hello solitary hand・番外編
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俺の名は国木田独歩。
現実を往く理想主義者にして、理想を追う現実主義者。
これは理想の実現を希う俺と、
****
港湾都市ヨコハマ。荒事が絶えないこの街で、昼と夜の
その事務所内で俺は、一人の男と対峙していた。
「おい太宰。お前この仕事を始めてどれくらい経つ?」
「ん〜、どれくらいだろう?一ヶ月?」
「“半年だ”。一般企業なら既に研修を終え、一人立ちしても余り在る期間だぞ。だと云うのにお前は、何時になったら真面に仕事が出来る様になるのだ」
「厭だなぁ国木田。私はもう立派に一人立ち出来ているじゃないか。今日だってちゃんと依頼通り、連続通り魔事件の犯人を捕まえたのだよ?」
「嗚呼、確かに依頼は果たした。だが犯人を市警に引き渡した後、お前は聴取も受けずに姿を晦ましたそうではないか」
「嗚呼それにはね、止むに止まれぬ事情があったのだよ国木田君!実は犯人を捕まえたのが橋の上でね。下にすっごくいい感じの川が流れていたんだ。だから、これは自殺主義者として一度飛び込んでおかねばと使命感に駆られて」
「そんな使命感、川に流してしまえ!!」
男が云い切らぬ内に、俺はそのびしょ濡れの胸倉を掴み上げた。しかし、当の本人は全く動じずヘラヘラと勘に触る笑みを浮かべ続ける。
太宰治。仕事に対して人一倍不真面目な癖に、能力そのものは頗る優秀と云う宝の持ち腐れの体現者。その上常に面倒事と騒動を振り撒き、俺の予定を千々に乱す歩く厄災だ。現に今日も仕事を途中放棄し、帰ってきた思えば外套の所々に塵を引っ掛けた濡れ鼠と云う状態だった。何をどう間違えればこんな社会不適合者に育つのか、全く親の顔が見てみたい。
「太宰〜、はいお茶淹れてきたよ」
「あ、嗚呼。有難う菫…」
「おう。体が温まる様にと思って生姜湯にしてみたんだが、口に合うかな?」
「……うん、美味しいよ」
「ふふ、そっか。そりゃ良かった。んじゃ、ちょい失礼」
「おい菫。その迷惑製造機を甘やかすなと何度云えば判るのだ」
緩い呼び声と共に現れた其奴は、湯気の立つ杯を太宰に手渡すと、後ろに回って水気を含んだ蓬髪をタオルで拭き始めた。
臼井菫。一見人当たり良く、仕事に取り組む姿勢は真面目そのもの。だがいかんせん、この迷惑製造機を甘やかし過ぎるのが難点だ。寧ろこの半年でその甘やかしが極度に悪化し、今では過保護な馬鹿親の様に此奴の世話を焼き、俺の苦言に対してもこの通り苦笑で茶を濁し続ける始末だ。
「すまんね国木田君。でも、この儘だと風邪を引いてしまうかも知れないから」
「あのな…。抑々その馬鹿が川なぞに飛び込んだせいで、組んでいたお前迄とばっちりを受けたのだろう。偶には文句のひとつくらい云ってやれ」
「ん〜、でも市警の聴取は私一人で事足りたしなぁ。それに今回も、この子が居たから解決した様なもんだし。な〜、太宰?」
「え?嗚呼…、うん…」
「ふふ、何だよ〜?もっと胸張って自慢して良いんだぞ〜?この天才児〜」
ある程度拭き終えたのか、菫はタオルを太宰の肩に掛けてその首元に腕を回し、側頭部に頬を寄せて奴の頭を撫で回した。此奴らの距離感がおかしいのは何時もの事だが、此処は神聖な職場であり、今は勤務時間内だ。よって勤労の徒として、目の前で繰り広げられる公序良俗に反する行いを見過ごす訳にはいかない。断っておくが、個人的やっかみなどの為ではない。断じて。
「おい菫、いい加減に…」
「菫、君まで濡れてしまうよ?少し離れて?」
「ん?私は別に気にしないぞ?」
「駄ぁ目。身嗜みは大切だよ?女性なら尚更だ。汚れてしまったら勿体ないもの」
「それを云うなら君の方が余程勿体ないだろう?まぁ、多少塵が引っ掛かってても君の美貌にはハンデにもならんけどな」
「―――っ!」
すると菫は、太宰を後ろから抱き締めた儘奴の外套の胸元に付いていた木の葉を摘み上げた。それを目の前で翳す菫に、気の所為か太宰の肩が僅かに強張った様に見えた。
「つっても、矢っ張此の儘は宜しくないか…。待っててくれ太宰、ちょっと着替え探してくるから」
「あ…う、うん。有難う…」
「善いって事よ!愛する君の役に立てるなら、寧ろ嬉しい限りだ!」
「っ!!」
最後にもう一度太宰の頭を抱き込んで、菫は事務室を出て行った。自分より二つも年上だと云う事を疑いたくなる落ち着きの無さに、溜息が出る。
「全く彼奴は…、もう少し社会人としての振る舞いを心掛けろと云うのだ。おい太宰、お前からも菫に」
視線を戻した先で言葉が詰まった。つい先刻迄、ヘラヘラと不真面目な笑顔を浮かべていた顔が、本人の両手によって覆われていた。しかもその下から、体内の空気を全て吐き出す様な深い深い溜息が漏れ出している。
「…………太宰?」
「国木ぃ〜田君…、ちょっとひとつ確認させてもらって善いかな……?」
「確認?」
唐突な切り出しに首を傾げると、太宰は両手を少し下ろして鼻から下を覆うと、何時にも増して真剣な眼差しを俺に向けた。
「菫って何時からあんなに可愛くなったの?」
「頭でも打ったか?」
思考回路を中継せず、頭に浮かんだ言葉が其の儘口から吐き出された。すると太宰は、何故か自分の机に突っ伏してバンバン卓上を叩き出した。
「否おかしいって!何なのあれ!?どう考えても近過ぎるでしょ!?大体、私の為に態々生姜湯淹れて来て、しかも耳元で口説き文句垂れ流し乍ら胸元に触るなんて、ちょっとドキッとしちゃうじゃないか!!挙句去り際にあんな…、あんな柔らかな感触を顔面に押し付けられたら、思わず手が伸」
スパーン!
「落ち着いたか?」
「うん、有難う」
一人で盛り上がって居た唐変木の頭を六法全書ですっぱ抜き、再度卓上に沈めると漸く太宰は大人しくなった。
「はぁ…、何なのだ急に。確かに彼奴の距離感は一般的な間合いを逸脱しているが、お前達に限って云えば当たり前なのではないのか?」
そう。入社時点で既にこの二人の距離感は、周囲の人間が一度思考停止する程近かった。その原因は主に太宰が菫に纏わり付いていた為だったが、入社試験を合格し晴れて社の一員となってからは、菫の方も自ら進んで太宰に引っ付く様になっていった。これで恋人でも何でもないと云うのだから、本当に此奴らは何なのかと俺達外野は度々首を捻っている。が、当の本人が今更取り乱す意味が判らない。
「否、それとこれとは何か違うって云うか…。それに菫、最近私への甘やかしに益々拍車が掛かって来てて……」
「何を今更な事を云っておるのだ。最近も何も、お前は最初から彼奴に甘やかされていただろう」
「だから違うの!だって、今迄だったら絶対文句か小言が挟まってたし、あんな優しく頭拭いてくれなかったし、抑々菫から抱き締めてくれるなんて機嫌が善い時だけだったのだよ!?」
「だから何だ。少なくともお前には別段弊害もないだろう。寧ろそれに文句を云いたいのは俺の方だ」
「え?ヤダ国木田君、もしかして羨ましいの?」
スパーン!
「菫に甘やかされるのが厭なら、お前がもっとしっかりすれば善いだけの話だ。焼く世話が無くなれば、彼奴もお前を甘やかせんだろう」
「う〜ん…甘やかされるのが厭、と云う訳では無いのだけど…。まぁでもそうだね…。少し心掛けてみるよ…」
再び卓上に沈んだワカメ頭を見下ろし、俺は深々と溜息を吐いた。これが長きに渡る悪夢の幕開けになる事など、知る由もなく。
****
「あ、見て見て国木田君!」
「何だそれは?」
「へへ〜、綺麗だろ?この前の誘拐事件で助けたお兄さんが、お礼に送ってくれたんだって!ほら!」
突然事務室に駆け込んで来た菫の腕には、花瓶と大きな薔薇の花束が抱えられて居た。そして花束に添えられていたのだろうメッセージカードを俺に差し出すと、抱えていた花瓶を俺の卓上に飾り始めた。
「おい待て、何故俺の机に花瓶を置く?」
「だってあの依頼、私と君と太宰で片付けた奴だし。そのお礼なんだから、三等分するのが妥当だろう?」
「……否、理屈はそうだが…。これはお前に宛てられたものではないのか…?」
「ん?でも、カードにも“この前のお礼に”って書いてるし。大体こんな大きい花束、一人分な訳ないじゃないか」
「…………」
キョトンと首を傾げる菫に、俺は口を開くのをやめた。あの誘拐事件の被害者と云うと、確か裕福な家庭で育った箱入りのボンボン息子だったか。しかしカードに記された宛名は菫個人のもののみで、何なら先方の連絡先迄記載されている。明らかにお礼に託つけた妻問いの類だ。だがこの様子だと、此奴自身も全く気付いていない様だし、別段面倒事には発展しないだろう。
「あ、そうだ国木田君。市警に頼んでた捜査資料、今朝送られて来てたから君の所にも転送しといたよ」
「おお、そうか。助かる」
すると菫は嬉しそうにニコリと笑って事務室を出ていった。それを見届けて、俺は視線を戻しパソコンを開く。転送された資料を落とし込んでいる間、ふと卓上の花瓶に目が向いた。正直、彼奴の何処にそんな感情を抱く要素があるのかは微塵も理解出来ない。まぁ彼奴があの被害者に見せていたのは、完全に余所行き用の猫被り対応だったので、多少普段より真面に見えた可能性もあるが…。
「全く…見る目が無いな……」
「何がだ~い?」
「うわああぁ!?」
完全な独り言に突然返答を返され、危うくひっくり返る所だった。見ると背後に何時から居たのか包帯塗れの痩躯が佇んでいた。
「いやぁ、国木田君は今日も元気だね~。私は君の所為でこの通り疲労困憊、最早呼吸するのさえ億劫になっていると云うのに…」
「は?な、何の話だ?」
「忘れちゃったのかい?君云ってたじゃないか。“焼く世話が無くなれば、菫も私を甘やかせなくなる”って」
「ん?嗚呼…、其れがどうした?」
「あれから私、君の助言を実行してみたのだよ。そうしたらね、余計事態が悪化した…」
「は?」
乱れた呼吸を整え改めて見やると、確かに太宰の顔には何処か疲れが窺える。普段疲労とは無縁の此奴がこんな顔をするなど、一体何があったと云うのか。
「菫が可愛過ぎて疲れた…」
「ユンケルでも飲んでおけ」
先日同様、頭に浮かんだ言葉を其の儘直接吐き出して、俺はパソコンに向き直った。すると太宰は在ろう事かパソコンの電源を落とし、強制的に画面を真っ黒にした。
「おい!?貴様何をするか!!落としたばかりの捜査資料が」
「それより先に、ちゃんと責任を取り給え!君の所為でこんな事になったのだよ!?」
「知るか!大体俺の助言と貴様の戯言と、一体何の関係があるのだ!?」
「私が自分で身の回りの事全部熟し始めたら、菫がすごく“しゅん”ってしちゃったの!」
「は?」
「だから、今迄菫がしてくれてた事を先回りして自主的に消化してたら、まるで捨てられた小動物みたいな顔で私の事見上げて来て…。流石に耐え切れずにお願いしたら、今度は凄く喜んで私の世話焼き始めて…。もう何なのあのお姉さん!何であんな期待と不安の入り交じった眼で私の事見上げて来るのさ!私より年上なんでしょう、いい加減にしてよ!可愛さの方向性があっちこっちに極振りされてて気持ちが追い付かない!!」
何故かその場に崩れ落ち、バンバンと床を叩きながら太宰は吠える。が、その熱弁の一割すらも俺には理解出来なかった。
「おい太宰。それの一体何が問題なのだ。目的通り菫の甘やかしを軽減する事には成功したのだろう?ならばその儘継続していけば善いだろうが」
「否、無理。あんな顔で見つめられたら色々保たない。抑々菫は警戒心が足りなさ過ぎるんだよ。だって私だよ?この私を相手に何であんなに他意無くベタベタ出来るの?ちょっとは用心しなよ。お互いもう子供じゃないんだしさぁ。大体男は皆狼」
ガコン!
「遠吠えも其処までにしておけよ。このケダモノが」
「はい、すみません」
閉じたパソコンの角を叩き込まれたワカメ頭は、其の儘完全に床へと没した。それを見下ろしながら、俺は溜息を吐いて眼鏡のブリッジを上げる。
「まぁ、お前の云い分も判らなくはない。いい機会だ。太宰、一度お前からもしっかりと云い聞かせてやれ。個人的になら未だいいが、今後社を巻き込んでの面倒事に発展されては敵わん」
「今後って…。菫に限ってそれは無いよ。彼女の人間恐怖症は君だって知って居るだろう?」
「判らんぞ。見ろ、其れは先日の誘拐事件で救出した被害者から送られて来たものだそうだ。彼奴自身は兎も角として、彼奴に好意を寄せる人間も少なからず居るらしい。俺にはさっぱり理解出来んが…。……太宰…?」
一瞬。それまで苦笑を湛えていた太宰の顔が、一瞬固まった気がした。あれだけくるくると慌ただしく表情を変えていた鳶色が、ほんの僅かに色を失った。赤々と主張するその色さえ飲み込む様な、深い無温の落とし穴。そのようなものが、目の前に座り込む男の眼窩に嵌っていた様に見えた。
「……うん。そうだね。菫にも一度ちゃんと話してみるとするよ。有難う国木田君」
そう笑んで、太宰は活けられた薔薇に手を伸ばすと、その内の一輪を棘の上からポキリと手折った。その様がまるで、誰かの首をへし折っているかの様に見えた。
****
「あれ?おっかしいなぁ…」
「如何した菫?」
「ねぇ国木田君。メッセージカード見なかった?」
「メッセージカード?」
「ほら、この前薔薇の花束に付いてたヤツ。机の引き出しに仕舞ってた筈なんだけど…」
「意外だな。そんなに大事にしていたのか?」
「ん?否…、大事って云うかねぇ…。幾ら社交辞令とは云え、態々送って貰った言葉だから、相応の扱いはしたいって云うか…」
「…………」
如何やら先日の文面を、此奴はただの社交辞令と取っていた様だ。割と露骨なアプローチだったと思うが、恐らく此奴には面と向かって思いの丈を伝えでもしなければ、抱いている好意そのものすらも認識されないのだろう。
「その内出てくるだろう。見付けたら教えてやる」
「ホントかい!有難う国木田君」
「そら、そんな事よりこの報告書を社長にお届けしろ。先日の政府要人の護衛をした際のものだ」
「了解だ。序にお茶とお菓子も用意していこうかな」
「社長はお忙しいお方だ。余り入り浸るなよ」
「はーい」
報告書入りのファイルを手渡し、俺は自席に着いた。卓上に積み重なる書類に目を通し、最終確認を終えて署名する。それを繰り返していると、不意に卓上に置いていた万年筆の蓋が転がり机の下へと落ちた。小さく舌打ちをして覗き込んでみるも、薄暗くて良く見えない。しかも机の下はコードが入り組んでいて、万年筆の蓋など簡単に紛れてしまいそうだ。溜息を吐いて机の下に潜り込み、手探りに蓋を探す。
―――その時、暗闇にぼんやりと明りが灯った。
「どうだい、明るくなっただろう」
「うわああぁ!?」
突如暗闇に現れた灯火とにこやかな笑みを張り付けた人面に、俺は盛大に叫びを上げて机に頭を叩きつけた。
「おま、お前…、いいい一体何を!?」
「何って、国木田君が困っている様だったから、明かりを提供してあげたんじゃないか」
「室内で火を光源に提供する奴があるか!?今すぐ消せ!燃え移ったらどうする心算だ!」
「大丈夫大丈夫。其処迄燃え広がる様な根性無いから。ほらこの通り、握り潰すだけで簡単に消えちゃった」
何か小さな紙片に火を灯していた太宰は、それを自分の手の中でぐしゃりと潰した。後に残ったのは黒ずんだ灰と燃え滓だけ。それをゴミ箱の中に叩き落として、太宰は俺に反対側の手を差し出した。其処には、俺が落とした万年筆の蓋が握られている。
「最初から普通に渡せ、この唐変木」
「いやぁ、国木田君の恐れ慄く顔が見たくてつい」
「お前も握り潰してやろうか」
「残念だけど、そんな事をしている場合ではないのだよ国木田君。事は一刻を争う。此の儘では、取り返しのつかない事に」
「そうか。なら俺は仕事に戻るぞ」
「待って国木田君!本当に緊急事態なの!話だけでも聞いて!」
「喧しい!どうせまた、菫が可愛くて如何のと宣う心算だろう!?そんな事俺が知るか!」
「違うのだよ!もうそんなお気楽な問題じゃ納まらなくなってしまったんだ!これは菫自身にも関わる大問題なのだよ!」
「は?」
思いもよらぬ一言を耳にして、流石に動きが止まった。あの太宰が、まるで藁にも縋る様な眼で俺を見上げている。これは只事ではない。そう察して、俺は太宰の両肩に手を置いた。
「判った、云ってみろ太宰。一体何があったのだ?」
「うう、有難う国木田君。実はあの後、菫に警戒心の大切さを知って貰おうと色々話をしてみたのだよ。でも彼女、“そんなもの好き居るのか?”って首を傾げるばかりでね。仕方ないから身をもって教えてあげようと、昨日夜這いを掛けてみたのだけど」
「もしもし、ヨコハマ市警ですか。強姦容疑の男を確保しましたので身柄の受け渡しを」
「待って!最後まで聞いて!」
「黙れこの淫獣が!俺は警戒を促せと云ったのだぞ!誰が犯行に及べと云った!?」
「やって無い!押し倒しはしたけどやって無いから!本当だって!」
「信じられるか!そんな据え膳を前にして思い留まれる理性が、貴様にある訳無いだろう!」
「私を何だと思ってるの!?と云うか、取り敢えず受話器置いてくれないかな!?」
無理矢理俺の手から受話器を掻っ攫った太宰は、「すみません間違い電話でした!」と口早に吹き込んで切電した。そして疲れた様に椅子に座ると頭を抱えてボソボソと話し出した。
「私だって本気で事に及ぼうとした訳じゃないよ。ただ、余りに菫の危機感が足りないから、ちょっと痛い目を見せてやる心算で、彼女の部屋に這入り込んで布団に押し倒してみたのだけど……」
「……。…何だ…?」
「添い寝の催促と勘違いされて其の儘布団に引きずり込まれた……」
「……………」
「しかもガッチリと私にしがみ付いて寝るものだから、否応無しに感触とか匂いとか寝息とか感じられてしまって……」
「………。……それを、耐え切ったのか。お前…」
「当たり前じゃないか…。お陰で、昨日は一睡も出来なかったけど…」
力無く俯く太宰は、この前より明らかに疲弊していた。一応此奴にも人並みの良識があった事に安堵する反面、幾らあの変わり者相手とは云え、そんな生殺し状態で一夜を過ごす羽目になった同僚に同情を禁じえなかった。
「あれ以来ね…おかしいのだよ…。菫は確かに時折愛らしい事をするって、其れは私も理解していたよ?でも近頃の菫は時折って云うか、常時愛くるしくて…。ねぇ、菫って何時からあんな可愛い顔で笑えるようになったの?と云うかあんないい匂いしてたっけ?否、其れより、常々けしからんと思ってたけど、矢っ張りあの胸元から太腿に掛けての曲線は実にけしから」
ガツン!
「あと一〇七回打ち付けてやろうか?」
「私は除夜の鐘ではないよ国木田君」
またも暴走を始めた馬鹿の頭を卓上に叩きつけると、俺は改めて問題を整理した。此奴は菫が自分を甘やかし、世話を焼き、挙句自ら距離を詰めて来る様になった事を問題視している。だがそれは、自立心によるものでもなければ、勿論菫を疎んでの事でもない。寧ろ此奴は毎度菫の問題点を“可愛くて”と繰り返している。
「―――!」
その時、とある記憶が俺の脳裏に蘇った。埃臭い錆びれた廃倉庫。同僚に向けた銃口。そして―――
「太宰。まさかお前、
―――菫に
疲れ切っていた鳶色の双眸が、転がり落ちそうな程に見開かれた。気怠く椅子に掛けていた体がビシリと固まる。何なら、呼吸迄完全に止まった様だ。確認する気は無いが、恐らく鼓動さえも止まって居るだろう。そう確信できる程徹底的な、“静止”だった。
「太宰?…おい、太宰?……太宰!!」
幾ら揺さぶっても、大声で呼びかけても太宰はピクリとも動かない。終いにはずるりと椅子から滑り落ちそうになる始末だ。流石に焦って両肩を掴み、一層声を荒げる。
「太宰!貴様いい加減に」
「はははは!」
途端に、太宰は弾かれた様に笑い出した。腹を抱え膝を叩く姿は誰が見ても大爆笑と評する有様だろう。終いには呼吸すら苦しそうにしながら、太宰は漸く人の言葉を吐いた。
「在り得ないよ国木田君。確かに私、女性は皆好きだけど、幾ら愛らしいとは云え、私が菫に惚れるなんて絶対ないって」
「…………」
ヘラリと、態とらしい程穏やかに笑って見せた太宰。しかしその眼は一切笑っていなかった。不覚にもその異様な空気に気圧されて口を噤んだ事を、俺は直ぐに後悔する事となる。
****
「菫?」
「嗚呼、国木田君。お疲れ様」
「何故此処に居る?お前確か、今日は太宰と依頼に向かう筈だっただろう?」
「嗚呼、其れなんだがね…。今回私は留守番する事になりまして…」
「は?」
「あ、でもちゃんと報告書は私が作る事になってるからさ!大丈夫大丈夫!」
「大丈夫も何も、あれはお前等二人に割り振られた仕事だった筈だろう。何故急に…」
すると菫は、弱々しく苦笑を浮かべながら俯いた。
「その…、太宰がさ…“依頼は私一人で大丈夫だから”って…」
「…………」
「まぁ、あの子はやる気さえ出せば何でも出来る子だからな!依頼の方は心配ないさ!嗚呼、でも途中で川とかに飛び込んじゃった時の為に、何時でも出られる準備はしてあるぞ。万事抜かりはない!」
そう云って菫はニカリと笑うと、またパソコンの画面に眼を向けた。それは一見、何時もの能天気な間抜け面と同じに見えた。しかし、先刻垣間見たあの苦笑がどうしてもその上に重なって消えない。
「丁度いい。明日の会議資料を今日中に仕上げねばならなかった所だ。手伝え」
「っ!…うん、判った!」
役割を与えてやると、菫は眼を輝かせて今度こそ何時もの笑みを浮かべた。現金な奴だと内心で溜息を吐いて、俺は卓上の資料を半分菫の机に移した。その時、飾り気の無い書類の束の合間に、妙に小奇麗な封筒を見つけた。
「それは?」
「ん?嗚呼、これな…。入社したての頃、聞き込み調査で偏屈なお婆さんに話聞いたの覚えてるかい?」
「嗚呼、そう云えばあったな…」
「そのお孫さんの見合い写真」
「はぁ!?」
「ほら、あの時最終的に見合い話持ち掛けられただろう?あの話、未だ生きてたみたいでね…。“私には勿体ないです”って丁重にお断りしたんだけど、写真だけでもって押し付けられちゃって…」
先刻とは違う種類の苦笑を浮かべて、菫は封筒の中から写真を取り出した。生真面目そうな顔つきではあるが、年齢はどう見ても此奴より一回り上だろう。
「お前…、如何する心算だこれ…」
「勿論お断りする気ではいるよ。私の異能、コレだし。後正直、この人顔が怖い…」
「まぁ、見るからに堅物そうではあるがな…」
「同じ堅物でも、君みたいな人だったら大歓迎なんだけどね」
「………は?」
「否ほら。堅物な人は基本怖くて近づき難いけど、国木田君は怖くないからな。寧ろ好きだ」
「っ!?」
落ち着け。落ち着くのだ国木田独歩。相手はあの菫だぞ。配偶者計画の条件五十八項目中、四十二項も満たしていない唐変木二号だぞ。動揺する事は無い。あくまで冷静に、お前の気持ちには応えられないと返答を―――
「あ、でもそれなら社長も捨て難いなぁ…」
「………へ?」
「ほら、社長って猫ちゃんが好きだろう?だからきっと猫ちゃん談議でお見合いも盛り上がると思うんだ」
「………菫」
「ん?」
「社長は好きか?」
「うん、メッチャ好き」
「…………」
「国木田君?」
「何でもない。さっさと仕事しろ、唐変木二号」
結局その後、日が暮れても太宰が戻ってくる事は無かった。就業時間を過ぎても菫は奴を待つと云って粘っていたが、何とか説き伏せて無理矢理帰した。それから暫くの後、本日の業務を終えた俺は、漸く帰宅の準備に取り掛かった。その時―――
「国木ぃ〜田く〜ん」
「ぅおらぁ!」
「ぎゃぶ!」
背後から湧いた声に俺は全力で一本背負いを決めた。床に転がったのは案の定、件の迷惑製造機だった。
「何度も同じ手に引っ掛かるか阿呆め」
「ふ、ふふ…。見直したよ国木田君。今度はもっとレベルを上げて脅かすとしよう」
「要らんわ!それより、こんな時間まで何処を遊び歩いておったのだ」
「心外だねぇ。ちゃんと依頼は果たよ。その後ちょっと立ち飲み屋で引っ掛けて、道行く美女達に声を掛けて回っていただけさ」
「十分遊んどるではないか。仕事が終わったのならさっさと帰って来い。お前に留守番を云い付けられて、彼奴はずっと帰りを待っていたのだぞ」
「……だからだよ」
「は?」
「とうとう来てしまったのだよ、国木田君。恐れていた最悪の事態がね…」
床から起き上がった太宰の眼に、俺は息を飲んだ。何時もの飄々とした色は其処に無い。まるで獲物を見据える捕食者の様な鋭い眼差しで、太宰はゆっくりと口を開く。
「菫見てると押し倒したくなるんだけど、如何したらいいかな」
「去勢しろ」
俺は帰り支度を終えて事務室の扉に手を掛けた。すると太宰は、眼にも止まらぬ早さでその扉の前に立ち塞がった。
「待ってそれはナイでしょ。同じ男としてそれはナイでしょ国木田君」
「知るか。大体貴様、菫に惚れるなど有り得ないのでは無かったのか?」
「否、恋愛感情と性欲は別でしょ?」
「去勢して出家しろ」
「悪化してる!」
「いい加減にしろ!それならもういっそ本人に云え!彼奴もお前の事は好いているだろうが!」
「それは無い」
それ迄喚いていたのが嘘の様に、キッパリと太宰は云い切った。
「君も聞いた事くらいあるだろう国木田君。彼女が、“男としての私”にどう云う評価を付けているか」
「っ!」
「『女性と見れば手当たり次第に言い寄った挙句、取っ換え引っ換え弄ぶ最低最悪人間で、しかも散々弄んだ挙句相手の事を覚えてすらいない塵屑野郎だから、彼奴だけは本当にやめとけ』。彼女の心の
「…………」
「だからね、最近少しずつ距離を取ってみる事にしたんだ…。小休憩を挟めばこの気持ちも落ち着くかなって…。そしたら…、逆に菫に会いたくてムラムラする様になっちゃって……」
「せめてソワソワしろ」
「もう駄目…。自宅に居る時間が一番生き地獄…。ウチの部屋何であんな壁が薄いの。何処に居ても全部丸聞こえじゃ無いか。おまけに直ぐ手の届く所にあんなに沢山のおかずが」
「殴られる前にやめとけよ」
「あ、はい」
俺は腕を組んで暫し黙考した。太宰の話を反芻し、そして今日の菫の様子を思い起こす。弱々しく苦笑していた、彼奴の顔を―――
「太宰。お前の云い分は判った。だが菫の方は大分堪えている様だったぞ。距離を置くにしても、もう少し巧いやり方は無かったのか?」
「だって、多少キツ目に云わないと、彼女着いてきちゃうから…」
「だが彼奴からしてみれば、急にお前に無下にされたも同然だ。それに彼奴は、人の顔色を読む事に長けている。孰れ必ず“何かおかしい”と勘付かれるぞ」
「うん、判ってる。少なくとも彼女は、私と云う一個人には好意的だからね。だから国木田君。
―――どうか君の力を貸してくれないか?」
今思えば奴のこの一言が、後に来る阿鼻叫喚の地獄の入り口へと俺を誘う、悪魔の契約だった。
****
「…………」
「如何した?」
「あ、否…。外で飲むのあんまり慣れてないから、少し緊張して…」
「不要な気構えだ。ここは万年、閑古鳥が鳴いてるからな。そうそう他の客など入らん」
何処か落ち着きのない同僚にそう返して、俺は酒杯を煽る。この店は酒も料理も悪くないが、路地裏の更に奥まった場所にある為、イマイチ客の入りが悪い。俺が知る中で、一番賑わいとは程遠い飲み屋だ。俺に習ってか自分の酒杯に口を付ける同僚を眺めながら、俺は先日もう一人の同僚から受けた頼み事を思い返した。
「菫は人の機微に敏感だけど、その原因を推察するのが恐ろしく下手だ。だから君には菫のフォローに入って欲しいのだよ。彼女が必要以上に自分を責め苛まない様に」
正直、何故俺がそんな事迄せねばならんのだと云い返したくはあった。だが、それが口から出る直前、また此奴の辛気臭い苦笑が脳裏を過った。結果、“断る”の二文字が喉で痞えた俺は、悲しいかな菫を励ます役目を押し付けられてしまった訳だ。
「その…、なんだ…。最近調子はどうだ?」
「え?」
「だから…、探偵社に入ってそれなりに経っただろう…。仕事の事とか…、人間関係の事とか……」
余りに捻りの無い唐突な質問に、我ながら頭を抱えたくなった。しかし菫は、特に気にする様子もなく考え込む様に酒杯を傾ける。
「ん~、仕事は大分慣れたよ?人間関係の方も、探偵社の皆は取り敢えず許容コンプリートしたしね。嗚呼でも、イマイチ荒事に対峙する時は心もとないかなぁ…。私、異能で人に触られないけど、結局それだけだし。君みたいに武術とか会得出来てれば、もうちょっと巧く立ち回れるんだろうが…」
「…何も、無理に危険な依頼に首を突っ込む必要もないだろう。お前は仮にも女性で」
「国木田君?前に“今後私が女だからって特別扱いしない”って約束したよな?」
「い、否、今のは…」
「まぁ、心配してくれるのは嬉しいけどね。やっぱり武装探偵社の一隅として、多少の身のこなしは出来る様になりたいんだよ。そうすれば、選べる選択肢も増えるし」
そう語る菫の眼は、何処か遠い先を見据えて居る様に見えた。だが実際、此奴の云う通り探偵社の仕事は大なり小なり危険が付き纏う。いざと云う時に、自分で自分の身を守る術はあるに越した事は無い。
「………なら、教えてやろうか?」
「え?」
「俺は社長から一通り武術の手解きを受けている。人にものを教えるのも不得手ではない。無論、教えるからには甘えは許さんが……それで善いなら、教えてやる」
「ホントか!?やった!有難う国木田君!」
「お、おう…」
まるで子供の様に眼を輝かせた菫は、席から乗りだして俺の手を掴んだ。それが何だかこそばゆくて、俺は自分の手を引っ込めるとまた酒杯を取った。
「全く、その調子なら見合いは断って正解だったな。襤褸が出たら寧ろ先方から三行半を突き付けられる所だぞ」
「嗚呼、それなら既に突き付けられたぞ?」
「は?」
「いやね。この前例のお婆さんがまた来てさ、“見合いの話は無かった事にして欲しい”って、よく判らんが頭下げられた」
「待て、あの偏屈な老婆がか!?」
「うん。私もびっくりしちゃったよ。ただ、それなら写真返さなきゃって探したんだが見つかんなくてさ…。ちゃんと机の上に置いといた筈なんだけどなぁ…」
「…………」
その時、俺の背後に得体の知れない悪寒が走った。結局その後、菫との酒の席は当たり前の世間話や仕事の愚痴を垂れてお開きとなったが、帰宅後床に就いても俺は云い知れぬ違和感を拭えずに居た。後日、例の花束の贈り主の現状が気になって足を運んでみると、数か月前迄豪華絢爛の限りを尽くしていた豪邸の門に“売却”の二文字がぶら下がっていた。
****
「ぷはーーー!稽古後の一杯は最高だなマスター!」
「誰がマスターだ。オヤジかお前は」
あれから一月。約束通り俺は仕事後、お互いの都合があった時に菫に武術の稽古をつけてやった。と云っても、矢張り相手はずぶの素人。組手以前に型を覚えさせるところから始まった。だが、持ち前の真面目さが幸いして、自主練習も欠かさず、また人の動きを読むのに長けている為か呑み込みは悪くない。この調子でいけば近々、組手の稽古に移行しても問題ないだろう。
「いやぁ、楽しいな武術って!何か凄く恰好いい!」
「語彙力が稚拙過ぎてお前の阿呆さしか伝わらんぞ」
稽古後、この飲み屋で酒を酌み交わすのも徐々に恒例となってきた。お陰で店主からはすっかりあらぬ誤解を受ける始末だ。
「おい菫、流石に飲み過ぎだ。自力で帰れなくなっても知らんぞ」
「ん~?大丈夫大丈夫!それに…、どうせ帰っても、誰も居ないもん……」
「…………」
あれからと云うもの、遂に太宰は帰宅すらしなくなってきたのだと云う。だから俺が此奴に稽古をつけてやる日は、決まって太宰が家に帰らない日だ。そしてその日数は、眼に見えて増えてきている。
「文句が在るなら、本人に直接云ってやればいいだろう」
「はは、文句なんて無いさ。太宰が何処に居ようが何しようが、其れはあの子の自由だ」
「だが…」
「抑々、私と太宰はただ一緒に住んでるだけだよ。あの子の私生活をとやかく云う権利なんて、私には無いって」
そう笑って見せる菫は、云った傍から酒杯を煽る。嘗て俺に“酒なんかで逃げ切れる程現実は優しくない”と笑んだ其奴は、それでも尚酒で自らに麻酔を掛けようとしているように見えた。
「…………」
閉店の時間が迫り、菫から飲み代の半分を受け取って勘定を済ませながら、俺は思考を回していた。正直、彼奴とこうして酒を飲み交わすのを煩わしく思った事は無い。だが実際、彼奴が本当に望んでいるのものは別にあると云う事も、厭と云う程理解していた。孰れこんな付け焼き刃では誤魔化しが効かなくなる。根本的な問題を解決しなければ―――
「菫、帰るぞ。……菫?」
今後の事を考えながら席に戻れば、つい先刻迄管を巻いていた酔いどれが、机に突っ伏して寝落ちしていた。
「おい起きろ。…起きんかこの唐変木二号!」
しかも起きない。全く起きない。揺すろうが、叩こうが、大声で怒鳴ろうが、全く起きない。最終的に店主からの視線に耐えかね、止む無く俺は寝落ちした馬鹿を負ぶって店を出た。だが、此れから如何する。一応此奴の家は知って居るが、如何にこの唐変木二号とは云え無断で自宅に上がるのは気が引ける。だからと云って、此奴を此の儘一人宿泊施設に放り込んで帰るのも気掛かりだ。勿論同じ部屋に泊まると云う選択肢は無い。
「………クソっ…」
迷い迷った末、俺は断腸の思いで自宅への道を歩き出した。此奴を寝室に放り込み、今日は別室で寝よう。そんな苦渋の決断をした俺の背で、当の元凶はスヤスヤと寝息を立てている。今迄何だかんだ最後は自力で帰宅出来ていた事もあり、完全に油断していた。こんな事なら、もっと早く待ったを掛けておくべきだった。
「………だ…ぃ」
小さな。小さな音が、耳元を掠めた。心なしか、僅かに背中の体躯が身動いだ気がした。けれどそれだけだ。相変わらず負ぶった酔いどれは起きる気配がない。俺は思わず溜息を吐いた。その時吸った空気に、濃厚な酒気が混ざっていた。
「酒の匂いしかせんではないか…、阿呆め…」
****
眩い何かが瞼を焼いた。その所為で覚めた目が周囲を映すも、ぼやけていてハッキリしない。手探りに眼鏡を探しながら、馴染みのない毛布の感触に首を捻る。そう云えば昨日は酔った菫を連れ帰って布団に寝かせて、自分は隣の部屋で休む羽目になったのだったか…。だが、それにしては自分の横たわっているこのフカフカの感触は何だ?着実に積み重なる違和感に妙な胸騒ぎを覚えつつ、俺は漸く指先に当たった眼鏡を掛けてもう一度当たりを見回した。
「…………」
見ず知らずの、筋骨隆々の大男が隣で寝ていた。半裸で。
****
「うぉおあぁぁ!!」
「きゃあ!え?国木田さん!?」
事務所の扉を蹴破る勢いで開け放つと、中に居た春野女史が悲鳴を上げた。見た所他には誰も居ない。
「あの国木田さん、一体どうしたんですか?」
「おい、菫は未だ来て居ないのか!?」
「え…、菫ちゃんでしたら先刻電話が…」
「電話?」
「はい。国木田さんは居るかって…」
その言葉に、俺は自分の携帯端末を開いた。案の定、其処には菫からの着信が入っている。直ぐ様折り返すと、一コールで電話は繋がった。
『国木田君ごめん!思いっきり迷惑掛けた!あの、此処って国木田君の家、だよな?』
「…………」
『その、取り敢えず探偵社に向かいたいんだが、鍵の場所が判んなくて戸締り出来なくて…。何処にあるか教えてくれないか…?』
「…………」
『……国木田君?』
残念ながら菫の声は、無事を確認した第一声以降殆ど聞き流して居た。その代わり脳内でここ数日の出来事が、走馬灯と呼ぶには余りに早過ぎるスピードで駆け巡っていく。消えたメッセージカードと見合い写真。売却された豪邸。頭を下げたと云う偏屈な老婆。そして、起き抜けに広がって居た地獄の光景。
軈てそれは、俺の頭の中で一つの像を結んだ。
「おい菫」
『ん、何?』
「これから云う事は“事実”だ。よってお前の所感は関係ない。ただ“事実”として受け止めろ、いいな」
『え?』
「よく聞け菫、太宰はお前に―――」
バッシャーン!!
その時、俺の言葉を押し流す様に真横から盛大に冷水が襲い掛かった。突然の事に半ば放心しつつ水の出所に目を向けると、大きなバケツを持った砂色の外套が其処に居た。
「おはよう国木田君!目は覚めたかい?」
軽快な声と晴れやかな笑顔。だが、たった今俺に冷水を浴びせたのは間違い無く此奴だ。何なら、今ので携帯迄お釈迦になったらしく、あれだけ慌しかった菫の声が完全に途絶えて居た。
「だぁぁざぁぁいぃぃーーー!!」
次の瞬間、俺は走り出して居た。怒りの叫びを上げて砂色の背中に手を伸ばす。が、当然下手人は愉快そうな笑い声を上げて逃げていく。それを追い回して何時の間にか屋上へと辿り着いて居た俺は、柵を背にした太宰ににじり寄る。
「もう逃がさんぞ…、この迷惑噴霧器が…っ」
「酷いなぁ、私はただ君の目を覚ましてあげただけじゃないか。寝惚けた勢いで、在りもしない法螺を吹く前にね」
その顔はニコニコと笑顔を湛えていたが、俺に向けられた鳶色の双眸は全く笑って居なかった。冷たく座った鳶色は“余計な事をするな”と雄弁に語っている。その色に、―――俺の堪忍袋の尾が切れた。
「いい加減にしろよ貴様!自分が菫に近づけんからと云って、他の男に当たるな見苦しい!!」
「………は?」
「惚けるな!あの花束の贈り主が消えたのも、見合い話が流れたのも、俺が今朝見ず知らず他人の寝床で目覚めたのも、全部お前の仕業だろうが!」
そう。菫が探し回っていたメッセージカードは、その後此奴が俺の目の前で燃やして見せたあの紙片だ。であるならば、一連の不可解な現象も説明がつく。此奴が、菫に近づこうとする男達を排除していたと云うならば―――
「何の事か判らないな。第一、君に菫のフォローをお願いしたのは私だよ?それで彼女の面倒をみてくれた君に、私がそんな事をする理由なんて無いじゃないか」
「昨日、俺が彼奴を自宅に連れ帰った。それが理由だ…っ」
「まさか。だって、君は菫の事を何とも思ってないし。仮に酔った勢いがあったとしても、君にそんな度胸無いでしょう?」
「嗚呼そうだな。たが、傷心した菫が心細さから、許容済みの数少ない相手に縋る可能性はあるだろう」
「―――っ!」
無論、実際にそんな事があった訳では無い。事実と可能性をありったけ組み合わせた仮説だ。普段の此奴なら、鼻で笑って一蹴するであろう杜撰な煽り。たが、俺は見逃さなかった。俺を見据える鳶色が、僅かに業火の様な何かを灯したのを。俺は三歩で奴との距離を埋めると、その胸倉を掴み上げ吠えた。
「一丁前に嫉妬するなら、先ずはその恋心を認めてからにしろ!この唐変木が!!」
地獄の釜の中身を移した様な瞳が、一瞬で凪いだ。俺に胸倉を掴まれながら、太宰は抵抗どころか力すら抜けてしまった様に動かない。だが軈て、丸く見開いた鳶色が黒い蓬髪に覆われた。
「私は、彼女より先に死にたいのにかい…」
「―――っ…」
思わず手を離すと、砂色の外套は其の儘コンクリートの上に落ちた。俯く蓬髪の下から、ポツリポツリと無機質な音が足元に転がる。
「私は死にたいのだよ、国木田君。少なくも、彼女より先に。絶対に。喩え、彼女を独りぼっちにする事になっても。私は、彼女が生きている世界で死にたいんだ」
「…………」
言葉が、出なかった。何時もならこんな身勝手な暴論、一刀両断出来た筈なのだ。たが、言葉を吐き出そうとする度、脳裏に血染めの白い着物が浮かぶ。埃臭い廃倉庫で、此奴に縋って泣き噦る彼奴の姿が浮かぶ。それらがグチャグチャに入り混じって、正しい筈の言葉を阻む。
「君にした事は謝る…。でもどうか、私の事は彼女に云わないでくれ。お願いだ」
「………それでお前は、また逃げ回るのか」
「嗚呼。今は時間が必要なんだ。時間させおけば私も彼女も落ち着く筈だ。そうしたらきっと全部元に戻るさ。
私はただ―――
死ぬ迄彼女が傍に居てくれたら、それでいいんだから」
そう云い切って太宰は顔を上げた。其処には見慣れた笑みが浮かんでいた。何も変わらない、何時も通りの造形。
だが、身勝手極まりないその言葉は
何故か、祈りの様に聞こえた。
****
港湾都市ヨコハマ。荒事が絶えないこの街で、昼と夜の
その事務所内で俺は、一人の男と対峙していた。
「おい太宰。お前この仕事を始めてどれくらい経つ?」
「ん〜、どれくらいだろう?大分経ったと思うけど」
「“二年だ”。一般企業であれば、先輩として新人教育に当たる頃合いだ。現にお前は後輩を持つ立場になったと云うのに、何時になったら真面に仕事が」
「あ!お帰り菫ー!」
「聞けー!」
「おっと、ただいま太宰」
「嗚呼、菫。菫。会いたかったよ菫〜」
「おいおい、ちょっと買い出しに行ってただけだろ?」
「私にとっては砂を噛む様な耐え難い時間だったの!菫は私が居ない間、何とも思わなかったのかい?」
「一秒でも早く君に会いたくて、最短ルートを競歩で帰ってきたが?」
「菫…っ!ああん!もうこれだから菫は!」
「ふふ、太宰擽ったいって」
「お前らなぁ……」
買い物袋を下げた小柄な体躯を、長身の痩躯がすっぽりと覆う様に抱き締めた。互いに顔を見合わせて微笑み合いながら、胸焼けする程甘ったるい空気を垂れ流している。
「…………」
この光景を一年前の自分に見せたら、一体どんな顔をするだろう。指一本触れられない相手すらも近づく事を許さず、しかし自ら触れる事を避けて、判り切ったその答えを頑なに認めなかった同僚。不安と困惑を酒で埋め、何時も周りに笑って見せて、ただひたすらに帰りを待ち続けて居た同僚。そんな七面倒で阿呆臭い唐変木共の間に挟まれて、頭と胃を痛めて居たあの頃の自分は、
―――この光景を見たら何と云うだろう。
「菫、菫。愛してるよ菫」
「嗚呼、私もだ。愛してるぞ太宰」
「…はぁ、全く。いい加減にしろよお前ら………」
俺の名は国木田独歩。
現実を往く理想主義者にして、理想を追う現実主義者。
理想の実現を希う俺と、