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上総国の諏訪神社に捨てられていた赤子。それが、後の上総ナマエという男であった。
上総の生まれだから、氏を上総。名は、育ての親である神主が付けた。
「ナマエ」
「はい」
「お前も、もう十五歳。どこへなりと行くがいい」
1330年。十五回目のナマエが拾われた日。
「はい。おれは、諏訪大社へ行きます。明神様に仕え、諏訪へのご恩返しをいたします」
ナマエは、その日のうちに出立する。
諏訪の総本山、諏訪大社をこの目で見たい。明神様をこの目で見たい。
そんな憧れと共に。
信濃国へ入り、ひたすら目的地を目指す。
路銀は、加持祈祷を行い稼いだ。
持ってきた鰯の干物が尽きた頃、上社の本宮へと到着する。
「ここが、諏訪大社…………」
上総国の諏訪神社とは比べ物にならないほど立派な建造物。ナマエは、圧倒された。
ぼうっと突っ立っていると、巫女に話しかけられる。
「どうかなさいました?」
「ここで働かせていただきたい!」
「えっ?!」
「上総国のナマエと申します! 読み書きが出来ます! 料理も少し! 物覚えには自信があります! あとは、えーと、なんでもしますので! どうか!」
「少々お待ちくださいまし」
巫女は、屋内へと引っ込んで行った。
ナマエは、待つ。
しばらくすると、狩衣を着た男が、やって来た。
「貴方が来ることは、知っていました。私、諏訪頼重といいます」
「諏訪頼重様!? おれ、いや、私がお目通り叶うとは……」
すかさず、跪き、頭を垂れるナマエ。
「ナマエ。貴方は、えーと。未来では、立派な……あ、これまだダメか……まあ、頑張りなさい」
「それは、お仕え出来るということでしょうか?」
「ええ」
「ありがとうございます! 頼重様!」
ナマエの目が、真っ直ぐに頼重を捉えた。
その瞳は、僅かに狂気を光らせている。
その後。ナマエを巫女に任せてから、頼重は、物陰に潜んでいた童女に声をかけられた。
「とおさま。よかったのですか? あのものには、“呪”がかかっております」
それは、纏わり付く黒縄のように。
「あれは、元々は“祝”だったもの。ナマエは、打ち勝てる」
「そうですか…………」
そんな会話なぞ、露知らず。ナマエは、田舎者丸出しで、あちこちを見ては感嘆の声を上げていた。
「こちらを、貴方の居とされるよう仰せ付かっております」
「はい! 案内、誠に感謝いたします、巫女様」
「そんなに堅苦しくせずとも……」
「いえ、おれは、新参者ゆえ」
「ふふ。では、今日からよろしくお願いしますね」
「よろしくお願いします!」
そして、四年の月日が流れ。ナマエは、十九歳になった。
宣言通り、なんでもこなすようになったナマエは、諏訪の執事のひとりとして生活している。
北条時行が逃げ延びて来るまで、後少し。
◆◆◆
上総ナマエは、嘘をつくのが得意ではなかった。
しかし、それでも頼重は、長寿丸の正体が北条時行だと告げる。
「長寿丸殿!」
「ナマエ殿」
「鰯の干物です。郎党の皆と、どうぞ」
「ありがとうございます」
頼重は、ナマエに「普通の子供として接しなさい」とだけ言い含めた。それが、すとんと腑に落ちたので、生真面目な男は、弟がいたらこうする、ということをし続けている。
鰯は、ナマエの好物だ。上総国では、早朝の漁で取れた新鮮なものを焼いて食べていた。
「ナマエ殿」
「はい」
「上総国は、どのようなところですか?」
「おれがいたところは、海が近く、長閑なものでした。ただの田舎とも言いますが」
「海は……好きですか……?」
「ええ。諏訪神社は小高い丘にありました。そこから毎日、美しい海を眺めておりましたよ」
長寿丸は、嬉しそうに笑う。
「では、仕事に戻りますゆえ、失礼します」
「はい」
ナマエは、“表向き”の諏訪大社での出来事を綴っている。
日の出から、日の入りまで。記録をつけた。
また、出納帳や調度品の目録をつけるのも、彼の仕事である。
大恩ある諏訪のため、朝な夕な働いた。
「ナマエ」と、少女の声。
「雫様。いかがなさいました?」
「体に異変はありませんか?」
「ありませんが…………」
「そうですか」
上総ナマエの首元から足先まで、黒い蛇のような影が纏わり付いているのが、彼女には見えるのだ。
「何かあれば、すぐに言うように」
「はい!」
雫と別れ、自室へ戻る。
夕餉を済ませた後、一時散歩に出た。
諏訪湖を眺めて、心穏やかに過ごす。水面に映る月が揺らめき、何かを伝えようとしてるかのようだった。
「おれは、仕合わせだな」
ぽつりと呟く。
そう。仕合わせなのだ。それなのに、このどうしようもない“渇き”は、なんなのだろう?
頼重様なら、お教えくださるだろうか?
そうは思うのだが、その問いが恥じ入るべきもののような気がして。訊けないままでいる。
不協和。神楽の鈴の音に混じる異音。ナマエには、その正体が分からない。
ただ、解を求めて、湖の中へ入る。
「ナマエ!」
「…………」
視界が白と黒になっていた。うっすら聴こえるのは、明神様の声。
「頼重様?」
「ナマエ、何をしている?」
「おれは……月を掬おうとしておりました…………」
膝まで水に浸かっている男は、童のようなことを言う。
「お前の求めるものは、そこにはない」
「はい…………」
ナマエは、大人しく湖から出た。
頼重は、ナマエの腕を掴み、現世に引き戻す。
あなたの声がなければ、どうなっていたのだろう?
ナマエの疑問は、中空で消えた。
◆◆◆
「×××××、あなたは仕合わせになりなさい」
誰かの声が聴こえる。
「例え、何を犠牲にしたとしても。この世で最も仕合わせになりなさい」
それは、ナマエの母の詞。祝いの詞は、今では呪言となり、彼を“誰よりも仕合わせにならなくてはならない”という渇望に駆り立てる。
朝。目覚めると、上総ナマエは泣いていた。
「おれは…………」
今朝見たはずの夢を、思い出せない。
涙を拭い、身支度をする。明神様に祈り、朝餉を済ませてから、仕事を始めた。
「ナマエ様、頼重様に新たに贈られてきた品々がございます。蔵の前に並べております故、記録をお願いいたします」
「分かった。すぐに向かう」
ナマエは、蔵前へ行き、荷解きをして中身を確認する。そして、目録に記していった。
「これは…………?」
封じられた壺の中に、一匹の大きな百足がいる。
「ナマエ様?」
「これは、呪詛だ」
「なっ!? 明神様をお呼びします!」
「いらぬ! 大した術ではない。おれが祓う」
ナマエは、箸を持って来させて、百足を摘まみ上げた。
諏訪の祝詞を唱え、「ふっ」と息を吹きかける。すると百足は、さらさらと塵になって消え失せる。
「おお…………」
「おれも、神職の端くれ。下等な呪など、息吹きで祓える」
ナマエは、苦々しい表情をした。
「これを寄越したのは誰だ?」
「すぐにお調べします!」
付き人が去った後、ナマエは仕事の続きを行う。
そうして、記録と蔵の中への保管を終えたところで、付き人が戻った。
「ナマエ様、あの壺を贈った者ですが、書かれた名も居所も、全くの嘘偽りでした」
「やはり」
ナマエは、然程慌てずに呟く。
実は、先刻彼が施したのは、単なる解呪ではない。呪詛返しである。
「頼重様には、おれがお伝えする」
「はっ」
ナマエは、頼重の元へ向かい、呪を寄越した者は百足に襲われているはずだと告げた。
「そうか。ならば、よし。ナマエ、お前は変わりないか?」
「はい。大事ありません」
「では、下がってよろしい」
「失礼いたします」
ナマエが去ってから、頼重は思案する。
そして、神通力を以て術者のおおよその居場所を突き止めた。
「そこの者」
「はい」
「今から告げる所に、“百足と蛇に噛まれた者”がいる。その者を捕らえなさい」
「畏まりました」
こうして、術者は捕まり、一件落着する。
下手人になれず終いのつまらぬ男だった。
それよりも気がかりなのは、上総ナマエのこと。
ナマエは、“蛇”を差し向けたことに気付いていない。
頼重は、青年の行く末を見守ろうと、改めて思った。
◆◆◆
諏訪頼重が出陣することになった。
ナマエは、供をすると申し出る。そうして、諏訪大社から離れた。
1335年7月24日。北条時行が鎌倉を奪還した。
その様を、ナマエは遠くから見ていた。
それから、同年。諏訪頼重は自刃した。
その様を、ナマエは側で見ていた。
顔の皮を剥ぐのは、頼重から与えられた、彼の最後の役目。
それを終えた後、ナマエも死のうと思った。しかし。
「ナマエ。生きなさい」と、頼重の声が聴こえたから。彼は、走り出した。
ひたすらに駆け抜けて、駆け抜けて。
気付けば、人気のない泉にいた。
からからの喉を潤し、しばし水面に映る欠けた月を見る。
「頼重様…………」
神様を亡くした世界で、どう生きていけばよいのだろうか?
ナマエは、ひとり考えた。
己は、恩を返せていただろうか? 自分がいた意味はあったのだろうか?
今にも泣き叫びそうな心を抑え、ナマエは、また走り出す。
逃げて、生き延びなければならなかった。
黄泉路の供は、許されていない。
叶うなら、生きて貴方と共にいたかった。
もう、それは遠い夢。
上総ナマエが北条時行と再会したおり、彼は一瞬思ってしまった。
お前さえいなければ。
毒蛇のように這う呪わしい詞。
「ナマエ殿?」
「……いえ、なんでも。時行様。おれは、あなたの味方です。なんなりとお申し付けください」
「ありがとう、ナマエ殿」
黒い蛇は、ナマエの心の臓に巻き付いている。
ある日、ナマエが寝床で目覚めた朝。ぷつり、と何かが切れた気がした。
ナマエは、自身を呪う。そして、この世をも呪う。
「ナマエ様、おはようござ……ひっ!?」
付き人が、いつも朝早くから顔を見せる執事が来ないので、心配して来た時。ナマエは、黒い大蛇を顕現させていた。
「し、雫様! ナマエ様が、蛇、蛇に!」
急ぎ、雫を呼びに行く付き人。
一方、ナマエは時行の元へ向かっていた。
「呪わしい……この世の全てが…………」
最早、怨念を抱いた化物になっている。
「ナマエ殿!?」
時行と相対した男は、けたけた笑った。
「まずは、お前だ…………」
蛇が、時行を襲う。
時行は、逃げた。逃げながら、考える。
今のナマエは、とても正気とは思えない。
あの蛇は、一体なんだ?
「兄様!」
「雫!」
「あれは、ナマエに巣食う呪いです! どうか、ナマエを助けてください!」
「分かった!」
刀を構え、ナマエと対峙する時行。
「ナマエ殿、いざ勝負!」
南北朝鬼ごっこ
怨嗟黒縄鬼 上総ナマエ
◆◆◆
黒い大蛇は、ナマエの体に巻き付くように在る。
「春告鳥の羽を毟ろう……夏の蟬の声を枯らそう……秋茜の目玉を潰そう……冬の寒雀を喰らおう……」
ナマエが呪詛を吐くと、蛇は時行に牙を剥いた。
それを避け、時行は懸命にナマエに声をかける。
「ナマエ殿! 正気を取り戻してくれ!」
「煩いな、羽虫が……」
「ぐっ!」
時行は、すんでのところで蛇の毒牙を刀で受けた。
「日の下の赤潮……死骸……死骸を食む魚群……その様を見ていた……ただ見ていた……」
「ナマエ殿、貴方は優しい方だ! 本心では、こんなことを望んでいない筈!」
「羽虫毟る……羽を……憎い…………」
ナマエの狂気を孕んだ両の目が、時行を見据える。
「憎い! 憎い憎い憎い! お前が生きているせいで、おれは仕合わせになれなかった! 憎らしい、怨めしい、その命で償え! 北条時行ぃ!」
鬼の形相。大蛇が時行目掛けて跳んで来る。
それを避け、徐々にナマエへと近付く時行。
「ナマエ殿は、私を殺してどうする?」
「どう…………?」
一瞬、大蛇の動きが止まる。
「考えてほしい。諏訪頼重が何を思うか。貴方が人を殺め、鬼に成り果てた時、悲しむのは?」
「頼重様は……もういない…………」
ナマエは、涙を流した。
「貴方にも分かる筈。諏訪のために生きてきた貴方にならば!」
「……諏訪湖に映る月が掬えない」
「月?」
「おれの両の手は、月に届かない……」
自身の掌を見つめるナマエ。
思い出すのは、頼重に手を引かれた夜半のこと。
「あの刹那こそが、おれの仕合わせだったのか…………」
黒い大蛇が姿を消し、上総ナマエは倒れた。
「ナマエ殿! 雫! ナマエ殿を!」
「はい!」
遠退く意識。近付く彼岸。
彼の生で、最も大切な人の声。
「ナマエ」
「頼重様?」
「まだ此方に来るには早い。帰りなさい」
「しかし、おれは……罪を犯しました…………」
「それでも、生きなさい。自身の過去を全て背負ったまま、進みなさい」
「頼重様…………」
ナマエは、ぼろぼろと涙を溢した。
「それは、ご命令ですか?」
「いいえ。私の願いです」
「………承知致しました」
「ナマエ、またいつか会おう」
「はい」
目覚めたナマエは、涙を拭い、時行を探す。
そして、両膝をついて、頭を垂れて謝った。
「申し訳ございませんでした! 時行様を手にかけようなどと……!」
謝られた少年は、慌てた様子で、「ナマエ殿には、呪がかかっていたと聞きました。だから、貴方に罪はない」と言う。
「ありがとうございます、時行様。お赦しいただけるのでしたら、おれは此処に居たい」
「居てもらわないと困る! ナマエ殿には、諏訪の事を語り継いでほしい」
「はい! 上総ナマエ、承知致しました!」
それからは、諏訪にまつわる事を書き残す日々が戻ってきた。
上総の生まれだから、氏を上総。名は、育ての親である神主が付けた。
「ナマエ」
「はい」
「お前も、もう十五歳。どこへなりと行くがいい」
1330年。十五回目のナマエが拾われた日。
「はい。おれは、諏訪大社へ行きます。明神様に仕え、諏訪へのご恩返しをいたします」
ナマエは、その日のうちに出立する。
諏訪の総本山、諏訪大社をこの目で見たい。明神様をこの目で見たい。
そんな憧れと共に。
信濃国へ入り、ひたすら目的地を目指す。
路銀は、加持祈祷を行い稼いだ。
持ってきた鰯の干物が尽きた頃、上社の本宮へと到着する。
「ここが、諏訪大社…………」
上総国の諏訪神社とは比べ物にならないほど立派な建造物。ナマエは、圧倒された。
ぼうっと突っ立っていると、巫女に話しかけられる。
「どうかなさいました?」
「ここで働かせていただきたい!」
「えっ?!」
「上総国のナマエと申します! 読み書きが出来ます! 料理も少し! 物覚えには自信があります! あとは、えーと、なんでもしますので! どうか!」
「少々お待ちくださいまし」
巫女は、屋内へと引っ込んで行った。
ナマエは、待つ。
しばらくすると、狩衣を着た男が、やって来た。
「貴方が来ることは、知っていました。私、諏訪頼重といいます」
「諏訪頼重様!? おれ、いや、私がお目通り叶うとは……」
すかさず、跪き、頭を垂れるナマエ。
「ナマエ。貴方は、えーと。未来では、立派な……あ、これまだダメか……まあ、頑張りなさい」
「それは、お仕え出来るということでしょうか?」
「ええ」
「ありがとうございます! 頼重様!」
ナマエの目が、真っ直ぐに頼重を捉えた。
その瞳は、僅かに狂気を光らせている。
その後。ナマエを巫女に任せてから、頼重は、物陰に潜んでいた童女に声をかけられた。
「とおさま。よかったのですか? あのものには、“呪”がかかっております」
それは、纏わり付く黒縄のように。
「あれは、元々は“祝”だったもの。ナマエは、打ち勝てる」
「そうですか…………」
そんな会話なぞ、露知らず。ナマエは、田舎者丸出しで、あちこちを見ては感嘆の声を上げていた。
「こちらを、貴方の居とされるよう仰せ付かっております」
「はい! 案内、誠に感謝いたします、巫女様」
「そんなに堅苦しくせずとも……」
「いえ、おれは、新参者ゆえ」
「ふふ。では、今日からよろしくお願いしますね」
「よろしくお願いします!」
そして、四年の月日が流れ。ナマエは、十九歳になった。
宣言通り、なんでもこなすようになったナマエは、諏訪の執事のひとりとして生活している。
北条時行が逃げ延びて来るまで、後少し。
◆◆◆
上総ナマエは、嘘をつくのが得意ではなかった。
しかし、それでも頼重は、長寿丸の正体が北条時行だと告げる。
「長寿丸殿!」
「ナマエ殿」
「鰯の干物です。郎党の皆と、どうぞ」
「ありがとうございます」
頼重は、ナマエに「普通の子供として接しなさい」とだけ言い含めた。それが、すとんと腑に落ちたので、生真面目な男は、弟がいたらこうする、ということをし続けている。
鰯は、ナマエの好物だ。上総国では、早朝の漁で取れた新鮮なものを焼いて食べていた。
「ナマエ殿」
「はい」
「上総国は、どのようなところですか?」
「おれがいたところは、海が近く、長閑なものでした。ただの田舎とも言いますが」
「海は……好きですか……?」
「ええ。諏訪神社は小高い丘にありました。そこから毎日、美しい海を眺めておりましたよ」
長寿丸は、嬉しそうに笑う。
「では、仕事に戻りますゆえ、失礼します」
「はい」
ナマエは、“表向き”の諏訪大社での出来事を綴っている。
日の出から、日の入りまで。記録をつけた。
また、出納帳や調度品の目録をつけるのも、彼の仕事である。
大恩ある諏訪のため、朝な夕な働いた。
「ナマエ」と、少女の声。
「雫様。いかがなさいました?」
「体に異変はありませんか?」
「ありませんが…………」
「そうですか」
上総ナマエの首元から足先まで、黒い蛇のような影が纏わり付いているのが、彼女には見えるのだ。
「何かあれば、すぐに言うように」
「はい!」
雫と別れ、自室へ戻る。
夕餉を済ませた後、一時散歩に出た。
諏訪湖を眺めて、心穏やかに過ごす。水面に映る月が揺らめき、何かを伝えようとしてるかのようだった。
「おれは、仕合わせだな」
ぽつりと呟く。
そう。仕合わせなのだ。それなのに、このどうしようもない“渇き”は、なんなのだろう?
頼重様なら、お教えくださるだろうか?
そうは思うのだが、その問いが恥じ入るべきもののような気がして。訊けないままでいる。
不協和。神楽の鈴の音に混じる異音。ナマエには、その正体が分からない。
ただ、解を求めて、湖の中へ入る。
「ナマエ!」
「…………」
視界が白と黒になっていた。うっすら聴こえるのは、明神様の声。
「頼重様?」
「ナマエ、何をしている?」
「おれは……月を掬おうとしておりました…………」
膝まで水に浸かっている男は、童のようなことを言う。
「お前の求めるものは、そこにはない」
「はい…………」
ナマエは、大人しく湖から出た。
頼重は、ナマエの腕を掴み、現世に引き戻す。
あなたの声がなければ、どうなっていたのだろう?
ナマエの疑問は、中空で消えた。
◆◆◆
「×××××、あなたは仕合わせになりなさい」
誰かの声が聴こえる。
「例え、何を犠牲にしたとしても。この世で最も仕合わせになりなさい」
それは、ナマエの母の詞。祝いの詞は、今では呪言となり、彼を“誰よりも仕合わせにならなくてはならない”という渇望に駆り立てる。
朝。目覚めると、上総ナマエは泣いていた。
「おれは…………」
今朝見たはずの夢を、思い出せない。
涙を拭い、身支度をする。明神様に祈り、朝餉を済ませてから、仕事を始めた。
「ナマエ様、頼重様に新たに贈られてきた品々がございます。蔵の前に並べております故、記録をお願いいたします」
「分かった。すぐに向かう」
ナマエは、蔵前へ行き、荷解きをして中身を確認する。そして、目録に記していった。
「これは…………?」
封じられた壺の中に、一匹の大きな百足がいる。
「ナマエ様?」
「これは、呪詛だ」
「なっ!? 明神様をお呼びします!」
「いらぬ! 大した術ではない。おれが祓う」
ナマエは、箸を持って来させて、百足を摘まみ上げた。
諏訪の祝詞を唱え、「ふっ」と息を吹きかける。すると百足は、さらさらと塵になって消え失せる。
「おお…………」
「おれも、神職の端くれ。下等な呪など、息吹きで祓える」
ナマエは、苦々しい表情をした。
「これを寄越したのは誰だ?」
「すぐにお調べします!」
付き人が去った後、ナマエは仕事の続きを行う。
そうして、記録と蔵の中への保管を終えたところで、付き人が戻った。
「ナマエ様、あの壺を贈った者ですが、書かれた名も居所も、全くの嘘偽りでした」
「やはり」
ナマエは、然程慌てずに呟く。
実は、先刻彼が施したのは、単なる解呪ではない。呪詛返しである。
「頼重様には、おれがお伝えする」
「はっ」
ナマエは、頼重の元へ向かい、呪を寄越した者は百足に襲われているはずだと告げた。
「そうか。ならば、よし。ナマエ、お前は変わりないか?」
「はい。大事ありません」
「では、下がってよろしい」
「失礼いたします」
ナマエが去ってから、頼重は思案する。
そして、神通力を以て術者のおおよその居場所を突き止めた。
「そこの者」
「はい」
「今から告げる所に、“百足と蛇に噛まれた者”がいる。その者を捕らえなさい」
「畏まりました」
こうして、術者は捕まり、一件落着する。
下手人になれず終いのつまらぬ男だった。
それよりも気がかりなのは、上総ナマエのこと。
ナマエは、“蛇”を差し向けたことに気付いていない。
頼重は、青年の行く末を見守ろうと、改めて思った。
◆◆◆
諏訪頼重が出陣することになった。
ナマエは、供をすると申し出る。そうして、諏訪大社から離れた。
1335年7月24日。北条時行が鎌倉を奪還した。
その様を、ナマエは遠くから見ていた。
それから、同年。諏訪頼重は自刃した。
その様を、ナマエは側で見ていた。
顔の皮を剥ぐのは、頼重から与えられた、彼の最後の役目。
それを終えた後、ナマエも死のうと思った。しかし。
「ナマエ。生きなさい」と、頼重の声が聴こえたから。彼は、走り出した。
ひたすらに駆け抜けて、駆け抜けて。
気付けば、人気のない泉にいた。
からからの喉を潤し、しばし水面に映る欠けた月を見る。
「頼重様…………」
神様を亡くした世界で、どう生きていけばよいのだろうか?
ナマエは、ひとり考えた。
己は、恩を返せていただろうか? 自分がいた意味はあったのだろうか?
今にも泣き叫びそうな心を抑え、ナマエは、また走り出す。
逃げて、生き延びなければならなかった。
黄泉路の供は、許されていない。
叶うなら、生きて貴方と共にいたかった。
もう、それは遠い夢。
上総ナマエが北条時行と再会したおり、彼は一瞬思ってしまった。
お前さえいなければ。
毒蛇のように這う呪わしい詞。
「ナマエ殿?」
「……いえ、なんでも。時行様。おれは、あなたの味方です。なんなりとお申し付けください」
「ありがとう、ナマエ殿」
黒い蛇は、ナマエの心の臓に巻き付いている。
ある日、ナマエが寝床で目覚めた朝。ぷつり、と何かが切れた気がした。
ナマエは、自身を呪う。そして、この世をも呪う。
「ナマエ様、おはようござ……ひっ!?」
付き人が、いつも朝早くから顔を見せる執事が来ないので、心配して来た時。ナマエは、黒い大蛇を顕現させていた。
「し、雫様! ナマエ様が、蛇、蛇に!」
急ぎ、雫を呼びに行く付き人。
一方、ナマエは時行の元へ向かっていた。
「呪わしい……この世の全てが…………」
最早、怨念を抱いた化物になっている。
「ナマエ殿!?」
時行と相対した男は、けたけた笑った。
「まずは、お前だ…………」
蛇が、時行を襲う。
時行は、逃げた。逃げながら、考える。
今のナマエは、とても正気とは思えない。
あの蛇は、一体なんだ?
「兄様!」
「雫!」
「あれは、ナマエに巣食う呪いです! どうか、ナマエを助けてください!」
「分かった!」
刀を構え、ナマエと対峙する時行。
「ナマエ殿、いざ勝負!」
南北朝鬼ごっこ
怨嗟黒縄鬼 上総ナマエ
◆◆◆
黒い大蛇は、ナマエの体に巻き付くように在る。
「春告鳥の羽を毟ろう……夏の蟬の声を枯らそう……秋茜の目玉を潰そう……冬の寒雀を喰らおう……」
ナマエが呪詛を吐くと、蛇は時行に牙を剥いた。
それを避け、時行は懸命にナマエに声をかける。
「ナマエ殿! 正気を取り戻してくれ!」
「煩いな、羽虫が……」
「ぐっ!」
時行は、すんでのところで蛇の毒牙を刀で受けた。
「日の下の赤潮……死骸……死骸を食む魚群……その様を見ていた……ただ見ていた……」
「ナマエ殿、貴方は優しい方だ! 本心では、こんなことを望んでいない筈!」
「羽虫毟る……羽を……憎い…………」
ナマエの狂気を孕んだ両の目が、時行を見据える。
「憎い! 憎い憎い憎い! お前が生きているせいで、おれは仕合わせになれなかった! 憎らしい、怨めしい、その命で償え! 北条時行ぃ!」
鬼の形相。大蛇が時行目掛けて跳んで来る。
それを避け、徐々にナマエへと近付く時行。
「ナマエ殿は、私を殺してどうする?」
「どう…………?」
一瞬、大蛇の動きが止まる。
「考えてほしい。諏訪頼重が何を思うか。貴方が人を殺め、鬼に成り果てた時、悲しむのは?」
「頼重様は……もういない…………」
ナマエは、涙を流した。
「貴方にも分かる筈。諏訪のために生きてきた貴方にならば!」
「……諏訪湖に映る月が掬えない」
「月?」
「おれの両の手は、月に届かない……」
自身の掌を見つめるナマエ。
思い出すのは、頼重に手を引かれた夜半のこと。
「あの刹那こそが、おれの仕合わせだったのか…………」
黒い大蛇が姿を消し、上総ナマエは倒れた。
「ナマエ殿! 雫! ナマエ殿を!」
「はい!」
遠退く意識。近付く彼岸。
彼の生で、最も大切な人の声。
「ナマエ」
「頼重様?」
「まだ此方に来るには早い。帰りなさい」
「しかし、おれは……罪を犯しました…………」
「それでも、生きなさい。自身の過去を全て背負ったまま、進みなさい」
「頼重様…………」
ナマエは、ぼろぼろと涙を溢した。
「それは、ご命令ですか?」
「いいえ。私の願いです」
「………承知致しました」
「ナマエ、またいつか会おう」
「はい」
目覚めたナマエは、涙を拭い、時行を探す。
そして、両膝をついて、頭を垂れて謝った。
「申し訳ございませんでした! 時行様を手にかけようなどと……!」
謝られた少年は、慌てた様子で、「ナマエ殿には、呪がかかっていたと聞きました。だから、貴方に罪はない」と言う。
「ありがとうございます、時行様。お赦しいただけるのでしたら、おれは此処に居たい」
「居てもらわないと困る! ナマエ殿には、諏訪の事を語り継いでほしい」
「はい! 上総ナマエ、承知致しました!」
それからは、諏訪にまつわる事を書き残す日々が戻ってきた。
