アイマス
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おひとつ、ケーキでもどうですか? と彼が言う。
「ありがとうございます」
ミョウジナマエは笑顔でそう答えた。
東雲荘一郎の作るケーキはいつだって至高の一品であり、ミョウジの舌を楽しませてくれる。デスクに置かれた差し入れのケーキは、目で見ただけで口の中に美味しさが広がる気さえした。
「いただきます」
今回はどんな味がするのだろうと、わくわくしながらフォークでケーキを切り、口へと運ぶ。
そして、そのケーキの味は――――――味がしない。全く味がない。
「どうかしました?お口に合いませんでしたか?」
ミョウジの表情を窺い、彼は尋ねた。
自分は今、一体どんな表情をしているのだろう。ミョウジは冷や汗をかいた。
「いや、そんなことはないですよ。とても美味しいです。ちょっと舌を噛んでしまっただけです」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。血も出ていませんから」
彼は納得してくれたようだ。
プロデューサーがアイドルに心配をかける訳にはいかない。ミョウジは怪しまれないようにケーキを食べ続けたが、やはり全く味がしない。
味覚障害が起こるほど、自分はストレスを溜めていたのだろうか? それとも、何か栄養が不足しているのだろうか? ミョウジは、頭の中に疑問符を浮かべる。
昼に食べたのは、ゼリー飲料と栄養バーだ。味覚が戻らなかったら、あれが最後に味のしたものになってしまうというのか。
その後、休日に医者に診てもらったのだが、心因性のものだろうと言われた。
ケーキの味が分からなかった、あの時。あれ以来、何を食べても何を飲んでも、味がしない。
ものを食べるのが、好きだった。それなのに、今では食事が苦痛で仕方がない。仕事の最中でも、そのことを思い出しては落ち込む。
「プロデューサーさん?」
「あ……はい、なんでしょう?」
デスクで暗い顔をしているミョウジの前に、いつの間にか、心配そうな東雲がいる。
彼は、休憩時間にトレーニングルームからプロデューサーを覗きに来たのだが、沈痛な面持ちを見るに見かねて声をかけたのだった。
「お疲れのようですが……大丈夫ですか……?」
「ちょっと、目が疲れただけですよ。ああっ?!そろそろ出ないと!」
パソコンに表示された時刻を見て、ミョウジは動揺した。クライアントとの打ち合わせに遅れる訳にはいかない。プロデューサーは、バタバタと慌ただしく仕度をする。
「それじゃ、いってきます!」
「待ってください。ネクタイ、曲がってますよ」
東雲は、すっと手を伸ばし、ミョウジのネクタイを真っ直ぐに直す。
「はい。これで、ええ男ですよ」
「ありがとうございます。いってきます」
「いってらっしゃい。お気を付けて」
ミョウジが照れくさそうに礼を言い、外へ出ようとしたしたところ、すれ違いざまに彼から甘い香りがした。
◆◆◆
「痛っ……」
事務所にて、資料を見ながら次の仕事の説明をしていたのだが、紙で東雲が人差し指を切ってしまい、それは中断された。
(アイドルの、パティシエの指が……!)
「東雲さ――」
指から、ほんの少し血が出ている。その赤色の線を見た自分が、ごくりと生唾を飲み込んだことに気付いたミョウジは困惑した。
「プロデューサーさん、手を洗って来ますね」
「あ……はい。絆創膏出しときますね」
「お願いします」
東雲が去った後、ミョウジは先程自分の身に起きたことを思い返した。
(血が、とても美味しそうに見えた)
心臓が、どくんと脈打った。
そんな出来事があったものだから、これは心因性の味覚障害などではないかもしれないと疑い、仕事の合間にインターネットで調べることにしたところ。
(ケーキと、フォーク…………?)
「味覚障害」や「味がしない」などのワードで検索して出て来たその記事は、まるで遠い世界の話のようだった。ぼんやりとは知っていたが自分とは関係ないことだと思っていたし、つい先日までは確かにそうだった。
フォークとは後天的に味覚を失った者であり、ケーキとはフォークにとって美味しいと感じられる人間のことらしい。フォークによる猟奇的な殺人事件が起きたこともあるそうだ。
ミョウジナマエがフォークなのだとしたら、東雲荘一郎はケーキなのだろう。その血肉や体液は甘く、極上の味がするのだという。
「こんなことって…………」
いつまでも理性で抑えていられるものなのだろうか?
離れなくてはならないと思った。大切な人を傷付ける前に。とても別れ難く感じるが、そうすべきだろう。
だが、黙って消える訳にもいかない。
数日後、仕事の合間を縫って彼を自宅に招き、腰を落ち着けて話をすることにした。
「あなたに伝えなくてはならないことがあります」
この続きを話すには、数回の深呼吸を必要とした。
「あなたは、ケーキなんです。僕のような、フォークになった味覚のない人間にとっての」
ミョウジは自分の身に起きたことを一通り説明し、最後に東雲にそう告げる。
彼の表情は平時と変わらず涼やかだが、内心ではどう思っているのか、ミョウジは不安で堪らない。
「出来ることなら、あなたがトップアイドルになったところを見るまで、離れたくない。傍にいたい。でも、抑制剤はまだ研究段階で、どのくらい時間が必要なのか……完成前に僕があなたを傷付けることになるかもしれない。いつか、そうなるかもしれないことが恐ろしくて……僕はどうすれば…………」
「わざわざ私に伝えてくださったのは、私に警戒心を持ってほしかったからですよね?」
「はい、そうです。僕が消えるにしろ、残るにしろ、東雲さんが危ないのは確かですから」
「あなただって、危ないですよ?」
「え?」
「毒や腐ったものを食べてしまうかもしれないでしょう。心配です」
「僕なんかの心配…………しないでくださいよ…………」
「するに決まってるでしょう。あなたは私の大切な人なんですから」
大切な人。
人、という響きが自分には相応しくないもののように思えた。自分は、得体の知れない化物へと変容したのではないだろうか。
「……僕は、まだ人なんでしょうか?」
「人ですよ。食べ物について悩むなんて、人間らしいじゃないですか」
彼は、事も無げに言った。
「僕は、あなたを食べ物扱いしたくない」
「私も食べられたくはありませんけど、ミョウジさんと会えなくなるのも嫌です」
「では、僕を警戒し続けてくれますか?」
「それしか、ないでしょうね」
その日、ふたりだけの秘密ができた。言葉の甘さに反して、実に苦いものだった。
◆◆◆
「ものを食べる時は、ちゃんと賞味期限を確認してくださいね。危ないですから」
東雲は本音を隠して、そんなことを忠告じみた口調で言った。
プロデューサーであるミョウジナマエは、味覚を失ってから東雲の作ったケーキを食べなくなった。味も分からないのに食べるのは気が引けるからだ。
だが、そのことが東雲は不満である。
(ミョウジさんに美味しいと言ってもらえないのが、こんなに辛いとは……)
しかし、無理に食べさせても意味がない。ミョウジは、無理に食事をしなくてはならないが、菓子類など摂る意味はない。
「美味しいです……!」
そう言って、瞳を輝かせていた彼を覚えている。あの笑顔を、もう二度と見ることが出来ないという事実が、胸を締め付けた。
ケーキは毎日欠かさず食べなくてはならないものではない。彼のこれからの人生に、必要ない。
その現実に我慢ならなくなった、梅雨で曇天が続く頃、事務所で機を見てミョウジに話を持ちかけた。
「キスしてみませんか?」
「え、と……?」
「もしかしたら、甘くないかもしれませんよ?」
「いや、でも――――」
椅子に座るミョウジの顔に手を添え、その唇を奪った。
ミョウジの症状が心因性の味覚障害であったなら、全てが杞憂であったらいいのに。その思いは日に日に大きくなり、ついには白黒はっきりさせようと、東雲に強引な手段を取らせるに至った。
「ん……!?」
無理矢理に口内へ舌を入れ、唾液を飲ませる。
ミョウジはシロップを流し込まれたのかと錯覚しそうになるほど、舌に甘さを感じた。
「だめ……だめですよ。だって、とても甘くて……」
唇が離されてから、ミョウジは荒く息を吐く。
やはりフォークになってしまったのだという事実が突き付けられる。理性が、ティースプーンに乗せてカップの中に沈めた角砂糖のように崩れそうだった。
空腹という訳ではないが、心はずっと飢えている。
食べたら、どんな味がするのだろう?
こんなことを考えてはいけない。
彼の血は?肉は? それはきっと、とても甘くて美味しいに違いない。
考えてはいけない。
(だめだ……早く遠くへ行かないと……)
唇を噛み締め、腕に爪を立てて、必死におぞましい衝動を抑え付けた。
「申し訳ありません」
突然、天上から声が響いたようだった。その声は、どろどろした甘さの渦の中にいるミョウジに、清涼な水のように沁みる。
光が差したように世界が鮮明になり、窓の外の雨音が聴こえ、目の前の人物をハッキリと認識できた。
「あなたにケーキを食べてもらえないのが、悲しくて……すいません……」
「いえ……」
捕食衝動を抑えて日々を生きているミョウジに迷惑をかけてしまったからか、目に見えて落ち込んだ様子の東雲に、なんと声をかけるべきか。
「…………僕、まだクラゲを食べたことないんですよ」
「はい?」
「日本に、クラゲ料理を食べられるところあるんです」
水族館でクラゲを見て、美味しそうと思ったことは秘密だ。
「あと薔薇も食べてない。ジャムになるらしいんですよね」
美しい花や宝石を見て、美味しそうだと思いがちなことも秘密だ。
「プロデューサーさん、先程から何を――――」
「あの! 匂いは分かりますし、食感も分かります。それに、見た目も。だから、東雲さんの作ったケーキが食べたいです。食べてもいいですか?」
「……はい、もちろんです」
後日、来るべき夏に向けた新作の試食をすることになった。
「綺麗な夏らしい色合い」とか「柑橘類の香りが爽やか」とか「生地がサクサクしている」とか、味覚がなくても言えることは沢山ある。
「やっぱり、東雲さんの作るものは素敵ですね」
そう言うと、東雲は嬉しそうに微笑んだ。
(ああ、美しくて……美味しそう……)
理性を失わせるのも、取り戻させるのも彼なのだから、あとは自身の意志の強さ次第だと思いたい。
(僕は、きっと、あなたが好きなんでしょう。だから、あなたを――)
食べたくない。
食べたい。そんなことをすれば、なくなってしまう。食べられない。
食べたい。そんなことをするのは、赦されない。食べてはならない。
食べない。
雲は美味しそうだけれど、手が届かないし、食べられないものである。そういう、神にも等しい人だと自分に言い聞かせて生きて行こうと、ミョウジは決意した。
捧げる神饌を持ち合わせず、そればかりか賜物を食しておきながら、真に食べたいのは神だとは。恐れ多くて涙が出そうだ。
2017/10/09
「ありがとうございます」
ミョウジナマエは笑顔でそう答えた。
東雲荘一郎の作るケーキはいつだって至高の一品であり、ミョウジの舌を楽しませてくれる。デスクに置かれた差し入れのケーキは、目で見ただけで口の中に美味しさが広がる気さえした。
「いただきます」
今回はどんな味がするのだろうと、わくわくしながらフォークでケーキを切り、口へと運ぶ。
そして、そのケーキの味は――――――味がしない。全く味がない。
「どうかしました?お口に合いませんでしたか?」
ミョウジの表情を窺い、彼は尋ねた。
自分は今、一体どんな表情をしているのだろう。ミョウジは冷や汗をかいた。
「いや、そんなことはないですよ。とても美味しいです。ちょっと舌を噛んでしまっただけです」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。血も出ていませんから」
彼は納得してくれたようだ。
プロデューサーがアイドルに心配をかける訳にはいかない。ミョウジは怪しまれないようにケーキを食べ続けたが、やはり全く味がしない。
味覚障害が起こるほど、自分はストレスを溜めていたのだろうか? それとも、何か栄養が不足しているのだろうか? ミョウジは、頭の中に疑問符を浮かべる。
昼に食べたのは、ゼリー飲料と栄養バーだ。味覚が戻らなかったら、あれが最後に味のしたものになってしまうというのか。
その後、休日に医者に診てもらったのだが、心因性のものだろうと言われた。
ケーキの味が分からなかった、あの時。あれ以来、何を食べても何を飲んでも、味がしない。
ものを食べるのが、好きだった。それなのに、今では食事が苦痛で仕方がない。仕事の最中でも、そのことを思い出しては落ち込む。
「プロデューサーさん?」
「あ……はい、なんでしょう?」
デスクで暗い顔をしているミョウジの前に、いつの間にか、心配そうな東雲がいる。
彼は、休憩時間にトレーニングルームからプロデューサーを覗きに来たのだが、沈痛な面持ちを見るに見かねて声をかけたのだった。
「お疲れのようですが……大丈夫ですか……?」
「ちょっと、目が疲れただけですよ。ああっ?!そろそろ出ないと!」
パソコンに表示された時刻を見て、ミョウジは動揺した。クライアントとの打ち合わせに遅れる訳にはいかない。プロデューサーは、バタバタと慌ただしく仕度をする。
「それじゃ、いってきます!」
「待ってください。ネクタイ、曲がってますよ」
東雲は、すっと手を伸ばし、ミョウジのネクタイを真っ直ぐに直す。
「はい。これで、ええ男ですよ」
「ありがとうございます。いってきます」
「いってらっしゃい。お気を付けて」
ミョウジが照れくさそうに礼を言い、外へ出ようとしたしたところ、すれ違いざまに彼から甘い香りがした。
◆◆◆
「痛っ……」
事務所にて、資料を見ながら次の仕事の説明をしていたのだが、紙で東雲が人差し指を切ってしまい、それは中断された。
(アイドルの、パティシエの指が……!)
「東雲さ――」
指から、ほんの少し血が出ている。その赤色の線を見た自分が、ごくりと生唾を飲み込んだことに気付いたミョウジは困惑した。
「プロデューサーさん、手を洗って来ますね」
「あ……はい。絆創膏出しときますね」
「お願いします」
東雲が去った後、ミョウジは先程自分の身に起きたことを思い返した。
(血が、とても美味しそうに見えた)
心臓が、どくんと脈打った。
そんな出来事があったものだから、これは心因性の味覚障害などではないかもしれないと疑い、仕事の合間にインターネットで調べることにしたところ。
(ケーキと、フォーク…………?)
「味覚障害」や「味がしない」などのワードで検索して出て来たその記事は、まるで遠い世界の話のようだった。ぼんやりとは知っていたが自分とは関係ないことだと思っていたし、つい先日までは確かにそうだった。
フォークとは後天的に味覚を失った者であり、ケーキとはフォークにとって美味しいと感じられる人間のことらしい。フォークによる猟奇的な殺人事件が起きたこともあるそうだ。
ミョウジナマエがフォークなのだとしたら、東雲荘一郎はケーキなのだろう。その血肉や体液は甘く、極上の味がするのだという。
「こんなことって…………」
いつまでも理性で抑えていられるものなのだろうか?
離れなくてはならないと思った。大切な人を傷付ける前に。とても別れ難く感じるが、そうすべきだろう。
だが、黙って消える訳にもいかない。
数日後、仕事の合間を縫って彼を自宅に招き、腰を落ち着けて話をすることにした。
「あなたに伝えなくてはならないことがあります」
この続きを話すには、数回の深呼吸を必要とした。
「あなたは、ケーキなんです。僕のような、フォークになった味覚のない人間にとっての」
ミョウジは自分の身に起きたことを一通り説明し、最後に東雲にそう告げる。
彼の表情は平時と変わらず涼やかだが、内心ではどう思っているのか、ミョウジは不安で堪らない。
「出来ることなら、あなたがトップアイドルになったところを見るまで、離れたくない。傍にいたい。でも、抑制剤はまだ研究段階で、どのくらい時間が必要なのか……完成前に僕があなたを傷付けることになるかもしれない。いつか、そうなるかもしれないことが恐ろしくて……僕はどうすれば…………」
「わざわざ私に伝えてくださったのは、私に警戒心を持ってほしかったからですよね?」
「はい、そうです。僕が消えるにしろ、残るにしろ、東雲さんが危ないのは確かですから」
「あなただって、危ないですよ?」
「え?」
「毒や腐ったものを食べてしまうかもしれないでしょう。心配です」
「僕なんかの心配…………しないでくださいよ…………」
「するに決まってるでしょう。あなたは私の大切な人なんですから」
大切な人。
人、という響きが自分には相応しくないもののように思えた。自分は、得体の知れない化物へと変容したのではないだろうか。
「……僕は、まだ人なんでしょうか?」
「人ですよ。食べ物について悩むなんて、人間らしいじゃないですか」
彼は、事も無げに言った。
「僕は、あなたを食べ物扱いしたくない」
「私も食べられたくはありませんけど、ミョウジさんと会えなくなるのも嫌です」
「では、僕を警戒し続けてくれますか?」
「それしか、ないでしょうね」
その日、ふたりだけの秘密ができた。言葉の甘さに反して、実に苦いものだった。
◆◆◆
「ものを食べる時は、ちゃんと賞味期限を確認してくださいね。危ないですから」
東雲は本音を隠して、そんなことを忠告じみた口調で言った。
プロデューサーであるミョウジナマエは、味覚を失ってから東雲の作ったケーキを食べなくなった。味も分からないのに食べるのは気が引けるからだ。
だが、そのことが東雲は不満である。
(ミョウジさんに美味しいと言ってもらえないのが、こんなに辛いとは……)
しかし、無理に食べさせても意味がない。ミョウジは、無理に食事をしなくてはならないが、菓子類など摂る意味はない。
「美味しいです……!」
そう言って、瞳を輝かせていた彼を覚えている。あの笑顔を、もう二度と見ることが出来ないという事実が、胸を締め付けた。
ケーキは毎日欠かさず食べなくてはならないものではない。彼のこれからの人生に、必要ない。
その現実に我慢ならなくなった、梅雨で曇天が続く頃、事務所で機を見てミョウジに話を持ちかけた。
「キスしてみませんか?」
「え、と……?」
「もしかしたら、甘くないかもしれませんよ?」
「いや、でも――――」
椅子に座るミョウジの顔に手を添え、その唇を奪った。
ミョウジの症状が心因性の味覚障害であったなら、全てが杞憂であったらいいのに。その思いは日に日に大きくなり、ついには白黒はっきりさせようと、東雲に強引な手段を取らせるに至った。
「ん……!?」
無理矢理に口内へ舌を入れ、唾液を飲ませる。
ミョウジはシロップを流し込まれたのかと錯覚しそうになるほど、舌に甘さを感じた。
「だめ……だめですよ。だって、とても甘くて……」
唇が離されてから、ミョウジは荒く息を吐く。
やはりフォークになってしまったのだという事実が突き付けられる。理性が、ティースプーンに乗せてカップの中に沈めた角砂糖のように崩れそうだった。
空腹という訳ではないが、心はずっと飢えている。
食べたら、どんな味がするのだろう?
こんなことを考えてはいけない。
彼の血は?肉は? それはきっと、とても甘くて美味しいに違いない。
考えてはいけない。
(だめだ……早く遠くへ行かないと……)
唇を噛み締め、腕に爪を立てて、必死におぞましい衝動を抑え付けた。
「申し訳ありません」
突然、天上から声が響いたようだった。その声は、どろどろした甘さの渦の中にいるミョウジに、清涼な水のように沁みる。
光が差したように世界が鮮明になり、窓の外の雨音が聴こえ、目の前の人物をハッキリと認識できた。
「あなたにケーキを食べてもらえないのが、悲しくて……すいません……」
「いえ……」
捕食衝動を抑えて日々を生きているミョウジに迷惑をかけてしまったからか、目に見えて落ち込んだ様子の東雲に、なんと声をかけるべきか。
「…………僕、まだクラゲを食べたことないんですよ」
「はい?」
「日本に、クラゲ料理を食べられるところあるんです」
水族館でクラゲを見て、美味しそうと思ったことは秘密だ。
「あと薔薇も食べてない。ジャムになるらしいんですよね」
美しい花や宝石を見て、美味しそうだと思いがちなことも秘密だ。
「プロデューサーさん、先程から何を――――」
「あの! 匂いは分かりますし、食感も分かります。それに、見た目も。だから、東雲さんの作ったケーキが食べたいです。食べてもいいですか?」
「……はい、もちろんです」
後日、来るべき夏に向けた新作の試食をすることになった。
「綺麗な夏らしい色合い」とか「柑橘類の香りが爽やか」とか「生地がサクサクしている」とか、味覚がなくても言えることは沢山ある。
「やっぱり、東雲さんの作るものは素敵ですね」
そう言うと、東雲は嬉しそうに微笑んだ。
(ああ、美しくて……美味しそう……)
理性を失わせるのも、取り戻させるのも彼なのだから、あとは自身の意志の強さ次第だと思いたい。
(僕は、きっと、あなたが好きなんでしょう。だから、あなたを――)
食べたくない。
食べたい。そんなことをすれば、なくなってしまう。食べられない。
食べたい。そんなことをするのは、赦されない。食べてはならない。
食べない。
雲は美味しそうだけれど、手が届かないし、食べられないものである。そういう、神にも等しい人だと自分に言い聞かせて生きて行こうと、ミョウジは決意した。
捧げる神饌を持ち合わせず、そればかりか賜物を食しておきながら、真に食べたいのは神だとは。恐れ多くて涙が出そうだ。
2017/10/09