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※年齢操作
きっかけなど、多分些細なことだった。
それは昨日であれば流せたことが今日になると流せなくなってしまったに過ぎないのだ。
切原赤也の抱える、つまらないことに腹を立てる悪癖は未だそのなりをひそめる気配すら見せない。
しかし、ただ一つ変わったことがあるとすれば、その激情が撒き散らされる範囲が自身の周囲からごく限られた人間のみになったことであった。
不幸にもその限られた人間のカテゴリーに属していたなまえは、頭に昇る血を抑えきれず自身に手を上げる男に、常と同じくろくな抵抗も許されないまま床に転がっていた。
死人か何かのような表情であの悪夢と言っても過言ではない出来事の最中、一度として開かれなかった口唇をゆっくりと動かし、ねめつけるような視線を寄越す。「気ィ済んだ?」あかや、いやに柔らかい声音が男の鼓膜を撫でた。
過ぎ去った衝動に打ちのめされた切原はその声に弾かれるように馬乗りになられた彼女に意識を向けた。
先程動かされた唇の端は痛々しく腫れ、また切れたのか血が滲んでいた。既に腫れ上がった頬は醜く腐り落ちる寸前の果実のような毒々しささえも感じさせる。
鼻からたらたらと流れる血が重力に従い、滑り落ちていく。その様を男は黙って見つめた。「……どいてよ」動かした分だけ走る顔中が軋むような痛みに、彼女は顔をしかめた。それを受け、切原はようやっとといった様子でよろよろと立ち上がった。そして何かに導かれるように心許ない歩みでキッチンへと姿を消した。
圧迫感から解放されたことでなまえは深く息を吸った。次いで吐くその動作はごく当たり前のものであったが、先程までそれすら許されなかった名前にしてみれば、改めて意識しなければ行えないようなものであった。
やっと呼吸という運動を取り戻した彼女は、切原よりもずっと緩慢な動作で鉛のような身体を起こした。その際、つとこめかみにちり、と焼きつくような痛みが走り、ただでさえ険しい顔がさらにしかめられた。
垂れる血がぽたぽたと服にしみを作ったが、今のなまえにとってそんなことどうでもよかった。頭を内側からむりやりに揺さぶられているような心地の悪さも、おもちゃの金具で繋ぎ合わせた作り物のように感覚の鈍った腕も、放っておけばいずれ治るそのどれもこれもがどうでもよかった。
なまえにとって目下の問題はただ一つ。この悪意ある盗人に荒らされたといっても差し支えないこの部屋だけだった。毎度のこととはいえ、やはり面倒くさいことこの上ないなと彼女は心中ひそかに毒ついた。
現在彼女が嘆くこの現状を作り出した張本人。件の男はキッチンへと姿を消していた筈であったが、いつの間にやら床に座り込むなまえの背後に音もなく佇んでいた。平素動作の一つ一つ、そのどれを取っても騒がしいことが嘘のようであった。
男は黙ったまま、己の手の中のものを差し出した。差し出されたそれ、氷嚢を同じく黙って受け取った名前は熟れに熟れた果実のように赤らんだ自身の頬へと押し当てた。
「なぁ、鼻血」
「分かってるよ」
ティッシュ、とわざわざ口にしなくたって通じる。案の定差し出された箱に、彼女は礼を言うような真似はしなかった。
引ったくるように掴んだティッシュを、些か粗雑とも云える手つきでなまえは鼻に詰め込んだ。
そのぞんざいなやり方に切原は何か言いたげに眉を動かしたが、結局その口はつぐまれたままだった。二人を取り巻くのは不自然な静寂。男はもう片方の手に握られていた救急箱からガーゼを取り出した。まさに壊れ物に触れるように、清潔なそれが血の滲んだ口端を拭う。鈍く、力の抜けた腕に小慣れた様子で湿布を貼る妙な手つきの良さを、なまえは対岸の火事でも見るかのような心地でぼんやりと眺めた。「なぁ」
「なに」
「痛くねぇの」
「痛いに決まってるでしょ」
馬鹿も此処まで来ると才能ね、と皮肉の一つでも吐いてやろうとしたが、件の男の顔からはあまりにも生気が感じられず、女は開くつもりであった口を閉ざした。
「痛ぇんだろ」
「うん」
「だったら、お前なんでいつまでたっても逃げねぇの」
「……赤也」
「俺らいつからこうだった?なぁなまえ、いっつもこんな目に合ってんのに、お前なんで俺と一緒にいれんの」
「……」
「お前俺がお前のダチになんて言われてっか知ってるか?DV野郎、暴力男だよ」
まあその通りなんだけどよ、と切原は一人ごちた。自身を慮るような手の動きに、なまえは無感動に視線を這わせた。
「そういう暴力男と、お前はなんでまだ一緒にいんの」
「赤也」
なんでお前は、続く言葉をなまえは知っていた。被せられた自分の名に男はすっかり弱々しくなってしまった双眸を向けた。
「私、今その話はしたくない」
なまえの冷ややかな声音を乗せた言葉は脆さそのものと化した今の切原をはねのけるには充分過ぎるものであった。常であれば此処で口答えの一つでもしただろう。だが、らしくない従順さにも似たそれは男の唇を縫い上げた。続く言葉を奪い取られ、閉口した切原が黙々と手を動かす様子をなまえはただじっと見つめていた。
率直に、赤也は馬鹿だとなまえは思った。
まるで悪いのは自分ばかりで、おかしいのは私だと言わんばかりだ。
確かに、赤也のあれは悪癖に他ならないだろう。少なくとも私はそう思っている。
だがその悪癖とこの状況は、必ずしも等号で繋がるわけではない。作り出したのは悪癖であっても、此処まで導いたのはそれ以外の何かだ。
私はその何かが一体何であるのか痛いほど知っていたが、赤也はそれの輪郭をなぞるどころか、存在を感知することすら儘ならない。
だから、愚盲だと言うのだ。
赤也は気づかない。
私が赤也に対して何も言わないのは、何の責任もないからだ。真に赤也のことを思っているならば、此処まで無責任にはなれない。
そして私が赤也から逃げようとしないのは、赤也を縛るためだ。私のこの身体に残る傷をもって、私の男をからめとって離さないためだ。
赤也が私を傷つけているのは確かだ。だが、それはあくまで表面に浮かび上がってくるものというだけで、真に傷つけられているのは赤也のほうだ。
本当は、私は皮肉など言えた立場などではない。思いつく限りの罵詈雑言を立て並べられたとしても、私の行いには到底見合わないだろう。清算するにはあまりにも生易しいのだ。
赤也は捨て置かれるのは自分だと思っている。しかし、それは全くの間違いだ。
いざというとき、捨て置くのは赤也だ。捨て置かれるのは私だ。たとえ太陽が西から昇ってきたとしても、北半球と南半球が逆さになってしまったとしても、そうでなければならない。
そうでなくちゃあならないのだ。
嗚呼、なんと可哀想な赤也。なまえは白々しくも口の中だけでそう唱えた。
祈りは捧げない。捧げられない。
悪魔に魂を売ったなまえは祈りの仕方すらとうに忘却の彼方に葬っていた。
きっかけなど、多分些細なことだった。
それは昨日であれば流せたことが今日になると流せなくなってしまったに過ぎないのだ。
切原赤也の抱える、つまらないことに腹を立てる悪癖は未だそのなりをひそめる気配すら見せない。
しかし、ただ一つ変わったことがあるとすれば、その激情が撒き散らされる範囲が自身の周囲からごく限られた人間のみになったことであった。
不幸にもその限られた人間のカテゴリーに属していたなまえは、頭に昇る血を抑えきれず自身に手を上げる男に、常と同じくろくな抵抗も許されないまま床に転がっていた。
死人か何かのような表情であの悪夢と言っても過言ではない出来事の最中、一度として開かれなかった口唇をゆっくりと動かし、ねめつけるような視線を寄越す。「気ィ済んだ?」あかや、いやに柔らかい声音が男の鼓膜を撫でた。
過ぎ去った衝動に打ちのめされた切原はその声に弾かれるように馬乗りになられた彼女に意識を向けた。
先程動かされた唇の端は痛々しく腫れ、また切れたのか血が滲んでいた。既に腫れ上がった頬は醜く腐り落ちる寸前の果実のような毒々しささえも感じさせる。
鼻からたらたらと流れる血が重力に従い、滑り落ちていく。その様を男は黙って見つめた。「……どいてよ」動かした分だけ走る顔中が軋むような痛みに、彼女は顔をしかめた。それを受け、切原はようやっとといった様子でよろよろと立ち上がった。そして何かに導かれるように心許ない歩みでキッチンへと姿を消した。
圧迫感から解放されたことでなまえは深く息を吸った。次いで吐くその動作はごく当たり前のものであったが、先程までそれすら許されなかった名前にしてみれば、改めて意識しなければ行えないようなものであった。
やっと呼吸という運動を取り戻した彼女は、切原よりもずっと緩慢な動作で鉛のような身体を起こした。その際、つとこめかみにちり、と焼きつくような痛みが走り、ただでさえ険しい顔がさらにしかめられた。
垂れる血がぽたぽたと服にしみを作ったが、今のなまえにとってそんなことどうでもよかった。頭を内側からむりやりに揺さぶられているような心地の悪さも、おもちゃの金具で繋ぎ合わせた作り物のように感覚の鈍った腕も、放っておけばいずれ治るそのどれもこれもがどうでもよかった。
なまえにとって目下の問題はただ一つ。この悪意ある盗人に荒らされたといっても差し支えないこの部屋だけだった。毎度のこととはいえ、やはり面倒くさいことこの上ないなと彼女は心中ひそかに毒ついた。
現在彼女が嘆くこの現状を作り出した張本人。件の男はキッチンへと姿を消していた筈であったが、いつの間にやら床に座り込むなまえの背後に音もなく佇んでいた。平素動作の一つ一つ、そのどれを取っても騒がしいことが嘘のようであった。
男は黙ったまま、己の手の中のものを差し出した。差し出されたそれ、氷嚢を同じく黙って受け取った名前は熟れに熟れた果実のように赤らんだ自身の頬へと押し当てた。
「なぁ、鼻血」
「分かってるよ」
ティッシュ、とわざわざ口にしなくたって通じる。案の定差し出された箱に、彼女は礼を言うような真似はしなかった。
引ったくるように掴んだティッシュを、些か粗雑とも云える手つきでなまえは鼻に詰め込んだ。
そのぞんざいなやり方に切原は何か言いたげに眉を動かしたが、結局その口はつぐまれたままだった。二人を取り巻くのは不自然な静寂。男はもう片方の手に握られていた救急箱からガーゼを取り出した。まさに壊れ物に触れるように、清潔なそれが血の滲んだ口端を拭う。鈍く、力の抜けた腕に小慣れた様子で湿布を貼る妙な手つきの良さを、なまえは対岸の火事でも見るかのような心地でぼんやりと眺めた。「なぁ」
「なに」
「痛くねぇの」
「痛いに決まってるでしょ」
馬鹿も此処まで来ると才能ね、と皮肉の一つでも吐いてやろうとしたが、件の男の顔からはあまりにも生気が感じられず、女は開くつもりであった口を閉ざした。
「痛ぇんだろ」
「うん」
「だったら、お前なんでいつまでたっても逃げねぇの」
「……赤也」
「俺らいつからこうだった?なぁなまえ、いっつもこんな目に合ってんのに、お前なんで俺と一緒にいれんの」
「……」
「お前俺がお前のダチになんて言われてっか知ってるか?DV野郎、暴力男だよ」
まあその通りなんだけどよ、と切原は一人ごちた。自身を慮るような手の動きに、なまえは無感動に視線を這わせた。
「そういう暴力男と、お前はなんでまだ一緒にいんの」
「赤也」
なんでお前は、続く言葉をなまえは知っていた。被せられた自分の名に男はすっかり弱々しくなってしまった双眸を向けた。
「私、今その話はしたくない」
なまえの冷ややかな声音を乗せた言葉は脆さそのものと化した今の切原をはねのけるには充分過ぎるものであった。常であれば此処で口答えの一つでもしただろう。だが、らしくない従順さにも似たそれは男の唇を縫い上げた。続く言葉を奪い取られ、閉口した切原が黙々と手を動かす様子をなまえはただじっと見つめていた。
率直に、赤也は馬鹿だとなまえは思った。
まるで悪いのは自分ばかりで、おかしいのは私だと言わんばかりだ。
確かに、赤也のあれは悪癖に他ならないだろう。少なくとも私はそう思っている。
だがその悪癖とこの状況は、必ずしも等号で繋がるわけではない。作り出したのは悪癖であっても、此処まで導いたのはそれ以外の何かだ。
私はその何かが一体何であるのか痛いほど知っていたが、赤也はそれの輪郭をなぞるどころか、存在を感知することすら儘ならない。
だから、愚盲だと言うのだ。
赤也は気づかない。
私が赤也に対して何も言わないのは、何の責任もないからだ。真に赤也のことを思っているならば、此処まで無責任にはなれない。
そして私が赤也から逃げようとしないのは、赤也を縛るためだ。私のこの身体に残る傷をもって、私の男をからめとって離さないためだ。
赤也が私を傷つけているのは確かだ。だが、それはあくまで表面に浮かび上がってくるものというだけで、真に傷つけられているのは赤也のほうだ。
本当は、私は皮肉など言えた立場などではない。思いつく限りの罵詈雑言を立て並べられたとしても、私の行いには到底見合わないだろう。清算するにはあまりにも生易しいのだ。
赤也は捨て置かれるのは自分だと思っている。しかし、それは全くの間違いだ。
いざというとき、捨て置くのは赤也だ。捨て置かれるのは私だ。たとえ太陽が西から昇ってきたとしても、北半球と南半球が逆さになってしまったとしても、そうでなければならない。
そうでなくちゃあならないのだ。
嗚呼、なんと可哀想な赤也。なまえは白々しくも口の中だけでそう唱えた。
祈りは捧げない。捧げられない。
悪魔に魂を売ったなまえは祈りの仕方すらとうに忘却の彼方に葬っていた。