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「忍足くんがすきなの」
私もだよ。反射的に口をついて出ようとしたその言葉を諫め、そっと口を閉ざしたことに彼女が気づく日はおそらく訪れないだろう。
十四歳、夏。私はとうとう正式な死亡宣告を明け渡された恋を校舎裏に埋めた。本当は、とうの昔に宣告はなされていた。今の今まで生きながらえさせていたのはひとえに私のわがままだ。無理やり命を繋いでいたが、その中身はとうに息絶えていた。どうにか表面を取り繕い、中身が満たされているように装っていただけに過ぎないことは他ならぬ自身が一番理解している。こうして己を顧みてみると、深い森の奥にいるような心地がした。振り返ることの躊躇われるものに今一度目を合わせた、今がまさにそのときであった。
おおよそ二年前。十三回目の誕生日はまだ迎えていない十二の年の頃。夏休み明けの、そのまた次の日に関東からの転入生として私はこの学校へやって来た。
季節が一つ過ぎたとはいえ、それでも未だ制服に着られていた当時の私の前には心配の種がごろごろと転がっていた。それは例えば慣れない西のお国言葉であったり、入学したてのまっさらさならばまだしも数か月の期間を共に過ごしすっかり色づいた環境に馴染めるのかであったり、抱いて然るべきものの数々があの時の私の背には重く圧し掛かっていた。いよいよ迎えた転入初日の前夜まで当然の如く布団に潜ってもろくろく眠れず、日に日に大きくなっていった不安はこれまで生きてきた十二年と数か月で最も強い存在感を放っていた。
そうしてとうとうついて回る不安をどうすることも出来ないまま、担任だという教師に言われるままにこれから七か月を過ごすクラスへ足を踏み入れた。一斉に此方を向く眼をすり抜け、どうにかそれらと目を合わせないよう後ろの壁に焦点を合わせる。またしても促されるままに無難に自己紹介をしたが、つかえていなかっただろうか。最も耳馴染み深い己の名前ですらまるで知らない音のようであった。好奇の視線が刺さる。いかにも物珍しい、とばかりに注がれる視線はこのときばかりだとは思っていてもやはり居心地の悪さが先立った。
私の自己紹介を受け、担任の教師が一言二言ばかり発するとそれから、席はあそこだから、と耳慣れないイントーネションで空いている座席を指差した。その指が示した先は窓際の一番後ろの席であった。本来であればあの席は特等席といっても過言ではない場所だが、今は喜びも何もあったものではなかった。
机と机の間をやや身体を縮こませながら通り抜け、与えられた机の椅子を音を立てないよう引く。そこへ腰を下ろし、これでやっと少し気が抜ける、と一つ重苦しく身体の内に溜まっていた息を吐いた。その矢先、未だ力の入ったままの肩を横からつつかれ、弾かれるようにその方向に顔を向ける。
まみえた相手は悪戯っぽい笑みを浮かべており、何処か幼げだというのが先ず以て抱いた印象であった。当人と同様に、所々茶目っ気たっぷりにハネた髪の毛がそんな印象を深めているような気がした。
名前はおろか、それ以前に現下初めて顔を突き合わせた件の男子生徒からの突然の行動に私は戸惑うばかりだった。まだランドセルを背負っていた頃ならば互いの机の境界線など無いに等しかったが、今は違う。六年間の月日、雨の日も風の日もお世話になった背中のそれを下ろして久しくなりつつある今日日、両者の間にはおよそ人一人分の溝がある。彼はそんな割れ目をものともせず、その場から少し身を乗り出すことであっさり越えてきた。
「俺、忍足謙也!困ったことがあったら何でも言うてや!」
声音が纏った朗らかさは、滲み出る雰囲気によく似合っていた。教壇からの声に配慮し、幾らか声を潜めているのだろう。此方をまっすぐ見据える眼は一対であるからか、そこのところは判然としなかったが壇上に立った際に向けられた各々の眼差しに対し感じたような居心地の悪さは無かった。また正視すればするほど吸い寄せられるようで、喩えは悪いがそれは進退窮まった際の気分に似通っていた。けれど焦燥感だとか圧迫感だとか、そういったものが湧き上がってくることは一切無く、高揚感に近しいものが胸の奥地でぐるぐると堂々巡りを繰り返していた。
おしたりくん、おしたりけんやくん。どういう漢字で書くんだろう、うわずった気持ちに支配される其処でそれこそ咀嚼するように反芻した。余所事に思考の半分以上を割きながらも、何かしらの反応を返さなくては幾らなんでも失礼に当たると慌ててよろしく、と返す。
すると、私たちのやり取りに気づいたのか担任の教師が「忍足ー、みょうじは逃げへんでー」とからかうような声を上げた。さらにそれを受け、前の席の女子生徒も「わたしが先に声掛けようと思ってたのに」と振り返ってきた。担任の声を皮切りに、教室はあっという間に姦しさに呑まれていく。この空間においては存在が際立つ、同様の減り張りと言葉遣いで挨拶をしてくれた前方の彼女に当たり障りのない言葉を返した。
一時間目は担任教師の受け持つ授業ということで、この後は担任権限で質問攻めにあった。遠方からやって来た者は彼らにとってはやはり物珍しい存在らしい。時折同じ関東出身と思しき彼女と隣の彼のフォローに助けられながらも、彼らの勢いには圧倒されっぱなしであった。遅かれ早かれ当然感じるとは思っていたが、こんな形で地域差を思い知ることになるとは予想だにしていなかった。しかし、彼と面と向かった際に味わったあの高揚感は一体何であったのだろうか。何故こんなにも彼の名前だけを噛み締めてしまうのだろうか。幾ら考えたところで当時の私には答えは得られなかった。当時の私は自身の内に生まれた差異を楽観していた。それが始まりだと知らずに。そう、それが全ての始まりだった。果てを迎えられない地獄の始まりであった。
地獄、とは当然ものの喩えである。実際は黄泉路の方が意味合いとしては近かっただろう。分かりやすいことこの上ないので種明かしも何もないだろうが、私があのとき抱いた高揚感とは恋心の芽であった。自覚は早かった。しかし、まさかそんな初々しい新芽が早々に手折られることになるとは思いもしていなかったが。
新しい環境に馴染めるのかという最大の懸念事項は心配とは裏腹にあっさりと解消された。
この四天宝寺中学というところは全く馴染みのない関西地方であることを抜きにしたとしてなかなか着いていけない部分がある。良くも悪くもその個性的なノリに置いていかれることもしばしばであったが、学校生活そのものはおおむね上手くいっていた。
最初こそ二の足を踏んでいたものだが、地域が異なると云えど年の頃は同じだ。贔屓のテレビ向こうの俳優であったり、帰途につく学生へ誘惑の手を伸ばす甘い匂いであったり、女子中学生の気になるものなど何処へ行こうと大差ない。人間関係が既に形成させた場所では浮いてしまうのではないかと不安は今となっては幸いなことに杞憂であったし、加えて方言の壁もそれほど高いものではなかった。
その代わりといってはなんだが、浮上したのが新たな悩みの種であった。
あのうわずった気持ち、新たな場所にて一も二もなく抱いた恋心。その二つがイコールで結ばれたことは私にとってまさに天啓に打たれたと同義であった。しかしそれは同時に、苦悩の淵に立たすに十分に足るものでもあった。尤も、先頃のものが差し迫った問題であったことに対し、此方は自覚したところでどうというものでもなかった。
この年頃の女子は早熟だと呼ばれるが、ただ丈の余る制服に袖を通し、ついこの間まで名前で呼び合い遊んでいた人と先輩後輩関係になるなど様々なしがらみに囚われるようになっただけに過ぎない。確かに同じ年の頃の男子と比べれば若干聡いだろうが、中身が取り巻く環境の急激な変化に見合った成長を遂げているとは限らないのである。平たく言ってしまえば、その中身はランドセルを背にしていた頃とさほど変わりない。またそれは性別の異なる彼も同様であった。
第一に、彼は相手が誰であろうと優しかった。だがその優しさは色の孕んでいない情から来るものだ。そこに打算は勿論、偽善も絡んではいない。彼が私に対して発揮した優しさは、彼を恋慕う私が本当に欲しいものには成り得なかった。誰が一番でもなく、誰がどうということもなく。当然のように切り分けられる心は彼の人柄そのものであった。
あの日、真っ先に声を掛けてきてくれたことは特別なことでもなんでもない。単に私が見知らぬ環境で右往左往する転入生であったからだ。それ以上でもそれ以下でもない。それより先のものも後のものも見出しようがない。しかしそれで良かった。理由などなんだって良かった。臆病で、一歩を踏み出す勇気の出せない私にはたとえ何が切欠であったとしても、彼が手を差し伸べてくれたというのならそれこそが最良であった。
恋慕の情を燻ぶらせた者にとって、分け隔てなく向けられる優しさとは残酷なものに他ならないだろう。それでも良かった。私は臆病であった。それは早熟であるが故なのか、そもそも己の性質故なのか。いずれにしろ六年間過ごした学び舎を卒業して暫く、この頃になれば否応なく理解させられ、また高い壁として立ちはだかる男女の垣根を未だ軽々飛び越える彼のうぶにも満たぬ幼さが私の未熟な恋心のよすがであった。
彼の内包するやわらかな残酷さを何処か厭いながら、二の足を踏む以前に一歩を踏み出す勇気を出そうともしていない癖に自信がないからと縋る。何も知らない彼を眼に収め、憧憬にも傾慕にもなれない情を描く。
恋心とはいいつつ、これは恋と形容できるほどうつくしいものではなかった。愛には永遠になれなかった。この行いはまるで拙い自慰だった。独りよがりで、私の手の中で延々と続けられるひとり遊びであった。何かしらの状況の変化が訪れない限り、この悪趣味極まりない遊戯は延々と同じ題目を繰り返していたことだろう。
しかし幸か不幸か、この場合は不幸の方に比が傾くが、その遊びは現況の変化により終止符を打たれることとなった。親愛なる友人が、ひそかに私が身勝手な心を寄せていた彼にそれはそれはうつくしい恋心を抱いている、ということを私が知ったことで。
「だからね、その、告白、しようかなって思ってて」
私の仮称恋を手繰る上で欠かせない人物こそが彼女、親愛なる友人であった。彼女は奇しくも、というべきか来るあの日、件の彼の次に迷える転入生に手を差し出してくれた前の席の女子生徒であり、同様に東の出自であろうと考えた彼女であった。
その日の時点ではあくまで予想の段階だったが、その後出身地方の話題になったとき胸算した通り同地方に端緒をなしていること、さらに彼女もまた小学校高学年に入った頃にこの大阪にやって来たことが判明し、私達はすっかり意気投合した。何処か興奮した様子で打ち明けられたとき、張り詰めた心が少し穏やかなものになった。彼女は私の新天地においてのはじめての友人であった。
新たな地で惑うばかりであった私にとって、以前の居場所と近しいものを持つ彼女は水際に戻るための頼みにも似ていた。実際頼みにしていた。テレビの向こうからのものしか耳にしたことのなかった言葉遣いは時に知らない言語のようにも聞こえ、つい先日まで異なる共同体に身を置いていた私はすっかり気後れしてしまっていた。故に馴染み深い抑揚で喋る彼女にはじめの頃は何かと頼りきりで、随分と助けてもらったことは今後も忘れるつもりはない。
そんな前途多難なスタートであったが、勢いに圧倒されっぱなしであった私にもいつしか慣れが生じてきた。おおよその勝手が分かった私は以前のように及び腰になることはなくなり、すっかりこの環境に溶け込んだ。
その矢先だ。順応したことで不格好な情動を煮やすこととなった私にとってはまさに寝耳に水、青天の霹靂であった。その雄弁なる視線に気がついてしまったとき、誰に見せることもない心に通う血の気が失せた。半ば無理やりに味わわされたその感覚は未だ暴力的な青さに身を落とすうちには忘れ去ることなど到底無理な話であろう。
しかし私の立ち竦んだ心は直感的に悟った心境とは裏腹に、其処に走る冷たさに手招かれたかのように妙な落ち着きを保っていた。予想だにしなかったことに直面したということは紛れもない事実であったが、心中を満たしたのはいっそ呆れ返ってしまうほどの閑やかさだった。腹で何を考えようと、結局のところ私は臆病であったのだ。青臭ささえもうつくしさへと変えてしまうような彼女の心を目の当たりにし、怖気づいたのだ。己の拙い情など彼女の前では土に還る。彼女の思慕の念はむしろそれこそが末路に相応しい、とさえ思わせた。恐ろしいことだ。しかし本当に血の気の引く思いを味わうのはここからであった。追い打ちをかけるように明らかになった事実に私は文字通り奈落へと突き落とされることとなった。件の彼もまた、彼女のことを恋うていたのだ。
思えば気がつかないわけがなかった。暇さえあれば眼を向け、募る思いを丁寧に積み重ねていたのだから。そして何より、自身のものと同じだったのだ。ひそかに恋着していた彼は、己が傾けたそれと酷似したものを彼女へと寄せていた。光を当てれば当てるほど、自身にとっては不都合と称すに相応しい事柄が浮き彫りとなっていった。これが事の一切である。こうして、私の恋ともつかぬ何かはあまりにも呆気なく散った。
このとき、諸共花と散れば良かった。しかしそれは叶わなかった。何処までも意気地のない私は思いが死に果てたことを理解していながら、捨て去ることができなかったのだ。そうして挙句の果てには無理くり命を繋いだ。花のように、潔く散ることが叶えばどれほど良かったことか。だが幾ら恥じ入ろうとも、腐りきった実に水をやることを止められなかったというのだから矛盾も良いところだ。所詮私の抱いた自責の念など端からその程度のものでしかなかったのだろう。
はじまりの位置が異なるだけで殆ど同じような境遇にある彼女と自身。二人は何処が異なっていたのか、彼女と私は何が違ったのか。異なる点は上げればきりがなかった。それでも考えることは止められなかった。もし私が先に彼の前に現れていたら、そんな考えに至る度に自己嫌悪に陥った。もしかしたら、もしかしたら。彼女と私は全く違う。そもそも根本を構成するものが違うのだから、たとえはじめに現れたのが私であろうと彼が私に心の大事な部分を明け渡すことはなかっただろう。そんなことは分かっていた。にもかかわらず訪れる筈のない日を夢見、同じようなことばかりに思考を巡らせた。その度にそんな幻想は立ち消えるしかないことを思い知る、その繰り返しだった。思いの成れの果てを打ち捨てることができれば、本当にどれだけ良かったことか。しかしそれが叶うのならば、私はこうは成り果てなかっただろう。彼女と自身の相違の根源は其処にある。だから私は彼女になれなかった。また、永遠になれないのだろう。
しかしそんな演目もここまでだ。万年閑古鳥の鳴く舞台もとうとう幕切れを迎える。幕が開くことはもう二度とないだろう。辿るべき道筋を違えてはならない。彼女の恋路に佇むのは彼一人であって、彼の恋路に佇むのも彼女一人だ。そのどちらにも私は必要じゃない。
転入したての頃は抵抗感で一杯だった制服の裾を握りしめた。彼女がとうとう思いを明け渡そうというのだ。親愛なる友人と、青い思いを捧げた彼がいっぺんに幸いになろうとしている。これ以上のめでたい知らせがあろうか、いや無い。答えは明白だ。彼女が笑む。私がその心をとうに知り得ていたことなど露知らず、恥じらいを見せながら言葉を重ねる彼女は得も言われずかわいらしかった。これが恋なのか、漠然とそう思った。醜さへと行き着いた己とは大違いだ、とも思った。此処が終点だ。これより先には何もない。退くための道筋、逃げ道も最早残されてはいない。私に叶うものは、思考を働かせなくとも想像など容易につく。せめて。せめて、何が彼女の最良足り得るのか、理解しろ。ひりつく舌の根が言詞に見合った動きを模る。
「---ちゃんなら、大丈夫だよ、きっと」
いっておいでよ。口から滑り落ちた言詞はまるで得体の知れない生き物のようだった。目の前の彼女の顔を見るのがどうにも恐ろしく、それを誤魔化すように大したこと言えなくてごめんね、と付け加えると件の彼女は首を振った。そしてありがとう、と。励ましてくれてありがとう、それから私に言って良かった、と。
煮立てられるような、じっとりと暑さが肌を這い回る。喉首を絞められ、じわじわと命を蝕まれているような心地だった。まとわりつく外気とは対照的に、ひどく冷えた笑みが零れる。その冷涼さを悟られたくはなく、己の表情に温度を加えた。
それでも広がり続ける温度差を尻目に、当の彼女は「よーし、なんか勇気が出てきた!」と晴れ晴れしい声を上げた。その翳りの見えなさに羨みを抱いた。誤魔化さずとも、取り繕わずとも、保たれるそれが心底羨ましかった。そんな私をよそに、当たって砕けたら慰めてね、と冗談めかした調子で彼女は言った。きっと、とても緊張しているのだろうなと私は思った。
そうだね、じゃあ次の休みにでも何処か行こうか、と平素の態度を崩さずに答える。「絶対!絶対だからね!」と念を押すように私の手を握った彼女の手は夏らしく少し湿り気を帯びていた。でもそれだけではないのだろう。手品の種明かしでもするように、一つ一つ丁寧に改めて思い知らされていく現実の数々に打ちのめされる。それでも膝を折らないのは、きっと私の最後の意地だ。ちっぽけで、何の意味も為さないものに今の私は生かされている。滑稽だ。逃げ出したい衝動を抑え込み、「うん、約束」と口だけで笑った。目だけが砕けるはずがないのにね、と笑っていた。
私の返答に満足そうな表情を見せた彼女は再び感謝の念を述べ、それから一呼吸置くといってくるね、とこの場を離れ去っていった。みるみるうちに小さくなっていく背中にひら、と手を振る。直にその後ろ姿は斜陽に紛れるように遠くに消えた。其処で私は漸く、上手な息の仕方を思い出せた気がした。湿気をはらみ、すっかり重たくなった空気を大きく吸い込み、次いでその分だけ吐き出す。
さようなら、私の恋にもなれなかった何か。ぐずぐずに腐ったものでありながら、青く、また甘さなど欠片も見出しようのなかった矛盾だらけのそれよ。手向けの花を贈ろう。朽ちることも消え入ることも許されず、今まで眠れなかった分、安心して眠ればいい。今度こそその眠りを脅かす者はいない。死に損ないは今度こそ果てる。また逢う日は訪れない。永久に来なければ良い。それでも、願わくばいつの日か思い出となれるよう。
彼女は私に自身の思いを打ち明けて良かった、と言っていたがそれは大きな間違いだ。彼女は最高の悪手をとった。これが皮肉でないというのだからやりきれない。行き場のない気持ちをどう処理したものか。一つも面白くないのに、あたかも愉快だと云うように笑いが込み上げてくる。同時に零れたのは、とうとう隙間一つ無いほどに満たされた器から溢れ出した情意だった。感情は形を変え、目の淵から滑り落ちる。体外へと流れ出たもの、末端ですらこのような熱を帯びているのだ。真中で滾るものは一体どれほどの熱を宿しているのだろうか。
余所事を考えながらも、逃れえぬ現実とは目を合わさなくてはならない。堰を切ったようにとめどなく溢れてくるそれは散華の証明だった。人って悲しくなると涙が出るんだな、なんて他人事のように考えた。そうでも思わないとやっていられなかった。今ばかりは、このままでもいいだろうか。いいよね、自問自答の末に私はその場へしゃがみこんだ。顔を覆い隠してしまえば、世界が閉じたようで気が休まった。
不意に。ざり、と地面を踏む音が聞こえた。弾かれるように顔を上げ、視線の先で捉えた音の主に思わず目を剥いた。「し、らいしくん、」どうしたのこんなところで、という言葉は声にはならなかった。
それはこの場に第三者が現れたことに対する一抹の焦りもさることながら、同じクラスという共通点はあるもののろくに会話もしたこともない、という微妙な関係にある相手に果たしてそんな風に気安い言葉を掛けていいものか、躊躇いが生じたからである。
これが顔見知り以下であれば、何事もなかったかのように立ち去ることもできただろう。だが繰り返すように中途半端に顔が割れている相手にそれは何があるというわけでもないが、何となく気まずい。とは言ったものの、彼と私の関係はクラスメイトの一言で終わる。特別親しくもないのだから、すみませんの一言で立ち去ることが最も後腐れのない選択であったろう。しかし両者の間を沈黙が包んでしまった以上、それも手遅れ。これは完全に私の落ち度だ。
混乱のあまり二の次になっていたが、何かあったことは丸分かりな涙に濡れた顔も晒してしまった。幸いなのは、そんな惑乱によりいつの間にか涙が止まっていたことか。それにしても気まずいことこの上ないが、もっと気まずいのは向こうの方だろう。訪れた先で大して気心も知れていないクラスメイトの泣き顔を見ることになろうとは一体誰が思うか。いやはや、見苦しいものを見せてしまった。お互いに、今日はおそらく厄日だ。災難具合は私の方に軍配が上がるだろうが。心中お察しする。
「ご、ごめんなさい、こんな、変なところ見せちゃって」
一先ずはこの場を切り抜けようと出来る限りの明るい声色を使った。一瞬、現れてからというものの押し黙ったままの彼の顔が若干曇ったように見えた。しかし何のことはなく、気のせいだろうと流し、腰を上げる。
「変やあらへん」
つと、重い口が開かれた。取り敢えずこの場を離れようという考えで占められていた思考に、一矢突き入れられた心地だった。まるでタイミングを図ったようだ、とも思った。「変や、あらへんよ」強調するように先ほどと同じ言葉を繰り返した彼の意図は読めない。
しかし何か言い淀んでいる様子であった。「みょうじさん、あのな」彼にはっきりと面と向かって名指しされたのは、今までそう多くはなかった筈だ。だが、彼の声音はこんなにも色を帯びていただろうか。ろくに話したこともないのだから、確証は無いに等しい。さすればこれは私の内に眠る本能が感じ取ったものだ。経験則等から成り立つ思考とは真反対に位置するものが導き出した感覚だ。私は、この第六感だけは外れなくてはならない、と本能的に思った。これといった理由などは無い。自身でも何故そのように思ったのかは分からない。だが兎に角、これが的外れな予想でなくてはならない、ということだけは確かであった。
よぉ聞いててな、と前置きをした上でまるでそんな私の考えるところを悟ったかのように、彼は口の端を折り曲げながら再び口を開いた。
「俺、みょうじさんのことがずっと好きやった」
理解が追い付かなかった。言葉の意味は正しく理解していたが、それを正しく飲み込むことはできなかった。できる筈もなかった。眼前に佇む彼の表情は変わらない。自身よりもずっと背の高い彼に視点を合わせるためには、当然見上げなくてはならないわけで。上向きになった眼孔に浮かぶ眼が揺らいでいるのが自分でも分かった。ぼんやりと呆けたまま何も言わない私に、彼は独口を続けた。
「---さんと、謙也のこともみんな知っとる。……みょうじさんのことも。ずっと見とったから」
率直に、何が言いたいのかと思った。しかし、思考が置いてけぼりを食らっていようとお構いなしに頭はその言詞の意図を汲み取る。
弾き出されたそれの恐ろしさを理解させられたとき、私は震えた。この気候には不自然な寒気が私の背を走る。こんなこと、私は知らない。意味が分からない。頭の先から足の先まで理解している上で、なお意味が分からなかった。分かりたくなかった。狼狽するままに、つまらないよと吐き出そうとした。それは私に唯一残された、つまらない自尊心であった。だが、あろうことか其処で私は気づいてしまったのだ。言葉を押し戻さずにはいられなかった。
同じだったのだ。この目に認めたものは、またしても己と同様のものだった。この地にて初めて相まみえ、欲と幼さの全てを押し付けた彼に向けていたものに等しいそれを、眼前の彼は私に対して向けていた。今もこうして曝け出していた。
まるで心の臓という身体の中心部から、この肉の体を引き裂かれたような気分だった。あまりに酷な振る舞いであった。何故、何故なのか。問いかけたい気持ちはあれど、口唇が動きを見せる気配は全くなかった。こんなときにごめんな、押し黙るばかりの私をよそに、彼はそう口に掛けた。その口調はまるで何処までも頑なな私を諭すようでありながら、またそんな私に対して赦しを求めているようでもあった。
身を裂くような心緒に次いで、頭を鈍器か何かで勢いよく殴打されたような気分に襲われた。濁流のように容赦など欠片もなく迫りくるそれに眩暈がするような思いだ。そも、彼は人の気持ちを弄ぶようなことは決して言わないし、それに類する行動も決して取らない人であった。寧ろそれを厭う人間であると、いつの日か話していたのは一体誰であったか。端から分かりきったその現実が、余計に私を縛り上げ、苦境に立たせた。
「……白石くんは、それで、どうしたいの」
私にどうしてほしいの、と泥のように重い口を開き、問いを投げた。黙りこくるばかりで、ようやっと紐解かれた唇から発された言葉に、彼は痛ましいとでも云うように眉根を寄せると一言。みょうじさんさえ良ければ、付き合うてほしい、と言った。
口唇がわななく。本当に、思い通りにならないことばかりだ。道行く誰かに要領を得ない命題を手当たり次第に押し付けて回りたいような、そんな気分だった。忍び寄る現実は既に目の前に佇んでおり、今再びの逃げ道も既に断たれた。紛い物であれば良かった。しかし目睫の間にて現された熱には痛いほどに覚えがあり、まるで地の底から這い出でたかいなに胴を絞めつけられるようであった。彼の思いを否定するということはつまり、自らの肌に刃を押し当てることと同じだ。紛い物であると一蹴することなど、できる筈もなかった。
どうして私なのか。何故私なぞをより出してしまったのか。よりにもよって、とうに屍と成り果てた思いをかき抱き続け、また互い違いに心を結ぶことも相成らない己のような者を。慕情を向けられたとて応えることができないような者を。
せめて、私でなければ良かった。表面の似通った、あだびとであるならばまだ良かった。だが私は駄目だ。未練がましく、たとえ地獄の果てに在ったとしても糸を伸ばしてしまうほどに執念深い己のような女はいけない。そんな女は骨と成った思いを胸に炎暑と共に眠るべきだ。新たな命を吹き込む前に、あの人へもう要らぬ感情を抱かないよう。親愛なる彼女と能う限りの情を捧げた彼に花束を手渡せるよう。あの人への思いを道連れに眠らなければならない。そこで私は抱いた情念と己の二つを今度こそ弔うのだ。
死しても変わらず心の多くを占めた思いが土となれば、其処にはぽっかりと穴があく。漠然と、それが埋まることはきっと無いのだろうと思った。私がこの濁水に没している以上、埋められる日は決してやって来ない。また同様に、彼を真正面から見据えることも出来ないのだろう。
しかし、かといって己と同じものを抱く彼をみすみす見捨てることができるかといえばそうではなかった。捨て置かれる情念のうら悲しさを我が身を以て私は知っている。だのに、自らの判断で彼をその道へ誘うことなどできる筈もなかった。そんなことできっこなかった。だが先の通り思いに応えることはできない。その癖責任を持って介錯をつとめることもできないというのだから、救いようがない。これではあまりに酷だ。傷つくことを厭うておきながら、傷つけることは躊躇わないのか。言外に己を詰ったところで状況は好転しない。逆流しようと体内で喘ぐそれを諫める。
「……私は、白石くんのこと、すきには」
吐き出せば吐き出すほど増すいたたまれなさに言葉尻は徐々に萎んでいった。彼は刹那双眸を少しだけ見開くと、再び痛ましいとばかりに目を細め、それから頷いた。
「分かっとる、……言わんでええよ」
言わんでええ、繰り返された言葉に今度は私が両の眼を見開くこととなった。もしかしたら彼は、はじめから分かっていたのかもしれない。その上で頷いた。決して自身が抱いたものと同じものが返されることはないと分かっていて、此方を引き止めようと云うのだ。かりそめのそれで構わない、と暗に示しているのだ。
嗚呼、何という無情。この手で首を掻くことができればよかった。刃を押し当てておきながら、肝心の手が震えているとなれば躊躇い傷を残すばかりだ。これでは、苦しいばかりだ。私が独りよがりであるばかりに。中途半端な温情は相手を苦しめるだけだ。否、これは温情ですらない。これは私の甘えであり、我が身可愛さだ。だから、これはエゴだ。間違っても彼のためではない。
喉の奥から饐えた匂いがする。輪郭を確かとしたことで、思考の隅を漂っていた心づもりは重みが段違いとなった。これから私が取らんとしている選択はそういう類のものだ。まるで禁忌を言祝ぐかのような思いでわかった、と一つ肯定の意を示す。
丁寧に継ぎ合わされた布地を滅茶苦茶な力で引きちぎったかのような、どうにもそのように思えてならなかった。己の望みを呑んだ私に、彼はただ一言ありがとうなと言った。
あまりに酷だ。最早この世には神も御仏も存在しない。彼らは浅ましき手によって皆まとめて地上へと引きずり下ろされた。もう二度と、元の場所へ戻ることは叶わないだろう。私が取った選択はそういう類のものだ。
これで良いんだ、唱えるように思考の内で呟いた。恋なんていうものはひとたび芽生えてしまえばとんでもなく厄介なもので。たとえ弔われるより他なくなったものだとしても、土に還ることを余儀なくされたとしても、それでも首を刎ねることは容易くないのである。
白石くんがこれ以上何か口に掛けることはなかった。身じろぎ一つせず、黙って佇む彼からはほのかに制汗剤らしき香りが香った。その匂いが忍足くんとは似ても似つかず、私はまた泣きそうになった。
…
この後付き合い始めたことを知った忍足謙也くんの「よかったなぁ白石!みょうじさんのことずっと好きやって言うとったもんなあ!」という言葉から、自身の存在はいつの日からか彼にとって"友の好きな人″であったということを思い知る。
私もだよ。反射的に口をついて出ようとしたその言葉を諫め、そっと口を閉ざしたことに彼女が気づく日はおそらく訪れないだろう。
十四歳、夏。私はとうとう正式な死亡宣告を明け渡された恋を校舎裏に埋めた。本当は、とうの昔に宣告はなされていた。今の今まで生きながらえさせていたのはひとえに私のわがままだ。無理やり命を繋いでいたが、その中身はとうに息絶えていた。どうにか表面を取り繕い、中身が満たされているように装っていただけに過ぎないことは他ならぬ自身が一番理解している。こうして己を顧みてみると、深い森の奥にいるような心地がした。振り返ることの躊躇われるものに今一度目を合わせた、今がまさにそのときであった。
おおよそ二年前。十三回目の誕生日はまだ迎えていない十二の年の頃。夏休み明けの、そのまた次の日に関東からの転入生として私はこの学校へやって来た。
季節が一つ過ぎたとはいえ、それでも未だ制服に着られていた当時の私の前には心配の種がごろごろと転がっていた。それは例えば慣れない西のお国言葉であったり、入学したてのまっさらさならばまだしも数か月の期間を共に過ごしすっかり色づいた環境に馴染めるのかであったり、抱いて然るべきものの数々があの時の私の背には重く圧し掛かっていた。いよいよ迎えた転入初日の前夜まで当然の如く布団に潜ってもろくろく眠れず、日に日に大きくなっていった不安はこれまで生きてきた十二年と数か月で最も強い存在感を放っていた。
そうしてとうとうついて回る不安をどうすることも出来ないまま、担任だという教師に言われるままにこれから七か月を過ごすクラスへ足を踏み入れた。一斉に此方を向く眼をすり抜け、どうにかそれらと目を合わせないよう後ろの壁に焦点を合わせる。またしても促されるままに無難に自己紹介をしたが、つかえていなかっただろうか。最も耳馴染み深い己の名前ですらまるで知らない音のようであった。好奇の視線が刺さる。いかにも物珍しい、とばかりに注がれる視線はこのときばかりだとは思っていてもやはり居心地の悪さが先立った。
私の自己紹介を受け、担任の教師が一言二言ばかり発するとそれから、席はあそこだから、と耳慣れないイントーネションで空いている座席を指差した。その指が示した先は窓際の一番後ろの席であった。本来であればあの席は特等席といっても過言ではない場所だが、今は喜びも何もあったものではなかった。
机と机の間をやや身体を縮こませながら通り抜け、与えられた机の椅子を音を立てないよう引く。そこへ腰を下ろし、これでやっと少し気が抜ける、と一つ重苦しく身体の内に溜まっていた息を吐いた。その矢先、未だ力の入ったままの肩を横からつつかれ、弾かれるようにその方向に顔を向ける。
まみえた相手は悪戯っぽい笑みを浮かべており、何処か幼げだというのが先ず以て抱いた印象であった。当人と同様に、所々茶目っ気たっぷりにハネた髪の毛がそんな印象を深めているような気がした。
名前はおろか、それ以前に現下初めて顔を突き合わせた件の男子生徒からの突然の行動に私は戸惑うばかりだった。まだランドセルを背負っていた頃ならば互いの机の境界線など無いに等しかったが、今は違う。六年間の月日、雨の日も風の日もお世話になった背中のそれを下ろして久しくなりつつある今日日、両者の間にはおよそ人一人分の溝がある。彼はそんな割れ目をものともせず、その場から少し身を乗り出すことであっさり越えてきた。
「俺、忍足謙也!困ったことがあったら何でも言うてや!」
声音が纏った朗らかさは、滲み出る雰囲気によく似合っていた。教壇からの声に配慮し、幾らか声を潜めているのだろう。此方をまっすぐ見据える眼は一対であるからか、そこのところは判然としなかったが壇上に立った際に向けられた各々の眼差しに対し感じたような居心地の悪さは無かった。また正視すればするほど吸い寄せられるようで、喩えは悪いがそれは進退窮まった際の気分に似通っていた。けれど焦燥感だとか圧迫感だとか、そういったものが湧き上がってくることは一切無く、高揚感に近しいものが胸の奥地でぐるぐると堂々巡りを繰り返していた。
おしたりくん、おしたりけんやくん。どういう漢字で書くんだろう、うわずった気持ちに支配される其処でそれこそ咀嚼するように反芻した。余所事に思考の半分以上を割きながらも、何かしらの反応を返さなくては幾らなんでも失礼に当たると慌ててよろしく、と返す。
すると、私たちのやり取りに気づいたのか担任の教師が「忍足ー、みょうじは逃げへんでー」とからかうような声を上げた。さらにそれを受け、前の席の女子生徒も「わたしが先に声掛けようと思ってたのに」と振り返ってきた。担任の声を皮切りに、教室はあっという間に姦しさに呑まれていく。この空間においては存在が際立つ、同様の減り張りと言葉遣いで挨拶をしてくれた前方の彼女に当たり障りのない言葉を返した。
一時間目は担任教師の受け持つ授業ということで、この後は担任権限で質問攻めにあった。遠方からやって来た者は彼らにとってはやはり物珍しい存在らしい。時折同じ関東出身と思しき彼女と隣の彼のフォローに助けられながらも、彼らの勢いには圧倒されっぱなしであった。遅かれ早かれ当然感じるとは思っていたが、こんな形で地域差を思い知ることになるとは予想だにしていなかった。しかし、彼と面と向かった際に味わったあの高揚感は一体何であったのだろうか。何故こんなにも彼の名前だけを噛み締めてしまうのだろうか。幾ら考えたところで当時の私には答えは得られなかった。当時の私は自身の内に生まれた差異を楽観していた。それが始まりだと知らずに。そう、それが全ての始まりだった。果てを迎えられない地獄の始まりであった。
地獄、とは当然ものの喩えである。実際は黄泉路の方が意味合いとしては近かっただろう。分かりやすいことこの上ないので種明かしも何もないだろうが、私があのとき抱いた高揚感とは恋心の芽であった。自覚は早かった。しかし、まさかそんな初々しい新芽が早々に手折られることになるとは思いもしていなかったが。
新しい環境に馴染めるのかという最大の懸念事項は心配とは裏腹にあっさりと解消された。
この四天宝寺中学というところは全く馴染みのない関西地方であることを抜きにしたとしてなかなか着いていけない部分がある。良くも悪くもその個性的なノリに置いていかれることもしばしばであったが、学校生活そのものはおおむね上手くいっていた。
最初こそ二の足を踏んでいたものだが、地域が異なると云えど年の頃は同じだ。贔屓のテレビ向こうの俳優であったり、帰途につく学生へ誘惑の手を伸ばす甘い匂いであったり、女子中学生の気になるものなど何処へ行こうと大差ない。人間関係が既に形成させた場所では浮いてしまうのではないかと不安は今となっては幸いなことに杞憂であったし、加えて方言の壁もそれほど高いものではなかった。
その代わりといってはなんだが、浮上したのが新たな悩みの種であった。
あのうわずった気持ち、新たな場所にて一も二もなく抱いた恋心。その二つがイコールで結ばれたことは私にとってまさに天啓に打たれたと同義であった。しかしそれは同時に、苦悩の淵に立たすに十分に足るものでもあった。尤も、先頃のものが差し迫った問題であったことに対し、此方は自覚したところでどうというものでもなかった。
この年頃の女子は早熟だと呼ばれるが、ただ丈の余る制服に袖を通し、ついこの間まで名前で呼び合い遊んでいた人と先輩後輩関係になるなど様々なしがらみに囚われるようになっただけに過ぎない。確かに同じ年の頃の男子と比べれば若干聡いだろうが、中身が取り巻く環境の急激な変化に見合った成長を遂げているとは限らないのである。平たく言ってしまえば、その中身はランドセルを背にしていた頃とさほど変わりない。またそれは性別の異なる彼も同様であった。
第一に、彼は相手が誰であろうと優しかった。だがその優しさは色の孕んでいない情から来るものだ。そこに打算は勿論、偽善も絡んではいない。彼が私に対して発揮した優しさは、彼を恋慕う私が本当に欲しいものには成り得なかった。誰が一番でもなく、誰がどうということもなく。当然のように切り分けられる心は彼の人柄そのものであった。
あの日、真っ先に声を掛けてきてくれたことは特別なことでもなんでもない。単に私が見知らぬ環境で右往左往する転入生であったからだ。それ以上でもそれ以下でもない。それより先のものも後のものも見出しようがない。しかしそれで良かった。理由などなんだって良かった。臆病で、一歩を踏み出す勇気の出せない私にはたとえ何が切欠であったとしても、彼が手を差し伸べてくれたというのならそれこそが最良であった。
恋慕の情を燻ぶらせた者にとって、分け隔てなく向けられる優しさとは残酷なものに他ならないだろう。それでも良かった。私は臆病であった。それは早熟であるが故なのか、そもそも己の性質故なのか。いずれにしろ六年間過ごした学び舎を卒業して暫く、この頃になれば否応なく理解させられ、また高い壁として立ちはだかる男女の垣根を未だ軽々飛び越える彼のうぶにも満たぬ幼さが私の未熟な恋心のよすがであった。
彼の内包するやわらかな残酷さを何処か厭いながら、二の足を踏む以前に一歩を踏み出す勇気を出そうともしていない癖に自信がないからと縋る。何も知らない彼を眼に収め、憧憬にも傾慕にもなれない情を描く。
恋心とはいいつつ、これは恋と形容できるほどうつくしいものではなかった。愛には永遠になれなかった。この行いはまるで拙い自慰だった。独りよがりで、私の手の中で延々と続けられるひとり遊びであった。何かしらの状況の変化が訪れない限り、この悪趣味極まりない遊戯は延々と同じ題目を繰り返していたことだろう。
しかし幸か不幸か、この場合は不幸の方に比が傾くが、その遊びは現況の変化により終止符を打たれることとなった。親愛なる友人が、ひそかに私が身勝手な心を寄せていた彼にそれはそれはうつくしい恋心を抱いている、ということを私が知ったことで。
「だからね、その、告白、しようかなって思ってて」
私の仮称恋を手繰る上で欠かせない人物こそが彼女、親愛なる友人であった。彼女は奇しくも、というべきか来るあの日、件の彼の次に迷える転入生に手を差し出してくれた前の席の女子生徒であり、同様に東の出自であろうと考えた彼女であった。
その日の時点ではあくまで予想の段階だったが、その後出身地方の話題になったとき胸算した通り同地方に端緒をなしていること、さらに彼女もまた小学校高学年に入った頃にこの大阪にやって来たことが判明し、私達はすっかり意気投合した。何処か興奮した様子で打ち明けられたとき、張り詰めた心が少し穏やかなものになった。彼女は私の新天地においてのはじめての友人であった。
新たな地で惑うばかりであった私にとって、以前の居場所と近しいものを持つ彼女は水際に戻るための頼みにも似ていた。実際頼みにしていた。テレビの向こうからのものしか耳にしたことのなかった言葉遣いは時に知らない言語のようにも聞こえ、つい先日まで異なる共同体に身を置いていた私はすっかり気後れしてしまっていた。故に馴染み深い抑揚で喋る彼女にはじめの頃は何かと頼りきりで、随分と助けてもらったことは今後も忘れるつもりはない。
そんな前途多難なスタートであったが、勢いに圧倒されっぱなしであった私にもいつしか慣れが生じてきた。おおよその勝手が分かった私は以前のように及び腰になることはなくなり、すっかりこの環境に溶け込んだ。
その矢先だ。順応したことで不格好な情動を煮やすこととなった私にとってはまさに寝耳に水、青天の霹靂であった。その雄弁なる視線に気がついてしまったとき、誰に見せることもない心に通う血の気が失せた。半ば無理やりに味わわされたその感覚は未だ暴力的な青さに身を落とすうちには忘れ去ることなど到底無理な話であろう。
しかし私の立ち竦んだ心は直感的に悟った心境とは裏腹に、其処に走る冷たさに手招かれたかのように妙な落ち着きを保っていた。予想だにしなかったことに直面したということは紛れもない事実であったが、心中を満たしたのはいっそ呆れ返ってしまうほどの閑やかさだった。腹で何を考えようと、結局のところ私は臆病であったのだ。青臭ささえもうつくしさへと変えてしまうような彼女の心を目の当たりにし、怖気づいたのだ。己の拙い情など彼女の前では土に還る。彼女の思慕の念はむしろそれこそが末路に相応しい、とさえ思わせた。恐ろしいことだ。しかし本当に血の気の引く思いを味わうのはここからであった。追い打ちをかけるように明らかになった事実に私は文字通り奈落へと突き落とされることとなった。件の彼もまた、彼女のことを恋うていたのだ。
思えば気がつかないわけがなかった。暇さえあれば眼を向け、募る思いを丁寧に積み重ねていたのだから。そして何より、自身のものと同じだったのだ。ひそかに恋着していた彼は、己が傾けたそれと酷似したものを彼女へと寄せていた。光を当てれば当てるほど、自身にとっては不都合と称すに相応しい事柄が浮き彫りとなっていった。これが事の一切である。こうして、私の恋ともつかぬ何かはあまりにも呆気なく散った。
このとき、諸共花と散れば良かった。しかしそれは叶わなかった。何処までも意気地のない私は思いが死に果てたことを理解していながら、捨て去ることができなかったのだ。そうして挙句の果てには無理くり命を繋いだ。花のように、潔く散ることが叶えばどれほど良かったことか。だが幾ら恥じ入ろうとも、腐りきった実に水をやることを止められなかったというのだから矛盾も良いところだ。所詮私の抱いた自責の念など端からその程度のものでしかなかったのだろう。
はじまりの位置が異なるだけで殆ど同じような境遇にある彼女と自身。二人は何処が異なっていたのか、彼女と私は何が違ったのか。異なる点は上げればきりがなかった。それでも考えることは止められなかった。もし私が先に彼の前に現れていたら、そんな考えに至る度に自己嫌悪に陥った。もしかしたら、もしかしたら。彼女と私は全く違う。そもそも根本を構成するものが違うのだから、たとえはじめに現れたのが私であろうと彼が私に心の大事な部分を明け渡すことはなかっただろう。そんなことは分かっていた。にもかかわらず訪れる筈のない日を夢見、同じようなことばかりに思考を巡らせた。その度にそんな幻想は立ち消えるしかないことを思い知る、その繰り返しだった。思いの成れの果てを打ち捨てることができれば、本当にどれだけ良かったことか。しかしそれが叶うのならば、私はこうは成り果てなかっただろう。彼女と自身の相違の根源は其処にある。だから私は彼女になれなかった。また、永遠になれないのだろう。
しかしそんな演目もここまでだ。万年閑古鳥の鳴く舞台もとうとう幕切れを迎える。幕が開くことはもう二度とないだろう。辿るべき道筋を違えてはならない。彼女の恋路に佇むのは彼一人であって、彼の恋路に佇むのも彼女一人だ。そのどちらにも私は必要じゃない。
転入したての頃は抵抗感で一杯だった制服の裾を握りしめた。彼女がとうとう思いを明け渡そうというのだ。親愛なる友人と、青い思いを捧げた彼がいっぺんに幸いになろうとしている。これ以上のめでたい知らせがあろうか、いや無い。答えは明白だ。彼女が笑む。私がその心をとうに知り得ていたことなど露知らず、恥じらいを見せながら言葉を重ねる彼女は得も言われずかわいらしかった。これが恋なのか、漠然とそう思った。醜さへと行き着いた己とは大違いだ、とも思った。此処が終点だ。これより先には何もない。退くための道筋、逃げ道も最早残されてはいない。私に叶うものは、思考を働かせなくとも想像など容易につく。せめて。せめて、何が彼女の最良足り得るのか、理解しろ。ひりつく舌の根が言詞に見合った動きを模る。
「---ちゃんなら、大丈夫だよ、きっと」
いっておいでよ。口から滑り落ちた言詞はまるで得体の知れない生き物のようだった。目の前の彼女の顔を見るのがどうにも恐ろしく、それを誤魔化すように大したこと言えなくてごめんね、と付け加えると件の彼女は首を振った。そしてありがとう、と。励ましてくれてありがとう、それから私に言って良かった、と。
煮立てられるような、じっとりと暑さが肌を這い回る。喉首を絞められ、じわじわと命を蝕まれているような心地だった。まとわりつく外気とは対照的に、ひどく冷えた笑みが零れる。その冷涼さを悟られたくはなく、己の表情に温度を加えた。
それでも広がり続ける温度差を尻目に、当の彼女は「よーし、なんか勇気が出てきた!」と晴れ晴れしい声を上げた。その翳りの見えなさに羨みを抱いた。誤魔化さずとも、取り繕わずとも、保たれるそれが心底羨ましかった。そんな私をよそに、当たって砕けたら慰めてね、と冗談めかした調子で彼女は言った。きっと、とても緊張しているのだろうなと私は思った。
そうだね、じゃあ次の休みにでも何処か行こうか、と平素の態度を崩さずに答える。「絶対!絶対だからね!」と念を押すように私の手を握った彼女の手は夏らしく少し湿り気を帯びていた。でもそれだけではないのだろう。手品の種明かしでもするように、一つ一つ丁寧に改めて思い知らされていく現実の数々に打ちのめされる。それでも膝を折らないのは、きっと私の最後の意地だ。ちっぽけで、何の意味も為さないものに今の私は生かされている。滑稽だ。逃げ出したい衝動を抑え込み、「うん、約束」と口だけで笑った。目だけが砕けるはずがないのにね、と笑っていた。
私の返答に満足そうな表情を見せた彼女は再び感謝の念を述べ、それから一呼吸置くといってくるね、とこの場を離れ去っていった。みるみるうちに小さくなっていく背中にひら、と手を振る。直にその後ろ姿は斜陽に紛れるように遠くに消えた。其処で私は漸く、上手な息の仕方を思い出せた気がした。湿気をはらみ、すっかり重たくなった空気を大きく吸い込み、次いでその分だけ吐き出す。
さようなら、私の恋にもなれなかった何か。ぐずぐずに腐ったものでありながら、青く、また甘さなど欠片も見出しようのなかった矛盾だらけのそれよ。手向けの花を贈ろう。朽ちることも消え入ることも許されず、今まで眠れなかった分、安心して眠ればいい。今度こそその眠りを脅かす者はいない。死に損ないは今度こそ果てる。また逢う日は訪れない。永久に来なければ良い。それでも、願わくばいつの日か思い出となれるよう。
彼女は私に自身の思いを打ち明けて良かった、と言っていたがそれは大きな間違いだ。彼女は最高の悪手をとった。これが皮肉でないというのだからやりきれない。行き場のない気持ちをどう処理したものか。一つも面白くないのに、あたかも愉快だと云うように笑いが込み上げてくる。同時に零れたのは、とうとう隙間一つ無いほどに満たされた器から溢れ出した情意だった。感情は形を変え、目の淵から滑り落ちる。体外へと流れ出たもの、末端ですらこのような熱を帯びているのだ。真中で滾るものは一体どれほどの熱を宿しているのだろうか。
余所事を考えながらも、逃れえぬ現実とは目を合わさなくてはならない。堰を切ったようにとめどなく溢れてくるそれは散華の証明だった。人って悲しくなると涙が出るんだな、なんて他人事のように考えた。そうでも思わないとやっていられなかった。今ばかりは、このままでもいいだろうか。いいよね、自問自答の末に私はその場へしゃがみこんだ。顔を覆い隠してしまえば、世界が閉じたようで気が休まった。
不意に。ざり、と地面を踏む音が聞こえた。弾かれるように顔を上げ、視線の先で捉えた音の主に思わず目を剥いた。「し、らいしくん、」どうしたのこんなところで、という言葉は声にはならなかった。
それはこの場に第三者が現れたことに対する一抹の焦りもさることながら、同じクラスという共通点はあるもののろくに会話もしたこともない、という微妙な関係にある相手に果たしてそんな風に気安い言葉を掛けていいものか、躊躇いが生じたからである。
これが顔見知り以下であれば、何事もなかったかのように立ち去ることもできただろう。だが繰り返すように中途半端に顔が割れている相手にそれは何があるというわけでもないが、何となく気まずい。とは言ったものの、彼と私の関係はクラスメイトの一言で終わる。特別親しくもないのだから、すみませんの一言で立ち去ることが最も後腐れのない選択であったろう。しかし両者の間を沈黙が包んでしまった以上、それも手遅れ。これは完全に私の落ち度だ。
混乱のあまり二の次になっていたが、何かあったことは丸分かりな涙に濡れた顔も晒してしまった。幸いなのは、そんな惑乱によりいつの間にか涙が止まっていたことか。それにしても気まずいことこの上ないが、もっと気まずいのは向こうの方だろう。訪れた先で大して気心も知れていないクラスメイトの泣き顔を見ることになろうとは一体誰が思うか。いやはや、見苦しいものを見せてしまった。お互いに、今日はおそらく厄日だ。災難具合は私の方に軍配が上がるだろうが。心中お察しする。
「ご、ごめんなさい、こんな、変なところ見せちゃって」
一先ずはこの場を切り抜けようと出来る限りの明るい声色を使った。一瞬、現れてからというものの押し黙ったままの彼の顔が若干曇ったように見えた。しかし何のことはなく、気のせいだろうと流し、腰を上げる。
「変やあらへん」
つと、重い口が開かれた。取り敢えずこの場を離れようという考えで占められていた思考に、一矢突き入れられた心地だった。まるでタイミングを図ったようだ、とも思った。「変や、あらへんよ」強調するように先ほどと同じ言葉を繰り返した彼の意図は読めない。
しかし何か言い淀んでいる様子であった。「みょうじさん、あのな」彼にはっきりと面と向かって名指しされたのは、今までそう多くはなかった筈だ。だが、彼の声音はこんなにも色を帯びていただろうか。ろくに話したこともないのだから、確証は無いに等しい。さすればこれは私の内に眠る本能が感じ取ったものだ。経験則等から成り立つ思考とは真反対に位置するものが導き出した感覚だ。私は、この第六感だけは外れなくてはならない、と本能的に思った。これといった理由などは無い。自身でも何故そのように思ったのかは分からない。だが兎に角、これが的外れな予想でなくてはならない、ということだけは確かであった。
よぉ聞いててな、と前置きをした上でまるでそんな私の考えるところを悟ったかのように、彼は口の端を折り曲げながら再び口を開いた。
「俺、みょうじさんのことがずっと好きやった」
理解が追い付かなかった。言葉の意味は正しく理解していたが、それを正しく飲み込むことはできなかった。できる筈もなかった。眼前に佇む彼の表情は変わらない。自身よりもずっと背の高い彼に視点を合わせるためには、当然見上げなくてはならないわけで。上向きになった眼孔に浮かぶ眼が揺らいでいるのが自分でも分かった。ぼんやりと呆けたまま何も言わない私に、彼は独口を続けた。
「---さんと、謙也のこともみんな知っとる。……みょうじさんのことも。ずっと見とったから」
率直に、何が言いたいのかと思った。しかし、思考が置いてけぼりを食らっていようとお構いなしに頭はその言詞の意図を汲み取る。
弾き出されたそれの恐ろしさを理解させられたとき、私は震えた。この気候には不自然な寒気が私の背を走る。こんなこと、私は知らない。意味が分からない。頭の先から足の先まで理解している上で、なお意味が分からなかった。分かりたくなかった。狼狽するままに、つまらないよと吐き出そうとした。それは私に唯一残された、つまらない自尊心であった。だが、あろうことか其処で私は気づいてしまったのだ。言葉を押し戻さずにはいられなかった。
同じだったのだ。この目に認めたものは、またしても己と同様のものだった。この地にて初めて相まみえ、欲と幼さの全てを押し付けた彼に向けていたものに等しいそれを、眼前の彼は私に対して向けていた。今もこうして曝け出していた。
まるで心の臓という身体の中心部から、この肉の体を引き裂かれたような気分だった。あまりに酷な振る舞いであった。何故、何故なのか。問いかけたい気持ちはあれど、口唇が動きを見せる気配は全くなかった。こんなときにごめんな、押し黙るばかりの私をよそに、彼はそう口に掛けた。その口調はまるで何処までも頑なな私を諭すようでありながら、またそんな私に対して赦しを求めているようでもあった。
身を裂くような心緒に次いで、頭を鈍器か何かで勢いよく殴打されたような気分に襲われた。濁流のように容赦など欠片もなく迫りくるそれに眩暈がするような思いだ。そも、彼は人の気持ちを弄ぶようなことは決して言わないし、それに類する行動も決して取らない人であった。寧ろそれを厭う人間であると、いつの日か話していたのは一体誰であったか。端から分かりきったその現実が、余計に私を縛り上げ、苦境に立たせた。
「……白石くんは、それで、どうしたいの」
私にどうしてほしいの、と泥のように重い口を開き、問いを投げた。黙りこくるばかりで、ようやっと紐解かれた唇から発された言葉に、彼は痛ましいとでも云うように眉根を寄せると一言。みょうじさんさえ良ければ、付き合うてほしい、と言った。
口唇がわななく。本当に、思い通りにならないことばかりだ。道行く誰かに要領を得ない命題を手当たり次第に押し付けて回りたいような、そんな気分だった。忍び寄る現実は既に目の前に佇んでおり、今再びの逃げ道も既に断たれた。紛い物であれば良かった。しかし目睫の間にて現された熱には痛いほどに覚えがあり、まるで地の底から這い出でたかいなに胴を絞めつけられるようであった。彼の思いを否定するということはつまり、自らの肌に刃を押し当てることと同じだ。紛い物であると一蹴することなど、できる筈もなかった。
どうして私なのか。何故私なぞをより出してしまったのか。よりにもよって、とうに屍と成り果てた思いをかき抱き続け、また互い違いに心を結ぶことも相成らない己のような者を。慕情を向けられたとて応えることができないような者を。
せめて、私でなければ良かった。表面の似通った、あだびとであるならばまだ良かった。だが私は駄目だ。未練がましく、たとえ地獄の果てに在ったとしても糸を伸ばしてしまうほどに執念深い己のような女はいけない。そんな女は骨と成った思いを胸に炎暑と共に眠るべきだ。新たな命を吹き込む前に、あの人へもう要らぬ感情を抱かないよう。親愛なる彼女と能う限りの情を捧げた彼に花束を手渡せるよう。あの人への思いを道連れに眠らなければならない。そこで私は抱いた情念と己の二つを今度こそ弔うのだ。
死しても変わらず心の多くを占めた思いが土となれば、其処にはぽっかりと穴があく。漠然と、それが埋まることはきっと無いのだろうと思った。私がこの濁水に没している以上、埋められる日は決してやって来ない。また同様に、彼を真正面から見据えることも出来ないのだろう。
しかし、かといって己と同じものを抱く彼をみすみす見捨てることができるかといえばそうではなかった。捨て置かれる情念のうら悲しさを我が身を以て私は知っている。だのに、自らの判断で彼をその道へ誘うことなどできる筈もなかった。そんなことできっこなかった。だが先の通り思いに応えることはできない。その癖責任を持って介錯をつとめることもできないというのだから、救いようがない。これではあまりに酷だ。傷つくことを厭うておきながら、傷つけることは躊躇わないのか。言外に己を詰ったところで状況は好転しない。逆流しようと体内で喘ぐそれを諫める。
「……私は、白石くんのこと、すきには」
吐き出せば吐き出すほど増すいたたまれなさに言葉尻は徐々に萎んでいった。彼は刹那双眸を少しだけ見開くと、再び痛ましいとばかりに目を細め、それから頷いた。
「分かっとる、……言わんでええよ」
言わんでええ、繰り返された言葉に今度は私が両の眼を見開くこととなった。もしかしたら彼は、はじめから分かっていたのかもしれない。その上で頷いた。決して自身が抱いたものと同じものが返されることはないと分かっていて、此方を引き止めようと云うのだ。かりそめのそれで構わない、と暗に示しているのだ。
嗚呼、何という無情。この手で首を掻くことができればよかった。刃を押し当てておきながら、肝心の手が震えているとなれば躊躇い傷を残すばかりだ。これでは、苦しいばかりだ。私が独りよがりであるばかりに。中途半端な温情は相手を苦しめるだけだ。否、これは温情ですらない。これは私の甘えであり、我が身可愛さだ。だから、これはエゴだ。間違っても彼のためではない。
喉の奥から饐えた匂いがする。輪郭を確かとしたことで、思考の隅を漂っていた心づもりは重みが段違いとなった。これから私が取らんとしている選択はそういう類のものだ。まるで禁忌を言祝ぐかのような思いでわかった、と一つ肯定の意を示す。
丁寧に継ぎ合わされた布地を滅茶苦茶な力で引きちぎったかのような、どうにもそのように思えてならなかった。己の望みを呑んだ私に、彼はただ一言ありがとうなと言った。
あまりに酷だ。最早この世には神も御仏も存在しない。彼らは浅ましき手によって皆まとめて地上へと引きずり下ろされた。もう二度と、元の場所へ戻ることは叶わないだろう。私が取った選択はそういう類のものだ。
これで良いんだ、唱えるように思考の内で呟いた。恋なんていうものはひとたび芽生えてしまえばとんでもなく厄介なもので。たとえ弔われるより他なくなったものだとしても、土に還ることを余儀なくされたとしても、それでも首を刎ねることは容易くないのである。
白石くんがこれ以上何か口に掛けることはなかった。身じろぎ一つせず、黙って佇む彼からはほのかに制汗剤らしき香りが香った。その匂いが忍足くんとは似ても似つかず、私はまた泣きそうになった。
…
この後付き合い始めたことを知った忍足謙也くんの「よかったなぁ白石!みょうじさんのことずっと好きやって言うとったもんなあ!」という言葉から、自身の存在はいつの日からか彼にとって"友の好きな人″であったということを思い知る。