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(倫理観に欠けている)
※年齢操作
昼、食事中に急な吐き気に襲われたので急いで洗面台に向かい合えば、押し戻すことの出来なかったそれを白い陶器が受け止めた。
喉を刺すような痛みに耐えながら、蛇口をひねって素早く流す。それでも僅かにこびりついたものに嫌悪感を催す頭の隅で一つの可能性について考える。
ある程度押し出せば、徐々に落ち着きを取り戻していく。差し迫った状況から解放されたことで冷静になった頭が急速に冷えていくのを感じた。
この状況そのものが、私にはとても恐ろしくてならなかった。
部屋着を着替える暇も今は惜しい。玄関のラックから車のキーを乱暴に引っ付かんでふらふらと部屋を出た。
手の中のそれが示した結果に頭が真っ白になった。何度まばたきをしても、どんなにこの結果を受け入れ難くとも、導き出されたものが変わることはない。
妊娠検査薬が、陽性をしっかり指している。
私が、妊娠していることをありありと示していた。
その後はもう、自分が何をしているのかよく分からないまま一日を過ごした。
気がついたら私は夕食を作っていたし、少し貯まっていた洗濯かごも空になっていた。
吐き気を堪えながら台所を動き回っていたが、結局我慢出来ずに何度か戻した。
度重なる嘔吐に通り道である喉が痛みを訴えたこと、胸焼けを起こし食欲が無いことを理由に食事はとらなかった。
繁忙期等、帰宅が遅くなる日以外は一緒にテーブルを囲むようにしているのに、食卓につこうとしない私に帰ってきた精市は不思議そうな顔をした。
私はへらりと笑って、間食をし過ぎてお腹がいっぱいなんだと嘘を吐いた。
何も知らず、しょうがないなと笑う彼に僅かの疚しさがごぽりと音を立てたがそれに蓋をし、敢えて見ないフリをした。
いつもと何の変わりもない穏やかな夜、上手く溶け込めない私はテーブル下でこっそりと腹を撫でる。
腹には不自然な膨らみもなく、常と全く変わらない。
明日、病院に行こう。
おめでとうございます。御懐妊です。
などと軽々しく言わないでほしい。向こうは此方の事情を知るわけもないので思うことも無駄なわけだが。
7週目。およそ2ヵ月、らしい。
医者の口から出たそれが止むことなく、おめでとうございます、御懐妊ですと一緒にぐるぐると頭をめぐる。
その医者はこうも言っていた。旦那さんとよく相談なさってくださいね、と。
そんなこと、相談できるわけないだろう。そう吐き捨ててしまいたかった。しかしそれは叶わぬことである。
私にとって、最も重くのし掛かっているのはまさしくこの言葉なのだ。
その夜は吐き気を我慢してご飯を作り、食卓を共にした。戻しそうになるのを何度も我慢し、また飲み込んだ。
自分の料理をこれ程不味いと思ったのはこれが初めてだった。
食べ終えて、波が過ぎ去ったと思ったら風呂に入った途端、急激な嘔吐感に襲われた。
口いっぱいに溜まる吐瀉物はとうとう押し止めることは出来ず一気に吐き出した。
酸っぱい匂いの立ち込める空間に更なる吐き気がやって来るももう出てくるのは胃液ばかりであった。
すぐさま付近にシャワーの水流を押しあてながら、ぼんやりと自分が吐き出したものを見つめると先程食べたばかりのものが固形物として混じっていることに気がついた。
ふと鏡を見れば、死人のような顔をした女がいて思わず息を呑むがそれは、紛れもなく今の私の姿であった。
今現在私はこのような状況に置かれているものの、実は私達夫婦は子供という話題に触れたことが無い。決して子供を作りましょう、はいそうしましょうと言って床を共にした結果ではない。
私達は行為の頻度もまちまちで、おそらく全体数で見てしまえば若い夫婦としては回数は少ないほうだろう。
快楽に身を任せ、避妊を怠ったことだって無いのだ。
そもそも私は行為そのものがあまり好きではなく、彼もどちらかといえば淡白なほうだ。
そういうことに関しては自然と避けるような形となっている、そんな状況からまさか妊娠するなんて誰が思うだろうか。
現に、私は未だにこの状況を受け入れられていない。
子供は授かり物だ。
欲しいと心から願ったからといって与えられるものではなく、神様がどうするのか、その采配によって決められる。
なのに、何故なのだろうか。
お前はどうして、此処にやって来てしまったのか。
次の日も、その次の日も、私はそうして同じように過ごした。
一人で抱え込むには重すぎる荷を背負い、あまつさえそれを隠すのはとても辛いことだ。
しかし投げ出すことも放り出すことも出来ず、見えない明日をさ迷うことになったとしても、私にとってはずっと楽だった。
いつかは明るみに晒されることなのだから、早く自分の口から彼に説明しなくてはならない、なんてことは分かっていた。
それでも私は楽なほうをとった。
己、そして何より夫婦の安寧をとったのだ。
目先のものにとらわれ、その先に何があるのか考えない。
それは正しく愚か者の姿であった。
だからきっと、これは己のことを顧みない女への子供の意趣だ。
今までどうにか事実を隠し通してきたが、そんな苦労もこれで水の泡である。
私はやって来た嘔吐感を飲み過ごそうとし、それに失敗した。しかも、よりにもよって精市の目の前で。
もう駄目だ、そう思った。しかし、流石に吐瀉物を目の前で吐き出すのは幾らなんでも気が引ける。この期に及んでそんなことばかり考えるのは無意識のうちにこの望まない状況から思考だけでも逃げようとしているからなのか。
とりあえず、キッチンでも何でも水が流せるところに向かわなくては。迫る嘔吐感を何とか押し止めながらよろよろと立ち上がったところで、思い切り床に戻した。
何だかもう、色々と最悪である。
急に床へとダイナミックなリバースを決め、倒れた私を洗面所まで連れていき口を濯がせた後、ソファーに優しく寝かせてくれただけでなく、何も言わずに吐瀉物の処理までしてくれる彼は何てできた男なのか。
そんな夫の鏡のような人にある種の不義を働いている自分が何だかすごく嫌な人間に思えてきて、悲しくなり、寝かせてくれたときに共に掛けられた薄手の毛布をきゅっと握り締めた。
「なまえ」
頭まで覆った毛布を下げ、そっと顔を出した。
すると、するりと首元に少し冷たい手が差し込まれ、「…熱は、無いと思うけど、一応測ってみようか」とすくり、立ち上がった。居間の隅の三段棚から体温計を取り出し、それを私へと手渡す。大人しく左の脇へ入れ、あの軽快な機械音が鳴るのを静かに待つ。
ピピッ。測定し終わったことを示されたので脇から取り出し、映し出された特有のデジタル文字を「36.0…」とぼそぼそと読み上げた。
「平熱か…まだだるい?」
その問いに対し、一つだけ頷いて見せた。
こうしてあれこれと世話を焼いてくれる彼は知らない。今の私の身体には私以外の命があって、これはそのせいであることも、何も。
彼は私ではない。私が口を閉ざし続けている限り、彼が私の身に何が起こっているのか、気づくことはないのだ。
「最近少し寒いからね、冷えたのかもしれないな」
「……がう…」
「うん?」
「…そうじゃなくて……妊娠、してるの」
広がる沈黙。それに耐えかねてソファーの背もたれに身体を向けた。
彼がどんな顔をしているのか、見ることも出来なかったし、見たくもなかった。
「…いつ分かったんだい」
冷え冷えとした空間に突如姿を現した音を受け取った耳は余すところなく寸分の狂いもなく大脳へと伝えた。そんな頭に響き渡る問いに答えるべく重い口を恐る恐るこじ開ける。
「、…一週間前」
あの日、あの時立ち止まった場所で私はずっと迷い続けていた。何処にも行けず、また何にもなれないまま先の見えない明日を生きていた。ただ一人で。
穏やかな生活になんか戻れないくせに中途半端に紛れ、あたかも何事も無かったかのように過ごす姿は端から見れば何と滑稽だったことだろう。
私はまるで、落ちこぼれのカメレオンだった。
「なまえは、どうしたいの?」
背中越し、響くやわらかい声に思わずゆるく握りしめた拳に力を入れた。指の先が手のひらに沈み込む。
「産みたい?産みたくない?」
声音はやはりやわらかだ。しかしそれでいて的確に核心を突いてくるその言葉は鋭く、脳髄を一刺しに貫かれたような、そんな心地であった。
「…むりだよ」
もしかしたら、彼は、精市は、全部分かっているのかもしれない。私が何を思っているのか、その心の内、私の汚いところ、それさえも全て。
「どうして?」
だから、問いへの答えとなっていない私の返しにそんな風に言うのだ。全てを分かっていてなお、私に答えを出させようとしているのだ。
「……私は、自分の身体に子供がいるって分かったとき、一番最初に”気持ち悪い”って思った。担当してくれた先生はおめでとうございます、って言ったけど全然そんなこと無かった。だって私は少しも嬉しくなかったし、先生が言うみたいにめでたいなんて、思えなかった」
「自分の身体のなかに私じゃない、別の身体があるなんて、気持ち悪くてしょうがなかった」
「私にとってこれは、子供は、ただの異物で、」
「こうして他人の身体に住み着いて、勝手に栄養もぎ取って、腹の奥で何も知らずにぬくぬくと、だんだん大きくなって、人になる。最初はたくさんの細胞のなかの小さな一つだったくせに、それが何ヵ月かのうちに成長して、人の形になっていくなんてすごく気持ち悪くて、…気味が悪い」
「今だってこうやってるうちに少しずつ大きくなってると思うとぞっとするし、それが自分のなかにいるのがとても、嫌でしょうがないの」
「私に、母親は無理だよ」
私が精市に頑なに妊娠を告げなかったのはこれが理由であった。
私は、絶望的に母親に向いていなかった。
まだ幼かった子供の頃から己より幼い子供が嫌いだった。中学、高校と年月が経ち周りの女の子が幼い子供をかわいいかわいいと持て囃しているとき、その気持ちを全く理解することが出来なかった。そのとき、私は自分が幼い子供に嫌悪の情を抱いていることを明確に悟ったのだ。
それをふとした瞬間に吐露すると、母は私もそうだった、と、子供が出来れば変わるものだと言った。しかし私は今実際子供をこの身に宿しているが母の言うような愛情なんてものは一切湧かなかったし、あるのは暗く冷たい怯えと厭悪だけであった。
私にとって、子供は夫婦の愛を形にしたものではなく、私たちが肌を重ねた結果の残り滓であり、冷たくなってしまった愛の亡骸であった。
だから、正しく異物なのだ。
「じゃあ、産みたくないの?」
今まで黙って聞いていた彼は尚もやわらかな声で問いかける。声音からは何も読み取れなかったが、姿の無い恐怖が骨を辿るように背を這うのを確かに感じた。
彼は今私を突き落とすことが出来る唯一の人間であり、同時にただの一人掬い出すことの出来る人間でもあった。
「、わかんない…」
自分でも呆れてしまうが、散々己が如何に母親としての資格が無いか訴えておきながら結局私が出した結論はこれだった。
私にはこの身に宿る新しい生命を愛せる自信が無かった。だがだからといって堕ろす、即ちこれを殺す決断が出来るわけでも無かった。
私にはこの母になるに値しない女を母親と定められた小さな命が哀れでならなかった。子供は母親を選べない。全くその通りであり、それはひどく悲しいことだった。本人の意思とは無関係なところで勝手に母体を選定され、非情なる選択により勝手にその命を絶たれる。何もかもが身勝手だ。
私にはどうしてもこの無垢で、そして何より可哀想なものを殺す覚悟が決められなかった。
「精市…私、どうすればいいんだろう…」
徐々に尻すぼみになりながら震える声音で吐き出したこの言葉が今の私の全てであった。
愛すことも殺すことも出来ず、どうすればいいのかとさ迷う私は愚かな母で、何より弱い女でしかなかった。
不意。ぽん、と天井に向けた右肩にほのあたたかい感覚がのせられた。肩を包むようなそれが精市の手のひらであることを悟るのに然程時間は必要無かった。
すると、身体の正面とは逆の方向に力を込められた。逆らうことはせず、大人しくそれに従いだらりと背中をソファー全体へと沈める。
両目を伏せ、てんで外れたところを見つめる私の身体を抱き起こした精市は優しく自らのほうへと引き寄せた。
今は殆どやらなくなってしまったが、彼は学生時代テニスのトッププレイヤーであった。とはいえ話を聞いただけでその姿を見たことがない私には実感が湧かない、というのが正直なところである。しかしこうすると、細身に見えてもしっかり筋肉がついているし、体つきも女である自分とは全く違うことをいつでも実感する。
見た目よりずっとたくましい腕のなかで何度も洗濯されて微妙に薄くなってしまったシャツ越しの体温に額を埋めると、その確かに血の通った肉体にぼんやりと涙がこみ上げてくるのを自覚した。
「なまえが決めていいよ」
耳を擽るようなそれはその軽やかさとは裏腹に重く重く私の心へのし掛かってきた。冷涼とした心のうちがさらに冷えきっていく。着実に大きさを増す薄暗い感情が私を呑み込もうと音を立てながら這い寄ってくるのが恐ろしくて堪らなかった。
「俺は君に全ての責任を押し付ける側だ。今俺には君に強制する権利は無いんだよ」
分かるね?と此方を諭すように明瞭な口調で言い切られ、此処が何処なのか何処が何処なのかも分からなくなるほど私を支える私そのものが揺れ動いた。
彼は、私が何を思うのか分かっていてそれでも選択を私に委ねるというのか。私にはどうすればいいのか、何処に行けばいいのか、何も分からないというのに、どうしろというのか。
ぐらぐらと揺れ動くなか、ざわめく心音は追い詰められた私をいよいよ突き落とそうとうるさく急き立てる。
「でも、」
「君は、俺が産めと言ったら産むのかい?」
先よりもはっきりと発せられた問いに一瞬はらわたを撫でられるような心地がした。するりとした冷悧な感覚は確かなものであったが、まるでその認識は誤りだとでも言いたげにそれは直ぐにすり抜けていった。
「なまえ、どちらでもいいんだよ。どちらを選んだとしても、君の選択ならば俺はそれでいい。拒絶なんてしない」
「これは、君が決めることだ、なまえ」
額を離し、そして身体も離そうとすれば存外呆気なく背に回る腕は外された。
いの一番に彼の顔に視線をやれば、精市はその作り物のように美しい顔でただ微笑むだけで口を開くことはなかった。
結局、私が決断を下す日は訪れなかった。
あれから数日と経たないうちの一人きりの昼間。突如激しい腹痛に見舞われ、トイレに駆け込んだ私から程無くして”何か”が出ていった。その”何か”を目にしたとき、思わず目を見張った。便器の水に浮かぶそれは赤黒く、また何の形とも言い難いものであった。しかし私は瞬時にそれが一体何であるのか悟った。
それは肉塊であった。
それは人の形を成さないかつて、小さな命であったものだった。
何か特別な感情が湧くことも、それの正体を悟ったからといって何をすることもなく、私はただ文字通り流した。
トイレのレバーを数回捻れば肉塊は流れ切り、赤黒さの溶けた水から元の何も写さぬ透明な水へ戻った。
全てはこれで元通り。余りにもあっさりと元の生活へと戻った。
その日の夕食時、精市には”流れた”ことを伝えた。精市は特に何を言うわけでもなくただ「そう」とだけ言った。そして「明日は魚が食べたいな」と何でもないことを溢した。
だから今私はこうして魚を焼いている。近所のスーパーで買った398円のほっけ。
もうすぐ帰ってくる頃とはいえ、二人で食卓につく頃には少し冷めているかもしれない。精市はきっと笑って少しばかりの文句を言うだろう。それでいい。それがきっと私たちには相応しいのだ。
ぼんやりとコンロを見つめる。
思えば、彼は一言たりとも私にどうしてほしいのか言わなかった。常時私に全ての選択を委ね、ほんの少し後ろに下がった位置からじっと見ているだけであった。
“どちらでもいいんだよ”
“君の選択ならば、俺はそれでいい”
“君が決めることだ、なまえ”
ならば、あなたはどちらが良かったの?
私が流れたことを伝えたとき、あなたは「そう」としか言わなかった。
精市、あなた本当はどちらを望んでいたの?
ピーッ。焼き上がりを知らせる軽快な音が空気を裂いた。
…
どちらがカメレオンだった?
※年齢操作
昼、食事中に急な吐き気に襲われたので急いで洗面台に向かい合えば、押し戻すことの出来なかったそれを白い陶器が受け止めた。
喉を刺すような痛みに耐えながら、蛇口をひねって素早く流す。それでも僅かにこびりついたものに嫌悪感を催す頭の隅で一つの可能性について考える。
ある程度押し出せば、徐々に落ち着きを取り戻していく。差し迫った状況から解放されたことで冷静になった頭が急速に冷えていくのを感じた。
この状況そのものが、私にはとても恐ろしくてならなかった。
部屋着を着替える暇も今は惜しい。玄関のラックから車のキーを乱暴に引っ付かんでふらふらと部屋を出た。
手の中のそれが示した結果に頭が真っ白になった。何度まばたきをしても、どんなにこの結果を受け入れ難くとも、導き出されたものが変わることはない。
妊娠検査薬が、陽性をしっかり指している。
私が、妊娠していることをありありと示していた。
その後はもう、自分が何をしているのかよく分からないまま一日を過ごした。
気がついたら私は夕食を作っていたし、少し貯まっていた洗濯かごも空になっていた。
吐き気を堪えながら台所を動き回っていたが、結局我慢出来ずに何度か戻した。
度重なる嘔吐に通り道である喉が痛みを訴えたこと、胸焼けを起こし食欲が無いことを理由に食事はとらなかった。
繁忙期等、帰宅が遅くなる日以外は一緒にテーブルを囲むようにしているのに、食卓につこうとしない私に帰ってきた精市は不思議そうな顔をした。
私はへらりと笑って、間食をし過ぎてお腹がいっぱいなんだと嘘を吐いた。
何も知らず、しょうがないなと笑う彼に僅かの疚しさがごぽりと音を立てたがそれに蓋をし、敢えて見ないフリをした。
いつもと何の変わりもない穏やかな夜、上手く溶け込めない私はテーブル下でこっそりと腹を撫でる。
腹には不自然な膨らみもなく、常と全く変わらない。
明日、病院に行こう。
おめでとうございます。御懐妊です。
などと軽々しく言わないでほしい。向こうは此方の事情を知るわけもないので思うことも無駄なわけだが。
7週目。およそ2ヵ月、らしい。
医者の口から出たそれが止むことなく、おめでとうございます、御懐妊ですと一緒にぐるぐると頭をめぐる。
その医者はこうも言っていた。旦那さんとよく相談なさってくださいね、と。
そんなこと、相談できるわけないだろう。そう吐き捨ててしまいたかった。しかしそれは叶わぬことである。
私にとって、最も重くのし掛かっているのはまさしくこの言葉なのだ。
その夜は吐き気を我慢してご飯を作り、食卓を共にした。戻しそうになるのを何度も我慢し、また飲み込んだ。
自分の料理をこれ程不味いと思ったのはこれが初めてだった。
食べ終えて、波が過ぎ去ったと思ったら風呂に入った途端、急激な嘔吐感に襲われた。
口いっぱいに溜まる吐瀉物はとうとう押し止めることは出来ず一気に吐き出した。
酸っぱい匂いの立ち込める空間に更なる吐き気がやって来るももう出てくるのは胃液ばかりであった。
すぐさま付近にシャワーの水流を押しあてながら、ぼんやりと自分が吐き出したものを見つめると先程食べたばかりのものが固形物として混じっていることに気がついた。
ふと鏡を見れば、死人のような顔をした女がいて思わず息を呑むがそれは、紛れもなく今の私の姿であった。
今現在私はこのような状況に置かれているものの、実は私達夫婦は子供という話題に触れたことが無い。決して子供を作りましょう、はいそうしましょうと言って床を共にした結果ではない。
私達は行為の頻度もまちまちで、おそらく全体数で見てしまえば若い夫婦としては回数は少ないほうだろう。
快楽に身を任せ、避妊を怠ったことだって無いのだ。
そもそも私は行為そのものがあまり好きではなく、彼もどちらかといえば淡白なほうだ。
そういうことに関しては自然と避けるような形となっている、そんな状況からまさか妊娠するなんて誰が思うだろうか。
現に、私は未だにこの状況を受け入れられていない。
子供は授かり物だ。
欲しいと心から願ったからといって与えられるものではなく、神様がどうするのか、その采配によって決められる。
なのに、何故なのだろうか。
お前はどうして、此処にやって来てしまったのか。
次の日も、その次の日も、私はそうして同じように過ごした。
一人で抱え込むには重すぎる荷を背負い、あまつさえそれを隠すのはとても辛いことだ。
しかし投げ出すことも放り出すことも出来ず、見えない明日をさ迷うことになったとしても、私にとってはずっと楽だった。
いつかは明るみに晒されることなのだから、早く自分の口から彼に説明しなくてはならない、なんてことは分かっていた。
それでも私は楽なほうをとった。
己、そして何より夫婦の安寧をとったのだ。
目先のものにとらわれ、その先に何があるのか考えない。
それは正しく愚か者の姿であった。
だからきっと、これは己のことを顧みない女への子供の意趣だ。
今までどうにか事実を隠し通してきたが、そんな苦労もこれで水の泡である。
私はやって来た嘔吐感を飲み過ごそうとし、それに失敗した。しかも、よりにもよって精市の目の前で。
もう駄目だ、そう思った。しかし、流石に吐瀉物を目の前で吐き出すのは幾らなんでも気が引ける。この期に及んでそんなことばかり考えるのは無意識のうちにこの望まない状況から思考だけでも逃げようとしているからなのか。
とりあえず、キッチンでも何でも水が流せるところに向かわなくては。迫る嘔吐感を何とか押し止めながらよろよろと立ち上がったところで、思い切り床に戻した。
何だかもう、色々と最悪である。
急に床へとダイナミックなリバースを決め、倒れた私を洗面所まで連れていき口を濯がせた後、ソファーに優しく寝かせてくれただけでなく、何も言わずに吐瀉物の処理までしてくれる彼は何てできた男なのか。
そんな夫の鏡のような人にある種の不義を働いている自分が何だかすごく嫌な人間に思えてきて、悲しくなり、寝かせてくれたときに共に掛けられた薄手の毛布をきゅっと握り締めた。
「なまえ」
頭まで覆った毛布を下げ、そっと顔を出した。
すると、するりと首元に少し冷たい手が差し込まれ、「…熱は、無いと思うけど、一応測ってみようか」とすくり、立ち上がった。居間の隅の三段棚から体温計を取り出し、それを私へと手渡す。大人しく左の脇へ入れ、あの軽快な機械音が鳴るのを静かに待つ。
ピピッ。測定し終わったことを示されたので脇から取り出し、映し出された特有のデジタル文字を「36.0…」とぼそぼそと読み上げた。
「平熱か…まだだるい?」
その問いに対し、一つだけ頷いて見せた。
こうしてあれこれと世話を焼いてくれる彼は知らない。今の私の身体には私以外の命があって、これはそのせいであることも、何も。
彼は私ではない。私が口を閉ざし続けている限り、彼が私の身に何が起こっているのか、気づくことはないのだ。
「最近少し寒いからね、冷えたのかもしれないな」
「……がう…」
「うん?」
「…そうじゃなくて……妊娠、してるの」
広がる沈黙。それに耐えかねてソファーの背もたれに身体を向けた。
彼がどんな顔をしているのか、見ることも出来なかったし、見たくもなかった。
「…いつ分かったんだい」
冷え冷えとした空間に突如姿を現した音を受け取った耳は余すところなく寸分の狂いもなく大脳へと伝えた。そんな頭に響き渡る問いに答えるべく重い口を恐る恐るこじ開ける。
「、…一週間前」
あの日、あの時立ち止まった場所で私はずっと迷い続けていた。何処にも行けず、また何にもなれないまま先の見えない明日を生きていた。ただ一人で。
穏やかな生活になんか戻れないくせに中途半端に紛れ、あたかも何事も無かったかのように過ごす姿は端から見れば何と滑稽だったことだろう。
私はまるで、落ちこぼれのカメレオンだった。
「なまえは、どうしたいの?」
背中越し、響くやわらかい声に思わずゆるく握りしめた拳に力を入れた。指の先が手のひらに沈み込む。
「産みたい?産みたくない?」
声音はやはりやわらかだ。しかしそれでいて的確に核心を突いてくるその言葉は鋭く、脳髄を一刺しに貫かれたような、そんな心地であった。
「…むりだよ」
もしかしたら、彼は、精市は、全部分かっているのかもしれない。私が何を思っているのか、その心の内、私の汚いところ、それさえも全て。
「どうして?」
だから、問いへの答えとなっていない私の返しにそんな風に言うのだ。全てを分かっていてなお、私に答えを出させようとしているのだ。
「……私は、自分の身体に子供がいるって分かったとき、一番最初に”気持ち悪い”って思った。担当してくれた先生はおめでとうございます、って言ったけど全然そんなこと無かった。だって私は少しも嬉しくなかったし、先生が言うみたいにめでたいなんて、思えなかった」
「自分の身体のなかに私じゃない、別の身体があるなんて、気持ち悪くてしょうがなかった」
「私にとってこれは、子供は、ただの異物で、」
「こうして他人の身体に住み着いて、勝手に栄養もぎ取って、腹の奥で何も知らずにぬくぬくと、だんだん大きくなって、人になる。最初はたくさんの細胞のなかの小さな一つだったくせに、それが何ヵ月かのうちに成長して、人の形になっていくなんてすごく気持ち悪くて、…気味が悪い」
「今だってこうやってるうちに少しずつ大きくなってると思うとぞっとするし、それが自分のなかにいるのがとても、嫌でしょうがないの」
「私に、母親は無理だよ」
私が精市に頑なに妊娠を告げなかったのはこれが理由であった。
私は、絶望的に母親に向いていなかった。
まだ幼かった子供の頃から己より幼い子供が嫌いだった。中学、高校と年月が経ち周りの女の子が幼い子供をかわいいかわいいと持て囃しているとき、その気持ちを全く理解することが出来なかった。そのとき、私は自分が幼い子供に嫌悪の情を抱いていることを明確に悟ったのだ。
それをふとした瞬間に吐露すると、母は私もそうだった、と、子供が出来れば変わるものだと言った。しかし私は今実際子供をこの身に宿しているが母の言うような愛情なんてものは一切湧かなかったし、あるのは暗く冷たい怯えと厭悪だけであった。
私にとって、子供は夫婦の愛を形にしたものではなく、私たちが肌を重ねた結果の残り滓であり、冷たくなってしまった愛の亡骸であった。
だから、正しく異物なのだ。
「じゃあ、産みたくないの?」
今まで黙って聞いていた彼は尚もやわらかな声で問いかける。声音からは何も読み取れなかったが、姿の無い恐怖が骨を辿るように背を這うのを確かに感じた。
彼は今私を突き落とすことが出来る唯一の人間であり、同時にただの一人掬い出すことの出来る人間でもあった。
「、わかんない…」
自分でも呆れてしまうが、散々己が如何に母親としての資格が無いか訴えておきながら結局私が出した結論はこれだった。
私にはこの身に宿る新しい生命を愛せる自信が無かった。だがだからといって堕ろす、即ちこれを殺す決断が出来るわけでも無かった。
私にはこの母になるに値しない女を母親と定められた小さな命が哀れでならなかった。子供は母親を選べない。全くその通りであり、それはひどく悲しいことだった。本人の意思とは無関係なところで勝手に母体を選定され、非情なる選択により勝手にその命を絶たれる。何もかもが身勝手だ。
私にはどうしてもこの無垢で、そして何より可哀想なものを殺す覚悟が決められなかった。
「精市…私、どうすればいいんだろう…」
徐々に尻すぼみになりながら震える声音で吐き出したこの言葉が今の私の全てであった。
愛すことも殺すことも出来ず、どうすればいいのかとさ迷う私は愚かな母で、何より弱い女でしかなかった。
不意。ぽん、と天井に向けた右肩にほのあたたかい感覚がのせられた。肩を包むようなそれが精市の手のひらであることを悟るのに然程時間は必要無かった。
すると、身体の正面とは逆の方向に力を込められた。逆らうことはせず、大人しくそれに従いだらりと背中をソファー全体へと沈める。
両目を伏せ、てんで外れたところを見つめる私の身体を抱き起こした精市は優しく自らのほうへと引き寄せた。
今は殆どやらなくなってしまったが、彼は学生時代テニスのトッププレイヤーであった。とはいえ話を聞いただけでその姿を見たことがない私には実感が湧かない、というのが正直なところである。しかしこうすると、細身に見えてもしっかり筋肉がついているし、体つきも女である自分とは全く違うことをいつでも実感する。
見た目よりずっとたくましい腕のなかで何度も洗濯されて微妙に薄くなってしまったシャツ越しの体温に額を埋めると、その確かに血の通った肉体にぼんやりと涙がこみ上げてくるのを自覚した。
「なまえが決めていいよ」
耳を擽るようなそれはその軽やかさとは裏腹に重く重く私の心へのし掛かってきた。冷涼とした心のうちがさらに冷えきっていく。着実に大きさを増す薄暗い感情が私を呑み込もうと音を立てながら這い寄ってくるのが恐ろしくて堪らなかった。
「俺は君に全ての責任を押し付ける側だ。今俺には君に強制する権利は無いんだよ」
分かるね?と此方を諭すように明瞭な口調で言い切られ、此処が何処なのか何処が何処なのかも分からなくなるほど私を支える私そのものが揺れ動いた。
彼は、私が何を思うのか分かっていてそれでも選択を私に委ねるというのか。私にはどうすればいいのか、何処に行けばいいのか、何も分からないというのに、どうしろというのか。
ぐらぐらと揺れ動くなか、ざわめく心音は追い詰められた私をいよいよ突き落とそうとうるさく急き立てる。
「でも、」
「君は、俺が産めと言ったら産むのかい?」
先よりもはっきりと発せられた問いに一瞬はらわたを撫でられるような心地がした。するりとした冷悧な感覚は確かなものであったが、まるでその認識は誤りだとでも言いたげにそれは直ぐにすり抜けていった。
「なまえ、どちらでもいいんだよ。どちらを選んだとしても、君の選択ならば俺はそれでいい。拒絶なんてしない」
「これは、君が決めることだ、なまえ」
額を離し、そして身体も離そうとすれば存外呆気なく背に回る腕は外された。
いの一番に彼の顔に視線をやれば、精市はその作り物のように美しい顔でただ微笑むだけで口を開くことはなかった。
結局、私が決断を下す日は訪れなかった。
あれから数日と経たないうちの一人きりの昼間。突如激しい腹痛に見舞われ、トイレに駆け込んだ私から程無くして”何か”が出ていった。その”何か”を目にしたとき、思わず目を見張った。便器の水に浮かぶそれは赤黒く、また何の形とも言い難いものであった。しかし私は瞬時にそれが一体何であるのか悟った。
それは肉塊であった。
それは人の形を成さないかつて、小さな命であったものだった。
何か特別な感情が湧くことも、それの正体を悟ったからといって何をすることもなく、私はただ文字通り流した。
トイレのレバーを数回捻れば肉塊は流れ切り、赤黒さの溶けた水から元の何も写さぬ透明な水へ戻った。
全てはこれで元通り。余りにもあっさりと元の生活へと戻った。
その日の夕食時、精市には”流れた”ことを伝えた。精市は特に何を言うわけでもなくただ「そう」とだけ言った。そして「明日は魚が食べたいな」と何でもないことを溢した。
だから今私はこうして魚を焼いている。近所のスーパーで買った398円のほっけ。
もうすぐ帰ってくる頃とはいえ、二人で食卓につく頃には少し冷めているかもしれない。精市はきっと笑って少しばかりの文句を言うだろう。それでいい。それがきっと私たちには相応しいのだ。
ぼんやりとコンロを見つめる。
思えば、彼は一言たりとも私にどうしてほしいのか言わなかった。常時私に全ての選択を委ね、ほんの少し後ろに下がった位置からじっと見ているだけであった。
“どちらでもいいんだよ”
“君の選択ならば、俺はそれでいい”
“君が決めることだ、なまえ”
ならば、あなたはどちらが良かったの?
私が流れたことを伝えたとき、あなたは「そう」としか言わなかった。
精市、あなた本当はどちらを望んでいたの?
ピーッ。焼き上がりを知らせる軽快な音が空気を裂いた。
…
どちらがカメレオンだった?
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