Ironically
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大きな賑わいを見せる大衆居酒屋の一角。
とはいえ私はハンドルキーパーで、アルコールなんか飲めないからウーロン茶を飲んでいたし、何時もちまちま飲んでいる一松くんも今日は気分じゃないとかでオレンジジュースを飲んでいたので、両者共に酒の類を口にしてはいなかった。
しかし酒気で充満した店内、酒に弱い彼が摂取せずともアルコールに呑まれるのも最早時間の問題だなとひっそり思った。
斯くいう私もこの心地好いふわふわとした雰囲気に呑まれかけているので人のことは言えない、と気取りながらウーロン茶をあおった。
店内を忙しなく走り回る店員を呼び止め、追加のウーロン茶と卓上を見回し彼の手前、ほぼ専用と化した手羽先が無くなりつつあることに気づいたのでそれも頼む。
すると、直ぐ様はーいと返ってきた気持ちの良い返事が気分の良さをさらに押し上げる。
テーブルに身体を戻し料理を一通り吟味し、一番離れた皿から残り少ない手羽先をひょいとつまみ上げた。
大きく口を開けて香ばしいそれにかぶりつけば、甘辛いタレが口いっぱいに広がる。
歯を突き立て噛み千切ると、スジに沿ってもがれた肉を咀嚼し飲み込んだ。タレのついた唇を口端まで舌で拭えば二度美味しい。
その流れで二口目に突入しようとしたところ、正面の彼の手が料理に手を伸ばしたまま、不自然に止まったのでどうかしたのかと顔を上げた。見れば、手が止まっただけでなく私の後方をいつになく目を見開き凝視して硬直しており、いよいよ何か見えたのかとくるり、振り向いた。
何と、そこには。
「いちまっちゃ~ん、な~にしてんの~?」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる赤パーカーを筆頭とした色とりどりの彼と同じ顔をした5人の男がいましたとさ。
「へー!なまえちゃんって言うんだー!」
よろしく、なんてぐいぐいと迫り来る赤パーカー。
きゅるん、なんて擬音がつきそうな程瞳を輝かせ、ライン交換しようよと何気に距離を詰めてくるピンクパーカー。
向かって、やたら元気で無駄に元気な、未確認生命体みたいな動きを繰り出す黄パーカー。
真実の愛だの何だの意味の分からない言葉を口走る青パーカー。
そんな自由気ままに振る舞う色とりどりの男たちそれぞれにご丁寧にもツッコミを入れ回る緑パーカー。
そうして正面、すっかり顔を青くした一松くん。
迫り来る赤パーカーに混みあった電車の要領で然り気無く肘を入れ、ピンクパーカーを適当に誤魔化しながら、私はすっかり埃を被った六つ子の記憶を掘り起こしていた。
そう、誰が誰だか全く分からないのだ。
学生時代、何度か同じクラスになったことはあるのだが何せかんせ四男、一松くん以外は興味の無かった私。
面白半分で見分け方を探していた友人が外見の特徴(言うほど違いは無い)を教えてくれたような気もするのだが、そうだとしても多分右から左へ、左から右へ。覚えているわけが無い。
まあ、学生時代の知り合いにも満たない関係の人間を細かに覚えている方が気持ち悪いし、分からないなら分からないでいいかと早々に諦めをつけた。
ウーロン茶を口に含みながら全体を見回すと、学生時代から変わらない互いが互いの模造品のような顔が見える。
冷静に考えてみれば、それってかなり恐ろしいことなのではないだろうか。
「ところでさぁ、なまえちゃんって一松とは何処で知り合ったの?」
もう初対面(微妙なところではあるが)でいきなり名前にちゃん付けで呼ばれていることにどうこう言うつもりは無かった。
「いや、一松ってほら、あの通り闇のオーラ全開だし、もう見るからにヤバそうじゃん?だから、どうやって知り合ったらこんな風に飲みに行こうなんてなるのかなーって」
好奇心丸出しでぶつけられた問いに対する返答をしようとすると、僅かの沈黙を私の苛立ちと捉えたのか即座に訂正という名の蛇足が付け加えられた。
当の本人を目の前にしといて結構ズケズケ言うな、この赤パーカー。それは血の繋がった兄弟だからなのか、単にデリカシーという概念が無いからなのか、それとも両方なのか。
「同じ中学なんです」
「えっ、赤塚中?」
「はい」
「んだよ、なまえちゃんも人がわりぃなぁ~」
俺らのこと知ってるっしょ?と自らの顔を指差し、歯を見せ笑う赤パーカーにはい、となるだけ申し訳なさそうな表情を浮かべて返す。
勿論、知ってはいますよ。知ってはね。でも本当に知ってるだけで見分けなんかつかないし、何なら名前もあやふやです。
「じゃあ一松兄さんとなまえちゃん、すごい仲良しな友達なんだね」
そんなずぅっとお友達なんて。
あざといな、ピンクパーカー。性がなんかでいやに鼻につくそれに取り敢えず今は大人しく目を瞑る。
男、女と性別に関わらずこの手のタイプは苦手なのだ。
「違います」
「え?」
「友達じゃなくて、恋人です」
後々のことを考えると、勘違いは正せるならば正したほうがいい。はっきりと事実を告げれば、オレンジジュースを煽っていた一松くんが隣の青パーカーに口内のそれを勢い良く吹き出した。
え、何で?
あの後はもう、文字通り大騒ぎであった。
オレンジジュースにまみれた青パーカーを他人事ながら不憫に思うのもつかの間、先ず赤パーカーのジュウシマツ、卍固め!という一声で一松くんが締め上げられた。
そして何時から付き合っているのか、デートは何回したのか、手を繋いだことはあるのか、ハグをしたことはあるのか(一松くんが)吐かされ、返答一つ一つに主に赤と緑が大騒ぎ。
しかしそこで事は終わらなかった。
赤がやけに張りつめた雰囲気を醸し出し、緊張感が漂ったところで何故かキスをしたことがあるのかと小声で問いかけ(この時点で私は何となく察してしまった)、その質問に対して肯定の返事が返ってくるとまたしても大騒ぎ。
お約束のように再び静かになったと思ったら、瞳孔ガン開きでまさか、と一松くんに焦点を合わせるも黙りこくってしまった彼に何かを察したのか一斉に私へと視線を集められた。流石にうぶな少女でもないのでこれまでの流れからその意図を汲み、肯定の意を込めて頷けば、一瞬の沈黙を挟み五人はほぼ半狂乱状態となった。まさに阿鼻叫喚。
そんな感じでとにかくもう、大騒ぎであったのだ。
その後、彼らは当たり前のようにこのテーブルに居座り続けた。こんな色気もへったくれもない大衆居酒屋で、と思うかもしれないが一応、恋人同士の時間なのだ。少しくらい気を使って別のテーブルに行くかなんかしろよ、と最初のうちは苛立ちを感じてはいたがよくよく考えてみれば彼らはクソど、いえ女性経験の乏しい者だし、そんなことまで考えが及ばないのだろうとすっかり諦めきってしまっていた。
特に何も言わなければ、乱入者は各々好みの酒やソフトドリンク、料理を注文し、好き勝手どんちゃん騒ぎ。
すっかりこのテーブルは出来上がっており、この場のほとんどが見事に酒に呑まれていたが、そんななか私は酔っ払い特有の絡みをかわしながら己のペースをきちんと守っていた。
しかし、何時までも此処に付き合ってもいられない。
こんなところに長居していても、時間が減る一方で私にとって良いことは何も無いので胃袋をそこそこ満たしたら帰ろうと思う(私は一松くんとご飯が食べたいだけであって、決して彼の兄弟と仲良しこよしがしたいわけではないのだ)。
まあ当の彼が兄弟とまだ飲みたいと言うのなら、残る。
兄弟だけで飲みたいと言うのなら、一人で帰るだけだ。
この店には今のご時世何とも珍しいことに商店街等で発行されるような、専用の機械に入れれば支払い金額に応じて自動的にスタンプが押されるタイプのポイントカードがある(しかもご丁寧に自分で名前まで書ける)。
スタンプが貯まればいくらか割引になるという代物なのだが、一松くんや友人と飲みにやってくるうちに数を増やし、遂に前回スタンプが埋まりきったのだ。
会計時に出そうとは思うのだが、いくら割り引かれるかが分からない。値段によっては追加する品の数を増やそうと思案しながら、脇のカバンをごそごそと漁り、財布を取り出した。其処から目的のポイントカードを引き抜き、両面をくまなく眺める。
すると、私の手元を隣のピンクパーカーが覗き込んできた。
「なまえちゃん、字キレイなんだね」
「はあ、ありがとうございます」
ホント敬語なんていいのに~、とひらひらと手を振り笑う男の横から突然別の男、黄色パーカーが顔を出してきて、思わず喫驚の声を漏らした。
「ほんとだー!!スッゲー上手いね!!!」
やたら大きなリアクションに内心苦笑しながら乾いた笑いを返す。この成人済みの男性とは思えない無邪気な振る舞い、間違いない。この男は先程赤パーカーの指示で一松くんに卍固めを掛けたジュウシマツだ。
自己紹介をされても名前、着衣の色、共にこんがらがった私でもコイツだけははっきりと覚えた。
それぞれ個性豊かな松野兄弟だが、この男だけは段違いだ。
そんな思考を巡らせていると、逆側の赤パーカーも此方を覗き込んでいることに気がついた。
二人ならば余裕を持って座れるテーブルだが、今此処に居るのは七人。一人一人の距離が近く、前方の青パーカーと緑パーカーまでもがジュウシマツの騒ぎように吸い寄せられたのか各々の位置から此方を覗き込む。
面白いものでも何でもないのに、変なの。
ほぉ、だのへぇ、だのさして興味も無さそうな声が耳に届く。
もう割り引かれる金額も分かったことだし、そろそろ財布に戻して食べかけの山芋の鉄板焼を食べ終えてしまいたい。
全体を目だけで見回し、仕舞い時を窺っていると、
何処かで見たことがある。
訝しげに呟かれたそれにガツン、頭部を勢いよく殴打されたような気がした。
己の身体は此処にあるのに、意識だけが何処か遠くへ行ってしまう。そんな感覚に陥った。
えー、学校とかじゃないの?賞とか取ってたでしょ?
同じ顔をした別の男の言葉に、心のうちを悟られないよう一つ一だけ頷いてみせた。
そう、あのときじゃない。この男は、あのことを言っているのではない。
違う、違う違う違う。
あ、思い出した。
やめろ、やめろ。やめてください。やめて。お願いだから、
今だから言うけど、
誰も分からなくても、”あの男”だけは分かるの。だって。
昔、妙な手紙を貰ったことがあるんだ。
丁度そのとき、いいなって思う子がいたんだけど、誰にもそんなこと言ってないのに、その子と仲良くなるためのアドバイスみたいな手紙が送られてきて。
正直、気味が悪かった。差出人の名前も無かったし、けど妙に綺麗な字で。
その差出人不明の怪しーい手紙の字がなまえちゃんの字だって?綺麗な字なんて他にいくらでもいるだろ。
でも何かそんな気がするんだって。
必死に祈る私を嘲笑するように事態はどんどん悪い方へ悪い方へと足を進めていく。
多分、今の私の顔は見られたものではないのだろう。心苦しそうに此方を見つめてくる男の表情がそれを物語っている。
見るな、と念じてもあの男は私から目を逸らそうとしない。すると、あの男ではない男さえも己の眼に私の姿を映し、何を思ったのか気の抜けたいかにも間抜けそうな笑みを浮かべた。
ねぇなまえちゃんさあ。まさか、
卑しい笑顔で男は私を追い詰めようとする。
言うな、言うな、何も言うな。黙れ。
何も、知らない癖に。
「まじでなまえちゃんがやったんでしょ」
そうです。全て私がやりました。
私は目の前のあの男のこと、そしてあの子のことを自らのために利用しました。
正面の彼がどんな顔をしているのか、まともに見ることが出来なかった。
視界はぐらつくし、頭は現実から目を逸らすかの如くふわふわと順調に使い物にならなくなっていく。
そんな苦しみから逃げるように、もがくように手を振り上げた。
うえぇ、吐きそう。
ダンッ、と勢いよく、握りしめられた頼りなさげな手がテーブルに叩きつけられた。
居酒屋の賑やかさには紛れたが、このテーブルを静まりかえさせるには充分な音で、先程の騒々しい雰囲気は一転、唖然としたまま全員が黙りこくってしまい、両隣や、周りの賑やかさとは乖離した気まずい沈黙が広がる。
「え、えっと、なまえちゃん…?」
どうかしたの、なんて口火を切ったのはおそ松兄さん。
何時ものようににへらと笑っているように見えるが、口の端がひきつってしまっている。
デリカシーなんて小指の先ほども無いくせに、今日初めて会った女の子がキレたかもしれないなんてなったら少しは気を使うのか、なんて他人事のように思った。
妙な雰囲気に包まれるなか、こんな雰囲気にした張本人である彼女は大きく項垂れ、俯いている。
叩きつけた片手は残したままで、表情を窺い知れることは出来なかった。
「駄目なんですか」
不意に口を開いた彼女に、口には出さずともこの瞬間、全員が「え?」と思ったことだろう。
何が言いたいのか全く読めない。
真意を問い正そうとなまえちゃん、と声を掛けようとすると、
「駄目だよね」
顔を上げ、背筋を伸ばした彼女の言葉は返事など端から期待していない一方的な言葉のように思えた。
唇をはばみ、眉根を少し寄せた表情が何となく泣きそうな表情に見えて、喉元まで差し掛かった声を飲み込む。
一瞬、目が合ったような気がしたが、黒い眼は直ぐに逸らされ、伏された。
全くもって真意が読めず、つかめない言葉を続ける彼女に戸惑いを隠せず、おれを含め6人の男共は揃ってこっそり視線を交わす。
ちらちらと周りをかためる兄弟を見回せば、当然ながら五対の眼がおれを捉え、どうにかしろとでも言いたげな視線を送られた。
いや、まあ、彼氏だからね。
こんなおれでも、この子の彼氏にあたりますからね。
当然ですよね、はい。
場違いにも誇らしげに思い、丸まった背筋を彼女に倣い、少しだけではあるが伸ばし、唾を飲み込んだ。
周りに彼女の男であると認められたようで、無意識にこの冷えきった雰囲気に反し、おれの気分は不思議と高揚する。
しかし、その気分は急転直下。再度言葉を飲み込むだけでは済まず、おれの意識さえも遠のかせた。
「確かに中学三年生のとき、貴方に手紙を渡したのは私です」
「でも好きだからやったんです、嫌いだからやったんじゃない」
「好きで好きでどうしようもなくなったから、傷ついたところをつけこめば、自分のものに出来ると思ったから」
「一番好きだったからやったの」
「中学一年生のあのときから私はずっと一松くんのことが好きだったから、だから」
「いくら好きだからって、傷つけるなんてことが駄目なのは分かってる、分かってんだよ!」
「でも好きだったんだからしょうがないじゃない!」
「好きだから、どうしようもなく好きだから、自分のものにしようとするのはそんなにいけないことなの!?」
自分でも何を言っているのか、よく分からなかった。支離滅裂で、脈絡なんて無い幼稚な言葉だった。
馬鹿みたいだ。折角奥底に閉じ込めてたのに、自らの手でそれら全てを台無しにした。
本当に馬鹿みたいだった。
どうしよう、なんて思ったって私を囲むよく似た顔をした六人の男が揃って呆気に取られている今、遅すぎると己を馬鹿だと嘲笑う私が現実を受け止めきれない私にそう教えた。
耐えきれない思いを抱え、正面の彼に焦点を合わせれば見開かれた両の目とかち合った。ゆらゆらと揺れる眼は私を捕らえ離さない。
誰が誰かなどどうでもいいのだ。私にとって重要なのは彼だけで、大事なのは彼一人なのだ。
他の五人に何を思われたって知ったことではない。好きなだけ失望でも軽蔑でも何でも勝手にすればいい。
でも彼には、彼だけには、失望も、軽蔑も、嫌悪もされたくない。
嘘でもいいから好きでいてほしい。
便利な女でいいから、都合の良い女でいいから、一緒にいてほしい。
私ははじめから我が儘で自分勝手でどうしようもない女だ。
あのときも、そして今も。
好きでいてくれないのならば、心底嫌ってほしい。
あの人の心の中にいれるならそのほうが余程いい、という女がいる。
そんなこと、とても私には言えなかった。私には彼に嫌われてでも彼の心を巣食いたいと思える勇気は無かった。
嫌われるくらいなら、彼自ら私を引き裂き、木っ端微塵になるまで砕いてほしい。そうしてぼろぼろになった私を溝に捨ててほしい。
何も残らないくらいになった私はただ朽ちていく。
そしてさようなら。終幕が落ちる頃には貴方はきっと、私のことなど忘れている。それでいい。
こんな馬鹿で我が儘で自分勝手で、自分の欲のために己を傷つけた女のことなど忘れてしまえばいい。
みょうじなまえなど何処にもいなかったことにしてしまえばいい。
安穏とした日々を送る貴方のなかで私は二度目の死を迎える。
はじめからそんな女、何処にもいないのだ。
脇のカバンの中から再び財布を取り出す。確認もせず適当に何枚か紙幣を抜き出し、乱暴に油染みの浮いたテーブルへ叩きつけた。
無理矢理入り込まれたせいで手狭となった座敷からするりと足を抜いて、ほつれのある畳を踏みしめる。
そしてむずとカバンを掴み、一回り小さなスニーカーを引っ掛けると即座に駆け出した。
若い店員の間をすり抜けながら店を出ると、一目散に車を停めた方向へと足を進める。こんなことに履き潰したスニーカーが役に立つとは思ってもいなかったが、これはこれで良いのだろう。そう思うことにした。
酔っ払いをかき分けながら考える。
高校二年生のとき、あの子が松野■■松と別れたことで大きな不安に駆られた私は、無意識のうちに一松くんが自分を捨てるのは私という女が要らなくなったときだと考えていた。
中学三年生のときにやったことが知られて嫌われるという可能性から目を逸らしながら、心の何処かで望まぬ結末がやってくるのならばそうであってほしいと願っていたのだ。
私はずっとあの子が嫌いで、阿呆だと見下していた。
だけどそんなあの子より、私はずっとずっと阿呆であった。
神様に微笑まれていると思い込み、当の神様がその美しい微笑みの下に卑しい笑みを隠し、いつ奈落に突き落としてやろうかと窺っていることに気づきもせず、踊り続けた道化が私だ。
まるで喜劇だなと一人ごちる。
鮮やかなしっぺ返しを食らった道化は一人奈落に落ちていく。
辿り着いた底で眠るように融けてしまえればどんなに楽だろうか。
「なまえっ!」
大きく荒げられた聞き慣れた声が耳に飛び込んできて、思わずその場に立ち止まり声のした方へと振り返った。
目を凝らさずとも此方へ迫る姿が見えてひゅ、と息をのむ。
目立ったりとか、人に注目されるのなんか大の苦手な癖に周囲の視線が集まることにも構わず向かってくる彼に慌てて再び背を向け走り出す。
「っ、逃げんな!!!」
人の流れに逆らっているため、前に進むのも一苦労だ。追いつかれはしないかと歯噛みするが、それは向こうも同じだ。
ほんの数分しか掛からないはずの駐車場までの距離がやたら遠いように感じる。居酒屋を出てからほとんど時間など経っていないというのに無限にも近い時間が経過したようで途方もない疲労感が私を襲う。
ちら、と振り返れば徐々に間を詰められていることが分かって、焦りからか妙な汗が滲んでくる。
此方はスニーカー、彼方は便所サンダル。
なのに何故そんなに速いんだ、便所サンダルの癖に!
いつものそのそと熊みたいな歩調で、行動範囲も狭くて、滅多な距離歩かないのに。
私が女で、一松くんが男だからなのか。これが男と女の差なのか!
しかしそもそも彼はそれほど運動神経が悪いというわけではないし、私は運動に関してはそこそこなので性別の差が出て当然なのかもしれない。
車まであとどのくらいだ。
早く行かなくては。一松くんが追いつくより早く、早く車に乗って此処から逃げなくては。
…あれ?逃げる?なんで?
何故、私が逃げるの。
悪いことをしたのは他でもない私だ。それを咎めようとしているのは一松くんだ。
悪いことをしたならばそれ相応の報いを受けなくてはならない。だのに私は逃げようとしている。それは間違った行いだ。私は悪いことをしたのだから、被害者である一松くんが加害者である私を裁こうというのならば、それを大人しく受け入れるべきなのだ。
だんだんと歩調を緩め、その場に足を止める。
逆方向に向かう人々のなか、突然立ち止まったことで周囲からは怪訝そうな視線を向けられた。
少し遅れて背後からだらりとしなだれた手首を強い力で掴まれ、勢いよく振り向かせられる。ふらつく身体をぐらつく両足で何とか地面に押し止め、視線の先に彼を捉えた。
握りしめられた手首は思わぬ負荷に悲鳴を上げる。伸びたままの爪が刺さり、鈍い痛みさえも広がっていく。
乱れた前髪から覗く濁った両の目が余りに恐ろしくて、ひゅぅと息が詰まった。
唇を固くひき結んだ彼は駐車場のある方向、前方へと再び足を進め始める。冷え冷えとした視線で見下ろされたことですくんだ足を無理矢理に推し進め、やっとの思いで彼の歩調に合わせた。
彼の背中から這い出る刺々しい雰囲気から目を逸らすように顔を下げれば、側面の薄汚れたおぼつかない足取りのスニーカーが目に入って、何だか泣きたくなった。
この幽闇が去る頃には、なんて考えたくなかった。
とはいえ私はハンドルキーパーで、アルコールなんか飲めないからウーロン茶を飲んでいたし、何時もちまちま飲んでいる一松くんも今日は気分じゃないとかでオレンジジュースを飲んでいたので、両者共に酒の類を口にしてはいなかった。
しかし酒気で充満した店内、酒に弱い彼が摂取せずともアルコールに呑まれるのも最早時間の問題だなとひっそり思った。
斯くいう私もこの心地好いふわふわとした雰囲気に呑まれかけているので人のことは言えない、と気取りながらウーロン茶をあおった。
店内を忙しなく走り回る店員を呼び止め、追加のウーロン茶と卓上を見回し彼の手前、ほぼ専用と化した手羽先が無くなりつつあることに気づいたのでそれも頼む。
すると、直ぐ様はーいと返ってきた気持ちの良い返事が気分の良さをさらに押し上げる。
テーブルに身体を戻し料理を一通り吟味し、一番離れた皿から残り少ない手羽先をひょいとつまみ上げた。
大きく口を開けて香ばしいそれにかぶりつけば、甘辛いタレが口いっぱいに広がる。
歯を突き立て噛み千切ると、スジに沿ってもがれた肉を咀嚼し飲み込んだ。タレのついた唇を口端まで舌で拭えば二度美味しい。
その流れで二口目に突入しようとしたところ、正面の彼の手が料理に手を伸ばしたまま、不自然に止まったのでどうかしたのかと顔を上げた。見れば、手が止まっただけでなく私の後方をいつになく目を見開き凝視して硬直しており、いよいよ何か見えたのかとくるり、振り向いた。
何と、そこには。
「いちまっちゃ~ん、な~にしてんの~?」
ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる赤パーカーを筆頭とした色とりどりの彼と同じ顔をした5人の男がいましたとさ。
「へー!なまえちゃんって言うんだー!」
よろしく、なんてぐいぐいと迫り来る赤パーカー。
きゅるん、なんて擬音がつきそうな程瞳を輝かせ、ライン交換しようよと何気に距離を詰めてくるピンクパーカー。
向かって、やたら元気で無駄に元気な、未確認生命体みたいな動きを繰り出す黄パーカー。
真実の愛だの何だの意味の分からない言葉を口走る青パーカー。
そんな自由気ままに振る舞う色とりどりの男たちそれぞれにご丁寧にもツッコミを入れ回る緑パーカー。
そうして正面、すっかり顔を青くした一松くん。
迫り来る赤パーカーに混みあった電車の要領で然り気無く肘を入れ、ピンクパーカーを適当に誤魔化しながら、私はすっかり埃を被った六つ子の記憶を掘り起こしていた。
そう、誰が誰だか全く分からないのだ。
学生時代、何度か同じクラスになったことはあるのだが何せかんせ四男、一松くん以外は興味の無かった私。
面白半分で見分け方を探していた友人が外見の特徴(言うほど違いは無い)を教えてくれたような気もするのだが、そうだとしても多分右から左へ、左から右へ。覚えているわけが無い。
まあ、学生時代の知り合いにも満たない関係の人間を細かに覚えている方が気持ち悪いし、分からないなら分からないでいいかと早々に諦めをつけた。
ウーロン茶を口に含みながら全体を見回すと、学生時代から変わらない互いが互いの模造品のような顔が見える。
冷静に考えてみれば、それってかなり恐ろしいことなのではないだろうか。
「ところでさぁ、なまえちゃんって一松とは何処で知り合ったの?」
もう初対面(微妙なところではあるが)でいきなり名前にちゃん付けで呼ばれていることにどうこう言うつもりは無かった。
「いや、一松ってほら、あの通り闇のオーラ全開だし、もう見るからにヤバそうじゃん?だから、どうやって知り合ったらこんな風に飲みに行こうなんてなるのかなーって」
好奇心丸出しでぶつけられた問いに対する返答をしようとすると、僅かの沈黙を私の苛立ちと捉えたのか即座に訂正という名の蛇足が付け加えられた。
当の本人を目の前にしといて結構ズケズケ言うな、この赤パーカー。それは血の繋がった兄弟だからなのか、単にデリカシーという概念が無いからなのか、それとも両方なのか。
「同じ中学なんです」
「えっ、赤塚中?」
「はい」
「んだよ、なまえちゃんも人がわりぃなぁ~」
俺らのこと知ってるっしょ?と自らの顔を指差し、歯を見せ笑う赤パーカーにはい、となるだけ申し訳なさそうな表情を浮かべて返す。
勿論、知ってはいますよ。知ってはね。でも本当に知ってるだけで見分けなんかつかないし、何なら名前もあやふやです。
「じゃあ一松兄さんとなまえちゃん、すごい仲良しな友達なんだね」
そんなずぅっとお友達なんて。
あざといな、ピンクパーカー。性がなんかでいやに鼻につくそれに取り敢えず今は大人しく目を瞑る。
男、女と性別に関わらずこの手のタイプは苦手なのだ。
「違います」
「え?」
「友達じゃなくて、恋人です」
後々のことを考えると、勘違いは正せるならば正したほうがいい。はっきりと事実を告げれば、オレンジジュースを煽っていた一松くんが隣の青パーカーに口内のそれを勢い良く吹き出した。
え、何で?
あの後はもう、文字通り大騒ぎであった。
オレンジジュースにまみれた青パーカーを他人事ながら不憫に思うのもつかの間、先ず赤パーカーのジュウシマツ、卍固め!という一声で一松くんが締め上げられた。
そして何時から付き合っているのか、デートは何回したのか、手を繋いだことはあるのか、ハグをしたことはあるのか(一松くんが)吐かされ、返答一つ一つに主に赤と緑が大騒ぎ。
しかしそこで事は終わらなかった。
赤がやけに張りつめた雰囲気を醸し出し、緊張感が漂ったところで何故かキスをしたことがあるのかと小声で問いかけ(この時点で私は何となく察してしまった)、その質問に対して肯定の返事が返ってくるとまたしても大騒ぎ。
お約束のように再び静かになったと思ったら、瞳孔ガン開きでまさか、と一松くんに焦点を合わせるも黙りこくってしまった彼に何かを察したのか一斉に私へと視線を集められた。流石にうぶな少女でもないのでこれまでの流れからその意図を汲み、肯定の意を込めて頷けば、一瞬の沈黙を挟み五人はほぼ半狂乱状態となった。まさに阿鼻叫喚。
そんな感じでとにかくもう、大騒ぎであったのだ。
その後、彼らは当たり前のようにこのテーブルに居座り続けた。こんな色気もへったくれもない大衆居酒屋で、と思うかもしれないが一応、恋人同士の時間なのだ。少しくらい気を使って別のテーブルに行くかなんかしろよ、と最初のうちは苛立ちを感じてはいたがよくよく考えてみれば彼らはクソど、いえ女性経験の乏しい者だし、そんなことまで考えが及ばないのだろうとすっかり諦めきってしまっていた。
特に何も言わなければ、乱入者は各々好みの酒やソフトドリンク、料理を注文し、好き勝手どんちゃん騒ぎ。
すっかりこのテーブルは出来上がっており、この場のほとんどが見事に酒に呑まれていたが、そんななか私は酔っ払い特有の絡みをかわしながら己のペースをきちんと守っていた。
しかし、何時までも此処に付き合ってもいられない。
こんなところに長居していても、時間が減る一方で私にとって良いことは何も無いので胃袋をそこそこ満たしたら帰ろうと思う(私は一松くんとご飯が食べたいだけであって、決して彼の兄弟と仲良しこよしがしたいわけではないのだ)。
まあ当の彼が兄弟とまだ飲みたいと言うのなら、残る。
兄弟だけで飲みたいと言うのなら、一人で帰るだけだ。
この店には今のご時世何とも珍しいことに商店街等で発行されるような、専用の機械に入れれば支払い金額に応じて自動的にスタンプが押されるタイプのポイントカードがある(しかもご丁寧に自分で名前まで書ける)。
スタンプが貯まればいくらか割引になるという代物なのだが、一松くんや友人と飲みにやってくるうちに数を増やし、遂に前回スタンプが埋まりきったのだ。
会計時に出そうとは思うのだが、いくら割り引かれるかが分からない。値段によっては追加する品の数を増やそうと思案しながら、脇のカバンをごそごそと漁り、財布を取り出した。其処から目的のポイントカードを引き抜き、両面をくまなく眺める。
すると、私の手元を隣のピンクパーカーが覗き込んできた。
「なまえちゃん、字キレイなんだね」
「はあ、ありがとうございます」
ホント敬語なんていいのに~、とひらひらと手を振り笑う男の横から突然別の男、黄色パーカーが顔を出してきて、思わず喫驚の声を漏らした。
「ほんとだー!!スッゲー上手いね!!!」
やたら大きなリアクションに内心苦笑しながら乾いた笑いを返す。この成人済みの男性とは思えない無邪気な振る舞い、間違いない。この男は先程赤パーカーの指示で一松くんに卍固めを掛けたジュウシマツだ。
自己紹介をされても名前、着衣の色、共にこんがらがった私でもコイツだけははっきりと覚えた。
それぞれ個性豊かな松野兄弟だが、この男だけは段違いだ。
そんな思考を巡らせていると、逆側の赤パーカーも此方を覗き込んでいることに気がついた。
二人ならば余裕を持って座れるテーブルだが、今此処に居るのは七人。一人一人の距離が近く、前方の青パーカーと緑パーカーまでもがジュウシマツの騒ぎように吸い寄せられたのか各々の位置から此方を覗き込む。
面白いものでも何でもないのに、変なの。
ほぉ、だのへぇ、だのさして興味も無さそうな声が耳に届く。
もう割り引かれる金額も分かったことだし、そろそろ財布に戻して食べかけの山芋の鉄板焼を食べ終えてしまいたい。
全体を目だけで見回し、仕舞い時を窺っていると、
何処かで見たことがある。
訝しげに呟かれたそれにガツン、頭部を勢いよく殴打されたような気がした。
己の身体は此処にあるのに、意識だけが何処か遠くへ行ってしまう。そんな感覚に陥った。
えー、学校とかじゃないの?賞とか取ってたでしょ?
同じ顔をした別の男の言葉に、心のうちを悟られないよう一つ一だけ頷いてみせた。
そう、あのときじゃない。この男は、あのことを言っているのではない。
違う、違う違う違う。
あ、思い出した。
やめろ、やめろ。やめてください。やめて。お願いだから、
今だから言うけど、
誰も分からなくても、”あの男”だけは分かるの。だって。
昔、妙な手紙を貰ったことがあるんだ。
丁度そのとき、いいなって思う子がいたんだけど、誰にもそんなこと言ってないのに、その子と仲良くなるためのアドバイスみたいな手紙が送られてきて。
正直、気味が悪かった。差出人の名前も無かったし、けど妙に綺麗な字で。
その差出人不明の怪しーい手紙の字がなまえちゃんの字だって?綺麗な字なんて他にいくらでもいるだろ。
でも何かそんな気がするんだって。
必死に祈る私を嘲笑するように事態はどんどん悪い方へ悪い方へと足を進めていく。
多分、今の私の顔は見られたものではないのだろう。心苦しそうに此方を見つめてくる男の表情がそれを物語っている。
見るな、と念じてもあの男は私から目を逸らそうとしない。すると、あの男ではない男さえも己の眼に私の姿を映し、何を思ったのか気の抜けたいかにも間抜けそうな笑みを浮かべた。
ねぇなまえちゃんさあ。まさか、
卑しい笑顔で男は私を追い詰めようとする。
言うな、言うな、何も言うな。黙れ。
何も、知らない癖に。
「まじでなまえちゃんがやったんでしょ」
そうです。全て私がやりました。
私は目の前のあの男のこと、そしてあの子のことを自らのために利用しました。
正面の彼がどんな顔をしているのか、まともに見ることが出来なかった。
視界はぐらつくし、頭は現実から目を逸らすかの如くふわふわと順調に使い物にならなくなっていく。
そんな苦しみから逃げるように、もがくように手を振り上げた。
うえぇ、吐きそう。
ダンッ、と勢いよく、握りしめられた頼りなさげな手がテーブルに叩きつけられた。
居酒屋の賑やかさには紛れたが、このテーブルを静まりかえさせるには充分な音で、先程の騒々しい雰囲気は一転、唖然としたまま全員が黙りこくってしまい、両隣や、周りの賑やかさとは乖離した気まずい沈黙が広がる。
「え、えっと、なまえちゃん…?」
どうかしたの、なんて口火を切ったのはおそ松兄さん。
何時ものようににへらと笑っているように見えるが、口の端がひきつってしまっている。
デリカシーなんて小指の先ほども無いくせに、今日初めて会った女の子がキレたかもしれないなんてなったら少しは気を使うのか、なんて他人事のように思った。
妙な雰囲気に包まれるなか、こんな雰囲気にした張本人である彼女は大きく項垂れ、俯いている。
叩きつけた片手は残したままで、表情を窺い知れることは出来なかった。
「駄目なんですか」
不意に口を開いた彼女に、口には出さずともこの瞬間、全員が「え?」と思ったことだろう。
何が言いたいのか全く読めない。
真意を問い正そうとなまえちゃん、と声を掛けようとすると、
「駄目だよね」
顔を上げ、背筋を伸ばした彼女の言葉は返事など端から期待していない一方的な言葉のように思えた。
唇をはばみ、眉根を少し寄せた表情が何となく泣きそうな表情に見えて、喉元まで差し掛かった声を飲み込む。
一瞬、目が合ったような気がしたが、黒い眼は直ぐに逸らされ、伏された。
全くもって真意が読めず、つかめない言葉を続ける彼女に戸惑いを隠せず、おれを含め6人の男共は揃ってこっそり視線を交わす。
ちらちらと周りをかためる兄弟を見回せば、当然ながら五対の眼がおれを捉え、どうにかしろとでも言いたげな視線を送られた。
いや、まあ、彼氏だからね。
こんなおれでも、この子の彼氏にあたりますからね。
当然ですよね、はい。
場違いにも誇らしげに思い、丸まった背筋を彼女に倣い、少しだけではあるが伸ばし、唾を飲み込んだ。
周りに彼女の男であると認められたようで、無意識にこの冷えきった雰囲気に反し、おれの気分は不思議と高揚する。
しかし、その気分は急転直下。再度言葉を飲み込むだけでは済まず、おれの意識さえも遠のかせた。
「確かに中学三年生のとき、貴方に手紙を渡したのは私です」
「でも好きだからやったんです、嫌いだからやったんじゃない」
「好きで好きでどうしようもなくなったから、傷ついたところをつけこめば、自分のものに出来ると思ったから」
「一番好きだったからやったの」
「中学一年生のあのときから私はずっと一松くんのことが好きだったから、だから」
「いくら好きだからって、傷つけるなんてことが駄目なのは分かってる、分かってんだよ!」
「でも好きだったんだからしょうがないじゃない!」
「好きだから、どうしようもなく好きだから、自分のものにしようとするのはそんなにいけないことなの!?」
自分でも何を言っているのか、よく分からなかった。支離滅裂で、脈絡なんて無い幼稚な言葉だった。
馬鹿みたいだ。折角奥底に閉じ込めてたのに、自らの手でそれら全てを台無しにした。
本当に馬鹿みたいだった。
どうしよう、なんて思ったって私を囲むよく似た顔をした六人の男が揃って呆気に取られている今、遅すぎると己を馬鹿だと嘲笑う私が現実を受け止めきれない私にそう教えた。
耐えきれない思いを抱え、正面の彼に焦点を合わせれば見開かれた両の目とかち合った。ゆらゆらと揺れる眼は私を捕らえ離さない。
誰が誰かなどどうでもいいのだ。私にとって重要なのは彼だけで、大事なのは彼一人なのだ。
他の五人に何を思われたって知ったことではない。好きなだけ失望でも軽蔑でも何でも勝手にすればいい。
でも彼には、彼だけには、失望も、軽蔑も、嫌悪もされたくない。
嘘でもいいから好きでいてほしい。
便利な女でいいから、都合の良い女でいいから、一緒にいてほしい。
私ははじめから我が儘で自分勝手でどうしようもない女だ。
あのときも、そして今も。
好きでいてくれないのならば、心底嫌ってほしい。
あの人の心の中にいれるならそのほうが余程いい、という女がいる。
そんなこと、とても私には言えなかった。私には彼に嫌われてでも彼の心を巣食いたいと思える勇気は無かった。
嫌われるくらいなら、彼自ら私を引き裂き、木っ端微塵になるまで砕いてほしい。そうしてぼろぼろになった私を溝に捨ててほしい。
何も残らないくらいになった私はただ朽ちていく。
そしてさようなら。終幕が落ちる頃には貴方はきっと、私のことなど忘れている。それでいい。
こんな馬鹿で我が儘で自分勝手で、自分の欲のために己を傷つけた女のことなど忘れてしまえばいい。
みょうじなまえなど何処にもいなかったことにしてしまえばいい。
安穏とした日々を送る貴方のなかで私は二度目の死を迎える。
はじめからそんな女、何処にもいないのだ。
脇のカバンの中から再び財布を取り出す。確認もせず適当に何枚か紙幣を抜き出し、乱暴に油染みの浮いたテーブルへ叩きつけた。
無理矢理入り込まれたせいで手狭となった座敷からするりと足を抜いて、ほつれのある畳を踏みしめる。
そしてむずとカバンを掴み、一回り小さなスニーカーを引っ掛けると即座に駆け出した。
若い店員の間をすり抜けながら店を出ると、一目散に車を停めた方向へと足を進める。こんなことに履き潰したスニーカーが役に立つとは思ってもいなかったが、これはこれで良いのだろう。そう思うことにした。
酔っ払いをかき分けながら考える。
高校二年生のとき、あの子が松野■■松と別れたことで大きな不安に駆られた私は、無意識のうちに一松くんが自分を捨てるのは私という女が要らなくなったときだと考えていた。
中学三年生のときにやったことが知られて嫌われるという可能性から目を逸らしながら、心の何処かで望まぬ結末がやってくるのならばそうであってほしいと願っていたのだ。
私はずっとあの子が嫌いで、阿呆だと見下していた。
だけどそんなあの子より、私はずっとずっと阿呆であった。
神様に微笑まれていると思い込み、当の神様がその美しい微笑みの下に卑しい笑みを隠し、いつ奈落に突き落としてやろうかと窺っていることに気づきもせず、踊り続けた道化が私だ。
まるで喜劇だなと一人ごちる。
鮮やかなしっぺ返しを食らった道化は一人奈落に落ちていく。
辿り着いた底で眠るように融けてしまえればどんなに楽だろうか。
「なまえっ!」
大きく荒げられた聞き慣れた声が耳に飛び込んできて、思わずその場に立ち止まり声のした方へと振り返った。
目を凝らさずとも此方へ迫る姿が見えてひゅ、と息をのむ。
目立ったりとか、人に注目されるのなんか大の苦手な癖に周囲の視線が集まることにも構わず向かってくる彼に慌てて再び背を向け走り出す。
「っ、逃げんな!!!」
人の流れに逆らっているため、前に進むのも一苦労だ。追いつかれはしないかと歯噛みするが、それは向こうも同じだ。
ほんの数分しか掛からないはずの駐車場までの距離がやたら遠いように感じる。居酒屋を出てからほとんど時間など経っていないというのに無限にも近い時間が経過したようで途方もない疲労感が私を襲う。
ちら、と振り返れば徐々に間を詰められていることが分かって、焦りからか妙な汗が滲んでくる。
此方はスニーカー、彼方は便所サンダル。
なのに何故そんなに速いんだ、便所サンダルの癖に!
いつものそのそと熊みたいな歩調で、行動範囲も狭くて、滅多な距離歩かないのに。
私が女で、一松くんが男だからなのか。これが男と女の差なのか!
しかしそもそも彼はそれほど運動神経が悪いというわけではないし、私は運動に関してはそこそこなので性別の差が出て当然なのかもしれない。
車まであとどのくらいだ。
早く行かなくては。一松くんが追いつくより早く、早く車に乗って此処から逃げなくては。
…あれ?逃げる?なんで?
何故、私が逃げるの。
悪いことをしたのは他でもない私だ。それを咎めようとしているのは一松くんだ。
悪いことをしたならばそれ相応の報いを受けなくてはならない。だのに私は逃げようとしている。それは間違った行いだ。私は悪いことをしたのだから、被害者である一松くんが加害者である私を裁こうというのならば、それを大人しく受け入れるべきなのだ。
だんだんと歩調を緩め、その場に足を止める。
逆方向に向かう人々のなか、突然立ち止まったことで周囲からは怪訝そうな視線を向けられた。
少し遅れて背後からだらりとしなだれた手首を強い力で掴まれ、勢いよく振り向かせられる。ふらつく身体をぐらつく両足で何とか地面に押し止め、視線の先に彼を捉えた。
握りしめられた手首は思わぬ負荷に悲鳴を上げる。伸びたままの爪が刺さり、鈍い痛みさえも広がっていく。
乱れた前髪から覗く濁った両の目が余りに恐ろしくて、ひゅぅと息が詰まった。
唇を固くひき結んだ彼は駐車場のある方向、前方へと再び足を進め始める。冷え冷えとした視線で見下ろされたことですくんだ足を無理矢理に推し進め、やっとの思いで彼の歩調に合わせた。
彼の背中から這い出る刺々しい雰囲気から目を逸らすように顔を下げれば、側面の薄汚れたおぼつかない足取りのスニーカーが目に入って、何だか泣きたくなった。
この幽闇が去る頃には、なんて考えたくなかった。