些末シリーズ
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ガラの悪い男が玄関先に立っていた。派手なスーツに派手なネックレス。顔にはサングラス。右手に煙草。レンタルビデオを返した帰りに、そんな場面に出くわした。
「君、ここの家の人?」
松野一松に気付いた男は、そう尋ねながら、煙草を蜂の巣の様な携帯用灰皿に押し込む。
「……違います」
「嘘でしょ」
咄嗟に口をついた嘘は通じなかった。冷や汗が頬を伝う。
「だって君、十四松くんと顔そっくりだもん。兄弟でしょ?」
「……十四松、に用が……?」
「うん、そう」
このヤクザか何かであろう男が十四松に何の用があるというのか? コイツの車を傷付けた? コイツに硬球を当てた? 嫌な想像ばかりがよぎる。
「十四松くん居たら呼んで来てくれないかな?」
「分かりました……」
「悪いね」
家に入って行く一松に、男はヒラヒラと手を振る。玄関には、十四松の靴はない。階段を駆け上がり、襖を勢いよく開けた。
「十四松が!」
「びっ……くりした。どうしたの一松? 十四松ならどっか行ったよ?」
チョロ松が求人雑誌から顔を上げて答える。
「今、チョロ松だけ?」
「僕だけ。本当どうしたの?」
「ヤクザが十四松に用があるって……」
「は?」
「玄関の前にいる」
「え……? 十四松なにしたの?!」
「知らないけど」
「どうしよ……」
「……殺そう」
「やめて?! 何も解決しないよ?! そもそも、本当にヤクザなの?」
「見ればわかるよ」
「じゃあ覗いて来る」
一松の思い違いではないかと疑っていたチョロ松だったが。
「なにあの見本みたいなヤクザ! あれでヤクザじゃなかったら詐欺だよ!」
「でしょ?」
こっそりと玄関から様子を伺い、急いで戻って来たチョロ松は青ざめている。
「アイツの持ってた煙草!」
「パーなんとか?」
「ヤクザ煙草だよ?! 完全にヤクザ!」
「ふたりでなに騒いでんの?」
「おそ松兄さん?!」
「……?!」
「びっくりしたぁ。ヤクザが来たのかと思った……」
「ヤクザ? 玄関の前にいた奴?」
「あ、もういないの?」
「十四松にコレ届けに来たんだって」
手にした野球のボールを投げるおそ松。
「で、ヤクザ帰ったの?」
「俺が十四松いないみたいって言ったら、ボール渡して、行き違いになった十四松がボール探してるかもしれないから河原に戻るってさ」
「善人かよ?! 心配して損した!」
「……でもヤクザかもよ?」
「なに? 十四松、ヤクザと野球してるの? ウケる」
「ウケるか! 心配しろよ!」
「……十四松、アイツがヤクザだって知らないんじゃないの?」
「あー」
「十四松が帰って来たら話を聞こう」
「そうしよう」
渦中の人、十四松は夕飯前に帰って来た。そして、五男が語り始めたものは帰宅を待ち望んでいた5人に衝撃を与えるものであった。
「ナマエが追いかけてた人を捕まえたら、お礼がしたいって言うから野球に付き合ってもらった!」
「アイツ、ナマエっていうんだ」
「ていうか呼び捨てでいいの?」
「捕まえた人は今頃……」
「そこは考えるな」
「それいつの話?」
「何日か前」
「それだけ?」
「焼き肉連れてってもらった」
「焼き肉?!」
「ずるい!」
「肉!」
「肉食べたい!」
「そういうことは言えよ?!」
「ご家族も一緒にとか言われなかったのかよ?」
「言われなかった」
「アイツ極悪人だな」
「いや、呼ばれたとしてもこんな大勢で来られたら困るだろ。あと、お前はヤクザ同席で肉を美味しく食えるの?」
「十四松、焼き肉行った時、スーツの奴何人いた?」
「席にふたりと周りに……6人?」
「あ、ムリ」
「……スーツの人以外いた?」
「いない」
「貸し切りだ……」
「昼なのに閉店のやつ掛けてた」
「うわぁ」
「肉、美味しかった?」
「うん!」
「十四松じゃなきゃ肉の味わかんなかったな」
「フッ……そうだな」
笑う兄弟たちから視線を逸らし、一松は溜め息を吐いた。
◆◆◆
「ごめんね! ナマエ~」
「大丈夫、ダイジョ~ブ」
「痛い?」
「クソ痛い」
そんなやり取りが聴こえた一松は、まさかと思った。
「早く手当てしよう!」
言いながら豪快に扉を開けたのは予想通り十四松、と手を引かれている数日前に話題になったヤクザ(額をハンカチで押さえている)。野球道具を持っているので、キャッチボールでもしていたのだろう。一松は思わず顔をしかめた。
「あ、一松兄さん! 救急箱どこ? いつものとこにない」
居間の棚の上を確認した十四松が訊く。
「たぶん上。持ってくる……」
「ありがと兄さん。ナマエ、居間に行ってよう」
「お邪魔します」
全くもってお邪魔だったが、一松は何も言わなかった。
「いらっしゃい、ナマエ!」
十四松は呑気に言う。居間まで半ば引き摺られるようにして連れて来られたナマエは十四松の隣に腰を下ろした。ハンカチをそっと額から外すと、僅かに血が付着している。
「血……ナマエ死ぬ?!」
「死なないよ。擦りむいたくらいの血だから大丈夫」
「ごめんなさい……」
「今度からもう少し手加減して投げてくれると助かる」
「わかった!」
十四松の投げた豪速球がグローブを弾き飛ばし、その球がナマエにヒットした。そのせいで、ここにいる。実のところ、ここに来るのは気が進まなかったのだが、十四松が物凄い力で引っ張るので渋々来たのである。
「……救急箱」
「ありがとう! 一松兄さん」
「あ、ありがとう」
「……別に」
一松はナマエと目を合わせない。
「…………」
「…………」
「あ! ぼくが手当てするよ!」
「え?! 十四松くんが?! いや、いいよ。俺、自分でやるから」
「えー?」
「……おれがやる」
「兄さんが?」
「十四松は氷、袋に詰めて来て」
「了解!」
十四松は台所に向かう。
「……傷、洗った?」
「うん」
答えながらサングラスを外すナマエ。傷が痛むのか険しい顔をしている。
馴れない手付きで消毒し絆創膏を貼ろうとする一松をナマエは不思議そうな目で見ていたが、ジロジロ見るのも悪いと思い、天井を見上げた。
金魚鉢を逆さにしたような照明に金魚が数匹ぶら下がっている。
(これ、金魚は死ぬんじゃないか?)
そんなことを考えている内に、手当てを終えた一松は後片付けを始めていた。ゴミを捨て、救急箱を棚の上に戻す。
「ありが――」
「もう十四松に関わらないで……」
感謝の言葉を聞かず、そんな捨て台詞を残して彼は去った。最後まで目は合わなかった。入れ替わりに、十四松が氷を持って戻った。
「はい!」
「ありがとう、十四松くん」
ビニール袋に入れた氷を額に当てながら言う。
「冷やしたら治る?」
「治るよ」
「ナマエ、ご飯食べてく?」
「えっ? いやぁ、それはちょっと」
「友達なんだから遠慮しないで!」
「友達?」
「あれ? 友達じゃない?」
「友達かぁ。いないからよくわかんねぇや」
「友達いない? 一松兄さんもいないから大丈夫!」
「……おう」
「好きな食べ物は?」
「えっ?……肉?」
「ぼくも肉好き!」
「知ってる。すげー食ってたもんな」
「すげー食ったね!」
ふたりが妙な会話を繰り広げていると、にわかに玄関が騒がしくなった。
「知らない靴があるんだけど」
「誰だろ?」
「居間にお客さん?」
帰って来た兄弟たちとナマエの目が合う。
「あ、ヤクザだ」
「アウトローか」
「なんでヤのつく自由業の人がいんの?!」
「誰か借金した?」
「…………十四松くんが増えた?!」
ぞろぞろとやって来たのは赤、青、緑、桃色の十四松であった。
「あー。この人、十四松兄さんが基本形になっちゃってるよ」
「3人兄弟だと思ってた……」
彼が見たのは、十四松、一松、おそ松(名前は知らない)のみである。
「ぼくら六つ子なんだ! すごいでしょー?」
「すげー! ってことは年齢同じか。十四松くん末っ子かと思ってた」
「末っ子はボク。トド松だよ」
「俺は長男のおそ松。玄関先で会ってボール受け取った」
「フッ……次男のカラ松だ、よろしくな」
「チョロ松……です。三男です、よろしく」
「あれ? 一松は?」
「いない。上じゃない?」
「まあいいや、目付き悪い猫背のが四男ね」
「松野十四松! 五男!」
「知ってるよー。俺はミョウジナマエ。よろしく」
「知ってる! ぼくの友達!」
「それは……ありがとう……?」
「どういたしましてー!」
「ところでさ、マジでヤクザなの?」
「金融業だけど?」
おそ松の質問に飄々と答える。
「あ、誤魔化したよこのヤクザ」
「やはりアウトローか」
「ヤのつく金融業!」
「次の文字はミ? 怖ーい」
「てか、怪我してんじゃん。抗争?」
「いや……」
「ぼくがボールぶつけた」
「マジで? 十四松沈められちゃう?」
「いや……」
「ヤクザ、飯食う?」
「いや、帰るよ」
「ヤクザって渾名に順応しないで!」
「なんだ帰んの? 今度来る時は肉持って来て肉。牛のでいいから」
「お前、その厚かましさどっから来てんの?!」
喧騒の中を抜け、十四松に見送られて帰るナマエであった。その様を見ていた者に気付かずに。
◆◆◆
ミョウジナマエは引き摺られていた。
「十四松くん、勘弁して……仏の顔も三度までだよぉ~」
「二度あることは三度ある?」
「やめてくれぇ~」
十四松はナマエの意図することがわかっているのか、いないのか。松野家に向かって、ずるずる引き摺る。
「十四松くんは気付いてないみたいだけどさぁ。俺、君のニーサンらにすげー警戒されてたから! 特に猫背の人!」
「一松兄さん?」
「俺、一松ニーサンに殺されちゃうよ?」
「ナマエ、ヤクザなのに?」
「だからだよ。そりゃ、兄弟に近付いてほしくないだろうよ」
「一松兄さんはねぇ、やる時はやる!」
「俺まだ殺られたくないよぉ~」
ずるり、と着いた。
「ただいまー! ナマエ連れて来たよー!」
「はぁ……お邪魔します……」
さらにずるずると引き摺られ(そして持ち上げられ)、二階へ行くと、一番居てほしくない者が居た。
「……おかえり」
膝に猫を乗せた彼が自分を一瞥し、舌打ちするのが聴こえた。
「十四松、菓子切れてるからテキトーに何か買ってきて」
「あいあいさー!」
千円札を受け取った十四松はバタバタと音を立てて飛び出して行った。
「…………」
それを見送った後、目を合わせないままに一松は口を開く。
「……あんたさぁ、どういうつもり?」
「ごめん」
「言い訳はないんだ?」
「ない。嬉しくて、つい」
「は?」
「友達っていたことなくてさ」
「同情してほしいの? なら、悪いけど無理」
「君も友達いないの? 十四松くんが言ってた」
「はぁ? いますけど?」
「いるんだ。ごめん」
猫を含めていいのならば、いる。
「俺は周りに同僚と敵しかいなくてさぁ。参るよ、本当」
「…………」
一松は、何をペラペラ話しているんだ? 早く出て行けクソヤクザ、と思ったが流石にそこまで強くは出られない。何せ相手はヤクザである。誰だってドスで刺されたくはない。
「それもこれも訳あって上司が代わったせいなんだよ。あのクソ野郎、本当ムカつく。早く死なねーかな」
「……殺せば?」
仕方なく、テキトーに相槌を打つ。
「それは考えたけど、無理。俺には暗殺の才能がない」
考えたのかよ、と内心ツッコミを入れた。
「じゃあ、逃げたら……?」
またもテキトーに返す。
「逃げる……?」
「環境が悪いなら逃げた方がいいでしょ……早い内に……」
「は、ははっ!」
男は右手をサングラスの下に差し込み、両目を覆う。何が面白いのか、くつくつと笑う。その笑いは諦めと自嘲を含んでいた。
「飼われてる金魚が金魚鉢から出て生きられるかってんだよ……」
彼は舌打ちした。
「なんか君って静かだね。話しやすいよ。十四松くんは、あんまり俺に喋らせてくれないんだ」
「……そりゃどうも」
サングラスをかけ直し、彼はフゥと息を吐く。
「もう十四松くんには会わないから安心して。邪魔したね。用事で帰ったって言っといて」
「……あ、そ」
「疑ってる?」
「別に……」
「この辺にはなるべく来ないようにするよ。じゃあな」
「…………」
予期せぬ訪問者が去って数分後に帰って来た十四松には、言われた通りに用事で帰ったと伝えた。
「そっかぁ。じゃあ仕方ないね」
「十四松、アイツとはもう――」
「じゃ、これふたりで食べる?」
そう言ってビニール袋から取り出したものは、白が乗った赤。
「なんで生肉?!」
十四松はいつもの笑顔を浮かべるだけだった。
◆◆◆
弟からヤクザを遠ざけてから数日後、猫に会いにいつもの路地裏へ出向くと、そこには先客がいた。とっさに積まれた段ボール箱の陰に身を潜め、その男を観察する。若い男だ。印象に残らないような見た目だが、手にしている物が圧倒的な存在感を放つ。右手には鎌状の刃を持つ奇妙なナイフ。左手には、麻袋。その袋は激しく揺れており、フーッとかシャーッという鳴き声がする。猫の、鳴き声がする。
(え……? なに……?)
目の前の光景を、脳が理解するのを拒んでいる。まるで画面の中の出来事のように見えた。音が遠ざかり、世界が白んでいく。男は一松には気付かず、路地の奥へと進む。袋の中の猫は暴れ続けている。
(まさか……)
袋を無造作に地面に投げ、自身もしゃがみ込む男。
(刺すのか……? 猫を……)
止めなければ。そう思うのに、体がこわばって動かない。
(早く……助けないと……)
手が震えている。息苦しい。冷や汗で貼り付いた衣服が気持ち悪い。脚に力を入れ、なんとか男に近付こうとしたその時、一松の真横を通り過ぎる影があった。影は足早にナイフの男の真後ろまで進む。
「おい」
「……あ?」
振り向いた男は、その顔をひきつらせた。どう見てもヤクザであろう男に睨まれたのだから無理もない。
「色々訊きてぇことあんだ。立てよ」
「はい……」
男は立ち上がり、ナマエに向き直る。
「その袋、何が入ってんだ?」
ナマエは麻袋を顎で指す。
「あの……猫、です……」
男は震える声で答えた。
「オメェの?」
「は……い……」
「袋詰めした理由は?」
「家に、連れて帰ろうと……」
「そのナイフは?」
「く、空気を入れてやろうと思って……」
「あ? テキトーこいてんじゃねぇぞ」
「ヒッ……あ、あの……すいません……」
「オメェは野良猫をとっ捕まえて殺そうとしたんじゃねぇのか?」
「そう、です……」
「それからよ、そのナイフ。カランビットナイフはなぁ、そんな風に持つもんじゃねぇんだよなぁ」
カランビットナイフは、逆手持ちして柄の先にある穴に人指し指を入れるのが基本的な握り方である。しかし、男は普通のナイフのように順手持ちしている。そもそも地面の猫に振り下ろすつもりなら、普通のナイフだとしても逆手持ちするべきなのだが、慣れていないのだろう。
「使い方知らない武器なんて持つ意味ねぇだろ? な?」
「は、はい……」
「寄越せよ、ソレ」
「……はい」
退路のない男は、怒気を含んだ声で命令されれば従うしかない。あくまで静かに、ナマエは続ける。
「これに懲りたら、もうこんなことすんじゃねぇぞ?」
「し、しません……!」
「口じゃ、なんとでも言えんだよ。誠意見せろ」
男は慌ててズボンのポケットから財布を出す。
「あの、金なら全部――」
「身分証」
「はぇ……?」
「身分証出せや」
「…………」
男は震える手で財布から運転免許証を取り、ナマエに差し出した。
「じゃあ、預かっとくからよ。もう悪さすんなよ?」
「は、はいぃ……! 本当にすいませんでした……!」
ナマエが道を開けてやると、すっかり怯えた男は路地裏から一目散に駆けて行った。
「……一松」
「えっ……」
急に名前を呼ばれて驚いた。
「猫、出してやって。猫と仲良いんだろ?」
十四松から得た情報だろう。
「うん……」
すぐに駆け寄って麻袋の口を縛っていた紐をほどき、猫を外に出してやる。猫は威嚇してきたが、一松に抱かれると徐々に落ち着きを取り戻した。
「怪我ない?」
「……たぶん大丈夫」
外傷は見当たらない。
「心配なら動物病院に連れてこうか?」
「いいの……?」
「金ならコイツに請求するから大丈夫」
笑顔で免許証を指で挟んで見せた。一松は何故か目をぱちくりさせている。
「どうかした?」
「喋り方が……全然違う……」
纏う空気や動作のひとつを取っても、別人のようだ。
「ああいう場面じゃナメられたら終わりだからね。でも、不必要に一般人を脅す趣味はないからさ。普通に捕まるし」
「…………」
「もしかして、怖がらせた?」
「別に……」
「そう」
「……ミョウジ」
「ん?」
「一応、お礼言っとく」
「礼なんていいよ。俺がいなくても君が何とかしただろうし」
しかし、ここまで事をすらすらと運べたかは分からないので礼を言うのは当然のように思えた。
「こういう時は警察呼ぶのが一番だよ。凶器持った奴がいるって。さっきは今にも刺しそうだったから止めたけど」
あっけらかんと言う。
「ところで、君に会うのはセーフだよね?」
ナマエが軽口を叩く。
「そういえば、なんでいるの?」
「たまたま。用済ませた帰りに君がここに入るのが見えて、興味本意で覗いたらナイフ野郎がいた」
説明しながら麻袋を拾い、中にナイフを入れたそれを近くの燃えるゴミの袋に捩じ込んだ。
「今回は、セーフ……」
そういうことにした。その後、ナマエが呼んだタクシーで動物病院に向かった。幸いにも猫に異状はなく、ほっと胸を撫で下ろした。そして現在、動物病院を出たふたりは夕日に照らされた公園にいる。微妙な距離感でベンチに座っている。一松は猫を抱いたままだ。ナマエは煙草を取り出しかけたが、思い直してケースから手を放した。
「……あんた、もしかして悪人じゃないの?」
突然そんな言葉を投げかけられたナマエは面食らった。
「……いいや。ただの悪人だよ」
「……そ。おれ、あんたが十四松にテキトーなこと言って犯罪の片棒担がせる気なのかと思ってたんだよね。でも、十四松に訊いても野球したこと以外出て来なかった。だから、悪人じゃないのかも……って思ったんだけど……」
「善人だったら、こんな商売してないでしょ」
「……善人とは言ってないし」
「ははっ。自惚れてた」
「あんたは凄く普通に見える」
「……今時は皆そんなもんよ。見るからにその筋の人ってのは減ってきてる。今日、俺がこういうカッコしてんのも偶然だし。このカッコじゃないと決まらない仕事してただけ」
「……そう。じゃあ、きっともう会わないだろうね」
「ああ、そうだな」
そんな会話の後、ふたりは別れた。それぞれの世界に帰るように、互いに背を向けて。
◆◆◆
カラスの鳴き声が響く夕暮れ時、ゴミ袋にもたれ掛かるように、男が路地裏に倒れていた。何発も殴られたのであろう、顔の右側は腫れ上がっている。鼻や口からは血が出ている。服は破れ、血と泥で汚れてボロボロだ。男はピクリとも動かない。
「ミョウジ……?」
ミョウジナマエは死んだように動かない。少し前に会った彼の変わり果てた姿に動揺した。
「おい……起きろよ……」
肩を掴んで揺すると、かすかに呻いた。
「あ……? 一松……?」
「そーですけど……」
ナマエは口に溜まっていた血をペッと吐いた。コンクリート上の血の中には白い欠片がいくつかある。それが砕けた歯であると気付いた一松はゾッとした。
「……病院行きなよ」
「病院は行けねぇ。俺が行ける病院は張られてるだろうしな」
「…………」
「……もう夕方か。長いこと気絶してたみたいだな」
「いつからここにいんの?」
「さぁ。俺がボロ雑巾みたいに捨てられたのは深夜だったと思うけどな。つーか、ここどこ?」
「前に俺と会った路地裏」
「どうやってここまで来たか覚えてないな。ボコられた後に朦朧としながら結構歩いたんだな、俺」
「……あんた喧嘩弱いの?」
「3対1で勝てなきゃ弱いってんなら弱いよ」
「これからどうすんの……?」
「もしかして心配してくれてる?」
「……ここで死なれたら迷惑」
「はは。だよね」
「本当に、いつか死ぬんだろうね……」
「誰だってそうだろ?」
「……そうだけど」
死に方の問題だ。人に殺されるのはよくあることではない。
「いつか俺が死んで、まともな人間に生まれ変わったら、仲良くしてやってくれ」
「はぁ? やだよ」
「冷てぇの」
ナマエは殴られて歪んだ顔で笑う。
「なにヘラヘラしてんの……? なんで……」
「なんだよ……」
「なんで……そんなとこにいんの……?」
「ははは。正論で人を刺していいのは、逆恨みで刺される覚悟がある奴だけだぜ」
今度は乾いた笑いを浮かべる。
「……他に居場所が無ェからに決まってんだろ」
低く唸るような声で言われては何も言い返せない。
彼はフラフラとした足取りで去って行った。それを見ながら、立ち尽くすことしか出来なかった。彼と自分はなんの関係もないのだから。
◆◆◆
「ナマエに全然会わなくなっちゃった……」
今朝、落ち込んだ様子の十四松が、そう言っていた。そのせいで一松は気分が悪い。ミョウジナマエが消えて、そろそろ一ヶ月になる。彼を遠ざけたことが正しかったのか分からないし、彼が生きているのかどうかも分からない。十四松は友人を失ったのかもしれない。そう考えると、一松は自分に責任の一端があるような気がした。
「はぁ……」
気分転換にテレビをつけてみる。
『――組が、組織運営をめぐる対立から内部分裂状態に入ったことが警察当局への取材で分かりました。対立抗争事件に――』
どこかの組の内部抗争で死傷者多数のニュースが流れている。普段ならば何とも思わないニュースが不快でチャンネルを変えた。
『さて、続いては巷で話題のアクアリウムの特集です。なんと、この水族館では――』
「はぁ……」
今日、何度目かの溜め息を吐いた。1時間ほどテレビを眺めてはみたものの、あまり気晴らしにはならない。仕方なく外出することにした。道すがら、あの男のことを考える。彼は今の環境から抜け出せるわけがないと諦めていた。なんとなく、一松にも覚えがある思考だ。何かしようとする自分のことを、後ろ斜め上から見ている自分がいる。お前に出来る訳ないと、そいつは言う。そいつを黙らせられない限り、状況を変えることは出来ないのだろう。一松は物思いに深く沈みかけたが、そんなことを考えても詮無いことだと無理矢理に思考を断ち切った。
◆◆◆
やはり気が滅入る時は猫に会うに限る。幾分か気分が良くなり、日暮れには帰路につく一松であった。そして、自宅前に差し掛かったところ。見知らぬ男が玄関先に立っていた。黒いジャージ上下。顔には眼鏡。右手に紙袋。猫と戯れた帰りに、そんな場面に出くわした。
「よう、久し振り」
「な…………え?!」
その声は、男は間違いなくミョウジナマエだった。
「こんにちは。近くに越して来たミョウジナマエ、無職です」
「は……? 無職……?」
「一松のせい。酷い目に遭う度に、逃げれば? って言った君の顔がチラつくんだよ。だから金魚鉢から出た」
「はぁ? おれのせいにしないでくれる? テキトー言っただけだし」
「分かってるって」
「で、金魚鉢から出た先がこんなとこ?……笑える」
「君がいるところまで上って来た」
「落ちて来たの間違いでしょ?」
「見解の相違だな。ま、これからよろしく友達のお兄さん」
「……よろしく、弟の友達……上がる?」
「お邪魔します」
「……いらっしゃい」
ナマエを居間に通し、向かい合って座る。
「これ、お土産。せんべい。色んな種類入ってるやつ」
紙袋を一松に渡す。
「わさわざ、どうも。ところで、その眼鏡なに?」
「伊達。なんか掛けてないと落ち着かなくて」
「ふーん。ていうか、生きてたんだ?」
「まあ、一応」
「家、どこ?」
「ここ出て、ちょっと行ったとこ」
「どこだよ」
「まだ住所覚えてない。ワンルームの安アパートだよ」
「……そういえば、金魚鉢って金魚飼うものじゃないんだって」
「そうなの? 金魚鉢なのに?」
「アレはあくまで、池とかから出した金魚を観賞するために、一時的に入れとくもの。狭くてエアポンプも入らない器で飼ってたら金魚すぐ死ぬ、らしい……」
「マジか。出て正解だな」
天井の金魚を見上げて、彼は晴れやかに笑った。
2016/03/14
「君、ここの家の人?」
松野一松に気付いた男は、そう尋ねながら、煙草を蜂の巣の様な携帯用灰皿に押し込む。
「……違います」
「嘘でしょ」
咄嗟に口をついた嘘は通じなかった。冷や汗が頬を伝う。
「だって君、十四松くんと顔そっくりだもん。兄弟でしょ?」
「……十四松、に用が……?」
「うん、そう」
このヤクザか何かであろう男が十四松に何の用があるというのか? コイツの車を傷付けた? コイツに硬球を当てた? 嫌な想像ばかりがよぎる。
「十四松くん居たら呼んで来てくれないかな?」
「分かりました……」
「悪いね」
家に入って行く一松に、男はヒラヒラと手を振る。玄関には、十四松の靴はない。階段を駆け上がり、襖を勢いよく開けた。
「十四松が!」
「びっ……くりした。どうしたの一松? 十四松ならどっか行ったよ?」
チョロ松が求人雑誌から顔を上げて答える。
「今、チョロ松だけ?」
「僕だけ。本当どうしたの?」
「ヤクザが十四松に用があるって……」
「は?」
「玄関の前にいる」
「え……? 十四松なにしたの?!」
「知らないけど」
「どうしよ……」
「……殺そう」
「やめて?! 何も解決しないよ?! そもそも、本当にヤクザなの?」
「見ればわかるよ」
「じゃあ覗いて来る」
一松の思い違いではないかと疑っていたチョロ松だったが。
「なにあの見本みたいなヤクザ! あれでヤクザじゃなかったら詐欺だよ!」
「でしょ?」
こっそりと玄関から様子を伺い、急いで戻って来たチョロ松は青ざめている。
「アイツの持ってた煙草!」
「パーなんとか?」
「ヤクザ煙草だよ?! 完全にヤクザ!」
「ふたりでなに騒いでんの?」
「おそ松兄さん?!」
「……?!」
「びっくりしたぁ。ヤクザが来たのかと思った……」
「ヤクザ? 玄関の前にいた奴?」
「あ、もういないの?」
「十四松にコレ届けに来たんだって」
手にした野球のボールを投げるおそ松。
「で、ヤクザ帰ったの?」
「俺が十四松いないみたいって言ったら、ボール渡して、行き違いになった十四松がボール探してるかもしれないから河原に戻るってさ」
「善人かよ?! 心配して損した!」
「……でもヤクザかもよ?」
「なに? 十四松、ヤクザと野球してるの? ウケる」
「ウケるか! 心配しろよ!」
「……十四松、アイツがヤクザだって知らないんじゃないの?」
「あー」
「十四松が帰って来たら話を聞こう」
「そうしよう」
渦中の人、十四松は夕飯前に帰って来た。そして、五男が語り始めたものは帰宅を待ち望んでいた5人に衝撃を与えるものであった。
「ナマエが追いかけてた人を捕まえたら、お礼がしたいって言うから野球に付き合ってもらった!」
「アイツ、ナマエっていうんだ」
「ていうか呼び捨てでいいの?」
「捕まえた人は今頃……」
「そこは考えるな」
「それいつの話?」
「何日か前」
「それだけ?」
「焼き肉連れてってもらった」
「焼き肉?!」
「ずるい!」
「肉!」
「肉食べたい!」
「そういうことは言えよ?!」
「ご家族も一緒にとか言われなかったのかよ?」
「言われなかった」
「アイツ極悪人だな」
「いや、呼ばれたとしてもこんな大勢で来られたら困るだろ。あと、お前はヤクザ同席で肉を美味しく食えるの?」
「十四松、焼き肉行った時、スーツの奴何人いた?」
「席にふたりと周りに……6人?」
「あ、ムリ」
「……スーツの人以外いた?」
「いない」
「貸し切りだ……」
「昼なのに閉店のやつ掛けてた」
「うわぁ」
「肉、美味しかった?」
「うん!」
「十四松じゃなきゃ肉の味わかんなかったな」
「フッ……そうだな」
笑う兄弟たちから視線を逸らし、一松は溜め息を吐いた。
◆◆◆
「ごめんね! ナマエ~」
「大丈夫、ダイジョ~ブ」
「痛い?」
「クソ痛い」
そんなやり取りが聴こえた一松は、まさかと思った。
「早く手当てしよう!」
言いながら豪快に扉を開けたのは予想通り十四松、と手を引かれている数日前に話題になったヤクザ(額をハンカチで押さえている)。野球道具を持っているので、キャッチボールでもしていたのだろう。一松は思わず顔をしかめた。
「あ、一松兄さん! 救急箱どこ? いつものとこにない」
居間の棚の上を確認した十四松が訊く。
「たぶん上。持ってくる……」
「ありがと兄さん。ナマエ、居間に行ってよう」
「お邪魔します」
全くもってお邪魔だったが、一松は何も言わなかった。
「いらっしゃい、ナマエ!」
十四松は呑気に言う。居間まで半ば引き摺られるようにして連れて来られたナマエは十四松の隣に腰を下ろした。ハンカチをそっと額から外すと、僅かに血が付着している。
「血……ナマエ死ぬ?!」
「死なないよ。擦りむいたくらいの血だから大丈夫」
「ごめんなさい……」
「今度からもう少し手加減して投げてくれると助かる」
「わかった!」
十四松の投げた豪速球がグローブを弾き飛ばし、その球がナマエにヒットした。そのせいで、ここにいる。実のところ、ここに来るのは気が進まなかったのだが、十四松が物凄い力で引っ張るので渋々来たのである。
「……救急箱」
「ありがとう! 一松兄さん」
「あ、ありがとう」
「……別に」
一松はナマエと目を合わせない。
「…………」
「…………」
「あ! ぼくが手当てするよ!」
「え?! 十四松くんが?! いや、いいよ。俺、自分でやるから」
「えー?」
「……おれがやる」
「兄さんが?」
「十四松は氷、袋に詰めて来て」
「了解!」
十四松は台所に向かう。
「……傷、洗った?」
「うん」
答えながらサングラスを外すナマエ。傷が痛むのか険しい顔をしている。
馴れない手付きで消毒し絆創膏を貼ろうとする一松をナマエは不思議そうな目で見ていたが、ジロジロ見るのも悪いと思い、天井を見上げた。
金魚鉢を逆さにしたような照明に金魚が数匹ぶら下がっている。
(これ、金魚は死ぬんじゃないか?)
そんなことを考えている内に、手当てを終えた一松は後片付けを始めていた。ゴミを捨て、救急箱を棚の上に戻す。
「ありが――」
「もう十四松に関わらないで……」
感謝の言葉を聞かず、そんな捨て台詞を残して彼は去った。最後まで目は合わなかった。入れ替わりに、十四松が氷を持って戻った。
「はい!」
「ありがとう、十四松くん」
ビニール袋に入れた氷を額に当てながら言う。
「冷やしたら治る?」
「治るよ」
「ナマエ、ご飯食べてく?」
「えっ? いやぁ、それはちょっと」
「友達なんだから遠慮しないで!」
「友達?」
「あれ? 友達じゃない?」
「友達かぁ。いないからよくわかんねぇや」
「友達いない? 一松兄さんもいないから大丈夫!」
「……おう」
「好きな食べ物は?」
「えっ?……肉?」
「ぼくも肉好き!」
「知ってる。すげー食ってたもんな」
「すげー食ったね!」
ふたりが妙な会話を繰り広げていると、にわかに玄関が騒がしくなった。
「知らない靴があるんだけど」
「誰だろ?」
「居間にお客さん?」
帰って来た兄弟たちとナマエの目が合う。
「あ、ヤクザだ」
「アウトローか」
「なんでヤのつく自由業の人がいんの?!」
「誰か借金した?」
「…………十四松くんが増えた?!」
ぞろぞろとやって来たのは赤、青、緑、桃色の十四松であった。
「あー。この人、十四松兄さんが基本形になっちゃってるよ」
「3人兄弟だと思ってた……」
彼が見たのは、十四松、一松、おそ松(名前は知らない)のみである。
「ぼくら六つ子なんだ! すごいでしょー?」
「すげー! ってことは年齢同じか。十四松くん末っ子かと思ってた」
「末っ子はボク。トド松だよ」
「俺は長男のおそ松。玄関先で会ってボール受け取った」
「フッ……次男のカラ松だ、よろしくな」
「チョロ松……です。三男です、よろしく」
「あれ? 一松は?」
「いない。上じゃない?」
「まあいいや、目付き悪い猫背のが四男ね」
「松野十四松! 五男!」
「知ってるよー。俺はミョウジナマエ。よろしく」
「知ってる! ぼくの友達!」
「それは……ありがとう……?」
「どういたしましてー!」
「ところでさ、マジでヤクザなの?」
「金融業だけど?」
おそ松の質問に飄々と答える。
「あ、誤魔化したよこのヤクザ」
「やはりアウトローか」
「ヤのつく金融業!」
「次の文字はミ? 怖ーい」
「てか、怪我してんじゃん。抗争?」
「いや……」
「ぼくがボールぶつけた」
「マジで? 十四松沈められちゃう?」
「いや……」
「ヤクザ、飯食う?」
「いや、帰るよ」
「ヤクザって渾名に順応しないで!」
「なんだ帰んの? 今度来る時は肉持って来て肉。牛のでいいから」
「お前、その厚かましさどっから来てんの?!」
喧騒の中を抜け、十四松に見送られて帰るナマエであった。その様を見ていた者に気付かずに。
◆◆◆
ミョウジナマエは引き摺られていた。
「十四松くん、勘弁して……仏の顔も三度までだよぉ~」
「二度あることは三度ある?」
「やめてくれぇ~」
十四松はナマエの意図することがわかっているのか、いないのか。松野家に向かって、ずるずる引き摺る。
「十四松くんは気付いてないみたいだけどさぁ。俺、君のニーサンらにすげー警戒されてたから! 特に猫背の人!」
「一松兄さん?」
「俺、一松ニーサンに殺されちゃうよ?」
「ナマエ、ヤクザなのに?」
「だからだよ。そりゃ、兄弟に近付いてほしくないだろうよ」
「一松兄さんはねぇ、やる時はやる!」
「俺まだ殺られたくないよぉ~」
ずるり、と着いた。
「ただいまー! ナマエ連れて来たよー!」
「はぁ……お邪魔します……」
さらにずるずると引き摺られ(そして持ち上げられ)、二階へ行くと、一番居てほしくない者が居た。
「……おかえり」
膝に猫を乗せた彼が自分を一瞥し、舌打ちするのが聴こえた。
「十四松、菓子切れてるからテキトーに何か買ってきて」
「あいあいさー!」
千円札を受け取った十四松はバタバタと音を立てて飛び出して行った。
「…………」
それを見送った後、目を合わせないままに一松は口を開く。
「……あんたさぁ、どういうつもり?」
「ごめん」
「言い訳はないんだ?」
「ない。嬉しくて、つい」
「は?」
「友達っていたことなくてさ」
「同情してほしいの? なら、悪いけど無理」
「君も友達いないの? 十四松くんが言ってた」
「はぁ? いますけど?」
「いるんだ。ごめん」
猫を含めていいのならば、いる。
「俺は周りに同僚と敵しかいなくてさぁ。参るよ、本当」
「…………」
一松は、何をペラペラ話しているんだ? 早く出て行けクソヤクザ、と思ったが流石にそこまで強くは出られない。何せ相手はヤクザである。誰だってドスで刺されたくはない。
「それもこれも訳あって上司が代わったせいなんだよ。あのクソ野郎、本当ムカつく。早く死なねーかな」
「……殺せば?」
仕方なく、テキトーに相槌を打つ。
「それは考えたけど、無理。俺には暗殺の才能がない」
考えたのかよ、と内心ツッコミを入れた。
「じゃあ、逃げたら……?」
またもテキトーに返す。
「逃げる……?」
「環境が悪いなら逃げた方がいいでしょ……早い内に……」
「は、ははっ!」
男は右手をサングラスの下に差し込み、両目を覆う。何が面白いのか、くつくつと笑う。その笑いは諦めと自嘲を含んでいた。
「飼われてる金魚が金魚鉢から出て生きられるかってんだよ……」
彼は舌打ちした。
「なんか君って静かだね。話しやすいよ。十四松くんは、あんまり俺に喋らせてくれないんだ」
「……そりゃどうも」
サングラスをかけ直し、彼はフゥと息を吐く。
「もう十四松くんには会わないから安心して。邪魔したね。用事で帰ったって言っといて」
「……あ、そ」
「疑ってる?」
「別に……」
「この辺にはなるべく来ないようにするよ。じゃあな」
「…………」
予期せぬ訪問者が去って数分後に帰って来た十四松には、言われた通りに用事で帰ったと伝えた。
「そっかぁ。じゃあ仕方ないね」
「十四松、アイツとはもう――」
「じゃ、これふたりで食べる?」
そう言ってビニール袋から取り出したものは、白が乗った赤。
「なんで生肉?!」
十四松はいつもの笑顔を浮かべるだけだった。
◆◆◆
弟からヤクザを遠ざけてから数日後、猫に会いにいつもの路地裏へ出向くと、そこには先客がいた。とっさに積まれた段ボール箱の陰に身を潜め、その男を観察する。若い男だ。印象に残らないような見た目だが、手にしている物が圧倒的な存在感を放つ。右手には鎌状の刃を持つ奇妙なナイフ。左手には、麻袋。その袋は激しく揺れており、フーッとかシャーッという鳴き声がする。猫の、鳴き声がする。
(え……? なに……?)
目の前の光景を、脳が理解するのを拒んでいる。まるで画面の中の出来事のように見えた。音が遠ざかり、世界が白んでいく。男は一松には気付かず、路地の奥へと進む。袋の中の猫は暴れ続けている。
(まさか……)
袋を無造作に地面に投げ、自身もしゃがみ込む男。
(刺すのか……? 猫を……)
止めなければ。そう思うのに、体がこわばって動かない。
(早く……助けないと……)
手が震えている。息苦しい。冷や汗で貼り付いた衣服が気持ち悪い。脚に力を入れ、なんとか男に近付こうとしたその時、一松の真横を通り過ぎる影があった。影は足早にナイフの男の真後ろまで進む。
「おい」
「……あ?」
振り向いた男は、その顔をひきつらせた。どう見てもヤクザであろう男に睨まれたのだから無理もない。
「色々訊きてぇことあんだ。立てよ」
「はい……」
男は立ち上がり、ナマエに向き直る。
「その袋、何が入ってんだ?」
ナマエは麻袋を顎で指す。
「あの……猫、です……」
男は震える声で答えた。
「オメェの?」
「は……い……」
「袋詰めした理由は?」
「家に、連れて帰ろうと……」
「そのナイフは?」
「く、空気を入れてやろうと思って……」
「あ? テキトーこいてんじゃねぇぞ」
「ヒッ……あ、あの……すいません……」
「オメェは野良猫をとっ捕まえて殺そうとしたんじゃねぇのか?」
「そう、です……」
「それからよ、そのナイフ。カランビットナイフはなぁ、そんな風に持つもんじゃねぇんだよなぁ」
カランビットナイフは、逆手持ちして柄の先にある穴に人指し指を入れるのが基本的な握り方である。しかし、男は普通のナイフのように順手持ちしている。そもそも地面の猫に振り下ろすつもりなら、普通のナイフだとしても逆手持ちするべきなのだが、慣れていないのだろう。
「使い方知らない武器なんて持つ意味ねぇだろ? な?」
「は、はい……」
「寄越せよ、ソレ」
「……はい」
退路のない男は、怒気を含んだ声で命令されれば従うしかない。あくまで静かに、ナマエは続ける。
「これに懲りたら、もうこんなことすんじゃねぇぞ?」
「し、しません……!」
「口じゃ、なんとでも言えんだよ。誠意見せろ」
男は慌ててズボンのポケットから財布を出す。
「あの、金なら全部――」
「身分証」
「はぇ……?」
「身分証出せや」
「…………」
男は震える手で財布から運転免許証を取り、ナマエに差し出した。
「じゃあ、預かっとくからよ。もう悪さすんなよ?」
「は、はいぃ……! 本当にすいませんでした……!」
ナマエが道を開けてやると、すっかり怯えた男は路地裏から一目散に駆けて行った。
「……一松」
「えっ……」
急に名前を呼ばれて驚いた。
「猫、出してやって。猫と仲良いんだろ?」
十四松から得た情報だろう。
「うん……」
すぐに駆け寄って麻袋の口を縛っていた紐をほどき、猫を外に出してやる。猫は威嚇してきたが、一松に抱かれると徐々に落ち着きを取り戻した。
「怪我ない?」
「……たぶん大丈夫」
外傷は見当たらない。
「心配なら動物病院に連れてこうか?」
「いいの……?」
「金ならコイツに請求するから大丈夫」
笑顔で免許証を指で挟んで見せた。一松は何故か目をぱちくりさせている。
「どうかした?」
「喋り方が……全然違う……」
纏う空気や動作のひとつを取っても、別人のようだ。
「ああいう場面じゃナメられたら終わりだからね。でも、不必要に一般人を脅す趣味はないからさ。普通に捕まるし」
「…………」
「もしかして、怖がらせた?」
「別に……」
「そう」
「……ミョウジ」
「ん?」
「一応、お礼言っとく」
「礼なんていいよ。俺がいなくても君が何とかしただろうし」
しかし、ここまで事をすらすらと運べたかは分からないので礼を言うのは当然のように思えた。
「こういう時は警察呼ぶのが一番だよ。凶器持った奴がいるって。さっきは今にも刺しそうだったから止めたけど」
あっけらかんと言う。
「ところで、君に会うのはセーフだよね?」
ナマエが軽口を叩く。
「そういえば、なんでいるの?」
「たまたま。用済ませた帰りに君がここに入るのが見えて、興味本意で覗いたらナイフ野郎がいた」
説明しながら麻袋を拾い、中にナイフを入れたそれを近くの燃えるゴミの袋に捩じ込んだ。
「今回は、セーフ……」
そういうことにした。その後、ナマエが呼んだタクシーで動物病院に向かった。幸いにも猫に異状はなく、ほっと胸を撫で下ろした。そして現在、動物病院を出たふたりは夕日に照らされた公園にいる。微妙な距離感でベンチに座っている。一松は猫を抱いたままだ。ナマエは煙草を取り出しかけたが、思い直してケースから手を放した。
「……あんた、もしかして悪人じゃないの?」
突然そんな言葉を投げかけられたナマエは面食らった。
「……いいや。ただの悪人だよ」
「……そ。おれ、あんたが十四松にテキトーなこと言って犯罪の片棒担がせる気なのかと思ってたんだよね。でも、十四松に訊いても野球したこと以外出て来なかった。だから、悪人じゃないのかも……って思ったんだけど……」
「善人だったら、こんな商売してないでしょ」
「……善人とは言ってないし」
「ははっ。自惚れてた」
「あんたは凄く普通に見える」
「……今時は皆そんなもんよ。見るからにその筋の人ってのは減ってきてる。今日、俺がこういうカッコしてんのも偶然だし。このカッコじゃないと決まらない仕事してただけ」
「……そう。じゃあ、きっともう会わないだろうね」
「ああ、そうだな」
そんな会話の後、ふたりは別れた。それぞれの世界に帰るように、互いに背を向けて。
◆◆◆
カラスの鳴き声が響く夕暮れ時、ゴミ袋にもたれ掛かるように、男が路地裏に倒れていた。何発も殴られたのであろう、顔の右側は腫れ上がっている。鼻や口からは血が出ている。服は破れ、血と泥で汚れてボロボロだ。男はピクリとも動かない。
「ミョウジ……?」
ミョウジナマエは死んだように動かない。少し前に会った彼の変わり果てた姿に動揺した。
「おい……起きろよ……」
肩を掴んで揺すると、かすかに呻いた。
「あ……? 一松……?」
「そーですけど……」
ナマエは口に溜まっていた血をペッと吐いた。コンクリート上の血の中には白い欠片がいくつかある。それが砕けた歯であると気付いた一松はゾッとした。
「……病院行きなよ」
「病院は行けねぇ。俺が行ける病院は張られてるだろうしな」
「…………」
「……もう夕方か。長いこと気絶してたみたいだな」
「いつからここにいんの?」
「さぁ。俺がボロ雑巾みたいに捨てられたのは深夜だったと思うけどな。つーか、ここどこ?」
「前に俺と会った路地裏」
「どうやってここまで来たか覚えてないな。ボコられた後に朦朧としながら結構歩いたんだな、俺」
「……あんた喧嘩弱いの?」
「3対1で勝てなきゃ弱いってんなら弱いよ」
「これからどうすんの……?」
「もしかして心配してくれてる?」
「……ここで死なれたら迷惑」
「はは。だよね」
「本当に、いつか死ぬんだろうね……」
「誰だってそうだろ?」
「……そうだけど」
死に方の問題だ。人に殺されるのはよくあることではない。
「いつか俺が死んで、まともな人間に生まれ変わったら、仲良くしてやってくれ」
「はぁ? やだよ」
「冷てぇの」
ナマエは殴られて歪んだ顔で笑う。
「なにヘラヘラしてんの……? なんで……」
「なんだよ……」
「なんで……そんなとこにいんの……?」
「ははは。正論で人を刺していいのは、逆恨みで刺される覚悟がある奴だけだぜ」
今度は乾いた笑いを浮かべる。
「……他に居場所が無ェからに決まってんだろ」
低く唸るような声で言われては何も言い返せない。
彼はフラフラとした足取りで去って行った。それを見ながら、立ち尽くすことしか出来なかった。彼と自分はなんの関係もないのだから。
◆◆◆
「ナマエに全然会わなくなっちゃった……」
今朝、落ち込んだ様子の十四松が、そう言っていた。そのせいで一松は気分が悪い。ミョウジナマエが消えて、そろそろ一ヶ月になる。彼を遠ざけたことが正しかったのか分からないし、彼が生きているのかどうかも分からない。十四松は友人を失ったのかもしれない。そう考えると、一松は自分に責任の一端があるような気がした。
「はぁ……」
気分転換にテレビをつけてみる。
『――組が、組織運営をめぐる対立から内部分裂状態に入ったことが警察当局への取材で分かりました。対立抗争事件に――』
どこかの組の内部抗争で死傷者多数のニュースが流れている。普段ならば何とも思わないニュースが不快でチャンネルを変えた。
『さて、続いては巷で話題のアクアリウムの特集です。なんと、この水族館では――』
「はぁ……」
今日、何度目かの溜め息を吐いた。1時間ほどテレビを眺めてはみたものの、あまり気晴らしにはならない。仕方なく外出することにした。道すがら、あの男のことを考える。彼は今の環境から抜け出せるわけがないと諦めていた。なんとなく、一松にも覚えがある思考だ。何かしようとする自分のことを、後ろ斜め上から見ている自分がいる。お前に出来る訳ないと、そいつは言う。そいつを黙らせられない限り、状況を変えることは出来ないのだろう。一松は物思いに深く沈みかけたが、そんなことを考えても詮無いことだと無理矢理に思考を断ち切った。
◆◆◆
やはり気が滅入る時は猫に会うに限る。幾分か気分が良くなり、日暮れには帰路につく一松であった。そして、自宅前に差し掛かったところ。見知らぬ男が玄関先に立っていた。黒いジャージ上下。顔には眼鏡。右手に紙袋。猫と戯れた帰りに、そんな場面に出くわした。
「よう、久し振り」
「な…………え?!」
その声は、男は間違いなくミョウジナマエだった。
「こんにちは。近くに越して来たミョウジナマエ、無職です」
「は……? 無職……?」
「一松のせい。酷い目に遭う度に、逃げれば? って言った君の顔がチラつくんだよ。だから金魚鉢から出た」
「はぁ? おれのせいにしないでくれる? テキトー言っただけだし」
「分かってるって」
「で、金魚鉢から出た先がこんなとこ?……笑える」
「君がいるところまで上って来た」
「落ちて来たの間違いでしょ?」
「見解の相違だな。ま、これからよろしく友達のお兄さん」
「……よろしく、弟の友達……上がる?」
「お邪魔します」
「……いらっしゃい」
ナマエを居間に通し、向かい合って座る。
「これ、お土産。せんべい。色んな種類入ってるやつ」
紙袋を一松に渡す。
「わさわざ、どうも。ところで、その眼鏡なに?」
「伊達。なんか掛けてないと落ち着かなくて」
「ふーん。ていうか、生きてたんだ?」
「まあ、一応」
「家、どこ?」
「ここ出て、ちょっと行ったとこ」
「どこだよ」
「まだ住所覚えてない。ワンルームの安アパートだよ」
「……そういえば、金魚鉢って金魚飼うものじゃないんだって」
「そうなの? 金魚鉢なのに?」
「アレはあくまで、池とかから出した金魚を観賞するために、一時的に入れとくもの。狭くてエアポンプも入らない器で飼ってたら金魚すぐ死ぬ、らしい……」
「マジか。出て正解だな」
天井の金魚を見上げて、彼は晴れやかに笑った。
2016/03/14
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