些末シリーズ
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困ったことになった。
松野家は現在、空前の独り立ちブームが来ている。いや、実態はそんなに良いものではないが、とにかく兄弟たちが次々に家を出て行くのである。
困ったとは思ったが、一松には行く当てがあった。
ナマエの家だ。彼は、一松が居候するのを断ることもないだろう。
そんな訳で、ナマエの部屋のインターホンを鳴らしたのだが、応答がない。
合鍵を使い、ドアノブに手をかけた瞬間、嫌なものを感じた。肌にピリリと、静電気のようなものを。
「あ……」
鍵はかかっていなかったらしく、ドアが開かず、再度、鍵を使う。
「ナマエ?」
ドアを開け、玄関から呼びかけたが、返事はない。たまたま、鍵をかけ忘れて外出したのだろうか?
鍵がかかっていなかったことは何度かあるが、いつも部屋には彼がいた。
別に、争った後のように部屋が荒れている、なんてことはない。片付いている、というか殺風景な、いつものナマエの部屋だ。
しかし、ナマエが抵抗せずに、かつての同僚に連れて行かれる光景は、容易に想像が出来てしまう。
ああ、今日がその日か。そんな風に、あっさり自分の最期を認めてしまうのが彼なのだ。
結局のところ、ナマエは幸よりも不幸を受け入れてしまう人間なのだ。そちらの方が自分にはお似合いだと思ってしまうのが、悲しいことに彼らしい。
一松は一松で、その時が来たのだと思った。
「俺は、いつか――」
その台詞を言うナマエを鮮明に覚えている。
「――過去のツケを払うことになるんだと思う」
淡々と、いつか来る別れのことを告げた彼。
でも、それは嫌だ。そんなことは認められない。彼の存在そのものが夢まぼろしだったかのように薄れてしまうのは、耐えられない。
(いや、落ち着け…………)
一松は、自分に言い聞かせる。まだ、そうと決まった訳ではない。やっぱり、鍵をかけ忘れて出掛けたのかもしれない。そう信じたい。もしかしたら、今この時に帰宅するかもしれない。
一松は早足で玄関に向かい、ドアを押し開けた。
「わっ」
アパートの廊下に、重そうな睫毛を付けているにも拘らず目をしばたたかせている、派手な女がいた。
「びっくりしたぁ。キミ、ナマエくんの友達だよね? ナマエくん、帰ってる?」
「いや…………」
一松は、女とバッチリ合ってしまった目を逸らした。話をしたことはないが、何度か見かけたことがある。ナマエの言うところの、「隣のネェちゃん」だ。
「ナマエ、どこに行ったか……その……」
「ナマエくんなら、1時間くらい前に怖そうな人たちと出てったよ。あたし、アレ絶対ヤクザだと思う。こっそり警察呼ぼうかって訊いたんだけど、ナマエくんは平気だって、横領した金を返しに行くだけだって言って行っちゃった。これ冗談だよね?」
「ナマエは横領なんて…………」
「だよねぇ。あたし、やっぱり警察に電話しようと思うんだけど……キミはどう思う……?」
その問いに、なんと答えるべきか迷う。
一刻も早く、捜さなくては。こんなものは、死体探しみたいなものは、与太話のままであってほしかった。だが、現実は時にデタラメで容赦がない。
「おれ、捜しに行かないと……」
「当てがあるの?」
その場所がどこか。ナマエはヤクザと関わりがあること。彼が「横領」と口にしたことには意味があるのではないかと思ったこと。これぐらいで警察は動かないのではないかという不安を懸命に話した。
彼女に自分の考えを話すのに苦戦したが、納得してもらえたらしい。
「そんじゃ、電車の時間とか調べよう」
長いネイルを物ともせず軽快に携帯電話を操作し、彼女は次々に必要な情報を出して、メモ帳に書いていく。
「じゃ、あたしが警察になんとか……とにかく通報しとくから。キミは捜しに行って。見付かったら連絡してね」
一松に、破ったメモと連絡先が書いてある名刺を渡し、彼女は背を向けて去って行った。
迅速に目的地へ向かわなくてはならない。ナマエが推測通りの場所にいるのならば、早くても5時間はかかるはずだ。
自宅に戻り、服装を整えてから、以前用意したリュックサックを背負い、駅へ。
一松は電車を乗り継ぎ、約3時間かけて、ある山の麓に到着した。
町からは離れ、人も車も全く通らず、中央線のない狭い道路に面している。不法投棄は5年以下の懲役、もしくは1千万円以下の罰金だと書かれた錆付いた看板が、一松を出迎えた。
この山に人が入るのは、月に一度のゴミ拾いのボランティアぐらいのものであり、そのゴミ拾いの日は、もう過ぎている。
木々が冷たい風でざわめいた。正確な気温は分からないが、氷点下であることは確かだろう。地面にはうっすら雪が積もっている。
棒立ちしている場合ではない。とにかく時間が惜しい。
一松は一歩踏み出した。動悸がする。木々が、暗闇が、空気の冷たさが、刺すような悪意を持っているように感じるのは何故だ。それに、人影など無いのに、そこかしこから視線を感じる気がするのは何故だ。ここは足を踏み入れてはいけない場所だと、本能が警告している。
(うるさい…………)
また、理性もこんなことはやめろと言っていた。
(うるさい…………!)
感情だけが、自分を後押しする。それだけが一松を前進させる。
道と呼べるものは、ほとんどない。地面は雪はもちろん、木の根や岩で凹凸が激しく、非常に歩きにくい。懐中電灯を握り直し、コンパスが示す北へ行く。
今、動かなくては間に合わない。だから、彼は懸命に歩みを進めた。こんなものがナマエが受けるべき報いだとは、思いたくなかった。
◆◆◆
真っ暗な海の中にいる。冷水が体中に針のように刺さり、ゴボ、と口から空気が漏れた。体が、下へ下へと沈んでいく。日の光など到底届かない、酷く寒いところだ。
独りきりで、深海にいる。
もう、このまま目を閉じてしまおうか。過去に追い付かれ、そんな冷たい夢を見た。
(ヤバ。一瞬、意識飛んでた)
木を背にして座った状態で、縄で縛り付けられたジャージ姿のナマエは、後頭部を幹にぶつけて意識を取り戻した。
ご丁寧に、両の手首と足首は結束バンドで固定されているので、縄抜けは出来そうもない。更に、口には猿轡を噛まされており、助けは呼べないだろう。
どうも、心臓から遠いところから温度が失われつつあるようだ。手足の指先の感覚がない。確実に凍死に近付いているのが、とても恐ろしい。
(やっぱり、死にたくないよなぁ)
大人しくここまで連れて来られた癖にこんなことを思う自分が、あまりにも馬鹿らしく、口から笑いが漏れた。ろくでもない。
あの時。暴力沙汰なら正解が分かると思っていたのに、彼は全く動けなかった。
怖い。死にたくない。当たり前のような感情が湧く。
しかし、隣人を害そうとした男と対峙した時にはあったはずの、窮地を脱しなくてはという意志だけが抜け落ちている。
普通になるために努力していたつもりだった。地を這うようにだけれど、前進出来ていたつもりだった。
ここからは人生の続きだ。こんなものが。確かに人生とは、こんなものだった。
家に来た組の者が言うには、少々因縁のある半グレのホストに目撃されたのがきっかけで居場所がバレたらしい。組の連中は、別にナマエを熱心に捜していた訳ではない。しかし、なんの因果か、ナマエを嫌悪していた者の耳に目撃情報が入り、今の状況がある。
この状況が、こんなものが、自分の人生だと気付かされてしまう。穏やかな日々は休憩時間であり、終われば人生の続きを送らなくてはならない。だから、わずかでもその時間が続くように行動していたはずなのに、どこで間違えたのだろう?
きっと最初から間違いだ。あの両親から産まれたことが、そもそも間違いだったのだと思う。
いない方が幾分かマシだと思えるような親だった。その両親の元、ミョウジナマエは決められたコースを歩くように、見事に補導歴が付いて不良になる。学生時代は、くだらない争いを繰り返し、気付いたらヤクザ者に拾われていた。そこでは、それなりに休憩時間もあったのだが、問題が起きてしまい、結局は逃げ出す始末。
その後の日々は辛くもあり、楽しくもあり。やはり、時々はどうしようもなく辛かった。
けれど、穏やかだった。ろくでもない人生に戻った今、あの時間は夢だったかのように感じる。
太陽と、その光で出来た影みたいな、ふたりを思い出す。それから、その兄弟たちを。更には、住んでいた部屋の隣人を。自分を取り巻く環境が、日常になっていたものが、堪らなく恋しい。これらは全て好きなものだったのだろう、と今更思う。
一松に、言えば良かった。「好きだ」までいかなくとも、「好きかもしれない」ぐらいは。それが正解だった気がして、ナマエは後悔した。
正解といえば、どちらが正解だったのだろう。
「組に戻るか? それとも制裁を食らうか?」
そう、兄弟と呼んでいた男に言われた。後者は、有り体に言うと「殺す」という意味である。
男は、体裁のために身柄を拘束はしたものの、積極的に殺す気はないのだと宣う。だったら、金を受け取って帰ってくれたら良かったものを。金を払っても殺されるだろうから、一銭も払わず逃げただけなのだから。
ナマエの兄弟には、実は兄や弟というものはなく、お互いを「兄弟」と呼ぶ。ただし、若頭 である長兄だけは明確に上の存在で、親が亡くなると跡目を継ぐのが決まりだ。
その長兄に、どうして殺したいほど憎まれているのか。正直なところ、理由が分からない。
死んでも構わないから、粗雑に扱う。
どちらかといえば殺したいから、機会があればそうする。
壊れても構わないから。処分したいから。
何故、そんな殺意を持たれているのだろう。
組に戻れば、この場は生き延びることが出来る。だが、それでは以前の自分に逆戻りだ。しかし断れば、ここに置き去りにされ、いずれ死ぬ。
ナマエは死を選んだ。
死にたくはないが、結局のところ、ナマエには人生は重過ぎたのかもしれない。彼の自問自答は、自縄自縛とほとんど変わらないものだった。「何をするにも確信を得てからにしたいなどというのは贅沢だ」という考えに至ることが出来なかったばかりに、とうとう現実でも縛り付けられてしまった。
自分の人生は、死にたいと思っている時ではなく、生きていたいと思っている時に終わりを迎えるらしい。いや、生きたいのではなく、死にたくないけど、頑張って生きたいとも思えていないのか。「死にたくない」と「生きていたい」は別物なのか。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになっていく。
一松は、探すのだろうか? ミョウジナマエという名だったものを。
ナマエの中では、一松が死体を探すと言ったのは冗談だということになっている。
しかし「もしかしたら」ということもあるので、もう少し探しやすくした方が良かったかもしれないという思いが浮かぶ。
段々と、考え事をするのも困難になっていく。
やがて、意識は明滅を繰り返し、ナマエの視界は暗転した。
◆◆◆
登山と聞いて思い浮かべるような急傾斜はないが、それでも全く楽ではない。一松は人が踏み入った痕跡を辿り、歯を食いしばりながら進む。時折、木々にガムテープを巻き付けて目印にしながら進む。
ギリギリのところで冷静さを保てていると信じたい。しかし、別に引き摺られている訳でもないだろうに、こんなところまでノコノコ来ているナマエに沸々と怒りが込み上げてくる。
そして、とうとう、いつかのように捨てられたゴミのような男が視界に入った。
気味の悪い人形が佇んでいるようにも見える。
近付いて触れた頬は、恐ろしく冷たい。けれど、その顔が何だか、とても穏やかで。
一瞬、どうしてここまで来たのか分からなくなるくらい、腹が立った。
「ふざけんな……!」
憤り、力いっぱい殴りたい衝動に駆られる。
「例え、お前が生きたくなくても! ここで死んでもいいと思ってても、おれには、お前の納得とか関係ねぇよ!」
どうしようもない人間を助けなくてはならないことに悪態をつきながら、鋏を取り出してナマエの拘束を解く。
「起きろボケ! ひとりで勝手に安らかに死んでんじゃねぇ!」
その声に目を薄く開いたナマエは、かなりの間を置いて、幻でも見たような表情になった。
「……走馬灯って、こういうもの?」
「いいから、大人しく救助されろ」
「走馬灯が凶器を向けてくる」
懐中電灯に照らされた鋏が、シャキシャキと音を鳴らす。
「服、濡れてる?」
「いや」
リュックサックからダウンジャンパーを取り出してナマエに着せ、保温に優れた生地の大きめのズボンをジャージの上から穿かせて、カイロを持たせた。
ナマエが生きていることを前提に荷物を決めて、本当に良かった。心底そう思った。
「あったかい……」
懐中電灯に照らされたナマエの指先は、凍傷により黒ずんできている。指を切断することになるのではないかという最悪の想像をなんとか振り切り、目の前のことへの対処を再開した。
「木に縛り付けるだけで勘弁してやるってさ。運が良けりゃ凍え死ぬ前に誰か来るかもな、だって。こちとらジャージだっつーの。音速で死ぬわ。クソ寒いわ」
「いいから、これ飲んで」
水筒から注がれた、湯気の立つココアを渡された。
「おいしい……」
「さっさと帰るよ」
一松はナマエを睨みつけながら、命令するかのように言う。
しばらく、風や木々のざわめきだけが響く暗闇を懐中電灯ひとつで進んでいると、前方に灯りが見えた。
近付いて来るそれは、ふたりの警官だった。
「どちらがミョウジさんですか?」
地元の警官だと言う男は、ナマエと一松を見て尋ねる。
ミョウジナマエが、ここで自殺しようとしてると通報があったそうだ。通報した者の名前を聞いて色々と察したナマエは、後で彼女に礼を言わなくてはならないと思った。
「俺です。いやぁ、すいませんねぇ。こっちは友人で、俺が死ぬのを止めに来たんですよ」
まるっきり嘘という訳でもない。
「でも、今は死にたくないんで、救急車呼んでもらってもいいですかね? 凍傷でヤバいんすよ」
「じゃあ、麓に車停めてるので、まずそこまで行きましょう」
一行は、真っ暗闇を照らしながら歩き出す。
そんな中で、ナマエは一松に「お前、元気になったら殴るからな」とボソッと言われてしまった。かなり怒っているらしい。謝るべきか。それとも。
「一松、ありがとう……俺を捜して、連れ帰ってくれて……」
「嘘つき。感謝なんてしてないだろ」
「してないってことはないけど…………驚きのが強いかも。俺の親だって、そんなことしねぇよ」
◆◆◆
あの人は、きっと神様ではなかったのだろう。
柔らかい光が差し込む昼間の病室は、ナマエ以外皆、出払っている。
少し痺れる両手の指を曲げたり伸ばしたりしながら、考えるのを無意識に避けていた事柄に触れていく。前に、おそ松に家族のことを訊かれた時、自分は「死んだ」と答えたが。
「バリバリ生きてるわ……」
縁を切ってから何年も会っていないので、バリバリと言えるほど元気かは知らないが、きっと生きている。死んでいてほしいが、たぶん普通に生きている。
自分の中では、ほとんど死んでいるようなものだったから「死んだ」と口から出たのかもしれない。
死んだといえば、身近にひとり、あの世へ逝った者がいた。
自分を拾った男。自分の神様だと思っていた人。随分、失礼な勘違いをしていたものだ。
ナマエに、家事を覚えさせたり、人を怯えさせない話し方を習わせたり、経理の仕事を割り振ったりした人。彼には、ナマエがどこかで「普通になりたい」と思っていることが、お見通しだったのかもしれない。正直、余計なお世話だが、それも含めて親みたいだと思った。
生前、「親父」と呼んでいたのに、父親のような存在だと思ったことがないのが、今となっては不思議だ。
同じことをしても、その時の機嫌によって怒られたり怒られなかったりと、理不尽な神のようだったのは、実の両親の話である。使い捨ての物みたいに扱われていたことを、昨日のことのように思い出せる。親とは、そういうものだったから、父親みたいだなどとは思わなかったのだろうか。
そして長兄も、そういうもので、逃げた先には――――そこまで考えたところで、一松が見舞いに来た。
「やあ、一松。話したいことがあるんだけど、いい?」
「……うん」
ナマエは自分の嘘について、家族について話す。出来るだけ簡潔にしようと努力する。そうすると、改めて頭の中が、感情が整理されていく。死んでしまったあの人だけが、自分の家族だったのだと感じる。
「こんなところ、かな? 言っておきたかったこと。親父のこと色々言ったけど、全ては憶測でしかないね」
話を終えたナマエは、困り笑いのような表情をした。
「でも、向こうが俺をどう思ってたかは重要じゃないんだよ。俺は、あの人のことを親のように思いたいんだよ。それと同じで、自分の感情に、自分で名前を付けて良かったんだよなぁ。だから――」
一呼吸置いて。ナマエは、少し緊張した面持ちで口を開いた。
「俺は、あなたのことが好きです」
たぶん、もっと前から一松のことが好きだったのだろうけれど、言うのが遅くなってしまった。
「もう、生きるのを諦めたりしないから」
もし、また過去や因縁が殺しに来たら、次は逃げるなり抵抗するなりしよう。今を、こちらを自分の人生として、精一杯守ろうと思う。
「だから、その、一発殴って許してくれると嬉しいんだけど…………」
「……歯ぁ食いしばって、目をつぶれ」
一松は椅子から立ち上がり、低く声を出した。俯いている彼の表情は読めない。
「はい…………」
怖い。
言われた通りにし、緊張から体を硬くして待つこと数秒。首に腕が回されて、思わず目を見開いた。
ベッドの上のナマエを抱き締めたまま、一松は「お前を許すよ」と、ぶっきらぼうに告げた。
「あ……ありがとう、一松…………」
ナマエは優しさに打ちのめされそうになり、言葉を詰まらせた。両目からは、止めどなく涙が溢れてくる。そして、震える手で、なんとか大切な人に触れた。
◆◆◆
海岸に、丸くてツルツルしたものが落ちていた。片手でそれを拾い上げて空にかざすと、キラキラと光った。水底からここまで来ただろうに、傷ひとつないのが不思議だった。奇跡的に海岸に辿り着いた、その透き通った珠は、最早落とした時とは別物になっていたが、すぐに自分のものだと分かった。
何故なら、その珠は綺麗に薄紫色に染められていたからだ。
「ナマエ」
名前を呼ばれ、まどろんでいたナマエの意識は覚醒した。
目を開けると、そこには一松がいた。
「眠いの?」
「ちょっと、うとうとしてただけ」
「十四松がキャッチボールしたいって」
「そこはビーチバレーとかじゃなくていいのか?」
「いいんじゃない? 別に」
「ま、いっか」
青い空と白い入道雲を見ながら、黒いサーフパンツタイプの水着の上に白いパーカーを羽織ったナマエは、軽く伸びをした。潮風がパーカーをはためかせる。
季節は夏。六つ子とナマエは、海に遊びに来ている。
チョロ松が就職したり、他の兄弟も家を出たり、色々とあったはずなのだが、結局彼らは元の生活に戻ったのであった。
やはりというか、最早慣れ親しんだというか、彼らの装いは水着であってもいつもの色が入っていたので笑ってしまった。
「ねえ、一松」
パラソルの下から出て、こちらに向かって勢いよく手を振る十四松の方へ歩きながら、ナマエが隣を歩く一松に小さく呼びかけた。
「なに?」
「俺たちが付き合えてるのって、スゴくない?」
「え!? ま、まあね……」
「それに、浮気したり、刃傷沙汰になったりも出来る」
「ああ?!」
一松は思わずナマエを睨みつけ、掴みかかりそうになったが、彼は動じない。
「もちろん、死ぬまで仲良くすることも出来る。人生ってわりと何でも出来るし、世界はそれを許してるんだね。法や道徳は置いといて」
「…………かもね」
「なんでも出来るのって苦痛だったけど、最近はそれが嬉しいんだ」
「…………そ」
「ちゃんと働ける気さえするし。隠してた分を除いて、金持ってかれちゃったしねぇ。公認会計士でも目指そうかな」
「向いてるんじゃない?」
「ははは、テキトー。まぁ、俺は俺がやりたいように生きるよ。だから、一松もやりことをやりなよ。俺は、いつでも応援するから。それに、君が何か失敗しても、俺が養うから安心していいぜ。命綱というか、セーフティネットというか、そんなものになってみせるから」
「それ、おれに寄生されるだけじゃない?」
「それで一松が楽しいなら、別にいいよ。後ろめたく思って自己嫌悪とかしないならね」
自身を苦しめる社会通念なんて捨ててしまえ、と彼は言う。
「なんにせよ、君の幸せに俺が必要だったら嬉しいよ」
2019/01/29
松野家は現在、空前の独り立ちブームが来ている。いや、実態はそんなに良いものではないが、とにかく兄弟たちが次々に家を出て行くのである。
困ったとは思ったが、一松には行く当てがあった。
ナマエの家だ。彼は、一松が居候するのを断ることもないだろう。
そんな訳で、ナマエの部屋のインターホンを鳴らしたのだが、応答がない。
合鍵を使い、ドアノブに手をかけた瞬間、嫌なものを感じた。肌にピリリと、静電気のようなものを。
「あ……」
鍵はかかっていなかったらしく、ドアが開かず、再度、鍵を使う。
「ナマエ?」
ドアを開け、玄関から呼びかけたが、返事はない。たまたま、鍵をかけ忘れて外出したのだろうか?
鍵がかかっていなかったことは何度かあるが、いつも部屋には彼がいた。
別に、争った後のように部屋が荒れている、なんてことはない。片付いている、というか殺風景な、いつものナマエの部屋だ。
しかし、ナマエが抵抗せずに、かつての同僚に連れて行かれる光景は、容易に想像が出来てしまう。
ああ、今日がその日か。そんな風に、あっさり自分の最期を認めてしまうのが彼なのだ。
結局のところ、ナマエは幸よりも不幸を受け入れてしまう人間なのだ。そちらの方が自分にはお似合いだと思ってしまうのが、悲しいことに彼らしい。
一松は一松で、その時が来たのだと思った。
「俺は、いつか――」
その台詞を言うナマエを鮮明に覚えている。
「――過去のツケを払うことになるんだと思う」
淡々と、いつか来る別れのことを告げた彼。
でも、それは嫌だ。そんなことは認められない。彼の存在そのものが夢まぼろしだったかのように薄れてしまうのは、耐えられない。
(いや、落ち着け…………)
一松は、自分に言い聞かせる。まだ、そうと決まった訳ではない。やっぱり、鍵をかけ忘れて出掛けたのかもしれない。そう信じたい。もしかしたら、今この時に帰宅するかもしれない。
一松は早足で玄関に向かい、ドアを押し開けた。
「わっ」
アパートの廊下に、重そうな睫毛を付けているにも拘らず目をしばたたかせている、派手な女がいた。
「びっくりしたぁ。キミ、ナマエくんの友達だよね? ナマエくん、帰ってる?」
「いや…………」
一松は、女とバッチリ合ってしまった目を逸らした。話をしたことはないが、何度か見かけたことがある。ナマエの言うところの、「隣のネェちゃん」だ。
「ナマエ、どこに行ったか……その……」
「ナマエくんなら、1時間くらい前に怖そうな人たちと出てったよ。あたし、アレ絶対ヤクザだと思う。こっそり警察呼ぼうかって訊いたんだけど、ナマエくんは平気だって、横領した金を返しに行くだけだって言って行っちゃった。これ冗談だよね?」
「ナマエは横領なんて…………」
「だよねぇ。あたし、やっぱり警察に電話しようと思うんだけど……キミはどう思う……?」
その問いに、なんと答えるべきか迷う。
一刻も早く、捜さなくては。こんなものは、死体探しみたいなものは、与太話のままであってほしかった。だが、現実は時にデタラメで容赦がない。
「おれ、捜しに行かないと……」
「当てがあるの?」
その場所がどこか。ナマエはヤクザと関わりがあること。彼が「横領」と口にしたことには意味があるのではないかと思ったこと。これぐらいで警察は動かないのではないかという不安を懸命に話した。
彼女に自分の考えを話すのに苦戦したが、納得してもらえたらしい。
「そんじゃ、電車の時間とか調べよう」
長いネイルを物ともせず軽快に携帯電話を操作し、彼女は次々に必要な情報を出して、メモ帳に書いていく。
「じゃ、あたしが警察になんとか……とにかく通報しとくから。キミは捜しに行って。見付かったら連絡してね」
一松に、破ったメモと連絡先が書いてある名刺を渡し、彼女は背を向けて去って行った。
迅速に目的地へ向かわなくてはならない。ナマエが推測通りの場所にいるのならば、早くても5時間はかかるはずだ。
自宅に戻り、服装を整えてから、以前用意したリュックサックを背負い、駅へ。
一松は電車を乗り継ぎ、約3時間かけて、ある山の麓に到着した。
町からは離れ、人も車も全く通らず、中央線のない狭い道路に面している。不法投棄は5年以下の懲役、もしくは1千万円以下の罰金だと書かれた錆付いた看板が、一松を出迎えた。
この山に人が入るのは、月に一度のゴミ拾いのボランティアぐらいのものであり、そのゴミ拾いの日は、もう過ぎている。
木々が冷たい風でざわめいた。正確な気温は分からないが、氷点下であることは確かだろう。地面にはうっすら雪が積もっている。
棒立ちしている場合ではない。とにかく時間が惜しい。
一松は一歩踏み出した。動悸がする。木々が、暗闇が、空気の冷たさが、刺すような悪意を持っているように感じるのは何故だ。それに、人影など無いのに、そこかしこから視線を感じる気がするのは何故だ。ここは足を踏み入れてはいけない場所だと、本能が警告している。
(うるさい…………)
また、理性もこんなことはやめろと言っていた。
(うるさい…………!)
感情だけが、自分を後押しする。それだけが一松を前進させる。
道と呼べるものは、ほとんどない。地面は雪はもちろん、木の根や岩で凹凸が激しく、非常に歩きにくい。懐中電灯を握り直し、コンパスが示す北へ行く。
今、動かなくては間に合わない。だから、彼は懸命に歩みを進めた。こんなものがナマエが受けるべき報いだとは、思いたくなかった。
◆◆◆
真っ暗な海の中にいる。冷水が体中に針のように刺さり、ゴボ、と口から空気が漏れた。体が、下へ下へと沈んでいく。日の光など到底届かない、酷く寒いところだ。
独りきりで、深海にいる。
もう、このまま目を閉じてしまおうか。過去に追い付かれ、そんな冷たい夢を見た。
(ヤバ。一瞬、意識飛んでた)
木を背にして座った状態で、縄で縛り付けられたジャージ姿のナマエは、後頭部を幹にぶつけて意識を取り戻した。
ご丁寧に、両の手首と足首は結束バンドで固定されているので、縄抜けは出来そうもない。更に、口には猿轡を噛まされており、助けは呼べないだろう。
どうも、心臓から遠いところから温度が失われつつあるようだ。手足の指先の感覚がない。確実に凍死に近付いているのが、とても恐ろしい。
(やっぱり、死にたくないよなぁ)
大人しくここまで連れて来られた癖にこんなことを思う自分が、あまりにも馬鹿らしく、口から笑いが漏れた。ろくでもない。
あの時。暴力沙汰なら正解が分かると思っていたのに、彼は全く動けなかった。
怖い。死にたくない。当たり前のような感情が湧く。
しかし、隣人を害そうとした男と対峙した時にはあったはずの、窮地を脱しなくてはという意志だけが抜け落ちている。
普通になるために努力していたつもりだった。地を這うようにだけれど、前進出来ていたつもりだった。
ここからは人生の続きだ。こんなものが。確かに人生とは、こんなものだった。
家に来た組の者が言うには、少々因縁のある半グレのホストに目撃されたのがきっかけで居場所がバレたらしい。組の連中は、別にナマエを熱心に捜していた訳ではない。しかし、なんの因果か、ナマエを嫌悪していた者の耳に目撃情報が入り、今の状況がある。
この状況が、こんなものが、自分の人生だと気付かされてしまう。穏やかな日々は休憩時間であり、終われば人生の続きを送らなくてはならない。だから、わずかでもその時間が続くように行動していたはずなのに、どこで間違えたのだろう?
きっと最初から間違いだ。あの両親から産まれたことが、そもそも間違いだったのだと思う。
いない方が幾分かマシだと思えるような親だった。その両親の元、ミョウジナマエは決められたコースを歩くように、見事に補導歴が付いて不良になる。学生時代は、くだらない争いを繰り返し、気付いたらヤクザ者に拾われていた。そこでは、それなりに休憩時間もあったのだが、問題が起きてしまい、結局は逃げ出す始末。
その後の日々は辛くもあり、楽しくもあり。やはり、時々はどうしようもなく辛かった。
けれど、穏やかだった。ろくでもない人生に戻った今、あの時間は夢だったかのように感じる。
太陽と、その光で出来た影みたいな、ふたりを思い出す。それから、その兄弟たちを。更には、住んでいた部屋の隣人を。自分を取り巻く環境が、日常になっていたものが、堪らなく恋しい。これらは全て好きなものだったのだろう、と今更思う。
一松に、言えば良かった。「好きだ」までいかなくとも、「好きかもしれない」ぐらいは。それが正解だった気がして、ナマエは後悔した。
正解といえば、どちらが正解だったのだろう。
「組に戻るか? それとも制裁を食らうか?」
そう、兄弟と呼んでいた男に言われた。後者は、有り体に言うと「殺す」という意味である。
男は、体裁のために身柄を拘束はしたものの、積極的に殺す気はないのだと宣う。だったら、金を受け取って帰ってくれたら良かったものを。金を払っても殺されるだろうから、一銭も払わず逃げただけなのだから。
ナマエの兄弟には、実は兄や弟というものはなく、お互いを「兄弟」と呼ぶ。ただし、
その長兄に、どうして殺したいほど憎まれているのか。正直なところ、理由が分からない。
死んでも構わないから、粗雑に扱う。
どちらかといえば殺したいから、機会があればそうする。
壊れても構わないから。処分したいから。
何故、そんな殺意を持たれているのだろう。
組に戻れば、この場は生き延びることが出来る。だが、それでは以前の自分に逆戻りだ。しかし断れば、ここに置き去りにされ、いずれ死ぬ。
ナマエは死を選んだ。
死にたくはないが、結局のところ、ナマエには人生は重過ぎたのかもしれない。彼の自問自答は、自縄自縛とほとんど変わらないものだった。「何をするにも確信を得てからにしたいなどというのは贅沢だ」という考えに至ることが出来なかったばかりに、とうとう現実でも縛り付けられてしまった。
自分の人生は、死にたいと思っている時ではなく、生きていたいと思っている時に終わりを迎えるらしい。いや、生きたいのではなく、死にたくないけど、頑張って生きたいとも思えていないのか。「死にたくない」と「生きていたい」は別物なのか。
頭の中が、ぐちゃぐちゃになっていく。
一松は、探すのだろうか? ミョウジナマエという名だったものを。
ナマエの中では、一松が死体を探すと言ったのは冗談だということになっている。
しかし「もしかしたら」ということもあるので、もう少し探しやすくした方が良かったかもしれないという思いが浮かぶ。
段々と、考え事をするのも困難になっていく。
やがて、意識は明滅を繰り返し、ナマエの視界は暗転した。
◆◆◆
登山と聞いて思い浮かべるような急傾斜はないが、それでも全く楽ではない。一松は人が踏み入った痕跡を辿り、歯を食いしばりながら進む。時折、木々にガムテープを巻き付けて目印にしながら進む。
ギリギリのところで冷静さを保てていると信じたい。しかし、別に引き摺られている訳でもないだろうに、こんなところまでノコノコ来ているナマエに沸々と怒りが込み上げてくる。
そして、とうとう、いつかのように捨てられたゴミのような男が視界に入った。
気味の悪い人形が佇んでいるようにも見える。
近付いて触れた頬は、恐ろしく冷たい。けれど、その顔が何だか、とても穏やかで。
一瞬、どうしてここまで来たのか分からなくなるくらい、腹が立った。
「ふざけんな……!」
憤り、力いっぱい殴りたい衝動に駆られる。
「例え、お前が生きたくなくても! ここで死んでもいいと思ってても、おれには、お前の納得とか関係ねぇよ!」
どうしようもない人間を助けなくてはならないことに悪態をつきながら、鋏を取り出してナマエの拘束を解く。
「起きろボケ! ひとりで勝手に安らかに死んでんじゃねぇ!」
その声に目を薄く開いたナマエは、かなりの間を置いて、幻でも見たような表情になった。
「……走馬灯って、こういうもの?」
「いいから、大人しく救助されろ」
「走馬灯が凶器を向けてくる」
懐中電灯に照らされた鋏が、シャキシャキと音を鳴らす。
「服、濡れてる?」
「いや」
リュックサックからダウンジャンパーを取り出してナマエに着せ、保温に優れた生地の大きめのズボンをジャージの上から穿かせて、カイロを持たせた。
ナマエが生きていることを前提に荷物を決めて、本当に良かった。心底そう思った。
「あったかい……」
懐中電灯に照らされたナマエの指先は、凍傷により黒ずんできている。指を切断することになるのではないかという最悪の想像をなんとか振り切り、目の前のことへの対処を再開した。
「木に縛り付けるだけで勘弁してやるってさ。運が良けりゃ凍え死ぬ前に誰か来るかもな、だって。こちとらジャージだっつーの。音速で死ぬわ。クソ寒いわ」
「いいから、これ飲んで」
水筒から注がれた、湯気の立つココアを渡された。
「おいしい……」
「さっさと帰るよ」
一松はナマエを睨みつけながら、命令するかのように言う。
しばらく、風や木々のざわめきだけが響く暗闇を懐中電灯ひとつで進んでいると、前方に灯りが見えた。
近付いて来るそれは、ふたりの警官だった。
「どちらがミョウジさんですか?」
地元の警官だと言う男は、ナマエと一松を見て尋ねる。
ミョウジナマエが、ここで自殺しようとしてると通報があったそうだ。通報した者の名前を聞いて色々と察したナマエは、後で彼女に礼を言わなくてはならないと思った。
「俺です。いやぁ、すいませんねぇ。こっちは友人で、俺が死ぬのを止めに来たんですよ」
まるっきり嘘という訳でもない。
「でも、今は死にたくないんで、救急車呼んでもらってもいいですかね? 凍傷でヤバいんすよ」
「じゃあ、麓に車停めてるので、まずそこまで行きましょう」
一行は、真っ暗闇を照らしながら歩き出す。
そんな中で、ナマエは一松に「お前、元気になったら殴るからな」とボソッと言われてしまった。かなり怒っているらしい。謝るべきか。それとも。
「一松、ありがとう……俺を捜して、連れ帰ってくれて……」
「嘘つき。感謝なんてしてないだろ」
「してないってことはないけど…………驚きのが強いかも。俺の親だって、そんなことしねぇよ」
◆◆◆
あの人は、きっと神様ではなかったのだろう。
柔らかい光が差し込む昼間の病室は、ナマエ以外皆、出払っている。
少し痺れる両手の指を曲げたり伸ばしたりしながら、考えるのを無意識に避けていた事柄に触れていく。前に、おそ松に家族のことを訊かれた時、自分は「死んだ」と答えたが。
「バリバリ生きてるわ……」
縁を切ってから何年も会っていないので、バリバリと言えるほど元気かは知らないが、きっと生きている。死んでいてほしいが、たぶん普通に生きている。
自分の中では、ほとんど死んでいるようなものだったから「死んだ」と口から出たのかもしれない。
死んだといえば、身近にひとり、あの世へ逝った者がいた。
自分を拾った男。自分の神様だと思っていた人。随分、失礼な勘違いをしていたものだ。
ナマエに、家事を覚えさせたり、人を怯えさせない話し方を習わせたり、経理の仕事を割り振ったりした人。彼には、ナマエがどこかで「普通になりたい」と思っていることが、お見通しだったのかもしれない。正直、余計なお世話だが、それも含めて親みたいだと思った。
生前、「親父」と呼んでいたのに、父親のような存在だと思ったことがないのが、今となっては不思議だ。
同じことをしても、その時の機嫌によって怒られたり怒られなかったりと、理不尽な神のようだったのは、実の両親の話である。使い捨ての物みたいに扱われていたことを、昨日のことのように思い出せる。親とは、そういうものだったから、父親みたいだなどとは思わなかったのだろうか。
そして長兄も、そういうもので、逃げた先には――――そこまで考えたところで、一松が見舞いに来た。
「やあ、一松。話したいことがあるんだけど、いい?」
「……うん」
ナマエは自分の嘘について、家族について話す。出来るだけ簡潔にしようと努力する。そうすると、改めて頭の中が、感情が整理されていく。死んでしまったあの人だけが、自分の家族だったのだと感じる。
「こんなところ、かな? 言っておきたかったこと。親父のこと色々言ったけど、全ては憶測でしかないね」
話を終えたナマエは、困り笑いのような表情をした。
「でも、向こうが俺をどう思ってたかは重要じゃないんだよ。俺は、あの人のことを親のように思いたいんだよ。それと同じで、自分の感情に、自分で名前を付けて良かったんだよなぁ。だから――」
一呼吸置いて。ナマエは、少し緊張した面持ちで口を開いた。
「俺は、あなたのことが好きです」
たぶん、もっと前から一松のことが好きだったのだろうけれど、言うのが遅くなってしまった。
「もう、生きるのを諦めたりしないから」
もし、また過去や因縁が殺しに来たら、次は逃げるなり抵抗するなりしよう。今を、こちらを自分の人生として、精一杯守ろうと思う。
「だから、その、一発殴って許してくれると嬉しいんだけど…………」
「……歯ぁ食いしばって、目をつぶれ」
一松は椅子から立ち上がり、低く声を出した。俯いている彼の表情は読めない。
「はい…………」
怖い。
言われた通りにし、緊張から体を硬くして待つこと数秒。首に腕が回されて、思わず目を見開いた。
ベッドの上のナマエを抱き締めたまま、一松は「お前を許すよ」と、ぶっきらぼうに告げた。
「あ……ありがとう、一松…………」
ナマエは優しさに打ちのめされそうになり、言葉を詰まらせた。両目からは、止めどなく涙が溢れてくる。そして、震える手で、なんとか大切な人に触れた。
◆◆◆
海岸に、丸くてツルツルしたものが落ちていた。片手でそれを拾い上げて空にかざすと、キラキラと光った。水底からここまで来ただろうに、傷ひとつないのが不思議だった。奇跡的に海岸に辿り着いた、その透き通った珠は、最早落とした時とは別物になっていたが、すぐに自分のものだと分かった。
何故なら、その珠は綺麗に薄紫色に染められていたからだ。
「ナマエ」
名前を呼ばれ、まどろんでいたナマエの意識は覚醒した。
目を開けると、そこには一松がいた。
「眠いの?」
「ちょっと、うとうとしてただけ」
「十四松がキャッチボールしたいって」
「そこはビーチバレーとかじゃなくていいのか?」
「いいんじゃない? 別に」
「ま、いっか」
青い空と白い入道雲を見ながら、黒いサーフパンツタイプの水着の上に白いパーカーを羽織ったナマエは、軽く伸びをした。潮風がパーカーをはためかせる。
季節は夏。六つ子とナマエは、海に遊びに来ている。
チョロ松が就職したり、他の兄弟も家を出たり、色々とあったはずなのだが、結局彼らは元の生活に戻ったのであった。
やはりというか、最早慣れ親しんだというか、彼らの装いは水着であってもいつもの色が入っていたので笑ってしまった。
「ねえ、一松」
パラソルの下から出て、こちらに向かって勢いよく手を振る十四松の方へ歩きながら、ナマエが隣を歩く一松に小さく呼びかけた。
「なに?」
「俺たちが付き合えてるのって、スゴくない?」
「え!? ま、まあね……」
「それに、浮気したり、刃傷沙汰になったりも出来る」
「ああ?!」
一松は思わずナマエを睨みつけ、掴みかかりそうになったが、彼は動じない。
「もちろん、死ぬまで仲良くすることも出来る。人生ってわりと何でも出来るし、世界はそれを許してるんだね。法や道徳は置いといて」
「…………かもね」
「なんでも出来るのって苦痛だったけど、最近はそれが嬉しいんだ」
「…………そ」
「ちゃんと働ける気さえするし。隠してた分を除いて、金持ってかれちゃったしねぇ。公認会計士でも目指そうかな」
「向いてるんじゃない?」
「ははは、テキトー。まぁ、俺は俺がやりたいように生きるよ。だから、一松もやりことをやりなよ。俺は、いつでも応援するから。それに、君が何か失敗しても、俺が養うから安心していいぜ。命綱というか、セーフティネットというか、そんなものになってみせるから」
「それ、おれに寄生されるだけじゃない?」
「それで一松が楽しいなら、別にいいよ。後ろめたく思って自己嫌悪とかしないならね」
自身を苦しめる社会通念なんて捨ててしまえ、と彼は言う。
「なんにせよ、君の幸せに俺が必要だったら嬉しいよ」
2019/01/29