短編
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「一体どうしたの。随分やつれているね」
放課後。綾部喜八郎はついに見かね」て声を掛けた。
穴掘りに繰り出そうとしていた矢先だが、面倒くさいと思いつつも見過ごせずに足を止める。同室の平滝夜叉丸が、本日幾度目かの盛大な溜息をついて、池のほとりに座り込んでいた。目元に薄っすらと隈をこさえ、見るからに顔色が悪い。
「ああ、喜八郎か…。実は、姉上のことでちょっとあってな…」
「滝夜叉丸先輩、お姉さんがいるんですか?」
滝夜叉丸が喜八郎にむかい話し出そうとしたその時、無邪気な声が横槍を入れた。どこからともなくひょっこりと現れた一年は組のしんべヱが、こんにちは、とにこにこ笑っている。その隣にはお決まりのように、乱太郎ときり丸もいる。
いつもの元気もなく、滝夜叉丸はハハ、と渇いた笑みを返した。乱太郎ときり丸も、話題に興味を持ったらしく素直に目を輝かせている。
「へぇ。知らなかったな!」
「滝夜叉丸先輩の姉君って、どんな方なんですか?」
「フン、姉上は…そうだな。それはそれは美しくてだな…」
「滝夜叉丸そっくりだよ」
喜八郎が滝夜叉丸に代わり簡潔に答えてやると、ええっと声を上げて三人は固まった。
「滝夜叉丸先輩に…」
「そっくり…」
滝夜叉丸先輩に…?と復唱しながら複雑な顔をするので、それぞれが一斉に失礼な想像をしたことだけは容易に見て取れた。
「本当に、綺麗な人だよ」
喜八郎は滝夜叉丸と姉君の名誉のために、素っ気なくではあるがそう付け加えた。やっと信じたようで、乱太郎たちは元の明るい表情を取り戻す。
「綾部先輩はお会いになったことがあるんすね」
「うん。以前に、一度ね」
喜八郎は手元の鋤に視線を落とし、記憶を手繰り寄せる。
「滝ちゃんを、よろしくお願いしますね」
そう言って微笑んだ、花のことを思い出す。
髪の色やサラサラとした毛の質感、目鼻立ち、全体的な顔の造詣も、滝夜叉丸とよく似ていた。肌の色だけが滝夜叉丸よりもずっと白く、また女性らしい、柔らかな雰囲気を纏っていた。
当時二年生だった喜八郎は、同室である滝夜叉丸の姉に、ほのかな、本当にほのかな憧れを抱いた。六つ歳上だという花は美しく、そばに寄るとふわりと良い香りがした。季節が春だったこと、その時ちょうど満開の桜が咲き誇っていたこともあって、喜八郎の中で、花は桜のイメージである。二年経った今でも、桜を見ると喜八郎は人知れず花を思い出す。
そしてもう一つ。喜八郎の印象に強く残っているのは、姉を慕う滝夜叉丸の姿だった。花も年の離れた弟が可愛くて仕方がないといった様子であったが、それ以上に、滝夜叉丸の花への執着は深かった。姉上、と呼ぶ時の滝夜叉丸のあの目。あの声。花の前で見せるあの表情。
これはひょっとしたら。喜八郎でさえ、そんなふうに思った。
滝夜叉丸からは今も時折、花の話を聞くことがある。喜八郎はもちろん聞くだけで、いらぬ詮索はしない。
「ねえ。そういえば花さんのことで、何かあったの」
夜、部屋で二人きりになった時に昼間の話題を持ちかけると、机に向かっていた滝夜叉丸は振り返り、ああ、と言って困ったような笑みを浮かべた。
「姉上、また縁談が拗れてな」
おやまあ、と喜八郎は小さく控え目に相槌を打つ。
花の縁談が拗れるという話は、これでもう幾度目だろうか。喜八郎が耳にしただけでも片手の指には収まらないはずだ。
滝夜叉丸は手にした戦輪を目の上の高さに持ち上げて、光に当てて状態を見ている。手入れを続けなら、はぁ、と乾いた吐息を漏らす。
「弟として、姉上には早いところきちんとした身持ちの良い男を見つけて嫁いでもらいたい。姉上には心から幸せになってもらいたいのだ」
「滝ちゃんそれ、本気で言ってる?」
ほんの、出来心だろうか。
興味本位と呼ぶほど悪意も戯れもなく、喜八郎は普段通り飄々とした様子で尋ねた。少しの間があり、ゆっくりと手を止めた滝夜叉丸が、顔だけで喜八郎を振り返った。
「…そうだな。嘘だな」
喜八郎には見破られているのだから、隠しても仕方あるまい。開き直って薄く笑う滝夜叉丸の瞳は、暗い光を湛えていた。
喜八郎は、薄闇に淡く浮かび上がる滝夜叉丸の横顔を見る。
「姉上を娶ろうとする男など、どこのどいつであろうと私が許さん。即刻葬ってやる」
何の感情も篭らないような、静かな声で滝夜叉丸が言った。淀みなく戦輪を磨く伸びた背筋が、静かな冷気を纏う。
そこで会話は途切れ、喜八郎は敷いていた布団にそろそろと身を横たえた。沢山の穴を掘った体にほどよい疲れを感じ、今にも眠りに落ちそうだというときに、またふと、喜八郎の中にあることが浮かんだ。
「…だから花さん、なかなかお嫁にいけないんだね」
あんなに美人で気立も良いのに。
独り言のように小さな声で、しかし滝夜叉丸の背に向けて呟いて、今度こそ喜八郎は目を瞑る。
滝夜叉丸は何も返してこない。冷たい金属を磨く微かな音、蝋燭に灯った淡い明かり。
喜八郎の閉じた瞼裏に、後光がさすように輪郭のぼやけた花の姿が浮かんでは消えた。
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