1話 夢の欠片
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祖母が亡くなった。
蝉の声も遠くなる頃合いのことだった。東堂樹のこれまでの14年間での経験上、最も身近な人間の訃報である。
樹には正直事態が飲み込めなかった。花に包まれて横たわっている女が、つい先日キッチンに並んで一緒に菓子を作っていた祖母その人だとは思えなかった。
中学校の制服である黒いセーラー服姿の樹が泣きじゃくる母親の隣で顔色一つ変えずに立っているのを見て、ある人は落ち着いた娘だと感心し、ある人は不気味な娘だと眉をひそめた。
樹はそんな少女だった。
彼女と、仲睦まじかったはずの祖母との別れは、あっけないものだった。
忌引きが明けて3日越しに学校に現れた樹にわざわざ声をかける者はいなかった。それは、彼女を気遣ってのことではなく、普段から彼女に親しい学友がいなかったというだけのことだった。また、樹自身もそのことで不自由に思ったことはなく、違和感を抱くこともなかった。
家に帰って祖母とお菓子作りをすることの方が楽しかったのだ。祖母がいれば、樹に友人は必要なかった。
だからその日も帰り道にスーパーに寄って材料を買い、少し久々にキッチンでお菓子作りの用意を始めたその時になって、初めて樹は祖母が亡くなったのだという事実を噛み締めた。いつも隣にいた人が突然いなくなるというのが死だということを知った。
「・・・・・」
樹は、エプロンを外してひとり頭を抱えた。祖母なしにこの家でお菓子作りが続けられる気がしなかった。喪失感が押し寄せてきて、胸がつかえて堪らない。
「樹、どうしたの。今日は作らないの?」
「無理よ、私とてもできないわ」
様子のおかしい樹に声をかけた母親は、彼女の表情を見て悟ったようだった。数日前、とても家事が手に付かないと嘆いていた自分の表情とよく似ていたからだ。
「そう、寂しいことよね。でも、その内に———」
「その内と言われても、私はおばあちゃんからお菓子作りを教わっていたのに」
「気持ちは分かるわ、でもあなたはもう十分に上手いじゃない」
「全然、十分じゃないわ」
樹は母親に噛み付くように言った。祖母との菓子作りだけを楽しみにしてきた自分の気持ちが母に分かるはずがないと思っていた。
「家で作るには、十分すぎるくらいよ」
「私にとってはお菓子作りは趣味なんかじゃないの。ずっとこれしかしてこなかったのよ。私だって、おばあちゃんみたいなパティシエールになって、お菓子作りを教えられる人になりたい」
中学2年生になる樹は、この日初めて親の前で自分の夢を告げたのだった。
家族会議が開かれたのはその晩だった。神妙な顔で大判の茶封筒を机上に置いた父に、樹は首を傾げる。
「なにこれ」
「推薦状が入ってる。おばあちゃんはお前を聖マリー学園に入れたがっていたんだ」
「聖マリー学園!?」
樹は目を丸くした。パティシエを志す者なら一度は耳にする名前だった。中等部と高等部のある全寮制の名門校。パリ本校を中心に、日本にも分校が存在している。祖母が昔そこで教師をしていたと聞いたことがあった。
「でも、なんで今なの。入学期は去年だったのに」
「あなたが本当にその道を目指そうと思っているとは知らなかったんだもの」
「で、本当に行きたいのなら父さんも母さんも行かせてやりたいとは思っている。おばあちゃんもそのつもりで十分な学費を遺してくれたんだ」
心臓が高鳴るのを押さえきれない。樹は、同封されていたパンフレットを夢中でめくった。パティシエを目指すには日本で一番適している環境だ。祖母に教わることはもうできないが、祖母が学んだ場所で学ぶことができる。
「私、行きたい」
樹は力強く言った。
「本当にいいのか?成功する人なんか限られてる世界だぞ」
「それでもいいの」
「今の学校からは転校しなくちゃいけないのよ?」
「何も問題ないわ」
樹の態度を見て、両親は顔を見合わせて息をついた。
「決定だな。さっそく編入の手続きをしよう。あと1週間もすればお前はパティシエの卵だ」
「あら、パティシエじゃないわ。女性ならパティシエールよ」
樹は封筒をしっかりと抱きかかえながらそう言った。
蝉の声も遠くなる頃合いのことだった。東堂樹のこれまでの14年間での経験上、最も身近な人間の訃報である。
樹には正直事態が飲み込めなかった。花に包まれて横たわっている女が、つい先日キッチンに並んで一緒に菓子を作っていた祖母その人だとは思えなかった。
中学校の制服である黒いセーラー服姿の樹が泣きじゃくる母親の隣で顔色一つ変えずに立っているのを見て、ある人は落ち着いた娘だと感心し、ある人は不気味な娘だと眉をひそめた。
樹はそんな少女だった。
彼女と、仲睦まじかったはずの祖母との別れは、あっけないものだった。
忌引きが明けて3日越しに学校に現れた樹にわざわざ声をかける者はいなかった。それは、彼女を気遣ってのことではなく、普段から彼女に親しい学友がいなかったというだけのことだった。また、樹自身もそのことで不自由に思ったことはなく、違和感を抱くこともなかった。
家に帰って祖母とお菓子作りをすることの方が楽しかったのだ。祖母がいれば、樹に友人は必要なかった。
だからその日も帰り道にスーパーに寄って材料を買い、少し久々にキッチンでお菓子作りの用意を始めたその時になって、初めて樹は祖母が亡くなったのだという事実を噛み締めた。いつも隣にいた人が突然いなくなるというのが死だということを知った。
「・・・・・」
樹は、エプロンを外してひとり頭を抱えた。祖母なしにこの家でお菓子作りが続けられる気がしなかった。喪失感が押し寄せてきて、胸がつかえて堪らない。
「樹、どうしたの。今日は作らないの?」
「無理よ、私とてもできないわ」
様子のおかしい樹に声をかけた母親は、彼女の表情を見て悟ったようだった。数日前、とても家事が手に付かないと嘆いていた自分の表情とよく似ていたからだ。
「そう、寂しいことよね。でも、その内に———」
「その内と言われても、私はおばあちゃんからお菓子作りを教わっていたのに」
「気持ちは分かるわ、でもあなたはもう十分に上手いじゃない」
「全然、十分じゃないわ」
樹は母親に噛み付くように言った。祖母との菓子作りだけを楽しみにしてきた自分の気持ちが母に分かるはずがないと思っていた。
「家で作るには、十分すぎるくらいよ」
「私にとってはお菓子作りは趣味なんかじゃないの。ずっとこれしかしてこなかったのよ。私だって、おばあちゃんみたいなパティシエールになって、お菓子作りを教えられる人になりたい」
中学2年生になる樹は、この日初めて親の前で自分の夢を告げたのだった。
家族会議が開かれたのはその晩だった。神妙な顔で大判の茶封筒を机上に置いた父に、樹は首を傾げる。
「なにこれ」
「推薦状が入ってる。おばあちゃんはお前を聖マリー学園に入れたがっていたんだ」
「聖マリー学園!?」
樹は目を丸くした。パティシエを志す者なら一度は耳にする名前だった。中等部と高等部のある全寮制の名門校。パリ本校を中心に、日本にも分校が存在している。祖母が昔そこで教師をしていたと聞いたことがあった。
「でも、なんで今なの。入学期は去年だったのに」
「あなたが本当にその道を目指そうと思っているとは知らなかったんだもの」
「で、本当に行きたいのなら父さんも母さんも行かせてやりたいとは思っている。おばあちゃんもそのつもりで十分な学費を遺してくれたんだ」
心臓が高鳴るのを押さえきれない。樹は、同封されていたパンフレットを夢中でめくった。パティシエを目指すには日本で一番適している環境だ。祖母に教わることはもうできないが、祖母が学んだ場所で学ぶことができる。
「私、行きたい」
樹は力強く言った。
「本当にいいのか?成功する人なんか限られてる世界だぞ」
「それでもいいの」
「今の学校からは転校しなくちゃいけないのよ?」
「何も問題ないわ」
樹の態度を見て、両親は顔を見合わせて息をついた。
「決定だな。さっそく編入の手続きをしよう。あと1週間もすればお前はパティシエの卵だ」
「あら、パティシエじゃないわ。女性ならパティシエールよ」
樹は封筒をしっかりと抱きかかえながらそう言った。