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「結婚しよ」
無意識のうちに口に出してしまったそれになまえは直ぐ様やってしまった、という後悔の念に襲われた。
彼女のうっかり溢した言葉を受けた男はテーブルを拭く動作そのままに唖然とした様子であんぐりと口を開けた。
今の二人の間には時すら入り込む余地はなく、一瞬にしてその動きを止めた。
男はそのお国柄通り、ことあるごとに彼女に愛の言葉を囁いた。女は真っ直ぐなまでのそれを真正面から受け取りはしたものの、その心は冷え冷えとした泉のように研ぎ澄まされていた。白磁に塗り固められた嘘と捉えたわけでは無かったが、甘い言葉を囁いておきながら同時に自分たちの行く末などの話を頑なに避ける男の行動は女にとっての軽薄さそのものであったのだ。だからといって彼女はそれを責めるような真似はしなかった。まあそうだろうなと提示された答えに一人ただ納得していた。
このメローネという男はこういう男なのだ、一定のラインまでは軽々飛び越えてしまう癖に、あと一歩のところで引いてしまう。何も考えていないように振る舞っておきながら、結局全て計算ずくなのだ。そんなメローネの性質を理解し、何も言わずに嚥下した彼女は野暮なことは言わなかった。彼に倣い、恋人という関係における日々に何も知らないフリをして甘えた。
だから、これが最初で最後の野暮だなとなまえは心の何処かで思った。たった一度のたった一言は、このぬるま湯のような関係にひびを入れるには充分過ぎるものであったのだ。
なまえはメローネが決して越そうとしなかったラインの先に足を踏み入れてしまった。
揺れるグリーンアイズに、堪らず彼女は目を反らすように目線を下に向けた。
ただ思考する必要すらない現在を享受していれば良いものを。徐々に降り積もる欲を隠し切れないなどお粗末にも程がある、と反らした視線を自嘲気味に嗤った。
確かに彼女は男の行動を軽薄だと冷えきった理性で判断した。だが何もなまえは囁かれる言葉の真意を理解出来ないほど野暮な人間では無かった。メローネが相手の大事なところに踏み込むことを恐れているのに彼女は気づいていた。それが己の知り得ない彼のこころのやわこい部分にそのわけが隠されていることも。何が原因か知り得ずとも、自身の理性が彼を軽薄だと判断を下そうとも、そのどれもこれもが意味など為さなかった。彼女は何もかもを理解していた。そしてまた何よりメローネを愛していた。
故に後悔の念に襲われた。頭の先から爪の先まで事の次第を理解していながら、このまま未来永劫隠し通すつもりであった思いの丈を滑らせた己を浅はかと云わずして何と云う。
決して踏み込んではならない場所に足を踏み入れてしまった。今此処に在るのはその事実だけであった。
なまえの背を嫌な汗が伝った。今、男がどんな顔をしているのか。それだけは知りたくないと彼女は思った。それを知ってしまえば、止まった筈の時が動き出してしまう、と。
自嘲気味に自身を嗤ったのは本心からであった。だがそれにより湧き上がるこれからへの拭いようのない恐怖心を誤魔化そうとしたのもまた事実であった。指の先を無意味に遊ばせる。先程から男は微動だにもしない。
知りたくないと思いながらももしかしたら、を期待するような大きさを増していく相反する思いに視線は彷徨した。
しかし不意、件の視界の隅の男は手の布巾をぽいと投げ捨てた。
不可解な行動に何事かと思わず少しだけ目線を上げたなまえは、やはりゆらゆらと影法師のように揺らぐ薄緑のそれを捉え、そして囚われた。嗚呼、とぽっかりと開いた口唇が音もなく紡いだ。
可哀想に。打ち捨てられた布巾はその行方を辿られることもなく、最早存在そのものを抹消された。
テーブルの真向かいに居た筈の男に抱きしめられた彼女は不健康そうな身体には見合わない力に蛙が潰れたような声を上げた。それでも男はそんなのは些末なことだと云わんばかりにさらに腕に力を込めた。メローネも、なまえも、全てが閉ざされたような心地だった。
「なまえ」
顔の横を流れる髪がこそばゆい、とナマエは思った。
「うん」
ただそう返事をすると、黙って頬を擦り寄せた。いつの間にか同じシャンプーを使うようになって、己のものと同じ匂いのする髪の毛に彼女はいとおしげに目を細めた。
「なまえ、なまえなまえなまえ」
唱えられる自身を示す名になまえはまた「うん」とだけ言い、口を閉ざした。メローネ、と彼の名前を呼ぼうとしたが、寸でのところで飲み込んだ。
今自分を腕に閉じ込めるメローネの肩が揺れていることに気がついてしまったからだ。思わず胸の底から込み上げてくるそれに彼女は堪らず口唇を力一杯に噛みしめた。
千切れてしまいそうなほどの力であったが、そうでもしなければ耐えられないのだと彼女は何処にも届かない言い訳を心の中で唱えた。
どちらのものともつかない鼻を鳴らす音が部屋に響く。
二人はそれから、年甲斐もなく聞き分けのない子供のようにわんわんと泣き喚いた。
柔らかい日差しに照らされた休日の穏やかな昼下がりのことであった。
無意識のうちに口に出してしまったそれになまえは直ぐ様やってしまった、という後悔の念に襲われた。
彼女のうっかり溢した言葉を受けた男はテーブルを拭く動作そのままに唖然とした様子であんぐりと口を開けた。
今の二人の間には時すら入り込む余地はなく、一瞬にしてその動きを止めた。
男はそのお国柄通り、ことあるごとに彼女に愛の言葉を囁いた。女は真っ直ぐなまでのそれを真正面から受け取りはしたものの、その心は冷え冷えとした泉のように研ぎ澄まされていた。白磁に塗り固められた嘘と捉えたわけでは無かったが、甘い言葉を囁いておきながら同時に自分たちの行く末などの話を頑なに避ける男の行動は女にとっての軽薄さそのものであったのだ。だからといって彼女はそれを責めるような真似はしなかった。まあそうだろうなと提示された答えに一人ただ納得していた。
このメローネという男はこういう男なのだ、一定のラインまでは軽々飛び越えてしまう癖に、あと一歩のところで引いてしまう。何も考えていないように振る舞っておきながら、結局全て計算ずくなのだ。そんなメローネの性質を理解し、何も言わずに嚥下した彼女は野暮なことは言わなかった。彼に倣い、恋人という関係における日々に何も知らないフリをして甘えた。
だから、これが最初で最後の野暮だなとなまえは心の何処かで思った。たった一度のたった一言は、このぬるま湯のような関係にひびを入れるには充分過ぎるものであったのだ。
なまえはメローネが決して越そうとしなかったラインの先に足を踏み入れてしまった。
揺れるグリーンアイズに、堪らず彼女は目を反らすように目線を下に向けた。
ただ思考する必要すらない現在を享受していれば良いものを。徐々に降り積もる欲を隠し切れないなどお粗末にも程がある、と反らした視線を自嘲気味に嗤った。
確かに彼女は男の行動を軽薄だと冷えきった理性で判断した。だが何もなまえは囁かれる言葉の真意を理解出来ないほど野暮な人間では無かった。メローネが相手の大事なところに踏み込むことを恐れているのに彼女は気づいていた。それが己の知り得ない彼のこころのやわこい部分にそのわけが隠されていることも。何が原因か知り得ずとも、自身の理性が彼を軽薄だと判断を下そうとも、そのどれもこれもが意味など為さなかった。彼女は何もかもを理解していた。そしてまた何よりメローネを愛していた。
故に後悔の念に襲われた。頭の先から爪の先まで事の次第を理解していながら、このまま未来永劫隠し通すつもりであった思いの丈を滑らせた己を浅はかと云わずして何と云う。
決して踏み込んではならない場所に足を踏み入れてしまった。今此処に在るのはその事実だけであった。
なまえの背を嫌な汗が伝った。今、男がどんな顔をしているのか。それだけは知りたくないと彼女は思った。それを知ってしまえば、止まった筈の時が動き出してしまう、と。
自嘲気味に自身を嗤ったのは本心からであった。だがそれにより湧き上がるこれからへの拭いようのない恐怖心を誤魔化そうとしたのもまた事実であった。指の先を無意味に遊ばせる。先程から男は微動だにもしない。
知りたくないと思いながらももしかしたら、を期待するような大きさを増していく相反する思いに視線は彷徨した。
しかし不意、件の視界の隅の男は手の布巾をぽいと投げ捨てた。
不可解な行動に何事かと思わず少しだけ目線を上げたなまえは、やはりゆらゆらと影法師のように揺らぐ薄緑のそれを捉え、そして囚われた。嗚呼、とぽっかりと開いた口唇が音もなく紡いだ。
可哀想に。打ち捨てられた布巾はその行方を辿られることもなく、最早存在そのものを抹消された。
テーブルの真向かいに居た筈の男に抱きしめられた彼女は不健康そうな身体には見合わない力に蛙が潰れたような声を上げた。それでも男はそんなのは些末なことだと云わんばかりにさらに腕に力を込めた。メローネも、なまえも、全てが閉ざされたような心地だった。
「なまえ」
顔の横を流れる髪がこそばゆい、とナマエは思った。
「うん」
ただそう返事をすると、黙って頬を擦り寄せた。いつの間にか同じシャンプーを使うようになって、己のものと同じ匂いのする髪の毛に彼女はいとおしげに目を細めた。
「なまえ、なまえなまえなまえ」
唱えられる自身を示す名になまえはまた「うん」とだけ言い、口を閉ざした。メローネ、と彼の名前を呼ぼうとしたが、寸でのところで飲み込んだ。
今自分を腕に閉じ込めるメローネの肩が揺れていることに気がついてしまったからだ。思わず胸の底から込み上げてくるそれに彼女は堪らず口唇を力一杯に噛みしめた。
千切れてしまいそうなほどの力であったが、そうでもしなければ耐えられないのだと彼女は何処にも届かない言い訳を心の中で唱えた。
どちらのものともつかない鼻を鳴らす音が部屋に響く。
二人はそれから、年甲斐もなく聞き分けのない子供のようにわんわんと泣き喚いた。
柔らかい日差しに照らされた休日の穏やかな昼下がりのことであった。
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