36話 思い出の味
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二人に与えられた寝床は、もうしばらく使われていなさそうな小部屋だった。ベッドは詰めたらやっと二人で寝られそうなものが一つだけ。疲れたいちごは断りも無くベッドに飛び込んですぐに眠り込んでしまった。樹もその隣に入ろうとしたが、どうも目が冴えている。
明日の実習でもっと色々な事を学ぶためにも、体力は温存しておかなくてはいけない。分かっているのに。
(私、思ったより寂しかったりするのかしら)
樹はふと頭に浮かんだ考えに胸が高鳴った。こんなことをしていいものかと逡巡したのは束の間で、次の瞬間樹は高揚する気持ちを抑えながら静かに部屋の扉を開き、隙間から滑り込むように出て行った。携帯電話を右手に握ったまま。
急ぎ足で戸外に続く扉を押すと、少し冷たい空気が身体を包んだ。後ろ手に扉を閉めて、息を吐く。中庭のオランジュの木は、ほとんど満ちかけた月の光に照らされながら眠るように立っていた。それは昼間に見た木とは別のもののように思えたが、やはり美しかった。
世界は静かで、風が葉を揺らす音すらも星が瞬くように静謐な空気に溶けている。
樹は肌寒さに身を縮めながらも、中庭へ降りる階段の最上段に腰をおろした。携帯を開いて、着信履歴を表示させる。もう彼の名前は一番上に現れていた。
(出て)
樹の指が発信のボタンを押した。同時に、耳元に当てられた携帯電話が無機質なコール音を鳴らす。
1回、2回、3回、4回。
「どうしたの、樹ちゃん?」
焦ったような、驚いたような、それでも樹の耳にはただひたすらに甘く響く声だった。
身体が肌寒さを忘れて、仄かに上気する。
「花房君の声が聞きたくなっただけよ」
たまには彼みたいにからかってやろうかと樹はそう言ったが、すぐに照れて言葉を足した。
「夜更かしなんじゃない?肌に悪いわよ」
電話口から、花房が小さく吹き出すのが聞こえた。「そうくるか」と低く呟く声も、電波は樹の耳に届けてくれた。
「とてもあんな場所じゃ寝てられないよ。安堂と同じベッドなんだ」
「あら、私もいちごと同じだわ」
「女の子同士ならいいじゃない。男二人でダブルベッドって・・・キモいよ」
「なんだか、あなたのところはベッドが大きいみたいね」
樹は小さなところが引っかかったが、想像すると可笑しくなって小さく笑い声をあげた。それに誘われたような、ほとんど吐息まじりの笑い声が耳元に伝わる。
「樹ちゃん、今どこにいるの?」
「中庭にいるの。個人営業の方のところにお邪魔しているから、お家の庭ということになるわね」
「そうなんだ。僕たちはホテル配属だったんだよ。今は部屋のテラスにいるんだ」
「そこから何が見えるの?」
「ホテルの中庭が見えるようになってる。花でたくさん飾られていて綺麗なところだよ」
「私のところの中庭にはオレンジの木があるの。昔からあるものだと思うわ」
「オレンジか・・・今がちょうど実りなんじゃない?」
「そうなの。ここにいると良い香りがして・・・」
そう言ったそばから、風が優しくその香りを運んでくる。
子供心に感じた深い味わいを、少しだけ甦らせるように。
「なんだか、バラのパウンドケーキを食べた時と似ているの。香りは記憶も刺激するって言ってたの、樫野だったかしら」
「樫野の言った事なんて覚えてないな。でも、大切な記憶なんだろうね。そういうのって、忘れたくなくてもいつの間にか遠くに置き去りにしてしまっているんだよ」
憧憬を帯びた花房の声は、切なさの色を宿している気がした。彼がかつて置き去りにしていた記憶もまた、かけがえのないものだったのだろう。
「本当にそうよね」
風に煽られる髪を耳に掛けながら、樹は呟くように応えた。
ほんの数分間の会話だったが、もうよく眠れそうな気がした。
「花房君。電話、出てくれてありがとう。風邪を引く前にお互い寝ましょうか」
「そうするべきかな。名残惜しいけど」
「じゃあ、おやすみなさい。花房君」
「あっ、ちょっと待って。樹ちゃん」
電話口で、深く息を吐くような音が聞こえた。
いま彼がどんな顔をしているのだろうかと、想像するかわりに顔をあげると夜闇にぽっかりと浮かんだような黄色い月が目に入った。
花房からも見えているのだろうかと、そんなことを考えはじめた時に耳元で小さく息を吸う音が聞こえた気がした。
「月が綺麗だね」
そして、その声はまるで本当に隣にいるかのように、美しい文句を告げた。
樹は息を飲んで、その言葉を反芻し、早まる鼓動に戸惑った。
まだ満ちぬ少し歪なその月は、その瞬間に樹の目に煌煌と輝きはじめる。
彼の言葉は、魔法のようだった。
「ええ、本当に」
不思議な夜。
世界はこんなに静かなのに、自分だけに囁く声があって、胸を締め付ける。
月が、綺麗だった。
明日の実習でもっと色々な事を学ぶためにも、体力は温存しておかなくてはいけない。分かっているのに。
(私、思ったより寂しかったりするのかしら)
樹はふと頭に浮かんだ考えに胸が高鳴った。こんなことをしていいものかと逡巡したのは束の間で、次の瞬間樹は高揚する気持ちを抑えながら静かに部屋の扉を開き、隙間から滑り込むように出て行った。携帯電話を右手に握ったまま。
急ぎ足で戸外に続く扉を押すと、少し冷たい空気が身体を包んだ。後ろ手に扉を閉めて、息を吐く。中庭のオランジュの木は、ほとんど満ちかけた月の光に照らされながら眠るように立っていた。それは昼間に見た木とは別のもののように思えたが、やはり美しかった。
世界は静かで、風が葉を揺らす音すらも星が瞬くように静謐な空気に溶けている。
樹は肌寒さに身を縮めながらも、中庭へ降りる階段の最上段に腰をおろした。携帯を開いて、着信履歴を表示させる。もう彼の名前は一番上に現れていた。
(出て)
樹の指が発信のボタンを押した。同時に、耳元に当てられた携帯電話が無機質なコール音を鳴らす。
1回、2回、3回、4回。
「どうしたの、樹ちゃん?」
焦ったような、驚いたような、それでも樹の耳にはただひたすらに甘く響く声だった。
身体が肌寒さを忘れて、仄かに上気する。
「花房君の声が聞きたくなっただけよ」
たまには彼みたいにからかってやろうかと樹はそう言ったが、すぐに照れて言葉を足した。
「夜更かしなんじゃない?肌に悪いわよ」
電話口から、花房が小さく吹き出すのが聞こえた。「そうくるか」と低く呟く声も、電波は樹の耳に届けてくれた。
「とてもあんな場所じゃ寝てられないよ。安堂と同じベッドなんだ」
「あら、私もいちごと同じだわ」
「女の子同士ならいいじゃない。男二人でダブルベッドって・・・キモいよ」
「なんだか、あなたのところはベッドが大きいみたいね」
樹は小さなところが引っかかったが、想像すると可笑しくなって小さく笑い声をあげた。それに誘われたような、ほとんど吐息まじりの笑い声が耳元に伝わる。
「樹ちゃん、今どこにいるの?」
「中庭にいるの。個人営業の方のところにお邪魔しているから、お家の庭ということになるわね」
「そうなんだ。僕たちはホテル配属だったんだよ。今は部屋のテラスにいるんだ」
「そこから何が見えるの?」
「ホテルの中庭が見えるようになってる。花でたくさん飾られていて綺麗なところだよ」
「私のところの中庭にはオレンジの木があるの。昔からあるものだと思うわ」
「オレンジか・・・今がちょうど実りなんじゃない?」
「そうなの。ここにいると良い香りがして・・・」
そう言ったそばから、風が優しくその香りを運んでくる。
子供心に感じた深い味わいを、少しだけ甦らせるように。
「なんだか、バラのパウンドケーキを食べた時と似ているの。香りは記憶も刺激するって言ってたの、樫野だったかしら」
「樫野の言った事なんて覚えてないな。でも、大切な記憶なんだろうね。そういうのって、忘れたくなくてもいつの間にか遠くに置き去りにしてしまっているんだよ」
憧憬を帯びた花房の声は、切なさの色を宿している気がした。彼がかつて置き去りにしていた記憶もまた、かけがえのないものだったのだろう。
「本当にそうよね」
風に煽られる髪を耳に掛けながら、樹は呟くように応えた。
ほんの数分間の会話だったが、もうよく眠れそうな気がした。
「花房君。電話、出てくれてありがとう。風邪を引く前にお互い寝ましょうか」
「そうするべきかな。名残惜しいけど」
「じゃあ、おやすみなさい。花房君」
「あっ、ちょっと待って。樹ちゃん」
電話口で、深く息を吐くような音が聞こえた。
いま彼がどんな顔をしているのだろうかと、想像するかわりに顔をあげると夜闇にぽっかりと浮かんだような黄色い月が目に入った。
花房からも見えているのだろうかと、そんなことを考えはじめた時に耳元で小さく息を吸う音が聞こえた気がした。
「月が綺麗だね」
そして、その声はまるで本当に隣にいるかのように、美しい文句を告げた。
樹は息を飲んで、その言葉を反芻し、早まる鼓動に戸惑った。
まだ満ちぬ少し歪なその月は、その瞬間に樹の目に煌煌と輝きはじめる。
彼の言葉は、魔法のようだった。
「ええ、本当に」
不思議な夜。
世界はこんなに静かなのに、自分だけに囁く声があって、胸を締め付ける。
月が、綺麗だった。