36話 思い出の味
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しかし、馴染みはじめたと思える頃には、別れが近づいているのだった。
「・・・明日で実習も終わりだね」
月に照らされた中庭に、今日は二人で立っている。涼しい風は健康的な疲れを癒してくれるようで心地が良かった。
この一日が充実していたのは、ムッシュ・ブランとのコミュニケーションにいちごが一枚噛んでいたからだというのは明白だった。まだ自分だけでは、初対面の人と打ち解けるまでに時間がかかる。
そう思った樹は笑みを浮かべながら、口を開いた。
「色々勉強になったと思うわ。いちごと一緒でよかった」
「ほんとに?あたしも、樹ちゃんと一緒でよかった!」
いちごは、樹の言葉に笑顔を見せたかと思うと、オランジュの木の側まで駆け下りて行った。よほどこの木が好きなのか、暇があれば見ていたいらしかった。
「ここのオレンジの香りって、何か懐かしいことを思い出す気がしない?」
樹の方を振り返りながら、いちごはまるで何気ない調子で言う。樹は虚をつかれたように固まったが、答えた。
「香りは記憶も刺激するって、いうものね」
「樫野が前に言ってたやつ?」
「そう、それ」
どうやらいちごの方は覚えていたようだった。英単語が覚えられなくても、数学の公式が覚えられなくても、いちごはそういうことを平気で覚えていたりする。
「で、いちごは何を思い出すの?」
「おばあちゃんが、まだお店をやってた時かなあ。オレンジのスイーツもたくさんあったの!ムースにジュレ、シフォンケーキにパウンドケーキ!」
いちごは弾むように次々と菓子の名前を口ずさむ。いちごの中で、スイーツの記憶はこんなに鮮明だった。
「でもね、やっぱりおばあちゃんが作ってくれた中で一番だったのはいちごタルトなんだ。あたしが落ち込んでいる時に、いつも励ましてくれた魔法のタルト」
いちごは月明かりの下をゆっくりと歩きながら、懐かしむように言った。その目は、いつもの無邪気な明るさとは違う色を映している気がした。
「オレンジのスイーツじゃないけれど、やっぱりいちごタルトのことは思い出しちゃうな」
いちごにとっての思い出の味。おばあちゃんと聞くと、樹は自分を重ねずにはいられなかった。
「私も、初めて食べたお菓子の味を思い出しそうで・・・」
樹は、軽く目を閉じて断片的な記憶を拾い上げる。
キッチンを右往左往する祖母の動きを目で追うのも飽きてきて、美味しそうな物を探しはじめた昔の自分。
「甘酸っぱい香り。でも、ほろ苦くて、とろける内に身体が暑くなって・・・」
「それ、あたしがバレンタインの時に樹ちゃんにあげたのと似てる」
「バレンタイン・・・?」
さらりと言ったいちごに、樹は目を見開いて言葉を反芻する。
レモンのリキュールの強烈な刺激。いちごは前にそれが樹なのだとチョコレートで表現していた。
「あのチョコレート、樹ちゃんのイメージにはぴったりに仕上がったと思うんだけど、甘さがほとんどなくて、かなり大人向けになっちゃったんだよね・・・」
「チョコレート・・・そう」
樹は、みるみる内に当時の記憶が甦ってくる感覚に震えた。
小学校に入ったか入らないか。そんな時分に樹は出会ってしまったのだった。
「ビターチョコレートで、オレンジのリキュールを包んだウイスキーボンボン。大人用に作っていたのに、私がつまみ食いをして大騒ぎになったんだったわ」
「樹ちゃんでもつまみ食いをしてたんだ!」
「だって、料理の基本じゃない?」
その言葉に、いちごはお腹を抱えて笑う。いちごは樹がたまにふざけたことを言うときが大好きだった。
「それで?どうしたの?」
「ただのお菓子だと思って食べたのに、あまりに甘くないからびっくりしたの。気持ち悪くないかって、おばあちゃんたちに散々聞かれて。でも、私は———」
子供心に、その複雑な風味を。
初めて感じた高揚を。
「まるで、魔法みたい!」
いちごがその言葉にキラキラした瞳を向けて、深く頷いた。
それがとても心強くて、樹はようやく子どもの頃の自分に向き合えた気がした。
「ねえ、そういえばブランさんもこの木を見て寂しそうにしてた気がするわ」
「あたしもそう思った!・・・ねえ、樹ちゃん」
二人は、気がつけばいたずらっ子がするような笑みを浮かべていた。
手はじめに、誰を私たちの魔法にかけてやろう。
「・・・明日で実習も終わりだね」
月に照らされた中庭に、今日は二人で立っている。涼しい風は健康的な疲れを癒してくれるようで心地が良かった。
この一日が充実していたのは、ムッシュ・ブランとのコミュニケーションにいちごが一枚噛んでいたからだというのは明白だった。まだ自分だけでは、初対面の人と打ち解けるまでに時間がかかる。
そう思った樹は笑みを浮かべながら、口を開いた。
「色々勉強になったと思うわ。いちごと一緒でよかった」
「ほんとに?あたしも、樹ちゃんと一緒でよかった!」
いちごは、樹の言葉に笑顔を見せたかと思うと、オランジュの木の側まで駆け下りて行った。よほどこの木が好きなのか、暇があれば見ていたいらしかった。
「ここのオレンジの香りって、何か懐かしいことを思い出す気がしない?」
樹の方を振り返りながら、いちごはまるで何気ない調子で言う。樹は虚をつかれたように固まったが、答えた。
「香りは記憶も刺激するって、いうものね」
「樫野が前に言ってたやつ?」
「そう、それ」
どうやらいちごの方は覚えていたようだった。英単語が覚えられなくても、数学の公式が覚えられなくても、いちごはそういうことを平気で覚えていたりする。
「で、いちごは何を思い出すの?」
「おばあちゃんが、まだお店をやってた時かなあ。オレンジのスイーツもたくさんあったの!ムースにジュレ、シフォンケーキにパウンドケーキ!」
いちごは弾むように次々と菓子の名前を口ずさむ。いちごの中で、スイーツの記憶はこんなに鮮明だった。
「でもね、やっぱりおばあちゃんが作ってくれた中で一番だったのはいちごタルトなんだ。あたしが落ち込んでいる時に、いつも励ましてくれた魔法のタルト」
いちごは月明かりの下をゆっくりと歩きながら、懐かしむように言った。その目は、いつもの無邪気な明るさとは違う色を映している気がした。
「オレンジのスイーツじゃないけれど、やっぱりいちごタルトのことは思い出しちゃうな」
いちごにとっての思い出の味。おばあちゃんと聞くと、樹は自分を重ねずにはいられなかった。
「私も、初めて食べたお菓子の味を思い出しそうで・・・」
樹は、軽く目を閉じて断片的な記憶を拾い上げる。
キッチンを右往左往する祖母の動きを目で追うのも飽きてきて、美味しそうな物を探しはじめた昔の自分。
「甘酸っぱい香り。でも、ほろ苦くて、とろける内に身体が暑くなって・・・」
「それ、あたしがバレンタインの時に樹ちゃんにあげたのと似てる」
「バレンタイン・・・?」
さらりと言ったいちごに、樹は目を見開いて言葉を反芻する。
レモンのリキュールの強烈な刺激。いちごは前にそれが樹なのだとチョコレートで表現していた。
「あのチョコレート、樹ちゃんのイメージにはぴったりに仕上がったと思うんだけど、甘さがほとんどなくて、かなり大人向けになっちゃったんだよね・・・」
「チョコレート・・・そう」
樹は、みるみる内に当時の記憶が甦ってくる感覚に震えた。
小学校に入ったか入らないか。そんな時分に樹は出会ってしまったのだった。
「ビターチョコレートで、オレンジのリキュールを包んだウイスキーボンボン。大人用に作っていたのに、私がつまみ食いをして大騒ぎになったんだったわ」
「樹ちゃんでもつまみ食いをしてたんだ!」
「だって、料理の基本じゃない?」
その言葉に、いちごはお腹を抱えて笑う。いちごは樹がたまにふざけたことを言うときが大好きだった。
「それで?どうしたの?」
「ただのお菓子だと思って食べたのに、あまりに甘くないからびっくりしたの。気持ち悪くないかって、おばあちゃんたちに散々聞かれて。でも、私は———」
子供心に、その複雑な風味を。
初めて感じた高揚を。
「まるで、魔法みたい!」
いちごがその言葉にキラキラした瞳を向けて、深く頷いた。
それがとても心強くて、樹はようやく子どもの頃の自分に向き合えた気がした。
「ねえ、そういえばブランさんもこの木を見て寂しそうにしてた気がするわ」
「あたしもそう思った!・・・ねえ、樹ちゃん」
二人は、気がつけばいたずらっ子がするような笑みを浮かべていた。
手はじめに、誰を私たちの魔法にかけてやろう。