3

 その森は、夜明けを知らない。
 生まれることができなかった命は、ただひたすらに肉を求める。
 求めて求めて求めた末に、できそこないの命は、肉を繋ぎ合わせて躯を作っていく。

 さあ、また素晴らしい肉が来た。
 豪奢な服を来た二人の人間に、狙いを定め、綺麗な腕を貰う。

 それは蔦の腕を広げ、歓喜の鳴き声を上げた。



「……っあ」

「おはようございます、フリードリヒ様。すぐ済みますから、お待ちくださいまし」

 起きれば、侍女達に身体を清められていた。

 侍女達は手早く、だが丁寧に柔らかい布で体の水滴を拭い、爪をやすりで整える。

「痣も目立たなくなってきましたわ」

「綺麗な肌に戻ってきていますよ」

 医師から処方された内出血の塗り薬を患部に塗布しながら、侍女はある変化に気づいた。

「まあ、新しい傷痕がありませんわ。ようございました」

 王から受けた暴行や、不意の気絶による転倒や衝突により、フリードリヒはアルヴァに来て以降、痣は日常的になりつつある。

 事故は仕方のないものとしても、エンディミオの暴力による痕はひどく、しばらく感覚が無い時もある。
 それが今回は新しい痕がひとつもないのだから、侍女としては嬉しい限りだろう。
 なんとなしに褒められたような感じで、フリードリヒは恥ずかしげに目を逸らした。
 髪をくしけずられ、さっぱりしたところで寝台に戻る。

「あら、フリードリヒ様、お目覚めで」

「うん、……おはよ」

「おはようございます。どうぞこちらに……軽く体調を見ますので」

 医師の指示に従い寝台に座るフリードリヒ。
 脈や体温を測り、医師は満足げに医療記録を書き込む。

「良い案配です。とはいえ、今日は無理せずお休みしましょう」

 配慮の言葉に、フリードリヒは不満そうに眉を寄せた。

「ふああ……外、出たら、いけませ、んかー?」

「いけないわけでは……」

「痛いのは、大丈夫、です……近くでいい、ですからー」

 初めて聞くフリードリヒの我が儘に、医師はどうしたら良いかわからなくなり、慌ててエリッサに助けを求めた。
 侍女頭はひとつ頷き、フリードリヒに提案する。

「かしこまりました。では、私と医師と他侍女が同伴の元、少しだけ出ましょう」

「わ、やったー」

「とはいえ、本格的に暑くなってまいりましたので、以前のようにお庭ではなく、建物内になりますがよろしいですか?」

「ん、いいよぉ」

「了解です。皆、準備して」

 エリッサが軽く両の手を叩けば、他の侍女たちが示し合わせたように準備をはじめる。

「いや、助かりました」

「どうも。では参りましょう、フリードリヒ様」

 フリードリヒは無邪気にエリッサの手を取る。その動きに、迷いはない。
 エリッサの言う通り、日差しはとても強く、窓からの陽光でも、フリードリヒの目は痛む。
 外に出れば、強い日光で皮膚病になってしまうだろう。
 宮殿内の廊下をのろのろと歩く。なるべく段差や階段を避けるが、フリードリヒとしては、行ってみたいという気持ちもあった。

「本当に大丈夫ですかね」

「医者が何をおっしゃいますの」

 たしかにふらついてはいるが、病は気からというか、足取りは悪くない。

「……あ」

 突然、フリードリヒが立ち止まる。前方には、書類を手に宰相や大臣らと議論を交わすエンディミオがいた。
 決議しないまま、次の予定が迫っているらしく、歩きながら侃々諤々としている。
 かなり白熱していたのか、王妃の存在に、目前まで来て気づく。

「これは王妃様、ご機嫌麗しゅう」

「ど、うもー……」

 慌てて大臣らが頭を下げる。
 エンディミオは書類を宰相に預け、フリードリヒの頭を掴む。

「顔色が悪いな」

「そう、ですか?」

「寝ていればよいものを」

「んー……なるべく早く、戻ります……」

「よろしい」

 あまりのまともな会話に、大臣たちは目を合わせ、侍女たちは何事かと話し合う。
 どちらもエリッサに睨まれて姿勢を正したが、それでも尚、疑問は晴れない。
 周囲の動揺なぞ知らぬとばかり、エンディミオは銀髪をひと撫でし、大臣たちを連れて去って行った。

「仲良くなられまして、ようございましたね」

「素晴らしきことですわ」

 口々に侍女たちが褒める中、フリードリヒとエリッサは、いまだ王の背を見ていた。
 だがしばらくすると、フリードリヒは来た道を引き返しはじめる。

「あら、お戻りになりますか?」

「……うん。陛下に、怒られるもの」

 困ったような微笑を浮かべ、覚束ない足取りで行く。
 その有無を言わさぬ、彼なりの静かな命令に、口をはさむ者はいなかった。




 柔らかい枕に涎を垂らし、おおいに惰眠を貪る王妃。
 しかしふいに、翡翠が耳元で鳴いた。

「……んあ?」

 寝ぼけ眼でケツァルコアトルを見れば、機嫌が良いのか、やたら鳴いている。

「……なんですかー?」

 用件がないなら寝かせてよ、と本音をぶちまけかけた時、翡翠は言葉を放つ。

『迷いは払拭されたようですね』

「……はぃ?」

『伴侶であることに徹しようと、できもしない会話を試みて……。諦める、という選択は正解でしたか』

 王の本意を探ることを諦めたフリードリヒを、責めるでも、慰めるでもない。
  
「あのー……なにが」

 言いたいの?と口を開きかけたが、翡翠がさらに近寄る。

『嫌いと言ったにも関わらず、やはり嫌いきれていないですね』

「うぐ……だっ、て、優しいのは、嬉しいから」

 かなり恥ずかしいようで、フリードリヒは枕に顔を埋めてしまう。
 常に共に在る神に、嘘は通用しない。
 どれだけひどく扱われようが、わずかな気遣いと、自身を撫でる手に、フリードリヒが歓喜したのは事実。
 それを見透かすケツァルコアトルは、すらすらと彼の本意を並べたてる。

『あなたは誰かの役に立ちたいという願望がありました。母はあなたを産んで死に、父は持て余し、兄は最低限の接触しかない』

 故郷と、そして王のため、フリードリヒは自己を殺すはずだった。

 というに、このていたらく。
 まだ愛されたいと足掻く、愚かしさ。

『よろしいでは、ないですか』

「はえ?」

 指摘され、へこむフリードリヒに、翡翠は意外な答えをよこす。

『愛に生きればよろしいではないですか。それが人。王に愛されたいから子を生す。今はそれでよいではありませんか』

「え、えぇー……」

 あまりに利己的。子供をなんだと思っているのか。
 さすがにそこまで我が儘になるならば、このまま閉じこもる方がましだと考えた。

『わたしの愛しい子。愛と、それに伴う犠牲を知りなさい。そも、あなたに自己を殺してまで役目を果たすなど、無理でしょう』

「あう」
  
 これ以上の指摘は勘弁であった。
 懸命に開いていた目を閉じかけると、ケツァルコアトルは慌てて羽ばたく。

『ああ、待ちなさい。こんな事を言うために顕現したのではありません』

「ええぇ~」

 さすがのフリードリヒも、なんだそれ、と怒りが湧いてこないでもない。
 だが翡翠はいつもより固い声音で、とんでもない事を言う。

『時は来ました。わたしが人の意識に在る理由を、教えましょう』

「え」

 フリードリヒは目を開き、ケツァルコアトルをまじまじと見る。
 今まで黙され、誰も知らなかった理由。
 それを知るとあって、フリードリヒの胸は動悸する。

「どして、今……」

『言ったでしょう。今のあなたには迷いがないと。これから教えることは、あなたの生を大きく揺さぶるものです』

 端的に言えば、今のフリードリヒの状態はいっそどうにでもなれ、という投げやりなもの。
 自分で何も考えないのだから、迷いがないといえばない。
 フリードリヒの拒否も聞かず、ケツァルコアトルは語りはじめた。

『東の森、あるいは白の樹海と呼ばれる地域は知っていますね』

「あ、はい。ロラン兄様が、教えて、くれました」

 大陸の北をリウォインが、南をアルヴァが支配する中、何者にも侵されない領土があった。

「人が“忌まれし森”と呼ぶ存在……それを世界に還すために、わたしはここに在ります」

 東の広大な土地に広がる森。
 人里に近い部分を、人は切り出し活用しているが、誰も奥に入ることはない。
 事実、森には人知を超えた怪物がさまざまに居るからだ。狡猾な密猟者ですら、怪物を恐れて森の奥深くには入らない。

 なかでも“忌まれし森”と呼ばれる怪物は、全ての生命を呪うかのごとく存在する。
 ありとあらゆる生物の身体を強奪し、自身の体としてしまうという。

『あれは人がわたしたちを人工的に生み出そうとして失敗した結果です。
産まれることもできず、生きてもいない。だから死ぬことができない……そんな存在を、死に向かわせます』

「なんだか、でっかいお話ー……」

 森とは無関係に生きてきたフリードリヒには、何やら遠い出来事に思えた。

『何を言います。あなたの最愛の人が、森の被害者ではありませんか』

「あ」

 言われてやっと思い出す。あまりに当たり前の事であったため、うっかり忘れていたのだ。

 かつてのアルヴァ王とリウォイン王が“忌まれし森”を討伐しようとした。
 軍隊を連れた討伐は、だが失敗し、アルヴァ王は左腕を、リウォイン王は右腕を奪われた。
 以降両王家の継承者は隻腕の人間しか生まれず、また縁戚が絶えていく様に、人々は呪われた王家と怖れた。
  
 時折見る、あの恐ろしい夢は、二人の王が腕を奪われる瞬間であったのだ。
 そして、蔦の身体を持ち、顔を仮面で埋め合わせたあの異形こそ、“忌まれし森”。
 そこまで考えたフリードリヒは、簡単に結論づけた。


「……無理」

 あんな怖いものを、凡人以下の自分にどうこうできるはずがない。
 無茶苦茶を言うなあ、と思った矢先、ケツァルコアトルはさらに理由を話す。

『わたしの手を取れば、人を越える力を授けます。森は生き物にしか興味がない。ですから、わたしたちには姿を捕らえられない。あなたが必要なのです』

「って……言われてもー」

 剣などできないし、というかまともに走ることさえできない。
 痛いのも、怖いのも、当然ながら嫌なものだ。

 いまだごねるフリードリヒに、仕方ないと翡翠は奥の手を出す。

『成功すれば、あなたの願望は叶います』

「え?」

『森を世界に還すことすなわち、森が奪った全てを返還することに繋がります。要は、成功したならば、次代の王は両腕を備えた体で産まれることができます』
 
「そんな理屈、でいいの?」

『森自体が超自然的で屁理屈な存在です。わたしはそれを正すだけです』

 納得のいかないフリードリヒを、翡翠は諭す。

「んー……あのぉ」

『はい』

「ちょうしぜんてき、て、なんですか?」

「……それは追い追い」

 翡翠はため息ひとつ。しかしすぐに立ち直る。
 フリードリヒの抜けた性質は、今に始まったことではない。

『今すぐに、とは言いません。ですが、これだけは覚えておいてください』

「……う、はい?」

『どのような選択肢でも、最後に決めるのは貴方です。そしてその決定に、世界はついていきます』

 自分で考える、ということをしてこなかったフリードリヒには、無理難題に思えた。
 このままのんびり暮らしていけたらと思っていたのに、やはり神憑きとはそんなものか。

『わたしの愛しい子。どうか恐れないで。世界はあなたたちの望むように』

 言うだけ言って、ケツァルコアトルは消えてしまった。
 フリードリヒは押し潰されそうな不安を、深呼吸で払拭。
 さらに敷布を深く被り、夢に逃げ込んだ。
  




「フリードリヒ様、旬の果物ですわ。以前、酸っぱいとおっしゃられていましたから、蜂蜜をかけましたの」

「こちらは、リウォインから取り寄せた砂糖菓子ですわ」

 お茶の席で、必死に王妃の機嫌をとる侍女たち。
 一方主は、彼女らの話なんぞどこ吹く風。
 いつも以上にぼんやりと、明後日の方向を見ている。

 ここ数日、フリードリヒはずっとこんな調子だ。ただ眠いだけかと思いきや、初めて見る菓子や、甘いおやつにも興味を示さない。

「……あ」

 ふいに、フリードリヒは手を滑らせ、紅茶の入った杯を傾けてしまった。侍女は慌てることなく、的確に対処する。

「お怪我などございませんか? すぐに新しいものをお持ちします」

「……ごめん」

「どうかされましたか王妃様。どこか具合でも?」

 心配した侍女が声をかけれど、フリードリヒは卓の端を見て一言。

「……今、なんかしました? ……そうですか」

「フリードリヒ様っ?」

 突飛な独り言に、周囲は動揺を隠しきれない。
 堪えかねた一人の侍女が、エリッサを呼びに部屋を出た。
 やけに慌てふためく侍女に呼ばれ、別室で王妃の体調について話し合っていたエリッサと医師は、急ぎ寝室に入る。

「熱がありますね」

 体温計を仕舞い、医師は簡潔に言った。
 寝台に引きずり込まれたフリードリヒは、いまだにぼうとしたまま。
 体の不調を訴えられぬほど怠いのか。あるいは不調に気付かないのか。

 脈拍を計った医師は、ふと気付き、再び体温計を取り出す。

「失礼します、こちらを……それから、触診をさせていただきます」

 フリードリヒが頷いたのを確認し、医師は服を脱がし、主に下腹部に触れる。
 医師はああ、と呟くなり、心底申し訳なさそうな顔で、再び失礼しますと言った。
 疑問を持つ間もなく、医師は敷布の中に手を入れ、ためらいなくフリードリヒの下半身を探る。

「え、えっ、ちょ、え?」

「少し我慢なさってください」

 敷布で見えぬように配慮はしているが、止めろと言われて止めるようでは、医者ではない。
 容赦ない手早さで下着を下ろし、肛門に指を挿入する。

「ひぁ、いっ」

「すみません、すぐに終わりますから――はいわかりました」

 未知の痛みと恐怖にわななくフリードリヒを口早になだめ、医師は実に素早く診察を終えた。
 衣服を整え、不安で今にも泣きそうなフリードリヒに、医師は微笑しつ、診断結果を伝える。


「おめでとうございます。御懐妊です」

「……へ?」

 間抜けな声で聞き返す王妃に、医師は呆れることなく、再び言う。

「妊娠しております。この体温、胎内の感触も間違いありません。おめでとうございます」

「んと……どうも?」

 いまだ現実を受け止めきれていないフリードリヒに対して、侍女達は喜びに沸き立つ。

「おめでとうございます、王妃様!」

「ああ、本当にようございました……健やかな御子に恵まれますように」

 中には感動のあまり、涙を拭う者まで。
 エリッサ一人が冷静に、侍女らを寝台から追い払い、妃の傍にひざまずく。

「おめでとうございます。今までの王妃で、御懐妊されたのはフリードリヒ様のみ。皆が浮かれてしまうのも、無理はないかもしれません」

「そ、なの?」

 四人の元妃の誰もが、妊娠すらしなかった事実に驚く。

「ふうん……」

「フリードリヒ様?」

 再び一抹の不安がよぎる。

 このまま産んでよいものか。
 今までの妻たちは、呪われた血だから、伽すら拒んだのではないか。
 あるいは、王が。

「……ううん。んと、寝る」

「かしこまりました。お休みなさいませ」

 なんにせよ、王の真意はどうでもよいと決めたのだ。
 ただ次代のために、子を為すだけだ。

「……呪い、か」

 自身の腹を見ても、貧相にへこんでいるだけで、内にそんな大層なものが在るなどと、理解しかねる。

「……あ」

 ケツァルコアトルは、妊娠している事を知って、フリードリヒに真実を話したのかもしれない。

 呪いを解くことができるならば、それを選ぶべきだろうか。

「……も、やだな」

 頭の中が混乱しきっていた。
 妊娠なんかしなきゃよかったのに、とさえ思ってしまう。
 もっと考える時間が必要だ、という言い訳のもと、毎度お得意、結局は夢に逃げ込んだ。






――おう風よ、おう風よ、またお前の望みどうりか。憎らしいな

――いいえ。これもまた、ひとつの結果です

 聞き慣れたケツァルコアトルの声が、何者かと言い争うていた。

 声のみで、姿は捕えられない。
 四つの声が重なり、ひとつの言葉を紡ぐ。
  
――白々しい。無垢なる子を騙し、荊の道へ引きずり込むとは

――騙しているのはどちらですか?これは世界の導きです。さっさとこの子の意識から出ていきなさい。このすちゃらかぽんたん

――喧しいわ! やるか、この間抜け蛇が!

――黙りなさい! かかってこい、この間抜け猫!


 なんだかもんのすんごく、子供じみた言い争いをしていた。
 どうでもいいけど、悪口の語彙少なくね? と思った矢先に、フリードリヒは目が覚めた。






「……むう」

「フリードリヒ様、今日は朝から機嫌が悪くて……」

「よくない夢でも見たのかしら……」

 事実、夢見はよくなかった。喧嘩なんぞ、気分のよいものではない。
 起床してからの診察を終え、軽食を摂る。
 フリードリヒの体力では、一度に多くの食事は不可能とされた。
 だから日に何度かに小分けにすることにより、なるべく多くの栄養を摂れるようにとの配慮だった。

 というのに、物があまり喉を通らない。
 普段なら、なるべく残さぬよう努力するのだが、フリードリヒはその気さえ起こさなかった。

「……」

 眉を寄せ、肉刺しを手慰みに扱う王妃の様に、何がここまで彼を不機嫌にしたのか。侍女たちは戦々恐々としている。
  
「フリードリヒ様、お下品です。足はぶらぶらしない。食事をなさらないのなら、肉刺しを置くこと」

 見かねたエリッサが、子を叱るように注意した。
 元来素直なフリードリヒは、その通りに正す。

「どうされました?口で言わねば、わかりかねる事もあります」

「……ううん。大丈夫」

 どう見ても大丈夫ではないが、本人にもよくわからないのだから、説明のしようがない。
 エリッサは仕方ないとばかりに頷くと、フリードリヒの手を取った。

「では気晴らしに、少し出歩きましょうか?」

 何が変わるというわけでもあるまいが、その提案にフリードリヒは乗った。



 風の流れを取り入れる構造の宮殿内とはいえ、やはり暑いものは暑い。
 はしたなくも、首元の釦を外し、侍女たちに風を送ってもらっているが、北の人間には地獄の窯の底だ。
 傍らのエリッサは、しっかり衿をつめ、おまけに手袋までしている。

「……暑くー、ないの?」

「慣れておりますゆえ」

 にっこり笑顔で返され、納得する他ない。
 それにしても、アルヴァに来たばかりの時は、自力で歩くことさえ困難であったのに、今は誰かに少し寄り掛かる程度で、ほとんど自分で歩める。
 自身の気づかぬ所で、物事は着々と変わっていくのだ。

「……お医者様は?」

「フリードリヒ様のための、新しい医療班を組むとかで、宰相殿とお話しされています」

 どんどん大きくなっていく話。もはや他人事ではいられない。
 たとえフリードリヒや王が望まぬとも、周囲は期待している。

「……ふうん」

 間の抜けた返事に、さすがにエリッサも心配になったらしい。王妃の顔をまじまじと見る。

「夏ばてではないようですわね……戻られますか?」

「ううん、平気ー……」

 そのまま、エリッサの先導のもと歩き続けていた。
 フリードリヒは疲れた様子も見せず、興味の赴くまま、建物内の構造を見る。
 何度か通ったにも関わらず、飽きるということを知らないのか。
 しかしふいに、フリードリヒがエリッサの袖を引いた。

「え?――あら、運が良いやら」

 悪いやら、という言葉は飲み込み、王妃の乱れた衿を詰めてやる。
 というのも、エンディミオが執務室の扉を乱暴に開けて出てきたからだ。
 機嫌は良くないらしく、後に続く大臣たちは、恐る恐る王の顔色を窺う。 
 普通なら、妃とそのお付きは道を開き、王に頭を下げるもの。
 だが何を思ったか、フリードリヒは過ぎ去るエンディミオのマントの端を掴んだ。

 足止めを食らった王は、憎らしい敵を見るかのごとく、フリードリヒを睨みつける。

「え、あ、あのぉ……」

 エンディミオの怒りによる圧力に、さっぱり言葉が出ない。
 王を煽るその行動に、大臣や侍女たちは今にも卒倒しそうだ。

 舌打ちをしたエンディミオは、意外にも周囲の者らを人払いした。
 エリッサのみ、最後まで残ったが、フリードリヒが頷いたのを見て、去っていく。


 怯える妃に向き合い、エンディミオは懐中時計片手に話しかける。

「割ける時間は1分だ」

 厳しすぎる宣告に、慌てふためくフリードリヒ。うっかりどうでもよい事を言ってしまう。

「ああの陛下、わたくしえーと子供をー……授かり、まして――」

「知っている」

 ばっさり切り捨て、そんな下らん事のために止めたのかと、さらに威圧をかける。

「そそうじゃなくて、んと……こちらに、来た時からー……考えて、いた、んです」

 ああ、どうせ殴られることは目に見えている。
 ならば言ってしまおうと、フリードリヒは手を握る。
  
「陛下は、子を望んでおられない」

「何を――」

「もう、限界だから……呪われた王家を……戦で奪った民が、支持、するはずが、ないです……それが、優れた王でも」

 民衆心理の愚かさと悲しさは、フリードリヒがロメンラルにいた頃から感じていたものだった。

 例えば不作の時も、生活基盤を整えるために税は取らねばならない。
 しかし自分たちのためであるにも関わらず、民衆は伯爵を穀潰しと叩いた。
 伯爵の政策が悪かったのもあろうが、それにしても無情な話である。

 一方アルヴァは、長い歴史の間に、様々な国を侵略、併合してきた。
 故郷を、文化を奪われた人々の憎しみはいかばかりか。
 殆どの場合は、アルヴァ王の政策に納得し、統治に従う。
 だがいつの時代も、反逆者はいるもの。
 故に民衆の精神的支柱である教会が、政に介入するジレンマも抱えていた。
 それでも尚、いや教会があればこそ、人々は呪われた王家を忌まわしく思う。
 狭い領土を独裁するサイーラや、力を振るう恐怖政治のリウォインとは違うのだ。
 呪われた王なぞ、様々な民族の混じり合う世論の許すところではない。そのうちに、革命や紛争が起こるだろう。国の終わりは近いのだ。
 さらにフリードリヒは、聞き取りにくい小さな声で付け足した。

「それに……僕も、生まれてくる子が、神憑きなのは、やだし」
  
 そこまで聞いたエンディミオは、呆れたように言い放つ。

「そなた、思考は異常に遅いが、思慮は深いな」

「え……」

「ではそこまで考えていながら、何故そなたは夢を見る?」

「はえ?」

 今は起きているではないか、という前に、エンディミオはフリードリヒの顎を捕らえ、目を合わせた。

「眠りに見る夢ではない。現実から目を逸らし、決定を他人に委ねることだ。今でさえ、私と目を合わせず、子供の事でさえ、私に選択を譲る」

 よくわからず、フリードリヒが首を傾げると、苛立ちをそのまま顎の骨にぶつけられた。

「いっ、い……」

「私の話をしたとて、そなたの役目は子を産むこと。何を恐れる必要がある?」

 それを聞いて、フリードリヒは、はたと目を見張った。
 確かに、政から隔離され、周囲からは歓迎され、苦しいことなど、何ひとつないのだ。
 ただひとつあるとすれば――

「もう、夢を見るのはやめろ」

 それだけ言い、エンディミオは手を離す。
 時間が推しているからか、時計を確認し、眉をひそめた。
 去ろうとする王に、フリードリヒは言うべきか迷った。
 ただひとつ、フリードリヒが恐れること。
 それはこの生活がなくなること。すぐ近くまで迫る永遠の眠り。すなわち、死を。
 半ば投げやりに、神憑きの青年は言い出した。

「もし、呪いを解く方法があるならば……?」
  
 ぼそりとした声にも関わらず、思いのほか地獄耳な王は、足を止めた。

「何……」

 獅子は食らいついた。フリードリヒはやけくそになり、打ち明けた。

「神様が、おっしゃってました……神憑きが、アルヴァとリウォインにしか生まれ、ないのは……呪いを解く、ためと」

「馬、鹿な……では今までの神憑き共は、何故それを成さないでいた」

「んと……多分、情勢とか、神憑きの、心情、とか?」

 かなり無茶な理由だが、そう答える他ない。
 先ほど宣告した1分を越えているにも関わらず、エンディミオは再び王妃に向き直る。

「詳しく話せ」

「えと……方法は、わたくしが考えなければ、ならないみたいでその……いたいいたい」

「要するに何も知らぬと」

 こめかみを締め付け、余計な期待を抱かせるなと咎める。

「ふあ……申し訳、ございません」

「もうよい。近い内に話す時間を作ってやる。それまでに要点をまとめておけ」

 溜め息をついて去ろうとする王に、フリードリヒは慌てて引き留めた。

「あ、お待ち下さい陛下ー……一人では、戻れない、です」

「……は?」

「というか、ここはどこでしょー?」

「え?」

 人払いをした故、誰もそこを通ろうとはしなかった。

 暴虐の黒獅子王に送らせる前代未聞の妃は、後に化け物を見る目で見られるとかないとか。




 部屋に戻ったフリードリヒは、いつにない献上品の多さに目を見張った。

「すごぉい」

「懐妊祝いですわ。まだ国内の貴族からですが、これからさらに多くなりますのよ」

 侍女たちは、梱包を次々に開け、中を仕分けしていく。
 花束や衣服、宝石や装飾品の数々は、どれもため息が出る美しさ。

「……お返しとか、いいのかな」

「諸侯が国の主に贈り物をするのは、当然の行為ですわ。平然と受け取るべきです。もし不要ならば、そこいらの使用人にあげてしまいなさいな」

 豊かな国ならではの考えに、フリードリヒは驚いた。
 金の結婚腕輪でさえ、彼には大層な装飾品だ。

「お楽しみのところ、申し訳ございませんが、少し診察させていただいてよろしいでしょうか?」

 少し困った顔で、医師がフリードリヒを呼ぶ。かの医者も、物珍しげに、献上品に目線を送る。

「侍女の皆様だけで戻られたので、驚きました。どこかお怪我はありませんか?」

「んと……大丈夫で、す」

 今日は頭を締め付けられたぐらいだ。
 だが医師や侍女たちは、フリードリヒが王のために嘘を吐いているのではないか、と疑った。

「……そうですか。では体温を測りましょうか」

 とはいえ、追及するのは如何なものか。
 単純な王妃ならば、すぐにボロが出る。それを探るのも、周囲の者たちの仕事だ。
 鬱血した箇所や、動きのおかしい場所はないかと探していると、王妃がしきりに医師の方を見る。

「何か?」

「えーとぉ……んと」

 今度はエリッサを見る。有能な侍女頭は、それだけで判断した。

「席を外した方がよろしいなら、そのように致しますが」

「あ、うん……ごめんなさい」

「お気になさらず。かしこまりました、すぐに下がりますわ」

 エリッサは一礼し、他の侍女を引き連れて寝室から出た。
 閉まる扉を確認し、医師は触診をしながら、フリードリヒと会話する。

「どうかされましたか?」

「あの……ケツァル、コアトル様の、ことで……」

 フリードリヒは、隠すことなく、今までの顛末を医師に話した。
 神憑きが生まれる本当の理由を話しても、医師は驚きの声は上げなかった。あるいは、とうに知っていたのかもしれない。

「森なんて……どうにも、できないし……ふあぁあ。どうしよう、かと」

 誰かに打ち明けて、少し気が楽になったフリードリヒに、医師は問う。

「フリードリヒ様は、どうなさるかお決めになられましたか?」

「……ん、と?」

「森に死を与え、王家再建の礎となるのか。それとも、今を大切に暮らされるか……まあ、他にも選択はありますが」

 選択だの、決断だの、この医師もケツァルコアトルと同じ事を言うものだ。
 しかし、その辺りには追求せず、フリードリヒはどちらにすべきか、改めて考えた。
 たしかに森は恐ろしい。対抗でもなんでも、“忌まれし森"と聞いただけで、まず『無理』と即答できる。
 それでも、それでも尚、恐怖を凌駕する想いが王妃にはあった。欲望といった方が正しいやもしれぬ。

「……でもー、僕は……僕は、陛下の、お力に、なりたい、んで……す」

 恥ずかしさからか、声は萎み、手で顔を覆う。
 故に、医師の冷ややかな目に気付かなかったのは、幸運と言える。
 フリードリヒが立ち直る頃には、医師はいつもの微笑を湛えていた。

「王妃様のお気持ちは、わかりました。では、私からの忠告を聞いていただけますか?」

 もちろん、とばかりにフリードリヒは頷く。
 医師は、では、と一拍おいてから、滔々とうとうと語り始めた。

「普通ならば、神を受け入れるのは容易ではありません。然るべき鍛練を受けた、極わずかなものができることです。
フリードリヒ様が生まれながらであるのは、貴方さまの中にいるのが、調和の神であるからに他ありません」

 調和を司るケツァルコアトルだからこそ、波長が合えば、容易く人の意識に介入できる。
 逆に、他の神にはそれができないと知り、フリードリヒは驚いた。
 全ての神が、万能というわけではないのだと。
  
「ですが、まだ完全とはいえません。本当に貴方様が陛下の助けになりたいと願った時、神は契約を迫るでしょう」

「……けい、やく?」

「ええ……契約を成せば、人を超える力を手にできます。が、どうかお考え直しください」

 医師は辛そうな表情で、王妃を説得する。
 痛みをこらえるような、その顔に、フリードリヒは胸が詰まる思いを味わった。

「王妃様のお体が、耐え切れるとは、とても思えません。真に陛下の事を想うのでしたら、このままでいてください」

「……そんなぁ」

 死ぬのは嫌だ。次代のためにここにいるのに、それでは意味が無い。
 絶望するフリードリヒを、医師は優しく諭す。

「契約のない今ならば、王妃様と神を切り離すことができます。そうすれば、ご自由に外出もできましょう」

 フリードリヒはひどく衝撃を受けた。
 神憑きでない自分。異常な眠気とは、無縁な生活。どれも、想像のできないものだった。

 だが医師の言葉の、なんと甘美な知らせか。
 フリードリヒは、わけもわからず感謝していた。

「あ、ありがとうございますー……」

「どうされましたか?」

「……だって、こんなに、優しくて……神さまが、いたから、妃になれたの、に……神憑きでなくて、いいなんて……僕、ここに来れて、本当によかったです」
  
 眠気に堪えての、必死の伝達に、しかし医師はなんの感慨も無く、ただ目を伏せた。

「……御自身の、ひいてはお国のために、よくお考えになってくださいね」

「はい……はい」

 妃が強く頷いたのを確認し、医師は呼び鈴を鳴らして、侍女たちを戻した。



 医師が医療記録の写しを作っている間、フリードリヒは侍女が見せてくれる贈呈品で遊んでいた。

「ひゃー、重いー」

 大粒の宝石がついたネックレスや指輪は、着ける人間の品格が問われる。
 フリードリヒでは間違いなく、振り回されるに違いない。

「お花は、飾れるけど……」

 侍女が顔より大きいつぼ型の花瓶に、花を挿し、窓際や寝台の傍らに置く。

「お召し物は……んと、仕舞って……」

 勿体ないが、外に出る用も無いし、だがフリードリヒ専用に作られたため、他人に譲渡することもできない。

「……ぬい、ぐるみ?」

 たまに意図のわからない物が混じっているが、迷惑なものではないので、枕の横に置いた。

 意外と困るのは、装飾品であった。

 どれも美しいだけに、本人は気が引けているし、着けてみれば、その重さが、フリードリヒの行動に支障をきたすだろう。
 エリッサの言う通り、誰かにあげてしまおう、とフリードリヒは考えた。
 装飾品は好まないと知られれば、贈る者も減るだろう。
 つと気になることがあった。
 気のせいであろうか、医師の目線が、寝台にぞんざいに放られた装飾品に注がれている。
 目線を慎重に観察し、それを見つけた。
 黒く輝く、丸い宝石がはめ込まれた指輪だ。
 鈍く、だが光りを反射して輝く宝石は、黒耀石という。
 火山地帯も保有するアルヴァでは、わりと見かけるものだ。フリードリヒはその指輪を取り、医師に差し出した。

「……あの、どうぞ」

「え」

 この医師には、どんなに感謝しても、足りないぐらいだ。
 軽い気持ちだが、医師は困惑し、目を泳がせる。

「あ、その……」

「お受け取りくださいな。王妃様に失礼でございましょう」

 エリッサがぴしゃりと言い放ちて、ようやく医師が恭しく、指輪を受け取った。

「ありがたく頂戴いたします。これからもより一層、王妃様にこの身を尽くす所存にございます」

「んと……はい」

 礼のつもりが、返って恐縮させてしまっただろうか。
 枕元では、翡翠がからかう様に鳴いていた。医師の苦々しい表情には、誰も気づかない。



 このところ、宰相ダイケンは機嫌が良かった。

 先日に、経費を観光に使い込んだ外交官をそのまま国外追放したが、そんなことを忘れてしまうほど、良いことの連続だ。

 何しろ、王妃が懐妊したのだから。
 それだけではない。フリードリヒは、妃の最長記録を更新中だ。
 いままでは二人目が半年もっただけだった。
 しかもエリッサによれば、夫婦仲は悪くはないらしい。
 これから、ダイケンをはじめとする大臣や官僚は、王妃の機嫌をとる対応をせねばならない。
 ダイケンは時間の空いた他の貴族を連れ、王妃の部屋を伺った。

「フリードリヒ様、この度は御懐妊、おめでとうございます。」

「ありがとう……ございまふああぁ」

 普通なら、妊娠ごときでここまで騒ぐことはない。
 だがあの暴虐王が、ようやっと、という感じなのだ。王家の明るい話題は、過剰といえるほど取り上げるに限る。
 ダイケンは用意した献上品と、一通の手紙を差し出した。

「こちらは我々から。このお手紙は、ロメンラル伯爵、貴方さまの兄君からです」

「……アレク兄様の?」

 宰相からの献上品には目もくれず、伯爵からの手紙を読むフリードリヒ。
 夢中になる王妃を、和やかな目で見る。
 このまま、何事もなく、平穏に過ごせれば良いが。
 そういった気持ちをぶち壊すのは、いつだって暴虐の黒獅子王だ。
 エンディミオは王妃の部屋の扉を蹴破り、ずかずかと入ってきた。

「全員、席を外せ。王妃と話がある」

 誰も余計な事をしなければ、妃は思い詰めることなく、元気な御子を産むだろう。
 そう、王が変な事をしなければ――




「要点は纏めたか」

 エンディミオが聞いたとて、意外と図太いフリードリヒは、ダイケンからの献上品を開けていた。
 リウォインの菓子職人が作った砂糖細工の菓子を見て、甘い物が好きなフリードリヒは大層喜んだ。

「人の話を聞け」

「はぶふっ」

 エンディミオは相手の頭を掴み、そのまま砂糖の塊に打ち付ける。テーブルにぶつけなかっただけ、良心的かもしれない。

「要点は纏まったか、と聞いている」

「うわ……んとぉ、申し訳、ございま、せん」

 謝りながら顔についた白糖を手で拭い、味見とばかりに舐めれば「みっともない真似をするな」と、温い紅茶をかけられた。

「私に無駄な行動をとらせるな」

「す、すみません……」

「少しでも期待をした私が、馬鹿かもしれん」

「すみま、せん……」

 ある意味、裏切るようなことをしてしまった。フリードリヒは俯き、口を閉ざす。
  
「話す時は、目を合わせよ」

 エンディミオは細い顎を掴み、強制的に上を向かせる。

「んあ……はあい」

「呪いを解く法は、そなたしか知らぬ事。頼りないものだが」

 ああ、やはりこの人は、呪われた王家をとても気にしていたのだ、とフリードリヒは確信した。
 そのために、教会と癒着することも厭わなかった。
 そんな王に、やはり自分の身が可愛いので止めますなどと、誰が言えようか。

(僕は、まだ陛下に好かれたいんだなあ)

「欲しい情報ならば、いくらでも与えてやる。今一度、そなたに期待をするぞ」

「……へぁ」

「返事をしろ」

「は、はい……ががんば、りますー」

 迫力に負けてか、つい任せてくださいなどと言ってしまった。
 もはや、後には引けない。
 ここでやはり無理です、なんて言おうものなら、暴力の嵐がくるだろう。
 それだけは避けたいものだ。
 エンディミオは満足したらしい、妃の頭を軽く撫でて、部屋を去る。

「どう、しようー……」

 自分の軽率さが原因で、とんでもない板挟みになってしまった。
 顔中に砂糖をまとわりつかせたまま、フリードリヒはうんうん唸った。
  


 エンディミオが部屋から出ると、宰相をはじめ、大臣から侍女、部屋の警備をする衛兵までもが、王を見つめていた。

「何だ」

 代表とばかりに、ダイケンが一歩前に出て発言。

「陛下、よもやあの方に、下手な事は吹き込んでいないでしょうね」

「吹き込むも何も、特に話すことなどなかった」

「今、王妃様は繊細な時期です。むやみに傷つけるような事をしては……」

 馬鹿馬鹿しい、とばかりに、エンディミオは背を向ける。脚は執務室へ。

「陛下!」

「確かにあれは、馬鹿で無知で、あげく文句垂れだが、少なくとも私の前で泣き言をほざいた事はない。ましてや、泣くこともしなかった」

 それだけを言い残し、エンディミオは去った。
 仕事が残っている宰相や大臣も、王の後を追う。





 湯浴みを終え、顔に付着した甘味や紅茶を落としたフリードリヒは、兄からの手紙の返事を綴っていた。
 難しい言い回しは書けないが、単語のつづりならば、なんとかなる。
 兄アレックスもそれを理解しており、非常に簡単な言葉だけを繋ぎ合わせた内容だった。
 涎を垂らさぬよう、気をつけて書いていると、卓上に翡翠が現れた。

「ケツァルコアトルさま」

 この翡翠は、常に傍にいるわけではない。一日に数回現れ、フリードリヒが起きていれば、軽い会話をするのみだ。
 好都合だと、フリードリヒは願い出た。

「あの……ケツァルコアトル様……契約、して、くださいません、か?」

『まさかあなたから、その言葉が出るとは思いませんでした』

「……んとー、だめ、ですか?」

『いいえ。むしろ、喜んで。……ですが、打開策はあるのですか?』

「ないです……なので、森に詳しそう、な方に、お手紙を」

『……成る程』

 二枚目の手紙は、兄に宛てるものより、よほど丁寧に綴っている。
 間違いの無いよう、まして涎やインク染みなど、とんでもない。

 だが内容は簡素で良い。出来上がったそれを、アレックス宛てのものに重ねて、侍女に渡す。

「書けたー」

「あら、もうお返事をしたためましたの?」

 侍女は疑いもせず受け取り、届け出に部屋を後にした。
 それを見送ったフリードリヒは、ケツァルコアトルに向き直る。

「お願い、しますー」

『あなたの望み通りに』

 その言葉を最後に、フリードリヒの意識は、ぷつりと途切れた。
  


 眠りに落ちて、着いた場所は、境界と呼ばれる、あの白い空間だった。
 久々に見る、本来の姿のケツァルコアトルは変わらず美しい。

『まず、契約内容を提示しますね』

「ないよう?」

『はい。わたしはこの全存在をもって、あなたの命を守ります。
あなたはあなたの決断をもって、“忌まれし森"を打倒してください』

 頭の弱いフリードリヒにも、わかりやすいよう、ゆっくり語りかける。

『わたしが死ぬか、あなたが死ぬ、または何らかの力により森が消滅した時、契約不履行となります』

「神様も、死ぬのですか?」

 純粋な疑問だが、何よりも衝撃だった。神という割に、あまり全能的存在ではないらしい。

『ええ、当然です。わたしもあなたも、夢見る父の元に生まれ、待つ母に還ります』

 ケツァルコアトルの言うことはさっぱりわからない。フリードリヒは首を傾げ、契約内容の続きを促す。

『あなたが森を死にやった時、契約が解除されます。わたしは直ちに、あなたから離れましょう』

「……それって、神憑きではなくなる、ということですか?」

 ケツァルコアトルは頷いた。
 あの医者は、神を切り離すと言ったが、どうせなら呪いを解いた方が一石二鳥ではないか、とフリードリヒは呑気に考えた。

『以上です。契約を行うならば、この手をとってください。さすれば、あなたに人を超える力を与えましょう』
  
 差し出された左手を、フリードリヒは迷うことなく取る。少し、ひんやりと冷たい。

 痩せて骨張る手を両手でそつと包み、ケツァルコアトルは微笑む。

『覚えていますか? わたしが初めて、あなたに語りかけた時、あなたは怖れることなく、わたしを受け入れてくれました』

「……そうでしたっけ?」

 そんな昔の事は、とうに忘却の彼方にあった。
 催促するように、フリードリヒは握られた手を振る。

『ああ、すみません。では、あなたのお名前を』

「フリードリヒ・ケーフィンです」

「その意は、鳥を入れる籠にして、籠に閉じ込められる身。あなたは平和の君主」

 ケツァルコアトルが纏う花が、動き出した。
 否、それらは花ではなく、全て翠色の蛇だった。

 硬直し、思わず逃げかけるフリードリヒだが、ケツァルコアトルは手を離してはくれない。

『わたしの名は“翡翠の雪ぎ”――風、調和、豊穣、均衡を司ります。
全ての愛は巡りて、わたしは人々のために、世界にさえ犠牲を強います』

 大小様々な蛇が、ケツァルコアトルの体を伝い、フリードリヒの腕まで這う。
 生理的嫌悪から、思わず目をつぶった時、ケツァルコアトルが青年の手を、自らの方へ引いた。

 何事か、驚きに目を見開いたフリードリヒ。
 その彼の右目――正確に言うと眼球――に、ケツァルコアトルはくちづけた。

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