Ruf


 数日が経ち、ユーマイル公爵が帰国の途に着く日となった。
 フリードリヒは兄を警戒し、部屋から一歩も出ずにいたが、すっかり空振りだった。

「王妃様、どうかお元気で。いつまでも健やかでありますように」

「ありがとう、ございます……。あの、兄は」

 辺りを見回したとて、兄の姿はなかった。
 老公は微笑み、答える。

「御令兄ならば、所用で先に帰国しております。急を要したためご挨拶に伺えず、誠に申し訳ありません」

 そういうことなら、と王妃は深追いはせず、無理やりに自らを納得させた。



 妃が御子の様子を見に行くと言うと、珍しくエンディミオが付き合った。
 嬉しくなったフリードリヒは、軽い足取りで夫の隣を歩む。

「お姫様は、とてもお元気なんですー。王子様は、めったに泣かない強い子でー」

「それは何よりだ」

 魔女の使いが去ったことで、王の機嫌はすこぶる良いらしい。フリードリヒがその屈強な腕に触れようと、振りほどくことはなかった。

『殺意の慟哭が聞こえる』

 幸福を噛みしめていたフリードリヒに、不吉なる声が降りかかる。
 立ち止まり周囲を見る妃を、エンディミオは不振に思い、銀髪を引いて自分の方を向かせた。

「何事か」

「え、あ……」

『上だ、来るぞ!』

 反射的に上方に首を巡らせるフリードリヒ。
 紺の軍服の男が、文字通り降ってきた。

 エンディミオは傍らの妻を払い、腰に下げた軍刀を振り抜く。

 刃が接触し、擦り合う音。全体重を乗せた一撃すら、黒獅子王は退けてみせた。だが返しの刃を食らうほど、相手も素人ではない。
  王に追従していた衛兵らが、急ぎ槍を敵に向ける。
 その行動を遅いと一喝し、暴虐王は剣を構えた。

「魔女の置き土産か」

 暗殺者は獣のように床に四つ足で這う。
 殺意に燃える藍の瞳。相手の容貌が妻に似ていることを、エンディミオは苦く思った。

 多勢に無勢。しかし鵲伯爵は臆することなく、黒獅子王に飛びかかる。

 わずかな音も立てず、気配をおくびも察知させず。もしフリードリヒが不振さを見せなければあるいは――

 ならば容赦をしてはならない。

 短剣を歯でくわえたローレンツは、王の振るう軍刀を、絶妙な角度から掌底を打ちて刃を折る。
 特別誂えでないとはいえ、一撃で武器を砕く技術。これほどに優れた暗殺者も、そういない。

 横合いから穿つ衛兵の槍を、猟師は最小限の動きで避け、兵の延髄に痛烈な蹴りを浴びせる。

 王には近づかせまいと、衛兵がローレンツに殺到。
 ローレンツは無力化した、衛兵の大柄な体を踏み台に跳躍。短剣を逆手に持ち、王に向ける。

 体勢を変えられぬ空中からなど、愚か者のすることだ。
 先を争うように、槍が次々に暗殺者を狙う。

 だが鵲伯爵は、穂先が肩や脇腹、大腿を削ろうとも怯むことなく。槍の柄を踏み、袖口から剃刀を出し、間隙を縫うように投擲。

 鎧の間接部や顔を裂き、兵らの歩みがわずかに淀む。飛来した刃は、エンディミオのまなじりをも掠めた。

 衛兵の体を踏みつけ、血を撒きながらも、鵲伯爵は王の喉ば裂かんと向かう。その姿は、幽鬼の如く凄絶であった。

 しかして兵たちは、十分に時間を稼いだ。

『魂拐う夜の風、混沌の闇。貴き肉を喰うために生まれ、帰還した風に喰われて死ぬ者――』

 迷いなど振り切った。たとえ血を分けた兄弟だとしても、王を害する者を許してはならない!

『――待つ母の眷属“漆黒による変革”を招致します!』

『くらった刃は、返す主義でな』

 戦神テスカトリポカは、ロメンラルの紋章の入った短剣を投げる。
 短剣はローレンツの右目を切り、衛兵の鎧に当たり床に落ちる。

 突然の攻撃に混乱する猟師。その隙を逃すはずもなく。
 エンディミオは一歩踏み出し、ローレンツの顔面を拳で殴った。

 もろにくらい、鵲伯爵は床に転がる。起き上がる前に、エンディミオは短剣を持つ右腕を踏みつける。

「ッ……」

「お待ちください、陛下!」

 エンディミオが兵から差し出された剣を、ローレンツの首に当てる。衛兵を振り払い、フリードリヒは兄のそばに膝まずく。

「兄様、どうか答えてください。どうして……このようなことをするのです?」

 答えの如何によっては、ローレンツの極刑は延びるかもしれない。
 仮にも王妃の血縁である。そうそうに首を切ることはないはずだ。

 しかしローレンツは黙したまま、答えようとはしなかった。
 ためしにエンディミオが相手の腕が砕けるほど踏みにじっても、苦鳴を漏らすのみ。
  
『口を割らせたいのか?』

 嘘でもよい。兄の犬死だけは、回避せねば。フリードリヒが頷くと、戦神は嫌らしく笑い、唱えた。

『ならば聞かせてやろう。声なき声、その絶叫を――来い“黒鳶に流るる罪”』

 テスカトリポカの大腿に絡まる黒蛇が、大きく口を開く。
 顎を外した蛇の口腔から逆さまに這い出すは、糞尿の混じった泥で化粧した醜女だった。

 あまりの醜さに絶句するフリードリヒを笑い、テスカトリポカはよしよしと醜女を撫でる。

『これはわたしの付随機能、トラソルテオトルだ。いじらしく可愛いだろう』

 いや全く、とは言えず、フリードリヒは目を反らす。
 トラソルテオトルは手をローレンツの方に掲げ、粘りつくような声を発した。

『告げよ。赦しを得、罪の浄化のために』

 するとローレンツは、わずかに震える声で話し始めた。

「お前の預言は……人を、狂わせる」

「兄様……兄様、もうやめよう……。どうかヘルガ様の命令に、反抗してください」

「この期に及んでまだ……女王のご意志だと……」

 藍の目に殺意が戻り、ローレンツは叫ぶように弟を責め立てた。

「違うな……俺の殺意は俺のものだ。
こうなることはわかっていた……神憑きを世に出した罪で、俺がお前を殺さねば、家はとり潰される」

 たとえロメンラルが自治を認められていても、伯爵家は女王への忠誠により保ってきた。
 ローレンツの言葉は、もはやどちらに転んでも、ロメンラルの終わりを意味する。
 たとえ王妃の出身地でも、アルヴァには他国の辺境を守る利点は無いのだ。
 ローレンツは嘆いた。それは世界に対する問いかけだった。

「な、ぜだ……なぜ俺と父が死に、お前が生きる……何が違うんだ」

「そんな……そんなことは!」

「皆が言うわけだ……神憑きは不吉だ、最悪だ……」

 エンディミオが舌打ち、ローレンツの頭部を蹴った。衛兵に連行するよう命じ、会話を打ち切る。

(ならば、せめて俺の血が、この不条理に鉄槌を下せ……命は、惜しくない)

 悔しい悔しいと、心は血を流したまま、ローレンツの意識は閉ざされた。







 白い繊手が、どこか艶かしい所作で扇を畳む。
 扇を口許にあて、形のよい唇を動かす。

「たしかに、魔王の預言ね」

 脚を組み替え、美しくも残酷なる女王は笑った。
 持ち出されたアルヴァ王妃の預言。沈黙を守る鷺が、珍しく歓喜の声をあげたのを見て、ヘルガも機嫌が良くなる。

「ご理解いただけたようですね」

「ええ、魔王の存在を知らせてくれるならば、王妃さまは殺せないわ」

 魔王が誰かなど、神にすらわからない。それをあらかじめ知れる可能性が、預言にはあるのだ。

「アルヴァとの戦はしばらく長引かせてあげる。魔王が出現するまで、延々と黒獅子と遊べるのね」

「お互い、上手くやりましょう。宗主はそうおっしゃっています」

 ヘルガは友好的に、対面に座る客人に笑いかけた。

「そうね、お互い仲良く、ね」

 素早い動作で左手を翻す。その手には短鎗。
 白髪の美しい司祭に、黒耀石の穂先が牙を剥く。




「たかが暗殺者一人に負傷者を幾人も出すとは、我が軍も質が落ちたものよ」

 王の叱責を受け、栄えあるアルヴァ国軍を任される将軍は畏縮した。

 先日の事件で、王を守りきれなかったのは確か。
 かように腑抜けたままでは、リウォインとの戦どころではない。

「おそれながら陛下……本当によろしいのですか?あれを野放しにするなど」

「警戒に値せぬ。貴様が報告すべきは、国境での斥候が成果を挙げたかどうかだ」



 破壊の歌を奏で
 赤き竜を連れて
 文明を滅ぼさんと
 恐るべき魔王がやってくる

 虚無の炎に
 剣は槍は弓は熔けて
 鎧も兜も鞍も焼かれ
 双頭の獅子は火傷を負う

 終焉の音をつまびき
 魔女らを従えて
 黄昏に旗を立てんと
 地獄から孤高にやってくる

 しかし魔王よ
 あなたは虚無に呑まれ
 自らの火に焼かれる



 さらなる魔王の預言。兄の言う通り、これは人に混乱を招く。

『ほぼ確定したな』

「……え?」

 鵲が預言を見て言った。その声音は真剣で、魔王という存在が、神にとっていかに重要かを窺わせる。

『決定的ではないが……しかし疑問は残る。時を要するか』

 気まぐれな神は、それだけを言い残し、虚空に消えた。
 預言を解析できる者がいないため、紙片を見つめていると、部屋の扉を乱暴に蹴破る音。

 王宮でそのような不敬をする人物は、当然だが黒獅子王のみ。
 侍女らも慣れてきたものか、冷静に出迎える。
  
「……後悔をしているのか」

 エンディミオの問いかけに、妃は頭を振る。
 不思議と涙は出ない。ただ静かな悲しみを受け入れた。

 もしあの時こうしていれば、などと愚かしい言葉は、言えるはずもない。フリードリヒは神を使って、兄弟を傷つけたのだ。

「優しい方だったのです……とても」

 神憑きたる自分にも愛情を向け、様々な物事を教えてくれた。その思い出が消えることはない。
 エンディミオは余計なことは聞かず、憎しみの先と、これからの覚悟を問う。

「魔女は私に刃を向けた。斥候はすでに国境に向かっている」

 戦争の理由は十分にある。民衆からも、兵の志願が多数出ている。
 戦乱は始まる。個人の力などでは到底止められぬ、巨大な憎しみと悲哀の嵐が。

「何があろうと、私に追随する覚悟はあるか」

 白鷺王と決着が着くか否かの大戦争が予想される。
 多くの苦しみが降りかかるだろう。エンディミオ自身が戦死しないとは限らない。

 フリードリヒは黙ったまま、と思いきや、隣に座す黒獅子王に抱きついた。
 エンディミオは引き剥がすことはせず、妻の言葉を待つ。

「わたくしは……あなたの隣で死ぬと決めています」

 死の何が恐ろしいのか。我らは血肉に塗れて生まれるというのに。
 父から教わった言葉の意味を、フリードリヒはようやく理解した。
 臆すことなく死を受け入れ、国のために手を血に染めてきたロメンラルの当主達。
 誇りはローレンツに受け継がれ、そして鵲伯爵はやってのけたのだ。

 涙に滲む瞳を見られることを嫌がり、フリードリヒは王の厚い胸板に顔を押しつけた。




 一兵卒の出入りする、ろくに掃除もされていない城壁の裏口から、賎しい身なりの男が追い出された。

「おら、さっさと出ていけ! 汚らわしい」

 背後から兵に腰を蹴られ、男は地に倒れる。
 男は満身創痍だった。腕を吊り、右目を覆う布は、乾いた血で赤黒い。

 下賎の輩は、這いつくばったまま嘔吐した。
 血の混じった胃液に、短剣に小刀、針なども出る。

 男は刃物を掴み、苛立たしげに地面に投げつけた。しかし金属筒だけは、手放すことができなかった。

 みじめに生き長らえた命で歩き出す。アルヴァでは暮らせないし、リウォインに帰ることもできない。
 行く宛てもないまま、だが留まる場所も得られず、彼は死ぬ。
 金属筒を開け、中に入っている紙片を広げる。

「憐れな愛し子よ……あなたの父は人殺しだ……」


故にあなたは一族の業と
そして番いの業を背負う
過ぎた孤独はあなたを狂わす
自ら永遠の眠りにつく前に
虚無があなたを呼ぶ
果てなき地獄へと


「――弟よ、これは、俺の破滅の預言か……?」

 脚を引きずるように、あてもなく歩く。声をあげることすら奪われた哀れな猟師は、何処へ往くのだろう。

 されど彼らはいずれ、舞台から追いやった者から血の報いを受ける。
 不条理に裁きを願う、何者にも顧みられなかった男の血に――









 灰と土にまみれの手で広げた紙は、経年劣化を感じさせないほど質が良い。とても厳重に保管されていたのだとわかる。

 文字をなんども反芻して読み込む。男の口から思わず笑みがこぼれた。

「たしかにこれは、魔王の預言だァね。いやまさか、本物を拝めるとは」

「その意味が理解できる者こそ、私の求めた人物だ」

 灰で斑になった赤髪を掻くたびに、ふけだか土だかが落ちる。腐臭すらただよう、不潔極まりない男に、臆すことなく話しかける青年。

「で、なんでアタシなんだィ? アタシは墓を掘るしか能のない、ただの墓掘りだよォ」

 周囲には白木の杭が乱立している。また男の足元には、事故で亡くなったであろう死体が横たわっていた。損傷が激しく、はらわたが割かれて中身がない。

「北方の女王は論外、森の賢者は森から出ないと聞く。……将軍は、たかが一個人の裁量では動かせない。
近隣の村人から、お前は死体を求めて様々な地を徘徊し、金にがめついと聞いた」

 金貨の入った袋を渡す。紙を返し、袋の中身をあらためた墓掘りは、驚きに声を上げた。

「こんなにくれるってェことは、なにをやらかすんだィ」

「私はこの預言に記された、王国の滅亡を止めなければならない。偉大なる預言者に託されたのだ。
そのために知恵をかしてほしい、病と腐敗の魔女よ」

 魔女と呼ばれた男は下卑た声で笑った。青年の態度は真剣そのもので、嘘を吐いている様子は微塵もない。
 魔王か、と男はつぶやいた。降臨の預言があるとは知ってはいたが、かの青年は、その存在を国の危機として打倒しようとしているのだ。

 果たして、この青年の周囲で同じ考えの者などいただろうか。ともすれば、こんな預言は妄想話、夢物語の一部だ。

「いいぜェ旦那ァ、楽しく見物させてもらうとしようじゃァないかァ」
(というか、こいつがいちばん魔王に近いか。なんだその霊質適応、識閾値。人間離れしすぎている)
「んで、どこ行くのォ? 魔王はどこにいるのやら」

「魔王の出現前に、対抗手段を手にしなくては。確実に接触できる神――ゲヒノム大砂漠に封じられたアザゼルを求める」

 墓掘りの準備の手がはたと止まる。この青年はなんと言った? ――砂漠。ここは国境沿いとはいえ北国リウォインだ。
 別の国に行くだけならばともかく、砂漠とは遠すぎる。ひと月そこいらで終わる旅ではない。

(あっこのひと行動力の化身なんだあ)「旦那ごめん、やっぱこの話はなかったことに」

 断りの言葉を言い切る前に、青年は強引に魔女の腕を取り、肘の関節を極めた。

「ああででででで! なにすんだァ!」

「無理にでも連れて行く」

「だからって関節はやめろってェ! おおあだだだだだ」

「関節技こそ王者の技よ」

「あっ旦那実はおもしろいやつだこれえええええ」



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