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名前で呼ぶな。
というのが、執事の男に課せられた最初の命令だった。
主人の名前は、灰戸蝋慈 。執事より4歳下の男は、富裕層の家系に生まれ、現在は投資家をしており、何不自由なく暮らしている。
上野オカルト&ダークのガイドの仕事の後、彼の元で働くことになった執事は、灰戸のために尽くした。
しかし、主人の横柄な態度は、度々勤労意欲を削いでくる。
ったく、俺が何したってんだよぉ。
内心で、軽い泣き言を呟く日々。
「おい、お前」
「はい。なんでしょうか?」
「コーヒー」
「かしこまりました」
俺の名前は、お前じゃねぇ。
浮かんだ台詞を呑み込み、命令通りにコーヒーを淹れ、灰戸の書斎のデスクまで運んだ。
「お待たせいたしました」
「ああ、どうも」
主人は、パソコンの画面を見たまま、執事に一応の礼を言って、コーヒーカップを手に取る。
それから、数分後。
「執事、俺は少し出かける。掃除でもしておいてくれ。例の部屋には入るなよ」
俺の名前は、執事じゃねぇ。
「かしこまりました、ご主人様」
Yシャツの上に上着を羽織り、灰戸はどこかへ行った。
一番奥の部屋には入るな。
というのが、執事の男に課せられた二番目の命令だった。
灰戸の住んでいるマンションの一室。その中の入ることを禁じた部屋は、鍵がかかっており普通は入れないが、主人はいつも念入りに釘を刺すのだった。
「…………」
執事は、少しだけ好奇心を抱いているが、きちんと命令に従う。
上から下へ。丁寧に掃除をした。
掃除が終わった頃。クール宅急便が来た。
発泡スチロールの箱を開けて、中身を確認する。中には、完全栄養食のペーストが入っていたので、冷蔵庫に移した。
このペーストタイプの飯は、灰戸の好物である。定期便で届き、いつも家にストックがあるほどだ。以前、彼が「タイパがいい」と言っていたのを覚えている。
味はどうなのだろうか?
執事は、これを食べたことがない。
もし、「食べてみたい」と言ったら、主人はどんな顔をするだろうか?
睨まれてから、すげなく却下される気がした。
ほどなくして、灰戸が帰宅する。
「おかえりなさいませ」
「ただいま……」
なんだか、疲れているように見えた。
「ご主人様、ソイレント・Sが届いておりますよ」
「ああ、もう一週間経ったのか。ちょうどいい。今、食べておくよ」
灰戸が身支度を済ませている間に、食卓に例のペーストとスプーンを用意する執事。
「いただきます」
ソイレント・Sを食べている時の灰戸は、いつもよりは機嫌がよさそうに見える。
その理由を知る時が来ることを、執事はまだ知らない。
◆◆◆
灰戸蝋慈の趣味は、読書である。特に、SF小説を好んで読んでいた。
執事の男は、それを意外に思っているが、もちろん口にしない。
ビジネス新書でも読んでいそうなものだが、そんなことはなかった。
「執事」
文庫本から顔を上げ、灰戸が呼ぶ。
「はい」
「好きなSF作品はあるか?」
「……そうですね。私は、スター・ウォーズが好きですよ」
「そうか、俺も好きだ。旧三部作が一番だと思っているタイプだけどな」
あ、メンドクサイ感じのオタクかもしれない。
執事は、あまり深掘りはしないことにした。
「この世は最悪で、どうしようもないSF世界の中みたいだ」
「はぁ……」
灰戸は、厭世的な台詞を吐く。
「俺は、生まれてから死ぬまで、ここから出られない」
「…………」
彼は、自身が恵まれた環境にいることは理解しているだろう。それでも、ままならないことがあるということか。
「ご主人様は、なにが不満なんですか?」
「はは。不満じゃないことを挙げた方が早いな」
灰戸は、困り笑いのような表情をした。
「そうですか……」
「……そういえば。お前は、ずいぶんと面白い経歴をしているよな。羨ましいよ」
羨ましい。その言葉に嘘や皮肉は含まれていないように感じる。
「ん? 電話だ。静かにしててくれ」
「はい」
「もしもし。はい。ええ、その件でしたら、私がお引き受けいたします。はい。よろしくお願いします」
仕事のものらしい通話は、すぐに終わった。
「はぁ。執事、コーヒーを。甘くしてくれ」
「かしこまりました」
執事は、手際よくコーヒーを淹れ、砂糖とミルクを入れたそれを、ソファーにもたれている主人の前に置く。
「お待たせいたしました」
「ああ、ありがとう」
コーヒーを飲み、灰戸は一息ついた。
飲み終えてから。
「少し眠る。一時間経ったら起こしてくれ」
「はい。おやすみなさいませ」
主人は、寝室へ向かった。
それを見送ってから、コーヒーカップを洗い、休憩することにする執事。
今日は、少しだけ灰戸のことが分かった気がする。
彼は、“ここ”にいたくないのだ。
それが、具体的にどこを指しているのかは分からないが。
まさか、“ここ”とは、この世のことだろうか?
囚人のような面持ちをしていた灰戸を思い出し、執事は考えた。
そうだとしたら、彼の人生は本当に辛いものなのだろう。
人の地獄は、他者には推し量れないものである。大抵の場合、自分の地獄は自分だけのものだから。
一時間後。寝室のドアを開け、主人が寝ているベッドの元に行く。
「ご主人様、お時間でございます」
「ん……あー。ああ、分かった……」
のそりと起き上がり、眼鏡をかける灰戸。
そして、書斎のデスク前に座り、仕事を再開した。
しばらくパソコンを睨んでいた灰戸だが、やるべきことを終えたらしく、都市伝説解体センターのチャンネルの動画を再生し出している。
「コトリバコねぇ……呪いってのは、相手に呪っているぞと分からせなきゃならないものだからなぁ……」
灰戸は、一人言のように呟いた。
「全ての人間が最初に受ける呪いが何か分かるか?」
「……なんでございましょう?」
「名付け。名前だよ」
灰戸蝋慈は、自嘲するように笑う。
◆◆◆
これは、灰戸蝋慈の過去の話。
「人生は蝋燭の火が燃え尽きれば終わるのだ」
「はい、おとうさま」
少年の父親は、落語の死神が好きである。
「短い生を慈しんで生きろ。いいな? 蝋慈」
「はい」
「灰戸家のために、懸命に働きなさい」
「はい」
幼い子供に、重い責任を持たせる父親。
蝋慈は、それに潰されないように頑張った。耐えて、耐えて、耐えてきたのに。
「恥じ晒しが」
「申し訳ありません」
親の敷いたレールから、ほんの少し外れただけで、彼は叱責された。
国立大学を卒業後、灰戸蝋慈は逃げるように実家を出る。
わずかではあるが、自由を手にした男は、幼い頃の夢を取り戻すかのように物を集めた。欲しいと言えなかった物。本当に欲しかった物。
全ては、“自分”を型に押し付けた親への復讐。
でも、それは叶わなかった。もう遅過ぎたのである。
朝。灰戸蝋慈は、何か嫌な夢から目覚めた。
「…………」
父親が出てきた気がする。思い出さない方が賢明だろう。
灰戸は身支度をし、執事が用意した朝食を食べに行った。
「おはようございます、ご主人様」
「ああ、おはよう」
食事があまり喉を通らない様子の主人を見て、執事が声をかける。
「体調が優れませんか?」
「いや、大丈夫だ。でも、料理は下げてくれ。ソイレント・Sを食べる」
「かしこまりました」
「……悪いな」
片手で額を押さえて、灰戸は溜め息をついた。
そして、完全栄養食のペーストを食べてから、執事に向かって言葉をこぼす。
「お前も食べてみるか?」
「よろしいのですか?」
「ああ。自分の分を持って来て、座れ」
「はい」
執事は、言われた通りにした。
「失礼します」
主人の向かいに座り、ソイレント・Sを口にする。
「これは、なんと言いますか、面白い味ですね」
ペーストは、薄くチョコレートの味がした。食べにくさはない。
「この“体験”は、SFだろ?」
「はい。そう思います」
「俺はいつも、ディストピア社会で配給されたものだと思いながら食べてるんだ」
「それは楽しいですね」
「ああ」
灰戸は珍しく、嬉しそうに笑っている。
「だから、栄養バーとかパウチに入ったゼリー飲料とかも好きなんだよな」
男は、楽しそうに言った。
それを見た執事は、SFが主人の骨子になっているのだと理解する。
「なあ、執事」
「はい」
「せっかくだから、この後、例の部屋の中を見せてやろうか?」
「いいのですか?」
「秘密を守れるならな」と、驚いた顔の執事に告げる主人。
「……見せていただきたいです」
この選択が、ふたりの関係性を変えることになる。
◆◆◆
例の禁じられた部屋の中には、所狭しとSF関連の品物が並べられていた。
SF映画のポスターやパンフレット。フィギュア。プラモデル。画集。天体図。天体望遠鏡。
「壮観ですね」
「ははは。そうだろ?」
灰戸は、コレクションを自慢する子供みたいに笑っている。
「全部、大人になってから手に入れた物なんだ。こういう物は、買ってもらえなかったから」
主人は、少し眉を下げた。
「俺は、本当は宇宙飛行士になりたかったんだよ」
遠い日の夢。叶わない夢。
灰戸蝋慈の夢の原風景。
「息苦しい地球から出たかった」
ああ。“ここ”とは、地球のことか。
執事は、主人のことを少し可哀想に思った。
「お前は、地球で楽しそうに生きられて、よかったな」
「……そうですね」
「悪い。皮肉じゃないんだ。本当に、俺もそうなりたかったよ」
「承知しております」
彼は、素直にそう思っている。
そのことが、執事には分かった。
灰戸は、くしゃりと笑って、言葉を続ける。
「親に従順に生きてたら、大切なものを全部取りこぼしてしまった」
男は、“灰戸蝋慈”を演じているうちに、その仮面が貼り付いてしまったのだ。顔に癒着したそれは、もう剥がせない。
「だから、俺は名前で呼ばれたくないんだよ」
「そうでしたか……」
「ああ。それに、誰かを名前で縛ることもしたくなくて」
「…………」
「お前」「執事」としか呼ばない主人の真実。まさかそれが、彼なりの思いやりだったとは。
執事は驚いた。あれは、横柄な態度ではなかったのか。
「ただの雇い主と執事でいたかったんだ。自分勝手ですまなかったな」
「そういうことでしたら、何も問題ありません。私は、ただの執事です」
「……ありがとう」
主人は、頭を下げた。
「なあ、一緒に映画でも見ないか?」
「はい、ぜひ」
ふたりは部屋を出て、リビングへ向かう。
そして、ソファーに並んで座り、SF映画を見た。
映画の音だけが響く2時間は、名前も役割も関係なく、ただ流れていく。
「いい映画だなぁ」
「ええ、本当に」
ふたりきりの上映会の終わりに、それだけ話した。
その後。灰戸は、真っ白なプレートを2枚取り出して、“ディストピア飯”ごっこを始めた。
「今日の配給は、しけてるな」
「本物の肉って、どんなものなんでしょうね?」
「俺たちは、一生見ることはないだろうよ」
ノリのいい執事にそう答えて、主人はサプリメントを口にする。
全体的に白色で統一された配給食は、本当に最悪な管理社会のもののようだった。
灰戸と執事は、楽しく過ごす。
その裏では、グレートリセットの日が迫っていた。
◆◆◆
灰戸蝋慈は、SAMEJIMAのカウントダウンを見つめている。
「グレートリセット……」
それを、一発逆転の機会のように捉えている者たちを、彼は愚かだと思った。
「執事」
「はい」
「SAMEJIMAの管理人は、何をするつもりだと思う?」
「分かりかねます」
「ふん。俺は、ろくでもないことが起きる方に賭ける」
灰戸は、コーヒーを一口飲んで、溜め息をつく。
「俺は、ろくでもないことに巻き込まれるのは、ごめんだ」
苦い顔をする主人を見て、執事は思った。
彼は、大衆に“悪”のレッテルを貼られる側の人間なのだろうと。
富裕層の投資家を妬む人間は、少なくないはずだ。
しばらくして、SAMEJIMAのカウントが0を表示する。
「はぁ!?」
灰戸が、大声を出した。
ナターシャサインによる大規模な個人情報の流出が始まったのである。
「おいおいおいおい、マジかよ……」
灰戸は、ぶつぶつ言いながら、パソコンを忙しなく操作した。
「まさか、これを使うことになるとはな……」
そして灰戸蝋慈は、“インビジブル・マン”を起動する。
それは、SF小説の名を冠した自作の防護プログラムだった。
灰戸は、自分と執事の情報だけを守るように尽力する。
その後。
「疲れた……執事、ソイレント・Sを持って来てくれ…………」
「かしこまりました」
灰戸は椅子にもたれて、脱力している。
情報漏洩は、完全に防げたワケではない。ウェブ上に出されたそれを、“インビジブル・マン”が追跡して消去したが、一時的に外へ出てしまったものもあるのは変わらないからだ。
「あーあ…………」
灰戸は、めちゃくちゃになった株価や晒された個人情報の山を見て、目を細める。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
好物のペーストをスプーンですくって食べた。幾分か落ち着く。
「ご主人様」
「ん?」
「どうやら、私を助けていただいたようで。ありがとうございます」
「礼はいらない。趣味が功を奏しただけだ」
灰戸は、片手をひらひらと振った。
「この先、きっと面倒事が続くだろうよ。これからも、よろしく頼む」
「はい、もちろん」
主人が差し出した手を、執事は取る。
ひとりは、名もなき主人で。もうひとりは、ただの執事として。
ふたりの男は、長い時を共に歩むことになる。
混乱する社会の中でも、彼らは、お互いを補いながら生きていくだろう。
いつか、“ここ”から出て行ける日まで。
というのが、執事の男に課せられた最初の命令だった。
主人の名前は、
上野オカルト&ダークのガイドの仕事の後、彼の元で働くことになった執事は、灰戸のために尽くした。
しかし、主人の横柄な態度は、度々勤労意欲を削いでくる。
ったく、俺が何したってんだよぉ。
内心で、軽い泣き言を呟く日々。
「おい、お前」
「はい。なんでしょうか?」
「コーヒー」
「かしこまりました」
俺の名前は、お前じゃねぇ。
浮かんだ台詞を呑み込み、命令通りにコーヒーを淹れ、灰戸の書斎のデスクまで運んだ。
「お待たせいたしました」
「ああ、どうも」
主人は、パソコンの画面を見たまま、執事に一応の礼を言って、コーヒーカップを手に取る。
それから、数分後。
「執事、俺は少し出かける。掃除でもしておいてくれ。例の部屋には入るなよ」
俺の名前は、執事じゃねぇ。
「かしこまりました、ご主人様」
Yシャツの上に上着を羽織り、灰戸はどこかへ行った。
一番奥の部屋には入るな。
というのが、執事の男に課せられた二番目の命令だった。
灰戸の住んでいるマンションの一室。その中の入ることを禁じた部屋は、鍵がかかっており普通は入れないが、主人はいつも念入りに釘を刺すのだった。
「…………」
執事は、少しだけ好奇心を抱いているが、きちんと命令に従う。
上から下へ。丁寧に掃除をした。
掃除が終わった頃。クール宅急便が来た。
発泡スチロールの箱を開けて、中身を確認する。中には、完全栄養食のペーストが入っていたので、冷蔵庫に移した。
このペーストタイプの飯は、灰戸の好物である。定期便で届き、いつも家にストックがあるほどだ。以前、彼が「タイパがいい」と言っていたのを覚えている。
味はどうなのだろうか?
執事は、これを食べたことがない。
もし、「食べてみたい」と言ったら、主人はどんな顔をするだろうか?
睨まれてから、すげなく却下される気がした。
ほどなくして、灰戸が帰宅する。
「おかえりなさいませ」
「ただいま……」
なんだか、疲れているように見えた。
「ご主人様、ソイレント・Sが届いておりますよ」
「ああ、もう一週間経ったのか。ちょうどいい。今、食べておくよ」
灰戸が身支度を済ませている間に、食卓に例のペーストとスプーンを用意する執事。
「いただきます」
ソイレント・Sを食べている時の灰戸は、いつもよりは機嫌がよさそうに見える。
その理由を知る時が来ることを、執事はまだ知らない。
◆◆◆
灰戸蝋慈の趣味は、読書である。特に、SF小説を好んで読んでいた。
執事の男は、それを意外に思っているが、もちろん口にしない。
ビジネス新書でも読んでいそうなものだが、そんなことはなかった。
「執事」
文庫本から顔を上げ、灰戸が呼ぶ。
「はい」
「好きなSF作品はあるか?」
「……そうですね。私は、スター・ウォーズが好きですよ」
「そうか、俺も好きだ。旧三部作が一番だと思っているタイプだけどな」
あ、メンドクサイ感じのオタクかもしれない。
執事は、あまり深掘りはしないことにした。
「この世は最悪で、どうしようもないSF世界の中みたいだ」
「はぁ……」
灰戸は、厭世的な台詞を吐く。
「俺は、生まれてから死ぬまで、ここから出られない」
「…………」
彼は、自身が恵まれた環境にいることは理解しているだろう。それでも、ままならないことがあるということか。
「ご主人様は、なにが不満なんですか?」
「はは。不満じゃないことを挙げた方が早いな」
灰戸は、困り笑いのような表情をした。
「そうですか……」
「……そういえば。お前は、ずいぶんと面白い経歴をしているよな。羨ましいよ」
羨ましい。その言葉に嘘や皮肉は含まれていないように感じる。
「ん? 電話だ。静かにしててくれ」
「はい」
「もしもし。はい。ええ、その件でしたら、私がお引き受けいたします。はい。よろしくお願いします」
仕事のものらしい通話は、すぐに終わった。
「はぁ。執事、コーヒーを。甘くしてくれ」
「かしこまりました」
執事は、手際よくコーヒーを淹れ、砂糖とミルクを入れたそれを、ソファーにもたれている主人の前に置く。
「お待たせいたしました」
「ああ、ありがとう」
コーヒーを飲み、灰戸は一息ついた。
飲み終えてから。
「少し眠る。一時間経ったら起こしてくれ」
「はい。おやすみなさいませ」
主人は、寝室へ向かった。
それを見送ってから、コーヒーカップを洗い、休憩することにする執事。
今日は、少しだけ灰戸のことが分かった気がする。
彼は、“ここ”にいたくないのだ。
それが、具体的にどこを指しているのかは分からないが。
まさか、“ここ”とは、この世のことだろうか?
囚人のような面持ちをしていた灰戸を思い出し、執事は考えた。
そうだとしたら、彼の人生は本当に辛いものなのだろう。
人の地獄は、他者には推し量れないものである。大抵の場合、自分の地獄は自分だけのものだから。
一時間後。寝室のドアを開け、主人が寝ているベッドの元に行く。
「ご主人様、お時間でございます」
「ん……あー。ああ、分かった……」
のそりと起き上がり、眼鏡をかける灰戸。
そして、書斎のデスク前に座り、仕事を再開した。
しばらくパソコンを睨んでいた灰戸だが、やるべきことを終えたらしく、都市伝説解体センターのチャンネルの動画を再生し出している。
「コトリバコねぇ……呪いってのは、相手に呪っているぞと分からせなきゃならないものだからなぁ……」
灰戸は、一人言のように呟いた。
「全ての人間が最初に受ける呪いが何か分かるか?」
「……なんでございましょう?」
「名付け。名前だよ」
灰戸蝋慈は、自嘲するように笑う。
◆◆◆
これは、灰戸蝋慈の過去の話。
「人生は蝋燭の火が燃え尽きれば終わるのだ」
「はい、おとうさま」
少年の父親は、落語の死神が好きである。
「短い生を慈しんで生きろ。いいな? 蝋慈」
「はい」
「灰戸家のために、懸命に働きなさい」
「はい」
幼い子供に、重い責任を持たせる父親。
蝋慈は、それに潰されないように頑張った。耐えて、耐えて、耐えてきたのに。
「恥じ晒しが」
「申し訳ありません」
親の敷いたレールから、ほんの少し外れただけで、彼は叱責された。
国立大学を卒業後、灰戸蝋慈は逃げるように実家を出る。
わずかではあるが、自由を手にした男は、幼い頃の夢を取り戻すかのように物を集めた。欲しいと言えなかった物。本当に欲しかった物。
全ては、“自分”を型に押し付けた親への復讐。
でも、それは叶わなかった。もう遅過ぎたのである。
朝。灰戸蝋慈は、何か嫌な夢から目覚めた。
「…………」
父親が出てきた気がする。思い出さない方が賢明だろう。
灰戸は身支度をし、執事が用意した朝食を食べに行った。
「おはようございます、ご主人様」
「ああ、おはよう」
食事があまり喉を通らない様子の主人を見て、執事が声をかける。
「体調が優れませんか?」
「いや、大丈夫だ。でも、料理は下げてくれ。ソイレント・Sを食べる」
「かしこまりました」
「……悪いな」
片手で額を押さえて、灰戸は溜め息をついた。
そして、完全栄養食のペーストを食べてから、執事に向かって言葉をこぼす。
「お前も食べてみるか?」
「よろしいのですか?」
「ああ。自分の分を持って来て、座れ」
「はい」
執事は、言われた通りにした。
「失礼します」
主人の向かいに座り、ソイレント・Sを口にする。
「これは、なんと言いますか、面白い味ですね」
ペーストは、薄くチョコレートの味がした。食べにくさはない。
「この“体験”は、SFだろ?」
「はい。そう思います」
「俺はいつも、ディストピア社会で配給されたものだと思いながら食べてるんだ」
「それは楽しいですね」
「ああ」
灰戸は珍しく、嬉しそうに笑っている。
「だから、栄養バーとかパウチに入ったゼリー飲料とかも好きなんだよな」
男は、楽しそうに言った。
それを見た執事は、SFが主人の骨子になっているのだと理解する。
「なあ、執事」
「はい」
「せっかくだから、この後、例の部屋の中を見せてやろうか?」
「いいのですか?」
「秘密を守れるならな」と、驚いた顔の執事に告げる主人。
「……見せていただきたいです」
この選択が、ふたりの関係性を変えることになる。
◆◆◆
例の禁じられた部屋の中には、所狭しとSF関連の品物が並べられていた。
SF映画のポスターやパンフレット。フィギュア。プラモデル。画集。天体図。天体望遠鏡。
「壮観ですね」
「ははは。そうだろ?」
灰戸は、コレクションを自慢する子供みたいに笑っている。
「全部、大人になってから手に入れた物なんだ。こういう物は、買ってもらえなかったから」
主人は、少し眉を下げた。
「俺は、本当は宇宙飛行士になりたかったんだよ」
遠い日の夢。叶わない夢。
灰戸蝋慈の夢の原風景。
「息苦しい地球から出たかった」
ああ。“ここ”とは、地球のことか。
執事は、主人のことを少し可哀想に思った。
「お前は、地球で楽しそうに生きられて、よかったな」
「……そうですね」
「悪い。皮肉じゃないんだ。本当に、俺もそうなりたかったよ」
「承知しております」
彼は、素直にそう思っている。
そのことが、執事には分かった。
灰戸は、くしゃりと笑って、言葉を続ける。
「親に従順に生きてたら、大切なものを全部取りこぼしてしまった」
男は、“灰戸蝋慈”を演じているうちに、その仮面が貼り付いてしまったのだ。顔に癒着したそれは、もう剥がせない。
「だから、俺は名前で呼ばれたくないんだよ」
「そうでしたか……」
「ああ。それに、誰かを名前で縛ることもしたくなくて」
「…………」
「お前」「執事」としか呼ばない主人の真実。まさかそれが、彼なりの思いやりだったとは。
執事は驚いた。あれは、横柄な態度ではなかったのか。
「ただの雇い主と執事でいたかったんだ。自分勝手ですまなかったな」
「そういうことでしたら、何も問題ありません。私は、ただの執事です」
「……ありがとう」
主人は、頭を下げた。
「なあ、一緒に映画でも見ないか?」
「はい、ぜひ」
ふたりは部屋を出て、リビングへ向かう。
そして、ソファーに並んで座り、SF映画を見た。
映画の音だけが響く2時間は、名前も役割も関係なく、ただ流れていく。
「いい映画だなぁ」
「ええ、本当に」
ふたりきりの上映会の終わりに、それだけ話した。
その後。灰戸は、真っ白なプレートを2枚取り出して、“ディストピア飯”ごっこを始めた。
「今日の配給は、しけてるな」
「本物の肉って、どんなものなんでしょうね?」
「俺たちは、一生見ることはないだろうよ」
ノリのいい執事にそう答えて、主人はサプリメントを口にする。
全体的に白色で統一された配給食は、本当に最悪な管理社会のもののようだった。
灰戸と執事は、楽しく過ごす。
その裏では、グレートリセットの日が迫っていた。
◆◆◆
灰戸蝋慈は、SAMEJIMAのカウントダウンを見つめている。
「グレートリセット……」
それを、一発逆転の機会のように捉えている者たちを、彼は愚かだと思った。
「執事」
「はい」
「SAMEJIMAの管理人は、何をするつもりだと思う?」
「分かりかねます」
「ふん。俺は、ろくでもないことが起きる方に賭ける」
灰戸は、コーヒーを一口飲んで、溜め息をつく。
「俺は、ろくでもないことに巻き込まれるのは、ごめんだ」
苦い顔をする主人を見て、執事は思った。
彼は、大衆に“悪”のレッテルを貼られる側の人間なのだろうと。
富裕層の投資家を妬む人間は、少なくないはずだ。
しばらくして、SAMEJIMAのカウントが0を表示する。
「はぁ!?」
灰戸が、大声を出した。
ナターシャサインによる大規模な個人情報の流出が始まったのである。
「おいおいおいおい、マジかよ……」
灰戸は、ぶつぶつ言いながら、パソコンを忙しなく操作した。
「まさか、これを使うことになるとはな……」
そして灰戸蝋慈は、“インビジブル・マン”を起動する。
それは、SF小説の名を冠した自作の防護プログラムだった。
灰戸は、自分と執事の情報だけを守るように尽力する。
その後。
「疲れた……執事、ソイレント・Sを持って来てくれ…………」
「かしこまりました」
灰戸は椅子にもたれて、脱力している。
情報漏洩は、完全に防げたワケではない。ウェブ上に出されたそれを、“インビジブル・マン”が追跡して消去したが、一時的に外へ出てしまったものもあるのは変わらないからだ。
「あーあ…………」
灰戸は、めちゃくちゃになった株価や晒された個人情報の山を見て、目を細める。
「お待たせいたしました」
「ありがとう」
好物のペーストをスプーンですくって食べた。幾分か落ち着く。
「ご主人様」
「ん?」
「どうやら、私を助けていただいたようで。ありがとうございます」
「礼はいらない。趣味が功を奏しただけだ」
灰戸は、片手をひらひらと振った。
「この先、きっと面倒事が続くだろうよ。これからも、よろしく頼む」
「はい、もちろん」
主人が差し出した手を、執事は取る。
ひとりは、名もなき主人で。もうひとりは、ただの執事として。
ふたりの男は、長い時を共に歩むことになる。
混乱する社会の中でも、彼らは、お互いを補いながら生きていくだろう。
いつか、“ここ”から出て行ける日まで。
