hello solitary hand・番外編
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幼少の時分。猫の肉球に初めて触れた瞬間、その得も云われぬ唯一無二の感触に、私の脳内で聞いた覚えもない讃美歌が鳴り響いた。それくらいの衝撃だった。そして、嘗て私にそんな一生モノの衝撃を与えた肉球が今、私の膝の上へと乗せられていた。
「はっ…はわわわわ……綺羅子ちゃん!綺羅子ちゃん乗った。膝の上乗ってくれたよぉ~~……っ」
「しっ!落ち着いて菫ちゃん。静かに、平常心よ。折角ここまで近づいてきてくれたんだから」
「そ、そうだな。うん。判った。平常心…平常心…」
今にも踊り狂いたい衝動を吐き出すように深呼吸を繰り返しつつ、私は薄目でチラリと自分の膝の上を盗み見る。
そこには艶やかな毛並みの黒猫が、両前足を私の膝の上に乗せてこちらの様子を伺っていた。まるで二つ並んだ満月の様な金色の双眸と一瞬目が合い、慌てて真横に顔を逸らと、今度は文字通り固唾を呑んでこちらを見守る綺羅子ちゃんと目が合った。日常生活ではまずありえないレベルの緊張感に息を詰めながら、私達はただ静かに機が熟すのを待つ。
──そして、その時は遂に訪れた。
「菫ちゃん。菫ちゃん。寝てる。この子菫ちゃんの膝の上で寝てるわ」
「っ──!!!」
ウィスパーでも判る程歓喜に満ちた綺羅子ちゃんの声を聞いて、私は固く瞑っていた目を恐る恐る開く。するとそこには綺羅子ちゃんの云いう通り、自分の膝の上で丸くなって目を瞑る黒猫の姿があった。
「やったわね菫ちゃん。ちょっとそのまま動かないで。折角だから写真撮りましょう」
「……」
「はぁ~~かわいい~。黒猫って甘えん坊が多いって聞いてたけど本当だったのね。ほら見て、こんなにリラックスして……って、菫ちゃん?ちょっと菫ちゃん大丈夫?」
「うん…。大丈…夫…。だけど…」
「だけど?」
「膝にお猫様が居わす状態での……呼吸の仕方が分かんない……」
膝の上にのし掛かる柔らかな重みと、神の恵みが如き温もりに打ち震えそうになる全身を必死で抑えながら内心を吐露すると。つい先刻までサイレントお祝いムード一色で写真撮影をしてくれていた綺羅子ちゃんは二、三度瞬きをして、軈て困ったように微笑んだ。
「えっと…呼吸は普通にしていいのよ…?」
****
「はい。本日二時間パックでお一人様三千円になります!」
お会計を告げられ私達は、それぞれの財布から千円札を三枚ずつ取り出し、店員さんに手渡す。店員さんはそれをレジの中にしまうと、カウンターから何かを取り出した。
「ありがとうございます。これ、良かったらどうぞ」
「きゃあ!かわいい!」
店員さんが差し出してくれたのは猫のアクリルキーホルダーだった。しかも、モチーフになっている猫の顔には見覚えがある。
「凄い!此処の子達の写真ですか?」
「ええ!最近リピータさんも増えてきたので、これを機にグッズ展開してみようかと思って。これはその試供品なんです」
「素敵!きっと他のお客さん達も喜びますよ!ね?菫ちゃん?」
「うん。取り合えず全員コンプリート目指すな!」
「ふふふ。常連のお二人にそう云って貰えると嬉しいいです。…あ、あとこれ。
「げふぉ!ぐふぉげふぉ‼」
刹那、カウンター越しの眩い笑顔が私の鳩尾にクリティカルヒットした。
「ちょ…大丈夫ですかお客さん⁉」
「菫ちゃん⁉どうしたの急に…!」
「なななななななんでもない!なんでもないんだうん‼」
ノーモーションで唐突に咽返った私を、心配そうに覗き込むゆるふわお姉さん達。わぁ眼福~。と普段の私なら両手を合わせている所だが、今はそれどころじゃない。兎に角、これ以上広がる前に早急にこの話題を畳まなくては──!
「そうだ!もし宜しければ、今度はお父さんもご一緒に遊びに来て頂けますか?」
──ガッデム!!
「う、うちの……父に…ですか…?何でまた急に…?」
「実は、猫カフェに来て下さるお客さんって、圧倒的に女性が多いんです。勿論、男性にも猫好きな方は居ますし、猫カフェに興味もあるみたいなんですが、周りが女性ばかりだとちょっと入り辛いみたいで……」
「あー…成程。ファンシーなパンケーキ屋にスイーツ男子が入り辛い的なアレですね…」
「はい。でも、猫カフェにもちゃんと男性利用者さんが居ると判れば、他の猫好き男性も入店のハードルが下がると思うんです!」
「う〜ん。それは、確かに?一理ある…かな……?」
「でしょう!その為に、是非貴女のお父さんにご来店頂きたいんです!あんな物静かで威厳があって、渋くてカッコいいおじ様でも猫カフェに来るって知ったら、世の猫好き男性達も勇気ある一歩を踏み出せると思うんです!!」
熱弁のあまり、いつの間にかカウンターからこちら側に出てきていた店員さんに、気づけば私は壁際に追い詰められていた。いや。一応云っておくと彼女に悪意は一切ない。それは断言できる。彼女はただ、自分の仕事に誇りを持ち、お店の更なる発展の為、私に協力を仰いでいるだけなのだ。それは判る。判っているが──
「えっと…すみません……。何分父は多忙な身でして……」
「あぁ、勿論ご都合が着いたらで結構ですよ!ご協力いただけたら、特別に一回分無料サービスしちゃいますので。是非お父さんにもお伝えくださいね!」
「………はい……」
しかし、いつもお世話になっている猫カフェの店員さんの頼みを、ビビりな私が無下に出来る筈もなく。結局はっきりと断り切れずに目を逸らした先で、嘗て無いほど目をかっ開いた綺羅子ちゃんと目が合った。
****
「社長が菫ちゃんのお父さん!?」
「って誤解を解かないまんま二年以上放置してましたホントすんません!!」
帰り道に立ち寄ったカフェのテーブルに額を叩きつけ、私は誠心誠意謝罪した。そんな私に、綺羅子ちゃんはティーカップの中身をスプーンで掻き混ぜながらうーんと唸った
「つまり、菫ちゃんが初めてあの猫カフェに行った時に社長も一緒に居て。あの店員さんは二人を親子と勘違いしていて。今度社長を連れてきて欲しいって頼まれてる状況……って事よね…?」
「仰る通りです。ホントすんません」
あぁもう、どうしてこうなった。……まぁどうもこうも完膚無き迄に自業自得以外の何物でもないんだけどさぁ。
「くっ…まさか二年前のささやかな行き違いが、今になって牙を向いてくるとは…。どうしよう綺羅子ちゃん」
「そうねぇ…」
過去の自分の軽はずみな行動を呪いつつ、藁にも縋るような思いでそう問うと、綺羅子ちゃんは砂糖とミルクが溶けた珈琲を一口飲んで口を開く。
──その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
****
静かな午後だった。
いつも事務所の方から聞こえてくる社員達の声もなく、この部屋に居るのは自分だけ。そしてそんな自分でさえも、長年の習慣で衣擦れの音も碌に立たない。だからだろう。扉の向こうからこちらに向かって歩く足音にはすぐに気が付いた。
──コンコン。
「入れ」
「失礼します」
返事を聞くまでもなく、足音が扉の数歩前に来た辺りで来訪者の目星は付いていた。開いた扉から現れた予想通りの顔に、私は手にしていた書類を置いて顔を上げる。
「……?」
社長室を訪ねてきたのは案の定菫だった。が、何か様子がおかしい。普段この娘が自分を訪ねてくるのは、大体が報告事項か猫関係の布教であり。孰れにしろその顔には必ずと云っていいほど笑みが浮かんでいる。しかし今の菫の顔はどうだ。口元が強張り、目が泳ぎ、眉間には皺まで寄っている。明らかにただ事ではない。そう察した私は居住まいを正し、珍しくこちらから口火を切った。
「何かあったか?」
「!」
私の問いにギクリと肩を震わせ息を呑む菫。矢張り自分の推察は正しかったらしい。だが問題は此処からだ。生憎と私に乱歩の様なずば抜けた推理眼はない。つまり、今菫が抱えているだろう“何か”を、本人から直接聞きだす必要がある。
「私に話せる事か?」
「……はい」
その返事を聞いて内心息を吐く。幸いにも此度の“厄介事”は、私に話しても問題のない事柄らしい。ならばこちらも、慎重になり過ぎる必要はないだろう。そう自分の中で結論付けた私は、両手を着物の袖にしまって再度菫に問いかける。
「話せる事ならば話せ。それもまた、私の仕事だ」
「………」
自分なりに話し易い空気作りと云うものに努めてみた心算だったが、尚も菫は固い表情で口を噤んでいる。自分の様な口下手と違って、この娘はどちらかと云うと口の回る方だ。それが、入室以降最低限の返事しかせず、まるで縫い付けられた様に口を閉ざしている。それ程話し難い厄介事とは何か、得意でもない推理をあれこれと脳内で繰り広げていると、不意に、菫が意を決したように顔を上げ、そしてその侭風を切って直角に頭を下げた。
「申し訳ありません社長!
もう一度私のお父さんになって下さい!!」
「…………は?」
それ迄頭の中で組み上げていた推理。そのどれ一つとして掠りもしなかった申し出に、私は改めて自分の推理力の無さを痛感した。
****
「普通に『親子の振りをして下さい』って社長に頼んでみたらどうかしら?」
「普通に頼める内容じゃないだろそれ!!」
「でも親子と勘違いされた時、社長も訂正はしなかったんでしょう?」
「え…あぁ、うん。何か…その侭にしててくた…。何でか判んないけど……」
「じゃあ少なくとも、社長も菫ちゃんと親子扱いされて悪い気はしないって事じゃないかしら?」
「うっ……。で、でも…社長、ただでさえも忙しいのに、こんな事に巻き込んだら迷惑じゃ……」
「そこは私が上手くスケジュールを調整しておくわ。こういう時こそ、社長秘書の腕の見せ所よ!」
「綺羅子ちゃん…何でそんなノリノリなん…?」
「だってあの店員さんも云ってたでしょう?男の人って猫カフェに興味はあっても、ちょっと入り辛いって。社長もそのタイプだと思うのよ」
「ん?…うん?」
「だから折角の機会を棒に振ってほしくないの。一度一緒に入った菫ちゃんとなら、社長も行き易いだろうし。あの猫カフェ、本当に素敵なお店だから」
「綺羅子ちゃん……」
「それに…この侭社長があのお店に通う様になれば、孰れは私もご一緒に……。社長と猫カフェ……フ…フフフっ……」
「綺羅子ちゃん?」
──ってな訳で、ダメ元でお願いしてみたが……、
「いらっしゃいませー!お忙しい中ありがとうございます」
「こちらこそ招待に預かり感謝する」
まさか、マジで来て下さるとは思わなかった。
「今日はご来店頂いたお礼と云う事で、二時間パック無料サービスでご案内しますね。あ!勿論お嬢さんも一緒に!」
「あぁ、娘共々世話になる」
しかもマジで親子の振り続行して下さるとは思わなかった。
もしかしてウチの社長って仏なのかな。うん。仏かもしれない。そんな気がしてきた。
目の前のあまりに現実離れした光景に、半ば思考を放棄しかけた私は、念願かなってウッキウキの店員さんと、相変わらず厳かな雰囲気を纏う社長の背中を、フラフラと夢遊病者の様に追う。
──が、しかし。
一度扉が開かれ、
「……はぁ~~~……っ!」
此方へ向けられた数対の瞳。それ以外は他の場所を映しているか、あるいは瞼の裏で穏やかな夢を見ているのだろう。何度目にしても色あせる事の無い感動がそこにはあった。
「ではお二人共、どうぞごゆっくりお楽しみください」
いつの間にか耳に馴染む程に聞きなれたいつもの挨拶を残して、店員さんは出入り口の扉を閉める。
「にゃー」
「!」
不意に、脹脛に滑らかな毛並みが纏わり着く。見ると、自分の足元に顔を摺り寄せる一対の満月と目が合った。
「クロちゃん!」
「なぅん…」
思わず口から漏れた名前に、足元の黒猫は甘える様に返事をしてゴロンとその場に寝転がる。それが何を求めての行動か理解していた私は、いつもの様に静かに跪いて長く伸びた真っ黒な胴を撫でた。
「……慣れているな」
目の前の黒猫に一面を覆われた脳内に、ふとそんな言葉が降ってきた。無意識に見上げた視界に、刀身の様な銀髪が映る。けれど、普段その髪色以上に刀剣の鋭さを連想させる鋭い瞳は、何処かいつもより忙しなくて。そこに映っているのが、自分より更に先の黒とすぐに気づいた私は。敬愛する上司の滅多にお目に掛かれない表情に緩みかける口元を必死に引き締めて、出来るだけいつもの声音で口を開いた。
「この子は人懐っこいので、きっとすぐに仲良くなれますよ。
****
「もう一度私のお父さんになって下さい!!」
その申し出が脳に辿り着いた瞬間、養子縁組を国に受理され自分の性を名乗る部下が『父上』と呼び掛けて来る所まで思考が行き着いた。そしてすぐ後に続いた部下の説明に、私はそれが不必要な取り越し苦労だったと理解した。
口達者な部下が縫い付けられた様に口を噤んでいた理由。それはつまる所、過去に自分が有耶無耶にした誤解が原因だった。ならば、それは私自身の責でもある。自らの不手際で嘘を吐かざる負えない状況に部下を追い込んだ以上、その片棒は元凶たる自分が負うべきだ。
そう結論付けた私は、菫の申し出を二つ返事で受諾した。正直、自分の来店が集客のきっかけになるとは思えんが、愛する街の恩ある店がこれで繁盛するなら安いものだ。
そんな紆余曲折を経て、私は凡そ二年振りに彼の猫カフェの門を潜った訳だが──
「ふぁぁ~~。クロちゃんは今日ももっふもふのツヤッツヤでちゅね~~~。あ゛~~~がわいい~~~癒されりゅ~~~」
入店から十分。部下の液状化が止まらない。
「ごろにゃ~ん」
「はわわわわ…っ!あ~もう、クロちゃんってばホンット甘えんぼしゃんにゃんだかりゃ~♡がわいいでちゅね~いいこでちゅね~」
元より、菫が重度の猫好きなのは承知している。現に私の許へ猫の写真や動画を見せに来る際の勢いは凄まじく、一度実物を前にしようものなら人体の可動域を逸脱した反応を見せる。故に、自分に擦り寄る黒猫にこの娘が溶けいるのは、別段驚くべきことではない。……が──
「クロちゃ~ん。ほら~。おいでおいで~。この前みたく、お膝の上でおねんねしましょうにゃ~?」
「!」
菫の呼びかけに従う様に、黒猫が両前足をその膝の上に乗せた。それを横から眺めていた私は、不覚にも僅かに、だが確かに息を呑んだ。
恥を忍んで正直に云おう。
──羨まし過ぎる……っ!!!
猫に自ら膝の上に乗られ、寛がれ、剰え寝入られる。
それは、全世界の猫好きにとって最高の誉れであり究極の幸福だ。しかし、猫への思いが深まれば深まる程、人は猫に対し平静を保てなくなる。現に、剣の道を究め、武の高みへと至った私ですら、一度猫を前にすれば僅かばかりの気が漏れ出す。そして猫はそれを敏感に察知し、いつも彼方へと逃げ去ってしまうのだ。故に私の膝に猫が乗った事は、今まで一度たりともない。そして今、その長年の悲願を、私の部下が目の前で果たそうとしている。嗚呼、あの小さく膨よかな前足が膝の上に踏み下ろされた瞬間、如何ような感触が太腿を駆け巡る事だろう。あの豊かで艶やかな毛並みで膝一面を覆われた時、どれ程の重みと温もりに満たされる事だろう。寝入った猫からゴロゴロと低く響く喉の音を、己が身で直に感じられた感動は、果たしてどれ程の──
そんな羨望と憧憬と僅かばかりの嫉妬で織られた私の視線など意にも介さず、黒猫は菫の膝の上で瞼を下ろし、軈て穏やかな寝息を立て始めた。
「へへへ…。最近やっと膝の上でお昼寝してくれるようになったんですよ。可愛いでしょ?」
「あぁ…」
それは本心からの返事だった。実際、部下の膝の上で寝入る黒猫は愛くるしさの具現化と云いう他ない。文字通り釘付けになった様に見入るその艶やかな黒を、小振りの白い手がそっと撫でた。
「ふふ。ホント可愛いなぁ。こんなに懐いてくれた猫ちゃん、初めてかもしれない」
「そうか」
「はい。社ちょ…、っじゃなかった。
「っ──!」
その呼び名に、先刻とは別の意味で呼吸が詰まる。が、すぐさま喉元に詰まった空気を吐き出し、そのまま開いた口が普段と寸分違わぬ音を鳴らす。
「何がだ?」
「先刻も云った通り、この子すっごく人懐っこいんです。だからほら、一撫でいかがですか?」
「………」
どうぞとでも云う様に、両手を広げて自分の膝を示す部下。そしてその膝の上で薄く鼻を鳴らしながら眠る黒猫。“穏やか”と云う言葉を象徴する様なその光景に数秒目を止めて、軈て私は勧めに従い小さく上下する黒の毛皮にそっと手を伸ばした。
「!」
刹那、黒の合間から一対の丸い金色が此方に向けられる。つい先刻まで穏やかに寝入っていた筈の黒猫は、その目を完全に見開いて、まるで見定める様にジッと私を見つめた。
「父上、父上。目を合わせちゃ駄目です」
その声に顔を上げると、口元に手を添えた菫がヒソヒソと小声で続けた。
「猫ちゃんにとって“初対面の人が目を合わせてくる”って、喧嘩売られてるのと同じらしんですよ」
「何…!」
「シッ!それと、大きな音や緊張感のある空気もNGです。気を楽にして、静かに、出来るだけ目を合わせずに、ゆっくり触ってみて下さい」
菫の助言に頷いて、私は一度深く息を吐く。武術を修める者にとって、心を静かに保つ事は基礎中の基礎。の筈なのだが、矢張りすぐそこに居る猫を思うと、凪いだ心に波紋が広がる。嘗ては“天下に五剣あり”などと謳われた事もあったが、私もまだまだ修行が足りん様だ。内心でそんな事を考えながら、私は目を閉じ他の器官に意識を集中させる。猫の愛くるしさに平常心を保てなくなる以上、視界を断つ他ない。幸いにも長年の鍛錬により、目に頼らずとも周囲の状況は手に取るように判る。まして、つい先刻まで目にしていた光景だ。菫の場所も、黒猫の場所も心得ている。後は云われた通り、気を楽に、そして静かに、ゆっくりと猫に触れるだけだ。
「!」
伸ばした指先が柔らかな温もりに触れた。漸く叶った猫との接触に心が沸き立つ。嗚呼、見るからに柔らかそうなあの体躯は、想像より些か引き締まっていた様だ。しかし、指先から感じる温もりは思っていた通りに感じる。その感動を噛み締める様に、今度はそっと掌で撫でてみる。が、そこで私はある“違和感”に気が付いた。
今も脳裏に鮮明に浮かび上がる艶やかな黒の毛並み。だが今触れているそれは、獣の毛皮と云うにはあまりに毛足が短く、人工的過ぎた。
「すみません、父上」
疑問符に埋め尽くされた脳内に振ってきた、何とも申し訳なさそうな声。その声にふと目を開いた瞬間、私の身体は呼気の一片迄凍り付いた。
「クロちゃん、逃げちゃて…、その…」
最初に見えたのは困った様に苦笑する菫の顔。そしてその侭下った視界に、先刻まで居た筈の黒猫が消え、代わりに自分の掌が乗った菫の膝……、と云うより太腿が映った。
「っ──!!!?」
次の瞬間には、私の手は着物の袖の中に収められていた。恐らく己が人生の中での最速を更新しただろう早さだった。だが、今はそれどころではない。幾ら目を閉じていたとは云え、私の手はたった今、確実に、部下の足に触れてしまっていた。しかも掌全体で。仮令不慮の事故だったとしても、上司である自分が女性社員に過度な接触を行った事に変わりはない。つまり私は……
……セクシャルハラスメントと云う許されざる行為に手を染めてしまったと云う事だ…っ。
「………すまぬ」
「いえいえ、気にしないでください!こちらこそ伝えるのが遅れてすみません。クロちゃん、本当にギリギリの所で逃げちゃって」
相変わらず苦笑を浮かべてはるが、その言葉通り全く気にした素振りの無い部下。だがこの娘は元々我慢強く、不満があっても飲み込むきらいがある。“気にするな”と云う言葉を鵜吞みにして流す訳にはいかない。まして相手は、既に心を通わせた恋人を持つ年頃の娘だ。いかに信頼関係を築いた間柄とは云え、二回り近くも歳の離れた中高年に太腿を触られるなど、決していい気はしない筈だ。
「大丈夫ですよ、私でも膝に乗って貰えるようになったんですから。先ずは触らせてもらえよう様に頑張りましょう、
「──!!」
いや、抑々。
抑々、今のこの状況自体、本来あってはならない事なのではないのか。
確かに父親の振りをして欲しいと申し出たのは菫の方からであり、そうなった責任の一端は私にある。故に私は今こうして、猫カフェで菫と親子の真似事をしている訳だが。冷静に考えてみれば、自分の子供でもおかしくない年頃の若い娘と遊興に耽り、剰え“父”と呼ばせるこの状況。金銭のやり取りこそないものの、これは最早世で云う所の
──
「父上?どうされました父上、大丈夫ですか?」
「っ…!すまぬ菫…。私は……私は何と云う事を……っ」
「え?ちょ…ホントどうされたんですか?クロちゃんに逃げられたのそんなショックだったんですか?」
知らず知らずの内に重ねていた己の罪。その重さに気づいた今、私はただ自らの行いを悔い、謝罪する他なかった。夏目先生より三刻構想の一翼を任された武装探偵社の長がこの体たらく。最早社員に顔向けできぬと、国木田に次期社長の引継ぎを本気で検討し始めたその時、不意に出入り口の扉が開いた。
「お二人共聞いて下さい!男性のお客さんが来店されました!」
「え!本当ですか⁉」
嬉しそうな顔で開口一番そう云い放った店員に、菫が驚いた様に身を乗り出した。そんな菫に店員は、飛び跳ねんばかりの様子で続ける。
「はい!しかもご兄妹で妹さんとご一緒に!」
「へぇ。兄妹で猫カフェとは仲の良い事で。この侭、常連さんになってくれるといいですね」
「はい!それじゃあお通ししますので、宜しくお願いします」
そう云って店員は一度退室し、菫は再び私の隣に腰を下ろすと、気合を入れる様に小さく両の拳を握った。
「早速効果が出たみたいですね。流石父上です!」
「偶々だろう」
「いえいえ!店員さんも云ってましたよ。『あんな物静かで威厳があって、渋くてカッコいいおじ様でも猫カフェに来るって知ったら、世の猫好き男性達も勇気ある一歩を踏み出せる』って。よっ!猫好き男子の希望の星!」
「茶化すな」
「へへ。すみません」
軽く睨むと菫は眉を八の字にして笑う。まるで悪戯がバレた子供の様なその顔に、思わず溜息が出た。
「それくらい気を抜かれた方が、猫ちゃんも寄って来やすいと思いますよ」
そう云われて今一度顔を上げると、穏やかに笑う部下がそこに居た。この娘は隠し事が上手い。それは確かだ。だがそれでも、今自分に向けられているその笑顔は、間違いなく本心から織られた笑みであると。万象を見抜く推理眼を持たぬ私でも、それは確信できた。
「さぁさぁどうぞこちらへ!ウチの子達は皆いい子達なので、仲良くしてあげて下さい!」
再び扉が開き、後ろに向かって声を掛けながら店員が室内へ入ってくる。その後に続いて二人の人影が姿を現し、
──そして次の瞬間、明確に場の空気が固まった。
「それでは皆さん、ごゆっくりお寛ぎ下さい」
去り際に放たれた店員の明るい声。だがそれに応える者は誰一人居なかった。実際にはほんの数秒。だが確実にそれ以上長く感じられた沈黙は、私の隣から恐る恐る上がった菫の声によって破られる。
「何で…銀ちゃんに、
数秒後、目を吊り上げた痩せ肉の青年が野犬の様な怒号を上げた。
****
二年前の誤解が生んだ今回の騒動。
しかしいざ蓋を開ければ、それは思いの他楽しい時間へと着地していった。まぁ、お忙しい社長の手を煩わせてしまった事とか、“親子の振り”なんて無理難題に付き合わせてしまった事とか、申し訳なく思う事は多分にある。だがそれでも、また社長とこうして猫カフェに来られた事は嬉しいし。仮令今この場限りだとしても、この人を“父”と呼ぶ贅沢を許された事が、正直に白状するとあまりに幸福に感じられた。
だからまぁ。云い訳にはなるが、私は完全に浮かれていた訳だ。
で、浮かれていた結果がこれ──
「誰が
「スンマセン!口が滑りました‼」
頭で考えるよりも早く、体が反射で土下座の構えを取る。そんな私達のやり取りを、嫋やかな黒髪の撫子がそっと諫めた。
「兄さん落ち着いて。一応任務の最中なんだから…」
「!……判った」
おぉーぅ。スゲーな銀ちゃん。幾ら血の繋がった妹さんとは云え、あの
「もしかしてポトマさん、遂に猫カフェ経営にも手ぇ出し始めたんか……」
「頭でも湧いたか貴様」
「はぁ…。大方、森医師の幼女趣味に巻き込まれたのだろう」
「「!」」
「え?…あの…まさかとは思うけど…、オタクの首領んとこの幼女が何かの拍子に猫カフェに興味を持っちゃったばっかりに、君達が現地調査を命じられた…とかじゃないよね?幾らこの街の闇の体現とは云え、上のプライベート案件まで仕事内容に組み込まれるとか、流石にそこ迄ブラックじゃ──」
「黙れ。それ以上口を開けば舌を切り落とすぞ」
「兄さん駄目だって」
二人の反応から自分の推測が事実である事を察した私は、今の職場に転職が成功した事を、すぐ隣の長に改めて感謝した。そしてその長はと云うと、若干憐みの籠ったような溜息を吐くと、切り替える様に纏う空気を張り直す。
「ポートマフィア。お前達がこの場に於いて、ただの“客”として振舞うのであれば構わぬ。だが、もし騒ぎを起こすようであれば、即刻店から出て行ってもらう。──よいな」
「「っ!」」
最後念押しする様に社長が睨みを利かせると、二人は息を呑んで軈て互いに視線を交わすと、小さく頷いた。それを見届けた社長は“判ればよし”とでも云う様に、気を治めて二人から視線を外した。芥川君と銀ちゃんも、少なくともこの場で争う気は無い様で、私達から離れた場所に移っていく。その背中を見送った私は、無意識に喉に詰まっていた空気を全部吐き出して、社長の隣に座り込む。
「はぁ~びっくりした~。まさかこんな場所で芥川兄妹に出くわすとは、世間は狭いですね」
「あぁ全くだ。…とは云え、相手はポートマフィア。しかもそれなりの手練れだ。念の為、注意は怠るな」
「はい」
そう返事はしつつも、私はそこ迄芥川兄妹を警戒はしていなかった。まぁ確かに芥川君は気性が荒くキレやすい質だが、その原因の大半は太宰や敦君関連だったりする。だから可燃材料にさえ気を付けておけば、存外彼は物静かな青年なのだ。まぁより正確には、物静か(に首を掻っ切ってくるよう)な青年だが。それに今日は妹の銀ちゃんと云う頼もしいストッパーも同席しているし、それこそ私が口を滑らせて
そう自分の中で結論付ながらも、一応上司の云いつけ通り、時折横目で二人の様子を観察しつつ、私は再び社長との猫カフェタイムを思う存分楽しんだ。
「あ!あのトラシマの子、こっち気にしてますよ。ちょっと様子見てみましょう」
「うむ」
「「………」」
──五分後──
「よぉーし、近づいてきた近づいてきた。平常心ですよ平常心」
「あぁ」
「「………」」
──十分後──
「はぁ~かわいい~。そうだ!試しに手を差し出してみましょう!大丈夫だったら向こうから触らせてくれる筈ですから」
「判った」
「「………」」
──十五分後──
「やった!お鼻タッチは挨拶の証拠って綺羅子ちゃんが云ってました。その侭撫でてあげてみて下さい。ゆっくり。ゆっく…り…」
「「………」」
いや待って。あの兄妹入店から一切微動だにしてなくね?
え?大丈夫かあれ、ちゃんと息してる?いや、でも二人共きちんと座って目も開いてるし、一応意識はある…よな?まぁ確かに社長も“騒ぎを起こすな”って釘刺してたけど、だからってあそこ迄静止を究められるもんなのか人間って。
「……はぁ。菫」
「へ?あ、はい」
「あの者達が気になるなら好きにせよ」
「!」
そう云って社長は、お近づきになれたトラシマちゃんの頬をそっと撫でた。向こうも警戒した様子はなく、ごろりとその場に横になって撫でられるが侭になってくれている。この分なら、もう私が口を挟まなくても仲良くやってくれそうだ。なら今度は──
「すみません。ではお言葉に甘えて、ちょっと行ってきます」
「あぁ。ただし、油断はするなよ」
「はい」
その場で軽く敬礼して見せて、私は芥川兄妹の方へ向かう。するとそれに気づいた芥川君が、今までの静止が嘘の様に顔を顰めた。
「何だ臼井。見ての通り、
「いや。それは判ってるんだけど…」
「私達に何かご用ですか?」
「う~ん。用って云うかね?えっと…二人共、ちゃんと楽しめてるかなって…思って…」
「「楽しむ?」」
「うん。一応猫カフェって娯楽施設だからね。てか今更だけど、二人共猫ちゃんは好き?」
「犬であれば嘗て腕を喰われかけた故好かぬが、猫にはさした思い入れもない」
「あぁ…左様で…」
「かわいい…とは思いますけど…」
「おぉ!銀ちゃんは猫ちゃんのかわいさが判る口かい?」
「は、はい。でも、どうしたらいいか判らなくて…」
「成程ね。んじゃウチの社長を見本に、猫カフェの楽しみ方を勉強してこっか!」
「おい。何を勝手に…」
「まぁまぁ。君達の今日の仕事は猫カフェの現地調査だろう?少なくとも、置物みたく黙って座ってるより余程有意義な情報を提供できると思うよ?」
「………」
見るからに納得いかないと云う顔はするものの、それ以上何も云わず口を噤んでくれた芥川君。それを申し出の承諾と解釈した私は、銀ちゃんの隣に腰を下ろした。
「先ず、猫ちゃんは大きな音とか騒がしいのが苦手だ。後、無理矢理触られたり、抱っこされるのも嫌がる。だから静かに座ってた二人は、対応としては一応正解なんだけど、唯一惜しかったのが“気配”かな?」
「気配…ですか?」
「そう。二人共気を張り過ぎって云うか、この辺だけ変に緊張感が張り巡らされてるって云うか。だから猫ちゃん達も近づいて来なかったんだと思うんだ」
「笑止。
「いや。猫カフェで口開けてる死って何?」
「つまり私達が周囲を警戒していると、猫達の方からも警戒されてしまうと云う事ですか?」
「銀ちゃん正解!そこでだ、お手本として我が社の社長を御覧ください」
「「……」」
まるで通販番組の司会がオススメ商品を紹介する様に、私は少し離れた場所で猫と戯れる社長を示して見せる。
「ウチの社長も二人と同じ、普段から気を張ってるタイプなんだけど。心を静かに平常心を保ち続けた結果、ご覧の通りすっかり猫ちゃんと仲良しになってる」
「あれは…」
「凄い…」
「だろう?だから先ずは二人共、平常心を保つ所から」
「あの男、微塵も闘気を感じさせぬ侭、しかし一分の隙も無い」
「前に首領の護衛で交戦した時も、全然刃が立たなかった…。あれが、武装探偵社の長…」
「ごめん二人共。マフィア的着眼点は今は置いておこうか?」
素直にこっちの話を聞いてくれるのは有難いが、真面目過ぎるが故に必要以上の深読みを始めてしまった二人に待ったを掛けると、不意に社長が備え付けられた玩具箱の中から一本の猫じゃらしを手に取った。
「お!丁度いい。見て見て二人共。猫ちゃんと仲良くするには、ああして玩具で遊んであげるもの手だ。ほら、ああして猫じゃらしを振って、猫ちゃんが飛びついてきたら」
──ヒュパッッッ!!!
刹那。私達の視界から猫じゃらしが消えた。そして、まるで背後に宇宙空間を背負ったような驚き顔を浮かべる猫ちゃんの前に、社長は何事も無かったかの様に再び猫じゃらしを振る。
「あれは…まさか抜刀術?そんな…全然見えなかった…」
「フッ、暗殺者の目どころか、獣の動体視力すら上回る神速の剣技か。面白い。流石は武装探偵社を束ねる猛者だ」
「あー。うん。ありがと。でも注目して欲しいのはそこじゃないかなぁ」
「お楽しみの所失礼しまーす!お待ちかねのおやつの時間ですよー!」
芥川兄妹に対する猫カフェ指南が難航し、思わず頭を抱えそうになったその時、いつもの明るい声と共に店員さんがログインした。その手に握られた小さなタッパーを見た瞬間、それまでバラバラの行動を取っていた猫ちゃん達が揃って店員さんの方へと押し寄せる。
「成程。餌をチラつかせれば容易に食いつくのは、人も獣も変わらんな」
「芥川君、云いたい事は判るけどもうちょっとマイルドに頼むわ」
「はい。皆さんも是非この子達にあげてみて下さい」
「あ、ありがとうございます」
「あーっと、銀ちゃんちょいストップ!」
店員さんから渡されたおやつ入りのタッパー。その蓋に手を掛ける銀ちゃんを手で制して、私は自分のタッパーを見せながら説明を始める。
「猫ちゃんに届きやすい位置で蓋全部開けると、すぐに食べられて無くなっちゃうから。蓋は手の中でちょっと開けて、少しだけ中身を掌に出す」
「こうですか?」
「そうそう。で、猫ちゃんの前で手を開いてあげると食べてくれる」
私の動きを真似て銀ちゃんが手を開くと、一番近くに居た黒猫がおやつを平らげた。それを見た銀色の大きな瞳が、僅かだが確かに揺れる。
「食べた」
「うん。おやつはそんな感じであげるといいよ」
「にゃー」
「ま、待って。今あげるから、あっ!」
銀ちゃんが次のおやつを準備する前に、先程の黒猫が彼女の膝に上りまるで占領する様に座り込む。云わずもがな、この店の中でも人懐っこいで有名なクロちゃんである。
「ふふ。はい、どうぞ」
「どうだい銀ちゃん。猫ちゃんと接してみた感想は?」
年相応の優し気な顔で、そっと膝の上の黒猫を撫でる黒髪の撫子にそう問うと、大きな瞳が一度瞬きをして、軈て彼女は嫋やかに微笑んだ。
「暖かくて、柔らかくて、とてもかわいいです」
「うん。それは重畳」
その笑顔があまりに綺麗で、調子に乗って兄上の真似事なんてしながら、私は自分の分のおやつを、彼女の膝の上に座る黒猫に差し出した。
****
店員に渡されたタッパーの中身を全て猫達に差し出した私は、唯一餌が無くなって尚傍で寝転ぶトラシマ模様の猫を撫でながら、少し離れた場所で猫達と戯れる三人の娘を眺めていた。
不意に、それまで寛いでいた猫がふっと立ち上がり私の膝の上に飛び乗る。その衝撃に不覚にも思考が停止した私の頭上に、乾いた無機質な声が降ってきた。
「失敬。邪魔をしたか」
見上げた先に居たのはポートマフィアの兄の方だった。そう云えば、いつの間にか向こうの輪の中から消えていたと、今更になって思い出していると、青年は徐に手に持っていたタッパーを私に差し出した。
「獣に群がられるのは好まぬ故、貴殿に代わりを頼みたい」
「……妹でなくて良いのか?」
「初めはそうする心算だった。……が、あれを見てはもう声など掛けられぬ」
そう零して青年は、先刻までの私と同じように三人の輪に目を向ける。この街の何処にでもある、平和で穏やかな光景。そんな光景を映す光の無い黒の双眸が、まるで眩いものを見る様に僅かに細められる。
「……ポートマフィアは長いのか?」
「あぁ」
「……辛くは、ないか」
その瞬間、首筋の辺りを鋭い気配が駆け抜けた。攻撃を受けた訳ではない。ただ殺気を向けられただけの事。それでも矢張り動物はそう云ったものを過敏に感じ取るらしく、私の膝の上に身を隠していた猫が毛を逆立てるのが判った。その背を静かに撫でながら、私は先刻と判らぬ声音で言葉を続ける。
「お前達の生き方を侮辱する心算はない。…だが、森医師は…ポートマフィアの首領は最適解の狂信者だ。あの男の論理には“心”が無い」
そうだ。あの男はそれが“最適解”であるならば、どんな犠牲も厭わない。他人も、仲間も、子供も、そして
「……然り。確かに首領の命に心は無い」
僅かな沈黙の後、問いの答えが返ってきた。しかしその声からは、少なくとも先刻の殺気が消えていた。まるで当然の事を語るような単調で静かな声が、問いの答えを織っていく。
「だが同時に、“組織に利を齎す限り見捨てられる事はない”。故に
「……そうか」
「………武装探偵社の長よ、
「何だ」
「貴殿は自らの部下が
真っすぐに向けられた光の無い黒の双眸が掛けた問い。それは何もかもがあまりに抽象的だった。加えてこの者は、何の因果か社員の何人かと並々ならぬ因縁がある。私が問われているのは果たして、組織と自分を裏切った元上司か、それとも幾度となく死闘を繰り広げた好敵手か、将又光の世界を求め離別した元同胞か、或いは──
「菫はこの世界の人間ではありません。別の世界から迷い込んだ異世界人です」
もしそう云い放ったのが、自らの部下であり、そしてあの娘の最大の理解者たる太宰でなければ、私はそれを信じられなかったやもしれぬ。だが後になって考えれば考える程、その話はこれまで放置していた違和感の全てを、整合性と云う線で結んでいった。
二年前の《蒼の使徒》事件も。敦の育った孤児院の院長の件も。そして、まだ記憶に新しくも忌まわしい、先の“共喰い”事件も。菫が取った不可解な行動は、全てその先の未来を知るが故の行いだった。私達は知らぬ内に救われ、菫はそれを今も太宰以外の全員に隠し続けている。
未来を知るなど、本来は誰にも叶わぬ事だと知っているから。
「いや。私は部下の全てを知っている訳ではない」
そうだ。私は知らぬ。これから起こる事も、部下が一人負う未来の重みも。その未来で自分が一体何を成し、何を成せずに、何を得て何を失うのかも。自分の事ですらも判らぬ。だが、それでも──
「それでも私の部下は皆、武装探偵社の名を負うに相応しい者達だ。それだけは断言できる」
「何故」
「私がそう信じた者達だからだ」
私の答えを聞いた痩せ肉の青年は、その目を僅かに見開き、少しして、再び平和な日常絵の方へと向ける。すっかり猫達と打ち解け、柔らかに笑う妹を眺めながら、ポートマフィアの青年はぽつりと呟いた。
「そう云う場所なのだな。武装探偵社とは」
****
首領より命じられた此度の特別任務。その一切を終えた
「報告ご苦労。二人共すまなかったね。慣れない事をさせて」
「構いませぬ。ポートマフィアに属する以上、首領の命令は絶対です」
「ありがとう。そう云って貰った所…大変、申し訳ないのだけどね……?」
「はい?」
徐々に歯切れの悪くなっていく言葉に、
「実はエリスちゃんがね?今は猫より梟にお熱みたいで…。何でもエッホエッホ走るメンフクロウが見たいとかで、今広津さんと立原君に梟カフェの下見に行って貰ってて……」
「………」
「………」
「……つまり
「本当にごめん!!折角詳しく調べてきてくれたのに!!」
「………」
「………」
「……構いませぬ。所詮
「え?あ…ありがとう!本当にごめんね!いやぁ部下の心が広いと、本当に助かる…よ……」
そう云って安堵した様に息を吐いた首領は、しかし再びこちらを見ると徐々に表情を硬くした。
「…ねぇ、芥川君」
「はい」
「……もしかして、ちょっと怒ってる?」
「いえ」
「でも何かいつもより目つきが「元よりこう云う顔です」
****
「ら…乱歩さん…」
「何だ」
「もしかして…おこでいらっしゃる?」
「何でそう思う?」
「いや何でって…」
そう答えに詰まりながら私は恐る恐る視線を横に向ける。比喩表現じゃなくマジですぐそこに、過去最大にかっ開らかれた翡翠があった。尚、現在事務所内に残った面々は、視線をパソコン画面に縫い留めて決してこちらを見ようとしない。唯一、綺羅子ちゃんだけが視界の端で両手を合わせ何度も頭を下げていた。
「僕は別に怒ってないぞ。社長と二人で猫カフェ行った事も、社長に親子の振りしてもらった事も、社長の事“父上”とか呼んでお前が浮かれてた事も、ぜーんぜんこれっぽちも怒ってない」
ヤベー。完全に怒ってない人の反応じゃない。これならいつもみたいに癇癪起こされた方が100倍ましだ。
「ら…乱歩…。もうそのくらいに……」
「おっといけませんよ社長。今社長が菫の肩を持つのは寧ろ逆効果です」
「しかし太宰…」
「大丈夫。乱歩さんもちょっと菫が羨ましかっただけでしょうし、時間が経てば自ずと解決しますよ」
「で?どうだった菫?半日社長を独り占めして、“父上”って呼んだら返事してもらえる気分はどうだった?教えてよ菫~?」
「すみません。マジで思い上がってました。ホントすみません」
「本当にそうか……?」
「それよりも社長。今日はありがとうございました。お忙しい中ウチの菫の我儘に付き合って頂いて、何とお礼を云えばいいか」
「いや…。元はと云えば、私にも原因が…」
「またまた、そうご謙遜なさらずに。今回の事は、社長が菫を思って引き受けて下さった事だと、ちゃんと私は判っていますよ」
「太宰……」
乱歩さんにガン詰めされる私を気まずそうに見ていた社長に、苦笑交じりの感謝を述べる太宰。その言葉を聞いて少し意外そうに、しかしどこかほっとしたように表情を緩めた社長に一歩踏みだして、太宰はその手をがっちりと握った。
「なので、今後“入り婿”役が必要になったら必ず声を掛けて下さい。
「………は?」
「あ、狡いぞ太宰!なら僕“長男”やる!」
「おやァ、じゃあ
「となると母親役も必要だね。春野さんどう?」
「えぇ⁉わ、私⁉あ…でも、誰も候補が居ないなら……」
「と云う事で、他の家族もいつでも協力しますよ
「~~~っ!お前達……
──これ以上話をややこしくするな!!!」
その叫びは事務所の窓を震わせ、ビル全体に響き渡ったと云う。
尚、この日以降件の猫カフェには男性客も徐々に増え、老若男女に幅広い人気を博す猫カフェとして一時期話題にもなった。が、その中には結構な割合で黒服のグラサンが混じっていたとかいなかったとか。