てんごくじごくおおじごく
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友達が、結婚した。
正確にはこれからするんだけどね、とほんの数日前に会ったばかりの彼女はやわらかな声音で電話越しにそう言った。
どちらにしたってめでたいことに変わりはない。顔は見えずとも、ほんのりと顔を赤らめながら口元を綻ばせる彼女の顔が目に浮かぶようであり、私の口からはおめでとう、の一言が口から滑り落ちるように出た。
式はお互いの近親者やごく親しい人だけで挙げるから、と告げた彼女は、招待状を送るから来てね、と続けた。
機械を通した彼女の在りし日の少女のように弾んだ声色に耳を傾けながら、私はもういつ着たかはおろか、その行方すら知れない、おそらく自分の所持する衣服の中では最も華やかな衣装に思いを馳せていた。
はて、本当にあの服は何処へやったのだろうか。それなりに高価なものだから、仮に捨てたとしたら絶対に覚えているだろう。覚えていない、ということは大方クローゼットの奥の奥にでも追いやられているのだろうな、と適当に結論づけることでこの場は収まることとなった。
だが通話が切れたとき、自分があれの色も、形も覚えていないことを私ははたと思い出したのだった。
「友達がね、結婚したんだって」
正確にはこれからするんだけどね、と彼女の言葉をそっくりそのまま、私は彼女の弾んだ声音を真似て続けた。
この一言に、一足先にベッドへと潜り込んでいたイルーゾォは指先一つ動かさないまま扉の前に佇む私へと黙って視線を投げてみせた。ふうん、というさして興味も無いように素っ気なく返す、そんな彼の顔半分を照らす淡い白光は、気だるげな男の様相に不思議ななまめかしさとも云える何かを投じていた。
「……式には、」
押し出された気だるさそのままに、彼はその口唇だけを動かした。玉のように零れ落ちたそれは、平素よりずっと潜められたものであったが、この静寂を色濃く映し出した空間には過ぎた大きさの音に違いなかった。
「結婚式には、行くのか」
刹那、白んだ光により照らされた生っ白い肌が、その身体の下に敷かれたこれまた人工的な白に融け入ってしまうような、そんな風にベッドへ目をさ迷わせる私には思えてならない瞬間が確かにあった。
「うん、そのつもり。家族とか親戚とか、ごく親しい人だけで挙げるらしいんだけど、私も呼んでくれるんだって。折角お呼ばれしたんだから、行かないとね」
先程の電話越しの声を思い起こしながら、光栄ね、とふざけて少し芝居掛かった風なことを末尾へと添えた。もしかしたらそんな私の姿は両手の指の本数ではまだ余るほどの齢の子供が指折り数えて何か楽しいことを待つ姿に重なるかもしれない。
「随分楽しそうだな」
イルーゾォは、今この部屋へ差す白光のように薄ら濁った瞳に端から見れば実に浮かれた様子の私を捉え、呟くようにそう言った。
「もちろん!だって大事な友達が大事な人と一生物の選択をしたんだから、自分のことみたいに嬉しいよ!それにね、私結婚式って出るの初めてなの。小さい頃におじさんの結婚式に出たくらいで、しかもそのときは言葉もろくに話せないようなときだったからほとんど覚えてないし、ほぼ初めてみたいなものなの!きっとおいしいご飯がいっぱいあるんだわ、見たことも無いようなものばかりで、食べきれないほどテーブルに並べられて、そうだ、あまりに美味しそうで光輝いて見えたりもするのかも!それに、」
ここまで喋って漸く私は、イルーゾォが自身のだいぶ饒舌な口に呆れたような、はたまた微笑ましく思うような、どちらともつかない目を向けていることに気がついた。しおしおと萎びてしまった口唇は消え入るような言葉を残し、私の思いの丈全てを紡ぐことなく、閉ざされてしまった。
イルーゾォはそんな私の様子に、ほんの少しだけ眉尻を下げると、ごくごく自然に口角をゆるく持ち上げてみせた。
「そんなに言うならやるか、オレたちも」
そう言うと、彼はのそりと緩慢な動作でその身体を起こした。「え、」私がそれに対しすっとんきょうな声を上げると、イルーゾォはまた笑った。
「ねえ!イルーゾォ、まだ?」
浮き足立つ、というのはまさにこのことを言うのだろう。両足は今にも床を離れていってしまいそうで、私は慌てて意思を持ったようなそれらを押さえつけながら、声を張り上げた。
喉が開いた感覚はなかったが、左耳を傾けてみてもはたまた右耳を傾けてみても囁く声すら聞こえない夜には、染み渡るより響くが先立った。
そのとき、車やバイクの排気音だけでなく幼い子ども特有のひっかかりの無い声を乗せた拙い歌や、囀ずる鳥たちにさえ恨みがましい視線を向ける、右斜め下の家のいつも眉間にシワを寄せた住人の顔が頭をよぎった。だが、窓はしっかり閉めてあるし、大丈夫だろうと即座に導き出された結論により、すぐに
霧散した。
落ち着きの無い爪先を右、左、右、左と床に忙しなく滑らせる私の呼び声に、キッチンへと姿を消したイルーゾォがひょっこりとくぐりから顔を出した。
「なまえ、これに指入るか?」
「なあにそれ」
「プルタブ」
「え、入れたことないから分かんないんだけど……入るかなぁ」
「あ~……じゃあ、やめとくか」
ひらひらと眼前に差し出された指と指の間のちんまりとおさまる物の正体に私は目を丸くした。
元々いた場所から引き剥がされ、変わり果てた姿となったそれに若干の憐憫の情を抱きつつ、己の左手の指とその小さな穴を交互に見比べる。先程聞こえた妙な音の正体はこれか、とあの聞き慣れない音を思い起こし、決定的な物の欠けた片割れというには少し大きなそれを頭に浮かべた。
「他になんかなかったっけ、それっぽいやつ」
「あ、昔つけてたイヤリングは?あれちょうどいいくらいじゃなかったか」
「ああ、あれね、あれねぇ、もうずっと前に捨てちゃったんだよ」
付き合いたての頃につけてたフープイヤリングは最も適当な物といっても良かったが、唯一適していない点はそれがもう手元に無いということだった。
二人してひとしきり唸るように悩み様は端から見たら少し妙な光景に見えるかもしれない。
「ま、なくてもいいんじゃない?」
「そうだな、じゃオレとお前には見えてる、ってことで」
私が出した解決案としてなかなか乱暴なそれに、手のひらで遊ばせていたプルタブをあっさりと雑多な物置き場と化したシェルフへと放ってしまったイルーゾォはベランダへと繋がる我が家で一番大きな窓へと歩み寄り、白光と似た色の薄手のカーテンを開け放った。
そのあとをずるずると被せられた布を引きずりながらついていく私は、彼が振り向き様に見せた薄暗さに紛れ、煌々とした輝きを放つ真紅の瞳に吸い込まれるように目を両共に細めた。
さわさわとした布擦れ音が耳梁を撫でる。
二度目の笑みを見せたイルーゾォは、何をするのかと思えば今の今まで自分が横たわっていたベッドから何とシーツを剥ぎ取り、そして私へ被せた。頭の先から踵まですっぽり覆うように被された白いそれから、水中に漂うものが水面へとその姿を覗かせるように顔を出すと、背後に月光を背負った彼は今と同じことを言った。
「ごっこだけど我慢しろよ」
「結婚式ってさ、どんな風に進めるのかな、イルーゾォ知ってる?」
「いや、知らねぇな。自慢じゃねえが、オレもお前と同じで結婚式なんか出たこともないんでな」
「なにそれ!それじゃあ進められないじゃん!」
途端吹き出すように声を立てた私を、吹き出させた張本人であるイルーゾォはどうどうと宥めすかした。次いで彼は片方の口角だけを吊り上げ、妙に自信に満ち満ちた表情を作ってみせる。
「いいか?なまえ、こういうのは大抵神父の説教で始まるもんなんだよ」
「えぇ?えっとなんだっけ……愛があれば何でも出来る~みたいなやつだっけ」
「違ぇよ」
空で唱えたうろ覚えの穴だらけ説法をにべもなく跳ね除けた彼は、訂正すべくその色の無い唇を動かした。
愛は寛容であり、愛は情け深い。また人を妬まない。高慢にならない。礼儀に反することはせず、自分の利益は求めず、苛立たず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真理を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛が絶えることは決してない。
至極滑らかに紡がれる祝福の言葉に、私は黙って耳を寄せた。愛の賛歌を一つ一つ丁寧になぞったその口唇は続けて、まあ近からず遠からずだな、と苦笑混じりに放つ。多分だけど今はそれなりに、というか相当に機嫌が良いのだろうなとその様子から適当にあたりをつけながら、こほんと些かわざとらしい仕草で一息差し挟んだ。
「うれしいときも、苦しいときも、健やかなときも病めるときも、いつもあなたに誠実でいて、人生のすべての日においてあなたを愛し、敬うことを誓います。」
先ほど言葉を述べたイルーゾォに代わって今度は私が口を開いた。新郎、誓いますか?身体を向き合わせ、真正面から目を見据えながらそう問うと、彼は先の私と同じように一呼吸入れ、「誓います」とその音の分だけ喉を震わせた。
そうして、ならばこれは覚えているかとでも言うような笑みを浮かべ、やや仰々しいとも云える立ち居振舞いで私の左手を取る。次いで己のものよりも随分と大きく、また節くれだった手は、搦め捕った薬指に知覚できない何かを嵌めるような動作を行った。
其処に収められたそれは、私とイルーゾォにしか見えない誓いであった。彼はそんな私の薬指を心底いとおしげにするり、と繰り返し撫で上げた。少しの力も感じさせず、這わせられるそれは彼の円かな心の内を如実に表しているようであり、私は其処からもたらされる心地好い感覚にただ身を委ねた。
「私ね、小さいときお嫁さんになりたかったんだ」
ふつふつと湧き上がる高揚感そのままに、ふと思い起こされた幼き日の記憶を何とはなしに溢した。すっかり埃を被ってしまった思い出に、イルーゾォはほんの一瞬、目を凝らさなければ分からない程度に目を丸くすると、何を言うかと思えば「悪くねえな」とただ目元を緩めた。
私はそれに対し、自身の唇を食んで弧を描かせた。
明日は幸いなことに休みだ。昨日ようやく、いつか見よう見ようと思っていた一昔前に流行った恋愛映画を借りてきたのだ。明日はそれを見よう。次に訪れる、昼も盛りになった頃の予定を思い描き、窄めた目をゆっくりと閉じた。
昔の私は童話に出てくるお姫様が着るようなきらびやかなドレスと神様の居るチャペル、今まで食べたこともないような食べきれないほどのご馳走を望んでいた。けど、今の私はそんなもの、本当はいくつ欠けていたっていいんだよ。
きらびやかなドレスなんか今使ってるちょっとボロいシーツでいい。こう言ってはなんだけど、チャペルなんかより日の光が良く当たる普段食卓を囲んでいる位置の方が余程素敵だと思う。食べたことのないようなものもいらない。食べきれないほどじゃあ困るからちょっと足りないくらいがいいのかもしれない。私もあなたも料理はあまり上手ではないから、少し遠いけど美味しいって評判のデリでいつもより少しだけ豪勢にお買い物をしましょう。
私のドレスは古ぼけたシーツだから、あなたのスーツもパジャマでいいのよ。かしこまった雰囲気は苦手だから、ちょっと気の抜けているくらいが一番。
あと、これをパーパやマンマに言えばきっと怒られるでしょうけど、私は別に神様に誓わなくたっていいとさえ思ってる。だって、私たちの愛は私たちに対して誓うものだから。他の誰にだって誓うものじゃあないでしょう。
あなたはそんなに甘いものが好きではないから、ケーキはどうしましょうね。私も、あまり甘いものは得意じゃない。生クリームとか、特にね。
昔、いよいよ関係も終わりかってくらいの大喧嘩をしたとき、普段は先に折れる私が意地でも折れないものだから珍しくあなたが私のご機嫌とりにトルテを買ってきてくれたでしょう。特別なのは生クリームだけど、元々そういった類いのものはほとんど食べないし、何より得意じゃないから私本当はあまり食べたくなかった。でも大きな身体を縮こめて不安そうにこちらを見るあなたを、ここですげなくしてしまうことを考えたら何だかとても不憫で。あのときは私の嗜好なんか良く知りもしなかったものだから、女には甘いものという甘っちょろい考えの下、可哀想なくらい似合わないケーキ屋で一人吟味したのかと思ったら私は何も言えなかった。本当は開けたくもない口を開けて、これを端正こめて作ったであろう見ず知らずのパティシエさんに対するお礼を唱えながら食べたの。きっと、好きな人からしたらとても美味しいものだろうけど、なんたって私は好きじゃない人のほうだから、正直味は良く分からなかった。地面にキス、は流石にちょっと嫌だけどとにかく謝りたい気分だった。端正こめて作った見ず知らずのパティシエさんに申し訳が立たなかったから。
だけど、差し迫った状況のせいかな。二度目があるとしたら、このトルテだけだなぁ、とあのときの私は思った。だから、あなたが良ければ、それがいいと思う。でももう1ホールは多いから、1ピースずつ、ね。
私はもう子供じゃないから、本当は式なんか挙げなくたって平気だよ。型にはまった形を取らなくたって、それこそあなたの"お嫁さん"なんていう冠じみたものが無くたって、別に私はいいよ。子供じゃあ、ないから。
子供じゃあないから、あなたがいつになく真面目な顔をして私の薬指を撫でる理由も分かってしまうし、普段あれだけカミサマなんかいやしないと弁じているのにその神様が説いた教えを一言一句唱えることが出来るのは何故なのか、ということに浅ましくも期待をしてしまう。
でもそれと同時に。あなたの姿とその僅かな光を落とす相貌に、やわらかな夜陰とそれと、自分でも理由は分からないけれど、もう私なんかの手では触れることは叶わないほど遠いところでがんじがらめに絡みついた深いあきらめにも似たものをほんの一片ながら感じ取ってしまっていて、それを思うと私は不思議と泣いてしまいたくなる。
私はあなたが何処の出身か知らない。何処で何をしているのかも、何も知らない。知っているのは、さして執着しているわけでもないのにたまに懐から取り出される煙草の銘柄くらい。 だけど、それくらいは分かる。私は、私と一緒に居るときの僅かばかりのあなたしか知らないけど、それでも分かる。どれだけ、そしてどれほどの互いの時間を重ね合わせたと思っているの。
でも、そんな風に責め立てるような真似をしたとして、私があなたの不意に覗く一面に気がついているように、その上で私が頑なにあなたの素性に踏み込もうとはしない理由になど、あなたはきっととうに思い至っているのでしょうね。
本当は恋愛映画なんか好きでもなんでもなかったし、寧ろ嫌いだった。二人の行く末が鮮やかに彩られるものだとしても、白黒の海に沈みゆくものだとしても、角が立たないよう、釣り合いが保たれるように結末を迎えさせられるところが特に嫌いだった。
上辺ばかりの美しさを象り、表面に浮かび上がる都合の良さのみを求めるそれらが全てならばどれだけ良かったことか。でも本当にそれらだけで全て事足りてしまうならば、私たちはこんなにも足踏みをしないだろうし、歩を進めることを恐れたりしない。何より不変が貴ばれこともなかったのだろう。
もしも、もしもの話だ。私が何の臆面もなく、みっともなく泣き縋ってしまえるような女であったならば、何かしら異なる道筋が見据えられたのだろうか。そのとき、イルーゾォは応えてくれるのだろうか。
しかし、それはあくまで仮定の域を出ない世迷い言だ。それこそ私が自身のために追い求めた都合の良い代物でしかない。そもそもの話、何を夢想しようが何に思いを巡らそうが、所詮白日夢にしか成り得ないのだ。愚かしいほどの不毛。意味など無い。成しようもない。でも、それは決して悲しいことではない。
悲しいことなど、はじめから有りはしない。この世とはすべからくそのように在るものだ。
それを私に教えてくれたのは他ならない彼だった。
正確にはこれからするんだけどね、とほんの数日前に会ったばかりの彼女はやわらかな声音で電話越しにそう言った。
どちらにしたってめでたいことに変わりはない。顔は見えずとも、ほんのりと顔を赤らめながら口元を綻ばせる彼女の顔が目に浮かぶようであり、私の口からはおめでとう、の一言が口から滑り落ちるように出た。
式はお互いの近親者やごく親しい人だけで挙げるから、と告げた彼女は、招待状を送るから来てね、と続けた。
機械を通した彼女の在りし日の少女のように弾んだ声色に耳を傾けながら、私はもういつ着たかはおろか、その行方すら知れない、おそらく自分の所持する衣服の中では最も華やかな衣装に思いを馳せていた。
はて、本当にあの服は何処へやったのだろうか。それなりに高価なものだから、仮に捨てたとしたら絶対に覚えているだろう。覚えていない、ということは大方クローゼットの奥の奥にでも追いやられているのだろうな、と適当に結論づけることでこの場は収まることとなった。
だが通話が切れたとき、自分があれの色も、形も覚えていないことを私ははたと思い出したのだった。
「友達がね、結婚したんだって」
正確にはこれからするんだけどね、と彼女の言葉をそっくりそのまま、私は彼女の弾んだ声音を真似て続けた。
この一言に、一足先にベッドへと潜り込んでいたイルーゾォは指先一つ動かさないまま扉の前に佇む私へと黙って視線を投げてみせた。ふうん、というさして興味も無いように素っ気なく返す、そんな彼の顔半分を照らす淡い白光は、気だるげな男の様相に不思議ななまめかしさとも云える何かを投じていた。
「……式には、」
押し出された気だるさそのままに、彼はその口唇だけを動かした。玉のように零れ落ちたそれは、平素よりずっと潜められたものであったが、この静寂を色濃く映し出した空間には過ぎた大きさの音に違いなかった。
「結婚式には、行くのか」
刹那、白んだ光により照らされた生っ白い肌が、その身体の下に敷かれたこれまた人工的な白に融け入ってしまうような、そんな風にベッドへ目をさ迷わせる私には思えてならない瞬間が確かにあった。
「うん、そのつもり。家族とか親戚とか、ごく親しい人だけで挙げるらしいんだけど、私も呼んでくれるんだって。折角お呼ばれしたんだから、行かないとね」
先程の電話越しの声を思い起こしながら、光栄ね、とふざけて少し芝居掛かった風なことを末尾へと添えた。もしかしたらそんな私の姿は両手の指の本数ではまだ余るほどの齢の子供が指折り数えて何か楽しいことを待つ姿に重なるかもしれない。
「随分楽しそうだな」
イルーゾォは、今この部屋へ差す白光のように薄ら濁った瞳に端から見れば実に浮かれた様子の私を捉え、呟くようにそう言った。
「もちろん!だって大事な友達が大事な人と一生物の選択をしたんだから、自分のことみたいに嬉しいよ!それにね、私結婚式って出るの初めてなの。小さい頃におじさんの結婚式に出たくらいで、しかもそのときは言葉もろくに話せないようなときだったからほとんど覚えてないし、ほぼ初めてみたいなものなの!きっとおいしいご飯がいっぱいあるんだわ、見たことも無いようなものばかりで、食べきれないほどテーブルに並べられて、そうだ、あまりに美味しそうで光輝いて見えたりもするのかも!それに、」
ここまで喋って漸く私は、イルーゾォが自身のだいぶ饒舌な口に呆れたような、はたまた微笑ましく思うような、どちらともつかない目を向けていることに気がついた。しおしおと萎びてしまった口唇は消え入るような言葉を残し、私の思いの丈全てを紡ぐことなく、閉ざされてしまった。
イルーゾォはそんな私の様子に、ほんの少しだけ眉尻を下げると、ごくごく自然に口角をゆるく持ち上げてみせた。
「そんなに言うならやるか、オレたちも」
そう言うと、彼はのそりと緩慢な動作でその身体を起こした。「え、」私がそれに対しすっとんきょうな声を上げると、イルーゾォはまた笑った。
「ねえ!イルーゾォ、まだ?」
浮き足立つ、というのはまさにこのことを言うのだろう。両足は今にも床を離れていってしまいそうで、私は慌てて意思を持ったようなそれらを押さえつけながら、声を張り上げた。
喉が開いた感覚はなかったが、左耳を傾けてみてもはたまた右耳を傾けてみても囁く声すら聞こえない夜には、染み渡るより響くが先立った。
そのとき、車やバイクの排気音だけでなく幼い子ども特有のひっかかりの無い声を乗せた拙い歌や、囀ずる鳥たちにさえ恨みがましい視線を向ける、右斜め下の家のいつも眉間にシワを寄せた住人の顔が頭をよぎった。だが、窓はしっかり閉めてあるし、大丈夫だろうと即座に導き出された結論により、すぐに
霧散した。
落ち着きの無い爪先を右、左、右、左と床に忙しなく滑らせる私の呼び声に、キッチンへと姿を消したイルーゾォがひょっこりとくぐりから顔を出した。
「なまえ、これに指入るか?」
「なあにそれ」
「プルタブ」
「え、入れたことないから分かんないんだけど……入るかなぁ」
「あ~……じゃあ、やめとくか」
ひらひらと眼前に差し出された指と指の間のちんまりとおさまる物の正体に私は目を丸くした。
元々いた場所から引き剥がされ、変わり果てた姿となったそれに若干の憐憫の情を抱きつつ、己の左手の指とその小さな穴を交互に見比べる。先程聞こえた妙な音の正体はこれか、とあの聞き慣れない音を思い起こし、決定的な物の欠けた片割れというには少し大きなそれを頭に浮かべた。
「他になんかなかったっけ、それっぽいやつ」
「あ、昔つけてたイヤリングは?あれちょうどいいくらいじゃなかったか」
「ああ、あれね、あれねぇ、もうずっと前に捨てちゃったんだよ」
付き合いたての頃につけてたフープイヤリングは最も適当な物といっても良かったが、唯一適していない点はそれがもう手元に無いということだった。
二人してひとしきり唸るように悩み様は端から見たら少し妙な光景に見えるかもしれない。
「ま、なくてもいいんじゃない?」
「そうだな、じゃオレとお前には見えてる、ってことで」
私が出した解決案としてなかなか乱暴なそれに、手のひらで遊ばせていたプルタブをあっさりと雑多な物置き場と化したシェルフへと放ってしまったイルーゾォはベランダへと繋がる我が家で一番大きな窓へと歩み寄り、白光と似た色の薄手のカーテンを開け放った。
そのあとをずるずると被せられた布を引きずりながらついていく私は、彼が振り向き様に見せた薄暗さに紛れ、煌々とした輝きを放つ真紅の瞳に吸い込まれるように目を両共に細めた。
さわさわとした布擦れ音が耳梁を撫でる。
二度目の笑みを見せたイルーゾォは、何をするのかと思えば今の今まで自分が横たわっていたベッドから何とシーツを剥ぎ取り、そして私へ被せた。頭の先から踵まですっぽり覆うように被された白いそれから、水中に漂うものが水面へとその姿を覗かせるように顔を出すと、背後に月光を背負った彼は今と同じことを言った。
「ごっこだけど我慢しろよ」
「結婚式ってさ、どんな風に進めるのかな、イルーゾォ知ってる?」
「いや、知らねぇな。自慢じゃねえが、オレもお前と同じで結婚式なんか出たこともないんでな」
「なにそれ!それじゃあ進められないじゃん!」
途端吹き出すように声を立てた私を、吹き出させた張本人であるイルーゾォはどうどうと宥めすかした。次いで彼は片方の口角だけを吊り上げ、妙に自信に満ち満ちた表情を作ってみせる。
「いいか?なまえ、こういうのは大抵神父の説教で始まるもんなんだよ」
「えぇ?えっとなんだっけ……愛があれば何でも出来る~みたいなやつだっけ」
「違ぇよ」
空で唱えたうろ覚えの穴だらけ説法をにべもなく跳ね除けた彼は、訂正すべくその色の無い唇を動かした。
愛は寛容であり、愛は情け深い。また人を妬まない。高慢にならない。礼儀に反することはせず、自分の利益は求めず、苛立たず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真理を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛が絶えることは決してない。
至極滑らかに紡がれる祝福の言葉に、私は黙って耳を寄せた。愛の賛歌を一つ一つ丁寧になぞったその口唇は続けて、まあ近からず遠からずだな、と苦笑混じりに放つ。多分だけど今はそれなりに、というか相当に機嫌が良いのだろうなとその様子から適当にあたりをつけながら、こほんと些かわざとらしい仕草で一息差し挟んだ。
「うれしいときも、苦しいときも、健やかなときも病めるときも、いつもあなたに誠実でいて、人生のすべての日においてあなたを愛し、敬うことを誓います。」
先ほど言葉を述べたイルーゾォに代わって今度は私が口を開いた。新郎、誓いますか?身体を向き合わせ、真正面から目を見据えながらそう問うと、彼は先の私と同じように一呼吸入れ、「誓います」とその音の分だけ喉を震わせた。
そうして、ならばこれは覚えているかとでも言うような笑みを浮かべ、やや仰々しいとも云える立ち居振舞いで私の左手を取る。次いで己のものよりも随分と大きく、また節くれだった手は、搦め捕った薬指に知覚できない何かを嵌めるような動作を行った。
其処に収められたそれは、私とイルーゾォにしか見えない誓いであった。彼はそんな私の薬指を心底いとおしげにするり、と繰り返し撫で上げた。少しの力も感じさせず、這わせられるそれは彼の円かな心の内を如実に表しているようであり、私は其処からもたらされる心地好い感覚にただ身を委ねた。
「私ね、小さいときお嫁さんになりたかったんだ」
ふつふつと湧き上がる高揚感そのままに、ふと思い起こされた幼き日の記憶を何とはなしに溢した。すっかり埃を被ってしまった思い出に、イルーゾォはほんの一瞬、目を凝らさなければ分からない程度に目を丸くすると、何を言うかと思えば「悪くねえな」とただ目元を緩めた。
私はそれに対し、自身の唇を食んで弧を描かせた。
明日は幸いなことに休みだ。昨日ようやく、いつか見よう見ようと思っていた一昔前に流行った恋愛映画を借りてきたのだ。明日はそれを見よう。次に訪れる、昼も盛りになった頃の予定を思い描き、窄めた目をゆっくりと閉じた。
昔の私は童話に出てくるお姫様が着るようなきらびやかなドレスと神様の居るチャペル、今まで食べたこともないような食べきれないほどのご馳走を望んでいた。けど、今の私はそんなもの、本当はいくつ欠けていたっていいんだよ。
きらびやかなドレスなんか今使ってるちょっとボロいシーツでいい。こう言ってはなんだけど、チャペルなんかより日の光が良く当たる普段食卓を囲んでいる位置の方が余程素敵だと思う。食べたことのないようなものもいらない。食べきれないほどじゃあ困るからちょっと足りないくらいがいいのかもしれない。私もあなたも料理はあまり上手ではないから、少し遠いけど美味しいって評判のデリでいつもより少しだけ豪勢にお買い物をしましょう。
私のドレスは古ぼけたシーツだから、あなたのスーツもパジャマでいいのよ。かしこまった雰囲気は苦手だから、ちょっと気の抜けているくらいが一番。
あと、これをパーパやマンマに言えばきっと怒られるでしょうけど、私は別に神様に誓わなくたっていいとさえ思ってる。だって、私たちの愛は私たちに対して誓うものだから。他の誰にだって誓うものじゃあないでしょう。
あなたはそんなに甘いものが好きではないから、ケーキはどうしましょうね。私も、あまり甘いものは得意じゃない。生クリームとか、特にね。
昔、いよいよ関係も終わりかってくらいの大喧嘩をしたとき、普段は先に折れる私が意地でも折れないものだから珍しくあなたが私のご機嫌とりにトルテを買ってきてくれたでしょう。特別なのは生クリームだけど、元々そういった類いのものはほとんど食べないし、何より得意じゃないから私本当はあまり食べたくなかった。でも大きな身体を縮こめて不安そうにこちらを見るあなたを、ここですげなくしてしまうことを考えたら何だかとても不憫で。あのときは私の嗜好なんか良く知りもしなかったものだから、女には甘いものという甘っちょろい考えの下、可哀想なくらい似合わないケーキ屋で一人吟味したのかと思ったら私は何も言えなかった。本当は開けたくもない口を開けて、これを端正こめて作ったであろう見ず知らずのパティシエさんに対するお礼を唱えながら食べたの。きっと、好きな人からしたらとても美味しいものだろうけど、なんたって私は好きじゃない人のほうだから、正直味は良く分からなかった。地面にキス、は流石にちょっと嫌だけどとにかく謝りたい気分だった。端正こめて作った見ず知らずのパティシエさんに申し訳が立たなかったから。
だけど、差し迫った状況のせいかな。二度目があるとしたら、このトルテだけだなぁ、とあのときの私は思った。だから、あなたが良ければ、それがいいと思う。でももう1ホールは多いから、1ピースずつ、ね。
私はもう子供じゃないから、本当は式なんか挙げなくたって平気だよ。型にはまった形を取らなくたって、それこそあなたの"お嫁さん"なんていう冠じみたものが無くたって、別に私はいいよ。子供じゃあ、ないから。
子供じゃあないから、あなたがいつになく真面目な顔をして私の薬指を撫でる理由も分かってしまうし、普段あれだけカミサマなんかいやしないと弁じているのにその神様が説いた教えを一言一句唱えることが出来るのは何故なのか、ということに浅ましくも期待をしてしまう。
でもそれと同時に。あなたの姿とその僅かな光を落とす相貌に、やわらかな夜陰とそれと、自分でも理由は分からないけれど、もう私なんかの手では触れることは叶わないほど遠いところでがんじがらめに絡みついた深いあきらめにも似たものをほんの一片ながら感じ取ってしまっていて、それを思うと私は不思議と泣いてしまいたくなる。
私はあなたが何処の出身か知らない。何処で何をしているのかも、何も知らない。知っているのは、さして執着しているわけでもないのにたまに懐から取り出される煙草の銘柄くらい。 だけど、それくらいは分かる。私は、私と一緒に居るときの僅かばかりのあなたしか知らないけど、それでも分かる。どれだけ、そしてどれほどの互いの時間を重ね合わせたと思っているの。
でも、そんな風に責め立てるような真似をしたとして、私があなたの不意に覗く一面に気がついているように、その上で私が頑なにあなたの素性に踏み込もうとはしない理由になど、あなたはきっととうに思い至っているのでしょうね。
本当は恋愛映画なんか好きでもなんでもなかったし、寧ろ嫌いだった。二人の行く末が鮮やかに彩られるものだとしても、白黒の海に沈みゆくものだとしても、角が立たないよう、釣り合いが保たれるように結末を迎えさせられるところが特に嫌いだった。
上辺ばかりの美しさを象り、表面に浮かび上がる都合の良さのみを求めるそれらが全てならばどれだけ良かったことか。でも本当にそれらだけで全て事足りてしまうならば、私たちはこんなにも足踏みをしないだろうし、歩を進めることを恐れたりしない。何より不変が貴ばれこともなかったのだろう。
もしも、もしもの話だ。私が何の臆面もなく、みっともなく泣き縋ってしまえるような女であったならば、何かしら異なる道筋が見据えられたのだろうか。そのとき、イルーゾォは応えてくれるのだろうか。
しかし、それはあくまで仮定の域を出ない世迷い言だ。それこそ私が自身のために追い求めた都合の良い代物でしかない。そもそもの話、何を夢想しようが何に思いを巡らそうが、所詮白日夢にしか成り得ないのだ。愚かしいほどの不毛。意味など無い。成しようもない。でも、それは決して悲しいことではない。
悲しいことなど、はじめから有りはしない。この世とはすべからくそのように在るものだ。
それを私に教えてくれたのは他ならない彼だった。
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