2話 遠すぎるスタートライン
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
用意された実習用の白地の制服一式は、赤いタイがポイントのパティシエ服で、少し背の高い帽子をかぶると気分だけでも一人前になったようだ。既に自分専用のロッカーがある更衣室で着替えた樹は、ロッカーに備え付けられている鏡で軽く身だしなみを整えると、実習室へ向かう。
パンフレットで見るよりもはるかに奥行きがある、教会じみた高い天井をもつ白い部屋。調理台もオーブンも、家で使っていたものとは比べ物にならないくらいピカピカだ。
「皆さん、集まってください」
担当教員の飴屋先生がクリップボード片手に集合をかけた。細いフレームの眼鏡と引っ詰め髪のせいか、厳格そうな雰囲気のする女性だった。
「今日の実習では、パイ生地の総復習を行います。・・・と、その前に、今日から転校生の東堂さんが参加することになります。東堂さんには、Aグループに入ってもらいますね」
先生が樹の割り当てを発表すると、皆はざわめきはじめた。「やっぱり・・・」「ねぇ・・・」と不満そうな声ばかりだ。聖マリー学園では1クラス6グループに分かれた実習が行われている。分け方は、実力順。Aグループが最高峰だ。このクラスには、案の定スイーツ王子の3人がそのグループに位置づけられていた。
「東堂さん、こっちだよ」
花房に手を振られた樹は調理台へ急いだ。
「同じグループだったんだ、よろしくね」
「どうも」
「材料は上、足りないと向こう。器具は調理台の中だ。分かるだろ?さっさと始めろ。時間も点数に関わるんだ」
安堂が声をかけ、馴れ合いからはじまると思われた実習は小柄の樫野の辛辣な物言いによってせき立てられる。
「それはどうも」
第一声にしてはずいぶんな物言いだ。樹は眉をひそめつつ、取りかかることにする。バターと粉を木べらでなじませていると、辺りの様子を不審に感じ、樹は手を止めた。見れば、クラスのほとんど全員が樹の手際を見ようとこちらに視線を集中させていた。
———値踏みされている。
「東堂さん、どうしたの?」
「別に」
安堂や花房も、他のクラスメイトほど露骨ではないものの、樹の手元を意識している感はある。向かい側で作業をしている樫野だけが、自分の作業に全神経を注いでいるようだった。
「分からないことがあったら言ってね」
「どうも」
樹はボウルに水を加え、手で生地をこねる。周りがどう思おうが、自分には関係のない話だと言い聞かせながら。
作業はいたって単調につつがなく進んだ。その手際を見る限り文句のつけどころがなさそうだと悟ったクラスメイト達も、自分の作業に集中しだしたらしい。
リンゴのフィリングを包んだ生地に卵黄を塗った樹は、それをオーブンにいれ、スイッチを入れた。
それが失敗だった。
「おい、何やってんだ!」
樫野の怒号が響いた。周りの視線が一気にAグループの調理台に戻る。
「何って、パイを焼くにはオーブンを使うでしょう」
「アホか、こういう時は1グループで一斉に使うんだ!勝手なことすんな!」
「知らないわよ」
樹は樫野の態度に動揺しながらも、臆することなく答えた。
「普通に考えたら分かるだろ!どこにこれだけの人数分のオーブンがあるんだ!」
「だって言わなかったじゃない!自分の『普通』を人に押し付けないでよ」
二人の間に険悪な空気が漂い、花房と安堂は慌てて仲裁に入った。
「まあまあ、樫野。東堂さん、まだ慣れてないんだから」
「東堂さんも落ち着いて。次から気をつければいいんだから」
「それに、材料の袋も元の位置に戻さず手元に置きっぱなしだ。まるで態度がなってねえ」
「だから、そんなこと誰も言わなかったじゃない!」
「考えたらできることだって言ってんだろ!ちょっとでも気を遣おうと思ってたら、人に聞くのが普通だろ。周りのことを見て行動しろ!」
「だから、その『普通』を押し付けるのをやめなさいよ!」
「二人とも、やめようよ」
いくらなだめられても、二人の勢いは止まることを知らない。
「同じグループなんだから、ね?もうちょっと・・・」
「うるさい、私のお菓子作りにあなたたちのことなんて関係ないわよ」
「そんなこと・・・」
「じゃあ家に帰って1人でやってりゃいいだろ!お前もグループ分けがあることぐらい知ってたんだろうが!ここじゃみんなでやってるんだ。そんな自分勝手は許されない」
「でも」
「周りのことを考えられない奴が、人に出すスイーツを作れると思ってんのか!」
樫野が台をたたこうと手を振りかざすと、樹が卵白をとっていたボウルに腕があたり、樹の服に卵白が飛び散った。
「何するのよ!」
樹はかっとして、落ちたボウルを樫野に向かって投げつけた。
「いって・・・お前!」
「そこの二人、さっきから何をしてるんですか!」
口論については見守っていたらしい先生が、さすがに割り込んできた。
「材料や道具を粗末にして・・・パティシエ以前の問題です!」
「・・・すみません」
「すみません」
二人は悔しそうに謝る。
「東堂さん、慣れていないのは分かるけれど、慎みのある行動を心がけるようにしてください。樫野くんも、一年先輩なんだから、もう少し気を遣ってあげなさい。Aグループからは20点減点します」
先生はボードに書き留めると、後片付けを命じて去っていった。樫野と樹はにらみ合いながらも、おとなしくそれに従った。
転校初日から、さっそくかなり雲行きが怪しくなってきた。
聖マリー学園の食堂は、基本的に大きな丸いテーブルを数人で囲んで食べるスタイルだ。ホテルの宴会場のような豪勢なインテリアに、調理専門学校とあって、出される料理も一介の学食のメニューにとどまらないクオリティーを誇っている。樹は居心地の良さそうな二人掛けの小さな席を陣取って初めての夕食をとっていた。
むろん、あの様子を見た後で誘うような人は誰もいなかったし、樹自身も、クラスメイトの顔などよりも美しい庭を眺めながら食事をとる方が気分が良かった。
(あんな調子の人と仲良く作業だなんてやってられない。私、くる場所を間違えたのかしら)
後悔のない選択だったはずだが、樹は早くも嫌気がさしていた。飯は旨いが、肝心の環境が最悪だ。
(まあ、こうなった以上仕方ないわ。せめて夜に落ち着いて練習することにしよう)
樹は早々に食事を切り上げると、準備をしに寮へ戻った。
部屋に着くと、ルームメイトの美和がベッドの上でカップラーメンを食べていた。
「あ、東堂さん、ちーっす」
「・・・何をしているの」
「なにって、夕食ですよ。そうそう、実習大変だったみたいですね。こっちのクラスでもすごい噂ですよ」
「そう」
「まあ、いいんじゃないですか?樫野真とあれくらい言い合える女子がひとりぐらいいても」
美和がにやりと笑うので、ふと気になって樹は尋ねた。
「樫野ってあいつ、あの性格で女子とけんかにならないの?」
「女子とはなりませんよ。彼、顔面は優秀だからモテちゃうので。男子とはたまにありますけど。花房っていたでしょ?あの人とも最初はけんかしてましたし」
「そうなの。私は仲良くなれる気などしないわ」
樹はエプロンやナフキンを小脇に抱えると、部屋を出た。
再び実習のことを思い返す。焼き上がったパイ自体の評価は上々で、ふつう作品の出来具合で変動するポイントではないものの、5点返上することが許された。しかし、それは樫野も同じだった。というか、スイーツ王子の3人が、評判に恥じない実力を持っているということは、明らかだった。樹はパイ生地の点で劣っていることがないという自信はあったものの、3人と比べると独創性の点で劣っていると感じていた。
見返すには、圧倒的な実力差を示さなければならない。
樹は、ブレザーを椅子の上に畳んで置き、バンダナとエプロンを装着して、ブラウスを腕まくりした。
(あれ・・・)
手を洗って材料を揃えた時点で、意気込んでいたはずの樹は何かが欠けているように感じた。
「私、なんでお菓子作り、始めたんだっけ」
広い実習室に、樹の呟き声は、不気味に響いた。
パンフレットで見るよりもはるかに奥行きがある、教会じみた高い天井をもつ白い部屋。調理台もオーブンも、家で使っていたものとは比べ物にならないくらいピカピカだ。
「皆さん、集まってください」
担当教員の飴屋先生がクリップボード片手に集合をかけた。細いフレームの眼鏡と引っ詰め髪のせいか、厳格そうな雰囲気のする女性だった。
「今日の実習では、パイ生地の総復習を行います。・・・と、その前に、今日から転校生の東堂さんが参加することになります。東堂さんには、Aグループに入ってもらいますね」
先生が樹の割り当てを発表すると、皆はざわめきはじめた。「やっぱり・・・」「ねぇ・・・」と不満そうな声ばかりだ。聖マリー学園では1クラス6グループに分かれた実習が行われている。分け方は、実力順。Aグループが最高峰だ。このクラスには、案の定スイーツ王子の3人がそのグループに位置づけられていた。
「東堂さん、こっちだよ」
花房に手を振られた樹は調理台へ急いだ。
「同じグループだったんだ、よろしくね」
「どうも」
「材料は上、足りないと向こう。器具は調理台の中だ。分かるだろ?さっさと始めろ。時間も点数に関わるんだ」
安堂が声をかけ、馴れ合いからはじまると思われた実習は小柄の樫野の辛辣な物言いによってせき立てられる。
「それはどうも」
第一声にしてはずいぶんな物言いだ。樹は眉をひそめつつ、取りかかることにする。バターと粉を木べらでなじませていると、辺りの様子を不審に感じ、樹は手を止めた。見れば、クラスのほとんど全員が樹の手際を見ようとこちらに視線を集中させていた。
———値踏みされている。
「東堂さん、どうしたの?」
「別に」
安堂や花房も、他のクラスメイトほど露骨ではないものの、樹の手元を意識している感はある。向かい側で作業をしている樫野だけが、自分の作業に全神経を注いでいるようだった。
「分からないことがあったら言ってね」
「どうも」
樹はボウルに水を加え、手で生地をこねる。周りがどう思おうが、自分には関係のない話だと言い聞かせながら。
作業はいたって単調につつがなく進んだ。その手際を見る限り文句のつけどころがなさそうだと悟ったクラスメイト達も、自分の作業に集中しだしたらしい。
リンゴのフィリングを包んだ生地に卵黄を塗った樹は、それをオーブンにいれ、スイッチを入れた。
それが失敗だった。
「おい、何やってんだ!」
樫野の怒号が響いた。周りの視線が一気にAグループの調理台に戻る。
「何って、パイを焼くにはオーブンを使うでしょう」
「アホか、こういう時は1グループで一斉に使うんだ!勝手なことすんな!」
「知らないわよ」
樹は樫野の態度に動揺しながらも、臆することなく答えた。
「普通に考えたら分かるだろ!どこにこれだけの人数分のオーブンがあるんだ!」
「だって言わなかったじゃない!自分の『普通』を人に押し付けないでよ」
二人の間に険悪な空気が漂い、花房と安堂は慌てて仲裁に入った。
「まあまあ、樫野。東堂さん、まだ慣れてないんだから」
「東堂さんも落ち着いて。次から気をつければいいんだから」
「それに、材料の袋も元の位置に戻さず手元に置きっぱなしだ。まるで態度がなってねえ」
「だから、そんなこと誰も言わなかったじゃない!」
「考えたらできることだって言ってんだろ!ちょっとでも気を遣おうと思ってたら、人に聞くのが普通だろ。周りのことを見て行動しろ!」
「だから、その『普通』を押し付けるのをやめなさいよ!」
「二人とも、やめようよ」
いくらなだめられても、二人の勢いは止まることを知らない。
「同じグループなんだから、ね?もうちょっと・・・」
「うるさい、私のお菓子作りにあなたたちのことなんて関係ないわよ」
「そんなこと・・・」
「じゃあ家に帰って1人でやってりゃいいだろ!お前もグループ分けがあることぐらい知ってたんだろうが!ここじゃみんなでやってるんだ。そんな自分勝手は許されない」
「でも」
「周りのことを考えられない奴が、人に出すスイーツを作れると思ってんのか!」
樫野が台をたたこうと手を振りかざすと、樹が卵白をとっていたボウルに腕があたり、樹の服に卵白が飛び散った。
「何するのよ!」
樹はかっとして、落ちたボウルを樫野に向かって投げつけた。
「いって・・・お前!」
「そこの二人、さっきから何をしてるんですか!」
口論については見守っていたらしい先生が、さすがに割り込んできた。
「材料や道具を粗末にして・・・パティシエ以前の問題です!」
「・・・すみません」
「すみません」
二人は悔しそうに謝る。
「東堂さん、慣れていないのは分かるけれど、慎みのある行動を心がけるようにしてください。樫野くんも、一年先輩なんだから、もう少し気を遣ってあげなさい。Aグループからは20点減点します」
先生はボードに書き留めると、後片付けを命じて去っていった。樫野と樹はにらみ合いながらも、おとなしくそれに従った。
転校初日から、さっそくかなり雲行きが怪しくなってきた。
聖マリー学園の食堂は、基本的に大きな丸いテーブルを数人で囲んで食べるスタイルだ。ホテルの宴会場のような豪勢なインテリアに、調理専門学校とあって、出される料理も一介の学食のメニューにとどまらないクオリティーを誇っている。樹は居心地の良さそうな二人掛けの小さな席を陣取って初めての夕食をとっていた。
むろん、あの様子を見た後で誘うような人は誰もいなかったし、樹自身も、クラスメイトの顔などよりも美しい庭を眺めながら食事をとる方が気分が良かった。
(あんな調子の人と仲良く作業だなんてやってられない。私、くる場所を間違えたのかしら)
後悔のない選択だったはずだが、樹は早くも嫌気がさしていた。飯は旨いが、肝心の環境が最悪だ。
(まあ、こうなった以上仕方ないわ。せめて夜に落ち着いて練習することにしよう)
樹は早々に食事を切り上げると、準備をしに寮へ戻った。
部屋に着くと、ルームメイトの美和がベッドの上でカップラーメンを食べていた。
「あ、東堂さん、ちーっす」
「・・・何をしているの」
「なにって、夕食ですよ。そうそう、実習大変だったみたいですね。こっちのクラスでもすごい噂ですよ」
「そう」
「まあ、いいんじゃないですか?樫野真とあれくらい言い合える女子がひとりぐらいいても」
美和がにやりと笑うので、ふと気になって樹は尋ねた。
「樫野ってあいつ、あの性格で女子とけんかにならないの?」
「女子とはなりませんよ。彼、顔面は優秀だからモテちゃうので。男子とはたまにありますけど。花房っていたでしょ?あの人とも最初はけんかしてましたし」
「そうなの。私は仲良くなれる気などしないわ」
樹はエプロンやナフキンを小脇に抱えると、部屋を出た。
再び実習のことを思い返す。焼き上がったパイ自体の評価は上々で、ふつう作品の出来具合で変動するポイントではないものの、5点返上することが許された。しかし、それは樫野も同じだった。というか、スイーツ王子の3人が、評判に恥じない実力を持っているということは、明らかだった。樹はパイ生地の点で劣っていることがないという自信はあったものの、3人と比べると独創性の点で劣っていると感じていた。
見返すには、圧倒的な実力差を示さなければならない。
樹は、ブレザーを椅子の上に畳んで置き、バンダナとエプロンを装着して、ブラウスを腕まくりした。
(あれ・・・)
手を洗って材料を揃えた時点で、意気込んでいたはずの樹は何かが欠けているように感じた。
「私、なんでお菓子作り、始めたんだっけ」
広い実習室に、樹の呟き声は、不気味に響いた。