hello solitary hand・番外編
名前設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「太宰…、お前、今何て云った……」
呆然と眼を見開き、今にも止まってしまいそうな呼吸の合間にやっとそう問うた同僚に、太宰は先刻と変わらず平坦な声で繰り返した。
「犯人は菫の救出手段を悉く潰し尽くしている。そして、提示されたルールを爆破予定時刻迄の数時間で覆すのも不可能だ。だから、
―――菫の救出は
「っ……!!」
変わらぬ返答を口にした太宰に国木田が掴み掛かった。眼鏡の奥で歪んだ双眸は、明確な怒りと困惑に塗り潰されている。
「巫山戯るなよ!!彼奴は…っ、菫は貴様の一番大事な人間じゃなかったのか!!それを、よくも平気で見捨てるなどと―――」
「私が菫を“見捨てる”と何時云った」
胸倉を掴む国木田の手を掴み返した太宰が、地を抉る様な低い声でそう云った。本能的に息を飲む国木田と殺気を隠そうともしない太宰に、僕はうんざりと溜息を吐いた。
「お前らいい加減にしろ。時間がないんだ。国木田、お前は人の話を最後迄聞け。あと太宰、焦るのは勝手だが話を省略し過ぎだ。考えがあるなら順を追って説明しろ」
「……すみません…」
眼を伏せた儘、太宰は微かに眉を寄せてそう呟いた。そして国木田の手を外すと、皺の寄った襟元を正しながら漸く真面な説明を始めた。
「基本的には先刻乱歩さんが提案した通りです。菫に異能で防御させた上で、地上の爆弾を
「なっ!?」
驚嘆の声を声を上げる国木田に、太宰は眉一つ動かさず淡々と説明を続けた。
「探偵社とポートマフィアの異能力者なら不可能じゃない筈だ。足りない戦力は異能特務課から掻き集める。そして爆弾の脅威を全て一掃した後、菫には自力で棺桶から脱出して貰う」
「待て!幾ら何でもそれは強引過ぎるだろ!?第一、どうやって菫に伝える!?彼奴は今海の底で監禁状態なのだぞ!?連絡を取る方法など」
「一つだけあるよ。…ですよね、乱歩さん」
国木田の言葉を遮った太宰は、卓上の隅に避けられていた脅迫状の写しを僕に突きつける。その文面を一瞥して、僕は氷でできた様な鳶色に答えを返した。
「嗚呼、あるな。一つだけ」
「っ!?本当ですか乱歩さん!?」
「谷崎は犯人からの襲撃を受けてすぐ探偵社に救援を求めた。そして太宰達が駆けつけた時、既に菫は連れ去られた後だった。その短時間で彼奴を例の棺桶に監禁し海に沈めた事と、犯人の逃走時間を考えれば、直接爆弾の話を聞かせる暇なんて無かった筈だ」
「では菫は、海に沈められてから爆発の事を知らされたと……?」
「嗚呼。そして犯人の目的は探偵社への復讐だ。なら人質を精神的に追い詰める為に、棺桶の内部から五感に作用する要素を可能な限り削り落としているだろう。そんな閉鎖空間に居る彼奴に、自分の置かれた状況を理解させる方法。それは、
棺桶の中に
「―――っ!」
僕の言葉に国木田が眼を見開く。其処には確かに希望の光が宿っていた。まるでそれが漏れ出したかのように、国木田が安堵と歓喜の入り混じった様な声を上げる。
「では…っ!その電子端末を使えば、此方から菫に連絡を取れると云う事ですか!」
「嗚呼。少なくとも、こっちの指示を伝える事は出来る。ただし、花袋に直接ハッキングさせるのは無理だぞ」
発言する前から提案を却下されて、国木田は喉元に息を詰まらせて固まる。そんな国木田に、僕の言葉を引き継ぐ様にして太宰が続けた。
「その電子端末の役目は、指定の時間に一定の間点灯していれば果たされる。外界へのリンクは切られてるだろうし、当然菫からも操作出来ない様ロックされてる筈だ。視界内にある電子機器にしか作用しない花袋君の異能では、直接操作する事は出来ない。菫にメッセージを届けるには、棺桶に組み込まれた電子端末を
「“特定”…?おい、ちょっと待て!お前正気か!?棺桶に組み込まれている電子端末がどんな
「それでもやるしかない。出来なければ、菫が死ぬ」
「っ…!しかし、そんな事…一体どうやって……」
突きつけられた条件に国木田は険しい顔で声を漏らす。だがそれに対し、太宰は僅かに口の端を吊り上げた。
「おや、忘れたのかい国木田君。抑々私達の仕事は“探偵”だ。そして此処には、異能力者すら超える超越者。世界最高にして最強の
―――“名探偵”が居る」
黒い蓬髪の合間から向けられた鳶色の双眸が、射止める様に僕を見る。期待ではなく、確信の宿ったその光を見返しながら、僕は静かに口を開いた。
「太宰。お前の云う通りだ。僕は世界一の名探偵で、そして僕は―――異能力者じゃない」
そう。僕の推理力は何処迄突き詰めてもただの“推理力”だ。そして推理にはどうしたって情報が要る。無から有を生み出す異能力者の様に、僕は何も無い所から真実を導き出す事は出来ない。
「必要な情報を揃えて、電子端末を特定し、花袋に掌握させる。それ自体は不可能じゃない。だけど、それ迄棺桶内の酸素残量が保つかどうかは賭けになるぞ。仮に指示が出せても、もし彼奴が酸欠による意識障害を起こしていたら―――」
「大丈夫ですよ」
僕の言葉を遮って、太宰はそう云い切った。
しかしそれは、先刻迄の氷の様な声音とは違っていた。どこか柔く暖かい、温度の滲んだ声だった。
「菫は一度信じたものを疑わない。だからきっと、私達が助けに来るのを待っています。
彼女は私達を―――武装探偵社を、そう云う人間の集まりだと認識していますから」
そう云って、“その資格失し”と己が異能に銘打たれた男は、―――何処迄も人間らしく微笑んだ。
****
時計の秒針だけが音を刻む室内に、ぽりぽりと軽快な咀嚼音が入り混じる。用済みになった資料の山を卓上から床に払い落とし、其処へ何時もの様に駄菓子を並べた僕は、くるりと椅子を回して窓の外に眼を向けた。冷たく静かな濃紺の闇は、まるで光の届かない海底の様だ。脅迫状が告げた爆破予定時刻迄残り僅か。もし失敗すれば、この静かな夜が瞬く間に業火の地獄へ様変わりするだろう。
「キュー」
「心配いらないさ。全部巧くいく」
そう云って僕は、膝の上で声を上げる小さな客人を撫でてやる。
犯人の動きを全て推理し、何時、何処で、どの様に件の電子端末を手に入れたのか。全て読み切る頃には夜も更け、社内の印刷機と事務員は薄く煙を上げていた。それでも
―――膨大な情報の砂漠から、得るべき一粒を僕は探し当てた。
「大分古い型だった所為で、制御ログのサルベージとデータの復元に時間が掛かったみたいだけど、無事花袋は電子端末のリンクを繋ぎ直した。後は、菫に
自分の携帯を目の前で翳してやると、小さく短い手がそれを受け取り、少し臭いを嗅いで離した。その中にはつい先刻太宰に送ってやった“ある文章”が入っている。
「世界一の名探偵は云うまでもなく僕だけど。それでも矢っ張り、君のご主人様は侮れない優秀な探偵だよ」
****
「菫の件はその方法でいくとして、爆弾の方は具体的にはどうするのだ?」
「それは今から考える」
「はぁ!?」
「如何に乱歩さんの力をもってしても、推理に必要な情報を全て揃えるには数時間掛かる。それだけあれば十分だよ」
「太宰。判ってると思うが、ポートマフィアや特務課を動かす以上、爆弾処理にはある程度の確実性が必要になるぞ」
「ええ。ヨコハマの危機とは云え、この件は彼らにとって完全に海岸の火事です。寧ろ、自分達に燃え移る前に菫を消そうとする可能性も十分に考えられる。先だっての問題は爆弾破壊時の猶予、一秒の壁ですが……」
「あ、あの〜……」
その時、何とも頼りない声と共に、白く大きな手が遠慮がちに上がった。
「それなら、我輩の
「ポオ君…」
名乗りを上げた友人に僕は不覚にも驚きの声を上げた。
「え、君まだ居たの?」
「酷い!!乱歩君が『其処で待ってて』と云うから、我輩ずっとソファーに座って待っていたのであるぞ!?」
「あー、申し訳無い。何分影が薄…ゴホン!緊急事態の為、声を掛けるのが遅くなった」
「いいである…、所詮我輩は、居るのも忘れられる程影の薄い存在……。おおカール…、矢張り我輩の味方はお前だけ、あ痛っ」
「それより、貴方の
「あ、否…。先刻から聞いていると、爆弾の破壊に時間が足りず困っている様であるから…
我輩の異能を使えば、菫君の生体信号を断って時間を稼げるかと……」
「「「っ!!」」」
誰一人例外なく一斉に息を飲んだ僕達に、ポオ君はビクリと肩を震わせながらも続きを話した。
「は、犯人が菫君の何を計測して爆弾の仕掛けに利用しているかは判らぬが、脈拍にしろ呼吸にしろ体温にしろ、本人がその場から消えてしまえば生体信号的には“死亡”と変わらぬ。ならば我輩の異能で彼女を一時的に小説世界に避難させ、停止した爆弾を安全に破壊出来るである。作中にメッセージを組み込んでおけば、小説世界から脱出した後菫君も心置きなくその棺桶から出られるであるし、拘束の類があったとしても小説世界に入った時点で解ける故、衰弱した彼女に異能を乱発させずに済む」
「「「……………」」」
「あ、あの…、どうで…あるか?」
概要を説明しきったポオ君は、無言の僕達に恐る恐る問うた。すると無言の太宰と国木田が、無言の儘彼の肩を左右から掴む。
「素晴らしい!それならいける!完璧です!!」
「正しく地獄に舞い降りた蜘蛛の糸だ!流石は乱歩さんのお客人!!」
「え、えへへ…、乱歩君の
「いやぁでも気付きませんでした!菫の動向は逐一チェックしていた心算でしたが、一体何時の間に彼女から許容を?」
「……あ」
「「……あ?」」
湧き上がった空気が瞬間冷却された様に固まった。得意気に胸を張りほんのり頬が蒸気していたポオ君の顔が、みるみる内に真っ青になっていく。
「しまったーーー!そう云えば我輩、菫君にまだ許容されていなかったである!!」
「ちょっと!此処迄期待させておいてそれはないでしょ!?」
「だだだだって、幾ら接し易いとは云え菫君は立派なご婦人!しかも恋人持ちであるぞ!?そんなおいそれと触れられる訳ないである!!」
「くっ!社を訪れた何処かのタイミングで、この御仁に太宰の爪の垢を煎じて飲ませておけば!!」
「それどう云う意味かな国木田君!?」
「落ち着け三人共」
上げて落とされた所為で、蓄積していた鬱憤を爆発させた二人に詰め寄られるポオ君。そんな馬鹿騒ぎを一言で黙らせて、僕は揃って阿呆面を向ける三人に云い放った。
「問題ないよ。その案でいこう」
「しかし乱歩さん…っ、彼の異能は菫には」
「ねぇポオ君。君が僕を倒す為に六年掛けて書き上げた
「う、うむ。だから、我輩の異能では菫君を取り込む事は」
「
「へ…?」
「“弾き出された”って事は、一度彼奴は小説世界に“取り込まれてる”って事だ。つまり、ポオ君の異能を菫の異能が弾く迄の間、彼奴は一時的に
「「「っ―――!」」」
「あの時、菫が取り込まれてから弾き出される一部始終を目撃していたのは君だけだ。だから教えて欲しい。
―――菫は、一体何秒消えていた?」
自分の口角がニヤリと吊り上がったのが判った。そんな僕の問いに、頼もしい友人は歓喜に震えながらも同じ表情で答える―――
****
友人の助手を頭に乗せ、僕は空いた両手で夜空を映す窓を開く。室内に吹き込んできた風が僕の髪を煽り、床に散らばった紙片を舞い上げる。そして僕はひやりと冷たい空気を思いっきり吸い込んで、
シンと静まり返った街に高らかに云い放った。
「さぁ、此処からは君達の仕事だ!
たった五秒で、―――全部ひっくり返せ!!」
****
「異能力、月下獣!」
人払いを済ませた医療施設の一角で、鋭い爪が鉄塊を引き裂いた。
「此方敦!病院に仕掛けられた爆弾を破壊しました!」
****
「異能力、夜叉白雪」
人々が固唾を飲んで見守るオフィス内で、鋭い銀色が軌道を描いた。
「此方鏡花。市庁舎の爆弾は処分した」
****
「よいっしょぉー!」
けたたましい破砕音と共に、マスコットキャラクターのオブシェが地面に叩きつけられた。
「もう大丈夫ですよ皆さん!引き続き、遊園地を楽しんで下さい!」
****
「羅生門・顎!」
照明の落とされた館内で、溶暗に沈む絵画に並んだ黒獣が牙を噛み鳴らした。
「こんな処に迄爆弾を仕掛けるとは、芸術を介さぬ愚者め…」
「お疲れ様です芥川先輩!宜しければ、此の儘私と夜の美術館巡りなど」
「せぬ」
****
「金色夜叉」
眩い街灯が煌びやかに輝く繁華街の裏で、無尽蔵の斬撃を繰り出した刃が重い暗闇に溶けた。
「脆いのう。この程度でこの街を焼き滅ぼそうなど、片腹痛いわ」
****
「つまらんな」
高級品で統一された豪勢な社屋で、黒い革靴が絨毯に飛散した金属パーツを踏み砕いた。
「俺を落としたければ、もう少し骨のある奴を寄越す事だ。そうだろう、
****
照明に照らされた赤レンガ倉庫の前を携帯片手に通り過ぎた和装の武人は、見る影もなく切り刻まれた鉄の残骸を一瞥して電話の声に応えた。
「嗚呼。もしまた我々に勝負を挑むと云うのなら、何時でも相手になってやる」
『それは楽しみだ。だが其れは其れとして、爆弾の事を教えて貰った借りは返そう。何か望みのものはあるか?』
「………」
『フッ。矢張り敵からの施しは受けんか…』
「……否、望むものならある」
『ほう、それは意外な返答だ!何だ、云ってみろ?君の様な男が、敵であるこの俺に一体何を望む?』
完全に興味本位剥き出しの質問に、刀剣の様な眼差しを携えた武人は静かに答えた。
「何か、見舞いの品を…」
『見舞い?誰のだ?』
ドォォオオン!!
その時、ヨコハマの海に架かる橋を突き抜け、巨大な水柱が蒼白の月夜を穿った。
****
雲一つない夜空から降り注ぐ塩分過多の雨が、まるで礫のように私とその手に握られた携帯電話に降り注ぐ。作戦開始時刻から既に十秒。ヨコハマの街には小火の一つすらも上がっていない。作戦の成功を確信した私は小さく息を吐いて、眼下で波打つ黒に微笑んだ。
「独りにしてごめんね、菫。でも、もう大丈夫。
―――今、そっちにいくから」
海面迄五十
「!」
その時、無限の黒の中に一瞬赤い花が揺れた。其処に向かって私は水を掻く。遠く深い水底に手を伸ばしながら、先刻見えたその影を探す。
白く、柔く、冷たい。けれど手離す事など出来ない
―――あの優しい手を。
「……っ…!」
そして漸く、私は彼女を見つけた。
赤い花が咲き乱れ力なく暗闇に揺れる白い手は、それでも何かを求める様に上へと伸ばされていた。私はあらん限り手を伸ばして、探し求めたその手を握る。すると途端に彼女を覆っていた赤い花は霧散し、薄く開いた口が苦しそうに大きく気泡を吐いた。私は急いで彼女を自分の許迄引き寄せ、その小さな身体をしっかりと抱えて今度は上へ上へと来た道を戻っていく。まるで夜空を液体にした様な海中は徐々にその色を白ませ、そして遂に
―――海面の向こうに、ぐにゃりと歪んだ蒼白の光が見えた。
「ぷはぁっ!はぁ、は…っ。菫!菫大丈夫!?」
「…っ!げほっ、げほ!」
海面に顔を上げた瞬間、菫は苦しそうに咽せ返り息を詰まらせた。その背中を擦ってやりながら落ち着くのを待つと、軈て拙い呼吸をやっと繰り返しながら、菫がフラフラと顔を上げた。
「は…はぁ…、太…宰?」
「うん、私だよ。君の大好きな太宰治だ」
「私…まだ、生きてんの…?」
力無く私の首元に額を預けた菫は、消えいってしまいそうな声でそう漏らした。私はそんな彼女の頭をそっと撫で、耳に張り付いた髪を避けると、出来るだけ優しく言葉を送った。
「当たり前だよ。約束したじゃないか。
私が死ぬ迄傍に居てくれるって。だから菫、
―――“君は未だ死んだら駄目だろう”」
その言葉に小さく息を飲んだ菫が、「そうだな」と微笑み混じりに私の手を握り返してくれた。それに答えるように額へ口付けてやると、菫は安堵したのかその儘私に重心を預ける。それっきり完全に力が抜けてしまった彼女を抱え直すと、情緒ゼロの無粋な声が感動の再会に文字通り水を差した。
「おい。何時まで海ん中プカプカやってんだ。さっさと菫陸に上げろ。んで手前はもっかい沈め永遠に」
「ちょっと、折角の感動的な再会を耳障りな横やりで台無しにしないでくれる?」
「巫山戯んな糞鯖!つうか手前、こうなるって判ってて俺を此処に配置しやがっただろ!?」
喧しく吠え立てるポートマフィア最小幹部は、頭の天辺に被った帽子から爪先迄びしょびしょの濡れ鼠だ。それもその筈。彼が破壊を任された爆弾はこの橋の橋脚に取り付けられていたものであり、先刻の水柱が上がったその瞬間、丁度その発生源に最も近い場所に居たのだから。無論全て私の計算通りではあるが、此処に彼を配置した理由はもう一つあった。
「所でよぉ…、俺は一体何時まで此奴を支えてりゃいいんだ?」
米神に青筋を浮かべ引き攣った笑みを浮かべるチビの手は、真横にある橋脚の壁にぴったりと張り付いている。その壁面は見るも無残な亀裂が幾つも刻まれ、それを押さえ付けるように赤い重力波が橋脚全体を覆い尽くしていた。菫が自力で脱出した事で諸共に爆発した棺桶型爆弾の爪痕だ。重力操作の補助を失えばあっという間に橋脚は崩れ、この橋は真っ二つに崩れ落ちる事になるだろう。それを見越した上で、私はにこやかな微笑みを貼り付け肩を竦め答える。
「却説何時迄だろうねぇ?特務課にこの手の修繕を得意とする異能力者を派遣するよう話はしてあるんだけど、何分忙しくって時間を伝え間違えたかもしれない。まぁ、あと一、二時間もすれば、違和感に気付いた安吾が此処に向かわせてくれるんじゃないかな?」
「手前えぇ!!」
「うふふ。私は別に善いのだよ?確かにこの橋が落ちればヨコハマの流通は大打撃を被る事になるけど、直接私達に弊害が出る訳じゃないしねぇ?嗚呼でも!日々イケない取引に精を出すどこぞの非合法組織には死活問題かもしれないなぁ~~?」
「此奴死なす…。何時かゼッテェ死なす…っ」
「おや、まさか気にくわないのかい?曲がりなりにも彼女を救う手助けをしてくれた返礼にと、この私が断腸の思いで君なんかの為に心を割いてあげたのに。わー、何て恩知らずな蛞蝓なんだろう死ねばいいのに」
「否どの角度からどう考えても、嫌がらせ以外の何ものでもねぇだろが」
「ふぅん。まぁ、君がそう思うなら別にいいけど?…所で中也。今何時?」
「は?んだよ今度は」
「いいから。何時?」
眼を血走らせ、今にも噛みつかんばかりの形相で歯軋りしていた元相棒は、怪訝な顔で携帯の画面を灯した。
「午前零時三分…」
「そう」
「……だから何なんだよ一体」
「別に?ただ、もう間もなく探偵社の救援が来る。それまでは、菫と此処でプカプカ浮かんでてあげるから感謝しなよ」
「………」
私の返答に中也は余計険しい顔をして首を傾げた。そして再び携帯の画面に眼を落とすと考え込むように口を閉ざす。それを横目に、私は腕の中の菫を抱え直して頬を擦り寄せた。本当はすぐにでも言葉や行動に変えたい衝動をただ其れだけに留めて、何時かの様に私は菫と鎮まった小夜凪を漂う。
四年前のあの時と同じ場所、同じ顔触れ。
けれど今の私達は、あの時とは何もかも違っていた。
何もかもが変わっていた。その変化が、柄にもなく幸福な事の様に思えた。
「太宰さーん!菫さーん!」
そんな思い出に浸って居ると、不意に遠くからモーター音と自分達を呼ぶ声がした。宵闇の海面を小型の高速艇が此方に向かって駆けて来るのが見えた。声の主は谷崎君。よく見ると与謝野先生も同乗していた。
「却説、どうやら迎えが来た様だ。最後に何か云っておきたい事はあるかい、中也?」
最後の温情として、もう一度その忌々しい黒を振り返って確認してやると、彼は僅かに間を開けて「いいや」と答えた。
「俺には、もう十分だ」
その表情を見て私は確信した。私が断腸の思いで用意してやったこの数分間。其処に込められた意味に彼が思い至ったであろう事を。それと同時に、自分の口角が自然と吊り上がるのが判った。
嗚呼。予想はしていたけれど、矢張りこの男は嫌いだ。
誰かの為になら幾らでも横暴を働く癖に、自分の事となると必要以上に理性的になる。
何処迄も強く、何処迄もぶれず、何処迄も人間臭い。
私の大嫌いな元相棒。
「ねぇ中也。今の君の顔、スッッッ……ゴイ気持ち悪い」
「んだとコラァ!!」
自分の腕の中に眠る彼女に向けられた、柄にもない柔らかな微笑み。それが一瞬で何時もの吠え面に変わる様を見て、今度こそ私は心から満足げな笑みを浮かべた。
****
「っっはぁ~~~!!ま…間に合ったぁ~~~……!」
作戦成功の知らせを告げると、今回の功労者である旧友はまるで空気の抜けた風船の様にへたり込んだ。その様に苦笑して、俺もその場にどかりと座り込む。
「世話を掛けたな花袋。だが、よくやってくれた」
「は…はは…。なんのなんの。悪事を見過ごせぬのは儂とて同じ事。況して菫殿の命が懸かっているとなれば尚更じゃぁ…」
「はぁ…。正直、お前が頭を掻き毟りながら奇声を上げた時は、本当にもう駄目かと思ったが…。しかし、あのファイルは結局なんだったのだ?」
「ん?…嗚呼、それが儂にも判らん。確かにあのファイルのお陰で救われたのは事実じゃが、抑々あれは本来あり得ぬ筈の外部干渉じゃった…。真っ当に考えれば、誰かにハッキングされたと考えるべきじゃろうな…」
「ハッキング!?お前がか!?」
「うむ。何処の誰かは知らぬが、相当の手練れじゃ。其奴は儂等が血眼になって探していたものを、先んじて探し出し伝えた。…否、もしかすると。
「だが、一体誰がそんな事を…」
冷たい電子光を反射する丸眼鏡を追って、俺は布団の枕元に開かれたパソコンに眼を落とす。其処に映し出された眼が眩むような記号の羅列が薄暗い部屋と相まって、何か得体のしれない怪物の視線の様な不気味さを滲ませていた。
****
『助けてくれ!なぁ頼む、頼むぁあ゛っ―――』
バンッ、バンッバンッ!
鳴り響く銃声を聞き届けて、ぼくは通話を切った。すると、それを横で見ていた同僚が不思議そうに首を傾げる。
「あれ、最後まで聞かなくていいのドス君?」
「ええ、予定通り刺客は彼を捕捉しました。後は銃声と耳汚しの悲鳴が延々続くだけでしょうから」
「そっかそっか!じゃあ突然ですがそんなドス君にクイズです!ドス君は今何を考えているでしょ~か!?」
「それはクイズになるんですか?」
「ブッブー!時間切れー!残念だったねドス君。却説、正解はぁドゥルルル~♪ジャン!―――“あんな奴の断末魔より福音ちゃんの声が聞きたい”」
「…………」
「ね?ね?中りだろう?」
「……。……ええ」
「ふふふ。ドス君って普段何考えてるか全然判んないけど、福音ちゃん絡みの事となると少し判り易くなってきたよねー?」
「そうですか。ではそんな貴方に一つ忠告を」
「え?ナニナニ?もしかしてドス君怒っちゃった?あちゃーゴメンヨー。今度からは勝手にドス君の考えてる事中てたりしないから」
「いえ。そうではなく」
言葉を切ったぼくはすぐ隣で百面相をする道化師を見据え、そして再び口を開いた。
「彼女を殺すお心算なら、その前にぼくが貴方を殺します」
絶え間なく切り替わっていた表情がピタリと動きを止める。しかし数秒の後、仮面に覆われていない左目がゆっくりと弧を描いた。
「まるで王子様みたいだねドス君。そんなに彼女が大事かい?」
「ええ。菫さんは僕の福音です。故に、何人も彼女の命を奪う事は許さない。
―――彼女は、ぼくがこの手で
互いに互いを見据えた儘、再び沈黙が流れた。しかしそれは、突然大袈裟に伸びをした道化師の必要以上に明るい声に破られる。
「ん~~~!仕方ない。じゃあ福音ちゃんには余計なちょっかいを掛けない様にするよ!何せドス君は私の唯一無二の親友だからね!」
「そうして頂けると助かります。ぼくとしても、貴方を殺してしまうのは本意ではありませんから」
「あ、でもさドス君。そんなに福音ちゃんが好きなら、どうして彼奴を探偵社にけし掛けたりしたんだい?しかも態々彼女の同僚を人質に取るように誘導したり、爆破予定時刻迄指定しちゃったりしてさ?」
「嗚呼。それは、今日が彼女の誕生日だからですよ」
「え?」
すると彼は珍しく素でキョトンと首を傾げた。ぼくはそんな彼から視線を移し、眼前を覆い尽くす電子画面に映るヨコハマの夜景を眺めながら注釈を加えた。
あの男は元々、探偵社を殲滅する手段の一つとして仕込んでいた犯罪者。自尊心が高く思い込みが激しい性格から、思考を誘導するだけで簡単に操れると今回の実行犯に選んだが、結果的にその性格が計画に綻びを生む要因となった。二年前の《蒼の使徒》事件で取り沙汰された探偵社の狂言誘拐疑惑。それを鵜呑みにしたあの男が、彼女を仇と思い込んでいるのは知っていた。だからぼくは、“敢えて守るべき街と仲間を失う絶望を生きながらに味合わせる事が究極の復讐である”と説き、彼女を人質の候補から外させていた。だが偶然にも誘い出す予定だった社員の顔触れが直前で変わり、実際に彼女を前にしたあの男はぼくの指示を逸脱して暴走したのだ。
「全く、指示待ち人間も困りますが、独走する駒はそれ以下ですね。お陰で折角の誕生日祝いが台無しです。赤々と燃え上がるヨコハマを、是非彼女に見せて差し上げたかったのですが…」
「……えっと、ドス君?」
「はい?」
「……それ、本気?」
「? ええ、勿論」
「参考迄に聞くけど、どうしてそう云う考えに至ったのかな?」
「“どうして”と云われましても…。単に“一生彼女の記憶から消えない贈り物”を考えた結果です」
「あーうん。そっかぁ~。そっ…かぁ…」
「何か?」
「ううん、何でもない!寧ろ、その自由な発想はとっても素敵だ!流石ドス君!まぁでもねぇ?
……取り敢えずプレゼント送るなら、今度からお花とかにしといた方がいいと思うよ」
そう云って僕の肩を叩いた同僚は何時もの様に満面の笑みを浮かべていたが、その眼の奥には何処か途方もないものを見る様な何とも云えない光が宿っていた。
****
見慣れた天井だった。白いカーテンに四方を囲まれた薄暗い天井。けれどその見慣れた光景は、更に見慣れた光景に上塗りされた。
「やぁ、漸くお目覚めかい白雪姫?」
「………仰げば尊死」
「えっと、それ何時もの流していいヤツ?」
「嗚呼、ただの感嘆符だと思ってくれ」
起床一番に何とも美しいご尊顔を拝する事が出来た私は、その幸福を噛み締めながら身体を起こした。見回してみると、矢張り此処は武装探偵社の医務室のベッドで、丸椅子に腰掛けて私を覗き込んでいたのは紛れもなく太宰だった。つまり―――
「何とかなったんだな」
「うん。序盤は大分綱渡りだったけどね」
「終わりよければ全てよしさ。それより私、脱出の時に結構ガッツリ異能使っちゃったんだけど、今何日目?」
「丸一日眠りコケて今は二日目の昼時だよ。取り敢えず、はいコレ。与謝野先生が点滴を打ってくれてたけど、流石に喉乾いたでしょう?」
「おう有難う。めっちゃ助かるわ」
そう云って太宰から水を受け取り喉に流し込むと、漸く思考が真面に回り出した。ヨコハマ全体を巻き込んだ爆弾騒ぎは無事解決。そしてどうやら私も死なずに翌日を迎えられたらしい。と云うか、翌日すっ飛ばして翌々日になってしまっているが…。
「…………」
殆ど詰みと云っても過言じゃないあの状況を考えれば、助かっただけで儲け物だと喜ぶべきなのだろう。命あっての物種。昨日と同じ日はまた一年時が巡れば訪れる。抑々、既に嘗てない程楽に呼吸が出来る様になった今となっては、“その日”の価値など精々飲めや歌えやの無礼講が多少許される程度のものだ。
それでも。我ながら驚く程に、そのすっ飛ばされてしまった一日にモヤモヤしている自分が居て。余りにも贅沢だと判って居ても、命を拾った安堵と歓喜が喉元に痞えて満足に飲み下せなかった。
「菫」
その時不意に、優しい声が私を呼んだ。顔を上げると其処には矢張り太宰が居て、ニコニコと微笑みながら彼はベッドを囲っていたカーテンを開けた。
「っ―――!」
カーテンの向こうに在った光景に私は眼を見張った。其処に在ったのは医務室に設えられたもう一つのベッド。そしてその上を所狭しと占領していたのは、色取り取りのリボンが掛けられた包みや箱。極めつけに芸能人に贈られる様な豪勢な花環迄聳え立って居た。
「なんっじゃこりゃー!?」
「うふふ。ナイスリアクション菫!因みにこれは君へのお見舞いの品々だよ」
「は?嘘だろ!?どうしてこうなった!?」
「実は爆弾の設置場所の中に新生
「絵に描いた様なお歳暮オールスターズ!」
「ただ、他にも被害に遭った処からお礼の品がどんどん集まってきちゃってね。仕分けも面倒だから、もう全部菫のお見舞いって事で此処に纏めちゃおうって話になって」
「否、諦めんなよ!大体こんなん持って帰れる訳ねぇだろうが!」
「菫がそう思うなら好きにすると善いよ。でも君個人に宛てられた贈り物は、どうか大事にしてあげてくれるかい?」
太宰のその言葉に私は小さく息を飲み、改めて贈り物の山に眼を落とした。その中には可愛らしい猫のぬいぐるみや、見覚えのある文字が表題を飾るノートや、女子力の高いアクセサリーや、少し土の着いた瑞々しい野菜や、飲みたいと漏らしていた銘柄の酒瓶の数々や、駄菓子の包みの山がちらほらと顔を出していた。その送り主が誰かなんて、一目見ただけで簡単に判ってしまった。
「うん。そうだな…。そうする」
私の返事に太宰はふわりと微笑んだ。そんな美しい笑顔に微笑み返して、私は再び贈り物の山を眼で追う。するとその中に随分と質素なデザインの薄い書帙を見つけて、私は思わずそれを手に取った。
「嗚呼、それは乱歩さんのご友人が書いた
「乱歩さんのご友人って…、ポオ氏が?」
「うん。君を一時的に小説世界に避難させる為に、僅か六時間と云う急ピッチで書き上げてくれたものだよ。折角だからって、本にして贈ってくれたんだ。あ、勿論読みたい時は何時でも私の力を貸してあげるよ!」
「嗚呼…。うん、ありがと…」
「……菫?」
「なぁ太宰…。私、この本に一時的に取り込まれて助かったんだよな」
「え?…うん。そうだけど?」
「この本の冒頭って、どう云う文章だったっけ?」
「えっと、確か…、“天より導きの声が降り注いだ。『危機は去った。今こそ己が力の全てを以て暗闇と業火を薙ぎ払え』”だったと思うけど?」
「………」
「……菫?」
「何でもない…。それよりホント凄い量だな!…あれ?でもこの花、何で一輪だけ此処に転がってんだ?」
「嗚呼、それ?押し寄せる贈り物の中に混じってたんだけど、何となく不愉快だから放置してた」
「何だよ其れ。……よし、これで暫くは延命出来るな」
「えー、放っときなよ。何処の誰が送ったのかも判らないのに」
「誰の贈り物だろうが、花に罪はないだろう?それに折角綺麗に咲いてるんだから、枯らしちゃ勿体ないじゃん」
何故かむくれる太宰を嗜めて、私は花環の間に差し込んだ雪の様に白いリコリスをそっと撫でた。すると積み重なった贈り物の裏側に、一際上等な装飾を施された小箱がひっそりと隠れているのに気づいた。他の贈り物と明らかに異なるそれが何となく気になって、私は太宰を振り返る。
「なぁ太宰。これは誰からの………おい、どうしたその顔」
「何が?」
「自慢の美貌が敵を威嚇するハリセンボンみたいになってんぞ」
「べぇつに〜。それもお礼の品に混じってた名無しの贈り物だよ。……全く、“もう十分だ”とか格好付けてた癖に、こう云う所は絶対曲げないんだもんなぁ…」
何故か先刻以上に臍を曲げてブツブツ云う太宰に首を傾げつつ、私はその小箱の中身を改めた。リボンを解いて包装を剥がして蓋を開けて、箱の中に眼を落とす。
「………ふふ」
その中に納められている物を眼にして、漸く全ての謎が解けた。特に凝った装飾が施されている訳じゃない。けれど、それが上質な品である事は一目で判った。否、正直贈り物の価値などどうでもいい。あの時はあれこれ余計な事を考えて勝手に危惧していたけど、矢張り実際に贈られてみると途方もない嬉しさが込み上げてくる。そんな思いを逃がさない様にまた蓋を閉めて、私は贈られたワイングラスを胸元に抱き締めた。
「ねぇねぇ菫〜。実はね?私も君に贈り物を用意しているのだけど〜?」
思い出に浸る様な幸福感を噛み締めていると、不意に太宰が私の背中に伸し掛かってきた。何時もの様に腹の前で手を組んで、引き寄せた私の米神にぐりぐりと頬を擦り寄せる。その判り易い構ってサインに苦笑して、私は太宰の頭を撫でながら少し大袈裟に答えた。
「おや、君も私に何かくれるのかい?それは是非とも欲しいなぁ」
「本当?もうこんなに贈り物貰った上で、本当に私の贈り物なんて欲しい?」
「判ってるだろ太宰。私にとって君は特別なんだ。だから君が何か贈り物を用意してくれてるなら、私はそれが一番欲しいよ」
自分から云い出しておきながら、何とも面倒臭い反応を返す太宰。その面倒臭さすら愛おしいのだから、我ながら始末に負えない。それでも、嬉しそうな顔で満足げに微笑む彼を見たら、案の定私の中でそんな些細な問題は認識すら出来ない程に霞んでしまった。
「ふふ、仕方ないなぁ。其処迄云うなら、欲しがり屋さんの君に取って置きの贈り物をあげよう」
「幸福の至りだな。それで、君は一体何をくれるんだ?」
「はい!」
「……はい?」
却説。何だコレ。何で太宰君は満面の笑顔でスシざんまいポーズを決めているのだろう。てか見間違いかな?トレードマークのループ帯が、何か青いリボンに変わってる気がすんだけど気のせいだよな?幾ら太宰君だってそんな古の王道ベッタベタな贈り物―――
「贈り物は、わ・た・し♡今日一日何でも云う事聞いてあげるから、思う存分お強請りしていいよ!」
「判った。今日一日社会人の鏡の如く真面目に勤労してくれ。以上」
「ちょっと待って、この私を思うが儘いい様に出来る千載一遇のチャンスだよ?本当にいいの?ねぇもっとあるでしょう?普段は恥ずかしくて云えないお願いの十や二十あるでしょう菫?」
「否、私的には既に十分過ぎる程愛して頂いている自覚があるのでご心配なく」
「いやいやいや。遠慮しなくていいんだよ?ほら、もう一度よぉく考えてみて?お姫様みたいにちやほやして欲しいとか、私を犬の様に従属させてみたいだとか、縛りたいとか縛られたいとか色々あるでしょう?」
「いやホントマジでそう云うの間に合ってるんで。強いて云うなら退いてくんない?」
「い・や・だ」
「うぉい!話が違うぞ!?」
じりじりと迫りくる太宰に後ずさりした私は、しかしすぐに背後のベッドにぶち当たり贈り物の山へと倒れ込んだ。それを見逃さなかった太宰が、まさしく獲物を前にした腹ペコ狼の様に覆い被さる。間一髪その両手を掴んで防衛線は確保したが、呼吸は荒いし思いっきり瞳孔が開いてしまっている。ヤバイ、完全にアカンスイッチが入ってるぞコレ。
「ちょ、マジストップ!」
ガラッ!
「おい太宰!今、菫の声が…っ」
「「………」」
その時唐突に医務室の扉が開き、現れた国木田君が私達の有様を無言で見据え―――そして眼鏡のブリッジを上げた。
「神聖なる職場で一体何をしておるかこの淫獣がああぁぁ!!」
それは、審査員が満場一致で最高点を挙げる程に見事な一本背負いだった。向かいのベッドに投げ飛ばされた太宰は、国木田君の容赦ない追撃に関節をベキベキ云わせている。結果的に助かったものの突然の急展開に呆然としていると、国木田君が開け放った扉の向こうから慌ただしい足音が雪崩れ込んで来た。
「何ですか今の音!?―――っ!菫さん!?」
「あ、やぁ敦君。おは」
「菫さん!」
「ぐふぁ!」
最初に駆け付けた敦君に手を振って挨拶をすると、その後ろからナオミちゃん、綺羅子ちゃん、鏡花ちゃんが立て続けに私の許へと駆け寄って来た。と云うか、駆け寄る通り越して玉突き事故が起こった。
「菫さん…っ、嗚呼、良かった。私、ずっと心配で…」
「本当よ。菫ちゃんが誘拐されたって聞いて、生きた心地がしなかったわ…」
「目が覚めて…良かった…」
「ナオミちゃん、綺羅子ちゃん…。鏡花ちゃんも…心配かけてごめんな…」
「本当に無事でよかったです。ね?敦さん」
「うん!ほら、谷崎さんも」
続々と社員が医務室に集結する中、皆の陰に隠れていた谷崎君を敦君と賢治君が私の前に引っ張り出した。何時にも増して所在無げなその顔に、私は出来るだけ柔らかく笑って口を開いた。
「ごめんな谷崎君。怖い役目押し付けちゃったな」
「っ…!…そんな…。僕が、僕がもっと強ければ…」
「それは違うよ。君だったから、私は安心して後を任せられたんだ。君ならきっと、探偵社員としてするべきことを全うしてくれるってさ」
「菫さん…っ」
其の儘耐え切れず、谷崎君は私の足元に崩れ落ちてしまった。その頭を態とわしゃわしゃ掻き混ぜて労を労っていると、真横に新しい気配を感じて私は顔を上げた。
「その様子なら、
「うん。毎度ベッドばっか占領しちゃって悪いね晶子ちゃん。それと…、乱歩さんも。大変お手数お掛けしました」
「……本当に、もう身体はいいのか」
「ええ。見ての通りです。強いて云うならお腹ペコペコですけど」
「そうか。…なら、
「え?わぶっ!?」
乱歩さんが謎の呟きを落とした瞬間、私の視界は真っ黒に塗り潰された。その原因が頭から目深に何かを被せられた所為だと認識している間に、自然と背筋が伸びる様な明朗たる声音が号令を上げる。
「総員、構え!」
「へ?何、何事!?」
状況が判らず無我夢中で目元の覆いを掻き上げると、その瞬間軽快な破裂音が打ち鳴らされた。
パンパンパーン!
漸く取り戻した視界に舞い遊ぶのは、色取り取りの紙吹雪とカラーテープ。そしてその向こうに在ったのは、大きな垂れ幕を広げてクラッカーを手にした皆の姿だった。
「「「菫(さん/ちゃん)!誕生日おめでとう(ございます)!」」」
「っ―――!」
口は開けど、言葉が出なかった。辛うじて認識出来たのは、頭に被せられたのがホールケーキの形をしたパーティー帽だった事くらいで、其処から先の光景に感情がまるで着いて行かない。結果阿呆の様にポカンとして固まる私の代わりに、皆が思い思いに口を開く。
「フッ、如何やらサプライズは成功した様だねェ」
「わぁ、これが“さぷらいずぱーてぃー”ですか!僕初めてです!」
「まぁ、一日遅れになっちゃったけどね」
「昨日はずっと寝てたから」
「あんな事があった後ですもの仕方ありませんわ。その分、今日は思いっきりお祝いしましょう。ね、兄様!」
「うん。今日は僕が料理番をしますから、菫さんは心置きなく楽しんで下さい」
「それより早く事務所に行こうよ!こっちは丸一日ご馳走のお預け食らってるんだからさ!」
「もう少しだけ待ってやれ乱歩」
「そうです乱歩さん。三分前に菫の起床を確認したので、誕生会の開始時刻はあと十七分後に」
「でもその前に着替えた方がいいわね。はい、どうぞ菫ちゃん」
差し出された自分の服を受け取るも、未だ私の頭は止まった儘で居た。
寝過ごしてしまった自分にとって“唯一楽に呼吸が出来る日”。
けれどその概念は既に変わり、私が主役の祝日は単に“自分が生まれた日”以外の何ものでもなくなった。
それでも、―――こんなに嬉しい。
一日遅れの祝辞が、私が生まれたと云う事自体を祝って貰えている様で。自分が今此処で息をしている事をこの人達は喜んでくれているのだと、疑う余地も無い程に思い知らされて。じわりと熱を帯びた目元に歪められた視界が、不意にあの時の光景を映し出した。
満足に息も出来ない暗闇の牢獄を突然切り裂いた光。眼が眩む様なその向こうに確かに居た、顔の見えない誰か。あれがポオ氏の異能である以上、きっと混濁した意識が見せた夢幻の類でしかないのだろうけれど。
それでも、その声はとても穏やかで。一度だけ頭を撫でてくれたその手は、大きくて暖かくて少し硬くて
微かに、煙草の匂いがした―――
此処から戻ったら、お前の力で外に出ろ。
少しの間何も感じなくなるだろうが心配ない。
彼奴が其処迄迎えに来てる。だから
―――太宰の手を握り返してやってくれ、臼井
「菫」
顔を上げた先には、見知った手があった。
滑らかで綺麗で包帯だらけの大きな手。
その手は無意識の内に重ねた私の手を優しく握り返し、贈り物で埋め尽くされたベッドから私を立ち上がらせた。其処には先刻と変わらず私の大好きな皆が居てくれて。その所為で余計溢れそうになった涙が零れる前に、私は目元を袖で拭って彼の手を握り返した。
「その前に、私も皆に云っておきたい事が在るんだけど、いいかな?」
唐突な切り出しに皆がキョトンとした顔で私に注目する。その視線に少しだけ羞恥心を感じながらも、私は存分に息を吸って口を開く。
守るべき数千の命と天秤に掛けられたちっぽけな一人を、見捨てずにいてくれた仲間達に。
死そのものを肯定しておきながら、それでも私の死は決して受け入れようとしなかった寂しがり屋の彼に。
命を捨て不変を証明する迄もなく、“大丈夫”だと信じさせてくれた、私の大切な世界に。
正しくあの世の淵の様な暗闇で、ずっとずっと用意していた言葉を、私は心から紡いだ。
「私を助けてくれて有難う。皆、大好きだ!」