hello solitary hand・番外編
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動物は好きだ。何故なら、動物は全く怖くないから。
一番好きなのは矢張り猫。でも基本獣なら大体好きだし、何なら爬虫類系も蛇や蜥蜴くらい迄なら殆ど大歓迎だ。しかし、今の生活が生き物を飼う環境に無い事も理解している。一つの命を預かるからには、それ相応の準備と責任が要るのだ。とは云え、日々の生活の中で動物と戯れたいと発作的に願う事もあるし、仕事で疲れた時等は猫の腹に顔を埋めて五分程深呼吸していたいと思う事もある。それは仕方が無い。だって人間だもの。
「と云う事で敦君。すまないが何時もの頼むわ…」
「あ、はい…。どうぞ…」
突発的に重なりまくった重要案件を見事消化し、戦場から帰還した兵士の如く満身創痍となった私の懇願に、可愛い後輩君は苦笑しながら自分の手を差し出した。鋭い爪とフカフカの肉球が付いた、私の顔よりデカいネコ科の前足を。
「うっはぁ〜〜〜っ!肉球じゃ、肉球じゃあ!お日様の匂いがするよぉ!ふぁあ、おててモフモフ、虎ちゃんのおててモフモフやぁ〜〜〜」
「…今回も大分キマってるねェ…」
「はは、お疲れ様でした。菫さん」
差し出された後輩の手に顔面を埋めて堪能する私。それを見て頭を振ったお医者様の眼が雄弁に語っていた。“此奴はもう手遅れだ”と。
「はぁ、ネコ科のおてては何故かくも素晴らしいのか。しなやかで艶やかな毛並みとフカフカでツルツルの肉球。そして時折飛び出すくるんとした鉤爪…。正しく究極の癒しだよ。嗚呼、もし全人類にネコ科のおててがいき渡れば、世界から争いもストレスも消え去るのになぁ〜」
「鉄をも引き裂く鉤爪に其処まで癒されるのはアンタだけだよ…」
「まぁでも、猫って可愛いですもんね。僕も猫は大好きですよ」
「うん!私も大好き!」
敦君が虎の異能を制御出来る様になってからと云うもの、私は予ねてより抱いていた大願を遂に成就させた。云わずもがな、猫の手ならぬ虎の手をモフモフさせて頂いているのだ。何せこんなに大きなネコ科の前足など、そうそう触れるものじゃない。況してや過労で精神が摩耗し、心が癒しを求めている時に虎の手を出せる後輩君が直ぐ隣に居たら、誰だって「モフらせて下さい」と土下座して頼むだろう。そう、これは人の性。澁澤龍彦の予想を超える者はちょいちょい存在するが、ネコ科のおてての魅力に抗える者など存在しない。断言して良い。マジで。
「嗚呼…、いつか敦君が全身虎化しても大丈夫になったら、屋上にビニールシート敷いて一緒にお昼寝したいなぁ…」
「えぇ!?あ、否…、それはちょっと……」
「まぁ太宰に知られたら、アンタ十中八九虎絨毯の刑だろうねェ敦?」
「ひぇっ!」
「あ、そっか…、じゃあ太宰も混ぜて一緒に川の字で寝よう!それなら問題無いだろ?」
「それだと僕の虎化、解けちゃうんですけど…」
「嗚呼そうだった!ん〜…じゃあ、私と虎敦君は一緒のビニールシートで寝るから、太宰は隣に別のビニールシート引いて寝て貰って」
「振り出しに戻る所か、敦の余命が余計縮むぞ菫〜」
遂には自席でお菓子を食べていた乱歩さんにすら突っ込まれた。う〜ん。平和と癒しへの道がかくも遠く難解なものだとは…。世界が何時まで経っても平和にならない理由が判った気がする。
「よし!じゃあもういっそ、敦君とは縁も所縁も無い迷い虎を拾ってきた事にしたらどうかな!」
「その言い訳は無理が有り過ぎるのでは…?」
「仮に百歩譲ってそれが通ったとしても、直ぐに虎から引っ剥がされるのが落ちだよ」
「え〜、流石に太宰も迷子の虎ちゃん相手に嫉妬はしないだろ」
「否、単純に危機管理の問題なんだがねェ…」
「ただいま戻りましたー」
「あ!おかえり賢治く……ん?」
その時軽快に事務所の扉が開かれ、外回りをしていた賢治君が帰ってきた。が、彼の手元から伸びる
****
「それでね、その日は態と一日部屋に籠って読書に勤しむ振りをしていたのだけど、そしたら私の部屋の前で誰かが右往左往している気配がしたのだよ。ねぇ、一体誰だと思う?」
「はぁ…、あのな太ざ」
「そう!私の可愛い可愛い菫がね、放ったらかしにされた寂しさの余り、私が出て来るのを今か今かと待ち詫びていたのだよ!嗚呼もう、どうして彼女はああも愛くるしい事ばかりするのだろうね?お陰で私の方が我慢出来ずに部屋を飛び出してしまったよ」
此方の返答などお構いなしに一人惚気倒す同僚に、俺は改めて心底うんざりと溜息を吐いた。
「いいか太宰。お前に幾ら惚気を振りまかれた所で、俺の返答はただ一つ。“知るか”、だ。抑々その話はこれ迄に合計三十六回も聞かされている。今日一日だけで換算しても、既に七回目だ」
「え~、いいじゃない。善い話は何度話しても善いものだよ?」
「全く興味の無い話を何度も繰り返し聞かされる俺の身にもなれ。それともこれは新手の嫌がらせか?」
寧ろ、これが嫌がらせでなくて何だと云うのだろう。犬も食わない痴情の縺れから解放されたと思ったら、今度は蜜蜂も胸焼けを起こす様なドロッドロの惚気を延々垂れ流され、俺のストレスは相変わらず悪化の一途を辿っていた。この頃は食事も苦味や塩辛い物に偏り、珈琲の過剰摂取で睡眠時間もゴリゴリと削られている。此奴等がくっついた当初は、これで漸く肩の荷が降りると安堵し祝杯を上げたものだったが。結局の所、頭を抱え生え際を後退させる様な心痛が、臓腑を蝕む様な心労に変わっただけだった。
「ん~、成程ねぇ…。一理ある。それじゃあ特別に、国木田君でも興味を持ちそうな話をしてあげようか」
「そんな話あるのか?」
「実はこの話には続きがあってね。折角の休日を丸々放置してしまったお詫びに、その夜は何時も以上に甘く濃厚な」
「止めろ!!そんな同僚の性事情など聞きたくもないわ!!」
反射的に振り抜いた拳はしかしひらりと躱され、それはそれは愉快そうなニヤケ面で奴は俺を嘲笑った。
「いや~ん。何勝手にいやらしい妄想を繰り広げちゃってるのかなぁ~?私はただ“いつも以上に甘く濃厚な
「なっ!?ききき貴様が紛らわしい云い回しをするからだろうが、この唐変木がーーー!!」
「おっと、危ないなぁ。折角菫に買ったお土産が台無しになったらどうするのだい?」
胸倉を掴み上げ振り回そうとすると、不意に太宰は持って居た紙袋を抱え直した。そこからは胸焼けした臓腑に追い打ちを掛ける様な、小麦粉とバターの芳ばしい香りがする。依頼を終えるや否や姿を晦まし、もう放置して帰ろうかと思った矢先に奴はこの紙袋を抱えて戻ってきたのだ。曰く、中身は焼きたてのクロワッサンらしい。
「何が土産だ、全く。依頼が終わったら速やかに社に戻り報告書を上げる。探偵社員として、否一社会人として当然の行動だ。それを余計な寄り道などしおって」
「もう、そんなんだから国木田君は国木田君なのだよ。いいかい?女性と云うのはね、焼きたてのパンと愛くるしい動物に滅法弱いんだ。それさえ押さえておけば先ず間違いない。手帳にメモしておくといいよ」
「む。…そ、そうか。判った、一応書き留めておこう」
「まぁ、相手が米派で動物アレルギーだった場合は、云う迄もなく逆効果だけどね~」
「太宰貴様ーーー!!」
結局何時も通り此奴の玩具にされ、俺の中に蓄積されたストレスは爆発一歩手前迄来ていた。この際何でも善い。此奴に心の底から大打撃を与え、屈辱に奥歯を噛み締めて這い蹲らせる様な出来事が起らぬものか。そんな半ば神頼みに近い怨念を込めて睨みつけていた砂色の背中が、帰り付いた事務所の扉の前で立ち止まった。
「却ぁ説、お待ち兼ねの瞬間だ。きっと菫、大喜びするだろうなぁ。『有難う太宰、世界で一番愛してる!』とか熱い抱擁で迎えられちゃったりして。うふふふふ…」
「何でもいいから早く入れ」
「もう、国木田君ったら。羨ましいのは判るけど、嫉妬は見苦しいよ?」
やれやれと然も困った様に首を振られ、俺の中で何かがブチリと切れた。だが、その衝動に任せて行動を起こすより早く太宰が事務所の扉を開ける。そして足を踏み込もうとしたその時、中から馴染みある声が上がった。
「あ、ちょっと
「っ!?菫…!そ、そんな、駄目だよこんな人前でぎゃふん!!」
何故か途端に頬を赤め、恥じらう様に握った手を口元にやった太宰は、しかし次の瞬間飛び出してきた何かにぶつかり盛大に転倒した。そして俺は行き場の無くなった拳を構えた儘、その光景にただ茫然と眼を落とす。
床に倒れ目を回す唐変木。その上にのし掛かった
「わっ、太宰!?おい、大丈夫か!?」
俺達の元に駆け寄ってきた菫が驚愕の声を上げると、それに反応した其奴が紙袋の中からクロワッサンを咥えて菫の方に戻っていった。
「え…嗚呼、お裾分けかな?有難う。でも、突然飛び出しちゃ駄目だぞ?」
「ワン!」
まるで返事でもする様に、其奴が一声吠える。序でに、先刻迄芳しい香りを漂わさていた紙袋の中身は、その“お裾分け”以外ものの見事に食い尽くされていた。その惨状を確認した上で、俺は改めて菫の方に目を向ける。
「おい菫…。其奴は……」
「あー…、うん。まぁ見ての通りと云いますか…」
其奴と目線を合わせる様に膝を着いた菫は、金色の頭をわしゃわしゃと撫でながら苦笑した。
「こちら本日探偵社で保護しました、
「ワン!」
菫がそう云うと、まるで自己紹介でもする様に一匹のゴールデンレトリバーがまた吠えた。
****
「ほい。これあげるから、もう人の食べ物は取らんでくれよ?」
「ワン!」
「わぁ!食べてる食べてる!」
「有難うね敦君、賢治君。この子のご飯買ってきてくれて。人間の食べ物はあんまり体に良くないからさ」
「いえいえ、元々連れて来たのは僕ですから」
魔都・ヨコハマ。数々の異能力組織が鎬を削り、賑わう街の影には常に腹を空かせた地獄の悪鬼達が蠢いて居る。その光と闇、昼と夜の間を取り仕切るのが俺達武装探偵社の仕事だ。そして今その本拠地とも云える事務所の一角で、女子供が一匹の犬の食事風景に頬を緩ませていた。
「―――で、これはつまりどう云う状況だ?」
「まぁ順を追って説明するとな。最近住宅街で深夜に不審な物音がするって云う事件が多発してて、その正体を突き止めて欲しいと依頼があったんだよ。で、賢治君がそれを請け負ってくれた訳」
「依頼人の証言や現場の状況から、相手が人間じゃないとすぐに判りました。なので昨日の内に猪用の罠を幾つか仕掛けて、今日様子を見に行ってみたんです。そしたら、この子がその罠の上で昼寝をしていて」
「は…?罠に掛かっていた訳ではないのか?」
「寧ろ、仕掛けた罠は全部誤作動させられてたらしいよ。まぁ、この子がやったって証拠は無いけどさ…」
流石にやや引き攣った顔で自分を見下ろす菫に、当の犬は不思議そうに首を傾げる。が、何処となくその仕草迄もが計算尽くなのではないかと、そんなありもしない考えが脳裏を掠めた。
「それでよく見たら首輪もしているし、飼い主が居るなら見つけてあげないとと思って此処に連れて来たんです」
「一応保健所にも確認してみたんだけど、該当する迷い犬の捜索願いは出てなくてね。首輪の方も、書いてあったのはこれだけだった」
そう云って菫は卓上にあった首輪を摘み上げる。そこには油性のマジックで『オサム』と書かれていた。
「呼んでみたら反応するし、この子の名前で間違いないと思う。なぁオサム君?」
「ワン!」
「どうせ話しかけられたから適当に吠えてるだけでしょう?そんなの、何の確証にもならないよ」
いっそ不機嫌で言葉が構築されているのではないかと思う程、ぶすくれた声が異論を呈した。犬を中心とした輪から一番遠い席を陣取って、同名の人間がこれでもかと云う程口をひん曲げて頬杖を付いている。
「ん〜、じゃあ…ポチ?」
「……」
「ペス?」
「……」
「ハチ、ラッキー、チャッピー」
「……」
「敦、賢治、独歩」
「……」
「………オサム君?」
「ワン!」
「ほら」
「おい待て。何故間に俺達の名前迄挟んだ」
しかし菫は俺の指摘を苦笑程度で流して、臍を曲げた太宰の前に膝を折る。その途端奴にそっぽを向かれたが菫は全く動じず、まるで子供に云い聞かせる様に語り掛けた。
「なぁ太宰?君が犬嫌いなのは知ってるし、同じ名前なのが気に入らないってもの判るが、そんな邪険にしないでやってくれないか?」
「………」
「何も此処で飼おうって云ってる訳じゃない。飼い主が見つかる迄面倒見てあげようってだけだ。頼むよ太宰。この子には今、人間の助けが必要なんだ。な?」
「………菫…」
「うん。何……ん?」
拗ねた様に口を尖らせながら太宰が僅かに菫の方を見た。そんな太宰に菫は、まるで手負いの動物を相手する様に柔らかな声音で先を促す。が、太宰が続きを紡ぐより早く、菫が疑問符を漏らして後ろを振り向いた。そこに居たのは、菫の服の裾を軽く噛んで引っ張っる例の犬だ。
「ク〜ン…」
「ん〜?どうした?おっと!」
菫が自分の前にしゃがんだと見るや、其奴はぐりぐりとその懐に頭を押し付ける。その所為で尻餅を着いた菫の足の間にするりと身体を滑り込ませると、其の儘ピッタリと張り付いた。
「はは、何だよ急に?別に君の事無視してた訳じゃないって」
「ク~ン」
「おい菫。お前矢鱈懐かれてないか?」
「私って云うか、この子女の人が好きみたいでねぇ。最初は晶子ちゃんにもこんな感じだったよ?」
「む、そう云えば与謝野先生や乱歩さんは如何した?」
「与謝野先生は『医者としての衛生管理上、服に毛が付くと困るから』ってうずまきに避難しています。乱歩さんも『面倒事が帰って来る前に退散する』とか何とか云って一緒に」
「流石名探偵だな…」
俺はそんな感嘆と共に眼鏡のブリッジを上げ、問題の“面倒事”に視線を向けた。と云うか、もう視界に入れる前から只ならぬ冷気が背筋を凍り付かせている。無論その冷気の原因は、菫との会話を途中でぶった切られた挙句優先順位まで掠め取られた哀れな犬嫌いだ。
「よしよしよぉし。これでどうだ、これでどうだ?」
だが、そんな地獄の幽鬼も腰を抜かす絶対零度の視線を物ともせず、一人と一匹はまるでペット商品のCMの様に戯れている。其処からきゃっきゃウフフと呑気な声が漏れる度に、室内の体感温度が一度一度着実に低下していった。
****
「よしオサム君。どっちが正解かな?」
「ワン!」
「わぁ!また当たりです!」
「はいはい、まだ待てだぞ?そう…。じゃあ、お手、お代わり、伏せ、くるくる回ってぇ~…バキューン!」
「キャイン!」
「凄い!この子本当に賢いですね!」
彼奴等が犬との遊戯に興じてからどれくらいになるだろう。簡単な芸や餌当てクイズなど朝飯前、果てには今の様に撃たれたフリ等の小芝居までこなす。元々犬に其処迄詳しい訳では無いが、あのレトリバーがそこいらの犬よりずば抜けて賢いのは明白だ。だから彼奴等もあんなに夢中になって、次々芸をやらさせてはあの犬を持て囃しているのだ。無論、勤務時間内に犬と戯れているなど許される事ではない。だがそれでも尚、俺には彼奴等の職務怠慢を咎める事が出来なかった。何故なら―――
「あの程度の芸、私だって出来るし…」
下手に彼奴等を注意してこの人間落第者に便乗されるのは、死んでも御免だったからだ。
「はぁ~…、オサム君はフワフワのモフモフだなぁ。毛並みは猫が至高だけど、レトリバーの長毛も柔らかくて癒されるよ…」
「私だって髪の毛フワフワしてるし…。あんな犬なんかよりずっと毛並み良いし……」
向かいの席から同じ人間とは思えない程しょうもない張り合いが聞える。云う迄もなく全力で無視した。するとまたあの犬が菫に擦り寄り、催促する様に自分の頭を押し付ける。
「はいはい、もう判ったってば。オサム君は本当に甘えん坊さんだな」
「私の方が断然甘えたさんだし…」
俺は何も聞いていない。自分と同い年の成人男性が、甘え加減で犬にマウントを取る世界など俺は認めない。そんな現実逃避を繰り広げる傍ら、今度はあの犬が菫の肩に前足を掛け、その顔をペロペロと舐めだした。
「ふふふ、ちょ、オサム君擽ったいったら。わっ!こら、重いって、ははは。判った判った、もう降参!」
「…………」
遂には菫を床に押し倒し、パタパタと尻尾を振りながら彼奴の顔を舐め回す犬。それに対し当の本人は呑気に笑いながらじゃれ合っている。そんな微笑ましく見えなくもない触れ合いを他所に、向かい側に座っていた太宰がゆらりと立ち上がる。そして俺の前に歩み寄ると、包帯塗れの手を差し出した。
「国木ぃ~田君、銃貸して」
「独歩吟客」
「否それ私使えないヤツじゃん」
「お前に使える銃を渡すと碌な事にならんだろう」
普段何を考えているか判らない飄々とした鳶色には今、一眼で判る程明確な殺意が爛々と灯っていた。本音を云えば絶対に関わりたくはないが、流石にこの状態の此奴を放置する訳にもいかない。社の平和と安全を守る為、俺は断腸の思いで仕方なく太宰に向き直った。
「いいか太宰。あれはただの犬だ。同じ人間相手なら未だしも、犬に迄嫉妬するな見苦しい」
「その犬が私は大嫌いなのだよ。それに人間だろうが犬だろうが関係ない。あんなの見せつけられて、冷静で居られる訳無いじゃないか…っ」
「あんなの?」
「君も見ただろう国木田君。あの犬…私の菫を押し倒して…云うに事欠いてあんな……」
その言葉に、俺はふと思い当たった。そうだ。確かに先刻のじゃれ合いは、あの犬に菫の唇を奪われたと取れなくもない。たかが犬のした事に大袈裟だとは思うが、此奴の嫉妬深さを考えればそれも無理からぬ事だろう。現に今此奴は、悔しそうに奥歯を噛み締め卓上に手を着いて項垂れている。その姿に、意図せず数十分前の祈りが成就したと内心喜ぶ一方で、相変わらず此奴は菫が絡むと唐変木が悪化するなと呆れた。―――とは云えそんな呆れた姿が、俺の知るこの男の最も人間らしい瞬間と云えなくもないのだが…。
「はぁ…。なぁ太宰。確かにあの犬は菫の口元を舐めていたが、其処にお前の考えている様な意図は」
「その時点で大問題なのだよ」
「は?」
推測していたものからややズレた返答を返され、俺は思わず疑問符を浮かべた。そんな俺に、太宰は無駄に真剣な顔で無駄に重々しく口を開いた。
「いいかい国木田君。知っての通り菫は心を開いた相手への距離が近い。そんな彼女を愛した以上、私も広い心を以てその無邪気な振る舞いを許し、見守る心算だ。でもね、それでも…っ
―――菫をペロペロして善いのは、この私だけなのだよ!」
「本気で気持ち悪いぞお前」
「ただいま」
一秒にも満たない刹那の一瞬に、俺の全身を鳥肌だか蕁麻疹だかよく判らない何かが駆け巡った。だが幸か不幸かそれとほぼ同時に事務所の扉が開かれ、菫達の注意は全て帰還を告げた和装の娘に向けられた。
「おかえり鏡花ちゃん!」
「頼まれた備品、買って来た。―――っ!」
敦に出迎えられた鏡花は買い物袋を手渡し、自席に着こうとした。だが一歩足を踏み出した瞬間、鏡花は息を飲んでその場に立ち尽くす。その視線の先では例の犬が、まるで見定める様にジッと鏡花を見上げていた。
「何で…犬が…」
「嗚呼、そっかごめん!鏡花ちゃんも犬駄目だったな」
「あ、そう云えば。確かに初めて会った時、嫌いなものは犬と雷って…」
「―――!」
その瞬間、俺の横を疾風が駆け抜けた。眼にも止まらぬ速さで鏡花の後ろに回った太宰は、無駄に流麗な動作で自分の腹くらいの位置にある肩に両手を掛けて引き寄せる。
「判る。判るよ鏡花ちゃん。犬は直ぐに吠えるし、人間より余程厄介な難敵だ。そんな犬は厭だよねぇ鏡花ちゃん?」
「え…、う、うん…」
「嗚呼、何と云う事だろう。可哀想な鏡花ちゃん。嫌いな犬が居る職場じゃあ安心して働けないよねぇ?ね?ほら聞いたかい皆?こんな幼気な少女の小さな安寧を犠牲にして迄、君達はその犬を此処に置いておくと云うのかい!?」
何時も以上に芝居がかった動作で、誰が見ても判る程大袈裟に、太宰はここぞとばかりに反対意見を上げた。自分より遥かに小さい少女の影に隠れた長身の男は、まさしく“虎の威を借る狐”…否この場合は“兎の威を借る狐”だろうか。孰れにしろ、徹頭徹尾鏡花を出汁に使うその姑息な遣り口に、賢治以外の全員が何とも云えない生気を欠いた眼を向けていた。
だがその時不意に、俺達の様子を伺っていた犬がぺたりと尻尾を垂れてそろそろと机の下に潜り込んだ。犬の気持ちなど判らんが、何やら落ち込んだ様子なのは明らかだった。
「おや、どうやらその犬が賢いと云うのは本当だったらしいね。立場を弁えて、自ら人目に付かない場所に潜り込むだなんて」
「だ、大丈夫だよオサム君。な?ほら、出ておいで?」
「もう、放っておきなよ菫。これで漸く平和になるって云うのに…」
「でも…、ん?」
太宰の云う通り、余りの叱責に耐え兼ねて人目を憚ったかに思えた犬は、しかしひょっこりと机の下から顔を出した。しかもその口元に何かを咥えて居る。それを菫に渡すと、犬は再び机の下に戻って行った。
「菫さん。何を渡されたんですか?」
「判らん。ペンみたいだけど、誰のだろ?」
「あれ?これって…。ねぇ鏡花ちゃん」
「?」
「これ、この前鏡花ちゃんが無くしたって云ってたペンじゃない?」
「え…」
菫から件のペンを受け取った敦は、それを鏡花の前に差し出す。ノック部分が兎の形を模した薄い桃色のボールペンだ。
「本当だ」
「良かったね鏡花ちゃん。これお鏡花ちゃんの気に入りだったもんね?」
「全然見つからなかったのに…」
「あの子が見つけてくれたんですよ」
「………」
賢治のその言葉に、鏡花は顔を上げ机の方を見つめた。その前で膝を折った菫が、微笑みながら手招きをする。すると鏡花は、意を決した様に一歩一歩進み出た。軈て菫の隣にしゃがみ込むと、鏡花は机の下を覗き込む。
「迷子のレトリバー君でね。名前はオサム君って云うんだ」
「迷子?」
「そう。飼い主と逸れちゃったみたいでね。だから、見つかる迄此処に置いてあげたいんだけど…」
「………」
「……矢っ張り難しい?」
例の犬は机の下で、大きな図体縮める様に丸くなっていた。その様をジッと見つめる鏡花は、そっと其奴に手を伸ばす。暗がりの下に鈍く輝く金糸に恐る恐る触れた指先は、しかし段々と確かめる様にその頭を撫でていった。
「……飼い主が見つかる迄なら、いい」
「大丈夫?」
「犬は嫌い。でもボールペン、見つけて貰ったから」
「有難う鏡花ちゃん!」
「良かったですね、オサムさん」
安堵した様に声を上げる敦と賢治。それに対し、今迄通りなら“ワン”と吠えて返事をしていた筈のその犬は、しかし今回は一声も上げずにパタパタと尻尾を振るだけに留めていた。その反応は何処か、犬嫌いの鏡花を気遣っての振る舞いにも見えた。
「……………」
犬とは思えない程の異様な賢さ、人の心を掴む立ち振る舞い、そして女好きのレトリバー。見れば見る程蓄積されていく既視感を辿る様に、俺は机の下の暗がりから此方を差し覗く鳶色を見据えた。犬の癖に何処か底知れないその双眸。其処に見慣れたもう一つの鳶色が重なり、俺の中で既視感の正体が遂に形を得た。
「……おい太宰…。あの犬、何処かお前に似て―――!?」
そこから先の言葉は声にならず喉に痞えた。と云うか呼吸すらも痞えた。生命活動の一端すら忘れる程の衝撃が、俺の網膜から脳裏へと駆け上る。
「だ、太宰…?」
もし其処にあったのが、呼吸も凍る様な冷血の眼差しであったなら。或いは、生存本能が警鐘を鳴らす様な焦熱地獄を宿した眼光であったなら。俺も此処まで動揺はしなかっただろう。だが幾ら瞬きをしても、其処にあった鳶色は変わらない。不恰好に歪んで、何かを堪える様に揺れるその瞳は、まるで歯を食い縛って悔しさを噛み殺そうとする子供の様だった。
「〜〜〜っ!菫の馬鹿ぁ!」
「うぇっ!?」
「何さ何さ!オサム君オサム君って、その犬の事ばっかり構って!何時も私が一番だって云ってる癖に!菫の馬鹿!もう知らない!!」
「だ、太宰!」
菫の静止も聞かず、太宰は事務所の外へと飛び出して行った。乱雑に閉ざされた扉の余韻が消えた後に口を開く者は無く、ただ静寂だけが室内を満たす。まぁ、奴が恥ずかし気もなく五歳児の様な奇行を繰り広げるのは何時もの事だが、今の癇癪は何処か何時も以上に真に迫るものがあった。現に奴と一番付き合いの長い菫ですら、戸惑った様に表情を曇らせて居る。俺から云わせれば、抑々犬如きに彼処まで嫉妬する彼奴の方が問題だと思うが。孰れにしろ、如何やら悠長に構えている訳にもいかなくなった様だ。
「はぁ…。ゴホン、あー…お前達。取り敢えず、駄目元で乱歩さんに助言を願い出てはどうだ?」
「乱歩さんに?」
「あ!確かに乱歩さんの助言が貰えれば、この子の飼い主もすぐ見つかりますね!」
「ん〜。でも乱歩さん、取り合ってくれるかな…」
此奴の云う通り、本来であれば乱歩さんの超推理をたかが犬の飼い主探しに使うなど論外だ。だがこの犬の飼い主を見つけ出さなければ、恐らく今後の仕事にも影響が出るだろう。これ以上事態が拗れる前に、打てる手は打つに越した事はない。
「駄目元でと云っただろう。明確な助言は無くとも、巧くすればヒントくらいは下さるかもしれん」
「まぁ、確かにそれくらいならあるか…」
「それなら僕が乱歩さんの所に行って、推理して貰えるか聞いてきますよ」
「あ、有難う敦君。もしごねられたら…」
「ラムネですよね!判ってます!」
そう云って敦は意気揚々と事務所の扉を開けた。
「わん!こんにちは、私は愛くるしい迷ヰ犬さんだよ!さぁ思う存分可愛がって」
バタン!!
―――。
―――……俺は反射的に扉を閉めた。
「あれ?どうしたん二人共?」
閉ざされた扉に首を傾げた菫が俺達に問い掛ける。が、残念ながらその問いに答えてやる余裕など俺達には無い。たった今眼にした現実に指一本動かせず佇んでいると、隣で硬直していた敦が青褪めた顔で辿々しく言葉を紡いだ。
「………国…木田さん…。今…」
「何も云うな敦」
「で、でも今…確かに」
「敦!…いいか敦、よく聞け。五分だ。五分間誰も廊下に出すな。その間に俺が始末を付ける」
「始末って…。でも国木田さん、相手は」
「よく考えてみろ。仮に自分が女性だったとして、恋仲の成人男性が犬鼻マスクを着けてわんわん云っている様を見たらどう思う…!?」
「…………」
「如何に菫と云えど、アレを眼にしたら百年の恋も醒めかねん。それを阻止する為にも、敦。今頼れるのはお前だけなのだ」
「国木田さん…。っ、判りました。菫さんの方は、僕に任せて下さい」
強い意志を持った眼差しで互いに頷き合い、俺達は各々のするべきことの為に動き出した。事務所内から見えぬよう最小限の隙間を開けて、本日二度目の断腸の思いを噛み締めながら俺は廊下へと足を踏み出す。
「わん!あ、何だ今度は国木ぃ〜田君か。もう紛らわしだだだだ!」
「喧しい。いい歳して何をしておるのだこの犬人間」
異様な程に苛立ちを増長させる犬鼻マスクごと顔面を掴み上げ、ギリギリと五指に力を込めながら俺は眼前の阿呆に問うた。すると奴は俺の指の隙間から、何とも気力の無い眼を向けてくる。
「いやぁ…、同じ土俵に立った上でなら、確実に私が圧勝出来ると思って…」
「貴様に人間としての矜持はないのか」
「あはははは〜。菫に構って貰えるならそんなもの、幾らでも犬に食わせてあげるよぉ〜。わんわん」
「……………」
拙い。此奴、何時ぞやの幻覚茸を食った時と同じ眼をして居る。如何やら事態は想像以上に深刻な様だ。何か、何か此奴を正気に戻す方法は無いのか…!?
チーン!
勝手に“あちら側”へ逝ってしまった同僚をどう蘇らせるべきか頭を抱えて居ると、その時不意にエレベーターのベルが俺の耳に届いた。思わずそちらに眼を向けるとエレベーターの扉が開き、昇降機の中から中年の男性、その後に続いて見慣れた人影が現れた。
「ん?お前達何してんの?」
「乱歩さん!?」
「あ〜…。うん、成程…判った。善かったな国木田。お前の悩みはたった今解決したぞ」
「はい…?」
恐らく持ち前の推理力で状況を理解したのだろう。乱歩さんは一人で自己解決して、隣に立つ男性を指さした。
「この人、あの犬の飼い主。迷い犬のチラシを置いて欲しいてうずまきに来た所を連れて来た」
「「は!?」」
そう云って乱歩さんがピラリと翳したチラシには、確かにあのレトリバーの写真が印刷されていた。所在なげに肩を竦める男性は、恐る恐ると云う様に口を開いた。
「あの…、此方でウチのオサムを保護して頂いて居ると聞いたのですが…」
「「…………」」
「あ、あの…?ひっ!?」
その瞬間、俺と太宰はそれぞれ飼い主の肩を掴み、奇しくもほぼ同時に頭を下げた。
「「有難う御座います!!」」
「……は、はい?」
「おい、どうした?一体何の騒ぎだよ」
「だ、駄目ですよ菫さん!今廊下には…っ、あ!」
「ワン!」
「おお!オサム!探したんだぞお前…っ。嗚呼、無事で良かった…!」
俺達の声を聞きつけたのか、菫が扉を開けて顔を出した。すると扉の隙間からするりと抜け出した例の犬が、一目散に飼い主を名乗る男の前に駆け寄っていく。その一連の光景に、菫と後を追って顔を出した敦が眼を見開き首を傾げた。
「えっと、何?これどう云う状況?」
「見ての通りさ。その犬の飼い主が居たから、僕が直々に連れて来てやったんだ」
「え?じゃあ…」
「これで万事一件落着と云う事だ」
「どうしたんですか?」
騒ぎを聞きつけて来た賢治と鏡花に改めて事情を説明している間、菫はただジッと犬の姿を見つめていた。だが軈て苦笑を浮かべると、菫は犬の前に膝を折って一度だけその頭を撫でる。
「善かったな。迎えに来て貰えて」
「あの…ウチのオサムを保護して頂いて、本当に有難う御座います。何とお礼を云ったらいいか…」
「お礼ならこの子に。オサム君を保護したのは彼ですから」
「えへへ。もう迷子になっちゃ駄目ですよ?」
「ワン!」
そして、約一名に多大な混乱を引き起こした迷ヰ犬は、拍子抜けする程あっさりと飼い主の許に戻って行った。一通りの挨拶と別れを告げ、夕暮れの街へと去っていく一人と一匹を少年少女達が少し寂し気に見送る。そんな光景を、事務所の窓から見守る女が一人居た。
「……。彼奴は帰るべき場所に帰ったんだ。それは、幸せな事だろう」
「嗚呼、判ってるさ。…ふふ、いやはや。歳を取ると感傷に浸りやすくなっていかんねぇ…」
「お前のは単に中身が餓鬼なだけだろう」
勘違いを訂正してやると、俺を見上げて菫は困った様に苦笑した。矢張りその顔は、下でしんみりしている少年少女達と大して変わらない様に見えた。
「所でさ国木田君。一個聞きたい事があるんだが」
「何だ?」
「
そう菫が指さす先には、ドッグフードの袋片手に段ボール箱に収まり、晴れやかな顔でのびのびと寛ぐ失格人間…、基犬人間の姿があった。
****
まぁ、こうなる事は予想出来ていた。だから驚きはしない。驚きはしないけれど―――
「ちょっと菫~。手が止まってるよ?」
「あ~はいはい。ごめんごめん」
説明しよう。現在私の膝の上は、大型犬の様に寝そべった太宰君に完全占拠されている。その上で私は、“構って”っと云う彼からの要求に彼是二時間程応じている訳である。お陰で帰って来てから手が離せず、夕飯の準備にも取り掛かれない状態だ。流石にお腹空いて来た。
「だ~ざいく~ん?そろそそご飯作りに行かせて貰っても」
「駄目」
「でも、君もお腹空いてるんじゃないか?」
「私は空腹より菫不足の方が深刻なの。それとも君は、私が此の儘干からびて死んでも善いのかい?」
「否、流石にそんな人の生き死にに直結する効果、私には無いと思うんだがな…」
「でも菫、前に私不足で生命維持に関わる云々云って乱心してたじゃない。猫と私はお吸い物~、とかってさ」
「嗚呼。あれは事実だから仕方ない」
「じゃあ私も同じだよ。菫はお吸い物。まぁ食べても美味しいけど」
「人を万能食材みたいに云わんでくれるか?」
膝の上でゴロリと寝返りを打った太宰は、其の儘私の腰元を両腕でホールドすると腹の辺りに顔を埋めた。正直其処は美観等諸々の問題であまり触って欲しくないのだが、多分今は云っても聞かないだろうと、私はせめてもの気休めにちょっとだけ腹に力を入れて、膝の上に散らばった黒い蓬髪をまた撫で始めた。
「そんなに寂しかった?」
「………」
「まぁ、意地悪し過ぎたって自覚はあるよ。ごめんな」
「何それ。知っててやってたって事?」
「半分はな。此間の仕返しの心算だったんだけど、まさか君が此処迄拗ねるとは思ってなくてな」
すると太宰は私の言葉に思い当たったのか、少し気拙そうに眉を顰めて横目に此方を見やる。そんな目元を撫で付けながら、私は態と何でもない顔を作って云った。
「折角休みが被って、“今日は一日太宰君と二人きりでゆっくり出来るぞ~”とか、恥ずかしながらわくわくしてたんだよなぁ。それなのに君ったら全然部屋から出て来ないし、ずっと本ばっかり読んでるし。しかもそれが全部態とだったってんだからさ。ぶっちゃけアイスの一つや二つでチャラにしてやるには、些か負債がデカ過ぎると思ってたんだよ」
「……それで態とあの犬の事ばかり構ってたの?」
「半分賭けだったけどな。君が犬嫌いなのは知ってたが、犬に迄嫉妬してくれるかは自信無かったから。まぁ、逆に此処迄効果覿面だとも思ってなかったがね」
「菫の意地悪…」
「因果応報だ」
「だからって…、あんなに何度も呼ばなくても善かっただろう……」
「ん?」
一際小さく零れ落ちた文句は、辛うじて拾い上げられたけれど内容を咀嚼しきれなかった。首を傾げた儘シンキングタイムに入った私を、不満気な鳶色がジッと見上げ続ける。が、一向に答えを出せないでいる私に痺れを切らしたのか、顔ごと視線を逸らした太宰は先刻より更に小さな声で言葉を紡いだ。
「私の事は、普段名前で呼んでくれない癖に…」
私の腹に顔面を押し付けている所為で、その声は情けない程くぐもっていた。狂言や計算じゃない、本気で子供染みた反応をする彼を見るのは結構久し振りだった。
「………ふふ」
「ちょっと…、何笑ってるのさ」
「否すまん。太宰君が可愛くてついな」
「全然嬉しくない」
「だろうな。ごめん。でも、あの子には他に呼び名が無かったしねぇ…」
「そんなの、適当に“わんちゃん”とかで十分でしょ」
「だって、ちゃんと呼んでやりたかったんだもん」
「は…?」
先刻の不満気な色に僅かな怒気を孕んだ視線が向けられる。しかし私はそれに苦笑を返して、太宰の頭を撫で続けながら云った。
「なぁ太宰。確かに私は君にちょっとした仕返しをしてやろうと、意図的にあの子を構ってた所はある。でもその理由は、先刻も云った通り“半分は”なんだよ」
「まだ何かあるの?」
「あれ?自覚無い?」
「………」
すると、此方を見上げる鳶色が徐々に苦々し気に歪んでいった。その反応だけで、彼がもう一つの理由に辿り着いた事を私は確信した。そう。今日賢治君に連れられて社の扉を潜った迷い犬を見た瞬間、私は余りの既視感に動けなくなった。それは誰かに似ているからとかそんな次元の話ではなく、その犬の顔に確かな見覚えがあったからだ。それこそ、こう云うゆるく平和な日常ばかりが繰り広げられる、“もう一つ”のこの世界で。
「いや~、判ってはいたんだよ?やり過ぎたらいけないって判ってはいたんだけどね?もう身体が云う事きかなくてさ。だってもう愛でるしかないだろう、君ソックリの犬なん」
「判った。判ったからもう云わないで。せめてどう受け止めたら善いか結論が出てからにして、お願い」
何とも複雑な、しかし“解せぬ”と云うのはハッキリと判る様な可笑しな顔をする太宰に、私は思わず吹き出してしまった。単に他人の空似ならぬ他犬の空似かも知れない。けれどもしあの子が
「とは云え、私としても一応気を遣ってはいた心算だぞ?」
「……何が?」
「君が云う“呼び方”」
そう云って私は、すっかり臍を曲げ切った太宰の耳元に口を寄せて、内緒話でもする様に薄い声を落とした。
「それとも、君もあの子みたいに君付けで呼ばれたいのかい。―――治?」
その瞬間、耳どころか首筋に迄広がった熱い朱色に満足して私は顔を上げる。だが不意に腹部に重心を掛けられ、其の儘後ろに転ばされた。と云っても、長い腕がしっかり支えていてくれたお陰で、どこもぶつける事はなかったけれど。代わりに、畳にそっと背を着いた儘、私は起き上がる事が出来なくなった。その理由は、云わずもがな。
「本当に意地が悪い」
「君には負ける」
「へぇ…。なら今から身を以ってその意地悪とやらを体験させてあげようか」
「構わんが、夕飯食べてお風呂入ってからでいいか?」
「……この後に及んで図々し過ぎない?」
「だって明日も仕事あるし。満身創痍で朝バタバタするのは御免だもん。まぁ、空腹且つ明日の献立が頭から離れない女を抱きたいなら、それでもいいけど?」
我ながら可愛げの欠片も無い切り返し。でも仕方がない。余計な事を気にしていたくないのはこっちも同じだし、彼の隣で迎える朝をそんな無粋なものにしたくないのも事実なのだから。―――まぁでも、一番の理由は、
「………寝室に入る迄は待ってあげる。ただしその後は、舌が縺れる迄私の事呼ばせてやるから覚悟しなよ」
「嗚呼、勿論だ。執行猶予感謝するよダーリン」
感謝を込めてその頬にキスをすると、太宰は余計に渋い顔をして私の上から退いてくれた。その恩情が有効な内に、私は厨房に入って夕飯の支度に取り掛かる。後ろ眼にチラリと見たその顔は矢張り不満そうな膨れっ面で、きっと自分は数時間後に倍返しの報復を受けるのだろうと云う未来が容易に想像出来た。
「ふふ…」
そんなお先真っ暗の未来予想に私は笑む。“少なくとも今日は厭と云う程構って貰えそうだ”なんて、それこそ―――飼い犬みたいな事を考えながら。
****
動物の好き嫌いは千差万別だ。
猫が好きな奴も居れば、犬が嫌いな奴も居る。
そして俺にとっての動物に対する評価は、“特に好き嫌いは無い”だ。猫だろうが犬だろうが虎だろうが、俺の理想の邪魔さえしなければ、正直居ても居なくても何方でもいい。
そう。俺の理想の邪魔さえしなければ―――
「わぁ、本当に可愛いなぁ」
「ねぇ〜、足もちっちゃくて可愛いわよね〜」
「きゃわわわわわうぃ〜」
「………何だこれは」
魔都・ヨコハマ。数々の異能力組織が鎬を削り、地獄の悪鬼羅刹共が闇に蠢く街。その光と闇、昼と夜の間を取り仕切る武装探偵社の一角で、女子供が一匹の猫に頬を緩ませていた。と云うか、約一名頬どころか言語能力迄溶けている奴が居る。
「あ!国木田さんおかえりなさい」
「おい賢治、何だアレは…」
「嗚呼、マンチカンって云うらしいですよ。矢っ張り都会って凄いですね、あんな足の短い猫初めて見ました!」
「否、猫の品種を聞いている訳ではなく、何故此処に猫が居るのかを聞いているのだが…」
「とある政府要人の飼い猫を社で預かったのだよ」
その声に振り向くと、自席で頬杖を着いた太宰が目元に影を落としながら説明を始めた。
「その要人の許に暗殺予告があったらしくてね。まぁ悪戯かもしれないけど念の為って事で、厳重警備の下安全な隠れ家に避難する事になったらしいのだよ。でも、残念ながらその隠れ家は動物お断りでね。大の愛猫家たるその御仁は、せめて安全な場所に預けたいと片端から知り合いに連絡して、ウチがその要望を請け負ったと云う訳さ」
「一体誰がそんな事を…」
「私だ」
その時、俺達の背後から芯の通った明朗な声がした。気配ひとつ漏らさず其処に佇んで居たのは、無論我が社の社長だった。
「あ、社長!見て下さいほら、チビちゃんゴロゴロしてますよ!」
「チビたんぎゃわいい、マジ天使〜」
「全く、あんなちんちくりんの何処が善いんだか…」
「おい、お前は先刻から何をそんなにむくれておるのだ。別に猫は嫌いじゃなかっただろう」
「理由は簡単さ……。コレだよ」
すると太宰は、頬杖を付いていた方の頬を俺に見せた。其処には赤いミミズ腫れが四本、生々しくくっきりと浮かび上がっていた。外観だけが取り柄の容姿に刻み付けられたその無残な傷に絶句していると、横から賢治が注釈を付ける様に口を開いた。
「あの子、何故か太宰さんにだけは全然懐かなくて、近寄った瞬間猫パンチされちゃったんです。他の人にはそんな事しないのに何ででしょうね?」
「…………」
「国木田君。君の云う通り、私は猫が嫌いな訳じゃない。ただ、あの猫は生理的に無理だ。何よりあの姿を見ていると、思い出したくもない顔がチラついて不愉快極まりない」
完全に光の消えた眼で、太宰は賢治の言葉を引き継ぎそう云い切った。まるで長年の宿敵に向ける様なその言葉に、俺は改めてその猫をジッと見やる。丹色の毛並み、鋭く座った碧い眼、そして小柄な体躯の猫。だが幾ら凝視してみたところで、俺の記憶には該当する顔が見当たらなかった。
「きゃー!チビちゃんが立ったわ!」
「マンチカン立ちや!チビたんマンチカン立ちやー!」
その時、問題の猫が器用に後ろ脚だけで立ち上がり、浮いた前脚で腕組みをした社長の袖を掻いた。お陰で春野女史と菫の猫狂いコンビは狂喜乱舞だ。すると社長は何か思い出した様に其処へ手を入れる。袖の中より取り出したるは、一匹の煮干しだった。
「凄い!この子、社長の袖に煮干しが入ってるって当てましたよ!」
「まぁ、こんなに小さいのにチビちゃん賢いわね〜」
「チビたんしゅごいにゃ〜、天才ちゃんだにゃ〜」
普通に眼を輝かせる敦と、最早骨格に迄融解が進んだ猫狂いコンビ。そんな中一人鉄壁の表情を保っていた社長は、煮干しを猫の前に置くとその小さな頭をそっと撫でた。
「賢い奴だ」
「っ―――!?」
その瞬間、背後のピリピリとした空気が一際張り詰めた。濃度を増した不機嫌オーラに、俺は固まった首を意地で動かし振り向く。其処には案の定、破裂寸前の風船の様に頬を膨らませた名探偵が居た。
「はぁ〜〜、肉球…。チビたんの肉球やわやわぁ…。猫科の肉球マジで宇宙一の癒し…」
「…………」
ブチっ、とそんな聞こえる筈のない効果音が聞こえた気がした。自分の頬に傷をつけた猫の前足にベシベシ踏みつけられながら、デレデレと締まりの無い顔で和む恋人の姿に、ゆらりと立ち上がった太宰は音もなく乱歩さんの隣に並ぶ。
「乱歩さん」
「嗚呼、行くぞ太宰」
「五秒で片付けますよ」
「馬鹿云うな。二秒だ」
互いの顔を一瞥もせず、万象を見透かす鋭利な双眸を行手に向けた二人は、恐ろしい程静かに事務所を後にした。推理力の化身と操心術の権化。我が社が誇る最強の頭脳が並び立つ様を見送った俺は確信した。暗殺予告の真偽に関係なく、この事件の犯人は後数刻もせずにお縄に着くだろうと。そしてあの猫は、きっと今日中に飼い主の許に戻る事になるだろうと。先見を見通す眼を持ち合わせていない俺でも、その未来がありありと見えた。
ただひとつ、数日後ポートマフィア本部ビルの某五大幹部執務室に大量の猫缶が着払いで送り付けられると云う、奇妙な未来を除いて。