Ironically
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ゆらゆらとしたさざ波に揺られる意識が浮上する。
ぱちり、目を開けると最初に飛び込んできたのは慣れ親しんだ我が家の天井であった。身体全体が柔らかなものに預けられている。此処は寝室だ。
時刻は不明だが、部屋の明るさから察するにせいぜい昼前というところであろうとある程度の当たりをつける。
力の入らない身体を何とか持ち上げ起き上がると、鈍い痛みが走った。
視線を散らせば、床に丁寧に折り畳まれた衣服があることに気づく。ふと、足元が心許ないと思うと大きめのTシャツ一枚をぺらりと身に付けているだけであった。
やはり昨日のあれは、夢ではないのだ。
このTシャツはいつだったか彼が置いていったものだし、あの衣服は昨夜乱暴に脱がされたものそのもので、身体が痛むのは玄関先で行為に及んだからである。
目を覚ましたとき先ず思ったのはあれが夢ならば、だった。
しかしそんなことがあるはずもなく、アルコールなど一滴も摂取していないのにも関わらず痛む頭を抱えた。
昨夜、私は途中で意識を手放した。その後の記憶は当然ながら無い。無いのだが、私をこのベッドへ連れてきて、服を着替えさせるなど事後処理を行ったのは間違いなく一松くんだと言い切れる。
思考をそちらにやれば、唐突に途方もなく薄暗い感情に襲われた。
全部全部私が自分で選択して進んできた道である。後悔は一度だってしたことはない。
己のことしか顧みなかったこと、嫌われたって憎まれたって仕方ないなんてことははじめから分かっていたのだ。
でもいざ彼にその感情を向けられる事態に陥った今、このザマである。
意識していても、実際の状況に置かれなければどうなるかなど到底理解出来ないことが身にしみて分かる。
彼が出ていってしまったこの家はがらんどうのようだった。
ただでさえ家において一人の大きさというものは計り知れないのに、私の全てを占めた一松くんを失ったことでこの家は全てを失った。
本当は少しも興味無いのに彼にとって居心地の良い家であろうと買い揃えたソファーやウッドラックなどの家具は今はもう何の価値もないただの置物だ。
そのくせ私の根城たる此処は長いこと交際関係を歩んできたため、彼の痕跡が至るところに残っている。
それこそ私が今着用しているTシャツ、デフォルメされた猫がプリントしてあるマグカップ、歯ブラシなどの日用品、酒に弱い癖に酒を飲むので度数の低いチューハイまで残されているのだ。
自業自得ながら彼を失ったことで傷心中の私に彼を想起させるものばかりの此処で再び生活をおくれなんていうことは拷問に等しい。
そう、斯く言う私もこの家と同じがらんどうであった。
己の全てを失い、空っぽな心を満たすものはもう何処にもない。
学生時代も、社会人となった現在でも私という存在には必ず
“松野一松”という男が結び付く。
今まで一松くんに会うためにクソみたいな上司のもとで真面目に働き、居たくもない社会で日々を生きてきた私はこれからどうすれば良いのだろうか。
美味しい食べ物も酒も、毎週惰性で見ているくだらないバラエティ番組も、暇潰しにやっていたスマホゲームも、全然足りないのだ。駄目なのだ。
それらは彼がいて初めて成り立つ。彼がいなくなってしまった今ではそれら全てが意味を成さなくなってしまった。
そして何より私にとっての明日はもう真っ暗で、これから何のために生きていけばいいのか分からなくなってしまったのだ。
愛しい彼がまだ息をする部屋は今の私にとっては毒と同義だ。置物だらけのがらんどうな毒は私を確実に蝕んでいる。
蜜を手に入れようにも、其れはもう二度と手の届かない場所にある。そんなところに手を伸ばすなど、馬鹿のすることだ。
鬱々とした気分に陥っていると、ふと不自然な風に煽られた。扇風機などつけていないどころかこの部屋に今は置いていないし、現在進行形で私の居るベッドの後ろはベランダだ。導き出せる答えは一つだろう。
どうして窓が開いたままなのか。開けた覚えは無いので多分昨夜彼が開けて、閉め忘れたのだろうと結論付け、何故か感じる妙な感覚に見ない振りをして振り返ると、思わず息をのんだ。
なんとそこには煙草をふかせ、網戸の向こうから何時もの何倍も卑屈さの入り交じった視線で此方を見つめる一松くんがいたのだ。
先ず沸き上がってきた感情は、何故此処にいるのか。
余りの鬱然とした心境のせいで、まさか夢でも見始めているのではないかと目を擦り、五、六度ほどまばたきを繰り返す。しかしそれでも一向にその幻影(仮)は消えない。
もしかしてもしかすると、これは本物なのではないだろうか。
冷静に鑑みれば、あの程度のことでは報復としては生ぬる過ぎるし、恨みも何も晴れたものでは無いだろう。
今彼の口から、これからお前にやられた分そっくりそのまま返してやるからななんてことが言われたって何ら不思議では無いのだ。
そうすると、彼が私に求めるものは何だ?やっぱり金か?と何時も以上に感情が読み取れない顔に焦点を合わせる。
すると、不意に煙を吐いた唇が何か言葉を放そうと動きを見せた。それがやけにゆっくりと、スローモーションのように映る。
一体何を言われるのか、無意識のうちに身構え、身体を覆っていた薄い毛布を小さく握りしめた。
「おはよう」
…へ?
それを口に出したかどうかは分からなかったが、とにかく今の私の顔は間抜けなものだろう。
ベランダに置きっぱなしのチープな灰皿に慣れた手つきで煙草を放りこんだ彼は緩慢な動作で部屋へと入ってきた。
いまいち状況を飲み込めていない私を余所に三段シェルフ前のいつ置かれたのかも分からない椅子を引っ張ってきて、腰を下ろす。
「…大丈夫?」
どうにも居心地が悪く、毛布を握りしめたままの手を何とはなしに眺めていた視線を上げるが、口ごもり「…何が?」と一言返すのが精一杯であった。
普通に考えて身体のことなのだからうんとでも返せばよかったなと即座に思い至る。
「昨日の夜」
「あぁ……何か重い感じ…」
「だろうね」
口の端を僅かに上げる様子に、問いの意味を理解していたことは黙っていた。こうして見る分には何時も通りに見えなくもないが、きっとあれは仮面だ。あの下に隠れているものが何なのか。想像したくもなかった。
そうやって考えれば考えるほど嘔吐感は増すし、何より悲しくなってくる。
幾度となく考え、私が最も恐れていたことが現実になっていて、もう別離は目の前だ。其処に落ちてしまえば何もかもが終わる。そんなことを言ったって私はその底とも云える場所に既に真っ逆さまで、戻りようが無いのだ。
だから、今の私は最後なのだから少しでも長く一緒に居たい私と嫌われているのを分かっているのに一緒に居るなんて耐えられないから早く要求を言って欲しい私だ。
相反するようでいて、どちらも結末は同じで、それを受け入れている。
私はもう、深い泥のなかで眠りにつき、やがて朽ち果てていくのみなのだ。そうして心と一緒にその入れ物たる身体も朽ちてしまえばいい。誰もいない其処で骨も遺さず、ただ愛しい彼への愛と共に眠るのだ。
「……なまえちゃんって、馬鹿だよね」
唐突に溢された流れを介さないその一言に目を丸くした。
ぱっと視線を移すが、相も変わらずその表情からは何も読み取れず、この妙な間に変な焦りが生まれてくる。
「…な、何が?」
この状況に言い様の無い緊張感を感じているのは私だけなのか。それに引っ張られるように声だけでなく頬までひきつらせながら、言葉の意図を読もうと試みる。
「…何も思わないの?」
「、ん?」
いまいち会話が噛み合わない。彼は私に一体何を問おうとしているのだろうか。
その肝心なところがあらわにされないため、要領を得ない返ししか出来ず、思わず歯噛みする。
此方が焦りを感じている一方、彼方は苛立ちを感じ始めているようで徐々に眉間の皺が深まっていく。
「だから、昨日の夜のことだよ」
「…と、特には…」
彼が言う”昨日の夜”とは玄関先でのことだろうと先述の話の流れから解釈した上で本心からそう告げると、一松くんは目を大きく見開き、心底びっくりしましたというような顔でただ一言「…は?」と言い放った。
もしかして、玄関先でのことではなく居酒屋でのことだったのだろうか。
何も思わないのか。確かにこの言葉には、事実を知ったおれに何か言うことは無いのかという意が込められていると考えるほうが妥当だ。
此処に来てとんだ失態である。訂正しなければと慌てて口を開く。
「ごめ「ハアァァァ!?無理矢理ヤられて、勝手に中に出されて、何も思わねぇとかどこまで馬鹿なんだよ!!テメェの頭はからっぽか!?」
「む、むりやり…?」
“昨日の夜”が玄関先でのことというのはどうやら正しいらしい。しかし、彼は一体何を言っているんだ。突如豹変した彼の言葉を咀嚼し、飲み込もうとするもそれを待たずして再び与えられた言葉に私は上手く息をすることが出来なくなった。
「だいたい、お前はいっつもそうだろうが!おれのことが好きだって言うくせになんっも見えてねぇんだよ!!こっちの気持ちなんてお構い無しで、勝手に思い詰めて、泣いて、
っ、ふざけんな!!!」
「おれが、気づいていないとでも思ってた?んなわけねぇだろ、昨日で全部合点がいったよ」
「時々妙なこと言い出すのも、可笑しな真似すんのも、夜一人で泣いてんのも、全部全部!」
「ずーっとあれが、自分がやったことが恐かったからだろ」
「おれが、どう思っているのか分かろうともしないで、何年も」
「………ねぇ、僕ってそんなに信じられないの?」
「僕たちって、そんなことで簡単に崩れちゃうような関係なの?僕が、そんなことで君を嫌ったり…捨てたりするって本気で思ってたの?」
「そんなのってないよ…ねぇ、なまえちゃん、っ、ふっざけんなよ!!自分ばっかりが好きだと思って、おれがどんなにお前のことが好きかも知らないくせに、勝手に一人で終わらせようとしてんじゃねぇよ!!」
「おれだって、好きなのに、それなのに、君は、はじめからおれは君のことを好きじゃないって決めつけて、気づこうともしない!それが、どんなに惨めか!お前に分かるか!?分かるわけがねぇよな!!」
「……、なまえちゃん、何であのとき逃げたの、泣きそうな顔して、また僕のいないところに行こうとしたの、」
「何で、いつも僕には何も言ってくれないの?」
呼吸が、上手く出来ない。ひゅうひゅうとか細い息を繰り返す喉、そして滅茶苦茶になった頭を元に戻そうとして、止めた。
全てを出し切ったように大きく項垂れてしまった彼を気だるい身体をどうにか動かし、思い切り引き寄せた。
勢いそのままに椅子から下ろされ、膝を打ち付けた彼に少し申し訳ないと思いつつも特に抵抗されなかったのをいいことに構わず頭をかき抱く。
散らばった思考を必死にかき集め、重々しい口を開いた。
「、一松くんは、私が一松くんがあの子のことを好きだって知ってて、他の男のものになるよう名前まで隠して工作したのに、」
頭の中がもっとぐちゃぐちゃになるような感覚に頭が痛くなる。意識さえも遠のかせるようなそれを必死で押し止め、
真っ暗な目の前に対する恐怖に耐える。
「嫌いにならない?」
沈黙、耳鳴りがするような静寂では一瞬すら永遠と云える。
彼の黒い髪の毛に埋まる指の先から徐々に身体の熱が引くのを感じながら、この先を静かに待つ。
…こくり。
「別れたり、しない?」
こくり。
「…、私を許すの?」
こくり。
「…私のこと、好きなの?」
「………うん」
柔らかな髪にすり寄り、ぽつぽつと問いかければ、肩口に額をうずめた彼がもぞもぞと肯定の意を示す。
「………君は、僕の全部なんです。君が僕を、好きだと言ってくれたあのとき、今まで苦しかったことも、これからの苦しいことも、全部全部、何だっていいように思えました。今もそれに変わりはありません。こんな、何も無い僕だけど、でも何もかも捨てたって、僕は、君が居ればそれで、いいんです。だから、だから、ぼ、僕と一緒に居てください、」
言葉の続きに黙って耳を澄ませる。彼の声だけが響く此処には、隣の住人が洗濯物を干す音も、通りを横切る小学生の声も、小型犬の甲高い吠えも、今は届かない。
どこか夢見心地な白い光に彩られたこの空間で頭をかき抱いていた両の手を頬に添え、顔を上げさせる。
幼子がまごついているような表情に浮かぶ二つの黒い眼に朧気な私が映っていた。
そのなかの私の眼には彼が映っていて、私の眼のなかの彼の眼にも私が映っている。そのなかも、そのなかも、その繰り返しだ。
そうやって私たちも無限に繋がり合っていればいいと思う。
「私、松野一松くんが好き」
あのときと同じだ。刹那、時が止まったように硬直し、頬を染めた彼に懐古の情がふつふつと沸き上がってくる。
忘れもしない放課後、夕日に照らされた二人きりの教室。
年齢も、状況も異なるのに今この瞬間、全てが重なったのだ。
「あのときみたいだね」
幾つも年を重ねたのに、私たちはまだあのとき居た場所から進めていなかった。
それは私が幾年も彼の心のうちに気づくことが出来なかったからだ。しかも今に至るまで勘違いで突っ走って、その挙句迷って、見当違いな方向に涙を流していたというのだからとんだお笑い草である。
だけど、今更、なんて思わないでほしい。眼前の揺らめく眼に己の眼を合わせ、今度こそはと覚悟を決め、口を開いた。
「無理矢理、なんて思ってないよ。嫌じゃなかったから」
「今まで気づけなくてごめんね。一松くんの言う通り、私は一松くんは私のことなんか好きじゃないって最初っから決めつけてた。きちんと見たら、きっとそれが確かなものになってしまうって、そう思って、一松くんのことをちゃんと見ようともしなかった」
「一松くんの気持ちを踏みにじるようなことをして、ずっと、ひどいことをしてごめんなさい」
「でも、それでも、私は一松くんが好きです。好きなんです。いっとうすきなの。それは本当です」
「私は、あなたのためなら何だって出来るよ。あなたは私の全てで、私にはあなただけなの。あなた以外、なんにもいらない、あなたがいい」
「私は馬鹿で、阿呆で、一松くんの言った通り、頭もからっぽで、どうしようもない、なのに」
「それなのに、」
「ずっと、一緒に居てくれて、ありがとう」
好きになってくれてありがとう、という言葉が形となることは無かった。
目の前が揺れたと思ったら押さえきれないとばかりにほのあたたかいものが溢れ落ちる。それは私の思いを表す言葉を邪魔するものであり、同時に私の思いを最も雄弁に語るものでもあった。
だからきっと、伝わっているはずだ。彼はきっと、涙と共に融けたその言葉を受け取ってくれたはずだ。
堪らずせき上げながら俯いた私を一松くんは覆い被さるように抱き締めた。ぽんぽんと赤子をあやすような手つきで背をさすられる感覚に、ゆっくりと瞼を下ろす。
あぁ、あなたはそうやって、ずっと私を支えてくれていたのね。
今日、私の長年に渡る過去への自責、未来への悲嘆は呆気なく終わりを迎えた。
結末としては結局、私の一人遊びに過ぎなかったのだから失笑ものである。例えるならば、長年恐れていた怪物などはじめから何処にも居らず、手が届かないと端から諦め切っていた宝物は目の前にあったというものだ。
そんな空回りし通しのありもしない谷底に落ちることを怖がる人間を神様は笑っていた。
全てが明るみになったとき、私はあの美しい顔の下には嫌な顔が隠れている、嘲笑われている、そう思った。
しかし、微笑まれている、嘲笑われている、そのどれもが間違いで、神様はただ愚かな人間を面白がって笑っていただけなのだ。
私が目を開けさえすれば、速攻大団円。誰もが認めるハッピーエンド、これにて交わらぬ愛のお話は終幕。
こうして二人は漸く前に進めるのだ。
しかし、瞼の裏で私は考える。
私たちは本当に、前に進む必要などあるのだろうか。
答えは否だ。
私たちは、このままでいい。
このまま、二人でいればいい。
前になんか、進まなくていい。
このまま二人にしか見えない光が差すお互いしか存在しない此処にずっと、二人でいればいいじゃないか。
私たちは互いに互いがいればそれでいいのだ。
だったら、他に何もいらないだろう。
最後は、二人で一緒に朽ちよう。そうして共に消えてゆければ、それはきっと、すごく幸せなことだ。
それまで、私はあなたを離さないよ。
あなたもそうであってくれたら、私は嬉しい。
煙草の匂いに混じって洗剤の匂いがふわりと香る腹に顔をうずめながら、衣服の端をきゅっと掴んだ。
「ふふっ」
ぱちり、目を開けると最初に飛び込んできたのは慣れ親しんだ我が家の天井であった。身体全体が柔らかなものに預けられている。此処は寝室だ。
時刻は不明だが、部屋の明るさから察するにせいぜい昼前というところであろうとある程度の当たりをつける。
力の入らない身体を何とか持ち上げ起き上がると、鈍い痛みが走った。
視線を散らせば、床に丁寧に折り畳まれた衣服があることに気づく。ふと、足元が心許ないと思うと大きめのTシャツ一枚をぺらりと身に付けているだけであった。
やはり昨日のあれは、夢ではないのだ。
このTシャツはいつだったか彼が置いていったものだし、あの衣服は昨夜乱暴に脱がされたものそのもので、身体が痛むのは玄関先で行為に及んだからである。
目を覚ましたとき先ず思ったのはあれが夢ならば、だった。
しかしそんなことがあるはずもなく、アルコールなど一滴も摂取していないのにも関わらず痛む頭を抱えた。
昨夜、私は途中で意識を手放した。その後の記憶は当然ながら無い。無いのだが、私をこのベッドへ連れてきて、服を着替えさせるなど事後処理を行ったのは間違いなく一松くんだと言い切れる。
思考をそちらにやれば、唐突に途方もなく薄暗い感情に襲われた。
全部全部私が自分で選択して進んできた道である。後悔は一度だってしたことはない。
己のことしか顧みなかったこと、嫌われたって憎まれたって仕方ないなんてことははじめから分かっていたのだ。
でもいざ彼にその感情を向けられる事態に陥った今、このザマである。
意識していても、実際の状況に置かれなければどうなるかなど到底理解出来ないことが身にしみて分かる。
彼が出ていってしまったこの家はがらんどうのようだった。
ただでさえ家において一人の大きさというものは計り知れないのに、私の全てを占めた一松くんを失ったことでこの家は全てを失った。
本当は少しも興味無いのに彼にとって居心地の良い家であろうと買い揃えたソファーやウッドラックなどの家具は今はもう何の価値もないただの置物だ。
そのくせ私の根城たる此処は長いこと交際関係を歩んできたため、彼の痕跡が至るところに残っている。
それこそ私が今着用しているTシャツ、デフォルメされた猫がプリントしてあるマグカップ、歯ブラシなどの日用品、酒に弱い癖に酒を飲むので度数の低いチューハイまで残されているのだ。
自業自得ながら彼を失ったことで傷心中の私に彼を想起させるものばかりの此処で再び生活をおくれなんていうことは拷問に等しい。
そう、斯く言う私もこの家と同じがらんどうであった。
己の全てを失い、空っぽな心を満たすものはもう何処にもない。
学生時代も、社会人となった現在でも私という存在には必ず
“松野一松”という男が結び付く。
今まで一松くんに会うためにクソみたいな上司のもとで真面目に働き、居たくもない社会で日々を生きてきた私はこれからどうすれば良いのだろうか。
美味しい食べ物も酒も、毎週惰性で見ているくだらないバラエティ番組も、暇潰しにやっていたスマホゲームも、全然足りないのだ。駄目なのだ。
それらは彼がいて初めて成り立つ。彼がいなくなってしまった今ではそれら全てが意味を成さなくなってしまった。
そして何より私にとっての明日はもう真っ暗で、これから何のために生きていけばいいのか分からなくなってしまったのだ。
愛しい彼がまだ息をする部屋は今の私にとっては毒と同義だ。置物だらけのがらんどうな毒は私を確実に蝕んでいる。
蜜を手に入れようにも、其れはもう二度と手の届かない場所にある。そんなところに手を伸ばすなど、馬鹿のすることだ。
鬱々とした気分に陥っていると、ふと不自然な風に煽られた。扇風機などつけていないどころかこの部屋に今は置いていないし、現在進行形で私の居るベッドの後ろはベランダだ。導き出せる答えは一つだろう。
どうして窓が開いたままなのか。開けた覚えは無いので多分昨夜彼が開けて、閉め忘れたのだろうと結論付け、何故か感じる妙な感覚に見ない振りをして振り返ると、思わず息をのんだ。
なんとそこには煙草をふかせ、網戸の向こうから何時もの何倍も卑屈さの入り交じった視線で此方を見つめる一松くんがいたのだ。
先ず沸き上がってきた感情は、何故此処にいるのか。
余りの鬱然とした心境のせいで、まさか夢でも見始めているのではないかと目を擦り、五、六度ほどまばたきを繰り返す。しかしそれでも一向にその幻影(仮)は消えない。
もしかしてもしかすると、これは本物なのではないだろうか。
冷静に鑑みれば、あの程度のことでは報復としては生ぬる過ぎるし、恨みも何も晴れたものでは無いだろう。
今彼の口から、これからお前にやられた分そっくりそのまま返してやるからななんてことが言われたって何ら不思議では無いのだ。
そうすると、彼が私に求めるものは何だ?やっぱり金か?と何時も以上に感情が読み取れない顔に焦点を合わせる。
すると、不意に煙を吐いた唇が何か言葉を放そうと動きを見せた。それがやけにゆっくりと、スローモーションのように映る。
一体何を言われるのか、無意識のうちに身構え、身体を覆っていた薄い毛布を小さく握りしめた。
「おはよう」
…へ?
それを口に出したかどうかは分からなかったが、とにかく今の私の顔は間抜けなものだろう。
ベランダに置きっぱなしのチープな灰皿に慣れた手つきで煙草を放りこんだ彼は緩慢な動作で部屋へと入ってきた。
いまいち状況を飲み込めていない私を余所に三段シェルフ前のいつ置かれたのかも分からない椅子を引っ張ってきて、腰を下ろす。
「…大丈夫?」
どうにも居心地が悪く、毛布を握りしめたままの手を何とはなしに眺めていた視線を上げるが、口ごもり「…何が?」と一言返すのが精一杯であった。
普通に考えて身体のことなのだからうんとでも返せばよかったなと即座に思い至る。
「昨日の夜」
「あぁ……何か重い感じ…」
「だろうね」
口の端を僅かに上げる様子に、問いの意味を理解していたことは黙っていた。こうして見る分には何時も通りに見えなくもないが、きっとあれは仮面だ。あの下に隠れているものが何なのか。想像したくもなかった。
そうやって考えれば考えるほど嘔吐感は増すし、何より悲しくなってくる。
幾度となく考え、私が最も恐れていたことが現実になっていて、もう別離は目の前だ。其処に落ちてしまえば何もかもが終わる。そんなことを言ったって私はその底とも云える場所に既に真っ逆さまで、戻りようが無いのだ。
だから、今の私は最後なのだから少しでも長く一緒に居たい私と嫌われているのを分かっているのに一緒に居るなんて耐えられないから早く要求を言って欲しい私だ。
相反するようでいて、どちらも結末は同じで、それを受け入れている。
私はもう、深い泥のなかで眠りにつき、やがて朽ち果てていくのみなのだ。そうして心と一緒にその入れ物たる身体も朽ちてしまえばいい。誰もいない其処で骨も遺さず、ただ愛しい彼への愛と共に眠るのだ。
「……なまえちゃんって、馬鹿だよね」
唐突に溢された流れを介さないその一言に目を丸くした。
ぱっと視線を移すが、相も変わらずその表情からは何も読み取れず、この妙な間に変な焦りが生まれてくる。
「…な、何が?」
この状況に言い様の無い緊張感を感じているのは私だけなのか。それに引っ張られるように声だけでなく頬までひきつらせながら、言葉の意図を読もうと試みる。
「…何も思わないの?」
「、ん?」
いまいち会話が噛み合わない。彼は私に一体何を問おうとしているのだろうか。
その肝心なところがあらわにされないため、要領を得ない返ししか出来ず、思わず歯噛みする。
此方が焦りを感じている一方、彼方は苛立ちを感じ始めているようで徐々に眉間の皺が深まっていく。
「だから、昨日の夜のことだよ」
「…と、特には…」
彼が言う”昨日の夜”とは玄関先でのことだろうと先述の話の流れから解釈した上で本心からそう告げると、一松くんは目を大きく見開き、心底びっくりしましたというような顔でただ一言「…は?」と言い放った。
もしかして、玄関先でのことではなく居酒屋でのことだったのだろうか。
何も思わないのか。確かにこの言葉には、事実を知ったおれに何か言うことは無いのかという意が込められていると考えるほうが妥当だ。
此処に来てとんだ失態である。訂正しなければと慌てて口を開く。
「ごめ「ハアァァァ!?無理矢理ヤられて、勝手に中に出されて、何も思わねぇとかどこまで馬鹿なんだよ!!テメェの頭はからっぽか!?」
「む、むりやり…?」
“昨日の夜”が玄関先でのことというのはどうやら正しいらしい。しかし、彼は一体何を言っているんだ。突如豹変した彼の言葉を咀嚼し、飲み込もうとするもそれを待たずして再び与えられた言葉に私は上手く息をすることが出来なくなった。
「だいたい、お前はいっつもそうだろうが!おれのことが好きだって言うくせになんっも見えてねぇんだよ!!こっちの気持ちなんてお構い無しで、勝手に思い詰めて、泣いて、
っ、ふざけんな!!!」
「おれが、気づいていないとでも思ってた?んなわけねぇだろ、昨日で全部合点がいったよ」
「時々妙なこと言い出すのも、可笑しな真似すんのも、夜一人で泣いてんのも、全部全部!」
「ずーっとあれが、自分がやったことが恐かったからだろ」
「おれが、どう思っているのか分かろうともしないで、何年も」
「………ねぇ、僕ってそんなに信じられないの?」
「僕たちって、そんなことで簡単に崩れちゃうような関係なの?僕が、そんなことで君を嫌ったり…捨てたりするって本気で思ってたの?」
「そんなのってないよ…ねぇ、なまえちゃん、っ、ふっざけんなよ!!自分ばっかりが好きだと思って、おれがどんなにお前のことが好きかも知らないくせに、勝手に一人で終わらせようとしてんじゃねぇよ!!」
「おれだって、好きなのに、それなのに、君は、はじめからおれは君のことを好きじゃないって決めつけて、気づこうともしない!それが、どんなに惨めか!お前に分かるか!?分かるわけがねぇよな!!」
「……、なまえちゃん、何であのとき逃げたの、泣きそうな顔して、また僕のいないところに行こうとしたの、」
「何で、いつも僕には何も言ってくれないの?」
呼吸が、上手く出来ない。ひゅうひゅうとか細い息を繰り返す喉、そして滅茶苦茶になった頭を元に戻そうとして、止めた。
全てを出し切ったように大きく項垂れてしまった彼を気だるい身体をどうにか動かし、思い切り引き寄せた。
勢いそのままに椅子から下ろされ、膝を打ち付けた彼に少し申し訳ないと思いつつも特に抵抗されなかったのをいいことに構わず頭をかき抱く。
散らばった思考を必死にかき集め、重々しい口を開いた。
「、一松くんは、私が一松くんがあの子のことを好きだって知ってて、他の男のものになるよう名前まで隠して工作したのに、」
頭の中がもっとぐちゃぐちゃになるような感覚に頭が痛くなる。意識さえも遠のかせるようなそれを必死で押し止め、
真っ暗な目の前に対する恐怖に耐える。
「嫌いにならない?」
沈黙、耳鳴りがするような静寂では一瞬すら永遠と云える。
彼の黒い髪の毛に埋まる指の先から徐々に身体の熱が引くのを感じながら、この先を静かに待つ。
…こくり。
「別れたり、しない?」
こくり。
「…、私を許すの?」
こくり。
「…私のこと、好きなの?」
「………うん」
柔らかな髪にすり寄り、ぽつぽつと問いかければ、肩口に額をうずめた彼がもぞもぞと肯定の意を示す。
「………君は、僕の全部なんです。君が僕を、好きだと言ってくれたあのとき、今まで苦しかったことも、これからの苦しいことも、全部全部、何だっていいように思えました。今もそれに変わりはありません。こんな、何も無い僕だけど、でも何もかも捨てたって、僕は、君が居ればそれで、いいんです。だから、だから、ぼ、僕と一緒に居てください、」
言葉の続きに黙って耳を澄ませる。彼の声だけが響く此処には、隣の住人が洗濯物を干す音も、通りを横切る小学生の声も、小型犬の甲高い吠えも、今は届かない。
どこか夢見心地な白い光に彩られたこの空間で頭をかき抱いていた両の手を頬に添え、顔を上げさせる。
幼子がまごついているような表情に浮かぶ二つの黒い眼に朧気な私が映っていた。
そのなかの私の眼には彼が映っていて、私の眼のなかの彼の眼にも私が映っている。そのなかも、そのなかも、その繰り返しだ。
そうやって私たちも無限に繋がり合っていればいいと思う。
「私、松野一松くんが好き」
あのときと同じだ。刹那、時が止まったように硬直し、頬を染めた彼に懐古の情がふつふつと沸き上がってくる。
忘れもしない放課後、夕日に照らされた二人きりの教室。
年齢も、状況も異なるのに今この瞬間、全てが重なったのだ。
「あのときみたいだね」
幾つも年を重ねたのに、私たちはまだあのとき居た場所から進めていなかった。
それは私が幾年も彼の心のうちに気づくことが出来なかったからだ。しかも今に至るまで勘違いで突っ走って、その挙句迷って、見当違いな方向に涙を流していたというのだからとんだお笑い草である。
だけど、今更、なんて思わないでほしい。眼前の揺らめく眼に己の眼を合わせ、今度こそはと覚悟を決め、口を開いた。
「無理矢理、なんて思ってないよ。嫌じゃなかったから」
「今まで気づけなくてごめんね。一松くんの言う通り、私は一松くんは私のことなんか好きじゃないって最初っから決めつけてた。きちんと見たら、きっとそれが確かなものになってしまうって、そう思って、一松くんのことをちゃんと見ようともしなかった」
「一松くんの気持ちを踏みにじるようなことをして、ずっと、ひどいことをしてごめんなさい」
「でも、それでも、私は一松くんが好きです。好きなんです。いっとうすきなの。それは本当です」
「私は、あなたのためなら何だって出来るよ。あなたは私の全てで、私にはあなただけなの。あなた以外、なんにもいらない、あなたがいい」
「私は馬鹿で、阿呆で、一松くんの言った通り、頭もからっぽで、どうしようもない、なのに」
「それなのに、」
「ずっと、一緒に居てくれて、ありがとう」
好きになってくれてありがとう、という言葉が形となることは無かった。
目の前が揺れたと思ったら押さえきれないとばかりにほのあたたかいものが溢れ落ちる。それは私の思いを表す言葉を邪魔するものであり、同時に私の思いを最も雄弁に語るものでもあった。
だからきっと、伝わっているはずだ。彼はきっと、涙と共に融けたその言葉を受け取ってくれたはずだ。
堪らずせき上げながら俯いた私を一松くんは覆い被さるように抱き締めた。ぽんぽんと赤子をあやすような手つきで背をさすられる感覚に、ゆっくりと瞼を下ろす。
あぁ、あなたはそうやって、ずっと私を支えてくれていたのね。
今日、私の長年に渡る過去への自責、未来への悲嘆は呆気なく終わりを迎えた。
結末としては結局、私の一人遊びに過ぎなかったのだから失笑ものである。例えるならば、長年恐れていた怪物などはじめから何処にも居らず、手が届かないと端から諦め切っていた宝物は目の前にあったというものだ。
そんな空回りし通しのありもしない谷底に落ちることを怖がる人間を神様は笑っていた。
全てが明るみになったとき、私はあの美しい顔の下には嫌な顔が隠れている、嘲笑われている、そう思った。
しかし、微笑まれている、嘲笑われている、そのどれもが間違いで、神様はただ愚かな人間を面白がって笑っていただけなのだ。
私が目を開けさえすれば、速攻大団円。誰もが認めるハッピーエンド、これにて交わらぬ愛のお話は終幕。
こうして二人は漸く前に進めるのだ。
しかし、瞼の裏で私は考える。
私たちは本当に、前に進む必要などあるのだろうか。
答えは否だ。
私たちは、このままでいい。
このまま、二人でいればいい。
前になんか、進まなくていい。
このまま二人にしか見えない光が差すお互いしか存在しない此処にずっと、二人でいればいいじゃないか。
私たちは互いに互いがいればそれでいいのだ。
だったら、他に何もいらないだろう。
最後は、二人で一緒に朽ちよう。そうして共に消えてゆければ、それはきっと、すごく幸せなことだ。
それまで、私はあなたを離さないよ。
あなたもそうであってくれたら、私は嬉しい。
煙草の匂いに混じって洗剤の匂いがふわりと香る腹に顔をうずめながら、衣服の端をきゅっと掴んだ。
「ふふっ」