの声が途切れた。

「え――」

 虚空から伸びた蔦が、翡翠の小さな体を貫いていた。

『回線切断を確認。契約者よ、我輩に捕まれ!』

 言われるがまま、鵜に手を伸ばすが、フリードリヒの身体は全く動かない。
 気配も感触もなかった。いつの間にか蔦はフリードリヒの体に絡み付いている。

「――ひっ、いや」

 鵜の本来の姿だろうか。三重の白い光輪を戴く、鋼鉄鎧の騎士が、フリードリヒを掴もうと手を伸ばした。







 今日は調子が良い、と言うと、途端に客人の相手をさせられた。
 その殆どが高位司祭で、王妃の預言を拝聴しようと、何週間も前から謁見の予約をしていたらしい。

 心底面倒だが、後々がさらに面倒なため、仕方なく会話をする。

「んとぉ……今月、末に、出せば、いいと、思います」

「おお。では、そのように致します。感謝致します、フリードリヒ様」
  
 眼前の初老の司祭は、教会宗主から依頼された、鉱物輸出の船出のために、天候の具合を尋ねた。なんでも、近頃は嵐が多く、海賊まで出るらしい。

「船出の、無事をー……お祈り、しますー」

「それはそれは、誠に恐縮です」

 深々と頭を下げる司祭。
 だがフリードリヒは、この司祭が本当は鉱物の一部を横流ししている事を看破していた。

「……子供、きっと、女の、子だと思い、ますー」

「……私の娘に子ができたとを教えては……。これが神の預言だというのか……」

 こちらは全てを見通している、という意味合いで伝えたが、司祭は畏れ敬うばかりで、無駄であった。
 司祭は笑顔でいそいそと退室した。自らの望む答えが得られ、満足したのだろう。

 フリードリヒは細い脚を抱え、溜息をついた。

「朝から三人も接待なさって、お疲れでしょう。お休みになられてはいかがでしょう。それとも、お茶になさいますか?」

 久々の公務に疲れたと見て、エリッサが配慮してくれる。
 しかしフリードリヒは空気を読まない一言。

「……悪い人、だった」

「それは……。そういったことは、王権ではなく、司法が裁くものです。フリードリヒ様のお手を煩わせる必要はありません」

「……うん」

 あの司祭には伝えなかったが、今までの横流しを、宗主はとうに知っている。
 近いうち、彼は内部で裁かれる。家は潰され、先ほど話に出た娘と孫は、宗主の愛人として惨めに生きながらえるだろう。

「ふわぁああ……。うん、寝る」

「かしこまりました」

 礼装から寝間着に着替えさせられた。
 重い装飾品から解放され、フリードリヒは息をつく。

「あらフリードリヒ様、婚約腕輪を通す手が反対ですわ」

 いつもなら左手首につけるものを、寝ぼけていたものか、右手首に装着していた。エリッサがそれを直しながら、注意する。

「王の左腕という意味合いで、妃は左手首に婚約腕輪を通すのです。お気をつけくださいませ」

「んと……気を、つける」

 なんとか返事を絞り出し、フリードリヒは瞼を閉じた。
 疲労した王妃に配慮し、侍女らは静かに寝室から出ていった。

 人の気配が無くなったことを察したフリードリヒは眼を開き、素早い動作で体を起こした。切り揃えた銀髪を掻き上げる。

「茶番だな」

 いつものすっとぼけからは、想像もできないような毒を吐く。
 彼が寝台の下を覗くと、そこには安らかに眠る、もうひとりのフリードリヒがいた。

 毒づく方のフリードリヒは、眠る青年を苦労して寝台に戻そうと奮闘する。

「うぐぐ……いくらなんでも軟弱にすぎるぞ、この男」

 息を乱しながらも、なんとか青年を寝台に転がすことに成功した。
 筋肉の酷使で震える両腕を摩り、呆れた眼で王妃を見る。

「今日で三日目。さてこのまま戻らなければ……わたしが王妃になり、国を傾けるというのもありだな」

 もちろん、言うだけで実行はしない。
 ケツァルコアトルの庇護有る限り、フリードリヒの肉体が死ぬことはない。精神はその限りではないが。

 毒づくほうのフリードリヒは、王妃の宝石箱を勝手に開け、黒曜石の指輪や髪留めを出した。

「これぐらいもらわねば、割りに合わぬ」

 愉しそうに笑い、指輪を、正確には黒曜石をするりと口に入れ呑み込んだ。







 フリードリヒはゆるりと眼を開いた。夢か現か、判断しかねる。
 懐かしい匂いが鼻孔をくすぐる。はっと目を開き、寝台から起き上がりて周囲を見渡す。

 こじんまりとした薄暗い部屋。寝台側の小さな燭台。ささやかな服飾が入った、古びた箪笥。
 簡素にすぎる部屋の窓の外では、雪が降っている。

「……夢、か」

 でなければ説明がつかない。この部屋は、故郷ロメンラルのフリードリヒの部屋だった。

「にぃにぃ」

 いつの間に部屋に入ったものやら、次兄ローレンツの飼い猫が寝台に転がっていた。
 毛を撒き散らされては堪らないため、嫌がる猫を抱き上げて床に下ろす。

「んと、真っ暗なとこ歩いてて、可愛い鳥さんに会って……そうだ、ケツァルコアトル様は!」

 蔦に貫かれた翡翠は、見当たらない。鵜同様、すっかりはぐれてしまったようだ。
 あの蔦は、夢に見た“忌まれし森"と同じものだった。
 何が起こるか分からない。早くケツァルコアトルを見つけねば――

「おはようございます、今日はお早いですね」

「あ……う、ん」

 扉を開けて入ってきたのは、フリードリヒが幼い頃から世話をしてくれた、屋敷の召使いだった。
 エリッサたちのような愛想は無く、淡々と部屋の掃除を始めた。

 猫を部屋の外に出しながら、女は話しかける。

「お食事はどうされますか?」

「え、んと……いいや。空いてない」

「かしこまりました」

 それ以上の会話はない。今思えば、なんてつまらない日常だったのだろう。
 召使いのことは忘れ、フリードリヒはケツァルコアトルの行方を考えることにした。

 呼んでも顕れない。ならば、こちらが探すしかない。しかしどうやって?
 悩むフリードリヒをよそに、状況は進行する。
 扉をノックする音の後、そうと開かれ、今度は初老の男が入ってきた。

「……っ」

 白髪の混じった頭髪に、白い髭は、よく覚えている。
 刃のようなぎらついた鈍色の眼が、フリードリヒを射抜く。

「……父、様」

 死んだ父、フランツが、眼前に立っていた。
 挨拶をすることも忘れ、フリードリヒは驚きに言葉を失う。

 生前に会ったことは、両手で足りる程度にしかない。
 動けないフリードリヒに、フランツが手を伸ばした。
 思わず体をすくませるフリードリヒを、父親は優しく微笑み、息子の頭を撫でる。

「とう、さま……?」

「どうしたフリードリヒ。具合でも悪いのか」

 最後に会ったのはいつだったろう。死に目にも会えなかった父が、こんなにも優しい言葉をかけてくれるとは――

 反っておぞましいではないか。
  
 フリードリヒは直感で理解した。或は、ケツァルコアトルの力によるものだろう。
 神憑きである自分を、父が愛するはずがない。たまに会うのだって、なにか重要な用事がある時ぐらいなもの。

「これは、僕の望む夢だ……」

 もう手が届かない人。一生望めない愛。
 エンディミオの言葉を、ようやく理解できた。

 夢を見るなとは、不確かな幻想に捕われるなということだ。
 夢には何も無い。今ここで偽りの父に甘えても、空虚な満足感を得るのみ。

 フリードリヒは一刻も早く、この場から逃れ、ケツァルコアトルと合流せねばと考えた。

 父は惜しいが、ここに居れば、自分は確実に夢に呑まれる。
 フリードリヒは父親の手を払う。フランツは驚いた顔をしたが、すぐに優しい表情に戻った。

 扉は召使いが塞いでいる。フリードリヒは真後ろを向いた。

 急ぎ寝台から降り、窓を開ける。
 すぐ眼前に楓の枝が伸びている。たしかこの部屋は三階だったが、躊躇する間は無い。フリードリヒは枝を掴み、意を決して寒空に飛び出した。


 フリードリヒの重さに耐え切れず、枝は呆気なく折れた。
 瞬間、窓から大量の蔦が噴出した。蔦は獲物を探すようにうねり、絡み合う。

 フリードリヒは真下に落ちたが、幸いにも隣の棟の屋根であり、また積雪が彼を救った。
  
「……う」

 痛みと寒さに震える体を叱咤し、屋根を歩く。
 絶大な恐怖がフリードリヒを支配していたが、悲鳴だけは漏らさぬよう、ひたすら歯を食いしばる。

 何せフリードリヒには、実家だというのに、屋敷の構造が全くわからないのだ。どこをどう行けば、まず地面に降りられるのか、見当もつかない。

 何かに祈るよう、天を仰ぐ。夜空は白みはじめ、夜明けだということがわかる。細雪も、止もうとしている。

 青星が目立つ満天の星空に、一際巨大な星があった。

 青白い光で夜の地上を照らし、だが太陽のように目や肌を焼くことはない。
 静寂の優しい光に、フリードリヒは見とれていた。
 不思議と安心した。勇気を出して今一度、足を踏み出す。

 猛烈な眠気がない事が幸いだった。フリードリヒは屋根の頂まで上り、自分の部屋の窓を見る。
 蔦はもう無い。安堵の息をつき、休憩しようとその場に座った。

 背後で大きな破壊音がした。屋根が振動し、フリードリヒは落ちないよう堪える。

「……ひっ」

 振り向くと、“忌まれし森”が屋根を突き破りて出ていたのだ。
 絡み合う蔦で体を構成し、顔のつもりか、白塗りの喜劇の仮面を装着している。

 白く華奢な右腕と、褐色の屈強な左腕を屋根につき、四つん這いでフリードリヒに近づく。
 馬の右脚と猿の左脚は、元の生態の違い故か、うまく機能していない。

 この世のものとは思えぬほど、恐ろしい合成の化け物。
 悪夢を凝縮したような存在に、フリードリヒは逃げることすらできず、恐怖に縮こまる。

「あ、あ……」

 どうしようもない。こんなもの相手に、対話など不可能だ。
 蔦がフリードリヒに伸びる。手足の次は何を奪うというのか。

 空が徐々に白くなる。日が昇ろうとしている。
 青星も巨大な星も朧げに霞む中、一際輝く星があった。

 白く、何よりも白く煌めく、金星。
 “災いの星”の異名を持つそれが強く発光した後、天から流星が飛来し、“忌まれし森”を貫いた。

「ふぅわっ!」

 凄まじい衝撃と突風、そして轟音。
 フリードリヒは飛ばされないよう、その場に伏せ、屋根に捕まる。

 しばらくして、風が止んだ。
 顔や頭についた雪を払い、目の前を確認する。

 流星と思っていたのは、長大な白いやりだった。
 上空ではこうのとりが旋回している。

 鎗の先には、蛇を纏う神、ケツァルコアトルが立っていた。

「ケツァルコアトル様ッ!」

 安堵のあまり泣きそうになるフリードリヒとは対称的に、ケツァルコアトルは憤怒に眉をひそめていた。

 ケツァルコアトルは左手に持っていた薄汚いサギを投げ捨てる。イツテラコリウキは弱々しく鳴き、飛び立つ。

『こんなに怒りというものを覚えたのはいつ振りでしょう。今一度、お前を破損させる必要があります』

 ケツァルコアトルは全き善神ではない、というイツテラコリウキの言葉を思い出した。

 ケツァルコアトルは屋根に降り立ち、鎗を抜く。
 そして鎗を振りかざしては打ち下ろす。幾多も貫かれ、“忌まれし森”は絶叫した。
 だがちぎれた体は蔦が絡み合い、瞬く間に再生される。文字通りの不死の存在だった。

「ケツァルコアトル様……お願いです。もう、もう止してください……」

 見ていられなかった。フリードリヒは涙声でケツァルコアトルに静まるよう懇願する。
 それを見たケツァルコアトルは鎗を捨て、両の手を掲げる。

『……そうですね。ではこのものの動きを止めます』

 両手を上空にあげると、屋敷を破壊しながら、いくつもの黒曜石の刃が“忌まれし森"を下から貫いた。
 串刺しにされ、宙に固定された“忌まれし森"は、唸りて足掻く。

『恐いを思いをさせましたね。もう大丈夫ですよ』

 ケツァルコアトルの方が恐いとは言えず、フリードリヒは真っ青な顔で頷く。

『ああ、もういいですよ。ご苦労様です』

 ケツァルコアトルが上空の鸛に合図を出すと、長鎗は消え、日が昇った。

「さて、あとはあなたがやりなさい」

 そう言い残し、ケツァルコアトルは翡翠の姿になり、フリードリヒの肩に止まる。

『この森に死を。あなたはいかがしますか?』
  
 改めて“忌まれし森”を見る。
 刃に貫かれ身動きが取れず、蔦は絡み合うばかりで攻撃には転じない。
 二人の王の腕は、幸いにも無傷だった。

「ぃぎっ/ひひ/ひ/ひどいなあ/あ/あ」

「喋れるの、ですか!」

 仮面の下、人でいう喉のあたりに、声帯と舌が動いている。
 剥き出しの器官に、フリードリヒは吐き気を催した。あれも、誰かから奪ったものなのか。

「こ/こここでも/痛い/のはいたたいもの」

 男女の区別がつかない幼児の声音で、“忌まれし森"は文句を垂れる。

「あの、どうしてあなたは、他人の手足を奪うのですか?」

 意思の疎通が可能ならば、それほど恐ろしいものではない。奇怪な姿は、無理に見なければ良い。

「ななな/に.くく:くれるんじゃ/ないの/の/肺:肺をちょうだい」

「あげられないです。何故、奪うのです?皆、困ってます」

 フリードリヒは気丈に断る。次代を生む使命を持つ者として、それだけは避けねばならない。

 “忌まれし森”は残念そうに唸ると、理由を告げた。

「だっ/て/ふたつつつつあるなら:ら.いいで/しょ片方/もら/ってても」

「駄目だと思います。んと、ふたつあって、成り立ってるんです」

 エンディミオとヘルガは、全く不便さを感じさせないが、フリードリヒはあくまで自分の考えを伝えた。
  
「え.な/ならら/最初から何もななかったワ→タ→シはどうなのの/の?」

「……え?」

「感―覚のひ/とつも/血:管の一筋もなくく/すて/らられた:森には力がたくくさん/あったから=ら/蔦を:身体にしててみたけ/れど」

「でも、先ほどは痛いと、しきりに……」

「言った/ただけ.ぜんぜん痛く_ない.ねえ/何も無いワ>タ>シが/片方だけう奪うのは/間違い?」

 フリードリヒは俯いて考えた。
 聞いているうちに、この異形の言い分も間違っていない気がしたのだ。

 だがフリードリヒは否定する立場にしか立てない。

「でも、困っている人がいるのも事実なんです……。お願いします、陛下の腕を……せめて左腕だけでも、返してください」

「かわりに/に/き=みが右=腕ををくれ/るるななららいいよ」

 それでは本末転倒だ。フリードリヒは取り消してくれるよう謝罪し、再び考え込む。

「んと、あなたは、人に、なりたいのですか?」

 仮面や手足の位置、話し方はまるで人間である。滑舌の悪さを抜けば、まるで人と話しているようだ。

「うん_なり/たたい」

「どうして?」

「〈ひと〉はうたえる/ででで/しょ」

「う、た?」

 奇妙な答えに、フリードリヒは首を傾げる。

「鳥/はううたええ/ない→でももひ_とは/う/たたたえる」
  
 さっぱり意味が解らない。鳥とは、歌とは何を指すのか。それとも、そのままの意味で良いのか。

「んと……あなたは、歌いたいから、人になりたい、の?」

「違う.動∽物のよう/うには/い生ききれ/ななないし/鳥-りのよよう/に生き/たく/ははは/ない.
ひとここ/そがががが/真に_しんに/生きててい/る」

 人への羨望を語る“忌まれし森”に、フリードリヒは言ってしまうべきか迷った。
 だが言わねば相手も気づかぬだろうし、前には進まない。

「あの、多分その……人の身体を集めても、人にはなれない、と思います」

「何←→故!?ど-うし/て!」

 ひどく衝撃を受け、“忌まれし森”は蔦をくねらせる。

「んと、何て言えばいいんだろう。他人のものを奪っても、その人にはなれない、んじゃないかな」

「そんん/な曖_昧な考が/えはいららな:い!」

 言葉に詰まるフリードリヒに代わり、黙っていたケツァルコアトルが、補足として森に語りかけた。

『お前は本来の生命誕生の条件および、どの型式の現象発生条件も満たしていません。お前はどの世界にも存在せず、半端な霊質の塊です。それも強大な』

「そそん/なも/の:ののは何>ど度も聞きい/たた!ででも:死ぬこととも/できないな/ららかか/身体だをを/をを-返す/すのもも.嫌だ嫌」
  
 “忌まれし森”が肉体を返せば、あれは単なるつまらない蔦に戻るのだ。
 そして満たされない心と鬱屈を抱えて、世界の終わりまで無意味に存在し続ける。

「ね/えええなん/ででワ=タ=シは生う:ままれたた/のの.なんでワ+タ+シを生みだ/だ出したたたた:の」

「……っ」

 その問いの答えを、フリードリヒは持っていなかった。
 或はそれは、フリードリヒも同じ疑問を持ったことがあるからだ。

「あなたには……何も、無いのですか」

 しかし少なくとも、フリードリヒには家族はいた。ケツァルコアトルが常にあった。そして今や、エンディミオがいる。

 それらは奪ったものでは、決してない。与えられたものだ。 
 フリードリヒはぽつりと、独り言のように放った。

「あなたに、本当に意味のあるものを与えられれば良いのに……」

 “忌まれし森”は再び、肺を寄越せとわめき立てる。 
 あれにとって本当に必要なものとは何なのか。フリードリヒは考えた。

 という矢先、翡翠が鳴いた。

『ところで申し訳ないのですが、時間が無くなりました』

「え?」

 時間とは何ぞや、と聞く前に、世界が黄色に染まった。
 否、無数の金糸雀かなりあが、フリードリヒの夢を埋め尽くすように羽ばたいている。

「な、なんですか、これっ」

『裁定者が目覚めました。これより半日は、人は神域との接続を絶たれます』

「え、聞いてないですよっ?」

『仕様です』

 金糸雀の羽が口に入らないよう、顔を庇いながら喋る。
 抗議を重ねようとしたところで、ぶつんという音とともに視界は闇に閉ざされた。




 フリードリヒは不快感とともに目を覚ました。口内に羽が入ったような感覚があるが、それは単に口を洗浄していないからだ。

 夢とは違う気温の高さ、見慣れた寝台が、妙に懐かしい。
 何日間寝入っていたのか、体は重く、起き上がるのにかなり苦労する。

 寝ぼけ眼で周囲を見ると、何故かすぐ傍にエンディミオが居た。

(なんだ、まだ夢か)

 もう一眠り、というところで、強く耳を引っ張られる。
 この容赦の無さは、確かに暴虐王その人だ。

「へ、陛下ぁ……」

 フリードリヒは慌てて乱れた髪を撫で付け、ぎりぎり無礼にならないよう、身なりを整える。
 その間もエンディミオは、無表情で妻を見ていた。

「……んと、陛下ー。御、用は……」

「そなたが寝入っている間に、ヘルガから親書が届いた。私と会談を望むそうだ」

 フリードリヒは凍りついた。
 仇敵の間柄とも言える、エンディミオとヘルガ。

 その二人が会談、しかも魔女の方から願い出るなど、明日には世界が終わってしまうのか。

 証拠として、エンディミオが親書をフリードリヒに見せた。
 難解な単語は読めないが、型式は確かに会談申し出のそれだ。

「そなた以外に、あの魔女が動く理由が見つからぬ」

 フリードリヒは冷や汗が止まらない。かといって、言い訳が思いつくはずもなく。

「は……はひ」

 あっけなく降参した。
 しかしエンディミオは深くは追求しなかった。兄らに咎めがないことに安堵したフリードリヒだが、首謀者である妃自身には罰が下りる。

「和平を結んでいるとはいえ、私個人は魔女とは敵だ。故に、そなたを反逆者として疑わざるを得ない」

「……はい」

 覚悟はしていた。どんな罰も甘んじて受けようと、フリードリヒはこうべを垂れた。

「これより、そなたに二ヶ月の謹慎を言い渡す」

「……は、い?」

 謹慎で済んだ事に、フリードリヒは驚き、頭を上げた。王に何故と問う。

「そなたに大層な事ができるとは思えぬ。さらに神憑きを重く罰しては、民衆と教会の反発を招く。
ついでに、身重の者に余計な負担はかけてはならないと、酌量の余地があった」

「はえー……」

「以上だ。何か申し立ては」

「いえ。……陛下、あの、感謝、いたし、ます」

 北方出身の上、身内にリウォイン軍人がいては、フリードリヒはいくらでも疑われる。
 それをたった二ヶ月の謹慎に押さえた、王の苦労は相当なものだったろう。

「……そう思うのならば、以後迂闊な行動はするな」

「はい……はい」

 王の気遣いに、フリードリヒはしっかりと頷いた。
 エンディミオはめずらしく微笑み、フリードリヒの頭を撫ぜてから去った。

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