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生活保護特区送りが決まった。
俺が、人より勉強や運動が出来ねーからって。能力不振だと。
両親は、真面目にしてれば、すぐに帰って来れると励ましてきた。
真面目に、ねぇ。それが出来るなら、特区送りにゃならねーんじゃねーか?
特区は、ごちゃごちゃしてて、授業で見たスラム街みたいだった。
俺が住むことになる場所まで、少し歩く。橋の下に掘っ立て小屋があったり、道端で寝てるのか死んでんのか分からねー奴がいたりした。
「ここか……」
「新入り?」
「……はい」
「当真、勇くん?」
「そうです」
話しかけてきたのは、長い黒髪に黒縁眼鏡の白衣を着た女。
「私は、砂子。この長屋の責任者」
古びた建物を指す。
「君の部屋まで案内するよ」
「はい」
砂子さんは、パッと見、社会的弱者には見えなかった。キリキリ働く普通の人みたいだ。
「ここ。台所と風呂とトイレは共同だから。とりあえず、荷物下ろしてから、共用スペースで少し話そうか」
「はい」
砂子さんに言われた通りに、俺は荷物を狭い自室に入れた。
それから、砂子さんが待つ共用の和室へ向かう。彼女は、ちゃぶ台の上にマグカップをふたつ用意して、俺を待ち構えていた。
「座りなよ。座布団いる?」
「いります」
ボロい座布団を渡される。
マグカップを持ち、一口飲むと、それがただのお湯だと分かった。
「茶葉は貴重だから。悪いけど、我慢して」
「別に不満はないです」
「当真くんは、これからどうする?」
「親が帰って来てほしそうだから、働こうかと」
「そう。じゃあ、明日から労働だね。まあ、がんばって」
砂子さんは、なんだか含みのありそうな台詞を言う。
「砂子さんの仕事は?」
「カウンセラーをしてる」
「へぇ」
なんだか意外だった。監察医かなんかかと。
「当真くん」
「はい」
「マントラアーヤへ、ようこそ」
「マントラアーヤ?」
「この特区の俗称だよ」
生活保護特区という、世界の廃れた片隅で、俺を歓迎する砂子さんは、人の悪そうな笑みを浮かべた。
その晩、俺は、薄っぺらくて長さが足りない敷き布団と毛布一枚で眠る。
翌朝、体がギシギシと痛くなって起きた。
風呂場の洗面所へ行き、顔を洗おうとしたら、水が出ない。
台所へ向かうと、砂子さんがちゃぶ台の上に朝食らしきものを並べていた。
「おはようございます。水が出ないんですけど」
「よくあることだよ。近くに川があるから、そこまで行って」
マジかよ。
仕方なく、俺はそうする。
戻ると、砂子さんが、白湯の入ったマグカップを用意してくれていた。
「朝ごはん、私、料理出来ないから。これで我慢して」
「はい。いただきます」
「いただきます」
彼女が用意したのは、缶詰めに入った魚の水煮と白米が少しと謎の茶色いペーストだった。
「これ、なんですか?」
「完全栄養食、の試作品。タダでもらえるから。味はないよ」
「…………」
朝食は、あっという間に食べ終わり、俺は政府が用意した仕事へ向かうことにする。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
砂子さんが手を振って、俺を見送った。
俺の仕事は、朝早くて、めんどくさくて、低賃金で、最悪としか言えない。これをこなせなきゃ、帰れねーのに、全く出来る気がしなかった。
帰り道、もう親には会えないかもなぁと考えながら歩く。
「おかえり、当真くん」
「ただいま」
「どうだった? 仕事」
「もう行きたくねーな」
はは、と口元を押さえて笑う砂子さん。
なんだか、この人とは長い付き合いになりそうだと思った。
◆◆◆
マントラアーヤに来て2日目。
俺は、中央区で働くのを諦めていた。
「当真くん、仕事は?」
「あー……無理そうです…………」
「そう」
砂子さんは、別に責めたり慰めたりしない。助かる。
「ところで、他の住人は?」
「いるよ。引きこもりと対人恐怖症と人間嫌いが。みんな、上手いこと君を避けてる」
「そうですか」
砂子さんが、全員の面倒見てんのかな。
不意に、ガタンッと何かが倒れる音がした。
「ッ!?」
「当真くん、ついて来て!」
「あ、ああ」
小走りして、廊下を進む砂子さん。
誰かの部屋の前で立ち止まり、ノックもせずにドアを開ける。
「なッ!?」
その中では、縄で首を吊ってる男がいた。
「当真くん、降ろして!」
「はい!」
倒れてる椅子を起こし、男を抱えて降ろす。
砂子さんは、ガラケーでどこかに電話をしていた。
「はい。はい。よろしくお願いします」
「砂子さん……」
「大丈夫。息はある」
そういう問題か?
砂子さんは、やけに慣れているみたいだった。
やがて、医者だという人が来て、自殺未遂者は運ばれていく。
「あの子。更級くん、よく未遂するの。その度、病院に運ばれて、後遺症抱えて帰って来る」
「サラシナ……」
「更級くん、人間嫌いで、自分が一番嫌いなの」
「…………」
その後。砂子さんは、仕事をするから、と言って自室に籠った。
俺は、自分の部屋で、寝っ転がって、ぼーっとしてる。やることがない。
薄々感じてたが、ここは、“死”が身近に転がってる場所らしい。
夜、砂子さんとふたりで飯を食べる時に訊いた。
「サラシナは?」
「明日には戻ると思うよ。いい薬がもらえるといいんだけど」
砂子さんは、表情を変えずに言う。
使った紙皿と割り箸を洗い、吊るして干した後。砂子さんに、「ちょっと一緒に外出ようか」と誘われた。
特に断る理由もないから、ついて行く。
「はぁ。背の高い君がいてくれて助かったよ。私は、小さいからさ」
「はぁ、どうも」
砂子さんは、白衣のポケットから煙草とライターを取り出し、火を着けた。
「ふぅ」
「煙草吸うのか」
「これ、私が育てたラベンダーを紙で巻いたやつ。煙草は吸えないんだ。気管支が弱くてね」
「そうか」
言われてみれば、ラベンダーの香りがする。
「当真くんも吸う?」
「いいのか?」
「いいよ」
一本受け取り、火を着けてもらう。
「ふー」
「様になってる」
「どうも」
夜は、静かに更けていく。
砂子さんが何者なのか知らないまま、俺たちは、ふたりで並んでいる。
◆◆◆
相変わらず、ここでの暮らしは最悪だった。することがないから、そのことばかり考えちまう。
満足に使えない水や電気。娯楽は、砂子さんが持ってる小難しい本とラジオくらい。スマホは、圏外。
他の住人が何をしてるかと思えば、酒や女に溺れてるらしい。
酒は、手に入れられるそうだが、砂子さんは、俺が飲むことに反対している。ヘルスもしかり、だ。
「当真くん」
ドアの前から、落ち着いた低めの声がした。
「入っていいぜ」
「うん。正岡さんのところに本を返しに行くんだけど、手伝ってくれる?」
「分かった」
暇だから、願ってもない。
砂子さんが、正岡という人物から借りた大量の学術書を持って歩いた。
「ありがとう。助かるよ」
「別にいいって、こんくらい」
着いたところは、中央区研究所。
「こんにちは」
「こんにちは、砂子さん」
正岡らしき男が、俺を見る。
「当真くん?」
「はい」
「正岡詩歌だよ。よろしく」
「よろしくお願いします」
本を詰めた箱を、中まで持って行く。
正岡さんは、俺たちにお茶を出してくれた。味のある飲み物は、久し振りだ。
「そろそろ失礼します。さようなら」
「はい。またいつでも来てください」
砂子さんと連れ立って、研究所を去る。
「砂子さん、俺…………」
「ん?」
「何かした方がいいか?」
「生きてりゃいいんじゃない?」
軽く答えられた。
「生きてりゃ、ね。でも、退屈なんだよ」
「じゃあ、料理覚えてよ。そしたら、助かる」
「料理?」
「私は、センスないからさ。その辺の食べられる野草とか調理してくれると、食費が抑えられる」
長屋に帰ってから、砂子さんが、マントラアーヤに生息する動植物の本と、料理の教本を渡してくる。
受け取ったそれを、自室でペラペラめくった。まあ、何もしないよりいいか。
暇な時間は、料理の勉強に費やすことにした。
「廃棄弁当もらって来たよ」
今夜の飯は、しゃけ弁当。
「いただきます」と言ってから、食べる。2日、3日賞味期限が切れていても問題ない。
砂子さんは、日中は自室をカウンセリングルームとして使っているようだった。家の3人の精神疾患持ちと、外から来る奴らをカウンセリングしているらしい。
なんで、こんなとこにいるんだ? あんたは。
訊くことが出来ない疑問。マントラアーヤの誰にも、こんなこと訊けやしない。
ある日、砂子さんは、いたって真面目な顔で言った。
「当真くん、カウンセリング受ける?」
「俺が? なんで?」
「些細なことでも、他人に話すと楽になることもあるし」
「…………」
結論。俺は、砂子さんのクライアントになることにした。
砂子さんの自室は、物が多くて、デカい本棚がある。
「座って」
ギィギィ鳴る木の椅子に座った。砂子さんは、真正面を避け、斜め前の位置に座る。
「当真くん、何か話したいことある?」
「……俺、別に何もしなくても、なんとなく三門で普通に生きていけると思ってたんだよな。それに気付いた時は、ちょっとショックだった」
「なるほど。それは、まあ、君は元々はマジョリティだったからね。この世は、健康なシスへテロ男性が一番生きやすいんだよ。君がそれと決め付けるワケじゃないけど」
でも、実際に俺は、それだった。少し前までは。
「砂子さんは?」
「私?」
「あんたは、生きやすくないのか?」
「生きづらい。凄く。私は、FtXの不定性で、ロマンティック・アセクシャルで、パンロマンティックだからね」
分からない単語が4つも出てきた。ひとつずつ、砂子さんに説明してもらう。これ、カミングアウトしてくれたってことか。
「悪い。詮索したかったワケじゃねーんだ」
「別にいいよ。隠してないし」
砂子さんは、薄く笑う。
底知れない何かを感じた。
◆◆◆
「嵐が来るみたい」と、砂子さんは、静かに告げた。
市役所に保護費をもらいに行った時に聞いたらしい。
「長屋の補修、手伝ってくれる?」
「はい」
ベニヤ板を窓に取り付けたり、屋根の穴を塞いだりした。意外にも、人間嫌いのサラシナも手伝っている。
一通り終わった後、砂子さんは、紅茶を出して飲ませてくれた。どこに隠してたんだろう?
サラシナが、一気にマグカップ一杯の紅茶を飲み干し、無言で自室の方へ去って行く。砂子さんは、特に気にしてない。
「どう? 美味しい?」
「美味しい」
「よかった。私、この後、家がない知り合いに声かけてくるね」
「ああ」
そうか。そういえば、ここにはホームレスがたくさんいるんだった。嵐がきたら、下手すりゃ死ぬ。
夕方。砂子さんは、知り合いを4人連れて帰ってきた。
「今日は、宴会だよ」
共用部屋で、6人がすし詰めになって飲み食いする。
4人の客は、みんな酒を飲んだ。砂子さんは、飲まない。俺が飲むことは止められなかったけど、なんとなくやめておいた。
「トーマくん、飲まないの?」
「いらない」
「酔えば、嫌なこと全部忘れられるよ~?」
「いや、別にいいんで」
「ふーん」
客のひとり、セナは完全に酔っぱらっている。絡み酒じゃなくてよかった。
砂子さんは、どこからか入手したスナック菓子を食べてる。
「瀬名さん、水飲んで」
「はーい、砂子先生」
「先生はやめて」
「ははっ。ウル様、砂子様ってね」
「やめて」
ちゃんと全員を視界に入れてるらしく、酔っぱらいに水を渡す砂子さん。
「砂子さんのおかげで、今回は生き延びたわ~」
セナは、けらけら笑った。笑いながら言うことか?
暴風雨の中、外にいたら死んでたかもしれないことを、そんなに軽く言うんだな。つくづく、ここは死が近い場所だ。
夜中。眠りこける4人を残して、俺と砂子さんは自室へ戻る。
「おやすみ、当真くん」
「おやすみ」
砂子さんと別れ、ひとりでガタガタ鳴る天井を眺めながら寝た。
この嵐で、マントラアーヤの何人が死んだんだろう?
衣食住の足りてない者は、どう生きていけばいいんだろう?
そういえば。セナが、言っていた“ウル”ってなんだろう?
明日、砂子さんに訊いてみよう。
翌朝。いつものように共用部屋に行く。
「おはよう」
「おはようございます」
4人は、もう出て行ったらしい。
物足りない朝食を済ませた後、砂子さんに質問する。
「ウルってなんですか?」
「マントラアーヤの神様だよ」
「神様…………」
土地が変われば、信仰も変わる。と、砂子さんは言った。
「もうすぐ、日の出まつりっていうのがある。ウルについて知るには、いい機会かもね」
ウルは、マントラアーヤの住人と共に生きる神だという。
俺には、信仰心がない。砂子さんは、どうなんだろう?
◆◆◆
9月23日。日の出まつりの日。
砂子さんは、人混みが苦手だから参加しないそうだ。
「当真くん、どうする? 色々美味しいもの食べられると思うけど」
「あー。不参加で」
「そう」
それきり、祭りの話はしなくなった。
「ちょっと散歩行きます」
「いってらっしゃい」
砂子さんが手を振る。
俺は、長屋周辺をふらふら歩いた。
そんで、ツユクサを見付ける。収穫だな。
しまった。袋がない。仕方ないから、上着のポケットに突っ込む。
「はぁ…………」
「トーマくん……」
「わっ!」
いつの間にか、背後にスザキがいた。長屋に住む対人恐怖症の女。
「なにか?」
「す、砂子さんのこと、どう思う?」
スザキは、俯きながら訊く。
「どうって……なんかミステリアスな人だなって…………」
「そ、そう。まあ、あの人、あんまり自分のこと話さないもんね……」
そう言うと、スザキは早足で帰って行った。
なんだったんだ?
スザキのことは、一旦忘れて、川の方へ行く。
しばらく、魚が泳いでるのを眺めた。
帰るか。
俺は、長屋の共用部屋へ向かう。
「ただいま」
「おかえり」
「ツユクサ取ってきたぜ」
「食べられるやつ?」
「ああ。和え物にする」
「ありがとう。おかずが一品増えるよ」
昼食を砂子さんと食べながら、世間話をした。
そして、「高卒認定は受けた方がいいんじゃない?」と言われる。
「暇だから受ける」
「うん」
「砂子さんの最終学歴は?」
「私、高卒。大学は中退した」
「へぇ」
大学を中退して、引きこもりになっていた期間があるらしい。その頃に、特区送りになったそうだ。
「そうだ。外部試験、受ける?」
「外部試験?」
説明を聞いた。生活保護特区外居住許可を得るための試験だと。
「受かれば、ここから出られるよ」
「受かるかねぇ」
「ま、考えときなね。願書の〆切もあるし」
「はい」
特区を出たら、砂子さんとはもう会えないんだろうな。
そう考えて気付いた。俺は、この人と別れがたく思ってるってことに。
「砂子さんは、ウルを信じてんのか?」
「……いや、私は何も信じてないよ。このことは、内緒で。マントラアーヤの人たちは、みんな信じてるから」
「はい」
砂子さんは、まるで自分が特区の住人じゃないみたいに言う。
使い回しのティーバッグで淹れた薄い紅茶を飲み干し、俺は尋ねた。
「砂子さんって、本土に帰るつもりはねーの?」
「ない。親族と折り合いが悪くてね」
「そうか……」
この人も、色々抱えてんだなぁ。
マントラアーヤの住人は、切り捨てられた者ばかりだ。
ここにしか居場所がないから、ここにいる。砂子さんも、そうなんだろう。
◆◆◆
砂子さんとふたりで、海を見ている。
潮風が、少し肌寒い。
「当真くん、海見に行かない? ふたりで」
と、今朝言われて。俺は嬉しく思って、すぐにオーケーした。
海を見つめる砂子さんの目が、糖蜜みたいに光ってる。
「好きなのか? 海」
「私は、現海だから。昔から、好きなんだ。よく泳いでたよ」
「へぇ」
苗字に“海”が入ってるから、か。
「ま、この家名自体は呪いだけどね」
「呪い……?」
砂子さんには聴こえなかったのか、聴こえなかった振りか。質問に答えが返ってくることはなかった。
そういや、親族と折り合いが悪いって話だったな。あんまり詮索しない方がいいか。
「当真くんは、帰れるといいね」
「…………」
帰れる場所があるのは、いいことだよ。と、砂子さんは言う。
でも、そこには、あんたがいないんだ。
生活保護特区には、何もかもが足りてない。だけど、砂子さんがいる。
それだけのことが、俺には大切なんだよ。
「砂子さん。俺は、あんたの隣にいる」
思わず、口から出た言葉。それを受け止めるように、俺のことを焦げ茶色の瞳が見ていた。
「そう。それは、嬉しいな」と、砂子さんは微笑む。
海を背にしたあんたが、ひどく儚く見えたから。この世界に繋ぎ止めたくて、手を伸ばす。
俺の手を、そっと白い指先が掴んだ。冷たい手。
「ありがとう、当真くん。手を差し出してくれて。ごめん。私、身体接触が苦手で、これが精一杯…………」
ありがとう。ごめん。それを反芻しながら、俺は手を離した。
あー、しくじったな。アセクシャルって、そういうこともあんのか。
「悪り。困らせたな」
「ううん。気にしないで」
風になびく長い黒髪を押さえながら、砂子さんは言った。
その様を、偶像にしたくないと思う。
あんたは、神様じゃない。砂子さんは、救われなきゃならない人だ。
それなのに、マントラアーヤの奴らを助けて、消耗してる。
もう、やめてくれ。
この言葉は、声にならなかった。
「俺は、砂子さんの味方だ」とだけは、なんとか口にする。
「……頼りにしてるよ」
砂子さんは、目を細めて笑った。
俺は、いつの間に、この人を特別に想うようになったんだろう?
あれ? そういえば。
「砂子さんって、いくつ?」
「30歳」
「見えねぇな」
12歳も上だったのか。別に俺は、歳の差なんて気にしねーけど。
「当真くん、あげる」
「サンキュー」
ラベンダーの煙草をもらう。砂子さんが、ライターで火を着けてくれた。
いい香りがする。
砂子さんも、煙草をくわえた。そして、俺と服が触れ合うくらい近くに並ぶ。
俺たちは、日が落ちるまで、海を眺めていた。
◆◆◆
長い前髪で目を隠している男が、ちゃぶ台の差し向かいにいる。
コイツは、シガ。引きこもり。
砂子さんが、シガの部屋を掃除するからと追い出した。
「……トーマくん」
「はい」
シガが、おずおずと話しかけてくる。
「砂子さんのこと、どう思う?」
それは、前にスザキにも訊かれたことだった。
「人間だと思う」
「そういうことじゃなくて」
「なんだよ?」
「好きとか嫌いとか、そういうの」
「好きだよ」
色んな意味で。
シガは、忙しなく手遊びをしながら、言葉を紡ぐ。
「僕は、いや、更級も洲崎もだけど、砂子さんに迷惑かけてばかりでさ。トーマくんみたいな人は珍しいんだ。君、健常者だろ?」
「まあ」
「僕が言うことじゃないけど、あの人のこと、助けてあげて」
「ああ。言われなくても、そうするよ」
「ご、ごめん。それだけ」
シガは、それきり黙った。両手の親指を、くるくる回してる。
言われるまでもない。
砂子さんが壊れたら、物みたいに廃棄されてしまう気がして。俺は、そんなのは、ごめんだ。
「散歩してくる」と言って、俺は席を立つ。「いってらっしゃい」と、小さなシガの声を背にした。
外は、日が傾いていて、少し寒い。
特に考えもなく、川まで歩く。
釣り竿があればなぁ。砂子さんに訊いてみよう。
「お、トーマくんじゃん!」
「セナ」
「どうした? 砂子さんに追い出された?」
「んなワケねーだろ」
「ジョーダン、ジョーダン。怖い顔しないでよ」
セナは、笑いながら、ばしばしと俺の背中を叩いた。
「アタシ、出勤途中なんだぁ。トーマくん、来ない?」
「行かねーよ」
「砂子さんに止められてんの?」
「それは…………」
セナが勤めてるのは、ヘルスだ。砂子さんは、職業で人を見るような性格じゃないが、性風俗に子供が関わることには反対してる。
でも、別に俺の意思には関係ない。
ただ、俺は。
「あの人が好きだから」
「やだぁ! 早く言ってよ! もう告白した?」
セナは、恋バナだ! とはしゃぐ。
「いや、まだ」
「砂子さんってさ、自分のこと醜いと思ってるの。あ、これ内緒ね?」
「は?」
「本人が言ってたんだよ。自分は醜い化物だって。鏡を見るのが嫌いだって」
絶句した。化物? どこが?
「母親に言われたんだってさ。もっと綺麗にしろ。そんなんじゃお嫁に行けないって。古臭い考えだよねぇ」
「そりゃ、親と縁切りたくもなるわな」
「孫の顔が見たいとかも言われてたらしいよ。砂子さん、アセクなのに」
その台詞が、どれだけ砂子さんを傷付けたのだろう?
「だからね、トーマくん。砂子さんを幸せにしてあげてね」
「努力する」
「うん。よろしく。じゃーね!」
セナは、大きく手を振り、去って行った。
砂子さんが、マントラアーヤの住人じゃないかのように言う理由が分かった気がする。
あの人、どこにも居場所がないと思ってんだ。
俺が、人より勉強や運動が出来ねーからって。能力不振だと。
両親は、真面目にしてれば、すぐに帰って来れると励ましてきた。
真面目に、ねぇ。それが出来るなら、特区送りにゃならねーんじゃねーか?
特区は、ごちゃごちゃしてて、授業で見たスラム街みたいだった。
俺が住むことになる場所まで、少し歩く。橋の下に掘っ立て小屋があったり、道端で寝てるのか死んでんのか分からねー奴がいたりした。
「ここか……」
「新入り?」
「……はい」
「当真、勇くん?」
「そうです」
話しかけてきたのは、長い黒髪に黒縁眼鏡の白衣を着た女。
「私は、砂子。この長屋の責任者」
古びた建物を指す。
「君の部屋まで案内するよ」
「はい」
砂子さんは、パッと見、社会的弱者には見えなかった。キリキリ働く普通の人みたいだ。
「ここ。台所と風呂とトイレは共同だから。とりあえず、荷物下ろしてから、共用スペースで少し話そうか」
「はい」
砂子さんに言われた通りに、俺は荷物を狭い自室に入れた。
それから、砂子さんが待つ共用の和室へ向かう。彼女は、ちゃぶ台の上にマグカップをふたつ用意して、俺を待ち構えていた。
「座りなよ。座布団いる?」
「いります」
ボロい座布団を渡される。
マグカップを持ち、一口飲むと、それがただのお湯だと分かった。
「茶葉は貴重だから。悪いけど、我慢して」
「別に不満はないです」
「当真くんは、これからどうする?」
「親が帰って来てほしそうだから、働こうかと」
「そう。じゃあ、明日から労働だね。まあ、がんばって」
砂子さんは、なんだか含みのありそうな台詞を言う。
「砂子さんの仕事は?」
「カウンセラーをしてる」
「へぇ」
なんだか意外だった。監察医かなんかかと。
「当真くん」
「はい」
「マントラアーヤへ、ようこそ」
「マントラアーヤ?」
「この特区の俗称だよ」
生活保護特区という、世界の廃れた片隅で、俺を歓迎する砂子さんは、人の悪そうな笑みを浮かべた。
その晩、俺は、薄っぺらくて長さが足りない敷き布団と毛布一枚で眠る。
翌朝、体がギシギシと痛くなって起きた。
風呂場の洗面所へ行き、顔を洗おうとしたら、水が出ない。
台所へ向かうと、砂子さんがちゃぶ台の上に朝食らしきものを並べていた。
「おはようございます。水が出ないんですけど」
「よくあることだよ。近くに川があるから、そこまで行って」
マジかよ。
仕方なく、俺はそうする。
戻ると、砂子さんが、白湯の入ったマグカップを用意してくれていた。
「朝ごはん、私、料理出来ないから。これで我慢して」
「はい。いただきます」
「いただきます」
彼女が用意したのは、缶詰めに入った魚の水煮と白米が少しと謎の茶色いペーストだった。
「これ、なんですか?」
「完全栄養食、の試作品。タダでもらえるから。味はないよ」
「…………」
朝食は、あっという間に食べ終わり、俺は政府が用意した仕事へ向かうことにする。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
砂子さんが手を振って、俺を見送った。
俺の仕事は、朝早くて、めんどくさくて、低賃金で、最悪としか言えない。これをこなせなきゃ、帰れねーのに、全く出来る気がしなかった。
帰り道、もう親には会えないかもなぁと考えながら歩く。
「おかえり、当真くん」
「ただいま」
「どうだった? 仕事」
「もう行きたくねーな」
はは、と口元を押さえて笑う砂子さん。
なんだか、この人とは長い付き合いになりそうだと思った。
◆◆◆
マントラアーヤに来て2日目。
俺は、中央区で働くのを諦めていた。
「当真くん、仕事は?」
「あー……無理そうです…………」
「そう」
砂子さんは、別に責めたり慰めたりしない。助かる。
「ところで、他の住人は?」
「いるよ。引きこもりと対人恐怖症と人間嫌いが。みんな、上手いこと君を避けてる」
「そうですか」
砂子さんが、全員の面倒見てんのかな。
不意に、ガタンッと何かが倒れる音がした。
「ッ!?」
「当真くん、ついて来て!」
「あ、ああ」
小走りして、廊下を進む砂子さん。
誰かの部屋の前で立ち止まり、ノックもせずにドアを開ける。
「なッ!?」
その中では、縄で首を吊ってる男がいた。
「当真くん、降ろして!」
「はい!」
倒れてる椅子を起こし、男を抱えて降ろす。
砂子さんは、ガラケーでどこかに電話をしていた。
「はい。はい。よろしくお願いします」
「砂子さん……」
「大丈夫。息はある」
そういう問題か?
砂子さんは、やけに慣れているみたいだった。
やがて、医者だという人が来て、自殺未遂者は運ばれていく。
「あの子。更級くん、よく未遂するの。その度、病院に運ばれて、後遺症抱えて帰って来る」
「サラシナ……」
「更級くん、人間嫌いで、自分が一番嫌いなの」
「…………」
その後。砂子さんは、仕事をするから、と言って自室に籠った。
俺は、自分の部屋で、寝っ転がって、ぼーっとしてる。やることがない。
薄々感じてたが、ここは、“死”が身近に転がってる場所らしい。
夜、砂子さんとふたりで飯を食べる時に訊いた。
「サラシナは?」
「明日には戻ると思うよ。いい薬がもらえるといいんだけど」
砂子さんは、表情を変えずに言う。
使った紙皿と割り箸を洗い、吊るして干した後。砂子さんに、「ちょっと一緒に外出ようか」と誘われた。
特に断る理由もないから、ついて行く。
「はぁ。背の高い君がいてくれて助かったよ。私は、小さいからさ」
「はぁ、どうも」
砂子さんは、白衣のポケットから煙草とライターを取り出し、火を着けた。
「ふぅ」
「煙草吸うのか」
「これ、私が育てたラベンダーを紙で巻いたやつ。煙草は吸えないんだ。気管支が弱くてね」
「そうか」
言われてみれば、ラベンダーの香りがする。
「当真くんも吸う?」
「いいのか?」
「いいよ」
一本受け取り、火を着けてもらう。
「ふー」
「様になってる」
「どうも」
夜は、静かに更けていく。
砂子さんが何者なのか知らないまま、俺たちは、ふたりで並んでいる。
◆◆◆
相変わらず、ここでの暮らしは最悪だった。することがないから、そのことばかり考えちまう。
満足に使えない水や電気。娯楽は、砂子さんが持ってる小難しい本とラジオくらい。スマホは、圏外。
他の住人が何をしてるかと思えば、酒や女に溺れてるらしい。
酒は、手に入れられるそうだが、砂子さんは、俺が飲むことに反対している。ヘルスもしかり、だ。
「当真くん」
ドアの前から、落ち着いた低めの声がした。
「入っていいぜ」
「うん。正岡さんのところに本を返しに行くんだけど、手伝ってくれる?」
「分かった」
暇だから、願ってもない。
砂子さんが、正岡という人物から借りた大量の学術書を持って歩いた。
「ありがとう。助かるよ」
「別にいいって、こんくらい」
着いたところは、中央区研究所。
「こんにちは」
「こんにちは、砂子さん」
正岡らしき男が、俺を見る。
「当真くん?」
「はい」
「正岡詩歌だよ。よろしく」
「よろしくお願いします」
本を詰めた箱を、中まで持って行く。
正岡さんは、俺たちにお茶を出してくれた。味のある飲み物は、久し振りだ。
「そろそろ失礼します。さようなら」
「はい。またいつでも来てください」
砂子さんと連れ立って、研究所を去る。
「砂子さん、俺…………」
「ん?」
「何かした方がいいか?」
「生きてりゃいいんじゃない?」
軽く答えられた。
「生きてりゃ、ね。でも、退屈なんだよ」
「じゃあ、料理覚えてよ。そしたら、助かる」
「料理?」
「私は、センスないからさ。その辺の食べられる野草とか調理してくれると、食費が抑えられる」
長屋に帰ってから、砂子さんが、マントラアーヤに生息する動植物の本と、料理の教本を渡してくる。
受け取ったそれを、自室でペラペラめくった。まあ、何もしないよりいいか。
暇な時間は、料理の勉強に費やすことにした。
「廃棄弁当もらって来たよ」
今夜の飯は、しゃけ弁当。
「いただきます」と言ってから、食べる。2日、3日賞味期限が切れていても問題ない。
砂子さんは、日中は自室をカウンセリングルームとして使っているようだった。家の3人の精神疾患持ちと、外から来る奴らをカウンセリングしているらしい。
なんで、こんなとこにいるんだ? あんたは。
訊くことが出来ない疑問。マントラアーヤの誰にも、こんなこと訊けやしない。
ある日、砂子さんは、いたって真面目な顔で言った。
「当真くん、カウンセリング受ける?」
「俺が? なんで?」
「些細なことでも、他人に話すと楽になることもあるし」
「…………」
結論。俺は、砂子さんのクライアントになることにした。
砂子さんの自室は、物が多くて、デカい本棚がある。
「座って」
ギィギィ鳴る木の椅子に座った。砂子さんは、真正面を避け、斜め前の位置に座る。
「当真くん、何か話したいことある?」
「……俺、別に何もしなくても、なんとなく三門で普通に生きていけると思ってたんだよな。それに気付いた時は、ちょっとショックだった」
「なるほど。それは、まあ、君は元々はマジョリティだったからね。この世は、健康なシスへテロ男性が一番生きやすいんだよ。君がそれと決め付けるワケじゃないけど」
でも、実際に俺は、それだった。少し前までは。
「砂子さんは?」
「私?」
「あんたは、生きやすくないのか?」
「生きづらい。凄く。私は、FtXの不定性で、ロマンティック・アセクシャルで、パンロマンティックだからね」
分からない単語が4つも出てきた。ひとつずつ、砂子さんに説明してもらう。これ、カミングアウトしてくれたってことか。
「悪い。詮索したかったワケじゃねーんだ」
「別にいいよ。隠してないし」
砂子さんは、薄く笑う。
底知れない何かを感じた。
◆◆◆
「嵐が来るみたい」と、砂子さんは、静かに告げた。
市役所に保護費をもらいに行った時に聞いたらしい。
「長屋の補修、手伝ってくれる?」
「はい」
ベニヤ板を窓に取り付けたり、屋根の穴を塞いだりした。意外にも、人間嫌いのサラシナも手伝っている。
一通り終わった後、砂子さんは、紅茶を出して飲ませてくれた。どこに隠してたんだろう?
サラシナが、一気にマグカップ一杯の紅茶を飲み干し、無言で自室の方へ去って行く。砂子さんは、特に気にしてない。
「どう? 美味しい?」
「美味しい」
「よかった。私、この後、家がない知り合いに声かけてくるね」
「ああ」
そうか。そういえば、ここにはホームレスがたくさんいるんだった。嵐がきたら、下手すりゃ死ぬ。
夕方。砂子さんは、知り合いを4人連れて帰ってきた。
「今日は、宴会だよ」
共用部屋で、6人がすし詰めになって飲み食いする。
4人の客は、みんな酒を飲んだ。砂子さんは、飲まない。俺が飲むことは止められなかったけど、なんとなくやめておいた。
「トーマくん、飲まないの?」
「いらない」
「酔えば、嫌なこと全部忘れられるよ~?」
「いや、別にいいんで」
「ふーん」
客のひとり、セナは完全に酔っぱらっている。絡み酒じゃなくてよかった。
砂子さんは、どこからか入手したスナック菓子を食べてる。
「瀬名さん、水飲んで」
「はーい、砂子先生」
「先生はやめて」
「ははっ。ウル様、砂子様ってね」
「やめて」
ちゃんと全員を視界に入れてるらしく、酔っぱらいに水を渡す砂子さん。
「砂子さんのおかげで、今回は生き延びたわ~」
セナは、けらけら笑った。笑いながら言うことか?
暴風雨の中、外にいたら死んでたかもしれないことを、そんなに軽く言うんだな。つくづく、ここは死が近い場所だ。
夜中。眠りこける4人を残して、俺と砂子さんは自室へ戻る。
「おやすみ、当真くん」
「おやすみ」
砂子さんと別れ、ひとりでガタガタ鳴る天井を眺めながら寝た。
この嵐で、マントラアーヤの何人が死んだんだろう?
衣食住の足りてない者は、どう生きていけばいいんだろう?
そういえば。セナが、言っていた“ウル”ってなんだろう?
明日、砂子さんに訊いてみよう。
翌朝。いつものように共用部屋に行く。
「おはよう」
「おはようございます」
4人は、もう出て行ったらしい。
物足りない朝食を済ませた後、砂子さんに質問する。
「ウルってなんですか?」
「マントラアーヤの神様だよ」
「神様…………」
土地が変われば、信仰も変わる。と、砂子さんは言った。
「もうすぐ、日の出まつりっていうのがある。ウルについて知るには、いい機会かもね」
ウルは、マントラアーヤの住人と共に生きる神だという。
俺には、信仰心がない。砂子さんは、どうなんだろう?
◆◆◆
9月23日。日の出まつりの日。
砂子さんは、人混みが苦手だから参加しないそうだ。
「当真くん、どうする? 色々美味しいもの食べられると思うけど」
「あー。不参加で」
「そう」
それきり、祭りの話はしなくなった。
「ちょっと散歩行きます」
「いってらっしゃい」
砂子さんが手を振る。
俺は、長屋周辺をふらふら歩いた。
そんで、ツユクサを見付ける。収穫だな。
しまった。袋がない。仕方ないから、上着のポケットに突っ込む。
「はぁ…………」
「トーマくん……」
「わっ!」
いつの間にか、背後にスザキがいた。長屋に住む対人恐怖症の女。
「なにか?」
「す、砂子さんのこと、どう思う?」
スザキは、俯きながら訊く。
「どうって……なんかミステリアスな人だなって…………」
「そ、そう。まあ、あの人、あんまり自分のこと話さないもんね……」
そう言うと、スザキは早足で帰って行った。
なんだったんだ?
スザキのことは、一旦忘れて、川の方へ行く。
しばらく、魚が泳いでるのを眺めた。
帰るか。
俺は、長屋の共用部屋へ向かう。
「ただいま」
「おかえり」
「ツユクサ取ってきたぜ」
「食べられるやつ?」
「ああ。和え物にする」
「ありがとう。おかずが一品増えるよ」
昼食を砂子さんと食べながら、世間話をした。
そして、「高卒認定は受けた方がいいんじゃない?」と言われる。
「暇だから受ける」
「うん」
「砂子さんの最終学歴は?」
「私、高卒。大学は中退した」
「へぇ」
大学を中退して、引きこもりになっていた期間があるらしい。その頃に、特区送りになったそうだ。
「そうだ。外部試験、受ける?」
「外部試験?」
説明を聞いた。生活保護特区外居住許可を得るための試験だと。
「受かれば、ここから出られるよ」
「受かるかねぇ」
「ま、考えときなね。願書の〆切もあるし」
「はい」
特区を出たら、砂子さんとはもう会えないんだろうな。
そう考えて気付いた。俺は、この人と別れがたく思ってるってことに。
「砂子さんは、ウルを信じてんのか?」
「……いや、私は何も信じてないよ。このことは、内緒で。マントラアーヤの人たちは、みんな信じてるから」
「はい」
砂子さんは、まるで自分が特区の住人じゃないみたいに言う。
使い回しのティーバッグで淹れた薄い紅茶を飲み干し、俺は尋ねた。
「砂子さんって、本土に帰るつもりはねーの?」
「ない。親族と折り合いが悪くてね」
「そうか……」
この人も、色々抱えてんだなぁ。
マントラアーヤの住人は、切り捨てられた者ばかりだ。
ここにしか居場所がないから、ここにいる。砂子さんも、そうなんだろう。
◆◆◆
砂子さんとふたりで、海を見ている。
潮風が、少し肌寒い。
「当真くん、海見に行かない? ふたりで」
と、今朝言われて。俺は嬉しく思って、すぐにオーケーした。
海を見つめる砂子さんの目が、糖蜜みたいに光ってる。
「好きなのか? 海」
「私は、現海だから。昔から、好きなんだ。よく泳いでたよ」
「へぇ」
苗字に“海”が入ってるから、か。
「ま、この家名自体は呪いだけどね」
「呪い……?」
砂子さんには聴こえなかったのか、聴こえなかった振りか。質問に答えが返ってくることはなかった。
そういや、親族と折り合いが悪いって話だったな。あんまり詮索しない方がいいか。
「当真くんは、帰れるといいね」
「…………」
帰れる場所があるのは、いいことだよ。と、砂子さんは言う。
でも、そこには、あんたがいないんだ。
生活保護特区には、何もかもが足りてない。だけど、砂子さんがいる。
それだけのことが、俺には大切なんだよ。
「砂子さん。俺は、あんたの隣にいる」
思わず、口から出た言葉。それを受け止めるように、俺のことを焦げ茶色の瞳が見ていた。
「そう。それは、嬉しいな」と、砂子さんは微笑む。
海を背にしたあんたが、ひどく儚く見えたから。この世界に繋ぎ止めたくて、手を伸ばす。
俺の手を、そっと白い指先が掴んだ。冷たい手。
「ありがとう、当真くん。手を差し出してくれて。ごめん。私、身体接触が苦手で、これが精一杯…………」
ありがとう。ごめん。それを反芻しながら、俺は手を離した。
あー、しくじったな。アセクシャルって、そういうこともあんのか。
「悪り。困らせたな」
「ううん。気にしないで」
風になびく長い黒髪を押さえながら、砂子さんは言った。
その様を、偶像にしたくないと思う。
あんたは、神様じゃない。砂子さんは、救われなきゃならない人だ。
それなのに、マントラアーヤの奴らを助けて、消耗してる。
もう、やめてくれ。
この言葉は、声にならなかった。
「俺は、砂子さんの味方だ」とだけは、なんとか口にする。
「……頼りにしてるよ」
砂子さんは、目を細めて笑った。
俺は、いつの間に、この人を特別に想うようになったんだろう?
あれ? そういえば。
「砂子さんって、いくつ?」
「30歳」
「見えねぇな」
12歳も上だったのか。別に俺は、歳の差なんて気にしねーけど。
「当真くん、あげる」
「サンキュー」
ラベンダーの煙草をもらう。砂子さんが、ライターで火を着けてくれた。
いい香りがする。
砂子さんも、煙草をくわえた。そして、俺と服が触れ合うくらい近くに並ぶ。
俺たちは、日が落ちるまで、海を眺めていた。
◆◆◆
長い前髪で目を隠している男が、ちゃぶ台の差し向かいにいる。
コイツは、シガ。引きこもり。
砂子さんが、シガの部屋を掃除するからと追い出した。
「……トーマくん」
「はい」
シガが、おずおずと話しかけてくる。
「砂子さんのこと、どう思う?」
それは、前にスザキにも訊かれたことだった。
「人間だと思う」
「そういうことじゃなくて」
「なんだよ?」
「好きとか嫌いとか、そういうの」
「好きだよ」
色んな意味で。
シガは、忙しなく手遊びをしながら、言葉を紡ぐ。
「僕は、いや、更級も洲崎もだけど、砂子さんに迷惑かけてばかりでさ。トーマくんみたいな人は珍しいんだ。君、健常者だろ?」
「まあ」
「僕が言うことじゃないけど、あの人のこと、助けてあげて」
「ああ。言われなくても、そうするよ」
「ご、ごめん。それだけ」
シガは、それきり黙った。両手の親指を、くるくる回してる。
言われるまでもない。
砂子さんが壊れたら、物みたいに廃棄されてしまう気がして。俺は、そんなのは、ごめんだ。
「散歩してくる」と言って、俺は席を立つ。「いってらっしゃい」と、小さなシガの声を背にした。
外は、日が傾いていて、少し寒い。
特に考えもなく、川まで歩く。
釣り竿があればなぁ。砂子さんに訊いてみよう。
「お、トーマくんじゃん!」
「セナ」
「どうした? 砂子さんに追い出された?」
「んなワケねーだろ」
「ジョーダン、ジョーダン。怖い顔しないでよ」
セナは、笑いながら、ばしばしと俺の背中を叩いた。
「アタシ、出勤途中なんだぁ。トーマくん、来ない?」
「行かねーよ」
「砂子さんに止められてんの?」
「それは…………」
セナが勤めてるのは、ヘルスだ。砂子さんは、職業で人を見るような性格じゃないが、性風俗に子供が関わることには反対してる。
でも、別に俺の意思には関係ない。
ただ、俺は。
「あの人が好きだから」
「やだぁ! 早く言ってよ! もう告白した?」
セナは、恋バナだ! とはしゃぐ。
「いや、まだ」
「砂子さんってさ、自分のこと醜いと思ってるの。あ、これ内緒ね?」
「は?」
「本人が言ってたんだよ。自分は醜い化物だって。鏡を見るのが嫌いだって」
絶句した。化物? どこが?
「母親に言われたんだってさ。もっと綺麗にしろ。そんなんじゃお嫁に行けないって。古臭い考えだよねぇ」
「そりゃ、親と縁切りたくもなるわな」
「孫の顔が見たいとかも言われてたらしいよ。砂子さん、アセクなのに」
その台詞が、どれだけ砂子さんを傷付けたのだろう?
「だからね、トーマくん。砂子さんを幸せにしてあげてね」
「努力する」
「うん。よろしく。じゃーね!」
セナは、大きく手を振り、去って行った。
砂子さんが、マントラアーヤの住人じゃないかのように言う理由が分かった気がする。
あの人、どこにも居場所がないと思ってんだ。