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小学生のときのことだ。同い年の、とある女の子が近所に住んでいた。
その子とは近所だ、というだけで特に仲が良かったというわけでも、何かしらに関わりがあったというわけでもなかった。だが、押された烙印のようにそれは俺の深くにこべりつき、今でもふとした瞬間に思い出されるのだ。
通っていたテニススクールの帰り、歩き慣れた海岸沿い。人の気配すら感じられない其処は、耳を澄ませないと聞こえないほどの穏やかな波の音も相まり何処か物寂しげな雰囲気を醸し出していた。
ぼうっと歩いているとふと、そんな砂浜に踞る小さな人影が目に入った。人影は頭をもたげ、じっと動きを見せない。
背にかかる束ねられた髪は、多分女の子だろう。暫く立ち止まって様子を窺うも、一向に動きを見せないその姿に、何かあったのではないかという考えが俺のなかでむくむくと立ち昇ってきた。よし、と気を引き締めそろ、そろと件の人影に近づいていく。
「……ねぇ、どうかしたの」
おずおずと声を掛けると、女の子はゆっくりと顔を上げた。同時に彼女の手元に何かがちらと見えたが、それは直ぐ様隠され、それが一体何であったのかは分からなかった。
振り返って黒い瞳を瞬かせるその子は見知った顔であり、二軒隣のマンションに住む同じクラスのみょうじさんであった。
家も近所、しかも今まさに同じクラスではあるものの一緒に遊ぶどころかろくに話したこともない彼女との予想外のぼせた遭遇に、此方から声を掛けておいて何だが思わず小さくまごついた。
対して当のみょうじさんは、二、三度まばたきをすると薄い笑顔で「どうもしないよ」と先の俺の問い掛けに対し答えた。その声が何故かは分からないけれど妙に耳によく馴染んで、とても不思議な感じがした。
そんな俺の心境など理解しようもない彼女は、俺の背負うバッグに目を向け「幸村くんはテニスの帰り?」と尋ねてくる。
「、うん」
「ふぅん、大変だねこんな遅くまで」
問い掛けておきながらさして興味も無さそうな返し、それと共にみょうじさんはその場からすくりと立ち上がった。すると、ポケットからクラスの誰の筆箱にも入っているような細いネームペンがこぼれ落ちた。俺はそれを拾い上げ、持ち主である彼女へとそっと手渡した。
「あ、ありがと」
不意、受け取る指の先に乗る、白の入り交じった薄桃色の不揃いでやけに短い爪が見えた。がたがたと波打つようなそれは爪切りでできるような代物ではなく、加えて皮まで剥かれた形跡もあり、とても痛々しいものであった。
ろくろく知らない同級生の意外な一面を垣間見たようで、焼きついた彼女の指の先は、頭の中からこれ以上考えてはならない、と俺に対して忠告しているようにも思えた。
気を逸らすように「みょうじさんこそ、こんな時間にどうしてここに、」その瞬間、思わず息を呑んだ。いるの、という言葉が続きとして繋がれることはなかった。彼女の不意に合わせられた両の眼が何故かひどく得体の知れないもののように思えてならず、意識する前に呑み込まざるを得なかったのだ。
「お母さんを、待ってるの」
ペンが入れられたポケットとは逆の手に握られていたのは、ごく小さな貝殻であった。彼女は手のひらの中のそれを大きく振りかぶると、勢いよく海へと投げ入れた。
一連の動作と共に、何でもないように告げられた返答に俺がこれ以上言葉を重ねることはなく、そのまま帰途を辿った。
最後、みょうじさんはひら、と手を振りながら「じゃあね」と言ったが、もうそのときには両目に浮かぶあの得体の知れないものは姿を消していた。
そしてその日、彼女の父親はその姿を消した。
教科書の、羅列された文字の中でもとびきりの存在感を放つ黒々としたインクのたっぷり染み込んだ太い字をそっとなぞる。
後の近所の人らの話によれば、彼女、みょうじさんの父親はあの日、何の前触れもなく、忽然と姿を消したらしい。
まるで蜃気楼かのように、はじめから何処にも存在などしていなかったかのように。
さらにその数日前、みょうじさんの住まうマンションの住人は聞いたらしい。一家が生活を営む一室から響く怒号を。
開け放たれた玄関扉。ドアノブを握る男が女に向かって声を張り上げる。何度も、何度も。逆の手で女の髪の毛を掴む。女はその力に引きずられ、玄関を這いずる。か細い声で、しきりに制止を訴える。
結局、女が玄関の敷居をまたぐようなことは無かったが、ドアが閉められた後も男の低い怒号と女の金切り声、鈍く重苦しい音は響き続けたという。
話によると、どうやらそれは一年という目で見れば、疎らな間隔で訪れることらしく、また決まって深夜に聞こえるものらしい。
その度に隣人は肝を冷やしていたそうだが、当の被害者が事に関して口を閉ざし、かつ行動も起こそうとしなかったため、周囲が手を出すことは出来なかった、とその人は話していた。
「あそこの家、ゴミの日になると必ず袋いっぱいの空き缶出してたわよね、それ全部お酒なのよ」
「え、もうそれアル中だったんじゃないの?」
「確かに、そんなんじゃまともに話なんか出来っこなかったでしょうねぇ」
「酔って暴力を振るうなんて、ちょっと信じられないわあ」
「旦那さん、優しそうだったのものねぇ、愛想だって良かったし」
「真面目そうだったし」
「やだ、人は見かけによらないものよ」
「そうね、奥さんも気の毒にねえ、まさかあんな人だなんて思ってなかったでしょうに」
「こんな風になるなんて、ってこと?」
「そうそう、でも毎日じゃなくてやぁっと落ち着いた頃にまた、っていうのがなんだかタチが悪いわよね」
「お酒は飲んでても、いつもそういうことするってわけじゃないから、誰かにも話しづらかったのかも」
「優しいところだけ信じて、いつまた噴火するかびくびくしながら?」
「まあ、何にせよこっちに手を上げてくる旦那なんてどちらにしろゴメンよ!」
「奥さんも、さっさと別れちゃえばよかったのにねぇ」
「何で別れなかったのかしら」
「だからそれは、いつもそうやって手を上げるわけじゃないから、」
「それも多分あるけど、違うわよ」
「……ああ、そういえばあそこ、お子さんが一人、いらしたわね」
「あ、娘さんでしょ、なまえちゃん、まだ小学生の」
「やだ、じゃあもしかしたら、自分の実の父親が母親に暴力を振るうところももう何回も見てたんじゃない?」
「見てたに決まってるじゃない!」
「この間なんて止めに入ったらしいわよ、泣きながら、すごく、怖かったでしょうね」
あの海岸での出来事を最後に、俺とみょうじさんが関わることはなかった。元々ほとんど関わりなど持たなかったのでそれは当然であったが、彼女が小学校を卒業する頃にはこの街を出ていってしまったことで、それは文字通り本当の最後となったわけだ。
みょうじさんは誰に行き先を告げることもなく、細い糸を大きな裁ち鋏で断ち切るようにあまりに容易く、あっさりと、そしてあまりにも鮮やかにその繋がりを絶ってみせたのだ。
もちろん、俺も彼女が今何処にいるかなど知らないし、皆目見当もつかない。
だが、と教壇からの抑揚のない声が耳をすり抜けるなか、再び指でその字をなぞった。
古代アテネの因習。
陶片追放。オストラキスモス。
あの日、彼女の父親は忽然と姿を消した。その様は蜃気楼のようであり、それはまるではじめからそんな人間何処にも存在していなかったかのようでもあった。
ねえ、今なら分かるよ、みょうじさん。
あの日、あのときの君の行動が一体何を意味していたのか。
今なら理解できるよ。
…
(陶片追放は貝殻追放とも云うそうですね。)
その子とは近所だ、というだけで特に仲が良かったというわけでも、何かしらに関わりがあったというわけでもなかった。だが、押された烙印のようにそれは俺の深くにこべりつき、今でもふとした瞬間に思い出されるのだ。
通っていたテニススクールの帰り、歩き慣れた海岸沿い。人の気配すら感じられない其処は、耳を澄ませないと聞こえないほどの穏やかな波の音も相まり何処か物寂しげな雰囲気を醸し出していた。
ぼうっと歩いているとふと、そんな砂浜に踞る小さな人影が目に入った。人影は頭をもたげ、じっと動きを見せない。
背にかかる束ねられた髪は、多分女の子だろう。暫く立ち止まって様子を窺うも、一向に動きを見せないその姿に、何かあったのではないかという考えが俺のなかでむくむくと立ち昇ってきた。よし、と気を引き締めそろ、そろと件の人影に近づいていく。
「……ねぇ、どうかしたの」
おずおずと声を掛けると、女の子はゆっくりと顔を上げた。同時に彼女の手元に何かがちらと見えたが、それは直ぐ様隠され、それが一体何であったのかは分からなかった。
振り返って黒い瞳を瞬かせるその子は見知った顔であり、二軒隣のマンションに住む同じクラスのみょうじさんであった。
家も近所、しかも今まさに同じクラスではあるものの一緒に遊ぶどころかろくに話したこともない彼女との予想外のぼせた遭遇に、此方から声を掛けておいて何だが思わず小さくまごついた。
対して当のみょうじさんは、二、三度まばたきをすると薄い笑顔で「どうもしないよ」と先の俺の問い掛けに対し答えた。その声が何故かは分からないけれど妙に耳によく馴染んで、とても不思議な感じがした。
そんな俺の心境など理解しようもない彼女は、俺の背負うバッグに目を向け「幸村くんはテニスの帰り?」と尋ねてくる。
「、うん」
「ふぅん、大変だねこんな遅くまで」
問い掛けておきながらさして興味も無さそうな返し、それと共にみょうじさんはその場からすくりと立ち上がった。すると、ポケットからクラスの誰の筆箱にも入っているような細いネームペンがこぼれ落ちた。俺はそれを拾い上げ、持ち主である彼女へとそっと手渡した。
「あ、ありがと」
不意、受け取る指の先に乗る、白の入り交じった薄桃色の不揃いでやけに短い爪が見えた。がたがたと波打つようなそれは爪切りでできるような代物ではなく、加えて皮まで剥かれた形跡もあり、とても痛々しいものであった。
ろくろく知らない同級生の意外な一面を垣間見たようで、焼きついた彼女の指の先は、頭の中からこれ以上考えてはならない、と俺に対して忠告しているようにも思えた。
気を逸らすように「みょうじさんこそ、こんな時間にどうしてここに、」その瞬間、思わず息を呑んだ。いるの、という言葉が続きとして繋がれることはなかった。彼女の不意に合わせられた両の眼が何故かひどく得体の知れないもののように思えてならず、意識する前に呑み込まざるを得なかったのだ。
「お母さんを、待ってるの」
ペンが入れられたポケットとは逆の手に握られていたのは、ごく小さな貝殻であった。彼女は手のひらの中のそれを大きく振りかぶると、勢いよく海へと投げ入れた。
一連の動作と共に、何でもないように告げられた返答に俺がこれ以上言葉を重ねることはなく、そのまま帰途を辿った。
最後、みょうじさんはひら、と手を振りながら「じゃあね」と言ったが、もうそのときには両目に浮かぶあの得体の知れないものは姿を消していた。
そしてその日、彼女の父親はその姿を消した。
教科書の、羅列された文字の中でもとびきりの存在感を放つ黒々としたインクのたっぷり染み込んだ太い字をそっとなぞる。
後の近所の人らの話によれば、彼女、みょうじさんの父親はあの日、何の前触れもなく、忽然と姿を消したらしい。
まるで蜃気楼かのように、はじめから何処にも存在などしていなかったかのように。
さらにその数日前、みょうじさんの住まうマンションの住人は聞いたらしい。一家が生活を営む一室から響く怒号を。
開け放たれた玄関扉。ドアノブを握る男が女に向かって声を張り上げる。何度も、何度も。逆の手で女の髪の毛を掴む。女はその力に引きずられ、玄関を這いずる。か細い声で、しきりに制止を訴える。
結局、女が玄関の敷居をまたぐようなことは無かったが、ドアが閉められた後も男の低い怒号と女の金切り声、鈍く重苦しい音は響き続けたという。
話によると、どうやらそれは一年という目で見れば、疎らな間隔で訪れることらしく、また決まって深夜に聞こえるものらしい。
その度に隣人は肝を冷やしていたそうだが、当の被害者が事に関して口を閉ざし、かつ行動も起こそうとしなかったため、周囲が手を出すことは出来なかった、とその人は話していた。
「あそこの家、ゴミの日になると必ず袋いっぱいの空き缶出してたわよね、それ全部お酒なのよ」
「え、もうそれアル中だったんじゃないの?」
「確かに、そんなんじゃまともに話なんか出来っこなかったでしょうねぇ」
「酔って暴力を振るうなんて、ちょっと信じられないわあ」
「旦那さん、優しそうだったのものねぇ、愛想だって良かったし」
「真面目そうだったし」
「やだ、人は見かけによらないものよ」
「そうね、奥さんも気の毒にねえ、まさかあんな人だなんて思ってなかったでしょうに」
「こんな風になるなんて、ってこと?」
「そうそう、でも毎日じゃなくてやぁっと落ち着いた頃にまた、っていうのがなんだかタチが悪いわよね」
「お酒は飲んでても、いつもそういうことするってわけじゃないから、誰かにも話しづらかったのかも」
「優しいところだけ信じて、いつまた噴火するかびくびくしながら?」
「まあ、何にせよこっちに手を上げてくる旦那なんてどちらにしろゴメンよ!」
「奥さんも、さっさと別れちゃえばよかったのにねぇ」
「何で別れなかったのかしら」
「だからそれは、いつもそうやって手を上げるわけじゃないから、」
「それも多分あるけど、違うわよ」
「……ああ、そういえばあそこ、お子さんが一人、いらしたわね」
「あ、娘さんでしょ、なまえちゃん、まだ小学生の」
「やだ、じゃあもしかしたら、自分の実の父親が母親に暴力を振るうところももう何回も見てたんじゃない?」
「見てたに決まってるじゃない!」
「この間なんて止めに入ったらしいわよ、泣きながら、すごく、怖かったでしょうね」
あの海岸での出来事を最後に、俺とみょうじさんが関わることはなかった。元々ほとんど関わりなど持たなかったのでそれは当然であったが、彼女が小学校を卒業する頃にはこの街を出ていってしまったことで、それは文字通り本当の最後となったわけだ。
みょうじさんは誰に行き先を告げることもなく、細い糸を大きな裁ち鋏で断ち切るようにあまりに容易く、あっさりと、そしてあまりにも鮮やかにその繋がりを絶ってみせたのだ。
もちろん、俺も彼女が今何処にいるかなど知らないし、皆目見当もつかない。
だが、と教壇からの抑揚のない声が耳をすり抜けるなか、再び指でその字をなぞった。
古代アテネの因習。
陶片追放。オストラキスモス。
あの日、彼女の父親は忽然と姿を消した。その様は蜃気楼のようであり、それはまるではじめからそんな人間何処にも存在していなかったかのようでもあった。
ねえ、今なら分かるよ、みょうじさん。
あの日、あのときの君の行動が一体何を意味していたのか。
今なら理解できるよ。
…
(陶片追放は貝殻追放とも云うそうですね。)