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 むかぁしむかしのはなし。
 とある豊かな南の国の王様は、たいへんに勇敢で、とんでもなく残酷でした。
 その武芸と軍事はどのような戦にも負けませんでした。だから国にとっては英雄です。
 王様は誰にも厳しく、心を開かなかったので、嫁いだ妃は皆、逃げてしまいました。

 このままではお世継ぎがいません。
 困った宰相や大臣たちは、とある北の小国の姫を召しました。

 どこの国も嫌がる、かの王様の妃を、その姫だけが申し入れたのです。
 けれどもやっぱり、姫も普通とは違いました――






 大陸中、探しに捜しつくした妃を迎えるというに、王はいかにも面倒くさいとばかりに、まだ猶予のある書類に目を通している。

 浅黒い肌の筋肉は逞しく、歴戦の軍人として戦ってきた傷跡は数え切れぬほど。
 黒い眼光は鋭く、周囲を世話する侍従らは、王の機嫌を損ねないよう細心の注意を払う。
 その堂々とした佇まいは、政治家としても武芸家としても、誰もが認める申し分ない王者。
 ただ人間としてはいまいちだ。

 筋の通った意見なら聞くが、ただの我が儘ならば許さない。
 実家の財産を動かしたり、勝手に外を出歩いたとかいった理由で反逆者と罵られ、殴られた元・妃は今まで四人。

 そのうち三人は国へ逃げ帰り、一人はこの世から逃げた。
 大陸南部に位置するアルヴァ王国は、作物が豊富で、余裕があることから、男女の差別なく民は暮らしている。
 むしろ、実力主義を旨とするが故に誰にも上にいける機会がある。
 そんな国に嫁いだのに、こんな暴力的な夫とあっては、逃げたくもなるだろう。

 噂は大陸中に広がり、ついにどこの国も、嫁を出してくれなくなった。
 妃など所詮、人質のようなものだが、王があんまりにも暴虐にすぎて誰もが躊躇するのだ。

――曰く、牛に嫁いだ方がましだと

 だが世継ぎは必要だ。
 宰相や大臣が必死で探すおり、大陸北方のリウォイン王国はロメンラル辺境伯がそれに応えた。

 三人の子のうち、末子を嫁がせるという。
 ロメンラルなど、アルヴァ人は聞いたこともないような辺鄙な土地だ。
 実際、四方を山に囲まれ、農地は少なく特産品もない。おまけに昨年の猛吹雪により困窮を極めている。

 宰相は密かに、国のために売られる末子に同情した。もはや未来は暗い。
 せめて自分や周りの侍従たちが心の支えになればよいが――


 と思ったおり、馬車が前方からやってきた。
 長旅で傷んだ車輪が閲兵場の前で止まり、中から三人の侍女が出てきた。
 侍女に支えられ、静々と、細身のまだ少年の域を出ない人物が現れた。

 彼こそがロメンラル辺境伯の第三子。死人のように白い肌に、銀の髪はアルヴァ王国ではあまり見ることのない人種。


 慣れぬ暑さや長旅で疲れているのか、ふらふらと危うい足元。
 時折転びかけては、侍女たちに支えられている。
 そんな彼の様子を見て、宰相をはじめ周囲の衛兵や侍従たちは、はらはらしていた。

 小刀や肉刺しより重いものを持ったことがなさそうな細い手足は、軽く捻れば容易に折れそうだ。

 いかにも箱入り息子な彼に、王の暴虐が耐えられようか?
 へたをすれば王がうっかり殺してしまうやもしれぬ――
 そこまで考えたところで、ようやく姫が王の前にひざまづいた。

 重要な対面儀式であるから、さすがの王も弁えている。きちんと妃になるであろう者を見ている。

「えー……ロメンラル伯、第三子、フリードリヒ・ケーフィン。ただいま馳せ、参じ……ふわあああぁ……」

 フリードリヒと名乗った少年は、なんと王の前で大欠伸をかました。
 それも恥ずかしげもなく、思い切り口を開いて。

 その場にいる者すべてを戦慄させながらも、フリードリヒは口上を述べる。

「ふうぅ……あー、誉高きぃ、アルヴァこくおー陛下の、妾……じゃないー。妃としてこれほどに、喜ばしいこ、と、は……ぐう」

 膝をついたまま、フリードリヒは寝た。
 それはもうぐっすりと。

 誰もが何も言えないでいる中、王だけは違った。
 靴先でフリードリヒの白い顎を捕え、顔を上げさせる。

「……んあ?」

「なんとも失礼なものを寄越したな伯は。私に攻め入られても文句は言えぬぞ」

 まだ婚礼も執り行っていないというのに、なんという暴言。

 国際問題に発展しかねない王(と姫)の行動に、宰相や大臣たちが焦りはじめた。

 だが姫は今の状態を気にもせず、舌足らずな口調で話す。

「んと、もーしわけございません、陛下。
わたくしめは……生まれつき神に憑かれておりますゆえー、このよーに意識を、もってかれて……しまうのですー」

  
 その言葉に、無表情を貫いていた王も目を見開いた。

 王の周囲に至っては騒然としている。
 慌てて宰相がフリードリヒに問いた。

「神憑き……だというのですか?」

「はい。お陰様でー、ずっと眠たいです」

 しっちゃかめっちゃかな返答をするフリードリヒはさておき。
 神憑きとは、神に魅入られ、常に意識を神の世界に縛りつけられる者のことだ。

 神憑きを庇護すれば幸運が訪れ、万能たる神の預言を聞くことができるという。

 王の伴侶にこれほど相応しい者もいない。
 宰相は緊張と興奮が混ざった面持ちで、フリードリヒに一礼した。

「我々は貴方を歓迎します、フリードリヒ様。婚礼儀式の前に、我が国の客人としておもてなしさせていただきます」

「あー、それはー、ありがたき幸せ」

 頭を下げようとしたフリードリヒだが、王に顎を捕えられているため叶わない。

 宰相が何事か言おうとしたが、それを遮り、王が発言。

「真に神憑きというならば、なぜロメンラルは困窮している?
慈愛深く保護されていればよいではないか」

「……文化が違いまする、王よ。北の諸国では――」

「宰相ダイケン、お前に聞いてはいない。さあケーフィンよ、応えろ」

「……北方では、神憑きは、おそるべき存在ですー。ですので……」

 そこまで言わせて、王は言葉を中断させた。

「相わかった。人身御供の子よ、私の妃となるからには忠誠の誓いを立てよ」

 そんなものはないぞ、と宰相は慌てたが、王が目線で邪魔をするなと語る。
 何も知らない少年だけが、無垢に誓いを立てた。

「強国アルヴァのエンディミオ・ゾンスト=ジリオムダール陛下。黒獅子王様。
わたくしは、生涯のすべてを、一欠けら残さず、貴方に、捧げます」

 眠たい目をしばたたかせながらの――主に眠気との戦いによる――必死の誓い。
 それを見届けた王は初めて笑んだ。
 だがそれは虐げる者の笑みだ。

「そなたの誓い、嘘か真か。試してみようぞ……そうだな、舐めろ」

 誰もがうっとりしてしまう、魅力たっぷりの笑みで示すは自身の靴。
 この王は、近いうち自分の伴侶となる者に、靴を舐めよと命じたのだ。

 始まった! と宰相を始めとした周りの者たちが愕然とする。

 ロメンラルから来た侍女たちは困惑し、主人の命令を待つしかない。帰ると言われれば、もちろんさっさと去るつもりで。

 だがフリードリヒは怒るでも、泣きわめくでもなく、静かに返答した。

「喜んで」

 自身の顎を捕える足先を手に取り、恭しく口づける。
 誰もが予想できずにいた行動に息を呑む中、王だけが笑んでいた。

 だがやはりというべきか、靴に舌を滑らせる前に、フリードリヒは王の足を支えに寝こけた。

「……ぐおおう」

「……」

 間抜けな寝息に、周辺の人々が安堵のため息をついた瞬間。
 王がその足でフリードリヒの顔面を蹴った。

「……ッ!」

「きゃああっ! フリードリヒさまっ!」

 がつん、という音をたて反り返るフリードリヒを侍女たちが支える。

 衝撃と痛みで起きた少年は、変わらず呆然と王を見る。

「神憑きよ、そなたは意思さえも持っていかれたか」

「……」

 王はつまらなさそうに手を振り、フリードリヒに退がるよう命じた。





 フリードリヒが侍女たちに支えられ姿を消したと同時、宰相ダイケンは堪えきれず王に意見した。

「陛下、印象は最悪ですぞ。神憑きは妃として申し分ないどころか最大の幸運というに……」

 エンディミオは執務室に戻るため歩き出した。
 ダイケンはそれに追従しつつも意見は続く。

「もはやこれが最後の好機です陛下。お世継ぎをどうされるのですか――」

 エンディミオの鋭い黒眼が宰相を貫く。
 それに負けじと睨み返すダイケン。

 剣呑な空気が流れる中、王が珍妙なことを言った。
 
「なんだ、思ってたのと違うじゃん」

「……は?」

「お前には聞こえなんだか、あの者は密かな声で言っていたぞ。これを不敬と言わずなんと言う?」

 たしかにそれが事実とすれば、とんでもない侮辱罪だ。
 というかこの王はどれだけ耳がいいのやら。

「私がたかが眠いぐらいで怒るものか」

 それもそうだ。エンディミオは俺様至上主義で我が儘だが、筋が通っていれば受け入れる寛容さも持つ。

「とはいえ、たしかに神憑きだ。丁重にもてなせ」

「……御意に」

 妃にするかを最終的に決めるのは大臣たちではない。王自身だ。






 王の代わりに謝罪をしようと、ダイケンはフリードリヒのいる客間へ向かった。

 扉の前に近づくと、侍女の笑う声が聞こえた。
 厳冬のリウォインでは、吹雪くと家から出ることができないため、北方の人々はみなお喋りが唯一の娯楽だという。
 ダイケンは彼らに合いそうな話題をいくつか用意し、よしと扉を開けた。

「失礼します、フリードリヒ様」

 フリードリヒは長椅子にもたれ掛かり、船を漕いでいた。
 ダイケンの姿に気づき、はたと欠伸を止める。

「アルヴァ王国の宰相を務めております、ダイケン=ムルファードと申します」

「どうもー、わざわざご足労いただき、ありがとうございますー」

「いえ……それより、先程は王が失礼を致しました。
代わって私がお詫び申し上げます」

 粛々と頭を下げれば、驚いたらしいフリードリヒが動いた。

「いやー、わたくしごときに。陛下は素晴らしいお方、ですのでー、たいしたことはありません」

「……唇が切れておりますよ。後で医者をよこしましょう」

「いえこの程度はー、わたくしも男ですから」

 譲り合いでらちがあかない。ダイケンは件の一言を聞くことにした。

「フリードリヒ様。実は、我が王の地獄耳が聞いたようなのですが、『思っていたのと違う』と言われたそうですね。それは真ですか?」

「ああ、あらー、聞こえてらしたかー……あーあ……」

  あっけなく、弁解することもなく認めた。

「んと、黒獅子と呼ばれ、る王様のお姿を、ずっと夢想していた、んです……で、獅子だから猫みたいのかなーと」

 そこで耐え切れなかった侍女たちが吹き出す。

「ああ、でもあの黒く豊かな巻き毛、は確かに黒き獅子……猫じゃなかった、なあ」

「も、うもうフリードリヒ様、ご勘弁くださいませぇ」

 ダイケンはしばし、何を言えばよいか思いつかなかった。
 これが北方流の冗談なのだろうか。それともフリードリヒだけがこうなのか。

「それで、ダイケン様、用件はこれだけでしょーか……」

 フリードリヒが大きな欠伸をし、先を聞かず寝た。長旅で疲れているのかもしれない。
 ダイケンは席を立った。

「では、私はこれで。午後に彼の世話役を寄越しますので、どうか指導を頼みますよ」

 本来、ロメンラルから世話役など必要なかった。だがフリードリヒの父親であるロメンラル伯爵が、無理につけたのだ。その理由は、言わずもがな。

 普通とは違う妃の世話役は、彼女たちに習わねば分からぬことも多かろう。
 だが、ロメンラルの侍女らは、婚礼儀式の前に帰されてしまう。

 侍女頭は有能な者を指名したが、果たして大丈夫だろうか。
 ため息を飲み込み、ダイケンは王のいる執務室へ向かった。
 




 客室に用意されている寝台にて、ぐっすり眠っていたフリードリヒに来客が。
 午後に寄越すとあった侍女たちだった。

 さすがは強国の侍従とあってか、人数も多く、所作も無駄がない。
 優しげな微笑を浮かべる集団の先頭。背の高い女が、はきはきと挨拶した。

「フリードリヒ様はこちらですか」

「……はあ、そちらさまは」

 女性にしては低い声に叩き起こされ、ぼんやりと相手を見る。

「私たちはあなたさまのお世話をさせていただきます侍女です。
私は侍女頭のエリッサ=キィスと申します」

「ああ、どうもお……」

「神憑きの方とあっては、他より手をつくさねばなりません。ロメンラルの侍女たちよ、ご指導願います」

 怠惰な雰囲気を打ち壊すエリッサの態度に、ロメンラルの侍女たちも感化され、思わず姿勢が正された。

「……はあ、よろしく、お願いしますー」

「こちらこそ。なんなりとご命令を」

 スカートの端をつまみ一礼。だがその姿は、あまりに彼女にそぐわなかった。
 




 がちゃん、と音がたった後、一瞬だけ時が止まり、そして騒然とした。
 王を交えての大臣と将来の妃の会食。

 大臣たちも神憑きの者とあらば文句はないようで、珍しく和やかに食事は進んでいた。

 そんな空気をぶち壊すのは、やはりフリードリヒその人。
 眠気に負けたらしい。ちょうど運ばれたばかりのスープ皿に顔からダイブした。

 水深1センチで溺死しそうなところを、待機していた侍女たちが救出。

「フリードリヒ様、お怪我はっ?」

「呼吸はしています。大丈夫……冷製だったことが幸いしたか……フリードリヒ様、動けますか?」

「……んー」

 弱々しく頷いたのを確認したエリッサは、慌てる侍女たちに素早く仕事を命ずる。

「申し訳ございませんが、フリードリヒ様はご気分が優れないようで――」

「構わん。戻せ」

 退席を願い出るエリッサを遮り、エンディミオがさっさと命令を下した。

「感謝します、陛下。皆、湯浴みと寝台を用意しておいて」

 そこからは素早い。フリードリヒを支え、侍女集団が出て行った。
 さてエリッサも出ていこうか、とした時、何者かに呼びとめられる。


「あの者に無理をさせるな。余計な手間というものだ」

 他の誰でもない、王の命。
  
「お言葉ですが陛下、赤子を立たせることを、我らは手間だとは思いますまい」

 作り笑顔ではなく、口角を上げた笑みに、王の記憶が刺激された。

「なんと貴様!侍女でありながら陛下になんという――」

「やめよウェーメヌ公。……さっさと行け」

 人参色の短い髪を揺らし、エリッサは一礼。だが最後に一言残した。

「陛下、あの方は素晴らしいお方にございます。いずれ陛下のお目がねに叶うことでしょう」






 湯浴みを終えたフリードリヒは椅子にもたれ、夢と現の境をさ迷っていた。

「フリードリヒ様、お腹は空きませんか?」

「……だいじょーぶ」

 他の侍女が寝台の準備をしている間、まどろみに身を委ねていた。

「しかしエリッサ殿、素早い対応、お見それしました」

「いえ、それより、あの方はいつもお食事はどうされていたのです?」

 冷静沈着な侍女頭は、ロメンラルの侍女に褒められても意に介さず、疑問を口にした。

「私達はフリードリヒ様にあまり触らないよう、言いつけられていますので、いつもはご家族のどなたかが手ずから。
といっても固いものは危ないですから、柔らかいものか、煮出したものを……」

「成る程、発育不良はそのためか……」

「あの、何か?」

「いえ、なんでも。それよりフリードリヒ様はいかほどの睡眠を――」
  
 エリッサが言葉を止めたのは、何者かの気配を感じたからだ。
 この露骨なまでの存在感。ふてぶてしく登場したのは黒獅子王エンディミオだった。

「陛下、フリードリヒ様はお休みになられます。どうかこの場は――」

「……お前は一体誰に従っているのだ」

 それだけ言い放ち、エリッサの脇をすり抜ける。
 ぼんやりとしているフリードリヒの対面に座り、片手で頭を掴み目線を合わせた。

「会食さえ満足にできぬならばそう言えばよい。政務ができずに被害を被るのは、そなただけではないのだぞ」

 侍女たちが息を呑み、動きを止めるほどに、低く恐ろしい声で恫喝するエンディミオ。

 だがフリードリヒは怯えることもなく、目を伏せ、謝罪の言葉を述べた。

「……申し訳、ございません……以後気をつけます、ゆ、え……くあああぁ」

「……気になっていたのだが、そなた年齢はいかほどになる」

 急な話の切り替えにも、疑問を挟まず答える。

「……んと……今年で二十を数え、ます……」

 どう控えめに見ても十五かそこいらにしか見えない。
 めったに外に出なかったことが原因なのか。

「……そうか。失礼した、ゆっくり休め」

 聞きたいことはそれだけなのか、エンディミオは惜しげもなく退室。
  
 目敏いエリッサは、フリードリヒが目を伏せたのを見て尋ねた。

「どうされました? ご気分でも?」

「……ん」

 表情がさっぱり変わらぬフリードリヒは何を考えているかはわからない。
 だがどこか暗い目元は、エンディミオが去った後からだった。

「よろしければ、陛下に言づていたしましょう」

 そう言えば、初めて、フリードリヒが視線を合わせた。
 やはりこれで正確だったらしい。

「ん……と。謝罪と、また、お話……してほしい」

 なんと無垢な願い出か。あの王の妃にはもったいないぐらいの純粋さだ。

「かしこまりました。では早速伝えますゆえ、フリードリヒ様はお休みくださいませ」

 後を他の侍女たちに任せ、エリッサだけが客室を出た。

 エンディミオの姿はとうにない。
 恐らくは執務室だろう。走れば追いつく。

 くるぶしまでのスカートをたくし上げ、姿勢を低くしてエリッサは疾走する。

 廊下の角を二つ曲がり、階段を踊り場から飛び下りる。階下にはエンディミオとダイケンがいた。

「な、何事ですかっ」

「落ち着きなされダイケン殿。陛下は相変わらず、歩くのがお速い」

 スカートをはたき、王に一礼。
 戸惑う宰相をよそに、フリードリヒの伝言を述べる。
  
「フリードリヒ様が、会食の件での謝罪を。それから陛下との会話をお望みです。もっとお話ししてほしいなんて、可愛らしいですこと」

「そうか」

 どうでもよさそうな返答をし、エリッサを見つめる。そしてダイケンの方を見た。

「“暴れ牛エリン”――これを侍女頭に指定したのはお前か、ダイケン」

「……は」

 いずればれるのは明白だった。
 伴侶の安全を考え、退役軍人たるエリッサを侍女頭に仕立てたのはダイケンだ。

 王でさえ手をこまねいた強烈な女将軍。敵味方を巻き込む不祥事を起こし、戦場からは姿を消したが、年齢を重ねても変わらぬ嫌味ったらしい笑みは忘れるはずもあるまい。

「陛下、フリードリヒ様は非常に忍耐強い。あなたさまの最高の伴侶となりましょう」

 だが今浮かべる微笑はなんと慈愛に満ちたものか。
 フリードリヒに対する敬意の深さが伺える。

「我が軍でも潜入暗殺者を誰より斬り伏せた、お前ほどの者が言うならば、そうかも知れぬ」

「もったいないお言葉にございます」

「だが最後に決めるのは私だ。あれが神憑きだろうが、それは大した問題ではない」

 そう言い残し、振り向くこともなくエンディミオは執務室へ歩き出した。
 




 婚礼儀式を前に、アルヴァの儀礼を覚えねばならぬのだが、その勉強はとんとうまくいかない。
 よりにもよって、フリードリヒは文字の読み書きができないことが判明したのだ。

「信じられない! いくらなんでも!」

「エリッサ、怖い……あと僕、病気じゃない」

「も、申し訳ありません。ですがせめてご自分の名を書けるようにならないと、後々困りまする」

 甘やかしていたのか、放置していたのか。真相はともかくとして、妃としてこれはまずい。
 エリッサはロメンラルの侍女たちを叱り飛ばし、筆記具と紙を用意した。
 
「まず簡単な文字と、ご自分の名前を書けるようになりましょう」

「……うん」

 めんどくさげな表情ではないが、エリッサは一抹の不安を覚えた。



「フリードリヒ様、手が止まってましてよ」

「……んあ、ごめん」

 よだれを拭い、再び作業を始める。
 幼少の頃に覚えるべきものを、歳を経て叩き込むというのは至難の業だ。

 文字以外にも、儀式の段取りや口上を覚えねばならない。
 眠りに誘われてしまうフリードリヒでは、通常の何倍もの時間がかかった。
 
 何時間も粘り、湯浴み中も口上の暗記をし、久々に脳を酷使したフリードリヒは夜には疲労困憊していた。

「フリードリヒ様、今後のご予定としましては――」

 エリッサは思いの外厳しい。あまりの勢いにロメンラルの侍女たちも口を挟めなかった。

 それが自身のためを思ってのは理解しているが、ここまで構われたのは初めてのため戸惑う。

「――あら、陛下」

 飛び掛かっていた意識は、ほんの少し呼び戻された。

 対面の長椅子にどっかと座るは、黒い巻き毛が美しい王。浅黒い肌と屈強な身体、猛禽をも怯えさせるような黒い眼は、まこと黒獅子王のあだなに相応しい。

「我が妃になる者は白痴ではあるまい」

 いきなりの侮蔑に、だがフリードリヒは何も感じなかった。

 ただ神憑きというだけで教養なしなど、白痴者より情けない。

 しかし未来の妃と言ったか王は。
 エンディミオは妃を召すことに決めたのだろうか。

「……もうし、訳、ございません。より一層のー、努力をいたし、ますゆえぇ……」

 頭を下げ謝罪すると、また力強い手で頭部を掴まれた。
 そんなに掴みやすい頭なのだろうか。
 
「そのように眠り続けて、そなたは子を生(な)すことなどできるのか?」
  
「む、無論、可能です。……陛下、お聞きしたいことがあるのです」

 初めて相見えた時から、ずっと抱いていた疑問だ。
 エンディミオは何も言わない。フリードリヒはおずおずと、それを言葉にした。

「陛下は、本当に……お世継ぎを、欲しておられるのですか?」

 頭を掴んでいた手が離れた。かと思えば、強力な裏拳がフリードリヒの顔を殴る。

「陛下ッ!なんということを!この方はまだあなたの正式な妃と決まったわけでは――」

「黙れ」

 吠えるエリッサを一言で黙らせ、再びフリードリヒの頭を掴む。
 自分の目の高さまで持ち上げ、ぎりぎりと万力のように締め付けた。

「いっ……いたいたい」

「それもまた、神の預言とやらか?」

「ち、違います。わたくしが思ったままのことを口にしただけにございますっ」

 痛みにより眠気が吹き飛んだものか、いつもよりはっきりした口調で話す。

「いらぬことを」

「っ……申し訳、ございません」

「そなたは私の指針に従えばよいのだ。それ以外の考えを持つこと一切許さぬ」

「……御意に」

 ぞんざいに放られ、不様に床にたたき付けられる。
 痛みに呻くのを堪え、ひたすらに、許しを請うため頭を下げるフリードリヒ。

 その姿を卑下しながら、王は部屋から出て行った。





 ああ、ついに夜が明け、この日が来てしまったか、とフリードリヒはぼんやり考えていた。
 寝台から周りを見渡せど、心の拠り所たる、ロメンラルから共に来た侍女たちはいない。婚礼儀式の前に、故郷に帰ったのだ。

 泣けど喚けど、今日がその婚礼儀式。
 王の妃として、子を成し、時代への礎となる。
 はて、それは礎というほどに大層なものだろうか。

 フリードリヒは、神憑きという幸運を背負うた人身御供。
 これからは、王の道具、国の贄となるのだ。

 そのことを再確認し、フリードリヒは眠りについた。

「フリードリヒ様っ! おはようございます! 早速準備いたしましょう!」

 が、すぐさま起こされた。

「……はあい」

 あまりの眠気に、抵抗する気さえ起きないフリードリヒは、従順に寝台から降りる。

 侍女たちに化粧台まで引っ張られ、髪を梳かされ、服を脱がされる。
 アルヴァの国旗の色である、赤と黒の軍服を着させられる。
 落ち着きのある濃紅の地は、そんなに派手ではない。黒のラインや釦も相まって、式の主役にしては簡素な方だ。

 軍事国家一歩手前とは聞いたことがあるが、こうも質実剛健とは。
 かつてフリードリヒの兄が軍の式典用だと見せてくれた礼服は、とても豪華で美しかったことを思い出す。

「ふふ、お似合いですわ」

「んと、ありがと……」

 いつもとたいして変わらない気がしたが、褒められたので素直に礼を言う。

「フリードリヒ様、帯剣はできますかしら?」
 
「……え」

 エリッサの持つ剣に、フリードリヒは驚愕した。

 剣はおろか、小刀や肉刺しもめったに手にとらない。
 近頃持ったものといえば、羽ペンと紙ぐらいだ。

「模造の細剣ですので、そこまで重くはないはずです。少しお待ちくださいませ、着けてみますわ」

 されるがまま、フリードリヒは生まれて初めて、帯剣した。

「……わわ」

「大丈夫、ですか?」

「うん。だい、じょうぶ」

 少し危ういが、眠気から来る歩行の覚束なさはいつものこと。

 フリードリヒとしては、初の帯剣に感動していたのもあって、少しの無理はへでもなかった。

「それはようございました。では、行きましょう、陛下がお待ちです」 

「……うん」







 フリードリヒとエンディミオが、初めて相見えた閲兵場。

 二人は再び、そこで相対した。

「……陛下」

「口上は覚えたか」

「……あの」

「まだやることはある。途中で寝こけたら容赦なく殴るぞ」

「……その」

「エリッサ、それを座らせろ」

 のんびりしたフリードリヒの言葉なんぞ待たず、てきぱきと命令を下す王。
 すごいなあとか、かっこいいなあとか、思うことは様々にあれど、フリードリヒはまず言いたいことがあった。

 エンディミオの隣に座らされたフリードリヒは、囁くように言う。
  
「陛下……あの、わたくしを……娶る決断を……してくださいましたこと、感謝、いたします」

「そうか」

 つまらなそうな返答。だが反応がないより、ましだ。


 エリッサの話によれば、これから祝言をしに貴族たちが来るらしい。
 強国アルヴァの婚礼ともなれば、諸公の数も結構なものだ。

 しかしてフリードリヒからしてみれば、父より偉い公爵位が頭を下げるのを見るのは不思議な気分だった。
 とはいえ、彼自身が父の立場を超えてしまうのだが。

 隣のエンディミオが、祝言にも、社交的な返事しかしないためか、フリードリヒはすっかり意識を飛ばしていた。

 だが頭を強く小突かれ、はっとして隣を見ると、エンディミオがいささか緊張した面持ちで前を見据えていた。

「木っ端共の時間は終わりだ。次の二人は、そなたも覚えておけ」

 たくさんの侍従を連れた二人の人物が、閲兵場に入った。

 二人は王にひざまづくことなく、用意された椅子に座る。
 三角に対面し、それぞれが挨拶を述べた。
  
「おほほ、お久しぶりね。黒獅子王」

 処女雪のように透き通った肌と、凍った滝のごとく流れる銀髪。
 背筋が凍るほどに美しい女は、鈴を鳴らしたような声で、ころころと笑った。
 楽しそうな雰囲気を出してはいるが、青い眼は氷よりも冷たく、全く笑ってはいない。

 白鷺しらさぎ王とあだ名される、北部リウォイン国の女王。ヘルガ・ヨッヘン=ホールゾイ。
 人心惑わす魔女にして、圧政を敷く王。本来ならば、フリードリヒはこちらの女王に跪く未来があった。

「神憑きとは。ロメンラルはよく隠し通せたこと」

 北方では、神憑きは忌避されるもの。王権を危うくする存在として、リウォイン王家では、彼らを淘汰してきた。

「んふふ。でもようく見れば、可愛らしいわね」

 ヘルガがフリードリヒに近づき、同じようだが、輝きの違う銀髪をなぜる。

 まさか、かの女王に頭を撫でられるとは。
 フリードリヒは驚きのあまり、ぼうとしていた。
 だが離れたヘルガの白い左手首を、エンディミオの褐色の右手が掴む。

「……」

「……ふん」

 悪態をついて離れたヘルガが手を払う。
 はらはらと、床に銀の髪が何本か落ちた。
 魔女はフリードリヒの髪でなにをするつもりであったのか。本人は、なるべく考えないようにした。


 ぴりぴりした空間を、のんびり微笑んで眺める者がいた。

 薄い頭髪に、わずかに金髪がきらめく。
 琥珀の目を細め、落ち着き払った声で二人をなだめた。
  
「お二方。妃が怖がってしまいますよ。ああ、エンディミオ陛下、ご結婚おめでとうございます」

 でっぷり肥えた体を、深緑の軍服に押し込めた風体。

 椅子は心なしか、沈んでいるように見えるし、腰に帯びた剣は玩具に見える。

 金大猪(きんおおいの)王とあだなされる、西の島国サイーラの王。バスティアン・オノーレ=サイーラ。

 今にもはちきれそうな軍服を、物珍しげに見るフリードリヒ。
 傍らには彼の妃が控えていたが、気づくのに時間がかかった。

 二重どころか、三重はありそうな顎と腹を揺らし、バスティアンは快活に笑った。

「若いお二人に祝福あれ」

「ふあ……ありがとう、ございます」

 素直に礼をすれば、バスティアンは妻と、いい子だねーうちの子にしたいねーと笑い合っていた。

 王というより、近所の気のいいおじさんだ。

 思わず呑まれそうになっていたフリードリヒを、エンディミオが再び小突く。

「阿呆め。そなたは誰のものだ」

「……も、申し訳、ございません」


 痛みよりも、エンディミオに「誰のものか」と言われたことに驚いた。
 自惚れていいのかなあ、いいのかなあと思案していると、フリードリヒを呼ぶ声。

「新しいアルヴァの妃へ、我らから贈り物です」

「ふくく、危ないものではないから、安心して。私そこまで馬鹿ではないから」
 
「私はサイーラにしかない、桜の花蜜を送りましょう」

「私は手ずから造った、ミモザの香水をさしあげましょう」

 それぞれの侍従から、琥珀色の大きな瓶と、白い小さな瓶が、フリードリヒに渡される。

「ありがとう、ございます……」

 いただいたそれらをエリッサに預け、深く礼をする。

「んふふ。それからもうひとつ。この白鷺王が予言をしてあげるわ」

 ヘルガが、側の侍従から差し出された天球儀に手をかざす。
 七の星座と八の星が示された球を、なまめかしい所作で撫であげる。

 本来は羅針盤と組み合わせて、星の吉兆を読んだり、時差を予測するものだが、かの魔女は用途を変えたらしい。

「……あなたはいずれ、神の愛か、王の愛か。選ぶことになるわ」

「ヘルガ様、そのような言い回しは、彼を混乱させるだけですよ」

 バスティアンが諌めるのも無視し、ヘルガは予言を続ける。

「正解はないわ。そして、味方もない。神はあなたを待ってますものねえ」

 予言はそれで終わりらしい。天球儀を侍従に押しやり、ヘルガは優雅に笑んだ。

「……予言は、ゆめゆめ、忘れ、ること、なく」

「忘れてもよくってよ? 私の予言は当たるの。前の妃の死も当ててしまったわ。
何も本気にする事なんて、なかったのにねえ」

 エンディミオの暴虐に堪えかね、自害した前妃。
 フリードリヒの青ざめた顔を見て、ころころと笑うヘルガ。
 今度こそ、本当に背筋が凍った。
 
「白鷺王、そこまでだ」

 今までで一番、フリードリヒの頭を力強く小突いたエンディミオ。

 痛みに呻くフリードリヒは放り、ヘルガをねめつける。

「あらやだ。お妃さまあ、だいじょうぶう?」

「遊びはここまでだ。用がないのならば、さっさと去れ」

 歴戦の兵士をも竦み上がらせる視線を受けても、ヘルガはいつもの態度を崩さない。
 むしろ、楽しんでいるふうに見える。


「うくく。つれないのね。同じ傷を持つ者同士、仲良くしましょうよ」

「そのつもりはない」

「まあまあ、おめでたい日ですから。仲良くいたしましょう」

「おい」

「無愛想な夫なんてやですものねえ」

「ねえ」

「貴様ら……」

 白鷺と金大猪に言われるがままのエンディミオを、はらはらして眺めていたフリードリヒ。
 なぜかすぱーんと頭を叩かれる。

「ぴゃっ」

「どこを見ている」

 八つ当たりー?やだやだー、といまだ野次を飛ばす二人の王は無視し、エンディミオは時間を確認。

 婚礼儀式はこの後すぐに初め、その後は祝宴だなんだと忙しい。

 フリードリヒがいつまで持つかもわからぬというのに、無益な会話を続ける気はなかった。

「くはは、では我らはこれにて退がりましょう。せいぜい離さぬことね」

「そうですね。どうかお二方が幸福でありますよう」
  
 黒獅子に睨まれた二人の王は、おとなしく引き下がる。

 会場へ赴く間、言葉を交わす。

「女王の結婚はまだですかな?」

「この身はまだ五十年程度しか使っていない」

 先ほどと打って変わって、ヘルガはひどくつまらなそうに応答する。
 その様子にサイーラの王妃が顔をしかめたが、バスティアンは意に介さず、ため息をついた。

「しかし神憑きとは……多難なる道ですね」

「全くだ。ロメンラル伯に懲罰を与えようにも、アルヴァ相手では負け戦の火種になるだけ……」

「そんな事を考えていたのではありません。神憑きは長く生きられないのですよ」

 どうロメンラルを苦しめてやろうか、とそればかり考えているヘルガとは対照的に、バスティアンは憐れな妃のことを考えていた。

「知っている。そのうち神に意識を潰されるだろう。黒獅子王の六度目の結婚が愉しみね」

 ヘルガは不謹慎に呵呵かかと笑う。

「近頃の研究によれば、運動不足や栄養不足が原因と考えられています」

「それもある。……サイーラの豚ちゃんは、神憑きのはじまりはご存知よねえ?」

「ええ、人並みには。人知及ばぬ秘密でも?」

 バスティアンは立ち止まる。
 サイーラには神憑きは生まれないため、畏れるとか敬うとか、そういった文化はない。
  
 だからこそ、神憑きの伝承は知らぬことが多い。

「私の失敗だと思っているのだろうが、そもそも誰がしてもこうなったろう。
神の力すら、及ばぬのやもしれない」

「貴方が間違っていたとは思いませんが、呪いはまだ……」

「ええ、まさかこれほどとは。くふふ、だからこそ楽しんでやる」

 ヘルガは美しい顔を歪ませ、右肩を力強く掴む。
 その姿を憐れみ、バスティアンは行きましょう、と歩を進めた。

「おほほ、しかし我らが心配したとて仕方ないわ。そんなことを思案するなら、アルヴァとサイーラをいただく方法を考えるもの」

「またそんなお茶目なことを……ヘルガ様は、楽しい方ですなあ」

 長年、勢力を拮抗し合う王たちは不敵に笑い合う。





 召し替えたエンディミオは、フリードリヒの服の襟を引っつかみ、ずんずん歩む。
 侍従たちは王の邪魔をするわけにもいかず、フリードリヒの容体を見ながらついて行く。

 だが予定通り、婚礼儀式を行う式場に着いた。

 円形のテーブルには、各国の要人、貴族、大臣の姿。
 奥の舞台には式を取り仕切る司祭が待っていた。

 エンディミオにされるがまま、もたつき歩くフリードリヒに、同情と哀れみの視線が向けられる。
  
 舞台についたエンディミオは、自身の左隣にフリードリヒを立たせる。
 聖印をいじっていた司祭に、目で合図を出す。

 司祭は一礼し、高らかに声を上げた。

「おお、幸福成。アルヴァ王国十一代国王エンディミオ様の婚礼儀式を開式いたします」

 司祭は目を二人に向け、宣誓の文句を告げる。

「では、エンディミオ・ゾンスト=ジリオムダール王陛下」

「ああ」

 怒りやら苛立ちやらを圧し殺した声が、静かな広間に響く。

「あなたは生涯、隣の方を愛し、共に添い遂げることを誓いますか?」

「……誓おう。私は、私の誇りと命にかけて、この者との愛を遂げるだろう」

 なんだ、今の間は。と考える間もなく、フリードリヒの番がきた。

「フリードリヒ・ケーフィン」

「は、はい」

「あなたは生涯、隣の方を愛し、共に支え合うことを誓いますか?」

「誓い、ます。私は、私の力と意志をもって、この方と共に、在ります」

 なんとか欠伸は堪えた。
 司祭は微笑むと、懐から金の腕輪を二つ、取り出した。

「では結婚腕輪を、相手方につけてあげてください。手への口づけも忘れずに」

 エンディミオは腕輪を取り、フリードリヒの左手を乱暴に掴んだ。

 少し屈み、白く細い手に恭しく口づける。
 悲鳴をこらえるのに必死で、固まっているフリードリヒに腕輪を通す。
  
 フリードリヒは、今この現実こそが夢ではないか、と不安になりながら、腕輪を受け取る。

 エンディミオの屈強なる右手を両手で取り、だいぶぎくしゃくしながら口づける。

 とにかく、失敗しないように。それだけを考えながら、腕輪を通した。

 司祭は満足げに頷き、二人に囁く。

「ではお二方、誓いのくちづ――」

「……」

「失礼、調子に乗りました。お二方、皆様の方を向いてください」

 エンディミオの殺気を受け、汗を拭う司祭。
 それを尻目に、二人は舞台から来賓たちの方へ体を向ける。

 一番前の特等席にはヘルガとバスティアンがいた。
 金大猪は何故か感動の涙を拭い、白鷺は何故か投げキスをよこす。

 司祭が両手を大きく広げ、再び高らかに声を上げた。

「めでたしや! 我らの偉大なる黒獅子王と、神の預言を持つ妃様の結婚です! 皆みな様、万雷の拍手を!」

 一斉に割れるような拍手が巻き起こった。
 特等席の以外の人間はみな立ち上がり、口々に祝いの言葉を投げる。

 フリードリヒは呆然としつつも、頭の片隅では現実を受け入れはじめていた。

 傍らの夫となった人を見る。相変わらず無表情だ。

 王はこの状況をよしと思っているのだろうか。
 新たな妃は、何か大きな事のはじまりを感じた。

 司祭が再三、祝福の声をあげる。

「めでたし!」
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