6話 チョコレートの天使と悪魔
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いちごがジェノワーズの上にだばだばとチョコクリームを垂れ流す様子を、樹は横目で見ていた。どう見ても彼女の目線は違う世界を見ている。いちごもだいぶここに慣れてきた頃だったが、集中しなくていい理由にはならない。
「天野さん、帰ってきなさい」
樹はいちごを小突いた。我に返ったいちごが目の前の惨状に悲鳴を上げる。すげえな、と樫野が呟いた。
「調理実習中にぼけーっと他のこと考えてるなんて、すっげえ根性」
「樫野、あまりいちごちゃんをいじめるなって」
「デコレーションは失敗したけど、ジェノワーズは上手に焼き上がってるよ」
樫野の嫌味に小さくなっていたいちごだが、両脇の二人からはずいぶん上達したとフォローされ、元気を取り戻す。
「ありがとう。花房君、安堂君!」
「甘いな」
しかし、樫野は鋭い切れ味で折角のフォローを無駄にする。
「このくらいで上達なんて、甘すぎる」
むっとしたいちごだが、樫野が提出用に切り分けたケーキの美しさに気づくと、すっかり見とれてしまった。
「そ、それって樫野が作ったの?」
「ああ」
「すごいよなあ」
「チョコレートのスイーツなら、樫野の右に出るものはいないよ。ね、樹ちゃん?」
「さあね、でもまあ、それは上手く出来てる方じゃない?チョコレートが関わっただけで目の色変えて取り組むからなんかむかつくけど」
「お褒めに預かり光栄だ」
「素直に褒めればいいのに・・・」
確かに樫野とチョコレートが手を組むと、樹でも文句のつけようがない代物が出来上がるのだが、それを素直にほめるほど樹は可愛らしい性格をしていなかった。
「うわあ、あたしも、いつかこんなチョコケーキ、作ってみたいなあ!」
樫野の厳しい物言いに日頃文句はあるものの、素直な可愛らしい性格をしている方のいちごは、無邪気に目を輝かせる。
「天野には百万年経っても無理だ」
「・・・きびしーっ!」
即座に樫野は一刀両断し、花房と安堂は気の利いた言葉が思い浮かばず苦笑した。
このところ、チョコレートを使用する実習が多く、クラスは樫野の一党独占状態だ。そして、最後の仕上げというように、一週間後には創作チョコレートケーキのテストが控えていた。ここで差を開かせたくない。樹は夜通し策を練っていた。
「いいんじゃない?これなら誰ともかぶらないよ」
「そう?じゃあ決定にするわ」
樹はこのところ、美和の助言で高等部の実習室に潜り込んでいた。中等部の実習室には、深夜は奇妙な妖精を引き連れたいちごがいるし、早朝には樫野がいるからだ。
「ビターなチョコレートケーキとマスカルポーネのムースで層を作って、ティラミス風!ムースは甘めでお願いね」
「お願いしてんじゃないわよ」
時々、傍らにはアリスがいた。アリスの不可解な点はいろいろとあったが、その内の一つが助言や味見はしてくる割に、自分ではスイーツを作らないことだ。本当に生徒ではないのかもしれない。
「うーん、食感は良いと思う。ていうか、味はもういいかな?それよりこの見た目!地味じゃない?」
「そうかしら、じゃあ上に飾りを・・・」
時計は朝の四時を回っていたが、睡眠は細かくとっていたので、樹には問題ではなかった。すらすらとスケッチを描き上げ、残りの材料と相談していると、アリスがいきなり窓に駆け寄った。
「樹、誰か来るよ」
「えっ!?」
樹は慌てて用意をかき集めた。とてもすべて片付けて逃げることはできなさそうだ。今度こそ大目玉を食らう。
「私が隠しとくわ。樹は行った方が良い」
「分かった、任せるわ」
樹はノートと教本を持って窓から退出する。アリスが練習の跡を隠すのに、どのような手を用いるのか全く見当がつかなかったが、不思議と安心できた。
(中途半端に終わるのもあれだし、しょうがないから中等部へ行きましょう。誰もいないと良いけど)
樹は微かな期待を抱きながら、実習室の扉を開いたが、すぐに顔を引きつらせた。中にいた人物と目が合ったからだった。
「・・・何しに来たんだ」
そこにいたのは樫野だった。
「何しに来たって、練習に決まってるでしょう。あなたは遊びにきてるのかもしれないけど」
「よくいうぜ」
二人はにらみ合いながらしばらく意味のない応酬を続けた。ストッパーとなる人物がいないと悪意のぶつけ合いはエスカレートしていくもので、終盤、さすがに自分自身で空しくなってきたふたりは、どちらからともなく「不毛だ」と呟いて、練習に戻った。
樫野が毎日練習しているのはテンパリングと呼ばれるチョコレートの温度調整だ。二本のへらでチョコレートを操ることで、質を高めるのだ。彼には、今回のテストで特別に発想を練ったりする必要もなかった。いつも通りどこまでもチョコレートの質を上げるだけだ。
しばらく、樫野のへらの音と、樹のホイッパーの音だけが実習室に響いていた。
これはもしかして仲直りをしなければならない状況なのだろうかと樹は嫌なことを考えた。いちごとも、花房とも、安堂とも二人でしゃべってみれば案外普通だったのだが、樫野の場合同じようにはいかなさそうだった。だいいち、こちらが話したくないのだ。話すにしても、どちらかが毒を吐き、もう一方が吐き返すだけだ。「不毛だ」ということはどちらも分かっているが、仲良く話そうとすることの方が、さらに「不毛だ」ということも分かっていた。
「そもそもお前、なんでここにきたんだ」
樹がケーキをオーブンに入れたところでちょうど手を止めた樫野がそういった。樫野にしては、毒のない発言に、樹はちょっと戸惑った。
「パリで店を持ちたいとか、三ツ星ホテルで働きたいとかか」
「違うわよ。ずいぶん勝手なくくり方ね」
彼の挙げた例に噛み付くのは反射的なものだったが、言葉を続けるのに樹は躊躇した。このままでは自分の夢を告げることになるが、それはごく少数の人間にしか言っていないものだった。親などは特別だし、アリスも特別だ。まさかあの樫野が、特別の範疇に値するのだろうかと樹は考えた。
「・・・考えてないのかよ。俺にはショコラティエになりたいって夢があるけどな、親に反対されてる。お前はそうやって親に応援されてるくせにここに来た理由が何となくなのか?つくづく腹が立つな」
「結局あなたも身内の推薦が気に障ってるわけ?」
「手段としては別に文句はねえよ。ただ、その手段があったってことは、身内から応援されてるのは確実だろ」
何よそれ、と樹は吐き捨てる。自分の方が恵まれた環境なのに意思が足りないと言われたらしかった。「あんたはその推薦してくれたおばあちゃんが亡くなったことを知らないだろ」と叫んでしまいたかったが、不幸自慢ほどみっともないことはないと、樹はそれをプライドで押さえつけた。
「どうやら私には意思がないって馬鹿にしたいみたいだけど」
樹は口を開いた。
「私にだって夢はあるの。先生になりたいの。おばあちゃんみたいな。たくさんの人が自分で夢を紡げるように、私が手助けをするの」
樹の燃えるような瞳に、樫野は一瞬戸惑った。まさか彼女がそのような素直な言葉で自分の夢を語るとは思わなかったからだ。俺はあの悪意に満ちた瞳しか知らない。こいつ誰だ。
「・・・・無理だろ」
樫野は戸惑ったまま、そんな一言を口走った。調子が狂ったのだ。いつもの自分たちの調子に戻さないと、落ち着かない。
「お前みたいに、自分のことしか考えられない人間が、人を教える?そんなことできると思ってるのか」
樫野はいつも通りの切り返しを待った。しかし、沈黙が訪れた。不気味な静寂だった。つい口を挟む。
「———おい」
「そうね」
いつになく震えた声だった。樫野が思わず振り返ると、樹と目が合った。樫野は目を見開いた。
「少しでもまともに話してみようと思った私が馬鹿だったわ」
樹はケーキのことも忘れ、つかつかとドアへ向かった。ぴしゃりと閉められた扉の内側で、樫野はしばらく立ちすくんでいた。樹の顔が頭から離れなかった。
泣いていたのだ。
「天野さん、帰ってきなさい」
樹はいちごを小突いた。我に返ったいちごが目の前の惨状に悲鳴を上げる。すげえな、と樫野が呟いた。
「調理実習中にぼけーっと他のこと考えてるなんて、すっげえ根性」
「樫野、あまりいちごちゃんをいじめるなって」
「デコレーションは失敗したけど、ジェノワーズは上手に焼き上がってるよ」
樫野の嫌味に小さくなっていたいちごだが、両脇の二人からはずいぶん上達したとフォローされ、元気を取り戻す。
「ありがとう。花房君、安堂君!」
「甘いな」
しかし、樫野は鋭い切れ味で折角のフォローを無駄にする。
「このくらいで上達なんて、甘すぎる」
むっとしたいちごだが、樫野が提出用に切り分けたケーキの美しさに気づくと、すっかり見とれてしまった。
「そ、それって樫野が作ったの?」
「ああ」
「すごいよなあ」
「チョコレートのスイーツなら、樫野の右に出るものはいないよ。ね、樹ちゃん?」
「さあね、でもまあ、それは上手く出来てる方じゃない?チョコレートが関わっただけで目の色変えて取り組むからなんかむかつくけど」
「お褒めに預かり光栄だ」
「素直に褒めればいいのに・・・」
確かに樫野とチョコレートが手を組むと、樹でも文句のつけようがない代物が出来上がるのだが、それを素直にほめるほど樹は可愛らしい性格をしていなかった。
「うわあ、あたしも、いつかこんなチョコケーキ、作ってみたいなあ!」
樫野の厳しい物言いに日頃文句はあるものの、素直な可愛らしい性格をしている方のいちごは、無邪気に目を輝かせる。
「天野には百万年経っても無理だ」
「・・・きびしーっ!」
即座に樫野は一刀両断し、花房と安堂は気の利いた言葉が思い浮かばず苦笑した。
このところ、チョコレートを使用する実習が多く、クラスは樫野の一党独占状態だ。そして、最後の仕上げというように、一週間後には創作チョコレートケーキのテストが控えていた。ここで差を開かせたくない。樹は夜通し策を練っていた。
「いいんじゃない?これなら誰ともかぶらないよ」
「そう?じゃあ決定にするわ」
樹はこのところ、美和の助言で高等部の実習室に潜り込んでいた。中等部の実習室には、深夜は奇妙な妖精を引き連れたいちごがいるし、早朝には樫野がいるからだ。
「ビターなチョコレートケーキとマスカルポーネのムースで層を作って、ティラミス風!ムースは甘めでお願いね」
「お願いしてんじゃないわよ」
時々、傍らにはアリスがいた。アリスの不可解な点はいろいろとあったが、その内の一つが助言や味見はしてくる割に、自分ではスイーツを作らないことだ。本当に生徒ではないのかもしれない。
「うーん、食感は良いと思う。ていうか、味はもういいかな?それよりこの見た目!地味じゃない?」
「そうかしら、じゃあ上に飾りを・・・」
時計は朝の四時を回っていたが、睡眠は細かくとっていたので、樹には問題ではなかった。すらすらとスケッチを描き上げ、残りの材料と相談していると、アリスがいきなり窓に駆け寄った。
「樹、誰か来るよ」
「えっ!?」
樹は慌てて用意をかき集めた。とてもすべて片付けて逃げることはできなさそうだ。今度こそ大目玉を食らう。
「私が隠しとくわ。樹は行った方が良い」
「分かった、任せるわ」
樹はノートと教本を持って窓から退出する。アリスが練習の跡を隠すのに、どのような手を用いるのか全く見当がつかなかったが、不思議と安心できた。
(中途半端に終わるのもあれだし、しょうがないから中等部へ行きましょう。誰もいないと良いけど)
樹は微かな期待を抱きながら、実習室の扉を開いたが、すぐに顔を引きつらせた。中にいた人物と目が合ったからだった。
「・・・何しに来たんだ」
そこにいたのは樫野だった。
「何しに来たって、練習に決まってるでしょう。あなたは遊びにきてるのかもしれないけど」
「よくいうぜ」
二人はにらみ合いながらしばらく意味のない応酬を続けた。ストッパーとなる人物がいないと悪意のぶつけ合いはエスカレートしていくもので、終盤、さすがに自分自身で空しくなってきたふたりは、どちらからともなく「不毛だ」と呟いて、練習に戻った。
樫野が毎日練習しているのはテンパリングと呼ばれるチョコレートの温度調整だ。二本のへらでチョコレートを操ることで、質を高めるのだ。彼には、今回のテストで特別に発想を練ったりする必要もなかった。いつも通りどこまでもチョコレートの質を上げるだけだ。
しばらく、樫野のへらの音と、樹のホイッパーの音だけが実習室に響いていた。
これはもしかして仲直りをしなければならない状況なのだろうかと樹は嫌なことを考えた。いちごとも、花房とも、安堂とも二人でしゃべってみれば案外普通だったのだが、樫野の場合同じようにはいかなさそうだった。だいいち、こちらが話したくないのだ。話すにしても、どちらかが毒を吐き、もう一方が吐き返すだけだ。「不毛だ」ということはどちらも分かっているが、仲良く話そうとすることの方が、さらに「不毛だ」ということも分かっていた。
「そもそもお前、なんでここにきたんだ」
樹がケーキをオーブンに入れたところでちょうど手を止めた樫野がそういった。樫野にしては、毒のない発言に、樹はちょっと戸惑った。
「パリで店を持ちたいとか、三ツ星ホテルで働きたいとかか」
「違うわよ。ずいぶん勝手なくくり方ね」
彼の挙げた例に噛み付くのは反射的なものだったが、言葉を続けるのに樹は躊躇した。このままでは自分の夢を告げることになるが、それはごく少数の人間にしか言っていないものだった。親などは特別だし、アリスも特別だ。まさかあの樫野が、特別の範疇に値するのだろうかと樹は考えた。
「・・・考えてないのかよ。俺にはショコラティエになりたいって夢があるけどな、親に反対されてる。お前はそうやって親に応援されてるくせにここに来た理由が何となくなのか?つくづく腹が立つな」
「結局あなたも身内の推薦が気に障ってるわけ?」
「手段としては別に文句はねえよ。ただ、その手段があったってことは、身内から応援されてるのは確実だろ」
何よそれ、と樹は吐き捨てる。自分の方が恵まれた環境なのに意思が足りないと言われたらしかった。「あんたはその推薦してくれたおばあちゃんが亡くなったことを知らないだろ」と叫んでしまいたかったが、不幸自慢ほどみっともないことはないと、樹はそれをプライドで押さえつけた。
「どうやら私には意思がないって馬鹿にしたいみたいだけど」
樹は口を開いた。
「私にだって夢はあるの。先生になりたいの。おばあちゃんみたいな。たくさんの人が自分で夢を紡げるように、私が手助けをするの」
樹の燃えるような瞳に、樫野は一瞬戸惑った。まさか彼女がそのような素直な言葉で自分の夢を語るとは思わなかったからだ。俺はあの悪意に満ちた瞳しか知らない。こいつ誰だ。
「・・・・無理だろ」
樫野は戸惑ったまま、そんな一言を口走った。調子が狂ったのだ。いつもの自分たちの調子に戻さないと、落ち着かない。
「お前みたいに、自分のことしか考えられない人間が、人を教える?そんなことできると思ってるのか」
樫野はいつも通りの切り返しを待った。しかし、沈黙が訪れた。不気味な静寂だった。つい口を挟む。
「———おい」
「そうね」
いつになく震えた声だった。樫野が思わず振り返ると、樹と目が合った。樫野は目を見開いた。
「少しでもまともに話してみようと思った私が馬鹿だったわ」
樹はケーキのことも忘れ、つかつかとドアへ向かった。ぴしゃりと閉められた扉の内側で、樫野はしばらく立ちすくんでいた。樹の顔が頭から離れなかった。
泣いていたのだ。