hello solitary hand・番外編
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四年前。突然この世界に迷い込んでからと云うもの、私は幾度となく選択を迫られてきた。
その選択の先に実を結んだ結果を、私は時に喜び、時に安堵し、時に悲しみ、そして後悔した。
“あの時こうしておけば善かった”。“あの時あんな事しなければ善かった”。そんな未練がましいタラレバは、最早数える事すら諦める程に膨大で。しかし何度苦渋を飲み下そうと、学習能力の無い愚かな私は後先考えずに勢いで行動し──
結果として、その苦々しい“後悔”に新たな一頁を刻む羽目になってしまった。
「よく来たな
そんな言葉と共に私を出迎えた元ラスボスであり、現頼もしき協力者に私は表情筋をフル稼働させた全力の“人当たりの良い笑顔”で会釈した。
****
事の発端は数時間前。賢治君が取った一本の電話から始まった。
「菫さん!ご指名の依頼です。元
その瞬間、ポンコツながら高速回転した私の脳は一つのある重大な事実を思い出した。
『俺だ。一体誰だ?どうやって俺の番号を──』
「詳しい話は後ですミスター・フィッツジェラルド!今すぐ頭上を防御して下さい!」
あ…そう云えばフィッツジェラルド氏に共喰いの件まだ謝罪してなかったわ。
嘗てヨコハマの存亡を懸けて戦った敵。しかして互いに様々な紆余曲折を経た今、協力関係を結べる程には話が通じる相手になってくれたフィッツジェラルド氏。だが先の共喰い事件の折、私はそんなフィッツジェラルド氏を課金制マットレス扱いした挙句、五万ドルもの大金を消費させちゃった上に、その後のゴタゴタに忙殺されて謝罪参りに行くと云う必須イベントが完っ全に頭からすっぽ抜けてた。常識的に考えてブチギレ不可避案件である。下手すりゃ仏のポオ氏ですらいじけかねん案件なのだから、プライド天空カジノ級のフィッツジェラルド氏の心境たるや考えるだけで恐ろしい。
そんなガクブル状態のまま、半ば絞首台への道を歩む死刑囚の様な面持ちで彼の御前に辿り着いた私は、何故か芳醇な香りを漂わせる紅茶と見るからに高級そうなチョコレートケーキで持て成された。
「君は珈琲より紅茶を好むと聞いてな。フォートナムズのファーストフラッシュを淹れさせた」
「あ…はい。大変美味しゅうございます……」
全力で平静を装いつつ、内心私はもんどり打っていた。
だってこれ完全に最後の晩餐じゃん。死にゆく相手へのせめてもの慈悲じゃん。ヤバいじゃんマジで。本来初手から五万ドルパンチ繰り出してきてもおかしくないフィッツジェラルド氏が、こんな落ち着いて茶会開いてる時点で最早怒りが一周回っちゃってるじゃん。確実に処刑不可避じゃん私。あー、こんなんだったら昨日の太宰君の『ねぇ、お願い。もう一回だけ』も聞いてあげればよかった…。ごめんよダーリン。せめて執行猶予は貰えるように努めるけど、五体満足で帰れんかもしれんホントごめん。
「却説。ではそろそろ本題に入るか──」
「っ!!」
その瞬間、後悔ばかりの人生を送ってきた私の身体は、反射的に謝罪の体制への予備動作を取る。今回の件に関しては、一から十まで私に非がある。であれば、私に許された悪足掻きはただ一つ。
──全身全霊の謝罪を以て、恩赦を嘆願するのみ!!
「ミスター・フィッツジェラルド!この度は誠に──」
「喜べ
「………へ?」
そう云ってソファから立ち上がったフィッツジェラルド氏は、お手本のような上から目線で私を見下ろした。対する私は普段耳慣れないワードの羅列に頭が付いてい行かない。だがそんな私などお構いなしに、ガチの外資系社長セレブはビシッと効果音の幻聴が聞こえそうな勢いで私を指さすと、無駄にいい声で高らかに云い放った。
「我がマナセット・セキュリティにおける社食の新メニュー。その考案の一切を君にアサインする!!」
「……ほわっつ?」
****
日当たり良好なだだっ広い応接室。そのど真ん中に位置する高級感溢れる革張りのソファに腰かけて、私は出されたチョコレートケーキに舌鼓を打つ。BGMは私の真正面からつらつらと流れてくる、大変耳心地の良い代表取締役社長様からの有難い改革論である。
「つまりだ!現在このマナセット・セキュリティでは、旧態を排し新しい社風を確立するべく様々な施策を講じている。その一環としてリニューアルされる社食の新メニュー考案を、君に一任してやろうと云う訳だ!」
「どうしてそうなった」
まぁ確かに、前会長は有能な開発者に殺人の冤罪を掛けるような碌でなしだったし、そんな男の敷いた法もまた碌でもなかったと云うのは想像に難くない。だが、何故そこで社食の新メニュー考案を私に依頼する流れになるのだろうか。
「社内改革にあたり、先日社員達にアンケートを実施した。その結果、改善を求める声が最も多かったのが、問題の“社食”だ」
「そんなに酷かったんですか?」
「調理場は少数のアルバイトで回し、素材の大半は粗悪な冷凍食品。加えて、調理場の設備はタイムマシンで取り寄せたのかと疑う様な化石ばかりだ。お陰で、昼時になると社員の半分以上が外へ食事を摂りに行くくらいには人気が無い」
「社食の意味とは」
「既に一流のシェフを雇い、食材の仕入れ先も変え、調理場の設備も最新式のものにリノベーションした。だが、社食の改革を知らしめるには今一つインパクトに欠ける。そこで君だ!」
「そこでってどこでですか」
「以前の温泉旅館と違い、今回は社員達が日常的に口にする食事。つまり庶民食、君の専門分野だろう!」
「いや、庶民食って云うか私が得意なのは家庭料理…」
「どらちでも構わん。重要なのは、社員達が毎日の様に口にしても飽きられんメニューを作れるかどうかだ。そして君にはその能力がある!」
そう断言するフィッツジェラルド氏に私は内心頭を抱えた。ある意味先刻以上に。まぁ、フィッツジェラルド氏が私の料理の腕を未だ評価してくれるのは光栄な事だ。だが私が作る料理は、殆どが日常的な食卓で出される程度の家庭料理。一企業の社食、しかも改革の狼煙となる新メニューなんて私には荷が重過ぎる。
「申し訳ありません、ミスター・フィッツジェラルド。折角のお話しですが、私如きの腕では貴方のご期待に添えるとは到底思えません。どうかそのご依頼は、もっと腕の立つ別の方に──」
「待て待て
「そうだよ
「オイ待て何やってんだ
つい先刻まで死別の危機に対する謝罪文を考えていた最愛の恋人殿は、私に胸倉を掴まれつつも両手を頬に添えて嬉しそうにクネる。
「え~。だって“彼女が愛情を込めて料理を作るには君の存在が不可欠だ”なぁんて云われたら、断れる訳ないでしょう?」
「いや断れよそこは!!」
「あぁ所で話は変わるが。確か君には先の鼠の一件で五万ドルを不要に消費させられていたな?」
「っ‼」
その一言に全身がビシリと固まる。まるで錆び付いたブリキ人形の様に声の主を見ると、懐かしの大変悪どいラスボススマイルを浮かべて彼は続けた。
「因にこのプロジェクトが成功した暁には、インセンティブとして五万ドルの賞与を検討しているが──
本当にそれでも断るか、
かくして、自分の所有物たる部下の為ならヨコハマを焼き尽くす事も辞さないワンマン社長の鏡にアサインされたタスクを、私はマストでアグリーせざる負えなくなったのであった。
****
「で?具体的にはどんな料理を作ればいいんですか?」
なんの因果か、返り咲きセレブ・フィッツジェラルド氏の命により、彼が代表を務めるマナセット・セキュリティの社食で出す新メニューを考える事になってしまった私は、隣に座る最愛の恋人殿、兼裏切者の太宰君に頭を撫で繰り回されながら、此度の発起人に問うた。
「フッ、心配するな
「は、はい…」
フィッツジェラルド氏がパチンと指を鳴らすと、後ろに控えていた丸眼鏡の少女がおずおずと私の前に進みでる。フィッツジェラルド氏の右腕であり作戦参謀のルイーザ・メイ・オルコットちゃんだ。実際に会うのはこれが初めてだけど、やっぱ実物はメチャクチャ可愛いなぁ。なんて考えている間に、私の前までやってきたオルコットちゃんは顔を真っ赤にして分厚い紙束を差し出してきた。
「えっと…あの…その…」
「うん。今回の件に関する資料かな?ありがとうね」
「え…、あ…はい」
オルコットちゃんが差し出してきた紙束を受け取りつつそう尋ねてみると、彼女は一瞬不思議そうな顔をしながらも小さく頷いた。そんな彼女を後押しするように、向かい側のソファに踏ん反り返っていたフィッツジェラルド氏が口を開く。
「社食に対する社員からのクレームと希望内容をオルコット君が解析し、纏めた資料だ。君にはその資料に基づいてメニューを考えてもらう」
「成程。正直、事前情報もない侭メニューを考えるのは厳しいと思っていたので、とても助かりま……ス──」
受け取った資料に目を落とした私は、次の瞬間脳が処理落ちした。何せそこに並んでいたのは全文英語で、しかも週刊漫画雑誌レベルに分厚い。これ翻訳するだけでも丸二日掛かるんじゃね。そんな絶望に苛まれた私の手から、包帯だらけの大きな手が、ひょいと紙束を取り上げた。
「どれどれ~?……ふぅん…あー、そう云う感じね……」
フムフム頷きながら紙束をパラ見した太宰は、最後の頁まで捲りきると、その資料をオルコットちゃんに差し出した。
「君センスあるね。こんなに見易い資料中々無いよ」
「えっ?あ…いえ…その…っ」
「フッ、当たり前だ!オルコット君は
「フ、フィッツジェラルド様……」
「却説菫。情報も手に入った事だし、先ずは作戦会議といこうか」
「え…?でも私、あの資料全然判んなかったし…。って、オイ待て、まさか…っ」
「うん、今読んで全部理解した」
「「ええ!?」」
その発言に奇しくも私とオルコットちゃんは同時に驚きの声を上げる。そんな中、フィッツジェラルド氏だけが興味深そうに「ほう…」と声を漏らす。
「あの数秒で彼女の超大作を読み切ったのか。普段読んでいる俺でも、全てに目を通すとなると数時間は掛かるぞ」
「まぁ、こう云うのは得意だからね。と云う事で菫、必要な情報は私が要約してあげるから安心して」
「わぁああん!ありがとうダザエもん大好きーーー!!」
「いや何ダザエもんって」
そんなこんなでダザエもん、基、大天才太宰君の話によると、例の社食に対するクレームは“量が少ない”、“食べごたえがない”、“納豆や生卵はムリ”等々。どちらかと云うと日本食そのものに対する不満がメインらしい。
「俺が代表に就任してからは、本国からの人員補充も相まって、日本人の割合も大分減っているからな」
「って事は箸じゃなくてフォークやスプーンで食べられる料理にした方が良さそうですね。……あ!咖喱とかどうでしょう?」
「えっと…一応社食のメニューに咖喱はあるんですが…その…」
「人気はいまひとつなのだよね。と云うか、寧ろ不評?」
「え…何でだ?咖喱と云えば、大人から子供まで大人気の定番メニューだろう?」
「“ジャガイモがルーに溶け出してて不快”、“野菜で嵩増ししてて物足りない”、“抑々肉のボリュームが足りない”って云うのが主な不満ポイントみたい」
「oh…そう云う感じか…。う~ん、って事は肉料理の方がウケるのかな。…あ!豚の生姜焼きとかどうだろう。キャベツの千切りとか添えたら栄誉バランスもバッチリだし」
「その…生姜焼き定食も…社食のメニューにありまして……」
「これも不人気なのだよね。“キャベツの千切りは要らない”、“料理が細々分かれていて面倒”、“肉のボリュームが足りない”って理由で」
「どんだけ肉にボリューム求めてんだよ」
「まぁ、本国では肉と手取りは厚ければ厚い程いいとされているからな」
「その内加熱不十分で食中毒引き起こしませんそれ」
「でも実際社員もそう云う考えみたいだね。クレームの中で一番多かったのが“野菜は不要、肉を出せ”って意見だったし」
「はい。社外に食事を摂りに行く人達も、殆どがハンバーガーショップ等のファストフード店に通ている状態で…」
「表向き警備会社として通してはいるが、その実我が社の本質は“
透き通るような碧眼に見つめられながら、私は情報を整理する。つまり此処の社員さん達が求めているのは、食べ応えのある食感とボリューム、日本食独特の味よりは自国の馴染みある食事をご所望で、且つ形状はシンプルに、野菜は避けて兎に角肉肉肉。対して依頼主たるフィッツジェラルド氏のリクエストは、社員の健康を維持つつ、リピーターが付くような看板メニュー。それらの希望を両立し、且つ社食として手早く、お安く、継続的に提供できる料理──
数分の思考の末、それらの条件を満たす最良の三品を決めた私は、満面の笑みを以て顔を上げる。
「よし!メニューが決まりました。ただ異国の方々のお口に合うか判らないので、宜しければご試食頂けますか?」
そんな私の申し出に、向かい側の二人は目を丸くする。ただ一人、私の隣に座る最愛の恋人殿だけは、誇らしそうな顔で口元に笑みを浮かべていた。
****
と行こうとで、急遽明日開催される事となった社食新メニューの試食会。その為の食材を揃えに、私は荷物持ちに立候補してくれた太宰君を引き連れて、行きつけのスーパーへと向かった。そこまでは良かったのだが──
「何で貴方達まで着いて来るんですか」
「フッ。君達探偵社に敗れた後、貧しい資金の中
「フィッツジェラルド様がまた特売の鍋を買わない様に着いてきました」
どや顔の依頼人と何処か影のある笑顔を浮かべる部下。その対比を眺めながら、私は“どんなに最高な職場環境でもそれなりの苦労は存在する”と云うこの世の心理を垣間見た。あと無駄に積まれているであろう鍋とかも、可能な限り有効活用していこうと心に誓った。
「でも…抑々どうして買い出しに?必要な食材や調理器具は此方で用意すると、フィッツジェラルド様も仰いましたのに…」
「まぁ一応ね?普段使ってる食材の方が私も料理し易いし、味のイメージも付き易いからさ」
「成程。
「勿論さ。何せ菫の料理は最高だからね。そこに私への愛情と云う隠し味が加われば、どんな料理でも宇宙一の逸品さ」
「そこの後方で“自分判ってます”ムーブかましてるお二人さん?出入口で立ち止まらないで下さい。他のお客さんの迷惑ですよー」
そんなこんなで始まった“真☆庶民のお買い物ツアー”。最初に立ち寄ったのは、社内アンケートで大不評を買った野菜のコーナーだ。
「フッ。判るぞ
その無駄にいい声を野菜コーナーに響かせ、最近貧しい資金の中
「一袋40円前後と云う低価格ながら、200グラムと云う大容量!貧困に喘ぐ給料日前の庶民達がこぞって求めるスーパーフード!則ち──“もやし”だ!!」
「残念でした。私の目当てはこっちです」
「何ぃぃいいいい!!?」
某奇妙な冒険の登場人物宜しく叫んだフィッツジェラルド氏は、しかし私が手にしたそれを覗き込むと、怪訝そうな顔で首を捻った。
「なんだこの草は?庭から刈り取ってきたのか?」
「歴とした食材ですよ。これは“貝割れ大根”。大根の新芽です」
「ダイコン?あの白い野菜か?」
珍しく戸惑った様な表情で別の区画に置かれた大根を指さすフィッツジェラルド氏に、私は若干どや顔で頷いて見せた。
「その通り。貝割れ大根はビタミンCやビタミンK。βカロテンなんかの栄養素が豊富で。免疫力アップや抗酸化作用、骨粗鬆症予防にも効果があり、尚且つがん予防や殺菌作用迄持ち合わせてる、まさにスーパーフードです」
「何⁉こんなただの草がが⁉」
「はい。しかも値段も1パック60円前後とお安いので、少人数の食卓に最適です。ウチでもよく食卓に並べてますよ。なぁ太宰?」
「あぁ、そう云えば。納豆と胡麻ドレッシングで合えたサラダとか、国木田君が遊びに来た時は鰹のたたきの薬味に使われたっけ」
「信じられん。こんな少量で栄養豊富な上に低価格だと…。これが真の庶民の買い物と云う事か…っ」
つい最近節約に目覚めたなんちゃって倹約の家がそんな事を呟いている間に、私は他の必要な食材を籠に入れると次のコーナーへと向かった。社員達が口々にボリュームの重要性を訴えていた肉のコーナーである。
「先刻は知識不足が原因で遅れを取ったが…。しかし、肉であればそう差異は無い。そして、庶民が好む肉と云えば低価格と高蛋白質を兼ね備えたこれしかあるまい。そう──鶏胸肉だ!!」
「フィッツジェラルド様…っ。もう少し…こ、声を抑えて下さい。人に見られてますよ…っ」
慌てる部下の忠告もなんのその。自信満々のどや顔で250グラム入り225円の鶏胸パックを突き付けてきたフィッツジェラルド氏に、私は満面の笑顔で買い物籠を指し示した。
「大正解ですミスター・フィッツジェラルド。仰る通り鶏胸肉は低価格且つ高蛋白質。私も重宝する非常に有用な食材です」
「おぉ!矢張りそうか。フッ、“何事も経験”とはまさにこの事だな。まさかあの“すばらし荘”で過ごした貧乏生活が、こんな所で役立つとは」
「えぇ。鶏胸肉、硬くてぱさぱさしてましたけど…。貴重なお肉が食べられるって隣のおじさんと一緒に喜びましたっけ…」
「あぁ…。それじゃあ二人共、きっと菫の料理食べたらびっくりするだろうね」
「「は?/え?」」
お得意の意味深な微笑みでそんな事を云う太宰に、きょとん顔で首を傾げる二人。その間に他の肉類を籠に追加して、私達は次の区画に進む。
「此処は何のコーナーだ?」
「ん~、加工食品…の中の“発酵食品”コーナーですかね?」
「発酵食品?」
「チーズでも買うのか?」
「はは。それもありなんですけど、私の目当てはこれです」
目的の袋を手に取って見せると、それを覗き込んだ二人は今日一番の困惑顔を浮かべた。
「何ですか…これ…?」
「紙粘土か?」
「紙粘土は食べられないでしょう。これは“酒粕”です」
「サケ…カス……?」
「自己紹介か?」
「HAHAHA!それってアメリカンジョークですか?」
そんな戯言と共に酒粕を籠に入れつつ、私は買い物の道中、外つ国の客人に酒粕のレクチャーを始める。
「“酒粕”って云うのは、日本酒を作る際に残る搾りかすの事です。炭水化物は勿論、蛋白質、ビタミン、アミノ酸、食物繊維と栄養素の宝庫で、腸内環境の改善や生活習慣病予防。あと美肌効果とかもあるんですよ?」
「え?美肌効果もですか…?」
「酒の搾りかすにそれ程の効果があるとは…。日本の食文化。侮れんな…」
「まぁ搾りかすと云えど、多少アルコールは含みますので調理に工夫は必要ですが、上手く使えば美味しく健康になれる有能食材ですよ。なぁ太宰?」
「……」
「?…太宰?」
日常的に料理を振舞ている太宰に同意を求めて振り向くと、何故か太宰は珍しく難しい顔で俯いていた。否、俯いていると云うのは語弊があった。いつになく真剣なその鳶色は、入店当初から彼が引き受けてくれていた買い物籠に注がれていたのだから。
「……菫。ちょっと確認したい事があるんだけど」
「何だ?」
「今君が籠に入れてるのって、社食の新メニューに使う食材だよね?」
「うん。そうだな」
「じゃあ此処に入ってるのって、所謂“健康に配慮された食材”って事?」
「あぁ!私が選りすぐった、少量でも健康効果抜群なスーパーフードだ」
「そっ……かー……。所で菫、もう一つだけ聞いていい?」
「ん?」
「君が選りすぐった食材、どれもウチの冷蔵庫に常備されてるのは何で?」
その昔、ヨコハマの夜を震撼させた元ポートマフィア最年少幹部。その魂まで凍り付いたような恐怖の表情に、私は今日一番の最高の笑顔を以て答えた。
「そりゃ私が日頃から君に、栄養コスパ最強の完全栄養メシ出してるからだな」
「矢張りそうか!!!」
恐らく国木田君や中也が聞いたら、三日三晩酒の肴にしそうな絶望の叫びを上げて、太宰は膝から崩れ落ちた。スーパーのど真ん中で。
「大丈夫か太宰?」
「大丈夫じゃないよ!何て事してくれたんだい君!?」
「えー?でも太宰だって私の料理が栄養バランスいいって知ってただろう?」
「知ってたけど!此処まで徹底して健康効果のあるものばっかり食べさせられてるなんて思ってなかったよ!!」
「そりゃまぁ、こっちも気づかれない様に低価格云い訳にしたり、マイナー食材チョイスして栄養盛ってたしな」
「しかも意図的だったのかい⁉あぁもう…、道理で君と暮らすようになってから矢鱈寝起きはいいし、何だか身体が軽いし、どんなに深酒しても翌日に残らないと思ったら…!」
「酒粕って肝機能もサポートしてくれるんだよ。だから肝臓の解毒作用にブースト掛けるシジミ汁に混ぜて出せば、大体のアルコールは一晩で消し飛ぶって訳」
「そんなぁあ~!」
四年越しのネタばらしをしてやれば、最早スポットライトの幻覚が見える程の悲壮感に項垂れて、太宰はさめざめと口元を覆う。
「うぅ…酷い…。あんまりだ…。まさか今まで口にしてきた愛する人の手料理が、私を健康体にする為に仕組まれていた罠だったなんて……」
「じゃあ私の料理食べるの、もうやめるか?」
「やめられる訳ないだろう!判ってる癖に!」
「そりゃ良かった。まぁそう云う事だから、少なくとも私の料理食べ続ける限りは生活習慣病で死ねないと思えよ?」
「うわあぁぁん!菫の性悪!小悪魔!人でなしーー‼」
「……フィッツジェラルド様。あの人達は一体何を云い争っているんでしょうか…」
「判らん」
****
フィッツジェラルド氏は社員の食生活改善を。そして私は5万ドルの負債を懸けて。リニューアルオープンを控えた社食の新メニューを見定める試食会が、本日遂に幕を開けた。尚、審査員は新代表のフィッツジェラルド氏と、その右腕オルコットちゃんである。
「で、太宰君は何でカメラなんか構えてる訳?」
「調理手順を記録するよう頼まれてね。安心してよ、ちゃんと可愛く撮ってあげるから」
「いや、なら手元を撮れよ」
「はぁ…。手元だけでも判る愛くるしさ…流石菫…」
もう色々ツッコむのを諦めて、私は早々に調理へ取り掛かる。先ずは昨日の内に下味を付けて寝かせておいた鶏肉と刻み玉ねぎを火に掛け、軽く焦げ目が着いてきたらニンニクと生姜を投入。更にカットトマトの缶詰を加え、スパイスと適量の水で煮込む。その間にこれまた昨日の内に仕込んでおいた厚切りの豚肉をフライパンに並べ、中火でこんがりと両面を焼いた。両面に程よく焼き目が着いたら、余熱しておいたオーブンに入れてタイマーを15分にセット。煮込みと焼きを同時進行している間に、今度は大きめのボゥルに材料を入れ、調理用手袋を嵌めた手で満遍なく混ぜ合わせ、空気を抜きながら楕円形に整形して別のプライパンで焼く。
「ん~、あっちからもこっちからもいい匂い。お腹空いてきちゃった」
「ちゃんと太宰の分も作ってるから安心してくれ。よし!いい感じに焼けた。あとは…そろそろこちが煮えてきた頃かなぁ?ほい太宰。味見頼む」
「はーい」
小皿に少しよそって差し出すと、太宰はカメラを持っていない方の手で受け取って口を付ける。すると一瞬、太宰は少し目を見張って不思議そうに小皿を見た。
「あ…ごめん。やっぱちょっと辛かったかな?」
「え…。あぁうん、少しだけ。けどこれはこれで凄く美味しいいよ!」
「そっか。じゃあ味の方はこれで大丈夫かな」
その時チーンと軽快な音を立てて、最新式のオーブンが終了を告げる。開けてみるとふわりと香ばしい匂いが周囲に広がった。
「おぉ!美味しそう」
「だろ?だがな太宰君、実はここから更に美味しそうな感じになります」
「嘘、これ以上に?」
「なります」
「嗚呼、菫…。なんて素晴らしいヒトだ…。こんな料理上手な女性に毎日味噌汁を作って貰えたら、どんなに幸せだろう」
「幸せ者さん自己紹介乙」
そんな小芝居を交えつつ、私は最後の仕上げに取り掛かった。そして数分後、盛り付けまで完璧に仕上げた私は、テーブルに着いて待機していた審査員に声を掛ける。
「お待ちどうさま!ご飯できましたよー!」
そう云って私は一品目を二人の前に並べる。食欲を唆るスパイスの香り、通常よりも赤みを増したルーとターメリックライスの鮮やかな配色、その中でゴロゴロと主張する鶏肉の存在感。ありとあらゆる不満ポイントを一掃し、人気メニューのポテンシャルを限界まで引き出した一品。則ち──
「これは咖喱か?」
「はい。“トマトチキン咖喱”です」
「え…?でも…トマトなんて何処にも…」
「それは食べたら判るよ」
私の言葉に顔を見合わせた二人は、各々にスプーンを持つと器から一匙掬って口に運ぶ。次の瞬間、二人がほぼ同時に目を見張った。
「何だこれは…!スパイシーでコクのある味わいと後に残る爽やかな酸味。こんなにもパンチが効いていながら、しかし全くくどくならず、寧ろスプーンが勝手に次の一口を掬い始める…」
「お肉もジューシーで柔らかくて美味しいです」
「はは、お口に合った様で何よりです」
口々に飛び出す称賛の言葉が流石にこそばゆくて頬を掻くと、いつの間にか半分くらいまで食べ進めていたフィッツジェラルド氏が顔を上げた。
「説明しろ
「云ったでしょう?これはトマトチキン咖喱。その後味の正体はトマトです」
「でもそのトマトは一体何処に…。っ…!もしかして…」
「そう!この咖喱はカットトマトの缶詰にスパイスを加えて仕上げたものだ。トマトに含まれるリコピンって栄養素は、強力な抗酸化作用と疲労回復効果があって、しかも油と一緒に加熱する事で吸収効率も上がる。加えて咖喱に使われるスパイスも抗炎症作用や免疫力を上げる働きがあるから、お互い相性は抜群なんだよ」
「何⁉咖喱とトマトにそんな効果が…っ」
「あ。因にその鶏肉、君達が硬いって嘆いてた鶏胸肉だよー?」
「えぇ⁉」
調理場で同じ咖喱を食べていた太宰が声を掛けると、オルコットちゃんが驚きの声を上げる。その初々しい反応にニヤつきそうになる口元を抑えつつ、私は説明を続けた。
「確かに鶏胸肉は硬くてパサつくけど、蜂蜜とか玉ねぎとかヨーグルトと一緒に付け込んでおけば、繊維が分解されて水分量が保持されるんだ。で、昨日下味付ける時点で全部突っ込んでおいた」
「だからこんなにジューシーなんですね」
「あとはフォークでめった刺しにしておくのもいいよ。今度機会があったら試してみて」
「おいおい。幾ら硬いとは云え食材にあたるのはどうかと思うぞ
「繊維を断つ為ですよ。まぁ確かに“嫌いな奴の顔思い浮かべながら刺せ”とかよく云われてますけど」
尚、その下拵え中太宰が「私もやりたい」と申し出てくれたが、以前頼んだ際に鳥ミンチが生成されたので気持ちだけ貰っておいた。
「これならば社食の咖喱に文句をつける者など二度と出まい。一品目からこのクオリティとは、期待以上だ
「ありがとうございます」
一先ず一品目の評価は上々らしい。そんな安堵と喜びに小さくガッツポーズを決めて、私は冷めない内に次の品を審査員に提供する。
「ではこちら二品目。“豚の味噌焼き丼”でございます。備え付けのレンゲでお召し上り下さい。お好みで七味唐辛子もどうぞ」
「ほぉ」
「これが丼もの…ですか…」
日本に来てから日が浅い為か、二人は物珍しそうに一通り丼ぶりを眺めてからレンゲを取った。中央に添えられた半熟卵を割って、溢れ出た黄身に厚切りの豚肉を絡めながら、下の白米と一緒に二人は一口目を口に運ぶ。
「美味しい!お肉が厚くて香ばしいのは勿論ですけど、トッピングの卵を絡めるともっと美味しく感じます!」
「ふふ。生卵は嫌煙されてるみたいだったから半熟卵にしてみたんだがお気に召したようで何よりだ」
「でも、こんなにボリュームがあるのに、どうしてあまり重く感じないのかしら…?」
「それはねぇ。肉と米の間に敷いてある“それ”のお陰さ」
若干どや顔でオルコットちゃんに答えると、それを隣で聞いていたフィッツジェラルド氏が自分の丼の豚肉をレンゲで軽く捲った。
「これは…あの時の草か⁉」
「貝割れ大根です。消化酵素の働きで胃もたれを防ぎ、且つシャキシャキ食感がアクセントになって、がっつり系の丼ものも重くなり過ぎずスイスイいけちゃうって絡繰りですよ」
「成程…。ん?だが待て
「ミスター・フィッツジェラルド。先刻の鶏胸肉同様、肉の美味しさは工夫一つで幾らでも底上げできるんですよ。そしてこちらの料理にはこれを使いました」
「それは…君の分身──」
「酒粕です。貴方本当に日本名詞だけ壊滅的に覚えませんね」
「確かとても身体に良い食材でしたよね?」
「流石オルコットちゃん。その通りだ。酒粕に含まれる酵素は肉を柔らかくして旨味を増やす。で、そこに肉の旨味を引き出してくれる味噌を加えて、後はニンニクとか生姜とか蜂蜜もちょっと入れてる。結果、豚肉由来のビタミンB群を美味しく摂れる疲労回復飯の出来上がりって訳」
「凄い…。そこまで考えて調理してるんですか…?」
「まぁ習慣みたいなものだよ。好きな人には出来るだけ健やかに居て欲しいからね」
そう零しながら調理場の方を振り向くと、丼ぶりに箸を付けていた太宰と目が合う。が、渋い顔で逸らされた。それでもちゃんと箸は進んでいるのが見えて、思わず吹き出してしまった。すると一足先に完食したフィッツジェラルド氏が、満足そうな顔でレンゲを置く。
「これは人気メニュー間違いなしだな。加えて、健康面に配慮しろと云う俺のオーダーも満たしている。見事だ
「恐れ入ります。それじゃあ、最後の品もご試食願えますか?」
「勿論だ。却説、次は一体どんな料理で俺達を楽しませてくれる?」
「ふふふ。実を云うとこれが一番苦労しました」
そう苦笑しながら私は最後の皿を審査員の前に並べる。その瞬間二人の顔が目に見えて曇った。まぁ無理もない。そこに並べられたのは様々な具材を挟み込んだ狐色のバンズと、小振りのバスケットに入れられたスティック状の添え物。そして小さな気泡を僅かに立たせた冷たいグラス。
そう。どこからどう見てもそれは、“ハンバーガーセット”以外の何物でもなかった。
「
「仰りたい事は判ります。ただ、先ずは此方を一口食べてからお願いします」
明らかに鋭くなった碧眼を真っ直ぐ見返してそう頭を下げると、数秒の無言の後フィッツジェラルド氏は目の前のハンバーガーを手に取った。それを見てオルコットちゃんもおずおずと皿に手を伸ばす。そして特に示し合わせるでもなく自然に、しかしてほぼ同時に、二人は最後の一品にかぶりついた。
「「!?」」
そして奇しくも二人ほぼ同時に同じ様な驚き顔で目を見開いた。これまでの反応からそれが何を意味するか理解した私は、内心ホッと胸を撫で下ろす。が、そんな私に口を開いたフィッツジェラルド氏の表情は、まだ少し不満げだった。
「確かにこのハンバーガーは美味い。それは認めよう。だが、俺は社員の健康に配慮したメニューを作れと云った筈だ。幾ら上質なパティで誤魔化そうと、ファストフードなど話になら──」
「それ、“鯖”です」
「………は?」
自分の話を遮ると云う無礼を働いた私に、フィッツジェラルド氏は怒りではなく驚愕を露わにした。その表情に胸の中で湧き上がる“してやったり”と云う気持ちを抑えて、私はあくまでニコやかに種明かしをする。
「確かにバンズは市販品ですが、パティはこれで作りました」
そう云って、私はエプロンのポケットから材料を取り出す。高い栄養価を誇りながら安定の低価格で庶民の食卓を支える影の救世主。──鯖の水煮缶である。
「ちょ、ちょっと待って下さい!このパティを作った…?その缶詰でですか?」
良い反応をしてくれるオルコットちゃんに微笑みつつ、私は未だ放心状態で視線だけこちらに向けてくるフィッツジェラルド氏に向き直った。
「鯖缶と卵と炒めた刻み玉ねぎに塩コショウで味付けして、繋ぎにはパン粉の代わりにオートミールを使いました。オートミールは食物繊維と鉄分が豊富で、血糖値の上昇とコレステロール値を抑えてくれる働きがあります。そしてメインの鯖は良質な蛋白質と共にDHAやEPA等の栄養素を含み、身体の健康維持は勿論、脳の神経細胞を活性化してくれるスーパーフードです。なぁ太宰?」
「何で私に振るんだい?」
自信満々に振り向くと、調理場の太宰が不服そうな顔で鯖バーガーを齧っていた。そんな恋人の可愛らしい姿に頬を綻ばせていると、今まで放心状態だったフィッツジェラルド氏が珍しく静かな声で問うてきた。
「ではこのハンバーガーも。君が考案した健康メニューだと云うのか…」
「ええ。此処の皆さんはファストフード店に通ってる方が多いと聞きましたので、そんなに好きなら一丁作ってみようかと思い立った所存です。不健康なイメージが付きがちですが、素材にさえ気を付ければハンバーガーも十分健康食になりますしね。まぁ…流石にこう云うの作るのは初めてだったので、ちょっとしたチャレンジになりましたが。あ、因にポテトの方も是非感想をお聞かせ下さい」
「このポテトにも何か仕掛けがあるんですか?」
「ん~仕掛けって程でもないけど、強いて云うなら“揚げてない”」
「は?」
恐る恐ると云った様子で質問してきたオルコットちゃんにそう答えると、隣のフィッツジェラルド氏が素っ頓狂な声を上げた。
「ジャガイモを切って、キッチンペーパーで余分な水分を取ってから、ビニール袋にオリーブオイルと塩と一緒に入れて振って、オーブンでこんがり焼きました。なので、普通のフライドポテトより油分が大幅カットされてると思います」
「いや、これは普通のポテトだろう」
「はい。普通のポテトです」
「それなら良かった。ジャガイモは意外とビタミンCが豊富で、しかもこのビタミンCは本来熱に弱いんですが、ジャガイモの澱粉がガードしてくれるお陰で加熱しても栄養素が消えにくいんです。なので油問題さえクリアしてしまえば、ジャガイモって凄く優秀な野菜なんですよ。まぁ流石にコーラまでは手作りできなかったので、別のもので代用しましたが」
「これは…ジンジャーエールですか?」
「うん。以前ジンジャーハイボールに嵌ってから、シロップを自家製する様になってね。今回はそれを流用しさせて頂いた。調理過程で生姜を加熱するから、身体を温める効果が上がるし、生姜そのものにも免疫力アップや抗酸化作用があるから、ただの炭酸ジュースよりはずっと身体に良いよ」
「つまり一見ただのハンバーガーセットと見せかけて、中身は栄養満点の薬膳料理って訳か」
そんな事をぼやきながらいつの間にか私の背後でジンジャーエールを啜っていた太宰は、ストローをから口を離すと私の背中にのし掛かる様に審査員の卓上を覗き込む。
「こうやって私も日ごと健康にされていた訳だね。本当に恐ろしいヒトだ」
「何とでも云え。で、如何でしょうミスター・フィッツジェラルド。以上三品が私から提案できる新メニューになりますが、お口に合いましたでしょうか?」
恨みがましそうなジト目でいつもの定位置に着いた太宰をあしらいつつ問いかけると、フィッツジェラルド氏はハッとした様に顔を上げ。軈て数秒の沈黙の後にまたしても珍しく静かに笑った。
「成程。これがモチベーションの違いと云う事か。矢張り君は料理人には向かんな」
「え?」
「気にするな、こっちの話だ。三品とも我が社の社食としては申し分ない」
「では…」
「あぁ。新メニューは君が考案したこの三品でいく。見事な仕事振りだったぞ
「はい!ありがとうございます」
かくして、突如抜擢された一大プロジェクトは代表の満足げな笑顔と共に完遂された。約束通り成功報酬として私の負債5万ドルは帳消しとなり、序に余っているからと特売品の鍋と包丁を贈呈された私は、すっかり夕暮れに染まった空の下、「ちょっと食べ過ぎたかも…」なんてお腹を摩る最愛の恋人殿と共に家路に着いたのである。
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「今日の夕飯は咖喱かな?」
「正解。この前フィッツジェラルド氏のとこで作ったトマトチキン咖喱だ」
匂いに釣られてか台所に顔を出した太宰にそう答えながら、私はぐつぐつと煮えた鍋をお玉で緩く混ぜる。因に先の一件で贈呈された鍋を早速使われて貰っている。何気に使い勝手が良くて地味に有難い。そんな数日前の出来事を思い出している内に食べ頃になった咖喱を小皿によそって、いつもの様に太宰に差し出す。
「ほい。味見頼む」
「はーい」
いつもの調子で小皿を受け取った太宰は、いつもの調子で私の料理を味見する。が、何故かいつもと違って不思議そうに太宰はパチパチと瞬きをした。
「太宰?」
いつもと違うその反応に思わず声を掛けると、太宰はじっと手元の小皿に目を落としいながら徐に口を開いた。
「ねぇ菫。もしかしてウチの咖喱って、
「!」
私が反射的に目を逸らしたのと太宰が此方を見たのがほぼ同時だった。しかもその一瞬で太宰の表情がキョトン顔から不満げな顔に移り変わるのが見えて、全身から冷や汗が噴出す。そして当の太宰はそんな私の背後を取ると、いつもの定位置に収まって私の肩に顎を乗せ、全力で明後日の方を見る私の耳元にいつもよりちょっと低い声で呼びかけた。
「菫?」
「………」
「菫お姉さぁん?」
「………」
「………これ以上黙ってる心算なら、無理矢理にでも喋らせるけど「判った判ったから一旦待て!」
スルリと伸びてきた長い指先に唇をなぞられてこれ以上の沈黙は寧ろ悪手と判断した私は、火を止めて鍋に蓋をすると、念の為コンロから安全圏に迄離れて深い溜息を吐く。
「怒るなよ?」
「怒られるような理由があるの?」
「私にはない。が、多分君的には面白くない、と思う…」
そんな云い訳じみた前置きをして、私はチラリと横目で肩越しにこちらを覗き込む鳶色に目を向ける。
「君さ、辛口より甘口のが好きだろ」
「別にそんな拘り無いけど」
「多分無意識だと思うが、辛口の時だけ大体『辛いけど美味しい』とか『味濃いけど美味しい』みたいに“けど”が着くんだよ君」
「!」
「あと。酒は別として、苦みやえぐみみたいなのも苦手だろ。珈琲とかも自分で好きに調節できる時はミルクと砂糖めっちゃ入れるし。アイス珈琲の時なんて氷も入れなくなるしさ」
「何が云いたい訳?」
言葉を続ければ続ける程、包帯だらけの両腕が喉元に食い込んでくる。予想通りのその反応にもう一つ溜息を吐いて、私は振り向き様に人差し指で太宰の唇を押した。
「君のが好む味付けはさっぱり系よりこってり系。フルーティーよりミルキーで基本甘めかしょっぱめ、あるいはその両方だ。だからウチで作る料理の味付けもそれに合わせてる。お判りか?」
一言吐く度に唇を押してやれば、太宰は面食らった様にのけ反って口を噤む。その隙に太宰の腕を擦り抜けた私は、茶の間への避難経路を確保しつつ遂に結論を告げた。
「まぁ“そう云うのが好き”ってだけで、別に他の味が嫌いな訳じゃないんだろうけどさ。でも君、多分自分で思ってるよりずっと、“お子様舌”だぜ?」
却説、遂に云っちまったぞヤベーどうしよ。なんて内心で自分の発言を後悔しつつ太宰の出方を伺っていると、不意に太宰は大きく肩を落としてその場に座り込んだ。
「え?オイ…太宰?」
呼び掛けるも反応はなく、しかも俯いている所為で顔も見えない。あれ?もしかして普通に落ち込んでる?嘘、思いの他ショックだったのか?もっとソフトにオブラートに過重包装して伝えるべきだったか?そんな焦りが徐々に蓄積していき、軈て耐えられなくなった私はそぉっと太宰に歩み寄る。
「だ、太宰…君…?」
「……」
「太宰、大丈夫か?」
「………」
「あの…ごめんな。デリカシー無い云い方しちゃって。でも、君のそう云う所も私は可愛くて好きだぞ。な?だから元気出して──うわっ⁉」
いつしか手が届く距離まで近づいていた私は、太宰の蓬髪を撫でようと手を伸ばす。その瞬間、私の手は包帯だらけの大きな手に捕まって。そして私本体は其の侭元居た場所に引きずり込まれた。
「嗚呼、残念だなぁ」
耳元に吹き込むように漏れる低い声に、背筋がゾワリと泡立つ。その上を滑る様に回された手が逃げ場を塞ぎ、長い足が胡座をかくように私を囲う。その結果完成した悪魔の包囲網の中恐る恐る顔を上げると、驚く程すぐそこにニヤリと意地悪く笑む鳶色の双眸があった。
「本当は今すぐにでも判らせてやりたいのだけれど。先刻咖喱の味見したばかりだし…。流石に咖喱味のキスとかムードないよねぇ」
「!」
私の顎を掴んで更に顔を上げさせた太宰は、その侭親指で先刻私がした様に唇の上をふにふにと押す。が、不幸中の幸いか恐れていた事態はギリ避けられそうだ。グッジョブ太宰に味見を頼んだ数分前の私。内心でそんな自画自賛と共にここからどう脱出しようか思案していると、不意に太宰は私の背中に回していた手をゆっくりと腰元に滑らせ、そこからぐいと引き寄せる。
「と云う事で、お楽しみは食後にお預けだ。その代わり、じっくりと時間を掛けて判らせてあげる。どっちが本当の“お子様舌”か、厭と云う程。君が小さな子供みたいにへたり込んで、二度とそんな事云えなくなるまで、ね?」
「──っ!!まっ…、待て待て待て待て太宰君!悪かった!先刻の発言は取り消す!だからちょっと落ち着こう‼︎な⁉︎」
普段より強い力加減で押し付けられたそこに感じる感触に、頭のてっぺんから足の爪先まで一気に湯だった私は、この先自分を待ち受ける未来を察して全身全霊の命乞いに走る。が、相変わらず心臓が溶け出しそうな程美しい笑みを湛えた我が最愛の恋人殿は、果てには脳髄までドロッドロに蕩かしてしまいそうな甘い声で無慈悲な宣告を謳う。
「駄ぁ目。だって君が私の為に作ってくれた料理の所為で、こんなに元気になっちゃったんだもの。だから、生産者の君がしっかり責任取ってよね?」
「私の料理にそんな効果はない!断じてない‼︎濡れ衣だ!冤罪だ!風評被害だ!
今すぐ・弁護士を・呼べーーー!!!」
そんな私の反論も虚しく、数時間の執行猶予の後に私は刑に処された。そしてこれは余談だが、私がフィッツジェラルド氏の許へ駆けつける間に、太宰が小遣い欲しさにリークした“超人スタミナ鍋”のレシピを、更に魔改造した悪魔のレシピが新生マナセット・セキュリティ内で猛威を振るい、新手の生体兵器の疑いをかけられて軍警から探偵社に調査依頼が入るのは、もう少し先のお噺。