2

――さあ、おいで。わたしの愛しい子

――あなたはわたしが使わした救い

――どうかわたしの傍に来てください

――そしてわたしの手を取り、共に終わらせましょう


 優しいやさしい声は、いつだって彼に囁き、甘美に誘う。

 ああ、だがそれはならぬ。自分には愛すべき、支え合うべき方がいる。

 もう今日は勘弁してよ、と思っている矢先、ようやく目を開くことができた。


「え、と……」

 南国アルヴァの新しき王妃フリードリヒは、瀟洒な椅子に座って頭を抱えた。

 ああそうだ、と思い出す。結婚腕輪の交換が終わり、今は夫であるエンディミオが、披露宴で客人相手に接待をしている。

 神憑きということを考慮され、フリードリヒは休憩するよう言い渡された。

 故郷では忌避すべきものとして、一切の外出および申し立てが禁じられていたというのに、文化の違いはすごいなあ、と渦中の人物はぼんやり考えていた。


「どうされました王妃さま。ご気分がすぐれませんか?」

 傍らの侍女エリッサが話し掛けてきた。手には水の入った硝子杯。

「だい、じょうぶ……んと、あと……どのくらいかな」

「あと十分も待てば、貴方様の陛下はお戻りになりますよ」

 からかうエリッサに、フリードリヒは言い返す言葉が浮かばず、照れ隠しに視線を下に向ける。
 
 ふと、左手首の腕輪が目に入る。
 金で造られた豪奢なそれには、エンディミオと彫られている。
 一方、対の腕輪には、フリードリヒの名が刻まれている。

 互いは互いの所有者であるという、愛と戒めの証。

「……なんか、あっけ、なくて……びっくり」

「ええ、ええ。実はここだけの話、陛下が式を短く略せと命じたそうですわ」

「陛下、が」

「素晴らしい。陛下もそれなりに努力してらっしゃいますのね」

 自惚れても、よいのだろうか。
 何やら今日は、色々な意味で王の言動、行動に振り回されていた。

「とはいえ王妃さま、気を抜かないでくださいましね。この後は祝宴で陛下もお忙しい。私どもが側におりますが、何かありましたら、すぐにおっしゃってください」

「……うん、ありがと」

 この短期間、エリッサは非常にフリードリヒに尽くした。
 故郷の侍従たちにも、このように構われたことはなかった。

 親子ほどに歳の離れた彼女だが、フリードリヒには最も信頼篤い人だ。
 だからこそ、か。エリッサはまるで子供にするように、王妃の頭をなぜた。

「まあ、宴が終わりましたら、陛下と結婚初夜をお迎えあそばせ。あなた様のお勤めが果たせますよう、私は祈っております」
  
――お勤め。
 ああ、そうであった。黒獅子王は、世継ぎを望んでいるのか、未だ真意がわからないのだ。

 あれだけの元・妃がいながら、子供はいない。

「……いいの、かな」

「何がです?」

「……ううん」

 不安と不審をこれ以上抱えるのは苦痛だ。
 どうせ神憑きに話し掛ける者などおるまい。

 フリードリヒは半ば投げやりに意識を飛ばした。




――真実など、ただの事実にすぎません

――あなたの推測は正解です

――動きますか? 歩みを止めますか?

――この手をとるなら、あなたに力を与えましょう

 がん、と大きく頭を揺さぶられ、フリードリヒはようやく起きた。

 長いこと熟睡していたらしい。
 やはり、眠りが深く、長くなってきている。

 眼前には眉をひそめた黒獅子王。
 疲れた風も見せず、相変わらず威風堂々としている。

「……え、と」

 本当にどれほど寝ていたものやら。見知らぬ部屋で、二人きりであった。
 祝宴はとうに終わったものか。

「先が思いやられるな、そなたは」

「……も、申し訳、ありません……」

 自分と他人に厳格なる王は、別に恫喝したわけではあるまいが、怒られた経験の少ないフリードリヒは、それだけで竦み上がってしまう。

「よい。期待はしておらぬ。そなたはそなたの勤めを果たせ」
  
 フリードリヒが緊張により息を呑むと同時、エンディミオに襟を捕まれ、引きずられる。
 天蓋つきの柔らかい寝台に投げられ、押さえこまれた。

「いっ……」

 エンディミオはひどくつまらなそうな顔で妃にのしかかり、乱暴に衣服を剥ぎ取る。

「へ、いか……お待ちを……どう、かお待ちを」

「戯言は聞かぬ」

「ああ、陛下。どうか、真意を、お聞かせたもう……あな、た様は……本当に、お世継ぎを、おの、ぞみ――」

 問いかけが気にくわなかったらしい。
 エンディミオはフリードリヒの白い首を強く掴み、あろうことか絞めた。

「あ……か」

「たかだか受胎の肉ごときが、王に意見するとは、見上げた根性であるな」

 殺される、と本気で思った。だがかすかに残った冷静な部分が、王が本気で力を込めれば、この柔い首なぞへし折れる、とフリードリヒに囁く。

「……も、うし訳、ござい……ぐっ」

 エンディミオは首から手を離すと、今度は頭を掴み、俯せに押し付ける。

 咳込み、必死に呼吸するフリードリヒを尻目に、エンディミオは事を進める。

 フリードリヒとしては、今さらどう扱われようが、別にどうでもよかった。痛みも苦しみも、仕方のないものとし、諦めている。

 重要なのは、かの王がどのように思っているか、だ。

 奥歯をつよく噛み、フリードリヒは悲鳴と嗚咽を殺す。

 意志は交わされぬまま、暴風のような夜は過ぎていく。
  




 日の光が地にも届かぬほどに、鬱蒼とした森。
 朝か夜かも判断がつかない森には、たくさんの生と死が溢れていた。

 つと、白い仮面の何かがいた。
 緑の蔦で構築された、偽りのからだ。

 声がする。大勢の人の声。

 仮面の何かと対峙するは、赤い兵士と、藍の兵士。
 だが兵士たちは、次々に蔦の攻撃を受け、倒れていく。
 仕方ない、とばかりに出てきたのは、二人の人物。


 一人は凄まじい剣技で。一人は不可思議なる魔法で、仮面と渡り合う。

 ああ、だが、木々の死角から蔦が二人に伸びる。

 かろうじて避けたが、一人は剣を持っていた左腕を。一人は短槍を持っていた右腕を、それぞれ引き千切られた。

 腕は仮面のからだに吸い込まれ、いびつなる両腕となる。
 屈強な褐色の左腕と、華奢な白色の右腕に――




「ッあ、ああああ!?」

 両腕を駆使し、這うように起き上がる。
 白いシーツの、寝台が目に入る。

「あ、あ……ああ……」

「フリードリヒ様、いかがされたか!?」

 悲鳴を聞き付けたエリッサが、天蓋布を勢いよく開く。

「……う、あ」

 何と説明したものか。悪夢というには、性質が悪すぎる。

「ああ、おいたわしい。ゆっくりとお休みなさいませ……」

 柔らかい布で、そっと涙を拭われる。泣いていたのか、とフリードリヒは呆然とした。
  
 まるで自身の両腕をもがれたような、生々しい夢であったが、きちんと腕は健在している。
 フリードリヒの内にいる神が見せたものか。見知らぬ光景であったが、心当たりはあった。

 手の平を見つめたまま動かない妃に、エリッサが刺激しないよう、そっと話かける。

「お疲れのようですね。お眠りなさいませ……神憑き様に仕事を与えるような国ではありませんから」

「……うん」

 なんとか声を搾り出し、頷く。
 今さらになって、身体の怠さ、いつにない頭の重さを感じ取った。
 エリッサに寝かしつけられ、フリードリヒはすぐさま深い眠りにつく。


「ご容態はどうですか?」

 エリッサの後ろに、男の影。
 眉間に皺を寄せ、宰相ダイケンは唸るように聞いた。

「医療記録をご覧になりまして?殴打による内出血、肛門は裂けて出血してますし、嘔吐もしたようなので、点滴をせねばなりませんでしたし」

「……陛下」

「医者の顔も青ざめておりました。特に酷いのは、これね」

 エリッサが寝ているフリードリヒの襟を少しめくる。
 そこには首を絞めた跡が、まざまざと残っていた。

「っ、これ、は」

 王の暴虐を長年、目の当たりにしてきたダイケンでさえ絶句し、目を逸らす。

「陛下は、神をも恐れぬのか……今度は何が気に入らぬというのでしょう?」

「……そういえば、フリードリヒ様が、お世継ぎはいるのか、と問うた際、陛下はお答えにならなかった……。むしろ、余計なことを言うなと、暴力を振るいましたわ」
  
「なんと、それは真ですか」

 曖昧模糊を嫌うエンディミオにしては珍しい。
 世継ぎがいらない、というのは困る。

 アルヴァ王家は――六代前の王以降、ある理由から一子しか恵まれず、近い血は全て断絶した。

 現在残っている諸公は、他国の血が濃く、また実力主義が強いアルヴァでは、中流階級の大臣もいる。
 片田舎の、しかも末子が妃にまでなれたのは、緊急性と、アルヴァの文化によるものだ。


「可哀相な方。知らぬ国に送りつけられ、このような目にあうなど……」

「……で、フリードリヒ様の荷を纏めている、と」

 エリッサはもう諦めていた。まだ若い彼が、耐えられるはずもない。
 泣きわめけるならばまだいい。自失してしまうようならば、自害する前に離婚をするべきだ。

「宰相として言わせていただくと、お世継ぎを残してからにしてほしいものです」

 あっさり残酷なことを口にするダイケンに、エリッサは嫌らしい笑みで応える。

「ダイケン殿も言うようになりましたな。喜ぶべきところかしら」

「そも、私は抑止力になるかと、無理に貴女を侍女頭にしましたのに、無駄でした」
  
 何故か議論から皮肉の言い合いに。侍女頭と宰相の間に、剣呑な空気がただよう。
 王妃の目の前で、二人はみっともなく口論をはじめた。

「私の役目はフリードリヒ様をお守りすること。相手が陛下であろうと」

「目的と手段をはき違えないでください。王妃がいなくなっては意味がない」

「だいたい、私ぐらいしかいなかったの?人望が無いこと」

「厳正なる調査をして、貴女が適任と思ったからです。貴女とて、城に戻れるならとふたつ返事で了承したではありませんか。
そこまで言うのでしたら、辞めてもらって結構です」

「こんの、小僧――」

 さらに争いが発展しようという時、フリードリヒの咳込む声がした。
 彼は眠ったまま身体を痙攣させ、寝台に胃液を戻していた。

「っ、ダイケン、医者を呼べ。早く!」

「は、はいっ」

 宰相に鋭く命じ、エリッサは窒息しないよう、フリードリヒを俯せにして口に指を突っ込み、全て吐き出させる。

 何も口にしていないフリードリヒは胃液しか出さないが、それでもまだ起きなかった。

「意識がない……? フリードリヒ様! 聞こえますか!? フリードリヒ様!」

「医者です、通して下さいっ」

 駆け込んできたのは、神憑きたるフリードリヒを考慮して新しく入れられた医師。
 この医師は、医療の他に、神学の知識も深く、神憑きの扱いをよく理解していた。
 呼びかけられたフリードリヒが、不快感と共に目を覚ます。

「……う、あ」

「ああ、ようございました。エリッサ殿の処置がよかったのです」

「それはどうも。それで、いかがしたのでしょう」

 フリードリヒの背中をさすりながら、エリッサは固い声で聞く。
 くだらない口論なぞしていなければ、もっと早くに気づけたかもしれないのに。
 侍女頭の心中など知らず、医師は腹や胸を触診したり、目を検診した。

 そしてきっぱりと、医師らしくないことを言い放つ。

「怖い夢でも見ましたね」

 フリードリヒは初対面の人間に話かけられ困惑したが、医師だということを認識すると、素直に頷いた。

「神が見せますから、現実のようでしょう。今のは拒否反応ですよ」

「……?」

 意味がわからず首を傾げると、医師は微笑みながら、ゆっくり解説。

「貴方の精神……心が、見ている夢に適応、呑まれないように、貴方の身体が本能的に貴方を守ったのです。何も怖いことはありませんよ」

 安心させるように、ゆっくりと語りかける。
 この人が神様だったら、眠りも楽しいだろうな、と考えていたフリードリヒは、あれ、と再び首を傾げる。
  
「お、医者様……ど、こか、で……会いまし、た?」

「いえ、初対面ですよ」

 夢で見たのだろう。フリードリヒはそう納得し、医師が医療記録を書いている様を眺める。

「不安そうですね。このような事は、初めてですか?」

「……はい」

「そうでしょう、神憑かみがかりは、一時、病として扱われた時代もありました」

 フリードリヒは猛烈な眠気が、恐ろしくなっていた。
 怖い夢ならば目覚めればいい。だが現実にまでおよぶものとなると――あのように苦しい思いをするなら、できればもう眠りたくない。
 それを察した医師は、妃の心の安寧のために言葉を重ねる。

「失礼ですが、王妃さまは、神と言葉を交わしたことは?」

「いえ……語りかけ、ては、きま……ふああぁ」

「……内なる神を、感じてください」

 医師は脈絡もなくそう言うと、フリードリヒの胸に手を当てた。

「目を閉じ、手を開いて……そう。好きな間隔で呼吸してください。そして呼吸と、胸の鼓動に意識を傾けて」

 言われた通りにすると、フリードリヒの意識は容易にとんだ。

――調和、風、均衡

 目を開くと、医師とエリッサに支えられていた。

「何か、聞きましたか?」
  
 今の単語をそのまま言えばいいのだろうか。
 フリードリヒは恥ずかしげに、おずおずと口にする。

「調和、風……均衡、と」

 それだけだと言うに、医師は手を口元に当て、考え込んだ。

「やはり、そうか……神憑きを生む唯一の力……」

「早くおっしゃってくださいまし」

 呆れたエリッサが催促すると、医師は失礼と一言断ってから、フリードリヒの耳に顔を近づけた。

「王妃さまの内におります神の名は――とされています」

 さっぱり聞き取れなかったが。しかし医師が離れていくと、遅れて理解ができた。

「け、つ」

「その名を決して口外しませぬよう」

「は、はい……」

 医師はぴしりと注意しつつ、医療記録に何かを書き足す。

「あのぉ……」

「はい、なんでしょう?診察はおしまいですよ」

 記録の写しをエリッサに渡し、医師は早くも、帰る準備をしていた。

「……あり、がとう、ございます」

「どういたしまして。お大事に」

  
 医師はフリードリヒが眠ったことを確認し、エリッサを手招いた。

「お世継ぎのことなのですが」

「……無理そうですの?」

「一度なら可能とは思います。ただ、男性の場合、鎮痛剤や促進剤などの薬を多く投与しますので、そちらが不安です」

「……わかりました。体力をつけさせておきます」

「少しずつでいいですから、体重を増やしてあげてください」

「努力いたします。ご苦労様でした」

「いつでもお呼びください。あ、伽は再来週まで禁止でお願いします」

 医師は一礼し、足早に去っていった。
 エリッサはため息をつき、部屋の隅で成り行きを見守っていたダイケンに近づく。

「宰相も暇ですのね」

「からかうのはよして下さい。フリードリヒ様は大丈夫なのですか」

「あなたが選んだ医者でしょう? それに私がつきっきりで見ています」

「……わかりました。陛下には心配なきよう、報告しておきます」

「あと、再来週までここにはこないで、ともね。もし来たら、暴れ牛が特攻いたしますわ」

 二人は妙な結束をし、笑い合った。
 王に忠誠を誓ってはいるが、正直、見ていられない部分もあったのだ。
 アルヴァの自由な気風は、こういったところで厄を生んだりもする。





――わたしの名のひとつを知りましたね

――よろしい。時は来た、因果は巡った

――境界に招聘(しょうへい)します



 夢を見ているはずなのに、やけに現実感がある。

 ふと、浮遊感が襲ってきた。
 だが恐怖はなく、フリードリヒはいたって冷静に、降り立った。

 自分が眠っているという自覚はある。だがここに立っている、という自覚もある。

 フリードリヒはあたりを見回した。
 白ばかりで何もない。所々、透明に歪む壁のようなものはあるが。
 興味本位にその壁に触れようとすると、いつも夢で聞いていたあの声が、より鮮明に聞こえてきた。

『障壁に触れてはいけません』

 性別を超越した、だが人に近い姿をした者がそこにいた。
 三対六本の角を頭部から生やし、色とりどりの花を衣装として纏う。
 フリードリヒよりも真白い肌、深緑の髪は人離れはしていたが、とても美しいと感じた。
 金色の瞳で見据えられ、フリードリヒは硬直した。

『現世と神域の境目たる境界です。ここでなら、わたしとも言葉を交わせます』

 フリードリヒは壁から離れ、眼前の者の名を口にした。

「ケツァル、コアトル様、ですか」

『はい。その名は人がわたしを呼ぶ名のひとつです』

 ケツァルコアトルは微動だにせず、表情も変えず、ただ言いたいことだけを言う。

『もう接触は無理かと思っていましたが、周囲に恵まれました。
して、わたしの愛しい子。ついにわたしの手をとりに来たのですか?』
  
 手を伸ばすケツァルコアトル。フリードリヒは怯えたように退がる。

「っ……違い、ます」

『そうですか。それは残念ですが、構いません』

 残念そうなそぶりも見せず、神は手を降ろす。

「ケツァルコアトル様は、何故わたくしを選んだのですか?」

 幼児期からあった疑問を、フリードリヒは口にした。
 だが、ケツァルコアトルは本人の欲しい言葉を与えることができないようだ。躊躇したように、ゆるりと首を横に振る。

『選んだ、というのは違います。あなたはわたしとの霊質波長が合うために、わたしはあなたの意識に介入できるのです。
今までの神憑きも、そのように生まれています』

「で、では……神憑きは、神に魅入られたわけでも、呪われたわけでもない、と……」

『その通りです。人の作り話に惑わされましたね』

 あまりの衝撃的事実に、フリードリヒは腰をぬかし、その場にへたりこんだ。
 ケツァルコアトルはその姿を哀れとも、愚かとも思わず、ただ言葉を続ける。

『あなたはわたしが使わした赦しの証。あなたは現世で行動を制限されるわたしの使命の代行者です』

「な、ぜわたくしなのですか! なぜわたくしなぞを……」

『それは先程申したはず。あなたは――』

「そうじゃない! そうじゃないの!
貴方が選ばなければ、僕はこんな目には合わず済んだのに! もう少しマシな生き方ができたかもしれないのに!」
  
 ついには喚くフリードリヒを見た神は、へたりこむ彼の額に指を当て、目線を合わせる。

『人は複雑ですね。幸せを感じながら、今は嘆いている……本質のみの我らとは大違いです』

「え……あ」

『話になりませんから、一度戻りて落ち着きなさい。
また言葉を交わしましょう、わたしの愛しい子』

「ま、待って……!」

 願いは却下され、ケツァルコアトルが声なき声で何事かを呟く。
 フリードリヒの耳元でぶつん、と音がしたかと思うと、眼前は暗幕のような闇となった。





 ゆるりと目を開く。窓から差し込む光が眩しい。アルヴァの強い日差しは、フリードリヒには辛いものがあった。
 大して眠った感じはなかった。まだ昼ということは、意外と短い時間だったのやもしれない。
 というのに、猛烈な空腹感があった。
 寂しいというより、いっそ痛いぐらいで、ここまでの空腹を感じたことがないフリードリヒは、不安で起きる。

「……いっ、つ」

 右腕に引き攣るような感覚。袖をまくって見れば、点滴を打った痕が残っていた。

「フリードリヒ様、お目覚めですか?」

「あ、うん……」

 声を聞き付けたエリッサが、手早くフリードリヒの腰と寝台の間に枕を差し込む。

「ああ、まだ痛みますか?後で揉んで差し上げましょう……」

「……あの、その……お腹、すいた」
  
 情けない声を出す妃があんまりにも可愛くて、エリッサは朗らかに笑った。

「それは良いことですわ! 健康な証です」

「……い、ままでに、お腹空いたこと、なかった……から」

「さようでございますか。フリードリヒ様は一日中眠っておいででした。
医者は心配ないと言いますが、後で診てもらいましょう」

「……えっ」

 一日。エリッサの言ったことが真ならば、フリードリヒはあれから全く目覚めなかったのか。
 境界と現実では、凄まじい時間の溝があるようだ。





「そうでした。フリードリヒ様、これからのために、体力をつけねばなりません」

 パンを芋のスープに入れて柔らかくしたものを、こぼさぬよう気をつけて食べていたフリードリヒ。
 だがエリッサの言葉を聞き、思わずスプーンを取り落としそうになった。

「……な、んで?」

「子供を産むのは、それはもう大変ですのよ。今のフリードリヒ様では耐えきれませんから、少しずつ、お体を強くしましょう」

 妃も大変なんだあとか考えていたフリードリヒだが、ふと浮かんだ素朴な疑問を口にする。

「ふああ……ね、エリッサは、子供、いるのー?」

「残念ながら、昔、事故に遭い、子供を授かれなくなってしまいましたわ。
ですが養子ならばおります」

「そ、うな……んだ」

 聞いてはいけなかった気がしたフリードリヒは、ごまかすように食事を再開する。
  
「くあぁ……うう……でも、体力て、どうやって……つけるの?」

「そうですね……まず軽く、近くの庭でも歩きましょう。少しは日に当たるべきです」

 とはいえ、北方生まれのフリードリヒが、アルヴァの日差しを直に浴びては毒だ。
 エリッサは日傘を持つよう他の侍女に言い付けていると、フリードリヒがいつになく、驚いた顔をしていた。

「外、出て、いいの?」

「……はい?」

 王妃の言葉に、部屋中の侍女たちが一斉に主を見る。
 エリッサが戸惑いながらも、返事をする。

「ええ、もちろん……というより、あなた様はいつでも、この王宮内をお好きに歩くことができます。城外は難しいですが……」

 うんうん、と他の侍女たちも頷く。
 フリードリヒは子供みたく瞳をきらきらさせて、聴き入る。

「ほんと?……わ、わ、いいなあ」

 貴方のことを話してるのよ、という一言を飲み込み、エリッサは引き攣った作り笑いを浮かべた。

「喜んでいただき、ようございましたわ。しばらくは私たちが付きますが――」

「え、うん……いいよお。外出ていい、んでしょう?」

 身を乗り出し、寝台から落ちそうなフリードリヒをなだめ、侍女たちは準備を始めた。
 誰かが思わず、おいたわしや、と呟いたが、憐れな主は気付かない。
 王妃の寝室を出、廊下をゆったり歩いていると、医師が待っていたものらしい。庭に出る途中で合流した。

「王妃様、大丈夫でしたか?」

 何が、とは聞いてこない。フリードリヒはわずかに首を横に振る。

「びっくり、しました……怖かった、です」

「それは、申し訳ございません。急いてしまいましたね」

「いえ、お医者様の、せいでは……もっと神さまのことを、教えてほしい、です」

 再三頭を下げる医師に、フリードリヒは慌てて釈明。

 北のリウォイン王国は教会とたいへんに仲が悪く、北方の人間は神学を修める機会は無い。
 おまけに無知なフリードリヒでは、だいぶ衝撃が大きかっただけだ。今回を機に、もっと神と、自分を知ろうと、フリードリヒは決めていた。
 医師はまだ心配げな顔をしていたが、渋々といった感じで頷く。



 庭園は思っていたよりも近場であった。
 まだ本格的な夏を向かえてはいないが、慣れない日差しと暑さに、フリードリヒはたじろぐ。

「……無理」

「そうおっしゃらず、庭師が丹精込めた花が美しいですわ」

 諦めかけた王妃を、侍女たちが言葉たくみに誘う。
 実のところ、接待用の庭園は、優秀な侍従も好きには歩けない。
 楽しんでいるのはどちらやら、日傘を開き、扇で主に風を送りながらも、彼女たちの笑顔は無邪気であった。
 石畳の通路を歩きながら、綺麗に整えられた垣根や、アルヴァ固有の花を見る。

「ふえー……すごい色」

 原色の絵の具をそのまま塗り付けたような、鮮やかな花びらが、フリードリヒの瞳を刺激する。
 中には、毒でもあるんじゃないこれ?と言いたくなるほどのものまで。

「……おや」

 医師が何かを見つけ、地面に手を伸ばす。拾ったのは、白い小さな花。
 無惨にも根本から剪定され、花びらも一部無い。

「……それ、どうしたんでしょう」

「ああ、これは野薔薇です。この花は不吉なものですから、処理しなければなりません」

「へえー、知りませんでした」

 教会の力が強いアルヴァでは、こういった細かな教えも、忠実に守っていた。
 医師は野薔薇を白衣の懐に仕舞った。

「お、医者様は……教会の方なのですかー?」

「ええ、司祭として神学を修めましたが、私は多くの人を救いたく、医師になった次第です」

「すごいですねー……ふあああぁ……」

 立ち止まる方が暑いと、ようやく学習したフリードリヒは、のろのろ歩き初める。
 時たま、石畳に爪先を引っかけては転びかけ、エリッサに支えられた。
 十分ほど歩いたろうか。ついにフリードリヒが音をあげた。

「……脚、いた」

 それを聞いた医師が、木製の折りたたみ式椅子を組み立てる。

「王妃様、こちらに……恐らくは筋肉痛でしょう」

 座ったフリードリヒは、経験の無い痛みに不安がった。医師はひざまずき、細い脚を軽く揉んでやる。

「泣くほど痛みましたら、言ってください。歩けるなら、大丈夫です。暑さに慣れるためにも、なるべく毎日歩きましょう」

「……ふうん」

 正直、痛みには慣れかけていた。
 どちらかといえば、身体中の痣や、酷く扱われた肛門の方が痛みは上だ。

 医師はさらに脈を測り、眼を診察。真剣な目つきは、異常は絶対に逃さないと言わんばかり。

「……大丈夫そうですね。なるべく水をたくさん飲んでくださいね」

「はあい……くあぁ……ああ」

 もはやフリードリヒは、医師の忠告を半分も聞いてはいなかった。意識を現実に留めようと必死だ。

「……もう限界かしら」

「ですかね。まあ初日はこんなものでしょう」

 フリードリヒを半ば無理矢理立たせ、寝室へと戻る。
 エリッサは妃を部下に任せ、医師と小声でやり取りをする。

「これから、さらに眠る時間が延びます。その末は、永劫の眠り、静かな死です」

「なんとかなりませんの? せめて、世継ぎが生まれるまで」

「その為に、私は呼ばれました。お任せ下さい、術はあります」


 歩いては食う寝る、を繰り返した結果だろうか。一週間後には、フリードリヒの食欲は目に見えて増え、血行も良くなってきていた。
 慢性的な栄養不足および運動不足の解消からか、自然と文字の読み書き勉強も進む。

 だが、眠る時間も日に日に増えていった。
 本人はおろかロメンラルの侍従も、フリードリヒの睡眠時間を計測などしていなかったらしい。
 これは医師がエリッサに言い付けて初めて明らかになったものだ。
 うっかり意識を飛ばした回数、昼寝の総数も合わせると、人間こんなにも眠れるのかと唸りたくもなる。
 医師は医療記録を読み直し、だが患者に余計な不安を抱かせないよう、嘆息は飲み込む。

「ふあ……ぶぅえっくしょい!!……うえー」

「あらまあ、景気の良いくしゃみですこと。ですがもう少し、紳士的におすませなさいな」

 意外とおっさん臭いくしゃみを咎めながら、エリッサはハンカチでフリードリヒの鼻水を拭う。
 まるで親子だと主従を見ていた医師だが、仕事を思い出し、妃に向き直る。

「申し訳ありませんがエリッサ殿、席を外していただけませんか?これは教会的にも内密の話ですので……」

「わかりました。扉の前で控えております……皆、手を休めて着いておいで」

 エリッサが部下に呼びかけると、侍女たちは仕事の手を止め、侍女頭に続く。
 途中で妃に一礼する者や、新しい水差しを置いていく者もいた。
  
「いい侍女たちですね」

「はい……みんな優しいです」

 フリードリヒは心底から、自分の世話をしてくれる者を誇らしく思っていた。
 侍女たちも、妃のそういった素直な部分を好んでいるのだろう。
 良い主従関係だと感心しつつ、医師は懐から一枚の便箋を出して広げる。

「現世と神域。その境で神と会話をするのはあまりにフリードリヒ様のお体に負担がかかりすぎるようです」

「う、はい」

 一日中眠るという行為は、意識だけではなく、体にもよくない。
 こんなことを何度もこなせば、運動をしたとて、無駄になってしまう。

「ですので、ケツァルコアトル様の一部を、こちらに顕現させようと思います」

「けん……げん?」

「ええ、神とはいわば、力そのもの。一部をこちらに召喚するぐらい、わけもありません。
やり方は同僚に教わりました……あとは、フリードリヒ様が私めに命じるだけです」

 恐らく、医師の持つ便箋にその方が記してあるのだろう。

 フリードリヒはしばし迷った。
 正直、ケツァルコアトルと話すのは辛いものがある。
 とはいえ、先に進まずにうやむやにするのもどうだろう。

「あ、の……一人だと不安、なので……」

「大丈夫、私もおりますから」

 その一言で、安心できた。何も自分一人で決めなくてはならない事ではない。

「んと……じゃあ、お願いしま、す」
  
 医師はそれを聞くと一礼し、流れるような動作で小刀を取り出す。

 何を、と聞く間もなく、医師は躊躇なく自身の掌を切った。

「ひゃっ」

 怯える妃を無視し、血まみれの手で聖印を握る。
 便箋の内容を、声なき声で口上を唱える。

『――“翡翠ひすいすすぎ"を招聘す』

 フリードリヒにはその一言しか聞こえなかった。
 耳鳴りがひどく、また、どこか落ち着かぬ気分となったからだ。

――よろしい、承認します

 内から声が込み上げた瞬間、全ては終わっていた。

「……ふあ」

 花の甘い香が、フリードリヒの鼻をくすぐる。

「成功いたしました」

 医師が手を止血しながら、ご覧なさいと、フリードリヒの寝台を見る。

「……はえ?」

 フリードリヒのひざ元、白いシーツの上に、碧い羽が非常に美しい、一羽の翡翠かわせみがいた。

 翡翠は愛らしく一鳴きし、フリードリヒを見た。

「か、可愛いです……」

「ええ、可愛いですね」

『して、わたしの愛しい子。何用ですか?』

 翡翠が言葉を発すると、フリードリヒは驚きに目を見開き、興奮ぎみに盛り上がる。

「わ、喋ったっ。お医者様、すごい、賢い小鳥さんですっ」

「ええ、よくできていますね」

「皆にも、見せたら喜ぶでしょーか?」

「んー……残念ながら、小鳥さんは、私とフリードリヒ様にしか見えません」
  
「そうですか……残念です……陛下も喜ぶかなーって、思ったのですが……」

 暴挙極まる王の場合、喧しいとか言って焼鳥にするのは目に見えているが、純真な妃の前でそのように無粋なことを言うはずもなく。

「陛下は貴方様がいれば充分でしょ……いった」

 無視され続ける翡翠が堪えかね、医師の手をつつく。

「ああもう……フリードリヒ様、こちらがケツァルコアトル様、の化身です」

「……え?」

 角を持ち、花を纏う神の面影なぞ全く無い。
 フリードリヒは翡翠をまじまじと見つめる。

『この声を忘れましたか、わたしの愛しい子』

 翡翠の発する声は、たしかに聞き慣れた神のものだった。

「ケツァルコアトル様ー!」

『ですから、先ほどからそう……まあ、あなたの思考が少し遅いことは知っています。して、わたしと何を話すのですか』

「……え、と」

 そういえば、そこまで考えていなかった。
 早く何か言わねば、とフリードリヒは足りない脳を必死に回転させる。

「フリードリヒ様、急がずとも、神は逃げませんよ」

 見かねた医師が、やんわりと落ち着かせる。

「……はい。あの、ケツァルコアトル様は、何故わたくしたちに憑くのですか?」

 祝福でも、呪いでもない。使命の代行者だと、神は言った。
 ならば真意は何か。医師も興味があるのか、真剣な表情。
  
『端的に言えば、歪みを正すため』

「言葉の端を繋げて惑わすのは、よしてください」

 医師が眉を潜め、なんと神に意見した。
 恐れを知らぬのか、翡翠に臆することはない。

 ケツァルコアトルも怒ることなく、器用に首を横に振る。

『まだこの子には早い。わたしの愛しい子よ、あなたには、多くの哀しみと、さらに多くの選択が来たります』

「……はい」

「どうか決断を惜しまないで。わたしを受け入れれば、人をこえる力を――」

 翡翠の小さな体が、医師の手に押さえこまれた。

「私がお傍にいる限り、この方を連れていくような事はさせません。絶対に」

「お、医者様……」

 フリードリヒは慌てて医師の手を取り、ケツァルコアトルを助け出す。

 翡翠は少し羽ばたき、フリードリヒの手の上で鳴いた。

「わたくしは……わたくしは、陛下と……皆と、いたいです」

 左手首の腕輪を一瞥し、妃は婚礼儀式の誓いを思い出す。
 実際、ロメンラルにいた頃よりも、今はとても充実していた。

「今日は何を、するんだろーって、今日は何を話そうかってー、考えたの、初めてなんです……」

 それはフリードリヒが生まれた時から共にいる神が、一番よく知っていた。
 ゆるゆると精神を蝕む孤独から逃れたフリードリヒは、この楽しい日々を無くすことを、何よりも恐れている。
  
「んと、ですからあの、今のままが……いいです」

 翡翠は首を傾げた。二人の様子を、医師が不安げに見つめる。

『それが選択の結果ならば、わたしは介入しません。ですがわたしは、使命と役割を果たさねばならないのです。その時が来たら、また』

 翡翠は羽ばたき、空気に溶け込むように姿を消した。

 残された王妃は、泣きそうな表情で医師にすがる。

「どう、しましょー……ケツァルコアトル様、お、怒ってませんよね……?」

「そこですか。大丈夫です、王妃様は神の寵愛を受けていますから、そのぐらいでは怒られませんよ」

 医師は安心させるよう微笑みかけ、フリードリヒの枕元にある呼び鈴を鳴らし、侍女たちを呼び戻した。





 執務室では、エンディミオが検査済みの手紙や書簡を読んでいた。
 膨大な紙の山を、最初の三行だけ読んでは机の端に捨てる。

 本当ならば文官の仕事だが、新婚とあり量が尋常ではないため、王にまでまわってきた。

 くだらない仕事だと思いつ、だが投げるわけにもいかない。エンディミオはひたすら作業を続けた。

 個人や団体、企業ならば文官が見るが、公爵や他国の王族からはエンディミオが担当する。
 マーガンエン公国からの祝いの手紙を投げ捨て、次の手紙の差出人を見た時、黒獅子王の手が止まった。
  
 封筒を閉じる蝋に押された紋章と、差出人を再度確認すれば、確かにロメンラルからであった。
 だが差出人の名はアレックス・ケーフィンとある。伯爵の名はフランツのはずだ。

 改めて手紙を読み、エンディミオは宰相を呼び付ける。

「陛下、どうなさいましたか」

「読め」

 手紙を押し付け、宰相が読み終えるまで待つ。
 手紙を返したダイケンは、沈痛な面持ち。

「陛下……どうなさいますか」

「どうするも何も、そのまま王妃に伝えろ」

「それはそうですが……とはいえあの方はまだお若い」

「それがどうした」

 ぞんざいに言い放ち、エンディミオは作業に戻る。
 ダイケンは一礼し、もう一度手紙を読み直す。

「私が直接、お届けしてもよろしいですか?」

「好きにしろ」

 許しを貰い、宰相が執務室を出る。
 足早に王妃の寝室に向かいながら、ダイケンは溜息をつく。

 手紙の内容は、ロメンラル伯フランツ・ケーフィンの訃報であった。

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