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寝台で、シーツに包まりながら手紙を読んだフリードリヒは、取り乱すこともなく、文をエリッサに預けた。
「……父様、今まで……病気な、んて、ひとつも、なかった、のに……」
「フリードリヒ様、どうかお気を確かに」
「だ、いじょうぶです……んと、僕はどーしたら、いいのでしょう」
涙ひとつ浮かべないフリードリヒに疑問を覚えつつも、ダイケンはこれからの段取りを教えた。
「フリードリヒ様がお望みになるならば、ロメンラル伯の葬儀に参列することは可能です。どうされますか?」
「んと、でしたら、お願い……します」
「かしこまりました。手続きと準備をしておりますので、しばらくお待ちください」
「わかり、ましたぁ」
ダイケンは一礼し、静々と出ていく。
フリードリヒは心ここにあらずとばかりに、ぼんやり宙を見ていたが、心配した侍女に熱い紅茶を進められ、手に取る。
「おいたわしや、フリードリヒ様……どうか気を落とさずに。私もお伴しますからね」
安心させるように手の甲を優しく撫でられ、フリードリヒはふと思い立つ。
「手紙、も、いちど見せて」
エリッサが渡すと、フリードリヒは舐めるように便箋を見つめる。
「どうされまして?何か、気になることでも」
「アレク兄様はー、字が、お綺麗だなあ、て」
「え?あ、そう、ですわね。良い教師がついたのでしょう」
「いいなー……そ、いえばぁ、ロラン兄様はどーしてるかなあ」
のんびりと二人の兄を思い出すフリードリヒに、まさか気が狂ったのではと、エリッサは慌てる。
「フリードリヒ様、大丈夫ですの?無理はなさらないでくださいまし」
「その、父様の印象……薄くてー」
紅茶をちびちび飲みながら、恥ずかしげに言う王妃。
ロメンラルにおいては軟禁状態にあったためか、自身の親にすらろくに会ったことがないと語る。
「正直、父様の印象ってー……髭?」
「そうですの……まあ、腐っても親は親ですわ。見送って差し上げましょう」
「うん」
夜もふけた頃、エンディミオが宰相を連れて王妃の寝室へやって来た。
あまりの突然の訪問に、侍女たちは慌てて姿勢を正す。
黒獅子王とその妃が、長椅子に座り、向かい合う。
最初に口を開いたのはエンディミオだった。
「伯爵の葬儀に参列するそうだな」
侍女がいれた珈琲に目もくれず、厳格に言う王に、戸惑いながら頷くフリードリヒ。
「許可できぬ」
「……ぅえ?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった王妃に構わず、エンディミオは理由を述べる。
「ロメンラルに行ったところで何をする。こちらから使いの者をやればよい」
「え……えー?」
「以上だ。戻るぞダイケン」
組んでいた脚を戻し、エンディミオは問いも受け付けず去る。
宰相は非常に申し訳なさそうに頭を下げ、王に着いて行く。
「な、んで……?」
「フリードリヒ様が行ったところで、陛下に損失はないはず……どういうことでしょう」
エリッサもしきりに首を捻る。
仕方ないと、フリードリヒは寝台に戻った。
「……兄様に、会いたかった、な……ふあぁあ」
「フリードリヒ様……」
寝入った主の頭をいたわるように撫で、エリッサは離れた。
明かりを消し、侍女たちは寝室から出る。
◇
「陛下、説明も無しとはあまりにも……」
「貴様はあれに入れ込みすぎる。同情か?」
ダイケンは口ごもった。正直、甘い目で見てしまっている。
エンディミオは宰相の根回しの速さや、教会の理想主義者共と舌戦を繰り広げられる機転は評価していた。たとえ政治家らしからぬ甘さがあっても、そばに置いている。
「貴様はロメンラル伯爵に会ったのだろう」
「ええ、まあ……」
「神憑きの存在を許さぬ魔女が捉えきれず、二十年を生き抜いて我が国に来た。この意味がわからぬ貴様ではあるまい」
ダイケンは思い出す。ロメンラル伯爵の、刃のようにぎらついた鈍色の眼。
伯爵はとても冷淡だった。我が子を送り出すのに、贈り物もなく、祝祭も行わなかった。
「……すべて覚悟のうえ。あの眼は、死を前になお恐れぬ勇士のものでした」
その死を無駄にするな、とエンディミオは言外に語っていた。フリードリヒがアルヴァ国王と結婚した時点で、ロメンラル伯爵は“勝利”したのだ。
◇
フリードリヒは外に出ず、ぼんやりと物思いにふける日々を送っていた。
今頃、故郷では父の葬儀をしているのかと思うと、どこかやるせない気分になる。
医師はその様子を見て、眉をひそめた。
「王妃様、お気持ちは痛いほどわかりますが、少しは体を動かさねば、かえって精神にも悪うございます」
「……うん」
「痣も薄くなってきましたし、体もだいぶ軽くなってきましたでしょう?この調子で続ければ、元気な御子が――」
「……あ、そだ。アレク兄様に、手紙書こう」
侍女から便箋とペンを受け取り、フリードリヒはうきうきといった感じで、文を綴り始めた。
「聞いておられなんだ……」
「すみません。フリードリヒ様が落ち着くまで、もう少しかかりそうですわ」
「それは致し方ありません。とはいえ、心配です。精神的に弱っていると、場合によってはもっていかれます」
神の精神に負け、意思と自我を失う。それは生きる屍になることだ。
医師は医療記録を書きながら、フリードリヒの行く末を案じて頭を抱える。
「しかし陛下は、何故許可をなさらなかったのかしら。我らの王とはいえ、少し神経を疑いましたわ」
さりげに陰口を叩きながらの侍女頭の疑問に、医師は即答する。
「北部はヘルガ女王の力が非常に強い。特に、神憑きを忌み嫌うリウォイン王家は、それが高位聖職者だろうが貴族だろうが、構わず投獄したかと」
「はあ、さすがは白鷺王。アルヴァの妃といえど容赦はしないか」
「できたー」
早くも手紙を書き終えたらしい。
便箋を受け取った侍女が一礼し、届け出のために寝室から出る。
「どうされたのです?突然、手紙だなんて」
「葬儀に、行け、なくて、ごめんなさいと、書いておいた……兄様、今は忙しいだろうから」
もう今日の分のやる気は使いきったのか、あくびをひとつ。そのまま寝台に倒れ込み、眠ってしまった。
どこかすっきりした顔で寝息をたてるフリードリヒを見て、エリッサは納得した。
「これは……多分、大丈夫かもしれませんわね」
「と、いいますと?」
侍女たちも気になるのか、仕事の手を止め上司の言葉を待つ。
エリッサは肩をすくめ、もう知らないとばかりに言い捨てる。
「ふっ切れてますわ。完璧に」
ぐうすか眠っているフリードリヒの頭に衝撃が走る。
驚きと、遅れてやってきた痛みに目を開けば、エンディミオが呆れたように寝台に座っていた。
フリードリヒは目を擦り、慌てて起き上がる。
人払いをしたのか、侍女たちはいない。
「んと……伽、ですか?」
「それ以外の用が思いつくか?」
さっぱり思い浮かばなかったので、フリードリヒは素直に首を横に振る。
「そうでした……陛下、ずっと考えてて、わかったので、すが……わたくしが帰ったら、兄様たちに、迷惑、です、よね」
北部で隠し通してきた神憑きが露見すれば、ロメンラルは様々に叩かれるだろう。
場合によっては、家が取り潰される可能性もある。
「だから、その、ありがとう、ございました……」
「この数日、それだけを考えていたのか」
「あ、あええと、もひとつ……」
搾り出したような礼も、当然とばかりに受けるエンディミオ。
会話の機会が少ないフリードリヒは慌てて、とんでもない付け足しをした。
「あの、わたくしは……陛下のことあんまり……好きじゃない、です」
黒獅子王の凍てつく視線を受けながらも、フリードリヒは言い切った。
「もう無理は、よします。尊敬は、してる、んですー……ですから……」
「だから何だ」
この期に及んでもまだ迷うフリードリヒの言葉を、エンディミオが促す。
覚悟よりも諦めに似た感情で、王妃は誓う。
「役割は、果たします……陛下の真意は、もういいです……わりきり、ます」
フリードリヒは俯き、来るであろう暴行に備えて奥歯を噛み締める。
しかし予想に反し、力強く顎を捕らえられ、王と視線がかちあう。
顔を背けることさえ許さずか、とフリードリヒがいろいろ諦めた時、久々に王の口角が上がった。
「ようやく王族というものがわかったか。そうだ、愛や恋などの夢物語なぞ、私は、国には不要」
エンディミオは顎から手を離し、フリードリヒの白い頬を撫でる。
「今までの妃共は下らぬ連中ばかりであったが、そなたは王妃として認めてやっても良い」
厳格であり、責任感の強いエンディミオは、相手にも高い志や責任を求めるのだろう。
フリードリヒは驚愕のあまり返事ができずにいた。
一方エンディミオは、よい事を思いついたらしく、妃に顔を近づけた。
「では我が妃に秘密をひとつくれてやろう。ロメンラル伯……そなたの父親を殺したのはヘルガだ」
さらなる衝撃に、フリードリヒは居住まいを正す。
恐るべき白鷺王は、表立って裁けない者を、魔女の力で呪い殺すというのは北部の常識だ。
ヘルガに反抗する者が、証拠もなく淡々と死んでいく様は恐怖でしかない。
ロメンラル伯が殺された理由は明白だが、アルヴァとの繋がりを重く見たヘルガは、当主だけを殺すにとどめたのだ。
今回は警告だとばかりに――
「ど、して……それをわたくしに……」
証拠がなくては糾弾のしようがない。白鷺王は知らぬ存じぬを貫くであろうし、アルヴァも得の無い争いはいらない。
エンディミオは微笑したまま、フリードリヒを寝台に押し倒す。
「黒獅子王の妃ならば、この情報を有用すると期待してのことだ」
「……はあ」
王はフリードリヒの服を脱がしながら、自嘲ぎみに言い放つ。
「我らの間にあるのは利権のみ。さっさと呪われた王を孕め」
その発言にフリードリヒが疑問を覚えた時、彼の耳元で翡翠の鳴き声がした。