てんごくじごくおおじごく
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(※現パロ)
(※メローネと名前の無い男との関係を示唆する表現を含みます)
正しさなんていうものは所詮虚像でしかない。
正しさ、というものはいつだってその輪郭だけを見せ、実際には存在しない身体で私たちの目を眩ませる。そして惑わすのだ。
正しさが見せるのはおぼろげな輪郭のみであり、その中身、つまり正体については影も形も見せない。何故ならそれが、各個人の判断に委ねられたものだからだ。
各々が好き勝手にその姿形を創造し得る、個人の数だけ存在する不確かなものを虚像以外の一体何だというのか。
つまり、正しさを象るただ一つの存在、そんなものはこの世の何処であろうと存在しようが無いのである。
少し昔話をしようと思う。
突然であるが、私には幼なじみがいる。その幼なじみの名前はメローネ。隣家に住まう私より五つほど年上の男であり、有り体にいえば隣の家のお兄ちゃん、というやつであった。
幼なじみと名のつく通り、彼と私の交流は私がまだ今よりずっと幼い頃より始まった。
気性も穏やかで、何より幼いながらに自分よりさらに幼い子供にも愛想良く接することの出来る彼に、自分で言うのもなんだが人見知りのしない私がなつくのにそう長くは掛からなかった。それまでの過程やなついて間もないときのことは、まだ幼かったということもあり私自身はほとんど覚えていなかったが、当時舌っ足らずに彼の名前を呼んで後をついてまわり、しきりに遊んでほしいとせがんでいた、ということはふと尋ねたとき母が教えてくれたので知っていた。
そんな時代を経て、流石に幼少時のように何処でも彼の後をついてまわるということは無くなったものの、小学校に上がってからもよく部屋を訪ねに行っていた。
私が着々と少女への階段を上っているように、彼もまた青年への階段を上っていたが、彼は私とは異なり、これまでと接し方を変えるようなことはしなかった。幼い時分と同じように、私が求めた分だけその都度彼は応えてくれた。
覚えている限りでいっとう古い記憶ではまだやや丸みの残っていた輪郭も、丸みの剥げた精悍さの先立つものへと変わろうとしていたし、またその顔立ちそのものも既に随分と大人びた印象を抱かせるものとなっていた。
私よりずっと背が高い点は変わりなかったが、その差は広がるばかりで、幼さゆえに頼りなさの残る私との身体つきの違いはより顕著なものとなっていった。
日を追うごとに知らない人間のようになっていく彼に対し私は幼心に不安を覚えたが、その実変わるのは見た目ばかりであり、彼を彼たらしめる内面そのものは毛ほども変わってはいなかった。
少しの変化もない、というのは流石にあり得ないため、彼だって同年代の少年少女と同じようにそれなりに変わった部分があったろうが、私にとって最も重要である自身に対する接し方はあの頃と些とも変わらなかったのである。
彼は、まだ私が何をするにも一人ではおぼつかなかった頃から何ら変わらず優しいままだった。
それが今まで途切れることなく続いてきたように、これからもそうであるとあの頃の私は盲目にも信じきっていた。
それが正しいと、まるで自明の理だとばかりに心の底から信じていたのだ。
優しい、はずだった。少なくとも過去、そうであったことは覆しようの無い事実だ。
だが、それの何処から何処までが真実で、何処から何処までが欺瞞であるのか、私には皆目見当もつかなかったのだ。
それは私が彼に対し盲目であったが故であり、私が犯した最大の過ちだった。
思えば私の犯した過ちは全て、盲目に起因するのかもしれない。
優しいはずだった。変わらない、はずだった。何もかもが。
一体何処で歯車が狂ったのか、自身と彼が関係を分かつこととなった決定的な要因たる出来事しか知り得ない私は、真に理解しなければならない彼の抱える根幹を悟ることが未だ出来ないでいた。
きっと、信じていたのは私だけだったのだ。
校門をくぐって程なく認めた心当たりの有りすぎるあまりに特徴的な見た目の年上の男に、嫌な顔を隠しもせず眉間にしわを寄せてみせた私を、ほぼ無理矢理に物々しい二輪車の後ろに乗せた彼の横顔を見つめながら、私は漠然とそう思った。
此方の様子なんかお構い無しにヘルメットを押しつけた彼が、私を連れてやって来たのは家の方向とはまるで反対に位置する何ともファンシーなクレープ屋だった。
一体何処へ向かうつもりなのかと内心身を縮こめていたところ、連れてこられたのが此処だ。思わず拍子抜けした私に気づいているのかいないのか、何がいい?と事も無げに問うてきた彼に恨みがましい視線をぶつけつつ、愛想の良い若い店員に手渡されたメニューに目を通した。一通り商品名を眺め、その後にチーズピザとだけ言う。そんな私のふてぶてしいにも程がある言い草に、彼は咎めるような真似はしなかった。何も言わずあの人当たりの良い笑みを浮かべると、男は私に背を向け、ゆるやかな足取りで注文口へと向かった。注文口よりのびる列の最後尾につけたその背中を暫し見つめ、私も彼の姿に背を向けた。
人が多いから、ぼんやりしていたらきっとベンチも埋まってしまうだろう。
そこではたと、当たり前のように誰も座っていない二人掛けのベンチを探している自分に気がつき、忌々しげに奥歯を噛んだ。噛みしめたことで破れた其処からぷつりと一筋流れ出る苦汁を、自らを戒めるように唾と共に飲み込んだ。そうして拭い去ったはずの思考であったが、そんな私の所思とは裏腹にそれは図々しくもこの脳中に居座ることを決めたらしい。嗚呼、何と苦々しい忌々しいことか。
でも、何より忌々しいのはわざわざ棘を突き立てるような真似をし、自身の思考を蝕み続けるあの男だ。
これではまるで毒だ。
このような行為を繰り返すのは罪滅ぼしでもしているつもりなのか、と脳髄に嫌というほどに焼き付いたあの男の記憶を幾度となく灼いた。
だがこの行為が到底罪滅ぼしなどとは呼べないものであり、男の欲を満たすためだけの悪趣味極まりない行いであること、私の良いように動くことこそが私がこの行為に付き合うことに対するささやかな駄賃であることに、私はとうに気づいていた。
私はこの、メローネという男が嫌いだった。
昔はこんなじゃあなかったのにな、とふとメローネは他人事のように思った。
自分で言うのも何だが、なまえにはそれなりになつかれてはいた。それは確かだ。在りし日の彼女はオレの姿を丸い目に認める度に毎度毎度飽きもせずオレの名前を幼子特有のソプラノで呼び、短い足で懸命に後をついてきた。その姿はややおぼろげながらも、思い起こすことは今でも容易に出来る。
幼いその子はオレの姿を認めたとあれば、いつだって頬を緩め歯を見せた。今のような口唇を固く引き結んだ仏頂面など、あの頃のオレは想像すらしなかったことだろう。
自身となまえとを結ぶ記憶を紐解きながら、いつからかとメローネは考えてはみたものの、とうの昔に出ている答えについて考えてみたとして今更得られるものなどあるはずもなく、その行為は無意味に等しかった。
「キミは、オレに冷たくなったよな」
お兄さん寂しい、とわざとらしい調子でわざとらしい文言を吐いた彼に、隣のなまえは分かりやすく眉をひそめ、不快感を顕にした。
作りたての熱の引かないクレープをはふはふと小さく噛み千切っていた口の端が下がっていく。じっとりとねめつけるように寄越された二つの眼からは冷え冷えとした陰鬱さが手に取れた。手のひらの陰鬱さを眺め、彼女の内に宿るあの日から消えることのない焔を捉えたメローネは目尻を下げた。
「……また、わざとやってるんですか」
それは問いかけの形こそ保っていたものの、その実彼女が言葉に秘めた事実を反芻するためのものであり、決して目の前のメローネに向けられたものではなかった。
ただ、それはなまえに問うつもりが無いというより、彼女が彼にまともな返答を期待しても無駄だと踏んでいるが故のことと言ったほうが正しかった。
うん?とメローネがわざと理解の及ばないフリをすると、なまえは苦虫を噛み潰したような顔で薄く唇を動かした。
「あなたが、私の好きな人だって知ってて、あのひとに面白半分で手を出したからでしょ、」
ある日を契機に使われるようになった他人行儀な言葉遣いで、苦々しくも何処か物悲しげに言い放ったなまえは、耐えきれないとでも云うように視線を斜め下に置いた。
メローネは、血縁の者以外で彼女がまだ少女にも満たない齢より交流を続けている数少ない人間の一人であった。
人見知りをせず、幼子にしか持ち得ない愛らしさを存分に振り撒くなまえが、自分の相手をしてくれる彼になつくのにそう長くは掛からず、彼もまたそんな彼女を気に入っていた。なまえが手を伸ばせばそれに応え、幼いながらも彼なりに可愛がっていた。
だからこそ、彼女が余りある幼さを成長の過程で少しずつ脱ぎ捨てていっても尚、変わらず良好な関係を保っていたのだ。それは彼のこれまで積み重ねてきた彼女への行いに対する正当な評価によるものであった。
しかしそんな安寧はメローネのある行いにより唐突に全ての終わりを迎え、さながら砂上の楼閣のように実に呆気なく崩壊した。
事の次第は先程彼女が苦々しく吐き出した言葉に集約されている。
なまえはいつ頃かメローネがよく行動を共にしていた者に好意を寄せていた。
彼女にとって、それは初めて明確に意識された恋だった。
それを、幼なじみの少女が自身の友人に淡い恋心を抱いていることを知った上で、なまえ曰くメローネは面白半分で友人、詰まるところ彼女が恋慕う相手に手を出した。
かくしてなまえの初恋は他ならないメローネの手によって打ち砕かれ、さらに泥濘へと打ち捨てられた。残ったのは泥にまみれ、見る影も無くなった恋を胸に慟哭に喘ぐ一人の少女だけであり、これがなまえとメローネを分かつ最大にして唯一の要因である事の顛末だった。
メローネが彼女が思いを寄せる相手に手を出したことは真実だ。覆しようのない事実であり、また彼も覆すつもりなど毛頭なかった。
ただ、一つ言うべきことがあるとすれば、彼は何も面白半分などという浅はかな理由で手を出したわけではなかった。
メローネはなまえが少女という未成熟なさなぎから孵化し、一人の女として姿を新たにすることに対し、言い様と逃れようのない不快感を抱いていた。
彼はなまえ、彼女が自身の友人である男の前ではその少女性を捨て去りつつあることに彼女当人が自覚するよりずっと早くそれに気がついていた。
まだいじらしさを残す、輪郭がなぞれるかどうかといったところの不完全なものではあったが、なまえはとうにメローネの過去に生きるあの子ではなくなってしまっていた。
あの男の前では僅かに媚びるような滑らかさを持つ彼女の声音に気づいたあのとき、メローネはなまえをひどく冷えた視線で遠くに眺めた。
何も幼いままであれと言っているのではない。
ただ、メローネにはなまえが一人の女として羽化することがどうしても耐え難いことに思えてならなかった。
何としてでもその羽は引き千切らなくてはならない、成熟への過程を終える前に、彼女が事の全容を理解できないうちに、メローネは持ち前の冷静さを保ちながらも確かな焦燥感に駆られていた。
そうして彼は、あまりに身勝手な考えのためになまえが恋慕する男にちょっかいをかけた。男は彼の友人と云える者であったが、メローネにとってそんなことは些末なことに他ならなかった。
全てはあの子の目を反らすため。
それが果たせるならば、メローネはどんな泥をかぶることになろうと構わなかった。
たとえ、自身と彼女の聖域であるあの美しい思い出を犠牲にすることになろうとも。
メローネは制服に包まれたなだらかな背中を惜しげもなく晒す彼女に視線を投げながら、何と愚かしい子なんだと思った。
未だに美しい思い出を美しい思い出のままに守ろうとしているところも、自身のような男への情を捨てきれないままでいるところも、過去の亡霊にすがられ口汚く罵ることもはきだめへ打ち捨てることも出来ないでいるところも、その何もかもが愚かで、形容しがたいほどに愛らしく好ましいようにメローネの目には映った。
彼女の孵化を許しはしないのはメローネ個人の価値観の押しつけだ。
彼女は彼のために思い出に裏切られ、初めての恋に傷つけられ、後に引くことも許されないまま今もこうして縛られている。
自身を縛り続けるそれに隠された自分と彼という男の確執の深くに眠る真実を知ったとき、なまえが何を思い、そしてどのような行動に出るのか。夢想したメローネは自身の口端が無意識に上がるのを感じた。
自身に向けられる薄ら濁った彼の瞳に気がつく頃にはきっと、なまえはメローネ本人でさえ知り得ない彼の奥底に根を張る彼女に対しての感情に触れ、全てを理解できることだろう。そんな予感がメローネの中では暗く渦巻いていた。
正しさなんていうものは所詮虚像だ。
私にとって、このメローネという男は正しさからは程遠い男だ。
だが、当人にしてみればその限りではないだろう。彼が自分自身の行いを正しいと論ずるかどうかは彼の真意を理解し得ない限り、他人である私には判断の下しようが無いのが実情であるが。ただこの世の中には正しいことを正しいこととして行う者がいる一方で、正しくないことを正しくないこととして行う者もいる。彼は前者でもあり、後者でもあり、はたまたそのどちらでもない男だ。私と思考の方法そのものに決定的な違いがある以上、その正しさは不透明で不定形だ。
結局、その程度なのだ。個人によって形を変えるものを果たして信用などしていいものか。それは否だ。
個人の数だけ存在し、それぞれ影も形も異なるそれを一体誰が理解し得るというのか。
はじめから、誰にも正しさの正体など分かりっこないのだ。
私も、またメローネでさえも、その限りだ。
(※メローネと名前の無い男との関係を示唆する表現を含みます)
正しさなんていうものは所詮虚像でしかない。
正しさ、というものはいつだってその輪郭だけを見せ、実際には存在しない身体で私たちの目を眩ませる。そして惑わすのだ。
正しさが見せるのはおぼろげな輪郭のみであり、その中身、つまり正体については影も形も見せない。何故ならそれが、各個人の判断に委ねられたものだからだ。
各々が好き勝手にその姿形を創造し得る、個人の数だけ存在する不確かなものを虚像以外の一体何だというのか。
つまり、正しさを象るただ一つの存在、そんなものはこの世の何処であろうと存在しようが無いのである。
少し昔話をしようと思う。
突然であるが、私には幼なじみがいる。その幼なじみの名前はメローネ。隣家に住まう私より五つほど年上の男であり、有り体にいえば隣の家のお兄ちゃん、というやつであった。
幼なじみと名のつく通り、彼と私の交流は私がまだ今よりずっと幼い頃より始まった。
気性も穏やかで、何より幼いながらに自分よりさらに幼い子供にも愛想良く接することの出来る彼に、自分で言うのもなんだが人見知りのしない私がなつくのにそう長くは掛からなかった。それまでの過程やなついて間もないときのことは、まだ幼かったということもあり私自身はほとんど覚えていなかったが、当時舌っ足らずに彼の名前を呼んで後をついてまわり、しきりに遊んでほしいとせがんでいた、ということはふと尋ねたとき母が教えてくれたので知っていた。
そんな時代を経て、流石に幼少時のように何処でも彼の後をついてまわるということは無くなったものの、小学校に上がってからもよく部屋を訪ねに行っていた。
私が着々と少女への階段を上っているように、彼もまた青年への階段を上っていたが、彼は私とは異なり、これまでと接し方を変えるようなことはしなかった。幼い時分と同じように、私が求めた分だけその都度彼は応えてくれた。
覚えている限りでいっとう古い記憶ではまだやや丸みの残っていた輪郭も、丸みの剥げた精悍さの先立つものへと変わろうとしていたし、またその顔立ちそのものも既に随分と大人びた印象を抱かせるものとなっていた。
私よりずっと背が高い点は変わりなかったが、その差は広がるばかりで、幼さゆえに頼りなさの残る私との身体つきの違いはより顕著なものとなっていった。
日を追うごとに知らない人間のようになっていく彼に対し私は幼心に不安を覚えたが、その実変わるのは見た目ばかりであり、彼を彼たらしめる内面そのものは毛ほども変わってはいなかった。
少しの変化もない、というのは流石にあり得ないため、彼だって同年代の少年少女と同じようにそれなりに変わった部分があったろうが、私にとって最も重要である自身に対する接し方はあの頃と些とも変わらなかったのである。
彼は、まだ私が何をするにも一人ではおぼつかなかった頃から何ら変わらず優しいままだった。
それが今まで途切れることなく続いてきたように、これからもそうであるとあの頃の私は盲目にも信じきっていた。
それが正しいと、まるで自明の理だとばかりに心の底から信じていたのだ。
優しい、はずだった。少なくとも過去、そうであったことは覆しようの無い事実だ。
だが、それの何処から何処までが真実で、何処から何処までが欺瞞であるのか、私には皆目見当もつかなかったのだ。
それは私が彼に対し盲目であったが故であり、私が犯した最大の過ちだった。
思えば私の犯した過ちは全て、盲目に起因するのかもしれない。
優しいはずだった。変わらない、はずだった。何もかもが。
一体何処で歯車が狂ったのか、自身と彼が関係を分かつこととなった決定的な要因たる出来事しか知り得ない私は、真に理解しなければならない彼の抱える根幹を悟ることが未だ出来ないでいた。
きっと、信じていたのは私だけだったのだ。
校門をくぐって程なく認めた心当たりの有りすぎるあまりに特徴的な見た目の年上の男に、嫌な顔を隠しもせず眉間にしわを寄せてみせた私を、ほぼ無理矢理に物々しい二輪車の後ろに乗せた彼の横顔を見つめながら、私は漠然とそう思った。
此方の様子なんかお構い無しにヘルメットを押しつけた彼が、私を連れてやって来たのは家の方向とはまるで反対に位置する何ともファンシーなクレープ屋だった。
一体何処へ向かうつもりなのかと内心身を縮こめていたところ、連れてこられたのが此処だ。思わず拍子抜けした私に気づいているのかいないのか、何がいい?と事も無げに問うてきた彼に恨みがましい視線をぶつけつつ、愛想の良い若い店員に手渡されたメニューに目を通した。一通り商品名を眺め、その後にチーズピザとだけ言う。そんな私のふてぶてしいにも程がある言い草に、彼は咎めるような真似はしなかった。何も言わずあの人当たりの良い笑みを浮かべると、男は私に背を向け、ゆるやかな足取りで注文口へと向かった。注文口よりのびる列の最後尾につけたその背中を暫し見つめ、私も彼の姿に背を向けた。
人が多いから、ぼんやりしていたらきっとベンチも埋まってしまうだろう。
そこではたと、当たり前のように誰も座っていない二人掛けのベンチを探している自分に気がつき、忌々しげに奥歯を噛んだ。噛みしめたことで破れた其処からぷつりと一筋流れ出る苦汁を、自らを戒めるように唾と共に飲み込んだ。そうして拭い去ったはずの思考であったが、そんな私の所思とは裏腹にそれは図々しくもこの脳中に居座ることを決めたらしい。嗚呼、何と苦々しい忌々しいことか。
でも、何より忌々しいのはわざわざ棘を突き立てるような真似をし、自身の思考を蝕み続けるあの男だ。
これではまるで毒だ。
このような行為を繰り返すのは罪滅ぼしでもしているつもりなのか、と脳髄に嫌というほどに焼き付いたあの男の記憶を幾度となく灼いた。
だがこの行為が到底罪滅ぼしなどとは呼べないものであり、男の欲を満たすためだけの悪趣味極まりない行いであること、私の良いように動くことこそが私がこの行為に付き合うことに対するささやかな駄賃であることに、私はとうに気づいていた。
私はこの、メローネという男が嫌いだった。
昔はこんなじゃあなかったのにな、とふとメローネは他人事のように思った。
自分で言うのも何だが、なまえにはそれなりになつかれてはいた。それは確かだ。在りし日の彼女はオレの姿を丸い目に認める度に毎度毎度飽きもせずオレの名前を幼子特有のソプラノで呼び、短い足で懸命に後をついてきた。その姿はややおぼろげながらも、思い起こすことは今でも容易に出来る。
幼いその子はオレの姿を認めたとあれば、いつだって頬を緩め歯を見せた。今のような口唇を固く引き結んだ仏頂面など、あの頃のオレは想像すらしなかったことだろう。
自身となまえとを結ぶ記憶を紐解きながら、いつからかとメローネは考えてはみたものの、とうの昔に出ている答えについて考えてみたとして今更得られるものなどあるはずもなく、その行為は無意味に等しかった。
「キミは、オレに冷たくなったよな」
お兄さん寂しい、とわざとらしい調子でわざとらしい文言を吐いた彼に、隣のなまえは分かりやすく眉をひそめ、不快感を顕にした。
作りたての熱の引かないクレープをはふはふと小さく噛み千切っていた口の端が下がっていく。じっとりとねめつけるように寄越された二つの眼からは冷え冷えとした陰鬱さが手に取れた。手のひらの陰鬱さを眺め、彼女の内に宿るあの日から消えることのない焔を捉えたメローネは目尻を下げた。
「……また、わざとやってるんですか」
それは問いかけの形こそ保っていたものの、その実彼女が言葉に秘めた事実を反芻するためのものであり、決して目の前のメローネに向けられたものではなかった。
ただ、それはなまえに問うつもりが無いというより、彼女が彼にまともな返答を期待しても無駄だと踏んでいるが故のことと言ったほうが正しかった。
うん?とメローネがわざと理解の及ばないフリをすると、なまえは苦虫を噛み潰したような顔で薄く唇を動かした。
「あなたが、私の好きな人だって知ってて、あのひとに面白半分で手を出したからでしょ、」
ある日を契機に使われるようになった他人行儀な言葉遣いで、苦々しくも何処か物悲しげに言い放ったなまえは、耐えきれないとでも云うように視線を斜め下に置いた。
メローネは、血縁の者以外で彼女がまだ少女にも満たない齢より交流を続けている数少ない人間の一人であった。
人見知りをせず、幼子にしか持ち得ない愛らしさを存分に振り撒くなまえが、自分の相手をしてくれる彼になつくのにそう長くは掛からず、彼もまたそんな彼女を気に入っていた。なまえが手を伸ばせばそれに応え、幼いながらも彼なりに可愛がっていた。
だからこそ、彼女が余りある幼さを成長の過程で少しずつ脱ぎ捨てていっても尚、変わらず良好な関係を保っていたのだ。それは彼のこれまで積み重ねてきた彼女への行いに対する正当な評価によるものであった。
しかしそんな安寧はメローネのある行いにより唐突に全ての終わりを迎え、さながら砂上の楼閣のように実に呆気なく崩壊した。
事の次第は先程彼女が苦々しく吐き出した言葉に集約されている。
なまえはいつ頃かメローネがよく行動を共にしていた者に好意を寄せていた。
彼女にとって、それは初めて明確に意識された恋だった。
それを、幼なじみの少女が自身の友人に淡い恋心を抱いていることを知った上で、なまえ曰くメローネは面白半分で友人、詰まるところ彼女が恋慕う相手に手を出した。
かくしてなまえの初恋は他ならないメローネの手によって打ち砕かれ、さらに泥濘へと打ち捨てられた。残ったのは泥にまみれ、見る影も無くなった恋を胸に慟哭に喘ぐ一人の少女だけであり、これがなまえとメローネを分かつ最大にして唯一の要因である事の顛末だった。
メローネが彼女が思いを寄せる相手に手を出したことは真実だ。覆しようのない事実であり、また彼も覆すつもりなど毛頭なかった。
ただ、一つ言うべきことがあるとすれば、彼は何も面白半分などという浅はかな理由で手を出したわけではなかった。
メローネはなまえが少女という未成熟なさなぎから孵化し、一人の女として姿を新たにすることに対し、言い様と逃れようのない不快感を抱いていた。
彼はなまえ、彼女が自身の友人である男の前ではその少女性を捨て去りつつあることに彼女当人が自覚するよりずっと早くそれに気がついていた。
まだいじらしさを残す、輪郭がなぞれるかどうかといったところの不完全なものではあったが、なまえはとうにメローネの過去に生きるあの子ではなくなってしまっていた。
あの男の前では僅かに媚びるような滑らかさを持つ彼女の声音に気づいたあのとき、メローネはなまえをひどく冷えた視線で遠くに眺めた。
何も幼いままであれと言っているのではない。
ただ、メローネにはなまえが一人の女として羽化することがどうしても耐え難いことに思えてならなかった。
何としてでもその羽は引き千切らなくてはならない、成熟への過程を終える前に、彼女が事の全容を理解できないうちに、メローネは持ち前の冷静さを保ちながらも確かな焦燥感に駆られていた。
そうして彼は、あまりに身勝手な考えのためになまえが恋慕する男にちょっかいをかけた。男は彼の友人と云える者であったが、メローネにとってそんなことは些末なことに他ならなかった。
全てはあの子の目を反らすため。
それが果たせるならば、メローネはどんな泥をかぶることになろうと構わなかった。
たとえ、自身と彼女の聖域であるあの美しい思い出を犠牲にすることになろうとも。
メローネは制服に包まれたなだらかな背中を惜しげもなく晒す彼女に視線を投げながら、何と愚かしい子なんだと思った。
未だに美しい思い出を美しい思い出のままに守ろうとしているところも、自身のような男への情を捨てきれないままでいるところも、過去の亡霊にすがられ口汚く罵ることもはきだめへ打ち捨てることも出来ないでいるところも、その何もかもが愚かで、形容しがたいほどに愛らしく好ましいようにメローネの目には映った。
彼女の孵化を許しはしないのはメローネ個人の価値観の押しつけだ。
彼女は彼のために思い出に裏切られ、初めての恋に傷つけられ、後に引くことも許されないまま今もこうして縛られている。
自身を縛り続けるそれに隠された自分と彼という男の確執の深くに眠る真実を知ったとき、なまえが何を思い、そしてどのような行動に出るのか。夢想したメローネは自身の口端が無意識に上がるのを感じた。
自身に向けられる薄ら濁った彼の瞳に気がつく頃にはきっと、なまえはメローネ本人でさえ知り得ない彼の奥底に根を張る彼女に対しての感情に触れ、全てを理解できることだろう。そんな予感がメローネの中では暗く渦巻いていた。
正しさなんていうものは所詮虚像だ。
私にとって、このメローネという男は正しさからは程遠い男だ。
だが、当人にしてみればその限りではないだろう。彼が自分自身の行いを正しいと論ずるかどうかは彼の真意を理解し得ない限り、他人である私には判断の下しようが無いのが実情であるが。ただこの世の中には正しいことを正しいこととして行う者がいる一方で、正しくないことを正しくないこととして行う者もいる。彼は前者でもあり、後者でもあり、はたまたそのどちらでもない男だ。私と思考の方法そのものに決定的な違いがある以上、その正しさは不透明で不定形だ。
結局、その程度なのだ。個人によって形を変えるものを果たして信用などしていいものか。それは否だ。
個人の数だけ存在し、それぞれ影も形も異なるそれを一体誰が理解し得るというのか。
はじめから、誰にも正しさの正体など分かりっこないのだ。
私も、またメローネでさえも、その限りだ。