Ironically
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率直に言ってしまえば、私はずっとあの子のことが嫌いだった。
理由は簡単。
私の好きな人の好きな人があの子だから、以上。要するに、女の醜い嫉妬であった。
当のあの子、彼女はそんなことも知らずに毎日飽きることなく笑い掛けてくる。御苦労なことだ。
きっと私を”友達”だと信じて、疑うことも無いのだろう。
バーカ。
今日も今日とて可憐なる彼女に心の中で舌を出した。
アンタの目の前にいる女は友達でも何でも無いのよ。
本日午後一の授業は数学である。
担当の老年教師はナメられきっており、すっかり授業とは名ばかりの体の良い休み時間と化していた。
普段騒がしい者も待ってましたと言わんばかりに早々に夢の世界へと旅立つため、やけに静かなのがこの授業の特徴だ。
勿論、私含めて起きている者だってちゃんといる。
だが、その残りの者たちが話を聞いているかと言われれば、それは否である。ほとんどが違うテキストを開き、いわゆる内職に熱心に励んでいた。
中学三年の夏休み前にそれは如何なものか。
しかし斯くいう私も授業のスピードが合わず、次の単元のテキストに手をつけている真っ最中である。
人のことをとやかく言える立場ではないが、違う教科の勉強をするよりはマシだと思う。
一種不真面目な生徒ばかりのこのクラスだが、どんなクラスにも”良い子”というのはいるもので、顔を上げればちらほらと授業を受けている者も見受けられた。件の彼も、彼女もそのうちの一人である。
最後尾の席は内職だけでなく、こういうことにも役立てられていた。
今日も彼は一クラスメイトの不躾な視線に気づくことなく、至極真面目に授業に取り組んでいた。教師の話に合わせて自分の身体を動かしながら、食後特有の眠気と戦っているのか合間に欠伸をしていた。
そうだ、彼は頭が良かった。他の兄弟と比べても際立って真面目なのは彼だ。あと、これは余談だが優しい。
そしてそのどこか幼さの残る顔立ちの通り、何と言ってもうぶであった(全員同じ顔だということには突っ込んではいけない)。
教師の話や問題に一段落つき、顔を上げるタイミング。
彼は必ず彼女をそっと窺う。
耳をほんのりと色づながら、ちらちらと見つめ、そっと顔を下げる。
余程の阿呆でなければ、彼が視線の先を少なからず想っていることになど容易く気づいてしまうだろう。
嗚呼、何とうぶな少年。
本当に、目におさめただけで良いのか?
たった一度だけ、彼と彼女が言葉を交わすところを見たことがある。
静まり返った放課後の校舎、奥手でしかも人と話すことなんか大の苦手なのになけなしの勇気を振り絞り、吃りながらも話を何とか広げていた彼。
普段の比では無いくらい耳どころか顔まで赤く、何処をどう見たって彼が傍らの少女のことを好いていることは丸わかりだった。
にも関わらず、当の本人はそれに気づきもしない。
阿呆でも分かる同級生の恋心に、意中の相手純情可憐な乙女は持ち前の鈍感さを発揮し、悟ることが出来なかったのだ。
いっそ不憫で、哀れでならない。
しかし、意識などされていないとはいえ、好いた相手との二人きりの時間とは甘美なものである。
たとえどんな形であったとしてもだ。
あの甘さを味わってしまえばもう同等のものかそれ以上のものでないと満足など出来る筈がない。見てるだけなんてもってのほかだ。
私だって、もうただ遠目に眺めるだけなんて嫌だ。
しかし悲しいことに私と彼はまともに接触したことすらない。しかも自分で言うのもなんだが両人共に異性と進んで会話をする性格でもない。彼にいたっては女性慣れしていないのか事務的な会話すら儘ならないほどだ(彼女と言葉を交わしたのは奇跡に等しいのである)。
そんな状況で、どうにか彼を自分のものに出来ないかというのが今の私の目下の課題であった。
さて、どうしようか。どうすればいい。
月日は流れ、今は秋の終わり。
しかし秋とは言っても、それは名ばかりで既に肌を刺すような寒さに耐える冬を迎えている。
時期は受験真っ只中であるものの、近日合唱コンクールを控えているため、クラス全体がどこか浮き足だっていた。
そんなものに興味は無かったが、己の偏差値よりも遥かに下の高校を受ける私も、クラスメイトと同様に勉強に身が入っていなかった。
そんな日々を送っていたある日。
下校途中、一緒に帰途を辿っていた彼女の声が潜められたとき、突如私の世界はある種の終わりを迎えた。
待っていた。
このときを、ずっと待っていたのだ。
頬を染める今日も今日とて可憐なる彼女に初めて心からの笑顔を向けた。
彼女と松野■■松が付き合っている。
翌朝登校すると、既にそれは知れ渡っていた。
朝礼前、早くも聞きつけた彼女のオトモダチが我先にと口々におめでとうと交際を祝するのを横目に真っ直ぐ自分の席へ向かった。
目当ての彼は、いつも通りならばあと五分で登校してくる。
密かに想っていた女と自分と同じ顔の兄弟が付き合っていることに今、彼は一体何を思っているのだろうか。
彼の密かな想いを知りもしない馬鹿なクラスメイトは兄弟の一人だから、と笑いながら無遠慮な質問を投げかけるはずだ。
一人の無垢な少年の恋は終わりを迎えた。
彼らにはその冷たくなってしまった恋心を蹂躙してもらう。
まるで死体蹴りだなとじっとりと目を細めた。
彼が登校してきたのは予想通り。
その五分後、いつもと変わらない時間であった。
これまた予想通り。
騒々しい一軍様がゲラゲラと下品に笑いながら、彼の兄弟と彼女がどこまでいっているのかを聞き出そうとしていた。
普通に彼氏の松野のほうに聞けばいいのに。
つくづく馬鹿で低俗な一軍様である。
しかし、そうでなければ私の執念の目論見は達成できないのもまた事実。
彼への哀れみ半分で黙って見澄ましていると、ただでさえ他人と関わることが苦手としているのに明らかに己と正反対の人種に話しかけられて、恥ずかしさやら何やらで顔を染め、涙ぐむという私の予想に反し、彼は口ごもりながらもしっかりと件の兄弟に聞いてほしいという旨をあの眉の下がった笑みで伝えた。
思わずはた、と目を見張ったがそれは私だけのようで俯いたままの彼に馬鹿共は早々に興味を失ったのか、矛先を今度は彼女に向け、また馬鹿騒ぎに興じた。
そうしてあっという間に教室の風景の一部と化した彼はいつものように自分の席につき、何をするわけでも無かったが、ただ顔を上げることだけは無かった。
日が沈まりかけた時間帯の校舎は、薄暗くどこか不気味だ。
微妙な光の当たり具合は勿論だが、騒がしいのが常な此処に自分一人の足音しか響かないというのもその不気味さを引き立てていた。
何故今こんなところにいるのかというと、それは忘れ物をしたからである。勿論わざと。
私は今日ずっと彼の様子を窺っていた(いつものこととか野暮なことは言わないの)。
彼がこの学校という場で一人きりになるのを狙い、今日は席を立つ度に失礼ながら後をつけさせてもいただいた。
しかし、トイレに立つばかりで一向に彼が一人きりになるタイミングなど無かった。
それを歯痒く思っているとき、転機は訪れる。
担任が彼に放課後少し残ってほしいと打診したのだ。
何でも、クラス委員に今度のホームルームで使う資料の綴じ込みを依頼したのだが、両人共に用事があるとか何とかで断られたらしく、今お困りなのだそうだ。
誰か代わりにやってくれないものか。
そしてそこで白羽の矢が立ったのが真面目な松野くん、という訳らしい。
野郎。体の良い理由並べ立てやがって。
真面目なところじゃなくて、教師に強く出られないから手っ取り早く彼を選んだんだろうが。
さっさと面倒臭いお仕事は片付けたいもんね。分からなくもない、というか同感だけど、クソみたいな内面が見えてますよ、センセイ。
だが、同時にこれはまたとないチャンスでもある。
松野くんが今日一人きりになるのはこれを逃してしまえば、無いことだって充分に考えられるのだ。
こんな絶好の機会、逃すわけにはいかない。
案の定、教師に見事押しきられ、最後には蚊の鳴くような声で了承の返事をした彼に思わず顔が綻びる。
神様はまだ私に微笑んでいる。
まだ、大丈夫。
私達三年生の教室は三階にある。
我がクラス四組に忍び足で向かい、後部扉から耳をそばだてると微かにパチ、パチ、とホッチキスを使う際特有の音がした。
彼は今、一人で教室にいる。
もう駄目だ、待ってなんかいられない。
逸る気持ちをおさえきれず、扉を開けた。
彼が、松野くんが泣いていた。
ひ、と息を呑む音がした。閉めきられた扉が急に開かれたのだ。驚くのは当然である。
だけど、今はそんなこと、どうでもいい。
松野くんが泣いている。あのどこか幼さの残るまろい顔を涙で濡らしている。
私の無駄に繰り広げられる思考は見事に吹き飛んだ。
「え、あ、ぁあ」
彼はクラスメイトってだけの女に放課後の教室で泣いている現場をおさえられ、焦るあまりか意味のない母音を繰り返しているし、私はこの通り。
両者共にお互いが見えていなかった。
そもそも私の計画は、学校という彼にとってはどうしても彼女を思い起こさせる場所で一人おセンチになってるときにとりとめのない話でもして、それが途切れ一拍しんとしたところで、一寸余裕がない感じで告白。受験という大事な年で今伝えるのはよくないのは分かってるのに、好きな人と二人きりになったら我慢できなくなって、みたいなイメージをしていた。主旨は勿論、松野一松くんを私のものにすることである。
普段から無駄に思考を巡らせている(しかも要らぬことばかりに)私は当然色々と考えていた。
だが、それら全てが松野くんの泣き顔で吹き飛んでしまったのだ。さながら脳内ビッグバンである。まさに今の私の脳内は宇宙。
私がこんな馬鹿みたいなことを考えている間も当の松野くんは意味のない母音を溢し続けていた。
計画、は無論覚えている。が、とりとめのない会話って何だ?何を話そうとしていたんだっけ。
受験?堅い、違う。
部活?もう引退した、違う。
委員会?もう引き継ぎを終えた、違う。
猫?そんなに興味が無い、違う。
何だ。
まさか、彼女と彼の兄弟のこと?絶対違う。
何だ。何だ。何だ。
ぽろ、ぽろぽろ。
とっくにキャパオーバーだった彼は母音を点々と溢すだけでは終わらず、ついに赤くなった目から再び涙を溢れさせた。
それをどうにか止めようとごしごしと無理矢理に目を擦る彼に、ぷつんと私のなかの何かが切れた。
もう、いいや。
つかつかと彼のもとへ歩み寄る。扉を開けたっきり何の動作も見せなかった女が急に自分目掛けてやってくるのを彼は若干放心しながら見つめていた。それに構うことなく放心する男の右を陣取った。いくら幼さを残すとはいえ、彼も思春期の男。身長は当然女の私よりも高かったが、座っているならば別。自然と見下ろす姿勢になった私のほうに顔だけは向けてくれたものの視線は一向にこちらへは向かなかった。
それでもいい。あなたはここにいてくれるだけでいい。
「すき」
沈黙のなかにこのたった一言はひどく響いた。
やたら強く目を擦る彼の手を外させ、尚も溢れる涙をそっと指で掬った。
「私、松野一松くんが、すき」
私はあなたに伝えている。
他でもない、誰でもないあなたに。
他の兄弟と間違えているなんて言わせないためにちゃんとフルネームで呼んだ。
この言葉は、間違いなんかじゃない。
「え、」
松野くんは泣いたせいで赤くなってしまった顔をこれ以上無いくらい、真っ赤に染め上げた。
「私と付き合ってください」
頷いて。それだけでいい。たったそれだけでいい。
そうすれば、あなたは私のものになる。
早く、早く、私のところまで落ちてきて。
ほんとうにそれだけでいいの。
はじめは、誰でも良かった。
彼で無いのなら誰でも良くて、とにかく彼女が他の誰かのものになりさえすれば良かったのだ。
でも、彼の目にこんな何の特徴もない女を映すためにはそんな生半可なやり方では無く、徹底的に彼を傷つけるやり方をとらなくてはならないことに気づいた。
何としてでも、彼には私のところまで落ちてきてもらわなくてはならない。そうでなければ土俵にすら立てない私に勝ち目はない。
だから、私は彼が一番傷つくやり方をとることにした。
彼女はその可憐さ故、同性はともかく異性には少なからず想われていた。
私はその内の一人であった松野■■松に彼女との仲を深めるための簡単な助言を逐一与え、果てには交際へと導いた。
正体がばれないよう、伝達方法は手紙を選んだ。
文面にも他言無用であること、見たら即捨てることを再三念押しした。
人気の無い時間帯を選んであるときは下駄箱に、またあるときは机の中などいちいち場所まで変えて届けた。
幸いだったことは当の本人が正体を突き止めようなどと馬鹿なことをしなかったことだ。
あまりに一方的な接触だったが、私を友達と信じて疑わない阿呆な彼女は色事に関しては必ず私に相談を持ち掛けるので彼女との進展を把握することは容易かった。
そんな彼女の男に対する心象すら理解していた私が二人の仲を進展させることに多くの時間を必要無く、二人は見事、当初の私の思惑通り、恋人同士となった。
全部全部、私のためにやった。
こんな回りくどくて、面倒臭いこと、自分のためだったとしても他の目的のためだったら絶対やらなかった。
でも、松野くんのことを想ったら、どんなに時間がかかっても、不確かなことでもいいと思えたのだ。
そうして、そんな私のせいで晴れて松野くんはよりにもよって自分と同じ顔をした兄弟が恋人という関係になるという最悪の結末を迎えさせられた。
松野くんをこれ以上無いほどに傷つけ、そこにつけこむ。
そう決めたあのときからずっと何もかもこのときのためだった。
全て、彼を私のものにするためだった。
今、やっと彼は私の手の届くところまで来てくれた。
これが土俵にすら立てなかった女の策である。
彼のところに乗り上げることが出来ないなら、彼を私のところに引きずり下ろせばいいのだ。
可哀想な松野くん。
私のような女を許してはいけない。
だから、後生許さないでね。
「気づかないほうが幸せなことって、思ったよりたくさんあるよ」
いつかの私がそう言った。
松野くんが私以外で幸せになることがありませんように。
理由は簡単。
私の好きな人の好きな人があの子だから、以上。要するに、女の醜い嫉妬であった。
当のあの子、彼女はそんなことも知らずに毎日飽きることなく笑い掛けてくる。御苦労なことだ。
きっと私を”友達”だと信じて、疑うことも無いのだろう。
バーカ。
今日も今日とて可憐なる彼女に心の中で舌を出した。
アンタの目の前にいる女は友達でも何でも無いのよ。
本日午後一の授業は数学である。
担当の老年教師はナメられきっており、すっかり授業とは名ばかりの体の良い休み時間と化していた。
普段騒がしい者も待ってましたと言わんばかりに早々に夢の世界へと旅立つため、やけに静かなのがこの授業の特徴だ。
勿論、私含めて起きている者だってちゃんといる。
だが、その残りの者たちが話を聞いているかと言われれば、それは否である。ほとんどが違うテキストを開き、いわゆる内職に熱心に励んでいた。
中学三年の夏休み前にそれは如何なものか。
しかし斯くいう私も授業のスピードが合わず、次の単元のテキストに手をつけている真っ最中である。
人のことをとやかく言える立場ではないが、違う教科の勉強をするよりはマシだと思う。
一種不真面目な生徒ばかりのこのクラスだが、どんなクラスにも”良い子”というのはいるもので、顔を上げればちらほらと授業を受けている者も見受けられた。件の彼も、彼女もそのうちの一人である。
最後尾の席は内職だけでなく、こういうことにも役立てられていた。
今日も彼は一クラスメイトの不躾な視線に気づくことなく、至極真面目に授業に取り組んでいた。教師の話に合わせて自分の身体を動かしながら、食後特有の眠気と戦っているのか合間に欠伸をしていた。
そうだ、彼は頭が良かった。他の兄弟と比べても際立って真面目なのは彼だ。あと、これは余談だが優しい。
そしてそのどこか幼さの残る顔立ちの通り、何と言ってもうぶであった(全員同じ顔だということには突っ込んではいけない)。
教師の話や問題に一段落つき、顔を上げるタイミング。
彼は必ず彼女をそっと窺う。
耳をほんのりと色づながら、ちらちらと見つめ、そっと顔を下げる。
余程の阿呆でなければ、彼が視線の先を少なからず想っていることになど容易く気づいてしまうだろう。
嗚呼、何とうぶな少年。
本当に、目におさめただけで良いのか?
たった一度だけ、彼と彼女が言葉を交わすところを見たことがある。
静まり返った放課後の校舎、奥手でしかも人と話すことなんか大の苦手なのになけなしの勇気を振り絞り、吃りながらも話を何とか広げていた彼。
普段の比では無いくらい耳どころか顔まで赤く、何処をどう見たって彼が傍らの少女のことを好いていることは丸わかりだった。
にも関わらず、当の本人はそれに気づきもしない。
阿呆でも分かる同級生の恋心に、意中の相手純情可憐な乙女は持ち前の鈍感さを発揮し、悟ることが出来なかったのだ。
いっそ不憫で、哀れでならない。
しかし、意識などされていないとはいえ、好いた相手との二人きりの時間とは甘美なものである。
たとえどんな形であったとしてもだ。
あの甘さを味わってしまえばもう同等のものかそれ以上のものでないと満足など出来る筈がない。見てるだけなんてもってのほかだ。
私だって、もうただ遠目に眺めるだけなんて嫌だ。
しかし悲しいことに私と彼はまともに接触したことすらない。しかも自分で言うのもなんだが両人共に異性と進んで会話をする性格でもない。彼にいたっては女性慣れしていないのか事務的な会話すら儘ならないほどだ(彼女と言葉を交わしたのは奇跡に等しいのである)。
そんな状況で、どうにか彼を自分のものに出来ないかというのが今の私の目下の課題であった。
さて、どうしようか。どうすればいい。
月日は流れ、今は秋の終わり。
しかし秋とは言っても、それは名ばかりで既に肌を刺すような寒さに耐える冬を迎えている。
時期は受験真っ只中であるものの、近日合唱コンクールを控えているため、クラス全体がどこか浮き足だっていた。
そんなものに興味は無かったが、己の偏差値よりも遥かに下の高校を受ける私も、クラスメイトと同様に勉強に身が入っていなかった。
そんな日々を送っていたある日。
下校途中、一緒に帰途を辿っていた彼女の声が潜められたとき、突如私の世界はある種の終わりを迎えた。
待っていた。
このときを、ずっと待っていたのだ。
頬を染める今日も今日とて可憐なる彼女に初めて心からの笑顔を向けた。
彼女と松野■■松が付き合っている。
翌朝登校すると、既にそれは知れ渡っていた。
朝礼前、早くも聞きつけた彼女のオトモダチが我先にと口々におめでとうと交際を祝するのを横目に真っ直ぐ自分の席へ向かった。
目当ての彼は、いつも通りならばあと五分で登校してくる。
密かに想っていた女と自分と同じ顔の兄弟が付き合っていることに今、彼は一体何を思っているのだろうか。
彼の密かな想いを知りもしない馬鹿なクラスメイトは兄弟の一人だから、と笑いながら無遠慮な質問を投げかけるはずだ。
一人の無垢な少年の恋は終わりを迎えた。
彼らにはその冷たくなってしまった恋心を蹂躙してもらう。
まるで死体蹴りだなとじっとりと目を細めた。
彼が登校してきたのは予想通り。
その五分後、いつもと変わらない時間であった。
これまた予想通り。
騒々しい一軍様がゲラゲラと下品に笑いながら、彼の兄弟と彼女がどこまでいっているのかを聞き出そうとしていた。
普通に彼氏の松野のほうに聞けばいいのに。
つくづく馬鹿で低俗な一軍様である。
しかし、そうでなければ私の執念の目論見は達成できないのもまた事実。
彼への哀れみ半分で黙って見澄ましていると、ただでさえ他人と関わることが苦手としているのに明らかに己と正反対の人種に話しかけられて、恥ずかしさやら何やらで顔を染め、涙ぐむという私の予想に反し、彼は口ごもりながらもしっかりと件の兄弟に聞いてほしいという旨をあの眉の下がった笑みで伝えた。
思わずはた、と目を見張ったがそれは私だけのようで俯いたままの彼に馬鹿共は早々に興味を失ったのか、矛先を今度は彼女に向け、また馬鹿騒ぎに興じた。
そうしてあっという間に教室の風景の一部と化した彼はいつものように自分の席につき、何をするわけでも無かったが、ただ顔を上げることだけは無かった。
日が沈まりかけた時間帯の校舎は、薄暗くどこか不気味だ。
微妙な光の当たり具合は勿論だが、騒がしいのが常な此処に自分一人の足音しか響かないというのもその不気味さを引き立てていた。
何故今こんなところにいるのかというと、それは忘れ物をしたからである。勿論わざと。
私は今日ずっと彼の様子を窺っていた(いつものこととか野暮なことは言わないの)。
彼がこの学校という場で一人きりになるのを狙い、今日は席を立つ度に失礼ながら後をつけさせてもいただいた。
しかし、トイレに立つばかりで一向に彼が一人きりになるタイミングなど無かった。
それを歯痒く思っているとき、転機は訪れる。
担任が彼に放課後少し残ってほしいと打診したのだ。
何でも、クラス委員に今度のホームルームで使う資料の綴じ込みを依頼したのだが、両人共に用事があるとか何とかで断られたらしく、今お困りなのだそうだ。
誰か代わりにやってくれないものか。
そしてそこで白羽の矢が立ったのが真面目な松野くん、という訳らしい。
野郎。体の良い理由並べ立てやがって。
真面目なところじゃなくて、教師に強く出られないから手っ取り早く彼を選んだんだろうが。
さっさと面倒臭いお仕事は片付けたいもんね。分からなくもない、というか同感だけど、クソみたいな内面が見えてますよ、センセイ。
だが、同時にこれはまたとないチャンスでもある。
松野くんが今日一人きりになるのはこれを逃してしまえば、無いことだって充分に考えられるのだ。
こんな絶好の機会、逃すわけにはいかない。
案の定、教師に見事押しきられ、最後には蚊の鳴くような声で了承の返事をした彼に思わず顔が綻びる。
神様はまだ私に微笑んでいる。
まだ、大丈夫。
私達三年生の教室は三階にある。
我がクラス四組に忍び足で向かい、後部扉から耳をそばだてると微かにパチ、パチ、とホッチキスを使う際特有の音がした。
彼は今、一人で教室にいる。
もう駄目だ、待ってなんかいられない。
逸る気持ちをおさえきれず、扉を開けた。
彼が、松野くんが泣いていた。
ひ、と息を呑む音がした。閉めきられた扉が急に開かれたのだ。驚くのは当然である。
だけど、今はそんなこと、どうでもいい。
松野くんが泣いている。あのどこか幼さの残るまろい顔を涙で濡らしている。
私の無駄に繰り広げられる思考は見事に吹き飛んだ。
「え、あ、ぁあ」
彼はクラスメイトってだけの女に放課後の教室で泣いている現場をおさえられ、焦るあまりか意味のない母音を繰り返しているし、私はこの通り。
両者共にお互いが見えていなかった。
そもそも私の計画は、学校という彼にとってはどうしても彼女を思い起こさせる場所で一人おセンチになってるときにとりとめのない話でもして、それが途切れ一拍しんとしたところで、一寸余裕がない感じで告白。受験という大事な年で今伝えるのはよくないのは分かってるのに、好きな人と二人きりになったら我慢できなくなって、みたいなイメージをしていた。主旨は勿論、松野一松くんを私のものにすることである。
普段から無駄に思考を巡らせている(しかも要らぬことばかりに)私は当然色々と考えていた。
だが、それら全てが松野くんの泣き顔で吹き飛んでしまったのだ。さながら脳内ビッグバンである。まさに今の私の脳内は宇宙。
私がこんな馬鹿みたいなことを考えている間も当の松野くんは意味のない母音を溢し続けていた。
計画、は無論覚えている。が、とりとめのない会話って何だ?何を話そうとしていたんだっけ。
受験?堅い、違う。
部活?もう引退した、違う。
委員会?もう引き継ぎを終えた、違う。
猫?そんなに興味が無い、違う。
何だ。
まさか、彼女と彼の兄弟のこと?絶対違う。
何だ。何だ。何だ。
ぽろ、ぽろぽろ。
とっくにキャパオーバーだった彼は母音を点々と溢すだけでは終わらず、ついに赤くなった目から再び涙を溢れさせた。
それをどうにか止めようとごしごしと無理矢理に目を擦る彼に、ぷつんと私のなかの何かが切れた。
もう、いいや。
つかつかと彼のもとへ歩み寄る。扉を開けたっきり何の動作も見せなかった女が急に自分目掛けてやってくるのを彼は若干放心しながら見つめていた。それに構うことなく放心する男の右を陣取った。いくら幼さを残すとはいえ、彼も思春期の男。身長は当然女の私よりも高かったが、座っているならば別。自然と見下ろす姿勢になった私のほうに顔だけは向けてくれたものの視線は一向にこちらへは向かなかった。
それでもいい。あなたはここにいてくれるだけでいい。
「すき」
沈黙のなかにこのたった一言はひどく響いた。
やたら強く目を擦る彼の手を外させ、尚も溢れる涙をそっと指で掬った。
「私、松野一松くんが、すき」
私はあなたに伝えている。
他でもない、誰でもないあなたに。
他の兄弟と間違えているなんて言わせないためにちゃんとフルネームで呼んだ。
この言葉は、間違いなんかじゃない。
「え、」
松野くんは泣いたせいで赤くなってしまった顔をこれ以上無いくらい、真っ赤に染め上げた。
「私と付き合ってください」
頷いて。それだけでいい。たったそれだけでいい。
そうすれば、あなたは私のものになる。
早く、早く、私のところまで落ちてきて。
ほんとうにそれだけでいいの。
はじめは、誰でも良かった。
彼で無いのなら誰でも良くて、とにかく彼女が他の誰かのものになりさえすれば良かったのだ。
でも、彼の目にこんな何の特徴もない女を映すためにはそんな生半可なやり方では無く、徹底的に彼を傷つけるやり方をとらなくてはならないことに気づいた。
何としてでも、彼には私のところまで落ちてきてもらわなくてはならない。そうでなければ土俵にすら立てない私に勝ち目はない。
だから、私は彼が一番傷つくやり方をとることにした。
彼女はその可憐さ故、同性はともかく異性には少なからず想われていた。
私はその内の一人であった松野■■松に彼女との仲を深めるための簡単な助言を逐一与え、果てには交際へと導いた。
正体がばれないよう、伝達方法は手紙を選んだ。
文面にも他言無用であること、見たら即捨てることを再三念押しした。
人気の無い時間帯を選んであるときは下駄箱に、またあるときは机の中などいちいち場所まで変えて届けた。
幸いだったことは当の本人が正体を突き止めようなどと馬鹿なことをしなかったことだ。
あまりに一方的な接触だったが、私を友達と信じて疑わない阿呆な彼女は色事に関しては必ず私に相談を持ち掛けるので彼女との進展を把握することは容易かった。
そんな彼女の男に対する心象すら理解していた私が二人の仲を進展させることに多くの時間を必要無く、二人は見事、当初の私の思惑通り、恋人同士となった。
全部全部、私のためにやった。
こんな回りくどくて、面倒臭いこと、自分のためだったとしても他の目的のためだったら絶対やらなかった。
でも、松野くんのことを想ったら、どんなに時間がかかっても、不確かなことでもいいと思えたのだ。
そうして、そんな私のせいで晴れて松野くんはよりにもよって自分と同じ顔をした兄弟が恋人という関係になるという最悪の結末を迎えさせられた。
松野くんをこれ以上無いほどに傷つけ、そこにつけこむ。
そう決めたあのときからずっと何もかもこのときのためだった。
全て、彼を私のものにするためだった。
今、やっと彼は私の手の届くところまで来てくれた。
これが土俵にすら立てなかった女の策である。
彼のところに乗り上げることが出来ないなら、彼を私のところに引きずり下ろせばいいのだ。
可哀想な松野くん。
私のような女を許してはいけない。
だから、後生許さないでね。
「気づかないほうが幸せなことって、思ったよりたくさんあるよ」
いつかの私がそう言った。
松野くんが私以外で幸せになることがありませんように。