まだ名前も知らない君へ
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「妊娠してますね」
「へ……?」
医師の口からはじめてそう聞かされた時、ニュートとリジーはぽかんと口を開けたまま思わず顔を見合わせた。
聖マンゴの古株の内科医は、冷たい眼鏡のレンズの向こう側で血液検査の結果表に目を通しながら、患者の方をちらりと見ようともせずに淡々と言ってのけたので、二人は喜ぶよりも驚くよりも先に唖然とする。
頭の耳のあたりにいくらか白髪のまじった壮年の医師はこれまでの経験から、衝撃的な診断結果ほど普通にしてなんでもないことのようにパッと言ってしまう方が、患者も家族も落ちついて非日常的な状況も受け止めやすいと知っているのだ。とくに若い患者については。
小説なんかではどんな医者でも赤ちゃんができていると分かれば笑顔で「おめでとうございます!」なんて祝福してくれたりするが、実際のところはそうではない。しかしおかげで、二人とも医師の指示を最後まで冷静に聞くことができた。
紹介状を書いてもらった後、リジーとニュートはその日のうちにその足で上のフロアにある産婦人科にかかって、問診票に記入して、いろいろな検査をして、薬をもらって……その間ずっとニュートは地に足がついていないような、ふわふわしているような心地だったのを覚えている。
帰る頃には二人とももうくたくたで、でも姿くらましは安定期に入るまで母体に負担がかかるからと急遽リジーの友達が車で迎えに来てくれた。
次の検査ではじめてエコー写真を撮った。訳分からないモノクロ写真のざらざらした砂嵐の中の一粒を指さして、「これが胎児ね」と言われても、正直ニュートにはどれだか分からなかった。
ただ「赤ちゃんがうまれる!」という漠然とした喜びだけは、溢れんばかりに大きなものであった。
新たな生命の誕生というのはいつの時代も、どこの国であっても、人間や動物の種類に関わりなく良いものだ。
ニュートはこれまでに何度も自らの手でその瞬間を見てきたが、それが今度は自分の子となれば喜びもひとしおである。
「男の子かなあ、女の子かなあ。どっちに似るかなあ……ねえ僕たちの子はどの寮に入ると思う?」
ニュートはアパートの使っていない部屋を子ども部屋に改装しようと図面を引いていたが、いやいっそのこと田舎に小さいバンガローでも買おうかと不動産のチラシを見ながらそんなことを言いはじめた夫に、リジーは「気が早いわよ」と困ったように笑う。
「そうねえ……どっちでもいいよ、男でも女でも。子犬だったとしてもいいわ。どの寮でも、もしホグワーツに入らなかったとしても」
「でも、名前とか考えなきゃ」
「ゆっくり決めていきましょ。……それはそうとして、どっちに最終決定権があるかだけは今のうちにハッキリさせておきたいのだけれど」
「おっと……さっそく離婚の危機だ」
「テセウスも権利を主張していたわよ、困ったらいつでも名付け親になってくれるって」
「うーん。それだけは絶対に、ないね」
はじめのうちは、楽しかった。
街中で小さな子供連れを見かけると自然と目をひき、自分たちもそうなれたらと未来の家族の姿を思い浮かべた。
買い物に行ってベビー用品売り場を通りがかると、ちっちゃなちっちゃな靴下だとか帽子だとか、クマのぬいぐるみだとか、あれこれついつい買ってしまい、そのたびにリジーに「気が早い」と叱られては、家にあるベビーグッズがだんだんと増えていった。
しかし少しすると、リジーはつわりが酷くなって家で寝込むことが多くなった。
妊娠によるホルモンバランスの変化で、自律神経が不安定になる。症状は人によって様々だがそのせいでイライラしたり、体がだるくなったり、吐き気を感じたりする。
なにも食べられないし、どこにも行けない。
食べられないのをそれでも赤ちゃんのためにと無理やり食べて、吐いて、胃が空っぽになって無くなってしまっても治まらない。
痛々しい彼女の姿を見てできるなら変わってやりたいと思っても、そういう時ニュートにはなにもしてやれることがない。
作家の仕事は続けていたが、月一回出版社に顔をだす以外は幸いなことに家で仕事を続けられていたので、家事をしながら彼女のそばにいてやることはできた。
日々、一日一日がものすごく長いように感じた。
ニュートにとってもリジーにとっても、お互いにはじめての経験だ。
産まれてくる子どものことも、出産と子育てという新しいことへの挑戦も楽しんではいたが、それ以上に不安も大きい。
赤ちゃんはちゃんと生まれてきてくれるか、いやその前にリジーが出産に耐えられるかどうか。
僕たちにちゃんと育てられるか、いい親になれるか。生まれてくるまで分からない。生まれてきたらそれはそれで心配はつきないだろう。
熱が出たらどうしよう、怪我したらどうしよう。
どうやって大切なことを教えていこう。
毎日、毎日、お腹の子の事ばかりを考えた。
ある日、リジーはしばらくぶりに今日は気分がいいと言ったのでニュートは「買い物に行こう」と誘った。
ダイアゴン横丁はいつでも人が多すぎるので、馴染みのロンドンの雑貨店へ。帰りに魔法省にでも寄って、ニュートとしては気が進まないけれど彼女は元同僚や友人たちにも会いたいだろうと。
空いてる時間帯を見計らって、ほんの短い時間だけ。
「これはもう履けないわね」
リジーはお気に入りの履きなれたハイヒールをそっと避けて、隣にあるスニーカーを手にとった。
リジーのお腹最近少し膨らんできている。たたでさえ歩きづらいハイヒールでは負担がかかるし、もし転びでもしたらただじゃ済まないだろう。
妥当な判断だと思いつつも、リジーは少し残念そうにスニーカーを見つめてからつま先を通した。
それを見て、ニュートは彼女がどれだけのものを我慢しているのか思い起こす。
食事も満足に楽しめないし、仕事もできない、好きな時に好きなところへ出かけることもできない。
匂いがきついからと化粧品も使えないし、好きな服も着れない。
お腹に赤ちゃんがいるから、赤ちゃんのためにリジーはそれまでの自由な生活を全部犠牲にしている。
彼女が、母親になろうとしているからだ。
「うん、そう、だね……」
ニュートはなんて言おうか迷いつつ、それでも何か言わなきゃと思ううちに考えが定まらぬまま口を開いた。
「じゃ、じゃあ!僕がそれ履くよ!」
「……ニュート?正気?」
リジーが怪訝そうにニュートを見る。
ニュートは一瞬自分でも何を言っているのかよく分かっていなかったが、間違いなく何かをしくじったということだけは直感した。
「そう!だから、その、今日靴屋も見に行って、新しい靴選びに行こう、ね?」
「新しい靴って、いつ履けるか分かんないよ?大きくなるまで抱っこして歩かなきゃだし……」
「ううん!そんなのいつだっていいよ、僕が抱っこして歩くし……もう大人なんだから、足のサイズは変わることないでしょ?」
「……足のサイズ"は"?」
「あっ、えっと……はは……」
リジーに笑顔で詰められて、ニュートは気まづそうに思わず視線をさ迷わせる。
そうかと思いきや、ふと頬にキスされる柔らかさを感じた。
「ありがとう、パパ」リジーは嬉しそうに目元を綻ばせてニュートの頬にキスをした。
「……どういたしまして、マ……っ、リジー」
「やだ、なあに!いつもみんなに自分のことママって呼ばせてるくせに!今さら恥ずかしがらないでよ~こっちまで恥ずかしくなってくるじゃない!」
「だって!マ……っ、やっぱ無理!」
「もう~!赤ちゃんが真似して母親のこと名前で呼びはじめたらどうするの~?」
「それは……怒るよ」
「ニュートったら、人のこと言えないわよ」
「そ、それとこれとは別なの!まったく……早くしないと置いてくよ~!」
「やだ、待ってよパパ~!」
照れた顔を見られまいと足早に玄関を出ていくニュートを、リジーが笑いながら楽しそうに追いかける。
もう何ヶ月したら、二人の間にはもう一人小さな家族が増えていることだろう。
こんな二人だけの何気ないやりとりすらも懐かしくなるくらい、その存在はあたりまえの幸せになっているのかもしれない。
そうしたらきっと僕はまた、数えきれないくらい何度も同じこの言葉を言うのだろう。
「――もう、走ると転ぶよ!」
「へ……?」
医師の口からはじめてそう聞かされた時、ニュートとリジーはぽかんと口を開けたまま思わず顔を見合わせた。
聖マンゴの古株の内科医は、冷たい眼鏡のレンズの向こう側で血液検査の結果表に目を通しながら、患者の方をちらりと見ようともせずに淡々と言ってのけたので、二人は喜ぶよりも驚くよりも先に唖然とする。
頭の耳のあたりにいくらか白髪のまじった壮年の医師はこれまでの経験から、衝撃的な診断結果ほど普通にしてなんでもないことのようにパッと言ってしまう方が、患者も家族も落ちついて非日常的な状況も受け止めやすいと知っているのだ。とくに若い患者については。
小説なんかではどんな医者でも赤ちゃんができていると分かれば笑顔で「おめでとうございます!」なんて祝福してくれたりするが、実際のところはそうではない。しかしおかげで、二人とも医師の指示を最後まで冷静に聞くことができた。
紹介状を書いてもらった後、リジーとニュートはその日のうちにその足で上のフロアにある産婦人科にかかって、問診票に記入して、いろいろな検査をして、薬をもらって……その間ずっとニュートは地に足がついていないような、ふわふわしているような心地だったのを覚えている。
帰る頃には二人とももうくたくたで、でも姿くらましは安定期に入るまで母体に負担がかかるからと急遽リジーの友達が車で迎えに来てくれた。
次の検査ではじめてエコー写真を撮った。訳分からないモノクロ写真のざらざらした砂嵐の中の一粒を指さして、「これが胎児ね」と言われても、正直ニュートにはどれだか分からなかった。
ただ「赤ちゃんがうまれる!」という漠然とした喜びだけは、溢れんばかりに大きなものであった。
新たな生命の誕生というのはいつの時代も、どこの国であっても、人間や動物の種類に関わりなく良いものだ。
ニュートはこれまでに何度も自らの手でその瞬間を見てきたが、それが今度は自分の子となれば喜びもひとしおである。
「男の子かなあ、女の子かなあ。どっちに似るかなあ……ねえ僕たちの子はどの寮に入ると思う?」
ニュートはアパートの使っていない部屋を子ども部屋に改装しようと図面を引いていたが、いやいっそのこと田舎に小さいバンガローでも買おうかと不動産のチラシを見ながらそんなことを言いはじめた夫に、リジーは「気が早いわよ」と困ったように笑う。
「そうねえ……どっちでもいいよ、男でも女でも。子犬だったとしてもいいわ。どの寮でも、もしホグワーツに入らなかったとしても」
「でも、名前とか考えなきゃ」
「ゆっくり決めていきましょ。……それはそうとして、どっちに最終決定権があるかだけは今のうちにハッキリさせておきたいのだけれど」
「おっと……さっそく離婚の危機だ」
「テセウスも権利を主張していたわよ、困ったらいつでも名付け親になってくれるって」
「うーん。それだけは絶対に、ないね」
はじめのうちは、楽しかった。
街中で小さな子供連れを見かけると自然と目をひき、自分たちもそうなれたらと未来の家族の姿を思い浮かべた。
買い物に行ってベビー用品売り場を通りがかると、ちっちゃなちっちゃな靴下だとか帽子だとか、クマのぬいぐるみだとか、あれこれついつい買ってしまい、そのたびにリジーに「気が早い」と叱られては、家にあるベビーグッズがだんだんと増えていった。
しかし少しすると、リジーはつわりが酷くなって家で寝込むことが多くなった。
妊娠によるホルモンバランスの変化で、自律神経が不安定になる。症状は人によって様々だがそのせいでイライラしたり、体がだるくなったり、吐き気を感じたりする。
なにも食べられないし、どこにも行けない。
食べられないのをそれでも赤ちゃんのためにと無理やり食べて、吐いて、胃が空っぽになって無くなってしまっても治まらない。
痛々しい彼女の姿を見てできるなら変わってやりたいと思っても、そういう時ニュートにはなにもしてやれることがない。
作家の仕事は続けていたが、月一回出版社に顔をだす以外は幸いなことに家で仕事を続けられていたので、家事をしながら彼女のそばにいてやることはできた。
日々、一日一日がものすごく長いように感じた。
ニュートにとってもリジーにとっても、お互いにはじめての経験だ。
産まれてくる子どものことも、出産と子育てという新しいことへの挑戦も楽しんではいたが、それ以上に不安も大きい。
赤ちゃんはちゃんと生まれてきてくれるか、いやその前にリジーが出産に耐えられるかどうか。
僕たちにちゃんと育てられるか、いい親になれるか。生まれてくるまで分からない。生まれてきたらそれはそれで心配はつきないだろう。
熱が出たらどうしよう、怪我したらどうしよう。
どうやって大切なことを教えていこう。
毎日、毎日、お腹の子の事ばかりを考えた。
ある日、リジーはしばらくぶりに今日は気分がいいと言ったのでニュートは「買い物に行こう」と誘った。
ダイアゴン横丁はいつでも人が多すぎるので、馴染みのロンドンの雑貨店へ。帰りに魔法省にでも寄って、ニュートとしては気が進まないけれど彼女は元同僚や友人たちにも会いたいだろうと。
空いてる時間帯を見計らって、ほんの短い時間だけ。
「これはもう履けないわね」
リジーはお気に入りの履きなれたハイヒールをそっと避けて、隣にあるスニーカーを手にとった。
リジーのお腹最近少し膨らんできている。たたでさえ歩きづらいハイヒールでは負担がかかるし、もし転びでもしたらただじゃ済まないだろう。
妥当な判断だと思いつつも、リジーは少し残念そうにスニーカーを見つめてからつま先を通した。
それを見て、ニュートは彼女がどれだけのものを我慢しているのか思い起こす。
食事も満足に楽しめないし、仕事もできない、好きな時に好きなところへ出かけることもできない。
匂いがきついからと化粧品も使えないし、好きな服も着れない。
お腹に赤ちゃんがいるから、赤ちゃんのためにリジーはそれまでの自由な生活を全部犠牲にしている。
彼女が、母親になろうとしているからだ。
「うん、そう、だね……」
ニュートはなんて言おうか迷いつつ、それでも何か言わなきゃと思ううちに考えが定まらぬまま口を開いた。
「じゃ、じゃあ!僕がそれ履くよ!」
「……ニュート?正気?」
リジーが怪訝そうにニュートを見る。
ニュートは一瞬自分でも何を言っているのかよく分かっていなかったが、間違いなく何かをしくじったということだけは直感した。
「そう!だから、その、今日靴屋も見に行って、新しい靴選びに行こう、ね?」
「新しい靴って、いつ履けるか分かんないよ?大きくなるまで抱っこして歩かなきゃだし……」
「ううん!そんなのいつだっていいよ、僕が抱っこして歩くし……もう大人なんだから、足のサイズは変わることないでしょ?」
「……足のサイズ"は"?」
「あっ、えっと……はは……」
リジーに笑顔で詰められて、ニュートは気まづそうに思わず視線をさ迷わせる。
そうかと思いきや、ふと頬にキスされる柔らかさを感じた。
「ありがとう、パパ」リジーは嬉しそうに目元を綻ばせてニュートの頬にキスをした。
「……どういたしまして、マ……っ、リジー」
「やだ、なあに!いつもみんなに自分のことママって呼ばせてるくせに!今さら恥ずかしがらないでよ~こっちまで恥ずかしくなってくるじゃない!」
「だって!マ……っ、やっぱ無理!」
「もう~!赤ちゃんが真似して母親のこと名前で呼びはじめたらどうするの~?」
「それは……怒るよ」
「ニュートったら、人のこと言えないわよ」
「そ、それとこれとは別なの!まったく……早くしないと置いてくよ~!」
「やだ、待ってよパパ~!」
照れた顔を見られまいと足早に玄関を出ていくニュートを、リジーが笑いながら楽しそうに追いかける。
もう何ヶ月したら、二人の間にはもう一人小さな家族が増えていることだろう。
こんな二人だけの何気ないやりとりすらも懐かしくなるくらい、その存在はあたりまえの幸せになっているのかもしれない。
そうしたらきっと僕はまた、数えきれないくらい何度も同じこの言葉を言うのだろう。
「――もう、走ると転ぶよ!」
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