gift
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「これ、食べたくない」
小さな口をへの字に曲げ、おまけに一丁前に眉間に皺を寄せ自分の感情を露にしてみせる目の前の子どもに、ギアッチョは手元の雑誌から目を離し、顔を上げた。今の今まで目を凝らして記事を追っていたとは思えないほど呆気ない動作だった。
子どもは自身の手には余る大きさのフォークで、先ほどこれ、と咀嚼し嚥下することへの拒否を示した料理をつつき、皿の外側へ外側へと追いやろうとしていた。行儀が悪い。一刻前、「おなかすいた」とその寸足らずな声で強請られたギアッチョは子どもの皿に乗る、憐れにもその悉くが残されたそれにちらと視線をやると、視線は外されたものの未だ閉じられてはいなかった雑誌を閉じた。
「じゃあ何が食いてェんだ」
子どもの食卓に肘をつき、平坦な声音で問う。問われた子どもは暫く考えこむような素振りを見せた後、「わかんない」とこぢんまりとした色の無い口唇を動かした。
何が食べたい、という問いに対しては矛盾の無い回答だがそれでは埒が明かない。ギアッチョは嘆息する暇もないと云ったように子どもの手からフォークを抜き取ると、ほとんど食卓に並べたときのまま冷めゆくばかりの料理に突き立てた。
昨日はあれだけ頑なな姿勢を見せていた子どもであったが、今日は昨日の見る影もなかった。食前の祈りを済ませると、自身の前に差し出された皿に乗る料理をにこやかに頬張るその様子を、暫し離れたところからギアッチョは眺めていた。
子どもというのは得てして気まぐれなものだ。昨日気に入らなかったものが今日の気に入りになる、なんてのはざらである。要は、いちいち真正面から受け止めたら負けなのだ。尤も、この子どもと同年代の幼子と関わった試しなど、件のこの少女を除けば少なくとも彼自身がその齢であった頃の話であろうが。
「ギアッチョも食べなよ」子どもは口の周りについたトマトソースを舐め取ると、次いでそう尖りのない声で放った。出された料理には一身に視線が注がれている。丸々とした目は伏せられており、外の光により淡く彩られた其処を縁取る睫毛が影を作っていた。「オレは、いい」一弾指の間、二人の間には静穏が響いたが、すぐにその解れを縫い合わせるようにギアッチョは問いへの答えを返した。
心遣いのつもりでもあったのかもしれない。子どもらしい無邪気な傲慢さから差し出した手を押し返されたことに、少女は視線の先を捉えたまましぱしぱと瞬きをすると、「そう」とだけ発した。続けておいしいのに、と洩らすとまるで先の問答などはじめから無かったかのように食事は進められた。弾んだ声音と莞爾として笑む様子は昨日のそれとはあまりに対照的である。
まるで、今にも歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。子どもの纏う情調をそう捉えていたギアッチョであったが、それは存外的外れではなかったらしい。彼が席を外すと、幼い少女はご機嫌に鼻歌を歌い始めた。碧落から聞こえてくるようなそれにギアッチョは微かに耳をそばだてた。子どもの口ずさむそれが一体の何の曲であったか、考えたものの結局、思い出すことは叶わなかった。
子どもがしゃがみこんでいる。ジェラテリアから戻ってきたギアッチョの目にいの一番に飛び込んできたのが足りない上背を丸め、項垂れるように頭を垂らす小さな体躯だった。
今日は特別日差しが強い。目まぐるしく変わる気候に眩暈がしそうだ、とは彼の同僚の弁であったか。あの男は大して気にも留めていない癖して、そんな言葉ばかりを吐く。この季節、口ばかりの件の同僚はどうせ仕事が入っていない日は日がな一日あの散らかった自分の城に籠りきりなのだ。さして重くも受け止めていないのだろう。
何かにつけてそういったところのある男の顔を思い浮かべたところでこの疎ましい日差しが和らぐことはない。購入したジェラートは早くも融けかけていた。すれ違った親子の手に握られていたそれに目を付けるや否や、ギアッチョの裾を引いた子どもは広場の人だかりとは少し離れた木陰で尚も蹲っている。「おい」男は丸まった姿勢のせいでさらに小さくなってしまった背中に向かって逼ると、たった一語そう呼び掛けた。
まるで夏の暑さに絆されたように、茫漠たる動作で顔を上げた子どもは腑抜けた目つきでギアッチョを見据えると彼の手の中のジェラートをやわらかな肉に包まれた手で受け取った。
店員から手渡されてからさほど時間は経っていないはずだが、突き刺すような天日により刻刻と形は失われ始めていた。コーンを伝う液が子どもの手のひらをも伝った。握られ、押し潰される前に移り動いていったものが地面へと落下の道筋を辿っていく。
「余計なことはすんなよ」音もなく滴っていったそれらが地べたへ叩きつけられたそのとき、手のひらの不快感を示すより先に視線を下にやった少女に、ギアッチョは明後日の方向を向きながら言い立てた。「どうして?」べたつく手とは逆の手で地面に転がる小石をつまみ上げ、戯れのように指先を振るう子どもはたちまちはね上がるような声で呼応した。
足元には何やら同じような幾つかの石が等間隔に敷き並べられている。それら点を線で繋ぐように成される蟻の門渡りは、突如として立ち塞がった無機物に道標である前方の姿を失い、すっかり混乱を極めていた。
「人だろうが、虫ケラだろうが、集団がありゃあ世界がある。それを集団の一員でもないお前が、悪戯にかき乱すんじゃねェよ」
惑うばかりの共同体にいとけない笑みを携えた子どもは、まるで側頭葉に染み付いたそれをそっくりそのままなぞるような男の物言いにも同じものを向けた。「じゃあ、ギアッチョの世界はどこにあるの」清明さに裏付けられた刻薄さそのままに呈された言葉は、水面に垂らす絵具のように歪曲を描いた。
「ギアッチョ、わたしのするべきことって何かな、教えてよ」
“わたし”の名前はなまえと謂った。なまえという子どもはある日突然、何の予兆もなくギアッチョの前に現れ、それが唯一許された道だとばかりに当然のように彼の元に腰を据えて、こうして今に至る。
小さな体躯で自分より幾分も年嵩の男に手前勝手に振る舞うあどけなさはまさに童子のそれであったが、不意に知る筈のないことまでを見透かすような言動を取ってみせる不思議な子供でもあった。なまえは決して大人びているわけではない。しかし、なまえは確かに何かを見通していた。他ならない自身の目で、何かを見据えていた。
「ギアッチョは、怒らないの?わがままばっかのわたしを」
なまえは玉のような双眸を静かに瞬かせながら、とうにこの部屋の一部と化した静寂を一つ、裂け目を入れた。
「ギアッチョは怒らないね、いつも」
怒ってよ。例えば一呼吸分、間をあけて呟かれた一言は尚も続く静寂に溶け入ってしまうようにも僅かな裂け目へと落下の放物線を描いているようにも思えた。
「ギアッチョの気持ちを考えないようなことばかり言っていたのに、ギアッチョは一回も怒らなかったね」
転瞬、子どもと向き合った男の記憶の雲路が交わった。重なる過去と現在からは逃れようなどある筈もなく、それすらも見透かしたように子どもはらしくない動作で俄かに目を細めた。
「あのときも、怒っていたんじゃなくて、かなしかったんだもんね」
あの日は確か、身体の芯から凍えついてしまいそうなほど寒い冬の日で、雪が降っていた。靴に覆われた爪先は赤みを帯び、痛々しく水張れを起こしていた。おやすみの挨拶はとうに済ませているにもかかわらずベッドに潜っていないことを咎める者は何処にもいない。周囲において、何かが動くような気配は全く無かった。人は夜に誘われ、獣畜と草木は春を待ちわびる。此処には闇を落とした天の原より降り落される雪が在るばかりであった。
薄氷に包まれた建物の隅には二人の人間が居た。一人は霜焼けを起こした足でその場に立ち竦んでおり、一人は落葉を終えた木々の傍に身体を投げ出していた。見れば、深雪に横たえる身体には既に雪片が降り積もり始めていた。さらに、木々の足元には盛り上がった石の頭が覗いており、目を凝らしてみれば微かにこべりついた赤黒い跡が見えた。立ち竦む側は少年であり、寒空に寐るのは少女であった。少年は寒さのせいか、わなわなと唇を震わせていた。幽天に晒され続け、感覚のかき消された四肢の動きはぎこちなかった。少年は、常近づいてはならないとさんざ言い聞かせられてきた井戸へ、温もりの消え失せた少女をひきずると、何処までも続く暗がりにそのがらんどうとなった肉の器を落とした。
「大丈夫。あそこは暗いし、それにすごく深いから」
少女の名前は、なまえと謂った。ともすれば、少年とは嘗てのギアッチョであった。
なまえとは、既に死した者の名前であった。なまえはあの冬の日に冷冷たる水の底で眠りについた。子どもの流れる時間はあのときから止まったままであり、今此処に居るなまえはこの御時世に非科学的にも程があるが、所謂霊体として此の世に留まる存在だ。何かを食すことなど不可能であるし、いつかの食事の真似事の際機嫌よく歌っていた歌はもう何年も前に流行った歌だ。あの歌を歌った歌手はあれから一年もしないうちに芸能界から消えた。
「なんで怒らなかったの、教えてよ」
ずうっと前も、あのときも、そう口に掛けるなまえの表情は大層穏やかなものだった。それはなまえの後悔の現れだった。まだ男が自身と同じ年の頃であった過日の全てにおいて、自らの物差しを振りかざし続け、自らの見えるもの感じるものが全てだと云う傲慢を許容し続けたことに対する未熟な懺悔だった。ギアッチョはそんな子どもを一つ、見やるも沈黙を保っていた。
なまえはそんな彼に、小さく口を綻ばせた。未成熟な子どもらしい団栗眼の奥には光の一つも見えなかった。
「ギアッチョは、わたしにはいつも、何も教えてくれないね」
知っているのに。見ようによっては恨みがましいとも取れるような視線をなまえはギアッチョに対し、向けた。
「昔、わたしが本当は、生まれてきてはいけない子供だった、って教えてくれたのも、周りの子たちだった」
なまえとギアッチョは同じ場所にて育った。その場所というのはとある田舎街の外れにある、修道女が一人住するばかりの教会だった。その修道女は身寄りのない子供たちを引き取り、寝食などあらゆる面においての面倒を見ていた。なまえもギアッチョも同様に彼女の庇護下にあったが、なまえには親がいた。それもほんのすぐ傍に。
なまえは親も居場所も無い子供らの面倒を見る一人きりの修道女の子どもだった。
つまりはなまえは不義の子供であったのだ。
聖職者ならば本来純潔でなくてはならない。だのになまえという子供がいる、ということはつまりそういうことだった。
なまえはそんな当たり前のことに、周囲の言付けにより初めて理解することとなった。
なまえの母親は、聖職者としてはあってはならない罪を犯していた。
「ギアッチョはわたしに何を言われても怒らなかったね」
おかあさんみたい、と無意識下のものなのか、独りごちるように一言溢された。
なまえは母親を愛していた。自身を此の世に生み落とし、此の世において何より自身を慈しんだ母親を。誰よりも、何よりも。
たとえ咎人であろうとも、その思いに変わりはない。変わりはしなかった。しかし同時に手ずから裏切られたような気分に陥ったことも確かだった。自身の身が当然のように神より祝福を賜うたものであり、己が此処まで歩んできた道筋には何の憂いもないことをなまえは言外に、知覚せずとも信じていた。信じるところこそがなまえの物差しであり、見て感じた世界だった。だがその実、それはなまえの理想に過ぎなかった。なまえは愛に溢れた母親の唯一にして最大の間違いであり、他ならない罪の象徴であった。
打ち砕かれた自身の物差しに最も相応しくなかったのは自分自身であったのだ。それに思い至ったなまえはあの過酷な寒さに震える夜、今まで傷つけ続けたギアッチョに儘ならない衝動をぶつけた。母親など、はじめからいなければよかった。涙を流す代わりに思いの一端を吐いた。なまえの心はまるでぐちゃぐちゃだった。それは愛した母親への愛情の裏返しだった。証明だった。
皆がその生誕に神より祝福を賜うたものであり、歩む道筋には少しの憂いもないことが当たり前だと心の底から信じていたなまえの無邪気ゆえの傲慢さに傷つけられてきた少年の日のギアッチョは、なまえの吐いた言葉を聞いたとき、瞬間的に目の前のなまえの身体を突き飛ばしていた。それは母も父も同様に顔も名前も分からない子どもの、慈しまれるべき相手に慈しまれている子どもに対する慟哭であった。
「もう二度と、あそこには行っちゃだめだよ」
思考を彼岸から引き戻したなまえは続けざまに「あそこはまだ、雪がふっているから」と言った。
ギアッチョがまだ同じ年の頃であった少女を死に至らしめてしまったあの日、彼は既にその身に宿していた不可思議な力により、施設の誰も彼もを手に掛けた。そうして一人の少年は自らの手により、寝静まる教会を凍てつく夜に閉じ込めた。
田舎街という閉鎖極まる環境で、姦淫の罪を犯した修道女が一人居るばかりの教会には元より誰も近づこうとはしない。形ばかりが残り、もぬけの殻となった教会は今も尚、あの夜のままあの場所にて朽ち果てる日を待っていた。
窓の外から照りつける日差しは刺すようであり、遠く離れている筈なのに、蝕むように身体へと入りこんできた。まるで逃れることは許さぬとばかりに。何の因果か、叶う筈のない二度目の邂逅を果たしたなまえとギアッチョであるが、互いの姿を認識した際これは罰のつもりかと思ったのは果たしてどちらであったか。それを知る術は今や何処にもなかった。
…
合間様へ、最大限の感謝を込めて。
19.10.28
小さな口をへの字に曲げ、おまけに一丁前に眉間に皺を寄せ自分の感情を露にしてみせる目の前の子どもに、ギアッチョは手元の雑誌から目を離し、顔を上げた。今の今まで目を凝らして記事を追っていたとは思えないほど呆気ない動作だった。
子どもは自身の手には余る大きさのフォークで、先ほどこれ、と咀嚼し嚥下することへの拒否を示した料理をつつき、皿の外側へ外側へと追いやろうとしていた。行儀が悪い。一刻前、「おなかすいた」とその寸足らずな声で強請られたギアッチョは子どもの皿に乗る、憐れにもその悉くが残されたそれにちらと視線をやると、視線は外されたものの未だ閉じられてはいなかった雑誌を閉じた。
「じゃあ何が食いてェんだ」
子どもの食卓に肘をつき、平坦な声音で問う。問われた子どもは暫く考えこむような素振りを見せた後、「わかんない」とこぢんまりとした色の無い口唇を動かした。
何が食べたい、という問いに対しては矛盾の無い回答だがそれでは埒が明かない。ギアッチョは嘆息する暇もないと云ったように子どもの手からフォークを抜き取ると、ほとんど食卓に並べたときのまま冷めゆくばかりの料理に突き立てた。
昨日はあれだけ頑なな姿勢を見せていた子どもであったが、今日は昨日の見る影もなかった。食前の祈りを済ませると、自身の前に差し出された皿に乗る料理をにこやかに頬張るその様子を、暫し離れたところからギアッチョは眺めていた。
子どもというのは得てして気まぐれなものだ。昨日気に入らなかったものが今日の気に入りになる、なんてのはざらである。要は、いちいち真正面から受け止めたら負けなのだ。尤も、この子どもと同年代の幼子と関わった試しなど、件のこの少女を除けば少なくとも彼自身がその齢であった頃の話であろうが。
「ギアッチョも食べなよ」子どもは口の周りについたトマトソースを舐め取ると、次いでそう尖りのない声で放った。出された料理には一身に視線が注がれている。丸々とした目は伏せられており、外の光により淡く彩られた其処を縁取る睫毛が影を作っていた。「オレは、いい」一弾指の間、二人の間には静穏が響いたが、すぐにその解れを縫い合わせるようにギアッチョは問いへの答えを返した。
心遣いのつもりでもあったのかもしれない。子どもらしい無邪気な傲慢さから差し出した手を押し返されたことに、少女は視線の先を捉えたまましぱしぱと瞬きをすると、「そう」とだけ発した。続けておいしいのに、と洩らすとまるで先の問答などはじめから無かったかのように食事は進められた。弾んだ声音と莞爾として笑む様子は昨日のそれとはあまりに対照的である。
まるで、今にも歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。子どもの纏う情調をそう捉えていたギアッチョであったが、それは存外的外れではなかったらしい。彼が席を外すと、幼い少女はご機嫌に鼻歌を歌い始めた。碧落から聞こえてくるようなそれにギアッチョは微かに耳をそばだてた。子どもの口ずさむそれが一体の何の曲であったか、考えたものの結局、思い出すことは叶わなかった。
子どもがしゃがみこんでいる。ジェラテリアから戻ってきたギアッチョの目にいの一番に飛び込んできたのが足りない上背を丸め、項垂れるように頭を垂らす小さな体躯だった。
今日は特別日差しが強い。目まぐるしく変わる気候に眩暈がしそうだ、とは彼の同僚の弁であったか。あの男は大して気にも留めていない癖して、そんな言葉ばかりを吐く。この季節、口ばかりの件の同僚はどうせ仕事が入っていない日は日がな一日あの散らかった自分の城に籠りきりなのだ。さして重くも受け止めていないのだろう。
何かにつけてそういったところのある男の顔を思い浮かべたところでこの疎ましい日差しが和らぐことはない。購入したジェラートは早くも融けかけていた。すれ違った親子の手に握られていたそれに目を付けるや否や、ギアッチョの裾を引いた子どもは広場の人だかりとは少し離れた木陰で尚も蹲っている。「おい」男は丸まった姿勢のせいでさらに小さくなってしまった背中に向かって逼ると、たった一語そう呼び掛けた。
まるで夏の暑さに絆されたように、茫漠たる動作で顔を上げた子どもは腑抜けた目つきでギアッチョを見据えると彼の手の中のジェラートをやわらかな肉に包まれた手で受け取った。
店員から手渡されてからさほど時間は経っていないはずだが、突き刺すような天日により刻刻と形は失われ始めていた。コーンを伝う液が子どもの手のひらをも伝った。握られ、押し潰される前に移り動いていったものが地面へと落下の道筋を辿っていく。
「余計なことはすんなよ」音もなく滴っていったそれらが地べたへ叩きつけられたそのとき、手のひらの不快感を示すより先に視線を下にやった少女に、ギアッチョは明後日の方向を向きながら言い立てた。「どうして?」べたつく手とは逆の手で地面に転がる小石をつまみ上げ、戯れのように指先を振るう子どもはたちまちはね上がるような声で呼応した。
足元には何やら同じような幾つかの石が等間隔に敷き並べられている。それら点を線で繋ぐように成される蟻の門渡りは、突如として立ち塞がった無機物に道標である前方の姿を失い、すっかり混乱を極めていた。
「人だろうが、虫ケラだろうが、集団がありゃあ世界がある。それを集団の一員でもないお前が、悪戯にかき乱すんじゃねェよ」
惑うばかりの共同体にいとけない笑みを携えた子どもは、まるで側頭葉に染み付いたそれをそっくりそのままなぞるような男の物言いにも同じものを向けた。「じゃあ、ギアッチョの世界はどこにあるの」清明さに裏付けられた刻薄さそのままに呈された言葉は、水面に垂らす絵具のように歪曲を描いた。
「ギアッチョ、わたしのするべきことって何かな、教えてよ」
“わたし”の名前はなまえと謂った。なまえという子どもはある日突然、何の予兆もなくギアッチョの前に現れ、それが唯一許された道だとばかりに当然のように彼の元に腰を据えて、こうして今に至る。
小さな体躯で自分より幾分も年嵩の男に手前勝手に振る舞うあどけなさはまさに童子のそれであったが、不意に知る筈のないことまでを見透かすような言動を取ってみせる不思議な子供でもあった。なまえは決して大人びているわけではない。しかし、なまえは確かに何かを見通していた。他ならない自身の目で、何かを見据えていた。
「ギアッチョは、怒らないの?わがままばっかのわたしを」
なまえは玉のような双眸を静かに瞬かせながら、とうにこの部屋の一部と化した静寂を一つ、裂け目を入れた。
「ギアッチョは怒らないね、いつも」
怒ってよ。例えば一呼吸分、間をあけて呟かれた一言は尚も続く静寂に溶け入ってしまうようにも僅かな裂け目へと落下の放物線を描いているようにも思えた。
「ギアッチョの気持ちを考えないようなことばかり言っていたのに、ギアッチョは一回も怒らなかったね」
転瞬、子どもと向き合った男の記憶の雲路が交わった。重なる過去と現在からは逃れようなどある筈もなく、それすらも見透かしたように子どもはらしくない動作で俄かに目を細めた。
「あのときも、怒っていたんじゃなくて、かなしかったんだもんね」
あの日は確か、身体の芯から凍えついてしまいそうなほど寒い冬の日で、雪が降っていた。靴に覆われた爪先は赤みを帯び、痛々しく水張れを起こしていた。おやすみの挨拶はとうに済ませているにもかかわらずベッドに潜っていないことを咎める者は何処にもいない。周囲において、何かが動くような気配は全く無かった。人は夜に誘われ、獣畜と草木は春を待ちわびる。此処には闇を落とした天の原より降り落される雪が在るばかりであった。
薄氷に包まれた建物の隅には二人の人間が居た。一人は霜焼けを起こした足でその場に立ち竦んでおり、一人は落葉を終えた木々の傍に身体を投げ出していた。見れば、深雪に横たえる身体には既に雪片が降り積もり始めていた。さらに、木々の足元には盛り上がった石の頭が覗いており、目を凝らしてみれば微かにこべりついた赤黒い跡が見えた。立ち竦む側は少年であり、寒空に寐るのは少女であった。少年は寒さのせいか、わなわなと唇を震わせていた。幽天に晒され続け、感覚のかき消された四肢の動きはぎこちなかった。少年は、常近づいてはならないとさんざ言い聞かせられてきた井戸へ、温もりの消え失せた少女をひきずると、何処までも続く暗がりにそのがらんどうとなった肉の器を落とした。
「大丈夫。あそこは暗いし、それにすごく深いから」
少女の名前は、なまえと謂った。ともすれば、少年とは嘗てのギアッチョであった。
なまえとは、既に死した者の名前であった。なまえはあの冬の日に冷冷たる水の底で眠りについた。子どもの流れる時間はあのときから止まったままであり、今此処に居るなまえはこの御時世に非科学的にも程があるが、所謂霊体として此の世に留まる存在だ。何かを食すことなど不可能であるし、いつかの食事の真似事の際機嫌よく歌っていた歌はもう何年も前に流行った歌だ。あの歌を歌った歌手はあれから一年もしないうちに芸能界から消えた。
「なんで怒らなかったの、教えてよ」
ずうっと前も、あのときも、そう口に掛けるなまえの表情は大層穏やかなものだった。それはなまえの後悔の現れだった。まだ男が自身と同じ年の頃であった過日の全てにおいて、自らの物差しを振りかざし続け、自らの見えるもの感じるものが全てだと云う傲慢を許容し続けたことに対する未熟な懺悔だった。ギアッチョはそんな子どもを一つ、見やるも沈黙を保っていた。
なまえはそんな彼に、小さく口を綻ばせた。未成熟な子どもらしい団栗眼の奥には光の一つも見えなかった。
「ギアッチョは、わたしにはいつも、何も教えてくれないね」
知っているのに。見ようによっては恨みがましいとも取れるような視線をなまえはギアッチョに対し、向けた。
「昔、わたしが本当は、生まれてきてはいけない子供だった、って教えてくれたのも、周りの子たちだった」
なまえとギアッチョは同じ場所にて育った。その場所というのはとある田舎街の外れにある、修道女が一人住するばかりの教会だった。その修道女は身寄りのない子供たちを引き取り、寝食などあらゆる面においての面倒を見ていた。なまえもギアッチョも同様に彼女の庇護下にあったが、なまえには親がいた。それもほんのすぐ傍に。
なまえは親も居場所も無い子供らの面倒を見る一人きりの修道女の子どもだった。
つまりはなまえは不義の子供であったのだ。
聖職者ならば本来純潔でなくてはならない。だのになまえという子供がいる、ということはつまりそういうことだった。
なまえはそんな当たり前のことに、周囲の言付けにより初めて理解することとなった。
なまえの母親は、聖職者としてはあってはならない罪を犯していた。
「ギアッチョはわたしに何を言われても怒らなかったね」
おかあさんみたい、と無意識下のものなのか、独りごちるように一言溢された。
なまえは母親を愛していた。自身を此の世に生み落とし、此の世において何より自身を慈しんだ母親を。誰よりも、何よりも。
たとえ咎人であろうとも、その思いに変わりはない。変わりはしなかった。しかし同時に手ずから裏切られたような気分に陥ったことも確かだった。自身の身が当然のように神より祝福を賜うたものであり、己が此処まで歩んできた道筋には何の憂いもないことをなまえは言外に、知覚せずとも信じていた。信じるところこそがなまえの物差しであり、見て感じた世界だった。だがその実、それはなまえの理想に過ぎなかった。なまえは愛に溢れた母親の唯一にして最大の間違いであり、他ならない罪の象徴であった。
打ち砕かれた自身の物差しに最も相応しくなかったのは自分自身であったのだ。それに思い至ったなまえはあの過酷な寒さに震える夜、今まで傷つけ続けたギアッチョに儘ならない衝動をぶつけた。母親など、はじめからいなければよかった。涙を流す代わりに思いの一端を吐いた。なまえの心はまるでぐちゃぐちゃだった。それは愛した母親への愛情の裏返しだった。証明だった。
皆がその生誕に神より祝福を賜うたものであり、歩む道筋には少しの憂いもないことが当たり前だと心の底から信じていたなまえの無邪気ゆえの傲慢さに傷つけられてきた少年の日のギアッチョは、なまえの吐いた言葉を聞いたとき、瞬間的に目の前のなまえの身体を突き飛ばしていた。それは母も父も同様に顔も名前も分からない子どもの、慈しまれるべき相手に慈しまれている子どもに対する慟哭であった。
「もう二度と、あそこには行っちゃだめだよ」
思考を彼岸から引き戻したなまえは続けざまに「あそこはまだ、雪がふっているから」と言った。
ギアッチョがまだ同じ年の頃であった少女を死に至らしめてしまったあの日、彼は既にその身に宿していた不可思議な力により、施設の誰も彼もを手に掛けた。そうして一人の少年は自らの手により、寝静まる教会を凍てつく夜に閉じ込めた。
田舎街という閉鎖極まる環境で、姦淫の罪を犯した修道女が一人居るばかりの教会には元より誰も近づこうとはしない。形ばかりが残り、もぬけの殻となった教会は今も尚、あの夜のままあの場所にて朽ち果てる日を待っていた。
窓の外から照りつける日差しは刺すようであり、遠く離れている筈なのに、蝕むように身体へと入りこんできた。まるで逃れることは許さぬとばかりに。何の因果か、叶う筈のない二度目の邂逅を果たしたなまえとギアッチョであるが、互いの姿を認識した際これは罰のつもりかと思ったのは果たしてどちらであったか。それを知る術は今や何処にもなかった。
…
合間様へ、最大限の感謝を込めて。
19.10.28
1/1ページ