hello solitary hand・番外編
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人類の三大欲求の一角を担う“食欲”。
その中でもトップクラスに我々を虜にしている魔性の味覚が“甘味”だ。
子供は勿論大人すら魅了し、一口味わえばそこはもう楽園の園。疲れた身体、荒んだ心、活動を放棄した脳味噌まで、甘いものは全てを解決する。
そう、まさに迷宮なしの名探偵の様に。
「はぁー、終わった終わった!菫ー、僕今日は洋菓子の気分。たっぷりの生クリームが食べたい!あ、でもバターと蜂蜜の組み合わせも捨てがたいなぁ」
だから、世界最強の名探偵であるこの人が大の甘党なのも、ある意味自然の摂理なのかもしれない。
「ええ。名探偵の仰せの儘に」
いつもの様に光の速さで難事件を解決した乱歩さんに労いを込めて一礼し、私は早速“洋菓子 生クリーム 蜂蜜バター”で検索を掛ける。
乱歩さんの案内人が定着して早一年。その間に私の職務内容は、大きく分けて以下の3つに確立されていた。
1つ、乱歩さんを依頼人の許まで送り届ける事。
1つ、乱歩さんの身の安全を守る事。
そして──
「あ!乱歩さん、近くにパンケーキが美味しいお店があるみたいですよ!」
「おぉ、いいねいいね!じゃあそこで決まり。菫案内宜しく!」
「はい。お任せ下さい!」
一仕事終えた乱歩さんに、ご希望通りの甘味を献上する事だ。
「申し訳ございません。当店は現在満席でして、ご案内できるまで大分お待ちいただく事になるかと……」
「oh……」
正しく平身低頭のお手本の様に頭を下げる店員さんから目を上げると、見事に全テーブルが埋まった店内が視界に広がった。何てこった。昼時ジャストじゃないからいけると思ったが、人気店の需要を甘く見過ぎていたらしい。甘味だけに。いや、喧しいわ。
それよりどうしたものか。お目当てのパンケーキが食べられないとなれば、乱歩さんのご機嫌がどれだけ暴落する事か。そんな最悪の事態を覚悟しつつ、恐る恐る隣を覗き見ると、
「おーい菫ー。こっちこっちー」
反射的に周囲を見回していた私の目に、ひらひらと揺れる手が映った。いつの間にか私の隣から消えていた名探偵は、当然の様な顔をして座席に踏ん反り返っている。が、現在この店は満員御礼。私達が座れる席はない。つまり今乱歩さんが我が物顔で座っている席は──
「ちょ⁉駄目ですよ乱歩さん!其処は他のお客さんの席で──」
慌てて駆け寄った私は、乱歩さんの対面に座るその顔を見て固まった。
目が覚める様な赤い髪に、眦の下がった大きな目。嘗ての敵であり、今は頼もしい協力者。元
「貴女……
そしてどうやら私の第一印象は最悪だったらしい。
****
「ええっとね。僕はこの蜂蜜バターのやつに生クリーム追加で。飲み物はオレンジジュースがいい!菫は?」
「あー…。じゃあこの苺とアイスが乗ったものと紅茶を」
「かしこまりました」
「早く持って来てねー!僕もうお腹ペコペコなんだからー!」
「乱歩さん……」
振り向き様、苦笑と共に頷いてくれた店員さんに、私は内心平謝りしつつ、伺うように顔を上げる。相変わらず此方を睨む外つ国の少女の険しい御尊顔がそこにはあった。
「えっと……ごめんねモンゴメリちゃん。勝手にお邪魔しちゃって……」
「勝手にじゃない。僕はちゃんと『席半分貸して』って云った」
「その後彼女にOKもらいました?」
「もらってない」
「ですよねー」
予想通りの返答に私は今度こそ卓上に没した。まぁ【僕がよければすべてよし】を座右の銘に掲げる御仁だからなぁ。仕方ないか、うん。と開き直った私は、姿勢を正すと今度はきちんとした所作で向かい側の少女に頭を下げた。
「本当に申し訳ない。他の席が空いたらすぐに移る。勿論、この場の代金も全部こっちで持つから、相席させてもらえないだろうか」
完全に順序が逆なのは理解していたが、乱歩さんのリクエストを叶えて差し上げたいのもまた本心だ。その為にも、まずは彼女から正式に相席の許可を得なければ始まらない。そんな思いと共に下げた頭上に、またポロリと小さな呟きが落ちた。
「驚いた……。貴女、本当に真面な会話が出来たのね……」
「へ?」
「あははは!大丈夫大丈夫!君達がウチに来た時は、偶々恋煩い末期だっただけで、こっちがいつもの菫。噛みついたりしないから、そんなに警戒しなくていいよ」
そう云ってバシバシ肩を叩かれる私の気分は、すっかり犬猫のそれだ。まぁ確かに考えてみれば、モンゴメリちゃんから見た私って、自分の上司の顔面に初対面でメレンゲボゥルスパーキングした挙句、奇声発して退場したヤベー奴だもんな。しかもあれ以降何だかんだでお会いする機会なかったし、そりゃ警戒もされる訳だ。
「えっと……その節はお見苦しい所をお見せして申し訳ない。一応人並みに意思疎通は取れると思うから安心して」
「お待たせしました。こちらご注文の品になります」
「おぉ!待ってましたー!」
その時、銀色のお盆を携えて店員さんが私達の許に現れた。バターと蜂蜜がこれでもかと掛けられたふわっふわのパンケーキに、たっぷりと添えられた生クリームの山。漸く運ばれてきたその一皿を前にした乱歩さんは、元気よく「いっただきまーす!」と手を合わせると、待望の一口を頬っぺたいっぱいに頬張った。
「ん~、ほひひぃ~!」
苦労した分、美味しさも一入なのだろう。満足そうにパンケーキを食べ進める乱歩さんは、齧歯類が二度見するレベルで頬袋をパンパンにしていた。26歳男性がこれをやって一切違和感がないのだから、全く恐ろしい御仁である。とは云え、満足して頂けたようで良かった。
「……ねぇ」
危機を脱した安心感と、ご満悦な先輩の姿にほっと息を吐いたその時、不意に声を掛けられた。それを追うように、ナイフとフォークが入った籠がほんの少し私の方に進み出る。その縁に掛けられた手を辿ってみると、先刻より幾分が険しさの取れた顔で赤毛の少女がこちらを覗き込んでいた。
「貴女も食べたら?アイス、溶けちゃうわよ」
「あ……うん。ありがとう……」
席の主の様子を伺いつつ、私は籠に手を伸ばす。食べるよう勧められたって事は、相席の許可が下りたと思っていいのだろうか。もたもたとそんな事を考えていた私は、「食べないなら僕がもらうけど」と云う乱歩さんの一言で、即行ナイフとフォークを手に取った。自分のパンケーキを速やかにカットし、トッピングの苺とアイスクリームと共に口へ運ぶ。「ちぇー」と口を尖らせる乱歩さんと、何とも云えない顔をしたモンゴメリちゃんに見守られて、記念すべき一口目が私の舌の上に転がり込んだ。
「っ!ん~~~!」
しっとりフワフワの焼きたてパンケーキと、冷たいアイスクリームが織り成す食感と温度差のハーモニー。そこへ苺のフレッシュな甘酸っぱさがアクセントになって、それぞれの良さを引き立てつつ舌の上に広がっていく。簡単に云いうと、感動的に美味しゅうございます。
「ふぁ~、おいひぃ~。矢っ張り人気店の味は違いますねぇ。流石にお家でこのクオリティーは無理ですわ。あ、でもうずまきの厨房借りればワンチャンいけるか?」
「え……」
「ん?」
至福の時間に溶け出していた意識が、小さな疑問符を拾って現実に立ち返る。それと同時にかち合った眦の下がったくりくりお目々は、しかし次の瞬間“しまった”と云うように視線を逸らす。一体どうしたのだろう?
「あ、そうだ菫。お前この後暇だったな?」
「? 一応先刻の事件の報告書作りがありますけど」
「でもそれ、明日作っても間に合う奴だろう?なら今日中にやる必要はない。つまりお前はこの後暇だって事だ」
「まぁ、そう考えればそうですけど……」
「だってさ。どうする?」
卓上に頬杖をついた乱歩さんは、向かい側の少女にニヤリと笑って問いかける。一方、完全に置いてけぼりを食らった私は、取り合えず事の成り行きを見守る事にした。そして、私達の視線を一身に注がれる事となったモンゴメリちゃんは、口を噤んだ儘謎の百面相を繰り広げ、軈て断腸の思いと云った様な顔で私に向き直ると、噛み締めるように言葉を発した。
「ねぇ、貴女」
「うん。何?」
「その…貴女に、お願いがあるんだけど……」
「お願い?まぁ私にできる事なら」
「………作り方、……教えて」
今までで一番小さな呟きが落ちた。しかも困った事に主語が抜けている。だが此処で野暮な突っ込みは恐らく悪手だろう。そう自分に云い聞かせて待っていると、彼女は恥ずかしそうに俯きながらもぽつりぽつりと言葉を続けた。
「私、今貴女達探偵社の真下にある喫茶処で働いてるんだけど。まだ店長みたいに上手く珈琲が淹れられなくて……。だから珈琲以外の所で役に立とうって思ったの。それで、人気のカフェとか流行りのお店を調べてて。今日此処に来たのもその一環」
成程。所謂市場調査って訳だ。流石実力至上主義の元
「それで思ったんだけど…、うずまきにも若者向けのメニューがあった方がいいんじゃないかしら。こう云う、トッピングがいっぱい乗ってて、デコレーションされてるかわいいの」
「おぉ!それはいい。最近はウチにも若い子が増えてきたし、かわいいメニューがあったら皆きっと喜ぶだろうな」
「!」
思わぬ素敵なアイディアについ口を挟んでしまった。が、どうやら寧ろ追い風になったらしい。今までこちらの様子を伺いながら話していたモンゴメリちゃんは、途端に目を輝かせてテーブル越しに身を乗り出した。
「でしょう!私もそう思うの!だから、貴女にケーキの作り方を教えてほしいのよ」
「ん?」
漸く話が見えてくるかと思いきや、一瞬でホワイトアウトした。いや、どうしてそうなった。と云う言葉を飲み込む代わりに黙した私に、モンゴメリちゃんは尚もぐいぐいと続ける。
「だってあの
「あー、うん…。そう云えばそんなこともありましたねー…」
「それに店長達も、貴女の作ったお菓子を褒めていたわ!かわいいデコレーションのカップケーキ、作れるんでしょう貴女!」
「んー、まぁ…人並みに…?」
「嘘おっしゃい!『入社祝いの時に作ってくれた』って、後輩のおチビちゃんが自慢げに携帯の画面見せびらかしてきたわよ。それに──っ」
止めどなく流れ出していた言葉の洪水が、突然詰まった。見ると鮮やかな赤毛と同じくらい赤面したモンゴメリちゃんが、口を噤んで俯いている。先刻までの勢いが嘘のように静かになった彼女は、そのままストンと自席に沈んで、蚊の鳴くような細い声で呟いた。
「お宅の虎猫ちゃんも、凄く褒めてたし……」
───……ほほぉ?
その瞬間、眼鏡を掛けた乱歩さんの如く、私の脳内で全てのピースが嵌った。
「ま、そう云う事だから宜しく」
そして横から乱歩さんに肩を叩かれた私は、自分の導き出した推理が真実であると確信した。因に乱歩さんはすっかりパンケーキを完食していた。
「よし、判った!私の自己流レシピでよければ幾らでも伝授しよう!」
「本当⁉」
「あぁ勿論。と云っても、こう云うスフレパンケーキは私も初心者だから、まずは練習からになるけど」
「それなら先に、あのおチビちゃんに作ってあげたカップケーキの作り方を教えてちょうだい!……あ、でも……」
「? どうた?」
この短時間で様々な表情を見せてくれた赤毛の少女。しかし今の彼女の顔は、そのどれでもない。
「矢っ張り、簡単じゃないわよね……。上手くできたらいいけど……」
ちょっぴり不安そうな女の子の顔で、モンゴメリちゃんは私の方を伺い見る。だから私は、にっこり笑って堂々と親指を立てた。
「大丈夫大丈夫!美味しいものを作るのに一番大事なものを、君はもう持ってるからね」
「? 何よ、“一番大事なもの”って…?」
「ふふ、それはまぁ、追々ね」
怪訝そうに首を傾げるモンゴメリちゃんにニヤつく表情筋を必死で抑えながら、私はこれから彼女に教える内容を脳内で組み上げる。勉強熱心なこの子なら、あのカップケーキくらいすぐにマスター出来るだろう。まぁ取り合えず、モチベーションアップの為にも白虎のモチーフは確定だな。ついでに私も、うずまきでパンケーキの練習させてもらおうっと。
──なんて、そんな事を考えながら、私はそっと食べかけのパンケーキの皿を自分の方へ引き寄せる。
「仮令乱歩さんでも、私のパンケーキはあげませんよ」
「ちぇ、バレたか」
苺より甘酸っぱい乙女の恋路。その微笑ましさのどさくさに紛れて、私のパンケーキを狙っていた名探偵は、悪戯が失敗した子供みたいな顔で、ストローを噛んだ。
****
一見で万象を見抜く最強の名探偵・江戸川乱歩さん。その推理力を必要とするのは、何もヨコハマの人々に限った話ではない。時には遠く離れた土地に泊まり掛けで遠征する事もあるのだ。そしてその際、当然付き添いの誰かが必要となる訳で。今やそれは、案内人である私の仕事だ。
今回も東北のある地方都市への遠征に同行した私は、無事依頼を果たした乱歩さんと共に、帰りの新幹線が発車するのを待っていた。
座席の折り畳みテーブルを私の分まで開いて、そこに大量のお菓子を広げる乱歩さんと云う、遠征における“お約束”の光景を眺めていた私は、“まぁ今回はお菓子も大量買いしてあるし余裕っしょ”とたかを括っていた。
──乱歩さんの、あの言葉を聞くまでは。
「菫。僕、あれが食べたい」
何の前触れもなく投下されたその発言に、私の脳内は凍り付いた。恐る恐る顔を上げると、普段見開かれる事の少ない翡翠が澄んだ光を宿して何かを見つめている。その視線を追った先にあったのは、通路を挟んだ隣の席。そこに座る勤め人風の男性が、至福を噛み締めるように口へ運ぶ
新幹線の発車時刻まで残り十五分。この状況で何処に売られているかも判らないプリンを買いに行くなど不可能。プリンなら後で幾らでも買ってくるので今回は諦めて下さい。そんな懇切丁寧な説明と共に誠心誠意説得にあたるも、乱歩さんはキョトンとした顔で私にこう云い放った。
「お弁当買った向かい側にお土産コーナーあっただろう。あそこで売ってるぞ。大丈夫。お前の足なら走ればギリギリ間に合う距離だ!」
その日、私は思い出した。己の先輩の理不尽なまでの推理力を。そしてそれすら凌駕する唯我独尊振りを。
と云う事で──
「はい!武装探偵社社訓第一条!“一人は乱歩さんの為に!皆も乱歩さんの為に”‼」
そして私は存在しない社訓を叫びながら見知らぬ土地の駅構内を爆走する事となった。ヤンキーに焼きそばパン要求されて毎晩枕を濡らしている全国の気弱男子に諸君に云いたい。社会はそれ以上の理不尽で溢れていると。
「っ⁉うわっと‼」
「おや」
その時、曲がり角に小さな影が現れた。反射的に横へ飛びのいて衝突は免れたが、よく見ると相手は手押し車を押した小柄なお婆さんだった。
「すみません!お怪我はありませんか⁉」
幾ら急いでいたとはいえ、一般市民に対して危険な行動をとってしまうなんて、探偵社員としてあるまじき失態だ。そう反省しながら駆け寄るも、当のお婆さんはのほほんとした笑顔で首を傾げた。
「あれまぁ。随分と元気のいいお嬢ちゃんじゃのう。この辺の子かね?」
「あ…いえ、私は地元の人間ではなくて……。それより、お怪我は?」
「あぁ、見ての通りピンピンしとるよ」
「そう…ですか……。はぁー、良かった」
「ふふふ。それにしても、丁度いい所に人が居ったもんじゃ」
「へ?」
お婆さんの無事を確認した安心から力の抜けた頭をもう一度上げると、折り目のついた一枚の紙切れが目に映った。
「儂もお主と同じ他所から来た口でのう。
そうぼやくお婆さんの声を聴きながら、私の目は紙切れの右下に印刷された小さな地図を数秒眺め、そして再び、紙面の大部分を占める
──そう。それはまさしく、今私が全力疾走で買い求めに走らされている“瓶詰プリン”だった。
「のうお嬢ちゃん、儂をこの店まで案内してくれんかのう?」
その少女の様なお婆さんの笑顔に、つい数分前に見た名探偵の顔が重なった。
****
「はい!武装探偵社社訓第二条!“社員たるもの市民様の安心安全健やか平和な生活の礎となるべし”‼」
そして私はまたしても存在しない社訓を叫びながら駅の構内を爆走する事となった。
「ほっほっほ。早い早い。やるのうお主」
「恐縮です‼」
尚、異能の関係上私はお婆さんに触れないので、お婆さんには手押し車に乗ってもらってそれを私が押す形に落ちついた。少々荒っぽい手段だが、なんかお婆さんもノリノリっぽいので良しとした。
「クソ!あと八分…、間に合うか?」
「お嬢ちゃん、前、前!」
お婆さんの声に顔を上げると、前方に上り階段が見えた。乱歩さんの推理では、目的のプリンはあの階段の上。普段の私なら三段飛ばしで駆け上る所だが、今はお婆さんの乗った手押し車がある。しかし、だからと云ってエレベーターを探している時間もない。つまり、私が選べる道は一つしかなかった。
「どうする?降りようか?」
「いいえそのままで!代わりに、しっかり車体につかまってて下さい‼」
「お?」
「うおおおぉぉ!!唸れ私の大腿四頭筋と上腕二頭筋!!」
そんな雄叫びを上げながら、私はお婆さんの乗った手押し車を持ち上げて、且つお婆さんが振り落とされないよう安定感を保ちつつ出せる最速で階段を駆け上った。日頃乱歩さんを負ぶって鍛えられているとは云え、正直大分キツかった。脳内に檄を飛ばすマスター・クニキーダ君の幻覚を召喚していなければ耐えられなかっただろう。帰ったらお礼云っとこ。
「だーーー!はぁ…はぁっげふお…はぁ…っ」
「ほっほっほっ!いやはや見上げたもんじゃ。お主若いのに中々根性があるのう」
「恐…はぁ…っ縮…げほっげほ…です…こひゅーーー……」
「む?おぉ!お嬢ちゃんあったぞ。あの店じゃ!」
満身創痍の体に鞭打って何とか身を起こすと、そこにはお婆さんの云いう通り、目的のお土産屋があった。正直後光が射して見えた。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
「えっと、このチラシのプリンを」
「あぁ、でしたらこちらになります」
そう云って店員さんが手で示した先には、追い求めていた瓶詰プリンが十個並んでいた。以前乱歩さんにプリン三個じゃ足りないと苦情を賜ったから、それ以上は必要かな。そんな事を考えながら、私は一歩後ろに下がって隣に居たお婆さんを促した。
「お先にどうぞ」
「おや、いいのかい?急ぎなんじゃろう?」
「そうなんですが……生憎とこう云う社風なんです。私の職場」
苦笑の中に隠しきれない誇らしさを滲ませてそう答えると、お婆さんは一瞬目を見張って、軈て満足そうに微笑むと店員さんに注文を出した。
「この瓶詰プリンを五つおくれ。長い事持ち歩く故、腐らぬようにな」
「かしこまりました。では保冷剤を多めに入れておきますね」
「あぁ、頼む。ただし、このお嬢ちゃんの注文を取った後でのう」
「え…」
思わず声を漏らした私に、お婆さんは悪戯っぽくウィンクをした。それに続くように店員さんが「ではご注文を」と促すので、私はおずおずとショーケースのプリンを指さす。
「私も同じものを五つお願いします」
「保冷材はいかがいたしますか?」
「多分四つはすぐに食べると思うので大丈夫です。ただ──
「かしこまりました」
そう一礼して、店員さんは手早く私の分のプリンを包み始める。時計を見ると発車時刻まで五分を切っていたが、全力で走ればギリギリ間に合うだろう。
「お待たせしました。こちらご注文のお品です」
「ありがとうございます。お婆さんも、ありがとうございました」
「なに。ここまで儂を運んだ礼じゃよ。それより時間がないのじゃろう?早よう行くがよい」
「はい。それでは失礼します!」
最後にお婆さんに一礼して、私は元来た階段を駆け下りた。そんな私を見送ったお婆さんは、店員さんから自分のプリンを受け取ると、手押し車の中にしまってお土産屋さんを後にする。行きは手押し車に乗せられて上った階段。その下には今、軍服姿の青年が佇んでいた。
「何じゃ。迎えがお主とはつまらんのう。今日は立原が顔を出す日じゃろう?てっきり彼奴が来るものと思うておったが」
「一応彼は潜入任務中ですから。それより、先程からこの辺りで雄々しい女性の叫び声と喧しい足音が鳴り響いていましたが、女性権利団体のデモでもあったんですか?」
「くかか!それよりもっと面白いものが見られたぞ。愚鈍な己の足を恨むがよいわ」
「はぁ。それは、盲目の私に対する当てつけですか──
人の疎らな広い天井に、老女の笑いが木霊する。枯れ木の様な足は、階段を一段下る毎に生気を取り戻し、軈て青年と同じ地平に立つ頃には、──手押し車の老女は消えていた。
代わりに、ギラついた目をした幼女がその緩く癖のついた長い赤髪を揺らして、不敵な笑みを浮かべる。
「そんな事より、さっさと帰還するぞ条野。一刻も早く、隊長にこの手土産を献上せねばならんからのう!あぁ、序にお主らの分も買っておいてやったぞ。感謝に噎び泣き、無様に這いつくばって有難がるがよい」
「この匂い。プリンですか。何でまた?」
青年の問いに、それまで幼女が纏っていた不遜な空気が僅かに沈黙した。その通常ではありえない反応に、青年は僅かに身構える。静かな緊張が張り巡らされていく中、幼女は漸く沈黙を破った。
「……この前、隊長が“体の調子が悪い”と仰り、臥せっておられた事があったじゃろう」
「あぁ。そう云えばありましたね」
「その時にな、何も喉を通らず苦しまれていた体長が、鐵腸の献上したプリンにだけは口を付けられたのじゃ。しかも、それを絶賛され“助かった”と何度も礼を繰り返しておられた」
「………」
「故に儂は決めたのじゃ!鐵腸を上回るプリンを隊長に献上し、奴よりも隊長に褒めて頂こうと‼︎」
そんな幼女の魂の叫びに、現在猟犬の臨時ツッコミ役を担う男。条野採菊は、静かにその役割を全うした。
「それ……単純にいつもの二日酔いで、喉越しの良いものしか受け付けなかっただけでは?」
****
──“乙女心と秋の空”。
我が国日本に古くから云い伝えられている、移り変わりやすい乙女の心を秋の空に例えた諺である。だが私は、この諺を作った昔の人に云いたい。
この世には、乙女心より秋の空より移り変わりが激しいものが存在すると。
「たい焼きが食べたい!焼きたてホカホカの奴!今すぐ‼」
と云う事で“乙女心と秋の空”の上位互換に、“ポトマの敵味方ポジションと名探偵の気分”を密かに推しつつ、私は一度静かに深呼吸をしてベンチの上で手足をブンブンさせている先輩の前にしゃがみこんだ。
「乱歩さん?もう少しだけ辛抱頂けませんか?依頼を受けた現場までもう少しですし。ね?」
「ヤダ!焼きたてのたい焼き食べたい!それまで絶対此処を動かないからな!」
「判りました。じゃあこうしましょう。私が現場まで乱歩さんを負ぶって行ってから、すぐにたい焼きを買ってきます。その間、乱歩さんは依頼の方を──」
「いーやーだー!今がいいーー!!」
参ったな。久し振りにガチの駄々っ子モードが発動してしまった。こうなってしまうと、自分の要求が果たされるまで乱歩さん梃でも動かないからなぁ。取り合えず依頼人の箕浦刑事に到着が遅れる旨を連絡して、大至急近場のたい焼き屋さんに──
「あれ?お姉さん、確か探偵社の……」
「⁉」
唐突に背後から掛けられた声に振り向くと、そこには大きなボストンバッグを下げた小さな少女が居た。そしてその手に抱えられた紙袋に印刷された鯛の姿に気づいた瞬間、年端もいかない少女の背に後光が射して見えた。
****
「お~いし~!矢っ張りたい焼きは焼きたてが一番だよね~!」
「ありがとう文ちゃん!いや、女神文様‼」
「え、ええってええって!そんな土下座までせんでも!」
今ヨコハマの海沿いの一角で、“少女に土下座する成人女性を前にたい焼きを頬張る成人男性”と云う、世にも奇妙な光景が展開されていた。が、そこは流石奇怪溢れる魔都ヨコハマの住人。此の程度の奇異に立ち止まる者は誰一人居なかった。奇異な目でヒソヒソはされたけど。
「いやでも本っっっ当に助かったよ!文ちゃんが通り掛かってくれなかったら、一体どうなっていた事か……」
「そ、そうか?まぁ、アンタらの助けになったんやったら良かったわ」
そう云って、頼もしき正義の味方・文ちゃんは照れ臭そうに笑った。以前国木田君を狙った爆弾魔の一件で一応顔を合わせてはいたが、正直ちょっと会釈を交わした程度の私まで覚えてくれているとは思わなかった。矢張り若者は記憶力がいいな。
「所で随分重そうな荷物だけど、旅行にでも行くのかい?」
「あぁいや、これはウチのやなくて親父の」
「? 文ちゃんのお父上?」
「そう。ウチの親父警官でな。仕事で暫く家に帰られへんかったから、遂に着るもんが無くなってしもたんやて」
「うわぁ…それは大変だ」
警察は自由の利かない仕事の代表格だ。現に今回の依頼人である箕面刑事も、二、三日自宅に帰れないなんてざらだと云っていた。しかし、文ちゃんのお父さんがまさか警官だったとは驚きだ。でも考えてみれば、まだ十歳の少女がこんなにも強い正義感を持っているのも、父親に影響を受けてのことなのかもしれない。そんな事を考えていると、下からぼそぼそと小さな声が足元に落ちた。
「まったく、せやから『泊まり掛けになるんやったら着替え持ってき』って云うたのに。ホンマあのダメ親父…」
「文ちゃん?」
「あ!いやこっちの話。気にせんといて」
俯いていて顔はよく見えなかったけれど、何だか彼女らしからぬその声音が自棄に気になった。だが顔を上げた文ちゃんは、先刻と同じ元気な笑顔で私に問う。
「それより、お姉さん達こそ何しとったん?あ!もしかして「名探偵の仕事だ。仕事中。判った?」
「え?あ…うん。そか…」
「乱歩さん?」
何故か突然乱歩さんが文ちゃんの言葉を食い気味に、と云うか食い潰して答えた。しかも何か開眼してるし。え?何?今のそんな真剣に答える問いだったん?
「仕事中って事は、何か事件でもあったん?」
「まぁ、そんなとこ。って云っても、私はただの付き添いみたいなもんだけどね」
「付き添い?」
「そう。事件を解決してくれる名探偵はこっちのお兄さんなんでね」
「ふーん。とてもそんな風には見えへんけど…」
「まぁ、確かに今はたい焼きに夢中だけど。でもいざ推理を始めたら凄いんだよホント。どんな謎も一瞬で解いちゃうんだから。ねぇ乱歩さん!」
「まぁね~」
相変わらず頬袋パンパンで返事をする乱歩さんを、文ちゃんは若干胡乱気な目で見ていた。まぁ乱歩さんはオンオフのギャップが激しいから無理もないか。そう苦笑しながら私は財布の中から千円札を二枚取り出した。
「兎も角、文ちゃんのお陰で助かったよ。はいこれ、たい焼き代」
「え?ええってええってそんなん!」
「良くない。こっちはお使い中断させた挙句、たい焼きまでカツアゲしてるんだぞ?寧ろ受け取って貰えないとこっちが困る」
「ええってば!元々親父に買ったもんやし」
「猶更問題じゃないか。ちょっと待って、ならもう一枚追加して」
「せやからええって!……多分、突っ返されてたやろうし…」
「え……」
反射的に手元から顔を上げると、俯く少女が苦い顔で笑っていた。それが何を意味をするのか、推理力など持ち合わせない私には判らなかったけれど。それでも──自分が彼女の踏み込まれたくない何かに、踏み込んでしまった事は理解した。
「文ちゃん。……あの」
「ならそのお金で、今度は
「「へ?」」
特に示し合わせた訳でもないのに、私と文ちゃんの疑問符がシンクロした。それと同時に私達の視線を一身に集めた乱歩さんは、たい焼きを完食したのか手をパンパンと払って続ける。
「だって君、前にウチの社員に助けて貰ったんだろう?なら、お礼に差し入れの一つくらいするべきだ」
「いや乱歩さん。それは確かにそうですけど、お礼を強要するのは探偵社的に如何なものかと……。と云うか、たった今私達の危機を救った時点で、探偵社へのお礼としては十分では?」
「でも、実際にその子を助けたのは──
「「!」」
乱歩さんのその言葉に、またしても私と文ちゃんは期せずして同じ反応を取った。そんな私達に再び翡翠の双眸が向けられる。今度はどこか悪戯っ子の様な薄い弧を描いて。
「菫はその子にお礼が出来て、その子は自分を助けた相手にお礼が出来る。一番丸く収まる方法だと思うけど?」
「いや…せやけど…」
「あぁ序に云うとね、
「!」
とどめとばかりに云い放ってニヤリと笑う名探偵に、少女は顔を真っ赤にして息を呑んだ。そして私は、内心で先輩の全方位ナイスアシストに万雷の拍手を送りながら、小さな正義の味方と同じ目線にしゃがむ。
「と云う事で、お願いできるかな文ちゃん?」
「……」
「私としてもね、ハードワークに身を投じがちな同僚が心配なんだ。だから、君が休憩のタイミングを作ってくれるなら有難い」
「……けど、仕事中なんやろ。“邪魔”やって、思われへんかな…」
頬に赤みを残しつつ、それでもどこか不安げな目を自分のつま先へ落とす少女に、私は満面の笑顔ではっきりと云い切った。
「思われる訳がない。助けた相手に“ありがとう”って云われたら、誰だって嬉しいだろう?」
つま先を見つめていた少女の目が、大きく開いて私を見た。僅かに残っていた不安気の色も、まるで霧が晴れるように消えて。最後にその目に残ったのは、彼女らしい強く明るい色だった。
「しゃ、しゃーないな!そこまで云うんやったら、アンタらの云う通りにしたるわ!」
「うん。非常に助かる。ありがとう文ちゃん」
「よし!それじゃあ話も纏まったみたいだし、早く現場に行くぞ菫。こんな所で足止めを食ってる時間、名探偵にはないんだからな!」
文ちゃんにお礼を渡す私の背後で、乱歩さんはうんと伸びをしててくてく歩きだした。足止めの原因を作った張本人の台詞とはとても思えないが、いつもの事なのでそっと胸の奥にしまっておいた。
「あ、そうだ文ちゃん。最後に一つ聞きたい事があるんだが」
「ん?何?」
「あのたい焼き
「え?あぁ、ポルタん中で。確かくりこ庵云うたかな?」
「成程…。ありがとう!じゃあお使い気を付けてね」
「うん。“菫ちゃん”達も気ぃ付けてな!」
別れ際に少女が発したその呼び名に、不覚にも心臓が温かく跳ねた。これを機に、彼女とも仲良くなれるといいな。なんて、そんな事を考えながら、たった今教えて貰った店名をメモる私を見て、乱歩さんが呆れ顔で溜息を吐いていた。
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ヨコハマの平和を守る武装探偵社。しかし社員も人間である以上、国の定める労働基準法に従って“休暇”を取得する権利を有している。そして偽りのアットホームを歌うブラック会社が世に蔓延る中、正真正銘ガチのアットホームを実現した奇跡の職場である我が社では、会社主催のバーベキューパーティーなど開かずとも、各々自らの意思で社員同士休日を過ごす事も少なくない。
則ち、偶々休日が被った乱歩さんと私が一緒にお出掛けするのも、真のアットホームを冠する我が社では極々普通の事だと云える。
「──と、再三説明はしたんですけどねぇ……」
「まぁ、それで引き下がる訳ないよな」
待ち合わせ場所に到着早々、謝罪から始まり一通りの状況を説明を終えた私に、乱歩さんは“さもありなん”と云う顔で頷いた。そんな私達の間に、機械音声の様な感情のない明るい声が降り注ぐ。
「いやー!今日は本っ当にいい天気だねー。まさに休日に相応しい絶好の晴れ模様だ。あははははは」
まるで壊れた機械人形の様に乾いた笑い声を背後で垂れ流す恋人に、私は本日何度目かの深い深い溜息を吐く。そして、そんな光景を顔色一つ変えずに眺めていた乱歩さんは、いつもと一切変わらない声音で口を開いた。
「太宰。判ってると思うが。僕はただ此奴とケーキバイキングに行くだけだぞ」
「ええ、勿論判ってますよ?ケーキバイキングでもスイーツビュッフェでもお好きにどうぞ。乱歩さんなら菫に変な気を起こす心配もありませんし、私も安心して彼女を任せられます」
「ふーん。で、本音は?」
「菫とケーキバイキングなんて、私でさえまだ行った事がないんですよ。幾ら乱歩さんでも狡過ぎます。せめて同行しないと気が済みません」
今までの機械音声が一転、感情……と云うか、情念こもり過ぎて、寧ろダバダバ溢れ出してる様な声と共に、包帯だらけの腕が徐々に喉元に食い込んできた。あー、何かこういうの前にホラー映画で見たなぁとか思いつつ、地味に呼吸できるギリギリの気道を確保していると、不意に乱歩さんがくるりと踵を返した。
「好きにすれば?僕はケーキが沢山食べられればそれでいいし」
「あ!待って下さい乱歩さん。てか太宰!せめてちゃんと歩いてくれ!流石に君を負ぶって歩くのは無理だぞ」
「はぁ~い」
今度はむくれた子供の様な返事をする年下の恋人。そののろのろと動くつま先を半ば引き摺って、私は乱歩さんの後を追った。
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「わぁ…」
受け付けを済ませ通された室内に、思わず感嘆の声が漏れる。大きなトレイの上に並ぶ色鮮やかなケーキの群れは壮観で、以前警備の依頼で訪れた高級宝石店より胸が高鳴った。ポートマフィアを抜ける時、中也が深夜のケーキ屋さんを貸し切りにしてくれた事はあったが、こう云うちゃんとしたケーキバイキングに来たのは、実は今日が初めてだったりする。理由は云わずもがな。ぼっちに食べ放題はハードルが高過ぎる。
「わぁーい!美味しそうー!」
「あ、乱歩さん!走ったら危ないですよ!」
人生初のケーキバイキングの感動に打ち震える私を他所に、乱歩さんは水を得た魚の様に生き生きとした様子でケーキの群れへと駆け出していく。
「これと、これと、これと…おぉ!これも美味しそう!後はこれと…。あ、もう乗せるとこ無いや。菫ー!ちょっとこのお皿持ってて!」
「え?あぁ、はいはい」
「あとは…これと、これとこれ。よし!これは二つ乗せちゃお!で、いっぱいになったから菫持ってて」
「はぁ…」
「それからそれから、この列のは全部美味しそうだから一個ずつ……」
「………」
キラッキラの笑顔でどんどんと皿をケーキで埋めていく乱歩さん。そして、定員オーバーの皿を両手に持った私はある重要な事実に気が付いた。
──あれ?これ私分は?
「よーし!取り合えず最初はこれくらいで良いかな」
そう云って漸く席に着いた乱歩さんは、計五枚のケーキ皿を卓上に並べた。尚、内三枚は私が持たされた。当然、腕が二本しかない私は収穫ゼロである。ま、まぁでも?流石の乱歩さんもこの量は多過ぎる気がしないでもないし。案外、自分以外の分も合わせてのケーキ皿五枚と云う可能性も──
「いっただっきまーす!あ、一応云っておくけど、これ全部僕のだからね」
「ですよねー」
薄っすら抱いていた淡い希望は秒で打ち砕かれた。しゃーない、もっかい行ってくるか。そう思い席を立とうとした私の鼻を、不意に芳醇なチョコレートの香りが掠めた。
「はい菫。あーん」
その声に思わず振り向くと、ケーキ皿を手にした太宰が満面の笑顔でチョコレートケーキを一口私に差し出していた。
「あ…あぁ。うん。ありがとう…」
「どういたしまして。美味しい?」
ほんのり苦みのある滑らかで濃厚なチョコレートの風味を口いっぱいに感じながら、私はコクコクと頷いて見せる。すると太宰は満足そうに微笑んで私の隣に腰を下ろした。
「それは良かった。じゃあこっちのもどうぞ」
「え?あ、いや…それ太宰のだろ?自分の分は自分で取ってくるから」
「必要ないよ。それならもう、
その言葉の意味が判らず、私は太宰の手元にある皿を見る。先刻食べたチョコレートケーキに、ピンク色の苺ケーキ。ベイクドチーズケーキと、抹茶ロール。真っ白な皿の上に並ぶそれらは全部美味しそうで、そして何となく見覚えがあった。
「!」
「ね?だから菫は取りに行かなくていいよ。それよりほら、あーんして」
「……」
つい数分前までの表情は何処へやら。鼻腔を擽るケーキの香りも霞む程甘やかな顔をした太宰は、また別のケーキを一口分私の口元に運ぶ。そして私はと云うと、気づいてしまった事実と、それを本人に見透かされた事が気恥ずかしくて。けれど差し出された甘い誘惑を突っぱねられる程の気概もなく。結果噤んだ口を小さく開けてフォークの先にかぶり着いた。
「美味しい?」
またしてもそう問われ、私は先刻より小さく頷く。嗚呼もう。態々聞かなくても判ってる癖に。美味しいに決まってるじゃないか。だって──
太宰の皿に乗ってるケーキは、全部私が“美味しそうだな”って、目で追ってたものばかりなんだから。
「はい。次はこっちね。口開けて菫」
「いや。流石にもういい…。自分で食べられる……」
「えぇ?もう遠慮しなくていいのに~。いつもみたいに“もっと”ってお強請りしてくれていい「太宰君?その辺にしとかないとキレんぞマジで」……はい」
調子に乗って、職場の先輩の面前で余計な事を云いかけた恋人に釘を刺した私は、今度こそ自席から立ち上がった。すると太宰は、珍しく少し慌てた様子で私の手を掴んだ。
「菫?え…待って、何処行くの?」
「ケーキ取ってくる。私の分はあるけど、君の分はないだろ?」
そう返すと私を見上げる鳶色が僅かに見開かれて揺れた。その様に、先刻までの気恥ずかしさは見る影もなく霧散してしまって。代わりに湧いてきた愛おしさに胸を満たされた私は、包帯だらけの大きな手を握り返してすぐそこの鳶色を覗き込む。
「因に聞くけど、リクエストとかあるか?」
「っ……!……ない。菫が選んできて」
「了解。ちょっと待っててな」
自分を見上げる年下の恋人があんまりかわいい顔をするから、思わずその黒い蓬髪を二、三度撫でて、私はケーキが並ぶテーブルへと歩を進める。選択を一任されたからには、ちゃんと太宰の舌に合うものを選ばなければ。取り合えずフルーツ系よりクリーム系がいいかな。そう云えばミルフィーユケーキがあった筈だからそれと、レアチーズケーキもいいかな。
なんて、そんな事を考えながら、私は人生初のケーキバイキングの一皿を、最愛の恋人殿の為に彩った。
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恋人が自分の為に選んでくれたケーキ。そのお返しとばかりにケーキを選びに行った彼奴の後姿を、面倒臭い後輩は見るからに嬉しそうな顔で眺めていた。
「……お前、本当に欲張りだな」
思わずそう零すと、太宰は少し意外そうに何度か瞬きをして、軈て苦笑した。
「乱歩さんには負けます」
「こっちじゃない。
太宰が返答前に目を止めた五枚のケーキ皿から、彼奴の方をフォークで示すと。先刻よりまた少し目を開いた太宰は、軈て困った様に苦笑した。
「それはまぁ…はい。自分でもどうしようもないんです。……ええ。本当に、どうしようもない。どんなに与えられても、手に入れても、欲しくなってしまって……」
普段、何に対しても何処か他人事の様な色を映す鳶色。けれど今は、何処までも熱っぽい水飴みたいな色を溶かして、太宰は彼奴を見る。その色が胸焼けするほど甘くて、見ていられなくて。その癖今日もこんな所に迄着いてくる後輩に呆れて、僕はストローでオレンジジュースを啜りながら問いかける。
「なぁ太宰。彼奴の作ったパンケーキ、美味しかったか?」
「え……?」
此奴にしては珍しいく、本気で質問の意味が判らないと云う様に聞き返された。だから僕は、察しの悪い後輩にも判るように先刻の質問を噛み砕いてやる。
「“瓶詰プリン”と“くりこ庵のたい焼き”は僕も食べたけど、パンケーキはお店のしか食べてない。だから僕は未だ、“菫がお前の為に練習したパンケーキ”は食べてないんだ」
今日一番大きく開いた鳶色は、まるで“思ってもみなかった”と云う様に、驚きと幽かな光に揺れていた。
──嗚呼、全く……
「四六時中彼奴の頭の中の中心に居る癖に、それでもまだ彼奴に想って欲しいなんて……。欲張りも此処までくると、いっそ関心するな」
見開いた鳶色に、戸惑いだとか、羞恥心だとか、嬉しさだとか、優越感だとか、愛おしさだとか──
色んなものがごちゃ混ぜになって口から溢れそうになったその時、いつもの呑気な声が僕達の間に振って湧いた。
「お待たせ太宰!私が厳選に厳選を重ねた厳選セレクションが遂に完成……って、あれ?どうしたん?」
僕に向けていた顔其の儘で彼奴を見上げてしまった太宰は、途端に顔を林檎飴みたいにして、両手で顔を覆った。
「え?何?どうしたん太宰?」
「……何でもない。ちょっと待って」
「いや、絶対何でもなくないだろ。ちょっと乱歩さん。一体どうしちゃったんですかウチの太宰君?」
「知ーらない。本人に直接聞けば?」
「乱歩さぁん…」
「ねぇ?私が“太宰君専用厳選セレクション”見繕ってる間にマジで何があったん?」
「ぁぁあああ~~…っ!もう、これだから菫は……っ」
自分で掘った墓穴から出られなくなった莫迦な後輩と、その上に無自覚な儘土を被せていく阿呆な後輩に付き合い切れずに席を立つと、阿呆の方が慌てた様に僕を呼び留めた。
「え?ちょ…乱歩さん⁉一体どちらに⁉」
「お腹いっぱいだからもう帰る。後はお前達二人で好きにすれば?」
「えぇ⁉何?何がどうなってんですか乱歩さん⁉乱歩さぁーーーん!??」
そんな後輩の断末魔を背に、僕はケーキバイキングの店を後にした。屋外に出ると、途端に目を焼くような日差しに視界が眩む。嗚呼、きっとこの分なら今日は夜まで雲一つない空が続くだろう。そして、未だ店内で不毛な問答を続ける二人は退店時間になる頃には、落し処を見つけてその儘久し振りのお出掛け
「流石にちょっと食べ過ぎたかな……。今日はもう甘いものはいいや……」
そう愚痴を垂れて僕は一人で歩きだす。少なくとも、最寄のコンビニくらいなら“案内役”が居なくても辿り着けるだろう。そう思ったけど、自分で歩く道のりは思いの他遠くて。おまけにカンカン照りの快晴も相まって、喉がカラカラだ。でも、今日はいつもみたいにおんぶを強請る相手は居ない。其奴は今、世界で一番大事な相手と甘い時間を楽しんでいるんだから。
「あ!そうだ。コンビニ行ったら、珈琲牛乳買おうっと♪」
そんな言葉で自分を元気づけて、僕は残り数