浮上する意識のままに瞼をゆっくりと開ける。
内側から揺さぶられるような頭の痛みに顔をしかめながらも、一先ず状況を把握しようと震える眼を巡らした。
薄暗い生成色の天井。揃いの壁。部屋を閉ざす冷たい白のカーテン。
真上の電灯は点けられておらず、しかし薄く照らされているところを見るにどうやら此処ではない視界の外の電灯が点けられているらしい。


カリッ。カリッ。カリッ。
何処かから床を引っ掻くような規則的な音が聞こえる。その音のする方向を探り、目をやると、少し離れた位置に置かれた四脚テーブルの椅子に腰かける人の姿があった。椅子に大きく凭れる人影は当然この家の住人、そして俺をこの家へと招き入れた彼女で、そんな彼女の手元は自身の爪を爪で削っており、これが音の正体であった。
カリッ。カリッ。カリッ。
カリッ。カリッ、
規則的な動作は突如としてその動きを止めた。今まで黙って指の先を見つめていた黒々とした眼がそれを合図に静かに此方を向いた。僅かに開かれた口唇から覗く口腔内は底の無い暗闇で、奥に伸びる舌は其処に誘う手であった。
彼女は腰かけた其処からすくりと立ち上がると、此方へと歩み寄ってきた。寒々しい裸足のせいか一歩、また一歩と踏み出す度にぺたぺたと音が鳴る。片手で足りる歩数で倒れこむ身体の傍に佇み、何時もの無機質な視線で俺を見下ろす。一見常と変わらないように見えるその眼は今、何かを隠すように揺れていた。
彼女の片足が緩やかに持ち上げられる。浮いた足の裏が捉えたのは俺の腹部で、丁度へその上辺りにそれを乗せられると其処から薄いシャツ越しの冷えきった温度を感じた。
そして徐々に力を込められる足。ゆっくり、ゆっくり、強まる力に増していく圧迫感は腹に隙間なく詰まった内臓の呼吸をゆっくりと奪っていく。彼女の伏せられた瞳は視線の先である俺を見ているようでその実異なる何か、或いは何も見ていないようなひどく空虚なものとして其処に存在していた。
その瞬間、
「、かはっ、」
足に掛けられた先程の比でない力に内臓は押し潰され、詰まった息を吐き出した。次いで持ち上げられた足は勢いよく振り下ろされ、再びやって来た重圧に今度は蛙が潰れたような声が出た。
襲う鈍い痛みに反射的に腕で庇おうとすると、それを許さないとでも言うように馬乗りになってきた彼女により蹲ることも出来ないどころか重なる三度目の衝撃に多量の唾液が押し出される息と共に飛び出してくる。
そんな衝撃をやり過ごすより前に更に彼女は拳を振り上げ、それを口端へと食らわせた。
口内が切れたのか、瞬時に広がるじくじくとした痛みに明瞭になりつつあった意識が再び遠のきはじめる。

無理矢理に押し流そうとする波に呑まれながら漸く、首を冷たく覆うものに僅かながら意識を向けた。
薄らぐ視界に写るのは覆い被さる彼女で、頸部に当てられたのは彼女の冷えた手のひらだった。
その手にゆっくりと込められていく力に柔く気道は塞がれ、やがて呼吸は儘ならなくなる。
は、は、と短く間隔の狭まった息づかいがこの二人だけの空間に妙に生々しく響く。更に視界さえも奪われはじめ、写るものも定まらなくなる。
しかし不明瞭な視界は刹那、捉えた。
覆い被さる彼女はひどく悲しそうな顔をしていた。表情は時として言葉より雄弁にその感情を語ってみせる。
そして惑わす口唇は小さく開く。
「、幸村くんなんて、しんじゃえばいいのに」
か細くいやに弱々しい声音で綴られたその言葉に、俺は漸く何重にも覆われた皮の向こうにいる彼女を見た気がした。
深淵への誘いに抗うことが出来ず、そのまま意識を手放した俺の目に最後写ったそれは何よりも強く、確かに灼きついた。





「もう、別れよ」