水恋
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――ちゃぷん、バスタブに張ったぬるま湯を揺らしながらリジーが身じろぐ。
柔らかな午後の陽射しと、ラジオから流れる退屈な政治討論は彼女をいつの間にか微睡みへと誘っていた。
背中からずるずると、湯の中に溺れるみたいにバスタブの底へ沈んでいく。
きらきらと揺れる水面を眺めながら、バスタブからはみ出した尾鰭をぶらぶら動かす。
鱗が光を反射してモネの睡蓮のように、なんとも言えぬ青色に美しく輝いた。
「リジー」
ニュートはスケッチを描く手を止めて、リジーの腕を掴み水中から起き上がらせた。
彼女の手はいつもひんやりとしている。
冷たい水の中でも凍えないように、始めからそのように造られているのだ。
するりと上腕から手首を撫で、指先に口づける。
リジーは朗らかに微笑んで尾鰭を揺らし、ニュートはそれに答えるように唇に弧を描く。
「キリつけるから、待ってて。そろそろお茶にしよう」
ペンを持ち直し、バスタブで眠る彼女を描く。
濡れた睫毛、水気を纏ってしっとりと肩を流れる髪、だらりと投げ出された白くしなやかな手、上等の絹のドレスのような美しい尾鰭。
余すところなく計算されつくしたように整えられたそれらを、どれだけ緻密に線を重ねてもその美しさを見たままに写すことはできない。
「……どうして、わたしの絵を描くの」
バスタブの淵に溜まった水滴を緩慢な手つきで払いのけながら、リジーが尋ねる。
「あ……ごめん、いやだった?」
「ううん……いやじゃない」
ニュートはほっとしたように頬を綻ばせた。
彼はよく、研究のために動物たちのスケッチを取る。
じっくりと観察しているうちに新しい発見があったり、体調不良に気づくこともできる。
スケッチの一部は「幻の動物とその生息地」の挿し絵にも使われた。
でも、彼の本にわたしの項目はなかった。
「綺麗だから」
「……それだけ?」
「そうだよ、綺麗だから描きたくなる。画家ってきっと、こんな気持ちなのかな」
見せて、リジーが手を伸ばす。
ニュートははにかみながらスケッチブックを渡した。
「お茶淹れてくるね」
「ありがとう」
目の前で見られるのは少し恥ずかしいらしく、ニュートは席を外した。
バスタブの淵に肘をついて眠る人魚、必要最低限の線でなめらかに精巧に描かれた肖像に思わず感嘆する。
自分の寝顔を見るのは少し照れくさい、薄く開けた口は閉じさせるように注文しておこう。
ぱらぱらとページを捲る、いつの間にこんなにたくさん描かれてたのやら。
髪を編む後ろ姿、口紅をひく横顔、ふざけて派手なネイルを塗った手。
一番最初のページにはあの日、ニュートに脚を手当してもらって泣き疲れてそのままソファーで眠ってしまった、まだかろうじて"人間"だった時のわたしの姿が描かれていた。
リジーの身体は、ゆっくりと、確実にその本来の姿形や造りを変えていった。
まず、一ヶ月もしないうちに彼女の脚は立てなくなった。
足裏が地を踏みしめるたびに裸足で砂利の上を走っているような激痛に襲われる。
もう歩くことも、立つことすら叶わないのだと悟り、お気に入りのハイヒールを腕に抱きながら、痛みと絶望にその日は一日中泣いたものだ。
ニュートはリジーのために車椅子を用意してあげた、彼女はそれに乗って魔法動物の世話をしたり、二人で旅行にも行った。
ごく普通の幸せな、恋人同士のように。
つかの間の心地よく穏やかな時間は、リジーから心と身体の痛みを忘れさせてくれた。
それでも日に日に増えていく鱗が彼女の人間らしい心も、尊厳も、愛する人との将来も、何もかもを侵食していくようだった。
日一日と、少しずつ、身体が人間でなくなっていく。
足場が崩れていくみたいに、世界が生きづらくなっていく。
骨が軋む痛みに薬なしでは夜も眠れなくなり、やがてリジーの両脚は完全な魚の尾鰭に変わっていった。
そんなに昔のことではないのに、人間だった頃のわたしが知らない人みたいに見える。
反対に、人間でもなく動物にもなりきれずに中途半端な姿をした自分が知らない人に思える時もある。
「大丈夫かい?」
また思い出して泣いてしまうのでは案じたニュートは、スケッチブックをとって紅茶の入ったティーカップを差し出した。
不思議なことに、感情が麻痺してしまったかのように涙の一雫さえ滲むこともなかった。
「……どうしてわたしを本に載せなかったの?」
「リジーは魔法動物じゃないだろう?」
「……人間でもない」
膝を抱えるみたいに尾鰭を引っこめる、湯船の中で青色がドレスの裾のように華やかに揺蕩う。
ティーカップの中の紅茶は熱すぎず、温すぎず、指先からじんわりと解けていく。
「……人間と動物って、どれくらい違うんだろうね」
ただ純粋に、本能に従い生きている彼らを人間は傷つけ、排斥し、命に値段をつける。
同じ人間であることが嫌になる、でもリジーはそのどちらでもない。
どちらでもないからこそ、両方の気持ちを分かってくれる。この世界で唯一の人。
結婚はできなくても、子供を持つことならできる。契約上の誓いなんて僕らには必要ない。
二人でならきっと、幸せな家庭を作れる。
時々、海に帰してあげるべきかと、考えることもある。
南の海の底に、決して多いわけではないけど、彼女のような人たちが他にもいないわけではない。
でも、たとえ不幸にしていると分かっていても、彼女なしの生活なんて。
僕にはもう、生きている意味がないのと同じことだ。
「リジー……」
頬を撫でるとリジーは何も言わずに目を閉じた。
ひんやりとした唇にキスをする、紅茶に入れた砂糖がべたついて少し甘い。
ティーカップを持つ手を放してリジーの後頭部を引き寄せると、彼女の手が首の後ろに回される。
カップは床に落ちることなく、空中を滑るようにするするとテーブルの上に落ち着いた。
「そっち、もうちょっと詰めてくれ」
「なあに?やだ、ちょっとニュートったら!」
ズボンの裾を緩く巻き上げて、服のままバスタブの中に浸かる。
お湯が溢れ出て、バスルームの床に洪水のように流れ出す様は爽快だった。
「びしょ濡れじゃない!」
「なら全部脱ごうか?」
「やあだもう!やめてよ~!」
リジーはきゃっきゃっ笑って、水面を弾いて水をかけた。
「今度さ、水槽で泳いでるとこ、見たい」
「水槽はいや」
「水魔とは別のだよ?」
「そういう問題じゃないの」
「でも……きっと、すごく綺麗だと思うんだ」
「……考えとく」
一つ、また一つと好きになるたびに自分が何者であるかを思い起こさせられる。
そして、彼にとって自分は何者であるかを。
同じ人間か、それとも魔法動物なのか。
真っ直ぐな愛を向けられると少し怖くなる、いつか飽きられて捨てられてしまうのではと。
わたしにはもう、返せるものが何もないから。
彼の用意した水槽の中で、一生を過ごすのもいいかもしれない。
ニュートにとって魔法動物へ向ける執着は、間違いなく彼にとっての最上級の愛だ。
魔法動物として、愛される未来。
身の丈にあった愛で充分幸せ、わたしは愛されるだけで、愛する人に愛してもらえるだけでも満足しなくてはいけないのに。
同じ人間として、唯一の人として愛されたいなどと愚かにも願ってしまうのだ。
▶あとがき
柔らかな午後の陽射しと、ラジオから流れる退屈な政治討論は彼女をいつの間にか微睡みへと誘っていた。
背中からずるずると、湯の中に溺れるみたいにバスタブの底へ沈んでいく。
きらきらと揺れる水面を眺めながら、バスタブからはみ出した尾鰭をぶらぶら動かす。
鱗が光を反射してモネの睡蓮のように、なんとも言えぬ青色に美しく輝いた。
「リジー」
ニュートはスケッチを描く手を止めて、リジーの腕を掴み水中から起き上がらせた。
彼女の手はいつもひんやりとしている。
冷たい水の中でも凍えないように、始めからそのように造られているのだ。
するりと上腕から手首を撫で、指先に口づける。
リジーは朗らかに微笑んで尾鰭を揺らし、ニュートはそれに答えるように唇に弧を描く。
「キリつけるから、待ってて。そろそろお茶にしよう」
ペンを持ち直し、バスタブで眠る彼女を描く。
濡れた睫毛、水気を纏ってしっとりと肩を流れる髪、だらりと投げ出された白くしなやかな手、上等の絹のドレスのような美しい尾鰭。
余すところなく計算されつくしたように整えられたそれらを、どれだけ緻密に線を重ねてもその美しさを見たままに写すことはできない。
「……どうして、わたしの絵を描くの」
バスタブの淵に溜まった水滴を緩慢な手つきで払いのけながら、リジーが尋ねる。
「あ……ごめん、いやだった?」
「ううん……いやじゃない」
ニュートはほっとしたように頬を綻ばせた。
彼はよく、研究のために動物たちのスケッチを取る。
じっくりと観察しているうちに新しい発見があったり、体調不良に気づくこともできる。
スケッチの一部は「幻の動物とその生息地」の挿し絵にも使われた。
でも、彼の本にわたしの項目はなかった。
「綺麗だから」
「……それだけ?」
「そうだよ、綺麗だから描きたくなる。画家ってきっと、こんな気持ちなのかな」
見せて、リジーが手を伸ばす。
ニュートははにかみながらスケッチブックを渡した。
「お茶淹れてくるね」
「ありがとう」
目の前で見られるのは少し恥ずかしいらしく、ニュートは席を外した。
バスタブの淵に肘をついて眠る人魚、必要最低限の線でなめらかに精巧に描かれた肖像に思わず感嘆する。
自分の寝顔を見るのは少し照れくさい、薄く開けた口は閉じさせるように注文しておこう。
ぱらぱらとページを捲る、いつの間にこんなにたくさん描かれてたのやら。
髪を編む後ろ姿、口紅をひく横顔、ふざけて派手なネイルを塗った手。
一番最初のページにはあの日、ニュートに脚を手当してもらって泣き疲れてそのままソファーで眠ってしまった、まだかろうじて"人間"だった時のわたしの姿が描かれていた。
リジーの身体は、ゆっくりと、確実にその本来の姿形や造りを変えていった。
まず、一ヶ月もしないうちに彼女の脚は立てなくなった。
足裏が地を踏みしめるたびに裸足で砂利の上を走っているような激痛に襲われる。
もう歩くことも、立つことすら叶わないのだと悟り、お気に入りのハイヒールを腕に抱きながら、痛みと絶望にその日は一日中泣いたものだ。
ニュートはリジーのために車椅子を用意してあげた、彼女はそれに乗って魔法動物の世話をしたり、二人で旅行にも行った。
ごく普通の幸せな、恋人同士のように。
つかの間の心地よく穏やかな時間は、リジーから心と身体の痛みを忘れさせてくれた。
それでも日に日に増えていく鱗が彼女の人間らしい心も、尊厳も、愛する人との将来も、何もかもを侵食していくようだった。
日一日と、少しずつ、身体が人間でなくなっていく。
足場が崩れていくみたいに、世界が生きづらくなっていく。
骨が軋む痛みに薬なしでは夜も眠れなくなり、やがてリジーの両脚は完全な魚の尾鰭に変わっていった。
そんなに昔のことではないのに、人間だった頃のわたしが知らない人みたいに見える。
反対に、人間でもなく動物にもなりきれずに中途半端な姿をした自分が知らない人に思える時もある。
「大丈夫かい?」
また思い出して泣いてしまうのでは案じたニュートは、スケッチブックをとって紅茶の入ったティーカップを差し出した。
不思議なことに、感情が麻痺してしまったかのように涙の一雫さえ滲むこともなかった。
「……どうしてわたしを本に載せなかったの?」
「リジーは魔法動物じゃないだろう?」
「……人間でもない」
膝を抱えるみたいに尾鰭を引っこめる、湯船の中で青色がドレスの裾のように華やかに揺蕩う。
ティーカップの中の紅茶は熱すぎず、温すぎず、指先からじんわりと解けていく。
「……人間と動物って、どれくらい違うんだろうね」
ただ純粋に、本能に従い生きている彼らを人間は傷つけ、排斥し、命に値段をつける。
同じ人間であることが嫌になる、でもリジーはそのどちらでもない。
どちらでもないからこそ、両方の気持ちを分かってくれる。この世界で唯一の人。
結婚はできなくても、子供を持つことならできる。契約上の誓いなんて僕らには必要ない。
二人でならきっと、幸せな家庭を作れる。
時々、海に帰してあげるべきかと、考えることもある。
南の海の底に、決して多いわけではないけど、彼女のような人たちが他にもいないわけではない。
でも、たとえ不幸にしていると分かっていても、彼女なしの生活なんて。
僕にはもう、生きている意味がないのと同じことだ。
「リジー……」
頬を撫でるとリジーは何も言わずに目を閉じた。
ひんやりとした唇にキスをする、紅茶に入れた砂糖がべたついて少し甘い。
ティーカップを持つ手を放してリジーの後頭部を引き寄せると、彼女の手が首の後ろに回される。
カップは床に落ちることなく、空中を滑るようにするするとテーブルの上に落ち着いた。
「そっち、もうちょっと詰めてくれ」
「なあに?やだ、ちょっとニュートったら!」
ズボンの裾を緩く巻き上げて、服のままバスタブの中に浸かる。
お湯が溢れ出て、バスルームの床に洪水のように流れ出す様は爽快だった。
「びしょ濡れじゃない!」
「なら全部脱ごうか?」
「やあだもう!やめてよ~!」
リジーはきゃっきゃっ笑って、水面を弾いて水をかけた。
「今度さ、水槽で泳いでるとこ、見たい」
「水槽はいや」
「水魔とは別のだよ?」
「そういう問題じゃないの」
「でも……きっと、すごく綺麗だと思うんだ」
「……考えとく」
一つ、また一つと好きになるたびに自分が何者であるかを思い起こさせられる。
そして、彼にとって自分は何者であるかを。
同じ人間か、それとも魔法動物なのか。
真っ直ぐな愛を向けられると少し怖くなる、いつか飽きられて捨てられてしまうのではと。
わたしにはもう、返せるものが何もないから。
彼の用意した水槽の中で、一生を過ごすのもいいかもしれない。
ニュートにとって魔法動物へ向ける執着は、間違いなく彼にとっての最上級の愛だ。
魔法動物として、愛される未来。
身の丈にあった愛で充分幸せ、わたしは愛されるだけで、愛する人に愛してもらえるだけでも満足しなくてはいけないのに。
同じ人間として、唯一の人として愛されたいなどと愚かにも願ってしまうのだ。
▶あとがき
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