Ironically
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「海に行きたい」
振り返った彼女はいかにも不思議そうに、間抜けな顔をしていた。しかしそれもつかの間、すぐにいつもの口角が少し下がった表情へ戻る。
「じゃあ、明日行こっか」
今度はおれが間抜けな顔になる番だった。
そもそも何で言ったのかすら分からないおれの気まぐれな一言によって本当に翌朝の始発でおれたちの海への旅は始まった。
始発ともなれば人などほとんどおらず、席はぽつぽつと埋まっているだけであった。
電車のリズムに合わせてゆらゆらと揺れながら隣合って座るが、ほとんど会話など無く何とも穏やかな空気に包まれていた。
ちらと隣の彼女に視線をやれば、切符をじーっと穴が開きそうなくらいに見つめていた。面白いのか?
おれたちの海への旅は最終目的地こそ海だが、どこの海に行くのか等何も決まっていないかなりの行き当たりばったり加減の旅だ。
こんな調子で海になどたどり着くのか。若干の不安を煽られつつ、向かいの窓から建物だらけの空を眺めた。
今は冬で、空は淡い紫色で、もうすぐ夜が明ける。
「一松くん、起きて」
急に揺さぶられて、びっくりして飛び起きた。
目の前には彼女が立っていて、おれの顔を覗き込んでいた。
「終点」
確かめるように紡がれたそれを理解するのは容易く、緩慢な動作で立ち上がった。
いつの間にか眠っていたようで身体が少し重かった。
視界がぼやけていて、まだ夢半分のおれを彼女は手首をひっつかんで電車を降りた。
「ここどこ」
むにゃむにゃと寝ぼけ眼で少し前を歩く髪を一つに結わえた後頭部に尋ねた。
「白糸」
いや、どこだよ。普段電車なんか乗らないくせに、こんな行き当たりばったりじゃ知ってるところのはずがないか。
「神奈川のほう行くからね」
淡々と告げる彼女は手慣れた様子で切符販売機を操作していた。二人、のボタンが押されたところではっとした。
「神奈川?東京湾じゃないの?」
「東京湾?そんなところでよかったの?」
きょとんとして彼女は振り返った。
ガ、と二枚の切符を機械が吐き出した。
その切符を二人で見つめ、顔を見合わせた。
「神奈川、行こう」
まあ、東京湾なんて海であって海じゃないようなものだしな。あんな建物だらけのただ海があるってところに行くよりずっといい。
「なんか、ごめん」
少し俯いた彼女はぽつりと謝罪の言葉を紡いだ。
こういうとき、男ならば気の利く言葉を掛けるべきなのだろうが、情けないことにそんな言葉思い付くはずがなく、切符を持っていないほうの彼女の手首を掴んで歩みを進めた。
あーあ、何でおれってこうなんだろ。いつもはうざったいクラスの一軍様なら軽ーくこなすだろうし、何なら長男や末弟辺りだって難なくこなす。他の兄弟だって落ち込んだ彼女を励まし、元気づけるだろう。
ほんと、おれってゴミ。
「い、一松くん!」
慌てたように声を上げた彼女に、勢いよく振り返った。
「そっちじゃない…」
申し訳なさそうに口を開いた彼女のほんの少し下がった眉をじっと見つめた。
なんかもう、情けなさ過ぎて泣きたくなってきた。
神奈川、と一口にいったってなかなか広い。
ただ神奈川行きの電車に乗っただけで、海に辿り着くわけではない。
今乗車しているのは終点横浜の列車。
人もだんだん増えてきたこの時間帯、朝らしく列車内は混みに混んでいた。今日は平日なので通学や通勤する者で溢れかえっている。学校なんてクソだと思っているが、曲がりなりにも学生なのにほぼ部屋着みたいな格好で此処にいることに内心冷や汗をかいていた(彼女は勿論別である)。それだけではない。制服の学生はともかく通勤中の社会人。横浜に行く、というだけあってスーツを着ている者はやたらスタイリッシュだし、私服の者はその私服がとにかくお洒落だ。
そんな天上人に囲まれた田舎の学生に劣等感を抱くなというほうが難しい。少なくともおれは。
どうにも居心地が悪く、目を逸らすように俯いた。
終点のアナウンスが響き、車内の人間がほぼ全て降りきったところでおれたちも降りた。
何というか、精神がすり減るような空間だったな。
一歩先を進む彼女のあとをのたりくたりとついて階段をのぼる。
全段のぼりきると、あらゆる人で溢れ返った改札口が見えてそれに気圧されたおれに構うことなくすたすたと人の流れに逆らって歩調を速める彼女を慌てて追い掛けた。
こんなところで迷うなんて御免だ。
そんなおれに気づいたのかもしれない。彼女は再びおれの手首を引っ張って歩みを進める。
手首を掴む手のひらが指先まで冷えきっていた。
彼女は末端冷え性で、指先がこうなら足先も氷のように冷え固まっているのだろう。
自分の手首に視線を投げれば、ほんのりと色づいた指の先が見えた。
そんな風に気を取られているうちに彼女が立ち止まったので同じように足を止めた。大きな路線図を見上げる横顔に合わせて顔を上げると、流石大都市の一つと言うべきか色とりどりの線が絡み合っていて、一応横浜から水色の何ちゃら線なるものを目で追ってみたもののものの数秒で訳が分からなくなった。知ってる駅がほとんど無いってことぐらいしか収穫が無い。潔く諦めるが吉だなと思って、大人しく彼女に任せることにした。これは彼氏としてどうなんだろうなと心の隅どころかど真ん中がチクリというかザックリ痛んだ。
いっつもこんな調子のおれをどう思っているのか、そんな思いを込めて見上げたままの横顔を見つめると、すぐに彼女が振り向き、もしや気づかれたのではと内心焦った。
「海南線にするよ」
びくびくしていたが、内情がバレたなんてことはなく普通に
行き先に関することで、特に異論の無いおれは一言「うん」と言った。
いつの間にか手首の温度が消えていて、少し淋しい感じがした。
海南線、とやらはなかなか廃れた線らしく、途端に少なくなった人通りを見て察した。
階段を下る者などほとんどおらず、赤塚の隣の狭い駅を思い出す。
大きな路線図の前の四人掛の椅子の端におれを座らせ、その隣に彼女は腰かけた。
これ、普通はおれの役目なのでは?
彼女、ってこういうもんなの?
悶々とするも、件の彼女はどこ吹く風でぼんやりと前方の看板を眺めている。
歯科医師だという壮年の男の浮かべる歯を見せた笑みがやたら胡散臭い上に、何だか馬鹿にされているように思えた。
時間きっかりにやって来た電車に乗り込めば、ホームと同じく人はほとんど居らず、始発列車のようにぽつぽつと居るだけであった。
一日はとうに始まっているにもかかわらずこの閑散とした状況とはそろそろ廃線にでもなるのではと他人事ながら思う。
彼女を角に座らせ、その隣に腰を下ろす。
あ、これ彼氏っぽくない?
おれ、彼氏っぽいこと出来たんじゃない?
まあ、こんなこと考えてる時点で彼氏としては落第だとは思うんですけどね。
そんなクソどうでもいいことを考えるおれに気づくことなく彼女はふわ、と欠伸を漏らした。「寝る?」と伺えば、小さく「うん」と返ってきたので、寝苦しいだろうもこもこのコ
ートを脱がせ、布団代わりに掛ける。
衝立に頭を寄っ掛からせ、夢の世界へと旅立っていこうとする彼女に、列車の揺れか何かで衝立じゃなくておれの肩に寄っ掛かんないかな、なんて軽く念じた。
当の彼女は「…海が見えたら起こして」と寝ぼけ眼でぼそぼそと言い切ると、眠りに落ちた。
暢気にすやすや穏やかな寝息を立てる彼女が少しばかり恨めしく思った。
徐々に雲が晴れ、日が高くなる。
空を明るく彩られるのをほとんど人の居ない車両でぼんやりと眺めた。
大都会横浜を離れていくにつれ、だんだんと建造物の高さは低くなり、景色は田舎じみたものになっていく。現在走っているところも見えるのは家と遠くの山ばかりで我が家のある赤塚よりもずっとのどかな場所だ。
とは言ったものの赤塚は時代の先端を走るとは言えない昭和感漂う街だが、それはそれとして外観通り昭和っぽく栄えているので此処とは比べようがない。
鬱蒼と生い茂る山の木一本一本が冬晴れの今日、日の光に照らされているのが何だか眩しい。
隣の彼女は海が見えたら起こしてくれ、と言って夢の世界にも旅立っていった。だからおれはそれを果たすべく、海が見えないものかと逐一前方後方の窓と見回していた。
昔、家族で江ノ島を訪れたことがある。古い記憶で、朧気な其処から確か道中の海沿いに山があったことを掘り出した。
そして目の前にあるのが山だ。
神奈川なんてその江ノ島を訪れたっきりだし、記憶が正しいとは限らないし、仮に正しいとしてもこの山は太平洋側では無く、内陸側のものだということもあり得る。
ただ、彼女は海が見えたら、と確かに言ったので海がいずれ見えるのだろうと車窓の向こうを見つめる。
電車にはあまり乗らないのでこの車内の穏やかさと移り行く景色の速さのアンバランスさには慣れない。
変わらず彼女は衝立に頭をもたげ、すやすやと眠っている。
穏やかな揺れの前じゃ揺れた拍子に頭が傾き、逆側のおれの肩へ、なんていう偶然が起きるわけがなく、妙なむなしさを味わっていた。
なまえちゃんも、そんな見知らぬ他人が隣に座ったときみたいな対応をしなくていいのになぁ。
ぐるぐると思い巡らせながら、後方の窓を振り向くこと何回目。
立ち並ぶ家々の向こうに、広大な海が見えた。
目を奪われるわけでも感嘆を漏らすわけでも無く、おれが先ず取った行動は当然ながら彼女のお願い事である。
「なまえちゃん、」
名前を呼びながらゆさゆさと揺さぶると眉をしかめて、うぅだとか何とか唸り声を上げた。もぞもぞとコートの下の身体が動くと、両足をくるりと折り畳んで、みのむしのようになろうとする。靴を履いたまま、座席に乗り上げるのはどうなんだろうか。疑問に思うも、周りに此方を見ている者なんていないしいいかと適当に結論する。
「なまえちゃん、海見えたよ」
再び眠りにつこうとしたみのむしがその一言でぱちっ、と目を開けた。座席に乗り上げた両足は下ろしたもののまだ目が覚め切っていないのか頭はもたげられ、身体はしなだれたままだ。前方を焦点の合わない眼で見つめ、コートに一頻り顔を埋めると、怠そうに後ろを振り向く。
「…ほんとだ」
ぽつりとこぼし、身体を戻した彼女が目をごしごしと擦るので手を掴んで止めさせた。柔く掴んだ手はあたたかい。
する、と離すと大きく伸びをし、背筋が伸ばされた。
「次で降りよう」
先ほどより幾分か明瞭な声でそう告げた彼女に一つ頷いた。
改札機に切符を入れれば、高い機械音と共にストッパーが開く。其処をすり抜けると、個人商店が所狭しと立ち並んでおり、何処からか揚げ物のような香ばしい匂いが鼻腔を擽った。
ぐーっ。
腹の虫が刺激されたためかそこそこに大きな鳴き声を響かせる。何となく隣の彼女を窺うと、彼女も此方を見ていた。ははっ、と嫌味の無い乾いた笑いを上げ、「朝からなんも食べてないもんね」と口角を上げた。おれも彼女も、朝から何も食べていない。
「何食べる?」なんてきょろきょろと辺りを見回しながら歩み始める彼女のあとをついていく。
ぐーっ。
鳴き声を上げた自身の腹の虫に彼女はまたははっ、と軽やかに笑った。
一通り駅の近くを飲食店を探しながら練り歩き、結局、何となくで青い暖簾を掲げた定食屋で食事を取ることにした。
昭和感漂う引き戸を開けると直ぐに母親と同い年くらいの女性が快活そうないらっしゃい、という声が上がった。
店内はまだ昼刻前ということもあり、日当たりの良い端っこの席が埋まっているだけであった。
好きなところに座って、と言われたのでストーブに一番近い席に誰が決めたわけでなく二人して腰かける。
外は晴れているとはいえ、あくまで冬晴れ。寒いことに変わりはないので、店内の暖かさは有難いものである。
メニューはどうやら一つのテーブルに一つのようで、二人仲良くそれぞれ逆側から覗き込んで、注文するものを選ぶ。
彼女はさっさとしょうが焼き定食、と決めたがおれは迷ってなかなか決められなかった。急いで決めようとぱらぱらメニューを捲っていると、ゆっくりでいいよ、と微笑まれた。
こういう気遣いがちゃんと出来るところ、彼氏として見習いたいと常々思う。
何度も峻順した結果、とんかつ定食を頼むことにした。
注文した品を待つ間、ぐるりと物珍しげに店内を見回す彼女がぽつりと呟いた。
「ストーブなんだね、このお店」
身体をストーブ側に向け、手をかざしながら鼻歌でも歌いそうな勢いである。視線は一点、ストーブに集中している。
「何、みょうじ家には暖炉でもあるの」
「うーん、10点!」
「10点満点?」
「100点満点」
「厳しいっすな~」
「精進したまえ、一松くん」
ふふふふ、と笑うなまえちゃんは足をぷらぷらと前後に揺らし始めた。つられて笑うとあっという間に笑いの合唱。
「うちもストーブだよ」
「へぇ、うちはヒーター、暖炉じゃなくてごめんね」
「おっとそっちだったか」
「ふつーにね、てかストーブって、松野家レトロ~」
「物は言い様だよね、うちはどっちかっつうと昭和」
「そうなんだぁ、家行ったこと無いからな、やっぱ瓦屋根な の?」
「お、当たり~、何なら今にも崩れそう」
「男6人が育ってきた家でしょ?負荷がヤバそうだもんね」
まだ見ぬ松野家に思いを馳せる彼女のイメージする昭和とは一体何なのだろうか。瓦は平成の世にもある。
お祖父ちゃん家とかイメージしてんのかな。
「じゃあみょうじ家はどんなんなの、おれも行ったこと無いよ」
「え~、うちはふつーのマンションだよ」
「でもこの間リフォーム入ったって言ってなかった?」
「あぁ、お風呂だけね、全フロアじゃないよ」
「いや風呂リフォームって、なまえちゃん家割とリッチだよね」
「リッチっていうか、一人っ子だからね、子供にあんまり金とられないんだよ」
一松くん家は一松くんの他に5人もいるから、私しかいないウチとは比べられないよ、と彼女は溢す。
年季が入った木材の壁には誰も知らないみたいな名ばかりの芸能人のサインや写真、それぞれの特産品等が描かれたペナントが飾られており、またそれらに目を引かれるのかくるくると目線を動かす彼女は子供のようで可愛いな、なんて思った。
しょうが焼き定食もとんかつ定食も値段から想像していたものより大分ボリューミーで空腹は充分に満たされた。
しょうが焼きは小間切れの肉が使われていて、その数切れととんかつ一切れの交換もした。
あまじょっぱいタレがよく染み込んでいて美味しかった。
揚げたてなのかサクサクのとんかつは惜しげもなくかけられたソースとの相性が抜群で、最初は多いかとも思ったがそんなことは全くなく、ペロリと平らげられた。
心も腹も満たされ、お勘定を済ませたおれたちは今、海沿いを歩いている。
奥に砂浜が見えるのだが、ブロックの向こう、まだ其処はテトラポッドだらけで目的の砂浜にたどり着いてはいない。
海風にあおられる。
冬の海風はこんなに冷たいものなのか。まだ家の方はましだということを身を持って実感させられる。それと同時に海の近くに住む人らは冬の間毎日こんな思いをしているのかとご苦労様です、と労りの情を見せる。
車も走らないような通りは人通りも少なく、たまに自転車が通るくらいだ。
小さな町なので余所者は目立つのか、地元民とおぼしきおっさん達はは必ず訝しげな視線を投げる。
余所者、しかも若い男女となれば幾らでもよろしくないことが考えられるので、その気持ちは分からないでもない。
二人の間を沈黙が包むが、おれにとってただ黙って前を見据え歩く彼女とのこういう時間は心地の良いものだった。
付き合いたての気を使って下手くそな会話をしていたあの頃を少し懐かしく思う。
会話を続けることが恐ろしく下手だった(今もである)おれにあるとき彼女が”気なんて使わなくていいよ、一松くんには一松くんのペースがあるでしょ”と言ったことは今でもよく覚えている。
微妙にノスタルジックな気分に浸っていると、少し前を歩む彼女が急に駆け出した。一拍置いて後を追いかけながら、
ヒールでよく走れるななんて足元のローヒールのレースアップブーツを見ながらぼうっと考えた。
トタン張りの家々とブロックの間を通り抜け、テトラポッドの群れを越えた先、砂浜への階段が見え、ゆっくりとスピードを落とす彼女に合わせ、ペースを緩める。
元の穏やかな歩調で階段を下ると、踏み込んだ足が砂浜に沈んだ。冬の海は太陽に照らされているにも関わらず、どんよりとした陰鬱な雰囲気を背負っており、それに引きずられるようにおれの心境にも影がさし始める。
誰もいない此処には人の声はおろか、さざ波の音すら響かずその不気味さを引き立てていた。
無言の背中をすがるように見つめるが、目の前の女の子は振り向かない。
ぽつぽつと足を進めたところで彼女は寒々しい海を見つめ、
立ち止まった。隣に足を止め、顔を横目にちらと見ても何の意図も見えず、また何故か彼女の眼は海を見つめていながら何も見ていないような気がして、その妙な感じに得体の知れないものを感じ取る。
なまえちゃんは時々こういう風になる。そういうときおれは、彼女は隣にいるようで何処か違うところにいるように思う。
底冷えする感覚に身体がぶるりと震えたが、冬の海風になのか彼女に対する言い様の無い悪寒なのかおれには分からなか
った。
「一松くんさぁ、知ってる?」
「…」
「海には、”悪いこと”をしたら海に引きずり込む神様が居るんだよ」
何も返さぬおれに淡々と彼女は告げる。
ねぇ、なまえちゃん。
君は、一体それを誰に対して言っているの。
今の彼女はきっと、おれの知らない彼女だ。そしてそれは彼女がおれに見せまいとする彼女だけの自分だ。
何となくそれを悟ったおれは何をすることもできず、ただ穏やかな暗影を孕んだ海を見つめて口を閉ざしていた。
振り返った彼女はいかにも不思議そうに、間抜けな顔をしていた。しかしそれもつかの間、すぐにいつもの口角が少し下がった表情へ戻る。
「じゃあ、明日行こっか」
今度はおれが間抜けな顔になる番だった。
そもそも何で言ったのかすら分からないおれの気まぐれな一言によって本当に翌朝の始発でおれたちの海への旅は始まった。
始発ともなれば人などほとんどおらず、席はぽつぽつと埋まっているだけであった。
電車のリズムに合わせてゆらゆらと揺れながら隣合って座るが、ほとんど会話など無く何とも穏やかな空気に包まれていた。
ちらと隣の彼女に視線をやれば、切符をじーっと穴が開きそうなくらいに見つめていた。面白いのか?
おれたちの海への旅は最終目的地こそ海だが、どこの海に行くのか等何も決まっていないかなりの行き当たりばったり加減の旅だ。
こんな調子で海になどたどり着くのか。若干の不安を煽られつつ、向かいの窓から建物だらけの空を眺めた。
今は冬で、空は淡い紫色で、もうすぐ夜が明ける。
「一松くん、起きて」
急に揺さぶられて、びっくりして飛び起きた。
目の前には彼女が立っていて、おれの顔を覗き込んでいた。
「終点」
確かめるように紡がれたそれを理解するのは容易く、緩慢な動作で立ち上がった。
いつの間にか眠っていたようで身体が少し重かった。
視界がぼやけていて、まだ夢半分のおれを彼女は手首をひっつかんで電車を降りた。
「ここどこ」
むにゃむにゃと寝ぼけ眼で少し前を歩く髪を一つに結わえた後頭部に尋ねた。
「白糸」
いや、どこだよ。普段電車なんか乗らないくせに、こんな行き当たりばったりじゃ知ってるところのはずがないか。
「神奈川のほう行くからね」
淡々と告げる彼女は手慣れた様子で切符販売機を操作していた。二人、のボタンが押されたところではっとした。
「神奈川?東京湾じゃないの?」
「東京湾?そんなところでよかったの?」
きょとんとして彼女は振り返った。
ガ、と二枚の切符を機械が吐き出した。
その切符を二人で見つめ、顔を見合わせた。
「神奈川、行こう」
まあ、東京湾なんて海であって海じゃないようなものだしな。あんな建物だらけのただ海があるってところに行くよりずっといい。
「なんか、ごめん」
少し俯いた彼女はぽつりと謝罪の言葉を紡いだ。
こういうとき、男ならば気の利く言葉を掛けるべきなのだろうが、情けないことにそんな言葉思い付くはずがなく、切符を持っていないほうの彼女の手首を掴んで歩みを進めた。
あーあ、何でおれってこうなんだろ。いつもはうざったいクラスの一軍様なら軽ーくこなすだろうし、何なら長男や末弟辺りだって難なくこなす。他の兄弟だって落ち込んだ彼女を励まし、元気づけるだろう。
ほんと、おれってゴミ。
「い、一松くん!」
慌てたように声を上げた彼女に、勢いよく振り返った。
「そっちじゃない…」
申し訳なさそうに口を開いた彼女のほんの少し下がった眉をじっと見つめた。
なんかもう、情けなさ過ぎて泣きたくなってきた。
神奈川、と一口にいったってなかなか広い。
ただ神奈川行きの電車に乗っただけで、海に辿り着くわけではない。
今乗車しているのは終点横浜の列車。
人もだんだん増えてきたこの時間帯、朝らしく列車内は混みに混んでいた。今日は平日なので通学や通勤する者で溢れかえっている。学校なんてクソだと思っているが、曲がりなりにも学生なのにほぼ部屋着みたいな格好で此処にいることに内心冷や汗をかいていた(彼女は勿論別である)。それだけではない。制服の学生はともかく通勤中の社会人。横浜に行く、というだけあってスーツを着ている者はやたらスタイリッシュだし、私服の者はその私服がとにかくお洒落だ。
そんな天上人に囲まれた田舎の学生に劣等感を抱くなというほうが難しい。少なくともおれは。
どうにも居心地が悪く、目を逸らすように俯いた。
終点のアナウンスが響き、車内の人間がほぼ全て降りきったところでおれたちも降りた。
何というか、精神がすり減るような空間だったな。
一歩先を進む彼女のあとをのたりくたりとついて階段をのぼる。
全段のぼりきると、あらゆる人で溢れ返った改札口が見えてそれに気圧されたおれに構うことなくすたすたと人の流れに逆らって歩調を速める彼女を慌てて追い掛けた。
こんなところで迷うなんて御免だ。
そんなおれに気づいたのかもしれない。彼女は再びおれの手首を引っ張って歩みを進める。
手首を掴む手のひらが指先まで冷えきっていた。
彼女は末端冷え性で、指先がこうなら足先も氷のように冷え固まっているのだろう。
自分の手首に視線を投げれば、ほんのりと色づいた指の先が見えた。
そんな風に気を取られているうちに彼女が立ち止まったので同じように足を止めた。大きな路線図を見上げる横顔に合わせて顔を上げると、流石大都市の一つと言うべきか色とりどりの線が絡み合っていて、一応横浜から水色の何ちゃら線なるものを目で追ってみたもののものの数秒で訳が分からなくなった。知ってる駅がほとんど無いってことぐらいしか収穫が無い。潔く諦めるが吉だなと思って、大人しく彼女に任せることにした。これは彼氏としてどうなんだろうなと心の隅どころかど真ん中がチクリというかザックリ痛んだ。
いっつもこんな調子のおれをどう思っているのか、そんな思いを込めて見上げたままの横顔を見つめると、すぐに彼女が振り向き、もしや気づかれたのではと内心焦った。
「海南線にするよ」
びくびくしていたが、内情がバレたなんてことはなく普通に
行き先に関することで、特に異論の無いおれは一言「うん」と言った。
いつの間にか手首の温度が消えていて、少し淋しい感じがした。
海南線、とやらはなかなか廃れた線らしく、途端に少なくなった人通りを見て察した。
階段を下る者などほとんどおらず、赤塚の隣の狭い駅を思い出す。
大きな路線図の前の四人掛の椅子の端におれを座らせ、その隣に彼女は腰かけた。
これ、普通はおれの役目なのでは?
彼女、ってこういうもんなの?
悶々とするも、件の彼女はどこ吹く風でぼんやりと前方の看板を眺めている。
歯科医師だという壮年の男の浮かべる歯を見せた笑みがやたら胡散臭い上に、何だか馬鹿にされているように思えた。
時間きっかりにやって来た電車に乗り込めば、ホームと同じく人はほとんど居らず、始発列車のようにぽつぽつと居るだけであった。
一日はとうに始まっているにもかかわらずこの閑散とした状況とはそろそろ廃線にでもなるのではと他人事ながら思う。
彼女を角に座らせ、その隣に腰を下ろす。
あ、これ彼氏っぽくない?
おれ、彼氏っぽいこと出来たんじゃない?
まあ、こんなこと考えてる時点で彼氏としては落第だとは思うんですけどね。
そんなクソどうでもいいことを考えるおれに気づくことなく彼女はふわ、と欠伸を漏らした。「寝る?」と伺えば、小さく「うん」と返ってきたので、寝苦しいだろうもこもこのコ
ートを脱がせ、布団代わりに掛ける。
衝立に頭を寄っ掛からせ、夢の世界へと旅立っていこうとする彼女に、列車の揺れか何かで衝立じゃなくておれの肩に寄っ掛かんないかな、なんて軽く念じた。
当の彼女は「…海が見えたら起こして」と寝ぼけ眼でぼそぼそと言い切ると、眠りに落ちた。
暢気にすやすや穏やかな寝息を立てる彼女が少しばかり恨めしく思った。
徐々に雲が晴れ、日が高くなる。
空を明るく彩られるのをほとんど人の居ない車両でぼんやりと眺めた。
大都会横浜を離れていくにつれ、だんだんと建造物の高さは低くなり、景色は田舎じみたものになっていく。現在走っているところも見えるのは家と遠くの山ばかりで我が家のある赤塚よりもずっとのどかな場所だ。
とは言ったものの赤塚は時代の先端を走るとは言えない昭和感漂う街だが、それはそれとして外観通り昭和っぽく栄えているので此処とは比べようがない。
鬱蒼と生い茂る山の木一本一本が冬晴れの今日、日の光に照らされているのが何だか眩しい。
隣の彼女は海が見えたら起こしてくれ、と言って夢の世界にも旅立っていった。だからおれはそれを果たすべく、海が見えないものかと逐一前方後方の窓と見回していた。
昔、家族で江ノ島を訪れたことがある。古い記憶で、朧気な其処から確か道中の海沿いに山があったことを掘り出した。
そして目の前にあるのが山だ。
神奈川なんてその江ノ島を訪れたっきりだし、記憶が正しいとは限らないし、仮に正しいとしてもこの山は太平洋側では無く、内陸側のものだということもあり得る。
ただ、彼女は海が見えたら、と確かに言ったので海がいずれ見えるのだろうと車窓の向こうを見つめる。
電車にはあまり乗らないのでこの車内の穏やかさと移り行く景色の速さのアンバランスさには慣れない。
変わらず彼女は衝立に頭をもたげ、すやすやと眠っている。
穏やかな揺れの前じゃ揺れた拍子に頭が傾き、逆側のおれの肩へ、なんていう偶然が起きるわけがなく、妙なむなしさを味わっていた。
なまえちゃんも、そんな見知らぬ他人が隣に座ったときみたいな対応をしなくていいのになぁ。
ぐるぐると思い巡らせながら、後方の窓を振り向くこと何回目。
立ち並ぶ家々の向こうに、広大な海が見えた。
目を奪われるわけでも感嘆を漏らすわけでも無く、おれが先ず取った行動は当然ながら彼女のお願い事である。
「なまえちゃん、」
名前を呼びながらゆさゆさと揺さぶると眉をしかめて、うぅだとか何とか唸り声を上げた。もぞもぞとコートの下の身体が動くと、両足をくるりと折り畳んで、みのむしのようになろうとする。靴を履いたまま、座席に乗り上げるのはどうなんだろうか。疑問に思うも、周りに此方を見ている者なんていないしいいかと適当に結論する。
「なまえちゃん、海見えたよ」
再び眠りにつこうとしたみのむしがその一言でぱちっ、と目を開けた。座席に乗り上げた両足は下ろしたもののまだ目が覚め切っていないのか頭はもたげられ、身体はしなだれたままだ。前方を焦点の合わない眼で見つめ、コートに一頻り顔を埋めると、怠そうに後ろを振り向く。
「…ほんとだ」
ぽつりとこぼし、身体を戻した彼女が目をごしごしと擦るので手を掴んで止めさせた。柔く掴んだ手はあたたかい。
する、と離すと大きく伸びをし、背筋が伸ばされた。
「次で降りよう」
先ほどより幾分か明瞭な声でそう告げた彼女に一つ頷いた。
改札機に切符を入れれば、高い機械音と共にストッパーが開く。其処をすり抜けると、個人商店が所狭しと立ち並んでおり、何処からか揚げ物のような香ばしい匂いが鼻腔を擽った。
ぐーっ。
腹の虫が刺激されたためかそこそこに大きな鳴き声を響かせる。何となく隣の彼女を窺うと、彼女も此方を見ていた。ははっ、と嫌味の無い乾いた笑いを上げ、「朝からなんも食べてないもんね」と口角を上げた。おれも彼女も、朝から何も食べていない。
「何食べる?」なんてきょろきょろと辺りを見回しながら歩み始める彼女のあとをついていく。
ぐーっ。
鳴き声を上げた自身の腹の虫に彼女はまたははっ、と軽やかに笑った。
一通り駅の近くを飲食店を探しながら練り歩き、結局、何となくで青い暖簾を掲げた定食屋で食事を取ることにした。
昭和感漂う引き戸を開けると直ぐに母親と同い年くらいの女性が快活そうないらっしゃい、という声が上がった。
店内はまだ昼刻前ということもあり、日当たりの良い端っこの席が埋まっているだけであった。
好きなところに座って、と言われたのでストーブに一番近い席に誰が決めたわけでなく二人して腰かける。
外は晴れているとはいえ、あくまで冬晴れ。寒いことに変わりはないので、店内の暖かさは有難いものである。
メニューはどうやら一つのテーブルに一つのようで、二人仲良くそれぞれ逆側から覗き込んで、注文するものを選ぶ。
彼女はさっさとしょうが焼き定食、と決めたがおれは迷ってなかなか決められなかった。急いで決めようとぱらぱらメニューを捲っていると、ゆっくりでいいよ、と微笑まれた。
こういう気遣いがちゃんと出来るところ、彼氏として見習いたいと常々思う。
何度も峻順した結果、とんかつ定食を頼むことにした。
注文した品を待つ間、ぐるりと物珍しげに店内を見回す彼女がぽつりと呟いた。
「ストーブなんだね、このお店」
身体をストーブ側に向け、手をかざしながら鼻歌でも歌いそうな勢いである。視線は一点、ストーブに集中している。
「何、みょうじ家には暖炉でもあるの」
「うーん、10点!」
「10点満点?」
「100点満点」
「厳しいっすな~」
「精進したまえ、一松くん」
ふふふふ、と笑うなまえちゃんは足をぷらぷらと前後に揺らし始めた。つられて笑うとあっという間に笑いの合唱。
「うちもストーブだよ」
「へぇ、うちはヒーター、暖炉じゃなくてごめんね」
「おっとそっちだったか」
「ふつーにね、てかストーブって、松野家レトロ~」
「物は言い様だよね、うちはどっちかっつうと昭和」
「そうなんだぁ、家行ったこと無いからな、やっぱ瓦屋根な の?」
「お、当たり~、何なら今にも崩れそう」
「男6人が育ってきた家でしょ?負荷がヤバそうだもんね」
まだ見ぬ松野家に思いを馳せる彼女のイメージする昭和とは一体何なのだろうか。瓦は平成の世にもある。
お祖父ちゃん家とかイメージしてんのかな。
「じゃあみょうじ家はどんなんなの、おれも行ったこと無いよ」
「え~、うちはふつーのマンションだよ」
「でもこの間リフォーム入ったって言ってなかった?」
「あぁ、お風呂だけね、全フロアじゃないよ」
「いや風呂リフォームって、なまえちゃん家割とリッチだよね」
「リッチっていうか、一人っ子だからね、子供にあんまり金とられないんだよ」
一松くん家は一松くんの他に5人もいるから、私しかいないウチとは比べられないよ、と彼女は溢す。
年季が入った木材の壁には誰も知らないみたいな名ばかりの芸能人のサインや写真、それぞれの特産品等が描かれたペナントが飾られており、またそれらに目を引かれるのかくるくると目線を動かす彼女は子供のようで可愛いな、なんて思った。
しょうが焼き定食もとんかつ定食も値段から想像していたものより大分ボリューミーで空腹は充分に満たされた。
しょうが焼きは小間切れの肉が使われていて、その数切れととんかつ一切れの交換もした。
あまじょっぱいタレがよく染み込んでいて美味しかった。
揚げたてなのかサクサクのとんかつは惜しげもなくかけられたソースとの相性が抜群で、最初は多いかとも思ったがそんなことは全くなく、ペロリと平らげられた。
心も腹も満たされ、お勘定を済ませたおれたちは今、海沿いを歩いている。
奥に砂浜が見えるのだが、ブロックの向こう、まだ其処はテトラポッドだらけで目的の砂浜にたどり着いてはいない。
海風にあおられる。
冬の海風はこんなに冷たいものなのか。まだ家の方はましだということを身を持って実感させられる。それと同時に海の近くに住む人らは冬の間毎日こんな思いをしているのかとご苦労様です、と労りの情を見せる。
車も走らないような通りは人通りも少なく、たまに自転車が通るくらいだ。
小さな町なので余所者は目立つのか、地元民とおぼしきおっさん達はは必ず訝しげな視線を投げる。
余所者、しかも若い男女となれば幾らでもよろしくないことが考えられるので、その気持ちは分からないでもない。
二人の間を沈黙が包むが、おれにとってただ黙って前を見据え歩く彼女とのこういう時間は心地の良いものだった。
付き合いたての気を使って下手くそな会話をしていたあの頃を少し懐かしく思う。
会話を続けることが恐ろしく下手だった(今もである)おれにあるとき彼女が”気なんて使わなくていいよ、一松くんには一松くんのペースがあるでしょ”と言ったことは今でもよく覚えている。
微妙にノスタルジックな気分に浸っていると、少し前を歩む彼女が急に駆け出した。一拍置いて後を追いかけながら、
ヒールでよく走れるななんて足元のローヒールのレースアップブーツを見ながらぼうっと考えた。
トタン張りの家々とブロックの間を通り抜け、テトラポッドの群れを越えた先、砂浜への階段が見え、ゆっくりとスピードを落とす彼女に合わせ、ペースを緩める。
元の穏やかな歩調で階段を下ると、踏み込んだ足が砂浜に沈んだ。冬の海は太陽に照らされているにも関わらず、どんよりとした陰鬱な雰囲気を背負っており、それに引きずられるようにおれの心境にも影がさし始める。
誰もいない此処には人の声はおろか、さざ波の音すら響かずその不気味さを引き立てていた。
無言の背中をすがるように見つめるが、目の前の女の子は振り向かない。
ぽつぽつと足を進めたところで彼女は寒々しい海を見つめ、
立ち止まった。隣に足を止め、顔を横目にちらと見ても何の意図も見えず、また何故か彼女の眼は海を見つめていながら何も見ていないような気がして、その妙な感じに得体の知れないものを感じ取る。
なまえちゃんは時々こういう風になる。そういうときおれは、彼女は隣にいるようで何処か違うところにいるように思う。
底冷えする感覚に身体がぶるりと震えたが、冬の海風になのか彼女に対する言い様の無い悪寒なのかおれには分からなか
った。
「一松くんさぁ、知ってる?」
「…」
「海には、”悪いこと”をしたら海に引きずり込む神様が居るんだよ」
何も返さぬおれに淡々と彼女は告げる。
ねぇ、なまえちゃん。
君は、一体それを誰に対して言っているの。
今の彼女はきっと、おれの知らない彼女だ。そしてそれは彼女がおれに見せまいとする彼女だけの自分だ。
何となくそれを悟ったおれは何をすることもできず、ただ穏やかな暗影を孕んだ海を見つめて口を閉ざしていた。
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