些末シリーズ
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どうして、こんなことになったのだろう。ミョウジナマエと付き合いだしてから数日経つが、松野一松は毎日そう考えてしまう。
(ナマエは、おれのことを好きでもないのに付き合ってる……?)
それは、残酷なことだと思う。
その一方で、少しの嬉しさもあった。理由はどうあれ、ナマエと恋人同士になれたという事実。
責任を取れと脅したような形だったけれど、相変わらずナマエは自身の命を軽く見ているけれど。問題は依然、山積みだけれど。
一松の幸せに、ナマエの存在が不可欠だと言ってみたら、彼はどんな顔をするのだろう。困るか、それとも信じないか。まあ、それ以前に一松は、そんなことを言えないのだが。
「トド松、山登りに必要なものって何?」
「え? 急に何?」
突然、部屋の隅で猫と戯れていた一松が妙な質問をしてきたので、ソファーに座っているトド松は、携帯電話の画面から顔を上げた。視線の先の一松は、猫を抱えて、そっぽを向いている。
「あと、ダイビングってやったことある?」
「ほんと、どうしたの? アウトドアに目覚めたの?」
「いや、別に……」
「まさか……死体を隠しに……?!」
「いや、どちらかといえば逆」
「逆って何?! 見付けにってこと?!」
「まあ。まだ予定はないけど」
せめて、その時に向けて備えていようと考えた。
◆◆◆
あまり目を合わせられないのは、相手の顔から自分への不快感を見付けてしまうのが怖いからかもしれない。
「でさー、そのオッサンが包丁ぶん回してきたんだよ」
「うん……」
ナマエが喋り、一松は相槌を打つ。そして、目線は壁にやる。
松野家二階で、ふたりは床に座って微妙な距離を保っている。ナマエは窓の近くにおり、一松は廊下側の本棚の前で体育座りしている。
「で、俺が避けたらオッサン勝手に窓から落ちてさ」
「うん……」
「二階とはいえ死なれちゃ困るから急いで窓から下見たら、見事に服が木に引っ掛かってて流石に笑っちゃったよ」
「へぇ」
話が一段落したところで、ナマエは一松から目を離す。そうして初めて一松は彼に目を向けられる。
今日も黒いジャージと伊達眼鏡を身に付けているナマエに、スーツにサングラスだった頃の威圧感は、もう無い。まあ、それでも目は合わせられないのだが。
盗み見るように、窓の外を眺めるナマエの顔を観察する。最近、どうもこの顔が好きらしいと気付いた。
顔の造作ではなく、自分に様々な表情を見せてくるところを好ましく思う。ナマエが、くるくると表情を変えるのを横目で見るのは楽しかった。
そんなことを考えていると、ナマエが窓の外から視線を部屋の中に戻したので、目が合った。うっかり、長く見過ぎてしまったのだ。
青空を背にしたナマエは少し驚いた表情をした後、柔らかく微笑んだ。一松は、ナマエの愛くるしい小動物を見ているかのような表情に驚きを隠せない。
「なに目ぇ丸くしてんの?」
「……別に」
「ふーん」
何を思ったのか、ナマエは四つん這いで、体育座りをしている一松に近付いてきた。
「な、なに……?」
無言のまま、両手が顔に添えられた。ナマエはじっと一松を見つめている。
たまらず両手でナマエの腕を掴んで外そうとするが、びくともしない。
(力強過ぎ。顔が熱い。目を逸らしたい……!)
「猫って、好きな相手とは目を合わせてくれるらしいんだよ」
「へ?」
ナマエは予想外の言葉を発した。
「一松は俺と目ぇ合わせてくれないの?」
「だ、誰が……スコティッシュフォールドだ……」
「スコティッシュフォールドは甘えたがりだって聞いたことあるけど?」
「全部が全部そうな訳……ない……」
「そもそも君は人間だしね」
ナマエは更に距離を詰めてきた。文字通り目の前に顔があり、思わず目を閉じてしまう。
「ん……?!」
唇に柔らかいものが押し当てられ、目を見開くとナマエと目が合う。舌が口内に入り込んできて絡ませられると、視界がぼやけてきた。
「ナマエ…………やめ…………」
「眼鏡邪魔だな」
悪態をついて無造作に眼鏡を投げ、欲に溶けたような目を向けて、再び口内に舌を滑り込ませてくる。
「やっぱり、舌ザラザラしてないね」
(まさか、それを確かめるためにこんなことしてるの?)
いくらナマエが少し変わった人物とはいえ、流石にそんなことはないと思いたい。
「ふ……あっ……」
もう、限界だった。色々拗らせている一松は、許容量を遥かに越えた接触のせいで死を覚悟した。
「あれ? 一松?」
ナマエの声を遠くに聴きながら、彼の意識は薄れていった。
◆◆◆
ナマエは眼鏡をかけ直してから、気を失った一松をソファーに寝かせて毛布をかけ、「恋人っぽいかな」と考えて膝枕をし、手持ちぶさたになったので頭を撫でていた。
始めは苦しげな顔をしていた一松だが、今はスヤスヤと安らかに眠っている。
そうしていると、誰かが慌ただしく帰宅し、階段を駆け上がって来て襖を勢いよく開けた。
「おい! 明日から新台来るってよ! 確変割合が――」
おそ松は、ナマエたちを見た途端に勢いを失い、ナマエはナマエで、突然のことに何も反応出来なかった。
ふたりが固まっていると、おそ松の後から来ていたチョロ松も二階へ上がって来た。
「何してんの? 中に何か――」
部屋を覗き込んだチョロ松も絶句した。
このまま膠着状態が続くかと思いきや、勢いを取り戻したおそ松がそれを破る。
「なにアレ?! アレ欲しいアレ! アレの見た目が可愛い女の子のやつ!」
「そんな、家電量販店に行けば型違いが置いてあるみたいに言われても!」
ナマエを指差しながら騒ぎ立てるおそ松に、律儀に突っ込むチョロ松。
「なんだソレ? 膝枕ロボ? ってかうるさいよ、お前ら」
ナマエが文句を言うが、ふたりは構わず喋り続ける。ちなみに、おそ松が欲しがっているのは、言うなれば彼女ロボだ。
「え? いや、それより何? この状況……」
「ナマエと一松ってもしかしてデキてんの?! 式はいつ?」
チョロ松はあからさまに引いているし、おそ松は教育実習生に絡む小学生のように鬱陶しくからかって来る。
「うわー。ぬるっとバレた。一松くん、起きて。起き抜けにこの状況になってるの最悪だろうけど、起きて。あと、俺のこと怒らないで」
ナマエが肩を掴んで揺すると、一松は両手で、その手を取って頬擦りした。
「一松くん、寝ぼけてるの? 俺を現実という名の地獄で独りにしないで」
「完っ全にデキてるよね?」
「……この一松、気持ち悪っ」
部屋の中に入って来たふたりは、好き勝手言っている。
「やっぱ寝ててもいいよ、一松。現実は辛過ぎるもんな」
ナマエは、空いている方の手で一松の頭を撫でた。
「ナマエ、真面目に答えてほしいんだけど、一松と付き合ってるの?」
「俺からは何とも…………」
「んん…………」
ふいに、一松が薄く目を開いた。
「起きてしまったか、一松」
「ナマエ…………? あれ…………え……?!」
一松は飛び上がるように起き、ソファーの上で正座した。
「どういう状況……?」
「ごめんなさい。ぶたないで」
「一松、式はいつ?」
「一松、ナマエと付き合ってるの?」
ナマエには謝られ、兄ふたりには理解を拒みたくなるようなことを言われた。
「うっ…………」
一松は言葉に詰まり、ふらふらと窓へ近付いて開け放つと、縁に片足をかけた。
「待て! 落ち着け!」
ナマエは急いで一松を羽交い締めにして、引き摺り戻した。そして一松を押さえ付けたままソファーに座り、チョロ松の疑問に答える。
「付き合ってないよ、たぶん。試用期間だから、ノーカン」
「なんだそれ?!」
「よく分かんないけど、やっぱ付き合ってんじゃね? ってことは弟が増えたの? お兄ちゃん、どうせなら妹が欲しかったなぁ」
「いや、冷静になって。それって一松に彼女が出来るってことだよ?」
「今のナーシ」
「ちょっとは考えてもの言ってよね」
「彼女だったら腹立つけど、彼氏だとそんなでもないな。友達いないのを拗らせたんだなって感じ」
「うんうん。もしくは、モテなさ過ぎてそっちに行ったんだなって感じだよね」
おそ松とチョロ松は口々に勝手なことを言っている。
「ねえ、一松オニイチャンのオニイチャンたち、酷くない?」
「実はアイツらクズなんだ」
「知らなかったわー」
◆◆◆
松野家に居づらくなったふたりは、ナマエの部屋に逃げて来た。
ソファーに並んで座っているのだが、やっぱり一松はナマエから微妙に距離を開けている。
「一松って結構可愛いよね」
一松が気絶する前のやり取りを思い出しながら、ナマエは言った。横目で一松を窺うと、こちらを睨んでいる。
「……は? 何か企んでる?」
「そういうとこは可愛くない。人のこと言えないけど。君も、ご馳走が用意されてたら毒入りなのかなって思うタイプ?」
「場合による」
「便利な答えだな」
ナマエは一松を見ると、鏡面を覗いたかのような気分になることがあるほど、似ていると思っている。
しかし、似ていてほしいだけなのではないかとも思う。そうでなかったら、あまりに孤独だからだ。
そして、似てはいるが、そっくりではないことは重々承知している。一番大きな違いは、確固たる自己の有無である。一松は、自分のことがよく分からないナマエとは違う。好きなものがあり、嫌いなものがある。したいこと、したくないことがある。ナマエはというと、何をするにも、しないにも、いちいち長考しなくては決められない。
「はぁ……嫌だなぁ…………」
何故、自分の思考はいつも自身の害毒となってしまうのか。
ナマエにも、嫌いなものはある。ミョウジナマエという人間が、一番に思い浮かぶ。
「ねぇ」
自己嫌悪に陥っていたナマエに、一松が声をかけた。
「……何?」
「相談、すれば……辛そうだし……解決できるとは限らないけど……」
「俺のことを大切に思わないで」
およそ、自分を好いているであろう人間に吐いていい言葉ではないと思いながらも、ナマエはそれを口にしてしまった。
「…………おれに、どうしろっていうの……?」
「物みたいに扱って」
その言葉は艶めいた響きだが、白磁にヒビが入るような、滅びゆく美しさである。ヒビは、いずれ決定的な破滅をもたらす。
ふたりは、何度も関係性が変わってきた。
他人から敵に。敵から友人に。友人から、恋人のようなものに。
次は主人と奴隷か? それでは駄目だろうと、一松は思っている。それはつまり、ナマエに依存されるということになるのだから。
一度は遠ざけた暗い選択肢を、再びナマエに突き付けられてしまった。人の根っこは、そう簡単には変わらないのだ。
健やかでいてほしい。穏やかな日々を送ってほしい。日の当たるところで笑ってほしい。願うのは易いが、叶えることのなんと難しいことだろう。
「嫌だ。そんなことしたら、依存するだろ」
一松は、はっきりと拒否した。
「恋人に依存するのって悪いこと? 好きと依存の境界って?」
無意識だが、ナマエにとっては「どこまでも尽くす」というのが好意を表す唯一の手段だった。ナマエは決して「尽くすのが好き」という訳ではなく、「好きな人に尽くしたい」と思う人間なのである。
本人は、そのことを理解していない。自分の中に「好き」というものを見付けても、それが本当に「好き」だという自信がないからだ。また、思考を放棄したがる癖があるのと依存心が強いのは事実なので、事態をややこしくした。
「それは…………」
「優しくされると罪悪感でいっぱいになるんだ。それに、優しさを素直に受け取れない自分に嫌気が差すよ」
ナマエは滑り落ちるように、ソファーから床の上に座り直した。そして眼鏡を外し、目元を右手で覆い隠してローテーブルに肘をつく。ほとほと参っているようだ。
「……ナマエの――――」
一松は独自理論と共に、ナマエには到底考え付かない奇策というか何というか、そんなものを述べた。
「一松って、やっぱりそうなんじゃん…………」
ナマエには、「嘘つき」と非難することは出来なかった。床から、ソファーに座る一松を見上げ、それだけ言うのが精一杯だった。
◆◆◆
ナマエは、一松の喉元に素足を突き出し、そのまま足で顎を上げさせた。一松は頬を紅潮させてナマエを見上げている。
「舐めて」
少し足を引き、つま先で一松の唇を押しながら命令した。
無言で、しかし興奮で息を荒くしながらナマエの足先に舌を這わせる一松を、ナマエは愉快そうに見ている。
指の間まで舐めさせた後、顔を踏みつけると、一松は恍惚とした表情を浮かべた。
「こんなことで勃つんだねぇ、一松くん?」
深く腰掛けていたソファーから身を乗り出し、膝立ちしていた一松の股間を足の甲で、するりと下から上に撫でた。
「あっ…………」
「年下の男にこんなことされて気持ち良いの?」
一松は口を引き結び、俯いた。
「ソレ、足で扱いてあげようか?」
「う……いや…………」
「正直に答えなよ」
「して……ほしい…………」
「は? なんて?」
口の利き方に気を付けろ、とその表情は訴えていた。
「足でして、ください…………」
正座をして上目遣いをする一松。
「よし、偉い偉い。正直な人は好きだよ」
ナマエは、そう言って、一松の頭を撫でる。
「でも、してあーげない」
ナマエは、片手で口元を隠してクスクスと笑う。
目は笑っておらず、一松に冷ややかな視線を向けている。その蔑んだような目に、背筋がぞくぞくした。
ナマエは、そんな一松をしばらく見つめていたのだが、「おほん」とわざとらしく咳払いした後に、いつもの軽薄そうな顔に戻った。
「こんな感じ? 上手く出来た?」
「上手過ぎる」
「俺の中のSっ気を掻き集めた」
ふたりが、ソフトSMを始めたのには理由がある。
「ナマエの従いたがりは趣味なんじゃないの?」
事の始まりは、一松のこの発言からである。
「シタガイタガリ……?」
たった今、共通言語が乱されたのか? と思うぐらいに一松の言葉が理解できなかった。
しかし、一松はお構いなしに喋り続けている。一松は、趣味の範囲の主従関係になら、なっても問題ないと考えているらしい。
要するに性的ロールプレイの誘いだと、ナマエは、そう理解した。以前、一松を縄で縛り上げた際に浮上した疑惑。それが確信に変わった訳だ。
そんな経緯で一松の誘いに乗り、現在に至る。
「やっぱり俺、こういうの向いてる。誰かに尽くすの」
サディストの主人役を担ったナマエだが、あくまで主導権は一松のものだったので、大変やり易かった。
マルキ・ド・サドの著作では、相手が泣こうが喚こうが死のうが構わないという性的倒錯者が山ほど出てくるので、「サービス精神を持つサディスト」を見て、草葉の陰で泣いているかもしれない。過去でも現代でも、合意なしで事に及べば犯罪になるし、当然、合意があっても相手を死なせたら捕まるのだが。
「今度、逆やろうよ、逆。俺も足蹴にされてみたーい」
「別にいいけど……」
ナマエの悪癖を、無理矢理に趣味に落とし込むのが狙いではあったのだが、こうも上手く嵌まるとは。さすがの一松も驚いた。
「これなら俺たちって、恋人のままだよね?」
「たぶん、そうなんじゃない……?」
何度も関係性が変わってきた。
他人から敵に。敵から友人に。友人から、恋人のようなものに。
人間関係とは不可逆ではない。友人や恋人が、他人に戻ることもある。
ふたりは思う。もう変わらなくてもいいのに、と。しかし、ナマエは頭の中で「それは無理なんじゃないかな」という自分の声を聴いた。
この、自身を嘲笑う声は、ことあるごとにナマエの内で響く。
(うるさいな……)
ナマエが自身に文句を言っていると、一松が、おずおずと口を開いた。
「ちょっと抜いてくるから、トイレ貸して」
「ん。オッケー…………あ?」
「なに?」
「もしかして、俺……オカズにされる……?」
「え……まあ…………」
「人生面白いなー。俺も今度一松をオカズにしてみる」
「宣言する必要ある?」
顔を赤く染めた一松は、トイレへ逃げ去った。
ひとりになったナマエは、短く溜め息を吐く。
ナマエは、自分は一松のことを好きなのではないかと考えているが、確信は持てないままでいる。
「お前には、人を好きになるなんて無理だよ」
再び、自分を嘲る声がした。
「うるさいな……」
いつか、黙らせてやる。頭の中から追い出してやる。
「……早く人間に戻らなきゃ」
そうは言ったが、人間だった頃があったかどうか怪しいものだ。「物」になる前は、自分は何であったのか。
2017/06/28
(ナマエは、おれのことを好きでもないのに付き合ってる……?)
それは、残酷なことだと思う。
その一方で、少しの嬉しさもあった。理由はどうあれ、ナマエと恋人同士になれたという事実。
責任を取れと脅したような形だったけれど、相変わらずナマエは自身の命を軽く見ているけれど。問題は依然、山積みだけれど。
一松の幸せに、ナマエの存在が不可欠だと言ってみたら、彼はどんな顔をするのだろう。困るか、それとも信じないか。まあ、それ以前に一松は、そんなことを言えないのだが。
「トド松、山登りに必要なものって何?」
「え? 急に何?」
突然、部屋の隅で猫と戯れていた一松が妙な質問をしてきたので、ソファーに座っているトド松は、携帯電話の画面から顔を上げた。視線の先の一松は、猫を抱えて、そっぽを向いている。
「あと、ダイビングってやったことある?」
「ほんと、どうしたの? アウトドアに目覚めたの?」
「いや、別に……」
「まさか……死体を隠しに……?!」
「いや、どちらかといえば逆」
「逆って何?! 見付けにってこと?!」
「まあ。まだ予定はないけど」
せめて、その時に向けて備えていようと考えた。
◆◆◆
あまり目を合わせられないのは、相手の顔から自分への不快感を見付けてしまうのが怖いからかもしれない。
「でさー、そのオッサンが包丁ぶん回してきたんだよ」
「うん……」
ナマエが喋り、一松は相槌を打つ。そして、目線は壁にやる。
松野家二階で、ふたりは床に座って微妙な距離を保っている。ナマエは窓の近くにおり、一松は廊下側の本棚の前で体育座りしている。
「で、俺が避けたらオッサン勝手に窓から落ちてさ」
「うん……」
「二階とはいえ死なれちゃ困るから急いで窓から下見たら、見事に服が木に引っ掛かってて流石に笑っちゃったよ」
「へぇ」
話が一段落したところで、ナマエは一松から目を離す。そうして初めて一松は彼に目を向けられる。
今日も黒いジャージと伊達眼鏡を身に付けているナマエに、スーツにサングラスだった頃の威圧感は、もう無い。まあ、それでも目は合わせられないのだが。
盗み見るように、窓の外を眺めるナマエの顔を観察する。最近、どうもこの顔が好きらしいと気付いた。
顔の造作ではなく、自分に様々な表情を見せてくるところを好ましく思う。ナマエが、くるくると表情を変えるのを横目で見るのは楽しかった。
そんなことを考えていると、ナマエが窓の外から視線を部屋の中に戻したので、目が合った。うっかり、長く見過ぎてしまったのだ。
青空を背にしたナマエは少し驚いた表情をした後、柔らかく微笑んだ。一松は、ナマエの愛くるしい小動物を見ているかのような表情に驚きを隠せない。
「なに目ぇ丸くしてんの?」
「……別に」
「ふーん」
何を思ったのか、ナマエは四つん這いで、体育座りをしている一松に近付いてきた。
「な、なに……?」
無言のまま、両手が顔に添えられた。ナマエはじっと一松を見つめている。
たまらず両手でナマエの腕を掴んで外そうとするが、びくともしない。
(力強過ぎ。顔が熱い。目を逸らしたい……!)
「猫って、好きな相手とは目を合わせてくれるらしいんだよ」
「へ?」
ナマエは予想外の言葉を発した。
「一松は俺と目ぇ合わせてくれないの?」
「だ、誰が……スコティッシュフォールドだ……」
「スコティッシュフォールドは甘えたがりだって聞いたことあるけど?」
「全部が全部そうな訳……ない……」
「そもそも君は人間だしね」
ナマエは更に距離を詰めてきた。文字通り目の前に顔があり、思わず目を閉じてしまう。
「ん……?!」
唇に柔らかいものが押し当てられ、目を見開くとナマエと目が合う。舌が口内に入り込んできて絡ませられると、視界がぼやけてきた。
「ナマエ…………やめ…………」
「眼鏡邪魔だな」
悪態をついて無造作に眼鏡を投げ、欲に溶けたような目を向けて、再び口内に舌を滑り込ませてくる。
「やっぱり、舌ザラザラしてないね」
(まさか、それを確かめるためにこんなことしてるの?)
いくらナマエが少し変わった人物とはいえ、流石にそんなことはないと思いたい。
「ふ……あっ……」
もう、限界だった。色々拗らせている一松は、許容量を遥かに越えた接触のせいで死を覚悟した。
「あれ? 一松?」
ナマエの声を遠くに聴きながら、彼の意識は薄れていった。
◆◆◆
ナマエは眼鏡をかけ直してから、気を失った一松をソファーに寝かせて毛布をかけ、「恋人っぽいかな」と考えて膝枕をし、手持ちぶさたになったので頭を撫でていた。
始めは苦しげな顔をしていた一松だが、今はスヤスヤと安らかに眠っている。
そうしていると、誰かが慌ただしく帰宅し、階段を駆け上がって来て襖を勢いよく開けた。
「おい! 明日から新台来るってよ! 確変割合が――」
おそ松は、ナマエたちを見た途端に勢いを失い、ナマエはナマエで、突然のことに何も反応出来なかった。
ふたりが固まっていると、おそ松の後から来ていたチョロ松も二階へ上がって来た。
「何してんの? 中に何か――」
部屋を覗き込んだチョロ松も絶句した。
このまま膠着状態が続くかと思いきや、勢いを取り戻したおそ松がそれを破る。
「なにアレ?! アレ欲しいアレ! アレの見た目が可愛い女の子のやつ!」
「そんな、家電量販店に行けば型違いが置いてあるみたいに言われても!」
ナマエを指差しながら騒ぎ立てるおそ松に、律儀に突っ込むチョロ松。
「なんだソレ? 膝枕ロボ? ってかうるさいよ、お前ら」
ナマエが文句を言うが、ふたりは構わず喋り続ける。ちなみに、おそ松が欲しがっているのは、言うなれば彼女ロボだ。
「え? いや、それより何? この状況……」
「ナマエと一松ってもしかしてデキてんの?! 式はいつ?」
チョロ松はあからさまに引いているし、おそ松は教育実習生に絡む小学生のように鬱陶しくからかって来る。
「うわー。ぬるっとバレた。一松くん、起きて。起き抜けにこの状況になってるの最悪だろうけど、起きて。あと、俺のこと怒らないで」
ナマエが肩を掴んで揺すると、一松は両手で、その手を取って頬擦りした。
「一松くん、寝ぼけてるの? 俺を現実という名の地獄で独りにしないで」
「完っ全にデキてるよね?」
「……この一松、気持ち悪っ」
部屋の中に入って来たふたりは、好き勝手言っている。
「やっぱ寝ててもいいよ、一松。現実は辛過ぎるもんな」
ナマエは、空いている方の手で一松の頭を撫でた。
「ナマエ、真面目に答えてほしいんだけど、一松と付き合ってるの?」
「俺からは何とも…………」
「んん…………」
ふいに、一松が薄く目を開いた。
「起きてしまったか、一松」
「ナマエ…………? あれ…………え……?!」
一松は飛び上がるように起き、ソファーの上で正座した。
「どういう状況……?」
「ごめんなさい。ぶたないで」
「一松、式はいつ?」
「一松、ナマエと付き合ってるの?」
ナマエには謝られ、兄ふたりには理解を拒みたくなるようなことを言われた。
「うっ…………」
一松は言葉に詰まり、ふらふらと窓へ近付いて開け放つと、縁に片足をかけた。
「待て! 落ち着け!」
ナマエは急いで一松を羽交い締めにして、引き摺り戻した。そして一松を押さえ付けたままソファーに座り、チョロ松の疑問に答える。
「付き合ってないよ、たぶん。試用期間だから、ノーカン」
「なんだそれ?!」
「よく分かんないけど、やっぱ付き合ってんじゃね? ってことは弟が増えたの? お兄ちゃん、どうせなら妹が欲しかったなぁ」
「いや、冷静になって。それって一松に彼女が出来るってことだよ?」
「今のナーシ」
「ちょっとは考えてもの言ってよね」
「彼女だったら腹立つけど、彼氏だとそんなでもないな。友達いないのを拗らせたんだなって感じ」
「うんうん。もしくは、モテなさ過ぎてそっちに行ったんだなって感じだよね」
おそ松とチョロ松は口々に勝手なことを言っている。
「ねえ、一松オニイチャンのオニイチャンたち、酷くない?」
「実はアイツらクズなんだ」
「知らなかったわー」
◆◆◆
松野家に居づらくなったふたりは、ナマエの部屋に逃げて来た。
ソファーに並んで座っているのだが、やっぱり一松はナマエから微妙に距離を開けている。
「一松って結構可愛いよね」
一松が気絶する前のやり取りを思い出しながら、ナマエは言った。横目で一松を窺うと、こちらを睨んでいる。
「……は? 何か企んでる?」
「そういうとこは可愛くない。人のこと言えないけど。君も、ご馳走が用意されてたら毒入りなのかなって思うタイプ?」
「場合による」
「便利な答えだな」
ナマエは一松を見ると、鏡面を覗いたかのような気分になることがあるほど、似ていると思っている。
しかし、似ていてほしいだけなのではないかとも思う。そうでなかったら、あまりに孤独だからだ。
そして、似てはいるが、そっくりではないことは重々承知している。一番大きな違いは、確固たる自己の有無である。一松は、自分のことがよく分からないナマエとは違う。好きなものがあり、嫌いなものがある。したいこと、したくないことがある。ナマエはというと、何をするにも、しないにも、いちいち長考しなくては決められない。
「はぁ……嫌だなぁ…………」
何故、自分の思考はいつも自身の害毒となってしまうのか。
ナマエにも、嫌いなものはある。ミョウジナマエという人間が、一番に思い浮かぶ。
「ねぇ」
自己嫌悪に陥っていたナマエに、一松が声をかけた。
「……何?」
「相談、すれば……辛そうだし……解決できるとは限らないけど……」
「俺のことを大切に思わないで」
およそ、自分を好いているであろう人間に吐いていい言葉ではないと思いながらも、ナマエはそれを口にしてしまった。
「…………おれに、どうしろっていうの……?」
「物みたいに扱って」
その言葉は艶めいた響きだが、白磁にヒビが入るような、滅びゆく美しさである。ヒビは、いずれ決定的な破滅をもたらす。
ふたりは、何度も関係性が変わってきた。
他人から敵に。敵から友人に。友人から、恋人のようなものに。
次は主人と奴隷か? それでは駄目だろうと、一松は思っている。それはつまり、ナマエに依存されるということになるのだから。
一度は遠ざけた暗い選択肢を、再びナマエに突き付けられてしまった。人の根っこは、そう簡単には変わらないのだ。
健やかでいてほしい。穏やかな日々を送ってほしい。日の当たるところで笑ってほしい。願うのは易いが、叶えることのなんと難しいことだろう。
「嫌だ。そんなことしたら、依存するだろ」
一松は、はっきりと拒否した。
「恋人に依存するのって悪いこと? 好きと依存の境界って?」
無意識だが、ナマエにとっては「どこまでも尽くす」というのが好意を表す唯一の手段だった。ナマエは決して「尽くすのが好き」という訳ではなく、「好きな人に尽くしたい」と思う人間なのである。
本人は、そのことを理解していない。自分の中に「好き」というものを見付けても、それが本当に「好き」だという自信がないからだ。また、思考を放棄したがる癖があるのと依存心が強いのは事実なので、事態をややこしくした。
「それは…………」
「優しくされると罪悪感でいっぱいになるんだ。それに、優しさを素直に受け取れない自分に嫌気が差すよ」
ナマエは滑り落ちるように、ソファーから床の上に座り直した。そして眼鏡を外し、目元を右手で覆い隠してローテーブルに肘をつく。ほとほと参っているようだ。
「……ナマエの――――」
一松は独自理論と共に、ナマエには到底考え付かない奇策というか何というか、そんなものを述べた。
「一松って、やっぱりそうなんじゃん…………」
ナマエには、「嘘つき」と非難することは出来なかった。床から、ソファーに座る一松を見上げ、それだけ言うのが精一杯だった。
◆◆◆
ナマエは、一松の喉元に素足を突き出し、そのまま足で顎を上げさせた。一松は頬を紅潮させてナマエを見上げている。
「舐めて」
少し足を引き、つま先で一松の唇を押しながら命令した。
無言で、しかし興奮で息を荒くしながらナマエの足先に舌を這わせる一松を、ナマエは愉快そうに見ている。
指の間まで舐めさせた後、顔を踏みつけると、一松は恍惚とした表情を浮かべた。
「こんなことで勃つんだねぇ、一松くん?」
深く腰掛けていたソファーから身を乗り出し、膝立ちしていた一松の股間を足の甲で、するりと下から上に撫でた。
「あっ…………」
「年下の男にこんなことされて気持ち良いの?」
一松は口を引き結び、俯いた。
「ソレ、足で扱いてあげようか?」
「う……いや…………」
「正直に答えなよ」
「して……ほしい…………」
「は? なんて?」
口の利き方に気を付けろ、とその表情は訴えていた。
「足でして、ください…………」
正座をして上目遣いをする一松。
「よし、偉い偉い。正直な人は好きだよ」
ナマエは、そう言って、一松の頭を撫でる。
「でも、してあーげない」
ナマエは、片手で口元を隠してクスクスと笑う。
目は笑っておらず、一松に冷ややかな視線を向けている。その蔑んだような目に、背筋がぞくぞくした。
ナマエは、そんな一松をしばらく見つめていたのだが、「おほん」とわざとらしく咳払いした後に、いつもの軽薄そうな顔に戻った。
「こんな感じ? 上手く出来た?」
「上手過ぎる」
「俺の中のSっ気を掻き集めた」
ふたりが、ソフトSMを始めたのには理由がある。
「ナマエの従いたがりは趣味なんじゃないの?」
事の始まりは、一松のこの発言からである。
「シタガイタガリ……?」
たった今、共通言語が乱されたのか? と思うぐらいに一松の言葉が理解できなかった。
しかし、一松はお構いなしに喋り続けている。一松は、趣味の範囲の主従関係になら、なっても問題ないと考えているらしい。
要するに性的ロールプレイの誘いだと、ナマエは、そう理解した。以前、一松を縄で縛り上げた際に浮上した疑惑。それが確信に変わった訳だ。
そんな経緯で一松の誘いに乗り、現在に至る。
「やっぱり俺、こういうの向いてる。誰かに尽くすの」
サディストの主人役を担ったナマエだが、あくまで主導権は一松のものだったので、大変やり易かった。
マルキ・ド・サドの著作では、相手が泣こうが喚こうが死のうが構わないという性的倒錯者が山ほど出てくるので、「サービス精神を持つサディスト」を見て、草葉の陰で泣いているかもしれない。過去でも現代でも、合意なしで事に及べば犯罪になるし、当然、合意があっても相手を死なせたら捕まるのだが。
「今度、逆やろうよ、逆。俺も足蹴にされてみたーい」
「別にいいけど……」
ナマエの悪癖を、無理矢理に趣味に落とし込むのが狙いではあったのだが、こうも上手く嵌まるとは。さすがの一松も驚いた。
「これなら俺たちって、恋人のままだよね?」
「たぶん、そうなんじゃない……?」
何度も関係性が変わってきた。
他人から敵に。敵から友人に。友人から、恋人のようなものに。
人間関係とは不可逆ではない。友人や恋人が、他人に戻ることもある。
ふたりは思う。もう変わらなくてもいいのに、と。しかし、ナマエは頭の中で「それは無理なんじゃないかな」という自分の声を聴いた。
この、自身を嘲笑う声は、ことあるごとにナマエの内で響く。
(うるさいな……)
ナマエが自身に文句を言っていると、一松が、おずおずと口を開いた。
「ちょっと抜いてくるから、トイレ貸して」
「ん。オッケー…………あ?」
「なに?」
「もしかして、俺……オカズにされる……?」
「え……まあ…………」
「人生面白いなー。俺も今度一松をオカズにしてみる」
「宣言する必要ある?」
顔を赤く染めた一松は、トイレへ逃げ去った。
ひとりになったナマエは、短く溜め息を吐く。
ナマエは、自分は一松のことを好きなのではないかと考えているが、確信は持てないままでいる。
「お前には、人を好きになるなんて無理だよ」
再び、自分を嘲る声がした。
「うるさいな……」
いつか、黙らせてやる。頭の中から追い出してやる。
「……早く人間に戻らなきゃ」
そうは言ったが、人間だった頃があったかどうか怪しいものだ。「物」になる前は、自分は何であったのか。
2017/06/28