hello solitary hand・番外編
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──ポートマフィア。
数多の常ならざるものが行き交い、異なるもの達が鎬を削る魔都ヨコハマにおける恐怖と畏敬の代名詞。
死を生産し、暴力を通貨とし、人の命を石ころ以下の価値で消費する、暗闇の支配者。
彼等の居城はこの街の何よりも高く、どんな黒より深い。
「首領。坂口です。這入ります」
「どうぞ」
聞き慣れたその返事を受けて、僕は重厚なフレンチ・ドアを開けた。
其れ迄廊下の薄ぼんやりとした照明に慣れていた目が一瞬眩む。足元を覆う毛足の長いカーペットの感触を踏み締めながら入室すると、抜けるような青空を写した硝子窓から差す眩い陽光が室内を照らしていた。
「やぁ、おはよう安吾」
「おはようございます、首領」
部屋の奥に設られたマホガニー製の執務机と黒革張りの高級椅子。その上で指を組み微笑む顔はまだ若い。だがそれに反して、彼の醸し出す空気は老練の賢者すら遠く及ばないだろう程に深く静まり返っていた。
「おはようございます。坂口殿」
不意に横合いから先刻と同じ声がした。今でこそ日常の一つだが、最初の頃は完全な意識外から掛けられるこの声によく驚かされたものだ。そんな過去の記憶を内心で懐かしみながら、僕は右手に立つ黒背広の女性に持参したファイルを渡す。
「おはようございます臼井さん。どうぞ。今週分の資料です」
「ありがとうございます」
ファイルを受け取った彼女はその場で軽く中身を確認すると、執務机に座る青年に資料の一部を差し出す。それを受け取った青年、──否。
“ポートマフィア首領”太宰治は、椅子の背凭れに身を預け肘掛けの上で頬杖をつく。
「それじゃあ、早速今日の報告を聞かせてもらおうか」
****
「以上が今週分の全取引記録、及び損益報告になります。ご覧の通り今年に入ってから密輸事業全般は右肩上がり。業務提携を持ち掛けてくる海外組織も激増し、各事業管理者達が対応に追われています」
「はは、それは大変だ」
僕の報告を聞いて組織の長は朗らかに笑う。
「とは云え、これは当然結果だよ。彼等の中には貧民街育ちも多い。状況に応じて最善の抜け道を選び出すのはお手のものだが、組織に利を齎す商売相手の取捨選択は専門外だろう」
太宰治。二十二歳という若輩ながら、この街の裏社会の頂点に君臨する男。ポートマフィア加入一年にして当時の首領直轄の秘密部隊を指揮し、史上最年少で五大幹部に名を連ね、そして現在、組織の最高権力者たる首領の座すら我が物としている。何時だったか、共通の友人が彼を“マフィアになる為に生まれてきたような男”と評していたが、彼の打ち立てた偉業の数々を知れば、皆その評価に首肯する他なくなるだろう。
「と云う事で菫、例の件は?」
「はい首領」
首領の呼び掛けに、彼の背後で控えていた女性は持っていたタブレット端末を差し出す。
「協議の結果、該当の事業部に派遣する人員はこの7名に決まりました。首領のご希望通り、数字に強く語学堪能で交易経験のある優秀な折衝人達です」
臼井菫。常に首領の傍に控える秘書役を務める女性だ。首領の職務補助やスケジュール管理は勿論、彼の身の回りの世話も彼女の仕事に含まれる。故にこのポートマフィアと云う組織に於いて、彼女は存在そのものが秘密情報の塊と云っていい。仮に彼女を狙う者が現れたなら、命乞いをする間も無く凄惨な最後を遂げる事だろう。
「各部署へ送る辞令の準備も全て整っています。首領の許可を頂ければ、今すぐにでも送信できますが」
「いいよ、許可する。本当に君は仕事が早いね菫」
「首領の傍に控える者としてこの程度は当然の事。今後も貴方とこの組織に貢献出来るよう、精進致します」
「あぁ。期待しているよ。却説安吾、他に何か報告事項はあるかい?」
「報告…と云う程ではありませんが、気になっている事が一つ」
「へぇ、何かな」
首領の問いかけに僕は口を噤み、青空を写す硝子窓に視線を向ける。下手をすれば罰せられてもおかしく無い不敬な振る舞い。だが案の定彼は、僕の意図を察して愉快そうに笑みを深める。
「成程ね…。菫」
「承知しました」
視界に広がる青空が、重い駆動音と共に通電遮光性の壁面に追いやられていく。軈て一際重い駆動音の余韻を残して室内から日差しは消え、入れ替わる様に琥珀色の灯りが灯る。
「却説。これで盗み聞きの心配もない。安吾。改めて話を聞かせてもらおうか」
「先程報告した、業務提携を持ち掛けてくる海外組織。その一つが、異能特務課の“重要監視リスト”に加わりました」
「!」
それ迄事務的に淡々と、秘書としての振る舞いに徹していた臼井さんが僅かに反応した。だが無理もない。異能特務課は政府より異能力者の管理・監督を一任された秘密組織。その“重要監視リスト”に名を連ねると云う事は則ち、相手が極めて危険な異能犯罪集団である事を意味する。
「ふぅん。それは確かに気になるね。続けて」
明確に張り詰めた空気の中、唯一首領だけが変わらず柔和な笑みを浮かべる。尤も、その柔らかな笑顔に先刻迄の朗らかさは無い。足を踏み入れたが最後、際限なく沈みゆく底なし沼の様な鳶色に先を促され、僕は続きを語る。
「組織の名は“メルカート・ファミリー”。欧州、伊太利亜に本拠地を置く異能犯罪組織です。元は地元の自警団から成る古参のマフィアで、数ある組織の中でも群を抜いて縄張り意識が強いとされています。譬え些細な事柄であろうとも、彼等の領地を侵した者には血の制裁が訪れる。故に、敵対組織からは“自殺がしたいならメルカートの土地に塵を撒け”と云う皮肉が生まれる程だとか」
「ほほぉ!それは興味深い」
「首領、食いつかないで下さい」
ガタンと音を立てて執務机から身を乗り出す首領。その目には今日一番の輝きが瞬いていた。尚、彼を嗜める臼井さんが僕と全く同じ顔をしていたのは云うまでもない。
「しかし、そんな組織が何故特務課の“重要監視リスト”に?坂口殿の話を聞く限り、特務課が警戒する程危険には思えませんが…」
「ええ。大元のメルカート・ファミリーはそうです。特務課が危険視しているのは組織そのものではない。組織に所属する
──国際指名手配中の異能犯罪者です」
****
最悪の朝だ。
少なくとも、最近の中でダントツと断言出来るレベルで最悪の朝だ。自宅のマンションを出た時は、カラッと晴れた青空に清々しささえ覚えたもんだが、今はその一千倍の清々しいさがあっても浄化出来ない程、自分の心が澱んでいるのが判る。嗚呼最悪だ最悪だ。何が悲しくて朝っぱらからこんな所に顔出さなきゃならねぇんだクソが…。
そんな負の感情が口から溢れそうになるのを無理やり飲み込んで、俺は重々しいフレンチ・ドアの前に立った。
「首領。中原です。這入ります」
………。
返事がない。
「首領。中原です。招集に従い参上しました」
…………………。
矢張り無反応。
おいおい巫山戯んじゃねぇぞ。こちとら別件で手ぇ離せねぇ所を無理矢理抉じ開けて時間作って来てんだぞ死ね。もう帰るか。このまま帰っていいか俺。あーでもなぁ、踵返した途端扉開けて「はい命令違反ーーー!中也処刑ーーー!!」とか煽っこねぇとも限らねぇ。矢張り顔だけでも出しとくべきか。いや、だが許可無く開いたら開いたで「ちょっと〜何勝手に開けてるの〜?中也は“待て”も出来ないんだ犬以下だねぷーくすくす」ってな具合にネチネチ煽られる可能性がある。………よし、どっちにしても同じなら取り敢えずドア蹴破って「どーぞー」
積み重なったフラストレーションが爆発する直前、タイミング悪く返ってきた神経を逆撫でする返事に危うく足元を砕きかけた。いや…、寧ろタイミング見計らってやがったなあの野郎。そんな悪態を内心で吐き捨て、ついでに深く息を吐くと俺は今度こそ扉を開けた。
「やぁ待たせてごめんね中也。君があんまり小さいから居るの気づかなくって」
「関係ねぇだろ‼︎大体こっちは何度も声掛けてんだぞ耳腐ってんのか手前‼︎」
「はい不敬ー。首領を侮辱した罪で処刑しちゃおっかなぁ?」
「上等だやってみろや!俺を殺せる奴が居ればだがなぁ‼︎」
「なーんて、ウソウソ♪折角首領として中也を扱き使える立場になったんだもの。そう簡単に死なせちゃあ勿体無いじゃないか」
「手前…っ!」
「あの…首領。そろそろ此処から出たいのですが、宜しいでしょうか?」
その時くぐもった女の声が聞こえた。声の主が誰かなんて考える迄もなかったが、定位置である奴の後ろにその姿が無い。思わず室内を見回すが矢張り居ない。一体どこにと口を開きかけた時、太宰が視線を落として僅かに椅子を引いた。
「おや、いいのかい菫?まだ続けていても私は構わないよ」
「中原殿の前です。続きはまた後程お願いします」
「そうかい。それは残念」
態とらしく肩を竦めて太宰が更に椅子を引く。すると探していた声の主が
「こんな所から申し訳ありません中原殿。急な招集に対応して頂き有難う御座います」
軽く髪を整え何時もの様に堅苦しい挨拶と共に頭を下げる菫。それはいい。それはいいがちょっと待て。此奴今どこから出てきた?
「もう、中也が来なければもう少し楽しめたのに」
「首領…。中原殿に招集を命じたのは貴方でしょう」
「仕方ないだろう。それくらい素敵な時間だったんだから」
普段なら即座に噛み付くだろう此奴等のやり取りも、うまく拾えないまま脳味噌を通過していく。
菫が執務机の下に居た。で、椅子にはこのクソ首領が座っていた。何でそうなる。何の為にそんな配置に。其処迄考えてさーっと血の気が引いていく俺を他所に、胸焼けする様な甘ったるい微笑みを浮かべた太宰が、すぐ傍の菫に手を伸ばす。
「君も大分上手になってきたよね。私、ゾクゾクしちゃった…」
奴の親指が薄く開いた桜色の端をなぞった瞬間、頭の中で何かが切れた。だが俺が行動を起こす前に、困惑をありありと浮かべた菫が怪訝な顔で首を傾げる。
「あの…首領、万年筆の蓋探しの何処にゾクゾクする要素が?」
「………は?」
張り詰めていた色んなものが、その疑問符と一緒に体の外に吐き出された気がした。そんな俺の耳にさも愉快そうに笑う不快な声が流れ込んでくる。
「うふふふ。菫にはまだ早かったかな?森さんから受け継いだこの無駄に高級な執務机。その下はまさに無明の闇。不鮮明な視界の中で、私が落とした無数の万年筆の蓋の中から指示通りの一つを拾い上げられるか。なぁんて、実に心躍る
「寧ろ、在りし日の童心を思い起こしましたよ。はい。ご指示の品はこちらで宜しいでしょうか?」
「おお、お見事!流石は菫だ」
「……………」
「あれ?あれあれあれ?どーしたんだい中也?そんな呆けた顔しちゃって。私達は見ての通り偶然出来た隙間時間で、ちょっとした即興
「〜〜〜っ‼︎」
その日、俺は改めて“此奴はいつか必ず殺そう”と心に誓った。
****
「メルカート・ファミリー?」
「そう。本場伊太利亜からやってきた血統書付きのイタリアンマフィア!安吾から面白い話を聞いてね。ちょっと興味が沸いたんだ」
「その構成員と思われる一団が先日ヨコハマに密入国し、異能特務課が警戒体制に入っているそうです。彼らがポートマフィアにコンタクトを取った際、中原殿が直接対応されたと報告を受けたので、是非その時の事をお聞かせ願いたいのです」
「結構な大口取引だったのにニベもなく断ったそうじゃないか。一体何があった?」
ある程度見当はついてるだろうに、態と聞いてくるニヤケ面に舌打ちしそうになるのを堪えて、俺は胸糞悪い回答を口にする。
「“薬”だよ」
奴等が接触してきたのは3日前。その日は傘下組織と会合の予定だったが、行ってみれば傘下組織の面々は皆呻きながら血溜まりに転がっていて、会合を乗っ取った連中は礼儀知らずにも俺達に商談を持ちかけて来た。その苛立たしい記憶に今度こそ舌打ちをして、俺は卓上に白い粉の入った小袋を放る。
「奴等の国で流行ってる最新版だそうだ。異能で手を加えた特殊な葉が原材料だとかで、まだ此奴を取り締まる法がねぇ。その癖、依存度は其処いらの麻薬の倍ときた。奴等が云うには、“今一番キテる熱い商品”だとよ」
「へぇ…。それで、その“今一番キテる熱い商品”を君はどうしたんだい?」
「米粒以下迄圧縮して踏み砕いたに決まってんだろ」
「だよね〜」
「流石です中原殿」
うんうん頷きながら俺に拍手を送る菫。その隣で、太宰が卓上の小袋を摘み上げた。
「しかし、中々に厄介なものを持ち込んでくれたね。麻薬商売は
「あぁ。だから3日前潰し損ねた残党を今も草の根分けて探してんだ。見つけ次第、奴等にはこの街から消えてもらう」
「彼等の動向については特務課も目を光らせている。扱いはくれぐれも慎重にね」
「へいへい。首領の仰せの侭に」
「中原殿」
「ん?」
「異能特務課が彼等を危険視する理由は、彼等の中に国際指名手配中の異能犯罪者が居るからです。ポートマフィアきっての武闘派である中原殿には不要な心配かもしれませんが、どうぞお気をつけて」
太宰の後ろと云う定位置から一歩踏み出して、菫は真っ直ぐ此方を見つめる。
嗚呼、昔に比べていい眼をする様になった。いや。こう云う時だけは昔から真っ直ぐな眼をする奴だったか。
不意に懐かしくなった過去の記憶に小さく笑って。それを悟られないように帽子を目深に被った俺は踵を返した。
「安心しろ。相手が何処の誰だろうと関係ねぇ。俺のやる事は一つだ」
そして俺は歩き出す。ポートマフィアに蔑する者を、その一切を、地獄すら生温い極上の重力で叩き潰す為に。
「ほらご覧よ。あれカッコいいと思ってるんだよ?絶対今頭の中で“フッ、決まったぜ”とか酔いしれてるから。嗚呼、やだね〜いい年して厨二病が抜けてな「だああああああざああああああいいいいぃぃぇぇあ!!!」
****
腹が減った。
時刻はもう昼時。一つ前の仕事が押した所為で、此処に来る迄軽食を口にする余裕も無かった。だが仕方ない。この組織に属する以上、彼の言葉は絶対だ。
乳白色の照明がぼんやり照らす廊下を渡り、執務室の前に立つ見張りに名を告げ、そして俺はここ数年ですっかり見慣れてしまったフレンチ・ドアの前で小さく息を吸った。
「首領。織田で「織田作!待っていたよ。さぁさぁ這入って這入って」
云い切る前にドアが開いた。その勢いは鳩時計を彷彿とさせた。開け放たれたフレンチ・ドアが自重に従い閉じる前に、俺は部屋の主人によって執務室に引き摺り込まれる。
「首領。招集に従い参上しました。ご指示は」
「よくぞ聞いてくれた!実はね、遂に見つけたのだよ。長年探し求めていた“究極の逸品”を!」
“究極の逸品”。普通なら何らかの美術品の類を想像する所だが恐らく違うだろう。とすれば美食の類だろうか。有り得る。彼は大の酒好きであり、好物である蟹に至っては元より高級食材だ。自分の舌を喜ばせる貴重な美食を手に入れたとなれば、彼のこの歓喜も頷け──
「じゃじゃーーーん! 昨日発売した最新モデルの回転式電動髭剃り機!」
「髭剃り機…」
「違うよ織田作!回転式・電動・髭剃り機だよ!」
「回転式…電動…髭剃り機……」
どうやら俺の予想は何一つ中らなかったらしい。いや、抑々俺の頭で彼の考えを中てられる筈が無かった。
「と云う訳で、はい。あげる」
「何故ですか」
「私が君にプレゼントしたいから。と云うか織田作、そろそろ何時もの口調に戻したら?安吾なら兎も角、君にはそう云うの似合わないよ?」
「そうか。では太宰」
「うん!何だい?」
「俺の家には既にお前から送られた髭剃り機が5台程積まれているんだが」
「でも全然使ってくれてないだろう?今度こそ絶対気にいるから!」
「悪いが受け取れない。気持ちだけ有り難く貰っておくよ」
「………どうしても?」
「どうしてもだ」
「………」
「………」
「……はぁ、判った。そう迄云われちゃあ仕方がない。諦めるよ」
「あぁ、そうしてくれ」
そう肩を落として首領──否、太宰は携帯を取り出し耳に当てた。
「もしもし菫?織田作が来た。表に車を回してくれ。うん。お願い。あぁ、それからね。この前一緒に購入した回転式電動髭剃り機なんだけど…、そう…矢っ張り要らないって。
だから何時も通り、咖喱の出前を受けたら一緒に自宅へ配達するよう“フリイダム”のおじさんに依頼しておいて」
そう告げると太宰は電話を切って俺に笑いかける。それはまるでプレゼントを心待ちにする子供の様な笑みだった。どうやら俺の家にはまた新たに積み髭剃り機が追加されるらしい。
****
ポートマフィア首領の一日は多忙の一言に尽きる。
部下からの報告を聞き、的確な指示を出し、トラブルがあれば即座に対策を打つ。そして、組織の協力者と良好な関係を維持するのも首領の務めだ。
「おぉ!ようこそ御出で下さいました。この度はお忙しい所有難う御座います!」
「いえいえ。こちらこそ、こんな高級店を貸切にして頂いて恐縮です」
「ははは、何を仰いますか。貴方様との会食となればこれ位当然の事。さぁさぁ。立ち話も何ですしどうぞお掛け下さい。この店のフカヒレは最高ですぞ」
今日の会食相手は選挙を間近に控えたさる大物議員。本来であれば、彼の様な人物がマフィアと食事会を開くなどあってはならない事だ。だがそれが罷り通ってしまうのが裏社会であり、そんな裏社会に於いて支配者として祀り上げられて居るのがこの太宰なのだ。
「しかし、こうして直接お会いするのは就任祝い以来でしたかな?その後ご壮健で何よりです」
「いやはやお恥ずかしい。実は昨日も移動中に襲撃を受けたのですが、ご覧の通り擦り傷程度で生還してしまいました。願わくば、今度はもう少し練度の高い暗殺者を差し向けて欲しいものです」
「ゴホン!」
唐突に秘書の臼井が咳払いをした。風邪だろうか。横目でちらりと盗み見たがつむじしか見えない。そんな事をしている内に新しい料理が運ばれてきた。
「おお、来た来た!これが先程話したフカヒレです。ヨコハマ中探しても、これ以上のものはまず味わえませんぞ」
「確かに美味しそうだ、では有り難く」
──ぐぅ〜〜〜……
「「「………」」」
メインディッシュのフカヒレが卓上に追加されたその時、何とも間抜けな音がした。その場に居た全員が音の発生源に目を向ける。発生源は俺の腹だった。
「ぶっっっ…ちょ、織田作…っ」
「〜〜〜っ!」
次の瞬間、太宰は腹と顔を覆って俯いた。臼井も何故か息を止めた。二人共プルプル震えている。流石の俺もこれが拙い事だと云う自覚はあった。だが云い訳をさせて貰うと、俺は別に視界に現れた高級中華に食欲を訴えた訳ではない。寧ろこう云う肩の凝る食事会の食事は嫌いだ。しかし、冒頭でも述べた通り俺は朝食以降何も口にしていない。その上で“首領の護衛”と云う任務のもと、かれこれ1時間以上俺は臼井と共に彼の後ろに立ち尽くしている。よってこれは純然たる生理現象であり、それ以上でもそれ以下でもない。そして仮に上記の云い訳を申し出た所で失態は失態だ。却説、どしたものか。
「あ〜…。もし善ければ、君達の分も用意させようか?」
「いえ、必要ありません。俺の腹の虫がお騒がせして申し訳ありませんでした」
「ふぶっ!くっ…くくく…」
「首領…首領っ!耐えて下さい首領」
俺の謝罪に何故か太宰が机に突っ伏し掛け、それをギリギリで受け止めた臼井が息も絶え絶えに小声で彼を鼓舞する。不思議ではあるが俺には見慣れた光景だ。だが矢張り数える程度の面識しかない相手には戸惑いしか産まないらしい。向かい側に座る議員は当たり障りのない苦笑を浮かべて、ちびちびとフカヒレを口に運ぶ。少しして、漸く落ち着いたのか2、3度咳払いをして、太宰も目の前の皿に箸を伸ばした。
(──!)
フカヒレが太宰の口元に運ばれたその瞬間、俺は咄嗟に彼の口の前を手で遮った。ポカンと口を開けた侭、目だけを俺に向ける太宰。明らかに異様な光景。流れる沈黙。その中で最初に口を開いたのは議員だった。
「あの…どうかされましたか…」
「いいえ、大した事じゃありませんよ。ありがとう織田作」
太宰が箸を置いたのを見て、俺も元の定位置に戻る。相変わらず困惑した顔の議員の後ろで、控えていた護衛らしき二人が僅かに身じろぐのが見えた。
「所で先生。最近何か
「はい?」
「いや何、今は先生にとっても大事な時期ですから。きっと善からぬ企てを起こす輩も多いだろうと思いまして」
「いや…そんな事は…」
「先生。貴方には昔から何かと便宜を図って頂いたと先代からもよく聞かされてます。我々ポートマフィアにとって、貴方は無くてはならないビジネスパートナーだ。だからこそ、我々の間に“隠し事”などあってはならないと私は思うのです」
「っ…!」
「もう一度だけお尋ねします。先生。
──最近何か困った事はありませんか?」
「………こ、此奴等は偽物だ!本物の部下は別室に監禁されている‼︎」
意を決して立ち上がった議員が叫ぶ。流石政治家、よく通る声だ。そんな事を考えている間に、彼の後ろに控えていた護衛が銃を抜く。だがその銃は誰も傷つけず、そればかりか発砲すら叶わない侭宙を舞う。更にその1秒後、持ち主達も全く同じ運命を辿った。前者は俺が、後者は臼井がやった。
「やぁお見事。先生、お怪我は?」
「っ…はあぁぁぁ〜〜〜…死ぬかと思った……」
「それはおめでとうございます」
「首領」
「おっとこれは失礼。所で、彼等は何者ですか?」
「判りません。皆さんが来る前に襲撃を受けて、『云う通りにしなければ殺す』と……」
「成程。では、詳しい事情は当人達に聞くとしましょう。あ、その前に織田作」
「何ですか首領」
「これ、もし食べてたら私どうなってた?」
指し示されるフカヒレの皿。キラキラと輝く瞳で回答を待つ太宰。何故か険しい顔で首を横に振る臼井。それらを順に見て俺は彼の質問に答えた。
「身体中の穴と云う穴から血を吹き出して泡を吹く所迄は見えました」
「ふぅん、そうなんだ」
太宰は意気揚々と立ち上がると、フカヒレの皿を持って未だ床に転がる男達の元へ歩み寄る。
「ねぇ君達?これすっごく美味しいらしんだけど、誰から先に食べたい?」
つい先刻迄期待に膨らんでいた無邪気な目は、今や洗剤片手に蟻の巣ににじり寄る悪餓鬼のそれだ。数秒後、鳴り響いた悲痛な断末魔が店内の豪華な装飾品を僅かに振るわせた。
****
「首領は?」
「トイレに行くと云って退室した。そっちはどうなった?」
「先生には暫く護衛を付けると云う事で一先ず落ち着きました。監禁されていた部下の方々も命に別状は無いそうです。ポートマフィアの医療班が処置していますし、きっと今日中に帰宅出来るでしょう」
「それは良かったな」
「はい。とは云え、問題は未だ解決していません」
あの後、護衛に化けていた襲撃者を尋問して判った事は、彼等が金で雇われた租界の傭兵崩れだと云う事。彼等の目的はポートマフィア首領の暗殺。成功すれば大金と海外逃亡の幇助が約束されていたと云う。だが判ったのはそれだけだ。仕事は仲介屋を介して請け負った為、雇い主の名前は愚か顔すらも判らないらしい。
「今、彼等に仕事を持ち掛けた仲介屋を捜索しています。恐らく今日中に確保出来るとは思いますが、雇い主に繋がる情報を持っているかは聞いてみないと判らないですね…。はぁ…」
「珍しいな。お前が仕事中に溜め息なんて」
「っ!……今のは、深呼吸です」
「そうか」
「そうです」
「……」
「……」
「臼井」
「何ですか」
「先刻は助かった」
「はい?」
「先刻俺が銃を撃ち落としてすぐ、敵を制圧してくれただろう」
「あぁ…。礼には及びません。仮に私が動かなくても、次手で貴方が同じ事をなさっていたでしょう?」
「そうだな。だから俺は一手分楽を出来た。ありがとう臼井」
隣に並ぶ小さな頭を何時もの様に撫でる。臼井は目を丸くして何か云いたそうに口を開いたが、結局何も云わずに視線を逸らした。
「と、兎に角!首領暗殺を企てた相手を野放しにしていてはポートマフィアの沽券に関わります。首領が戻り次第、すぐに本部で対策部隊の編成を…っ、と云うか、首領は何時迄お手洗いに行っているんですか?」
「確かに遅いな。お前と入れ違いに出たからそろそろ戻って来てもいい頃なんだが…」
臼井が首を捩じ切らんばかりの勢いで俺を振り向いた。一瞬、ホラー映画のワンシーンかと思った。物凄い力で掴まれた腕もミシミシ云っているが、今の所自分の腕が捥ぎ取られる未来は見えないから多分大丈だろう。
「織田殿?確認しますが、首領はいつ頃お手洗いに立たれたのでしょうか?」
「丁度お前が席を外してすぐだ。多分20分程度立っていると思う」
そこ迄聞いた臼井は即座に踵を返し、湖面の白鳥を思わせる見事な競歩で店内の廊下を突っ切り、何の迷いも無く男子トイレを開けた。幸か不幸か一見して使用者はなく、彼女の侵入を咎める紳士は居なかった。だが尚も臼井は個室の扉を手前から順に開け放っていく。人類にとって不可侵を約束された究極の私的空間を、臼井は侵略者の様に容赦無く次々と暴いてく。もし自分がトイレの個室に籠っている時にこんな仕打ちを受けたら、傷心のあまりプライバシー保護団体の署名活動に協力してしまうかもしれない。そんな恐ろしい可能性に震えている間に、臼井は遂に最後の個室を開け放った。
「……ふ、ふふふふふ…」
臼井の笑い声がトイレに木霊する。以前心霊番組を見て一人でトイレに行けなくなった子供達の気持ちが少しだけ判った。臼井に習って最後の個室を覗いてみると、パイプに結びつけられた長い布が開け放たれた小窓の外に伸びていた。刺繍を見るに店内にあったテーブルクロスだろう。しかも外に続く布の先には同じ様な布が複数枚数珠繋ぎになって外の風にはためいている。そこ迄認識した俺はある重大な事実に気づいた。
──トイレに行っていた筈の太宰が何処にも居ない。
「臼井。首領は何処に…」
呼びかけた臼井は蓋の閉じた便座に座ってスマホを耳に当てていた。耳を澄ますと小さくコール音が聞こえる。そして一定の間隔で鳴っていたコール音が前触れなく途切れる。
「お疲れ様です、私です。……はい、申し訳ありませんが、今すぐ来て下さい。
首領が
そう電話口に指示を出す臼井の顔に仕事中張り付けていた笑みはない。その顔は、──俺の見慣れた顔に戻っていた。
****
グラグラと身体を揺らしていた不規則な振動が不意に止まった。両腕を掴まれ車から降ろされる。今度はその侭何分か歩かされた。車内に押し込まれた時、付けられた目隠しの所為で相変わらず何も見えない。それでも周囲の状況は十分把握出来ていた。軈て重い鉄を引き摺る様な音がしてその場所を通り過ぎると、複数人の笑い声と共にガシャンと大きな音がした。恐らく重鉄扉の類だろう。と云う事はやっと目的地に着いただろうか。そんな事を考えていると予想通り目隠しが外され、数十分振りに取り戻した視界には思い描いていた通りの光景が広がっていた。
薄暗い荒れた室内。点在する真新しい電子機器。凶悪な顔で薄ら笑いを浮かべる男達。
いっそ溜め息が出る程典型的な犯罪者のアジトだった。
「おいおい。曲がりなりにもマフィアの首領と聞いてどんな奴が来るかと思えば…、幾つだよ此奴。この国は餓鬼の非行も凶悪犯罪扱いされるのか?」
肩を竦める男に周囲がどっと笑い出す。どうやら彼がこの集団の統率者らしい。
「却説坊や、はじめましてだな。俺が誰だか判るか?」
「ん〜、そうだねぇ…。来日早々ウチの小型犬に吠えられて泣きながら逃げた負け犬かな?」
「っ!!」
途端に此方を見下していた男の目が真っ赤になる。奥歯を噛み締め肩を怒らせた男は傍にあった銃を手に取り、私の額に押し付けた。
「口には気を付けろ。俺達はメルカート・ファミリー。お前らみたいなマフィアごっことは訳が違うんだ」
「それは凄い。でも、そのごっこ遊びにすら相手にされなかったのは何処の誰だっけ?」
「此奴…っ」
「抑々、君達は組織からこの国に“逃げ延びてきた”んだろう。それなのに、未だに古巣の名を騙るのは流石にマナー違反だと思うよ?」
「お前何故それを…っ‼︎」
「君の事は調べさせてもらった。“触れたものの濃度を倍にする異能力”。話に聞く新型麻薬は君が生成したものだろう?」
怒りに染まっていた男の目が愉快そうに歪む。丸太の様な両手を大仰に広げ、男は何かの宣誓の様に高らかに声を上げた。
「そうさ!あれは俺の最高傑作。一度味わえば二度と抜け出せない。
「彼等が君を組織に迎えたのは、その新型麻薬を規制する為だよ」
「っ…!」
「私には優秀な秘書が居てね。私が望めば海の向こうの同業者の内輪話もすぐに仕入れてくれる。メルカート・ファミリーは確かに伊太利亜を牛耳る一大組織だが無法者の集まりじゃあない。組織が巨大であればある程、秩序と
──だが君はそうしなかった」
「当然だ…。折角メルカートに…伊太利亜最高のマフィアに入ったってのに、連中は俺を飼い殺しにしやがった。だから判らせてやったんだ。俺の最高傑作がどれ程の金を生み、どれ程の成果を成し、組織にとってどれ程有用な手札になるかって事をな!」
「やれやれ。同業種の長として、メルカート・ファミリーの首領には同情するよ。部下が自分の縄張りで麻薬を蔓延させるなんて。私だったら聞いた瞬間、毒を煽って首を吊る所だ」
「黙れ!」
唾を飛ばし叫んだ男が拳を振り抜く。拳銃を握ったままの硬い拳に頬を打たれ、私の身体は僅かに宙を舞って埃っぽい床に叩きつけられる。口内に鉄の味が広がっていくのを痛む頭がボンヤリと認識した。その頭を髪の毛ごと乱雑に掴み上げられた先にあったのは、最早怒り以外の感情を失い修羅と化した男の顔だった。
「
「へぇ。それじゃあ矢っ張り、ポートマフィアが所有するヨコハマ近海の航海権が君達の狙いだね。政治家先生との会合を乗っ取り私の暗殺を企てたのも君達だろう?尤も、暗殺そのものは揺動で、本命は騒ぎに乗じて私を誘拐する事。いやぁ大分荒の目立つ作戦だけど上手くいって善かったね」
「……前言を訂正するぜ。手前は餓鬼だが、確かにマフィアの首領らしい。何でも知った風な顔して他人を小莫迦にしたその態度、ウチのファーザーとそっくりだ」
「ふふふ…それは光栄だ。でも、残念ながら君達の野望は叶わないよ。ポートマフィアは麻薬市場に手を出す気は無し、自分の縄張りを荒らす余所者を見逃す心算もない。だから、君達の逃走劇は此処で終幕だ」
「はっ!ほざいてろ。手前の意思なんざ関係ねぇ。どうせコイツですぐに溶け落ちる」
男が懐から取り出した小袋が私の目の前で揺れる。透明なビニール製の小袋には白い粉が入っていた。
「安心しろ。キマってる間は天国が味わえる。まぁ、その後は禁断症状で地獄の苦しみだろうが、手前が俺達の云う事を聞いてくれりゃあ解決する話しだ。恨むんなら、碌に話も聞かず噛みついて来た躾のなってねぇ手前の犬を恨むんだな」
「あぁ、それなら何時もやってるよ」
私の返答に男は不快そうに舌打ちをして袋を開ける。その時、背後で分厚い金属が切れる音がした。
──ガラガラガラ!
「なっ…⁉︎何だ‼︎」
バラバラになって崩れ落ちる銃鉄扉。それを見た男は面白いくらい目をまん丸にして扉があった場所を見る。だが次の瞬間、男は残像を残して背後に弾き飛び、アジト内にバチンと云う破裂音が鳴り響いた。
「やぁ早かったね。流石は私の秘書だ」
「その賞賛は寧ろ彼にお願いします」
まるで漫画のヒーローの様に主人の危機に颯爽と登場した優秀な秘書は、膝を着いた私を助け起こす。後に残されたのは統率者を失い騒然とする
「死を惧れよ。殺しを惧れよ。死を望む者、等しく死に──望まるるが故に」
暗闇から染み出す渇いた声。その声に誰もが振り向き、そして暗闇から伸びた刃に無惨にも貫かれる。
「では首領、どうぞ一言」
「えー」
「えーじゃない」
「はいはい。君もよく来てくれたね。ありがとう──芥川君」
すると暗闇から薄暗い電灯の下に姿を表した痩躯がビクリと固まり、軈て勢いよく頭を下げた。
「太宰さん…っ否、首領の窮地とあらば、譬え地の果てであろうと駆け付けるのは当然の事」
「所で首領、顔以外に負傷箇所は?」
「口の中をちょっと切ったくらいかな」
「かしこまりました。では此方をお願いします」
私を近場の椅子に座らせた彼女は、持っていたアタッシュケースを開けると、あっという間に簡易的な机に組み立てて、その上にペンと書類の束を置く。
「菫。これは何かな?」
「首領が失踪した事で滞っていた午後分の承認待ち書類です」
「それ今やらなきゃ駄目な事?」
「はい。期限間近の書類も多いので速やかに確認作業をお願いします」
「そっかぁ…。でも私、首領を誘拐した下手人を捕縛するのも大事だと思うよ?」
「ご安心を。それなら既に」
「太宰さん!否、首領!敵の頭を押さえました!この男、如何なる拷問に掛けましょう!」
「この通り。貴方の部下は優秀ですから」
「う〜ん。芥川君め…」
そんな恨み言等耳に入っていないのだろう。成果を誇示する様に芥川君は羅生門で簀巻きにした男を吊り上げる。まるで風に吹かれる蓑虫の様にブラブラと宙を揺れる男は、先刻迄の威勢が嘘の様に真っ青な顔をしていた。
「却説。お初にお目に掛かります。私は臼井菫。ポートマフィア首領の秘書役を務めております。この度は私共の首領が大変お世話になりました」
にこやかに丁寧に笑顔でそう挨拶する菫の目は一切笑っていなかった。その視線は謙遜なんて文化に馴染みのない異邦人でさえ、彼女の発言が言葉通りの意味でない事を理解するに十分だったらしい。
「ま、待ってくれ!降参する!だから命だけは…っ」
「ご安心を。元より貴方に進んで危害を加える気はありません。勿論、貴方が我々の要求に応じて下さる場合に限りますが」
「判った…。云う通りにする。……だがその前に、一つだけ頼みをきいてくれないか?」
「頼み?」
「あぁ。伊太利亜を発つ時、俺は組織のとある重要機密を盗み出した。そのデータを記録した端末が今、俺の掌の中にある。だから、一度この拘束を解いてくれ」
「貴様…己が立場を弁えよ。この場で指を落とされたいか」
「このデータがある限り、俺は組織に狙われて続ける。この侭じゃアンタ達ポートマフィアも道連れになるぞ!その前に早く、このデータを処分させてくれ‼︎」
「芥川さん。構いませんよ。一度彼の拘束を解いて差し上げて下さい」
「なっ…!臼井、貴様何を…っ⁉︎」
「彼は仮にも伊太利亜最高を誇るマフィアの一人。その立場は敬意を払うに値します。それに、知っているでしょう芥川さん。私は大丈夫です。ご心配頂きありがとうございます」
「っ…!…………誰が、貴様の心配など…」
あー、芥川君も最近はすっかり態度が軟化したなぁ。なんて考えながら私はスラスラと目の前の書類にペンを走らせた。まぁこの後の展開は大体察しが着くけれど、本人が云う通り“彼女なら”大丈夫だろう。渋々と云う表情を隠しもせず、芥川君は男を地面に下ろすと羅生門の拘束を解いた。
「では、記録端末とやらを此方に」
「あぁ、記録端末は………これだ!」
刹那。男の手が彼女に伸びる。開かれた掌には案の定何も無かった。彼の異能は“触れたものの濃度を倍にする”。その気になれば触れるだけで人を殺せる能力だ。そして今、男は獲物を猟る野獣の様な笑みで彼女に襲い掛かる。──私の予想通りに。
──バチン!
渇いた破裂音と共に、男の手が丸太の様な腕ごと後方に弾き飛ぶ。何が起こったか判らないと云う様なその顔を見て、彼女がニヤリと笑った。
「まぁ、矢っ張りそう来ますよね」
体制を整える暇もなく、彼女は追撃とばかりに男の横顔に回し蹴りを叩き込む。だが、今度は男の身体は後方に弾き飛ぶ事無くその場に留まった。まるで蜘蛛の巣の様に彼の身体を捉えた、羅生門によって。
「ありがとうございます芥川さん。相変わらず素晴らしいアシストです」
「黙れ愚者め。貴様こうなると見越した上で態と奴の口車に乗ったな」
芥川君の胡乱な視線に何時もの完璧な笑顔を返した彼女は、蜘蛛の巣に囚われた羽虫の様に磔になった男の前に歩み寄る。
「却説、困りました。貴方は我々の慈悲に付け込み、嘘を吐いて反撃に出てしまった。此方としては穏便に済ませたかったのですが、こうも誠意の無い対応をされてしまうと、方針を改める必要がありそうですね」
「ひっ…、お前、何だ…。まさかお前も異能力者なのか…?」
「ええ。異能力“独楽園”。私に触れる人間は、私が許容した者以外全て弾かれる。そして今は、
──彼を守る為の盾だ」
紙面に走らせていたペンが止まる。思わず顔を上げると、私の秘書の立ち姿が映った。その凛々しさに見惚れていると、彼女は徐に祈る様に手を組み
その侭景気良く拳をバキバキ鳴らした。
「と云う事で。この後の尋問をスムーズに行う為にも、その虚言癖は此処で矯正した方が良さそうですね。あぁ折角なので、美人のご尊顔を傷付けると云う罪の重さも一緒に学んで頂きましょうか」
「あ、ぁあ…た、助け」
「助けると思うか」
哀れな男の命乞いは芥川君によって一刀両断された。そして私は男の悲痛な叫びと云う最悪のBGMを聞かされながら、書類に延々と名を綴る機械に成り果てたのだった。
****
港近くに店を構える洋食屋『フリイダム』。
そのカウンター席で、私は表面張力の域迄満ち満ちたビールジョッキを一気に飲み干した。
「っはぁ〜〜〜!!染みるぅ〜〜〜!!」
喉を流れ落ちる爽快感と後に残るキレに感嘆の声を上げると、隣に座っていた碧眼が呆れた様に細められた。
「オヤジか」
「親爺さんなら此処に居るだろう」
「おや、お揃いだねぇ菫ちゃん」
ツッコミを起点に次々と繋がるボケの連鎖。矢張り天然は無敵だ。そんな事を考えていると、不意に店の引き戸が開いて、お待ちかねの2人が姿を表した。
「はぁ〜、今日も疲れた〜。ねぇ、もしかして私首領に向いてないんじゃない?」
「特務課の頭痛の種が何云ってるんですか。種田長官が聞いたら脳溢血で緊急搬送されますよ」
「あ!うぉいコラ太宰!君マジで今日も今日とてやらかしてくれやがってこの野郎‼︎ちょっと目ぇ離しただけで失踪とか君は何歳児だ⁉︎終いにはその首に掛けてる赤いヒラヒラ迷子紐に改造すんぞ‼︎」
「文句を云いたいのはこっちだよ。酷いじゃないか菫。残業してる私を放っぽって先に退勤するなんて。それでも私の秘書かい?」
「部下の椅子にブーブークッション仕掛ける作業を残業とは呼ばねぇんだよ。って事で明日気をつけろよ中也」
「俺の椅子かよ!知った時点で止めろやお前も‼︎」
「だって気づいた時退勤切ったばっかだったんだもん」
「それなら仕方ないですね。譬えマフィアであっても時間外労働は許されざる悪です」
「安吾が云うと説得力が違うな」
途中参加のメンバーも揃い、私達先発組は手持ちのジョッキを飲み干して親爺さんに返した。追加の摘みと新しいジョッキが運ばれて来る迄の間、私達は何時もの様に仕事の愚痴と武勇伝に花を咲かせる。
「じゃあ結局そのメル何とかと云う奴は、臼井と芥川で捕縛したのか」
「おう!ギッチギチのガッチガチにシメて特務課に引き渡してやったぜ!ねー安吾さん」
「これで特務課にはまた貸しを作っちゃったなぁ。どうぞこれからも懇意にねー安吾?」
「貴方達、特務課の全職員をストレス性胃炎にさせる気ですか?」
「一丁前に文句云ってんじゃねぇよ教授眼鏡。その辺の帳尻を上手く合わせるのが、二重スパイである手前の仕事だろうが」
「中也君。僕のこれは二重スパイではなく、潜入先の組織に何故かスパイ活動を容認されているだけです。お陰で僕は特務課ですっかり針の筵ですよ…」
「じゃあ辞めるかい?ポートマフィア」
「……辞めませんよ。特務課一本に絞ったら、こうして仕事上がりに飲む暇もありませんからね」
「ふふ。善かった。安吾さんに辞められたら、ウチにとって大損失ですもん」
「“辞める”と云えば太宰。臼井には辞めさせないのか?」
「何を?」
「仕事中の“猫被り”」
「「ぶふっ‼︎」」
その瞬間カウンター席の両サイドに居た安吾さんと中也が吹き出した。おい、兄ちゃん達何笑てんねん。と云うツッコミを脳内でかましていると、何故か隣の太宰に肩を組まれた。
「それについては前々から何度も云ってるんだけどねぇ。このお姉さん全然きいてくれないのだよ。私首領なのに…」
そんな文句と共に恨めしそうに私の頬をつつく人差し指をシッシと払って、私は心の底から大きな溜息を吐いた。
「あのなぁ…。私にプライベートのノリで仕事して欲しいなら、先ず息をする様にハプニングを振り撒くなよ」
「えぇ酷ーい。私が何時そんな事をしたって云うんだい?」
「移動中襲撃してきた刺客に態々車寄せに行く。本部ビルのヘリポートで花火を打ち上げる。あとこの前、会議前に姿晦まして居酒屋で女子大生ナンパしてたよな?仕事モードだったから笑顔で穏便に済ませたものの、素の私だったら飛び蹴りからのコブラツイストだったぞ」
「いや、あの時のお前顔は笑ってたが怒気がダダ漏れてたぞ」
「臼井さんの周りだけ、引き潮の様に人が捌けてましたからね」
「嘘⁉︎」
衝撃の事実に思わず驚愕の声を上げると、不意に太宰の隣から声がした。
「我慢はしてないか?」
見ると、太宰越しに作之助が私を見ていた。まさしく一切の他意を感じないその真っ直ぐな問いに、私は苦笑して本心の侭答える。
「してないよ。何だかんだで、この仕事すっごく楽しいもん!」
「そうか」
「うん。そうだ」
私の返答に皆が各々に笑み、そしてお約束の合言葉で会話のラリーが終わる。そのタイミングを待っていたかの様に、親爺さんが私達の前に追加の摘みと人数分のジョッキを並べた。
「却説、それじゃあ諸君。今日は何に乾杯する?」
「其処はほら、首領のお心の侭に」
「臼井に同意する」
「僕も異論ありません」
「チッ。おらさっさと決めやがれクソ首領。酒が温くなっちまうぞ」
それぞれの返答を聞いて、序でに最後のコメントには思いっきり顔を顰めて、けれどもう一度私達を見渡した我等が首領は、満足そうに片方だけ覗いた鳶色を緩める。
「──ストレイドッグに」
誘う様に、僅かに掲げられた酒盃に私達の顔が映る。その誰もが口の端を吊り上げ、かち合った酒盃同士が透明な音色を奏でる。
「「「「──ストレイドッグに」」」」
死を生産し、暴力を通貨とし、人の命を石ころ以下の価値で消費する、暗闇の支配者。
──ポートマフィア。
彼等が憩う宵闇は、今日も酒盃と取り留めのない言葉の中に溶けて、再び眩い朝を迎えるのだ。
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