hello solitary hand・番外編
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「よし、今回も怪我は無いみたいだね。偉い偉い」
そう云って満足気な顔で抱き締めてくる太宰は、いつもの様に私の頭を撫でる。
最近こう云うのが増えた。私が何か大きな事件に遭遇して帰ってくると、晶子ちゃんが引くレベルで怪我が無いか確認してくる。怪我があれば有無を云わさず医務室に連行されるし、無かったらなかったでこの通り「偉い偉い」と褒め称えられる。無論、太宰に褒められるのは嬉しい。うん、嬉しいは嬉しいんだが…これ、恋人の扱いとしてどうなんだ?
「なぁ太宰よ。一応確認しておくが私は犬の類じゃないぞ」
「何云ってるんだい?当たり前じゃないか。私、犬は嫌いだけど菫は大好きだもの」
「おう…、そうか。うん、それならいい…」
言葉通り“当たり前”と云った顔で答えられて何と返したら良いか判らなくなった。そんな私の戸惑いなんてお構いなしに、太宰は私の髪に頬を擦り寄せる。オイ、確かに今回は怪我してないけど、トンネルの崩壊に巻き込まれ掛けて今私全身ジャリッジャリの砂埃まみれだぞ。取り敢えずこれ以上のスキンシップはお風呂入って着替えてから…
「愛してるよ菫。今後もその調子でね」
煤のこびり付いた唇に止める間もなくキスをして太宰はそんな事を云う。見上げた先の鳶色は、何とも嬉しそうな弧を描いていた。
****
「う〜ん、どうしよ」
臼井菫・職業探偵(二十四歳)。私は今とある問題に直面している。と云う事で、もしこの問題を解決に導ける名探偵が居るなら是非ご教授願いたい。
「見覚えがあるアライグマが居たから、捕まえた」
「キュー!」
【Q1】依頼先で知人のお友達のアライグマ君にエンカウントした場合どうしたらいいでしょーか?
「えっと、もしかしなくてもカール君?」
「キュキュー!」
「何で居んの?」
「判らない。巡回中に物音がして、見てみたら倉庫の扉を引っ掻いてた」
「え〜…」
鏡花ちゃんの腕の中で不思議そうに此方を見つめるカール君。普段ならテンション上げて即撮影会を開催する所だが、今はそうもいかない。何故なら、前述の通り此処は依頼先。しかも、数ある依頼先の中でも結構なレアケースだ。何せ此処は航行中のクルーズ船内。則ち、
遡る事三日前、武装探偵社に一件の依頼が舞い込んだ。
依頼内容は、さる企業の祝賀パーティーが開催されるクルーズ船の警護で、当日は探偵社の他にも警備会社の人間を数十人派遣する予定との事。あれれ?それってウチ必要なくね?とも思ったが、万が一不足の事態が起きた際の保険という事らしい。おいおい、異能力者は何でも解決できる無敵の超人じゃないんだぞ。なんてぼやきを脳内で零してはみたものの、依頼と同時に振り込まれた前金の額に皆揃って目玉がポーンした私達は、断るに断れずこの依頼を受けた。相手方のリクエストと社員の能力、経験等を加味した結果、メンバーは防御力極振り異能を持つ私と、隠密行動に定評のある鏡花ちゃんで決定。一応セレブが集うオサレパーリーと云う事で、支給された黒スーツに身を包み、いざお仕事開始!
…と意気込んだ二時間後、巡回中の鏡花ちゃんから無線で呼び出しを受け、駆け付けた所冒頭の光景が広がっていた訳だ。
「臼井さん、泉さん」
突然降って湧いた第三者の声。咄嗟にカール君を背中に隠して、私は心の押し入れから使い古された猫皮を五枚くらい引っ張り出して被る。鏡を見ずとも判る完璧に貼り付けられた営業スマイルで振り返ると、思った通り此度の依頼主が駆け寄って来た。
「これはこれは平田殿!何か御用でしょうか?」
「いえ、お二人の姿が見えたので声をおかけしただけです。どうですか、船の様子は?」
不安気に眉根を寄せて尋ねる長身の男性。一見頼りなさそうに見えるかもしれないが、その実破格の前金で探偵社への依頼をゴリ押し切った猛者である。まぁそれも彼が件の企業の代表様と聞いて納得した。ご覧の通り立ち振る舞いは謙虚だが、それと同時に一企業の長としての豪胆さも持ち合わせた御仁と云う訳だ。
「ご安心下さい。今の所不審な様子はありませんよ」
「それは良かった。所で、お二人はこんな所で何を?」
「船内の巡回です!こう云った人気の無い区画は不審者が潜んでいたり、危険物が隠されている事が多いので、より入念に確認しておりました」
「成る程。確かに盗み目的の犯罪者から見たら、此処は格好の狙い目だ」
「この倉庫には、窃盗犯が欲しがる様なものが入っているの?」
「ええ、絵画に彫刻に装飾品…、その他値の張る美術品が色々ですね」
「何故そんな貴重品が船の倉庫に?」
「実は私、オークションが趣味なのですが。お恥ずかしい話、最近戦利品の置き場が無くなってきましてね…。折角の機会ですし、今日のパーティの余興に抽選会で招待客の皆さんにお譲りしようかと」
「えぇ⁉︎良いんですか?折角集めた蒐集品でしょう⁉︎」
「ははは。オークションが趣味と云っても、私は競りを楽しんでいるだけで、実は手に入れた戦利品に其処迄執着がないのです。持て余すくらいなら欲しがっている方にお譲りした方が有意義でしょう。現に、このパーティは我が社の周年記念を謳ってはいますが、招待客の殆どは私との親睦より余興の抽選会を心待ちにしています。まぁ、私としては催しを喜んで頂けるならそれに越した事はありませんよ」
oh…成る程これが金を持て余したセレブの戯れか。まぁ振る舞い自体は謙虚な分、どこぞの金銭感覚バグリジェラルド氏よかマシだが。そんな事を考えていると、不意に平田殿の懐から電子音が鳴った。
「もしもし。…あぁ判った。すぐ行く。申し訳ありません。部下が呼んでおりますので、私はこれで。どうか引き続き宜しくお願いします」
「ええ。お任せ下さい」
私の返事に平田殿は軽く会釈して踵を返す。軈てその姿が廊下の角を曲がったのを見届けて、私は三秒後に大きな息を吐いた。
「はぁー!良かったバレなかったー!」
「でもどうするの?この船が港に戻るのは明日の昼。それ迄私達は船から降りられない」
「うーん、それな…」
一難去ってまた一難。いや、この場合振り出しに戻っただけか。てか、抑々何でカール君がこんなとこに居るんだ?確かにポオ氏はセレブリッチミステリ作家だけど、招待客名簿の中に彼の名前は無かった筈。と云うか、仮に招待されてもあの御仁は余程の事がない限りこう云う催しには参加しないだろう。陰キャの魂を賭けてもいい。となるとやっぱ単純に迷子か?犬のお巡りさん呼ばなきゃ駄目か?いやその前に先ずはポオ氏に連絡を…
──ピリリリリ!
グルグルと思考のぬかるみに嵌りかけていたその時、今度は私の懐から軽快な電子音が鳴り響いた。スマホの画面に表示されていたのは我が最愛の恋人殿の名前で、本来なら嬉しい筈のその表示に何となく不穏な引っ掛かりを感じた。
「もしもし?」
『やぁ菫お疲れ様!お困りのようだねぇ。でももう大丈夫、君の王子様が助けてあ・げ・る♡』
「………一応聞くが何の話だ?」
『やだなぁ、君達が依頼先で遭遇した乱歩さんのご友人のペットの事に決まっているじゃないか。“保護したはいいけど、私達が今乗っている船が陸に戻るのは明日の昼。それ迄この子をどうしよう”って頭を悩ませていたんだろう?大丈夫。君の悩みは全てこの私が解決してあげよう!』
「………鏡花ちゃん、支給された警備グッズの中に金属探知機とか無かったけ?」
「無い。でも警備員室にはあった筈。借りてくる」
『ちょっとちょっと、すぐに盗聴器を疑うなんて酷いじゃないか。私がそんな事する人間に見える?』
「寧ろ盗聴器使わずにどうやったら私達の状況把握出来んだよ」
『其処はほら、愛の力で?うふふふふ』
「はぁ…。判った。この件については帰ってからみっちり話し合おう。で?仰る通り迷子のカール君を見つけて困ってるんだが、知恵を貸してくれるか?」
『勿論!取り敢えずザッ、アライザザー…は依頼ザーッ、問題なザザザー……』
「太宰?」
その時、軽やかな美声に耳障りなノイズが重なった。思わず呼び掛けるも、ノイズは徐々に長く大きくなっていく。
『ザザーあれ…ザッ、ザー菫?ザザザー…』
──プツン!……ツー、ツー、ツー
「…切れた。もしかして圏外になっちゃったか?」
「でもルート通りなら、この船は圏外になるほど陸から離れないって…」
架かってきた時とはまた別の不穏な気配を感じて、見合わせた私達の顔に緊張感が張り巡らされていく。そして──
──ドオオォォォン!
鼓膜どころか全身を震わせる轟音と大きく揺らぐ足元に、私達は完全に理解する。
今この船で、私達が対処すべき仕事が発生した。
****
「あれ?」
つい先刻迄、仕事そっちのけで菫さんに電話をしていた太宰さんの声が急に止んだ。不思議に思って色硝子の仕切りを覗いてみると、応接用のソファーに座った太宰さんが、無表情の侭手元の携帯を見つめていた。
「太宰さん?あの、何かあったんで、うわっ⁉︎」
『何かあったんですか?』と云い切る前に、太宰さんは持っていた携帯を宙に放った。驚きながらも反射的に伸びた僕の手が、床に落下する直前の携帯を何とか拾い上げる。
「ちょっと、いきなり何を…っ⁉︎え…っ、うわまた?わぁ⁉︎」
また僕が云い終える前に何かが放られる。今度は携帯じゃなかったけれど、何かの端末みたいだ。そう思っている内にまた違う端末が中を舞う。懐やポケットから次々と端末を取り出し、一瞥しては用済みと云わんばかりに放り投げる太宰さん。そんな端末を何故か必死に拾って、遂には口でキャッチした辺りで太宰さんは漸く僕の方を向いた。僕の姿を見て太宰さんは笑って、写真を撮って、それを皆に見せに行く。
少なくとも普段ならそうだ。
でも、太宰さんは先刻覗き込んだ時よりも温度の無い無表情で口を開く。
「菫と連絡が取れなくなった」
「え…」
思わず漏れた声と一緒に、咥えていた電子端末が今度こそ床の上に落ちた。
****
「今の揺れは何⁉︎」「携帯が繋がらないぞ!」「一体何が起こっている⁉︎」
つい数分前まで華やかだった空気が、不安と恐怖と戸惑いで溢れかえる。快適な海の旅を目的に設計された船にあるまじき揺れと轟音。それと合わせるように発生した通信障害。どう考えても何かしらのトラブルが発生している。
「おかしい」
「どうした鏡花ちゃん?」
「警備員が居ない」
そう云われて私は漸く気づく。そうだ。この船には私達以外にも他社の警備員が配置されており、実際乗船する際に私達も挨拶をした。だが、原因不明の異常事態で船内がパニック一歩手前の今、それを制し避難誘導するべき彼等が何処にも居ない。
「おいおい嘘だろ。職務怠慢とかそんなレベルじゃないぞこれ…」
『緊急連絡。緊急連絡。ただいま船内にて異常な揺れが発生しました。現在原因を調査中。乗客の皆様は速やかに甲板へ避難して下さい。繰り返します。船内は危険です。乗客の皆様は速やかに甲板へ避難して下さい』
不意に船内に取り付けられたスピーカーから避難誘導の放送が流れた。その放送を聞いた乗客達は、戸惑いながらも甲板へと向かっていく。取り敢えず私達も、逃げ遅れた乗客が居ないか船内を確認しつつ避難誘導に従った。だが甲板迄あと少しの所で、急に人の流れが滞る。更には何やら争う様な声まで聞こえてきた。
「揉め事か…?参ったなぁ」
「夜叉に見に行かせる?」
「ん〜、今の状況で目立つのはなるべく避け──」
── ドオオォォォン‼︎
そこから先の言葉は、先刻以上の轟音に掻き消された。グラグラと揺れる船内に人々が悲鳴が反響する。それを皮切りに、停滞していた人々が半狂乱で我先に甲板へと雪崩れ込んだ。異能の関係もあって最後尾に居た私達は、その後を追って甲板へと駆け出す。
最初に見えたのは太陽の輝く青い空。次に見えたのは甲板にへたり込んでいる乗客達。そして、血の気の失せた彼等を見下ろす長身の紳士だった。
「臼井さん。泉さん。ご無事でしたか」
「平田殿…っ」
此方に気付いた平田殿が顔を上げる。その目に私達思わず身構えた。今まで見てきた頼りなさや謙虚さなど初めから無かった様に、暗く沈んだ光の無い目。そして彼の手にはリモコンの様な機械が握られていた。
「良かった。姿が見えなかったので、何かあったのではと心配して…」
彼がそれ以上言葉を続ける事は無かった。理由は簡単。背後に音もなく現れた夜叉白雪が、彼の喉元に刃を突き付けたからだ。
「両手を頭の後ろに組んで跪いて」
甲板に出た私は後ろを振り返った。船尾の方で真っ赤な炎と黒煙が踊っている。人命を脅かす二色を前に私は理解した。ここ迄起きた一連の異常事態は全て人為的な破壊工作だ。
そして手を下した犯人は私の目の前に居る。
「ご説明願えますか、平田殿」
「勿論です。その為にこの船に居る全員を此処へ集めたのですから」
そう云って平田殿は、夜叉の刃など意にも介さず周囲を見回す。その視線の先に居るのは哀れに震える乗客達だ。
「臼井さん。泉さん。貴女方は彼等がどう云う人間か知っていますか?」
「貴方の取引先、協力企業の重役。孰れにせよ、この街の経済に対し大きな影響力を持つ方々とお聞きしました」
「そうです。彼等無くしてヨコハマの経済は成り立たない。故に、マスコミ、警察、そして政界の要人さえ彼等の発言は無視できない。彼等が黒と云えば白も黒になる。私の両親を殺した罪を塗り替えた様に」
「「⁉︎」」
「なっ…私達が殺人犯だと云うのか!」
「ええ。私の両親は貴方達に殺された」
「巫山戯るな!仮に我々が殺人を犯していたとしたら、法に裁かれ刑務所暮らしの筈だろう‼︎」
「そうよ!馬鹿げた嘘はやめて頂戴‼︎」
「そうですね。では本当の事を話しましょう。私の名は平田ではありません。本当の名は
「っ……⁉︎」
その瞬間、俄かに生気を取り戻していた乗客が完全に沈黙した。否、何か云いたくても言葉が出ないのだろう。まるで幽霊でも前にしたかの様に、青ざめた顔で彼等は震えている。これが狂言の類でない事を察するには、それで十分だった。
「14年前。大戦の折、彼等は大金欲しさに敵軍へ情報をリークした。当時貿易商だった父の会社を隠れ蓑に利用して…。結果、父はスパイ容疑で投獄されました。その家族である私と母も、“売国奴の親子”と罵られ迫害を受けた。そして謂れ無き汚名を着せられた侭、父は獄中で息を引き取り、父の訃報を聞いた母はその日の内に首を吊りました」
「つまりこれは、“復讐”と云う訳ですか」
口元を震わせ床の上に目を泳がせる乗客達を、感情の消え失せた目で見回していた平田殿…、否。“辻堂”殿は唯一言葉を発した私に目を向ける。
「ええ。その為に私は今日迄生きてきました。両親を死に追いやった者達に悟られぬ様、身分を偽り、成果を上げ、立場を手に入れた。私腹を肥やす事しか考えていない彼等が飛びつく様な
「それはそれはおめでとうございます。逮捕後の取り調べも是非その調子でお願いしますよ」
「申し訳ありませんがそれは無理です。今この船は、凡ゆる通信機能が停止している。警備員と船員も既に救命ボートで脱出させました。誰一人この船から逃げ出す事はできません。尤も…“助けを呼ぶ”と云うなら、一つだけ方法がありますが」
「「!」」
不覚にも息を呑んだ私と鏡花ちゃんは、何方ともなく視線を交わす。此処迄緻密な計画を立てた犯人が、親切で解決策を教えてくれる訳が無い。まず間違いなく罠の類だ。だが、此方の反応などお構いなしに辻堂殿は機械的に淡々と続ける。
「お察しの事とは思いますが、この船の通信機能を停止させ外部との連絡を遮断したのも私です。しかし、その方法は“ある特定の信号を受信し続ける限り通信システムを再起動させない”と云う、実に単純なプログラムによるものだ。発信機さえ止めてしまえば通信システムは自動で復旧します」
「それは何処にあるの」
鏡花ちゃんの問い掛けに合わせて、夜叉白雪が辻堂殿の首元へ更に刃を押し付ける。虚偽誤魔化しは許さない。言外にそう釘を刺す様な鋭い少女の視線に射抜かれながら、辻堂殿は初めて柔和な笑みを浮かべた。
「此処です」
刹那、自分の呼吸が止まった気がした。射抜くような視線を向けていた鏡花ちゃんでさえ大きく目を見開いている。
そんな私達を前に、事件の犯人は自らの左胸に手を当て穏やかに穏やかに続ける。
「細かい位置を気にする必要はありません。私の心臓が止まれば発信機も止まる設計になっています。どんな形であれ、
──
****
「ではこれより緊急会議を始める」
会議室に集まった僕達の顔を見回して、国木田さんは眼鏡のブリッジを上げる。その眉間には何時も以上に深い皺が出来ていた。
「一時間前、菫との連絡が途絶えたと太宰から報告があった。その後様々な手段を試みるも、未だ連絡どころか居場所すら掴めんそうだ。菫と一緒に依頼へ向かった鏡花も同様に音信不通。十中八九、依頼先で何らかのトラブルが発生していると見て良いだろう」
それを聞いて集まった皆の空気が張り詰めるのが判った。“菫さんと連絡がつかない”。それだけなら、こんな大騒ぎにはならなかっただろう。探偵社の仕事はその殆どが灰色の厄介事。場合によっては自分から連絡を断つ必要だって出てくる。でも──
「成程ねェ…。太宰がそう云ったって事は、確かに大ごとだ」
そう。今回の問題は“
「今日、菫は鏡花と共に警護の依頼に出ている。場所は依頼主が所有するクルーズ船。太宰の話を聞くに、何らかの通信妨害を受けている可能性が高い」
「その太宰さんの姿が見えませンけど…」
「奴は乱歩さんと共に件のクルーズ船が出航した港を調査中だ」
「失礼します」
その時、急ぐ様なノックと一緒に春野さんが入ってきた。
「社長が海上保安庁に掛け合って、クルーズ船を捜索して貰える事になりました」
「そうか…」
「ただ…」
「どうしたんですか?」
報告を聞いた国木田さんの眉間の皺が少しだけ緩んだ。でも、その後に言い淀む春野さんの硬い表情を見て、賢治君が首を傾げる。
「航行予定のルートに船の反応が無いらしいんです。今、他の海域も探してもらっているんですが、レーダーの範囲外に出ていた場合、すぐに見つけるのは難しいだろうって…」
「そんな…」
連絡も取れない。何処に居るかも判らない。しかも菫さんと鏡花ちゃんが居るのは逃げ場の無い海の上だ。知れば知る程、これが危機的状況だと思い知らされる。
だってこれじゃあ、
もし二人に命の危機が迫っていたとしても、僕達は助けに行く事も出来ないじゃないか。
****
「駄目。どの通信機も通じない」
「ん〜やっぱ駄目か〜」
「キュ〜」
ガランとした操縦室に一人と一匹の嘆息が漏れる。駄目元で通信システムの復旧を試みてみたが、矢張り駄目なものは駄目らしい。嗚呼、今だけ花袋君の異能レンタル出来んかなぁ。なんて都合のいい事を考えながら、その傍で私は改めて状況を整理した。
現在この船は外部との通信を遮断され、船尾が爆発炎上という現代版タイタニック状態だ。しかも船を操縦出来る船員さんやら、乗客をお守りする筈の警備員さんは既に脱出済み。お陰で救命ボートも完売ガラガラ。避難場所の甲板は暫く安全だが、それだって何時迄も保つ訳じゃない。多分あと1時間もすれば、皆仲良く焼死か溺死の二択を迫られる事になるだろう。生きて帰るには、矢張り外部の救援が不可欠だ。だが──
「気が済んだのなら私を甲板に戻して下さい。最後の瞬間迄、出来るだけ長く彼等の苦悶の表情を見ていたい」
今まさに苦悶の表情で打開策を考えている私の隣で、本事件の犯人は涼しい顔でそう主張する。当然首元に刃を突き付ける夜叉とセットで。まったくこんな厄介事を主催しておいて良いご身分である。
(嗚呼ホント、厄介なルールを敷いてくれたもんだ…)
通信システムを復旧させるにはこの人の心臓を止める必要があるらしい。何処ぞの自殺
「辻堂殿。貴方は何故こんな事を?」
「目的なら先刻お話したと思いますが」
「私が聞いているのは、貴方が私達に殺されたがっている理由です」
そう。何度状況を整理してもその結論に行き着く。これ程手の込んだ復讐の舞台を設えておきながら、彼は安全な場所から傍観するでもなく、自らの手で仇達を打ち取るでもなく、彼等の手で滅ぼされる筋書きを描いている。態々、“被害者が生き残る唯一の手段”と云う大義名分迄用意して。
「私の望みはただ一つ。彼等を名実共に“殺人犯”として世間に知らしめる事。彼等は自分達が助かる為なら、当たり前の様に他人の命を踏み躙る。貴女方はその証人だ。ヨコハマの司法、警察関係者からの信頼も厚い武装探偵社の証言なら、流石の彼等も揉み消す事は出来ないでしょう。両親の死を罪に問う事は出来ませんが、私を殺せば彼等は今度こそ本物の殺人犯となる。私の死を以て、私の復讐は完成するのです」
成程。どう考えても復讐の障害にしかならない私達を、あんな大金叩いて迄呼び付けたのはそれが理由か。動機と犯行計画の全貌は明らかになった。が、肝心の解決策は未だ暗中模索だ。迫り来るタイムリミットに膨らむ焦りを追い出したくて深く息を吐くと、不意にスーツの袖を引かれた。振り向くと同時に鏡花ちゃんに手を取られた私は、その侭操縦室の外に連れ出される。
「ちょ…鏡花ちゃん。大丈夫か辻堂殿一人にして」
「夜叉が付いてるから大丈夫。それより…」
「?…鏡花ちゃん?」
何か云い掛けた鏡花ちゃんは口を噤んで俯く。彼女の纏う空気が変わった気がした。その顔を覗きむより先に、鏡花ちゃんが意を結した様に顔を上げる。
「どうしようも無くなったら、私が犯人を始末する」
情けない事に声すら出なかった。その言葉を咀嚼すら出来ずに固まる私に、鏡花ちゃんは尚も続ける。
「最後迄方法は探す。でも、時間は有限じゃない。誰かが犯人を殺さないといけないなら、私がやる」
そう云って鏡花ちゃんはスーツの懐から愛用の短刀を取り出す。鞘から僅かに覗かせた刀身を見つめる瞳が、鋭い刃の上に冷たく反射していた。
「大丈夫。今の私は探偵社員。その為にポートマフィアはやめた。マフィアの殺しと探偵社の殺しは違──」
「駄目」
艶やかな黒髪で徐々に隠れていく顔を両手で持ち上げて、私は短刀に落ちていた瑠璃色に視線を合わせる。
「鏡花ちゃん。君は“もうこれ以上一人だって殺したくない”から、
「っ……!」
「だから駄目だ。君が犯人を殺す事は許可しない。これ先輩命令。破ったら減給だかんな」
出来るだけ真面目に、出来るだけ先輩の威厳を醸し出せる様努力してみたが、果たして何処まで実現できただろう。そんな心配が顔に出る前に、小柄な後輩を抱き締めて誤魔化した。まぁでも、先刻迄深い水底の様な色をしていた瑠璃色に元の光が戻っていたから、取り敢えずは成功しただろうか。
「……ごめんなさい」
「いいよ。君は君なりに解決策を考えてくれたんだもんな。有難う。頼りない先輩でごめんな」
「そんな事…っ」
「キュー!」
鏡花ちゃんが顔を上げた瞬間、それ迄私の肩で大人しくしてくれていたカール君が大ジャンプからの見事な着地を決め、颯爽と船内の廊下を走り出した。イヤ何故?
「カール君待って!ステイ!カムバックホーム‼︎」
行動原理は一切判らないが、現在進行形で炎上沈没している船にカール君を一匹にさせておく訳にはいかない。あーもう!事は一刻一秒をい争うってのに、何でこうなるんだ!いや、抑々──
「 誰かが犯人を殺さないといけないなら、私がやる」
「クソっ…!何やってんだよ私は…っ、⁉︎」
その時、無意識に俯いた視界の端で開け放たれた扉と其処へ駆け込んでいくカール君が見えた。思わず立ち止まって確認する。其処は辻堂殿が貴重品を保管していた倉庫だった。
(そう云えば、カール君が倉庫の扉を引っ掻いてた所を捕まえたって鏡花ちゃんが…)
踏み込んだ室内に灯りはない。だが室内が荒らされ、既に藻抜けの殻なのは見てとれた。恐らく、逃げ出した連中が持ち去ったのだろう。まさに火事場泥棒と云う奴だ。
「キュー!」
変な関心をしていると、不意に暗闇の中でカール君の声がした。見ると暗闇の中に一対の光がこちらを見ている。それがカール君の目だと気づいた私は、彼を刺激しない様にゆっくりと近づいた。
「え…これって、まさか……」
“それ”を見つけた私は思わず手を伸ばす。そして次の瞬間、
──私は船から
****
「カール君待って!ステイ!カムバックホーム‼︎」
慌てた声を上げながらアライグマを追っていく背中。一瞬私も追いかけようかと思ったけど、犯人を残していく訳にはいかない。仕方なく操縦室に戻ると犯人が声をかけてきた。
「私を殺すのはどちらになりましたか」
「……私達は貴方を殺さない」
「それは良かった。感謝します。これで私の復讐は滞りなく完遂される」
「それは無理。私達は貴方を殺さない。だから、貴方は誰にも殺されない」
当たり前の答えを返した。私達が殺さない以上、この船に犯人を殺せる人間は居ない。それなのに、犯人は急に吹き出して狂った様に笑い出した。
「何がそんなに可笑しいの」
「ははは…っ、嗚呼、すみません。余りにも善良な事を仰るので…」
「善良…?」
「ええ、貴女は善良です。何せ、自分達以外は私を殺せないと思ってるのですから」
──ドンドン!
誰かが操縦室の扉を叩いた。気配を探ってみると何人か居る。きっと乗客達だ。そう思って扉を開けた。4、5人の男女が狭い廊下に固まって私を見下ろす。その顔は不安気で、でもそれだけじゃなくて。その顔が昔、貧民街で見た顔に重なる。生きる為なら自分以外の全てを犠牲にする
──どん底に落とされた人間の顔に。
****
「厭な犯人だ。事件が露見しても外部から手を出されないよう、接触手段を撤退的に潰し尽くしてる」
「………」
港に着いて一目で判った事件の真相にうんざりする。そんな僕の愚痴を完全に無視して、太宰は波打つ青い地平線を睨み付けていた。
「そんな顔したって仕方ないだろう。この事件を解決出来るのは現場に居る当事者だけだ。どんなに考えたって、
「判ってます」
そう返事をしながら、太宰の顔は一向に変わらない。聞き分けの無い後輩に呆れて、僕はスマホに送られてきた犯人の調査書を見る。きっとこの男は復讐の為に半生を費やしたのだろう。そうでなければ説明がつかない、いっそ執念すら感じる程緻密な計画。その癖、当の狙いは仇を葬る事じゃない。
だからこそ最悪だ。
(流石にもう限界だろうな……)
調査書をスマホの画面ごと消して顔を上げる。悠々と波打つ地平線。その向こうで今頃起こっているだろう事を考えていたら、口の中の飴玉が音を立てて砕けた。
「乱歩さん」
「何?」
「顔、怖いですよ」
「……お前が云うな」
新しい飴の包み紙を剥ぎ取って口に含むと同時にまた噛み砕く。耳から入ってきた重い波の音が口の中で響くボリボリと云う音に上書きされる。
僕以外の人間は皆悉く莫迦で愚かで愛すべき存在だ。
でも、そんな彼等はきっと今の状況に耐えられない。
命の危機を前にして、何が正しいかさえ曖昧になって、軈て上がった誰かの声に追従し、“個”は消え“群”と云う名の怪物になる。
その怪物を前に、武装探偵社としてすべき事を
彼女達は最後迄見失わずに居られるだろうか。
****
「夜叉白雪!」
私の声に応えて、夜叉白雪は操縦室の壁を切ると私と犯人を抱えて外に出た。
「逃すな!撃ち落とせ!」
船内から怒鳴り声がして、次は発砲音。撃ったのは乗客の一人だった。弾は当たらなかったけど、あの操縦室に戻る訳には行かない。海に落ちた壁の残骸が水飛沫を上げる中を突っ切って、夜叉は甲板の上に浮遊する。でも、其処に降りる事も出来なかった。甲板の上には他の乗客達が居て、包丁や消化器やゴルフクラブや、皆各々に凶器になるものを持っていたから。
「降りてこい!このペテン師!」「オイ!誰か銃を持ってる奴は居ないのか!」「早く其奴を殺せ!」
皆酷い顔をしていた。血走った目を剥いて、唾を飛ばしながら、近くにある物を手当たり次第に投げてくる。
「判ったでしょう。これが彼等の本性です。貴女方が手を下さずとも、彼等が私を殺してくれる」
「──っ!駄目!」
夜叉の腕を擦り抜けて犯人は自分から甲板に落ちた。それを見て、乗客達が一斉に犯人に押し寄せる。
──キィイン!
乗客達が振り上げた凶器を、夜叉の一閃が切り飛ばす。それでも何人かの勢いは止まらなくて、襲いかかって来た一人の手を捻って床に組み伏せた。懐から短刀を抜いて、他の乗客に見える様に組み伏せた乗客の首元に突き付ける。
「全員動かないで!」
途端に場が静まり返る。先刻迄顔を真っ赤にしていた乗客達は一変、皆真っ青になっていた。そんな中、組み敷いていた一人が口を開く。
「お前達は、どっちの味方なんだ…」
「え…?」
「お前達は探偵社なんだろ⁉︎なのに何故犯人を庇う⁉︎お前達は、無辜の民の味方じゃなかったのか‼︎」
「──っ!」
「そうだ!この侭だと俺達全員溺れ死にだぞ!」
「探偵社なら早く私達を助けて頂戴!私こんな所で死にたくないわ!」
「何を優先するかなんて考える迄もないだろ⁉︎早く其奴を殺して、俺達を助けてくれよ探偵社‼︎」
人々が口々に叫ぶ。
死にたくないと。助けてくれと。──犯人を殺せと。
「私は…」
「 言葉にしてくれ。望みがあるなら、言葉にしなきゃ駄目だ」
「私は…っ」
「鏡花ちゃん。君は“もうこれ以上一人だって殺したくない”から、
「私は、もう誰も──っ」
── ドオオォォォン‼︎
不意に船体が激しく揺れた。乗客達は悲鳴を上げ、各々に身を寄せ合う。原因はすぐに判った。今迄船尾の方で燻っていた炎が間近に迫っている。この船も、もう長くは保たない。
「早く、早く其奴を殺せー!」
誰かの声を合図に乗客達が堰を切ったように押し寄せる。もう脅しも通用しない。この侭じゃ犯人が殺される。でも、彼を殺さなければ乗客達が死んでしまう。もう時間はない。今決めないと、
探偵社員として、私がするべき事を──っ
「っ…!夜叉白雪!」
私の声に反応して夜叉白雪は乗客達の前に立ち塞がる。そして私はその奥で座り込んでいる犯人の前に立った。
犯人を殺す為じゃない。犯人を死なせない為に。
──バチィィン‼︎
その時、聞き慣れた破裂音がした。
「其処を退けえええぇぇぇ!!」
****
「それで、貴重品はちゃんと回収できたんだろうな」
「勿論。指示通り、地下の保管庫に移送しています」
そう告げると、革張りの高級椅子に腰掛けた男は満足そうに口の端を吊り上げた。
「それは何より。これで辻堂も浮かばれよう」
「では、船の映像データが…?」
「つい先刻届いたよ。奴め、望み通り親の仇に殺されたらしい。まぁ此方としては収入源が増えて願ったり叶ったりだが」
「辻堂様とのお約束では、映像データは世間に公表する筈では?」
「莫迦を云え。こんな一大スキャンダル、新聞屋の飯の種にするなんて勿体無い。幸い、この件で被害者は出て居ないんだろう?」
「はい。半刻前に、救難信号を受けた海上保安庁の捜索隊が船を発見。乗客は全員救助されたそうです」
「ならば好都合!却説、陸に戻った成金共に幾ら吹っ掛けてやろうか…」
そう云って、男は持っていた端末で映像を再生する。其処に映し出されたのは船の甲板。甲板の先には一人の男が座り込んでおり、その前に小柄な少女と怪異めいた白い影が映っている。そこへ半狂乱で押し寄せる暴徒の波が、
まるでボーリングのピンの様に弾き飛ばされていた。
「……は?」
男は数度瞬きをして目を擦る。だが、流れる映像は一向に変わらない。暴徒の群れを一直線に突っ切った人影は少女達の前に立ち、二言三言交わした後、徐に懐から何かを取り出した。それを確認する間もなく、画面は光に包まれ映像は終了した。
「な、何だこれは…っ。辻堂は?一体何がどうなって…」
「嗚呼、こんな小さな映像でさえ溢れる魅力が留まる所を知らないなんて…。流石は菫。私の最愛の人だ」
端末の映像を覗き込んで愛しい恋人の勇姿に感嘆の溜め息を吐くと、男は目を剥いて革張りの椅子から転げ落ちた。その様に笑いつつ一緒に落ちた端末を拾い上げると、私は本件のもう一人の犯人に問いかける。
「おや?いいのかい、こんな乱暴に扱って。態々犯罪の片棒を担いで迄手に入れたトクダネなんだろう?」
「お、お前は何だ…?辻堂が雇った警備会社の奴じゃないのか?」
「彼等なら、とっくに手錠を掛けられて取調室に放り込まれてる。これはその時ちょっと拝借したのさ」
船が発見された事で、乱歩さんに逃走経路を見破られた脱出者達。その一人から剥ぎ取った制服の襟を摘んで見せると、男は更に顔を青くして後ずさる。
「それにしても熟く周到な復讐計画だ。広大な海の上で徹底的に外部との通信を遮断し、それを取り戻す唯一の方法と云う大義名分のもと、乗客に自分を殺させる。そして、通信の復旧と共に船内で撮り溜められていた映像データが外部の協力者へ渡り、協力者はその物的証拠を以って彼の仇達を社会的に抹殺する。しかも協力者が裏切った場合も想定して、態々警察と司法に顔が効く第三者を乗船させるなんて…。まったく、恐るべき執念と云う他ない」
「誰か!誰か居ないのか!おいSPは何をしている!」
「無駄だよ。この会社は既に私達が制圧してる」
私が指を鳴らしたのを合図に、谷崎君の細雪が解け現実が露わになる。賢治君に簀巻きにされた屈強なSP。地上でランプを回すパトカー。それらを見て、今度こそ腰の抜けた男の前に私はしゃがみ込んだ。
「協力者への対価は彼がエサとして集めた貴重品、だったかな?まぁ、君達としてはただ儲け話に飛び付いただけなのだろうけど…。お陰で私の可愛い恋人が一時的とは云え私の手を離れた挙句、過酷な選択を迫られ不要に心を掻き乱された。だからね、
──是非そのお礼がしたいんだ」
その後、船の救助に同行した与謝野先生が帰って来るまで、私の心を込めたお礼は続いたのであった。
****
「そんな事があったであるか!」
平和な昼下がり。赤茶けた
「はい。ウチの社長が先んじて捜索隊を派遣してくれてたお陰で、何とかギリギリの所で救援が間に合いましたが…。流石に今回ばかりはマジで詰んだかと思いましたよ」
「(コクコク)」
「とは云え、カール君にはきっと怖い想いをさせてしまいました…。本当にすみませんでしたポオ氏」
「ごめんなさい」
「君達が謝る必要はないである。寧ろ、そんな惨状からカールを守り抜いてくれて感謝している。本当に、全員無事で何よりである」
「キュー」
「しかし、犯人を殺さなければ通信が復旧しないとは、中々に考えさせられる状況であるな…。一体どうやって解決したであるか?」
「あぁ。実は今日そのお礼がしたくてお呼びしたんですよ」
「お礼?」
こてりと首を傾げるポオ氏の目の前に私は一つのファイルを差し出す。中身は古びた紙の束で、それを見たポオ氏は先刻以上に目を見開いた。
「これ、ポオ氏が書いた小説の生原稿ですよね」
そう。カール君が飛び込んで行った例の倉庫。其処には辻堂殿が蒐集した貴重品に紛れて、何の因果かポオ氏の生原稿が保管されていたのだ。どう云った経緯で辻堂殿の手に渡ったか知らないが、カール君が見つけてくれた原稿を覗き込んで一瞬異能空間に取り込まれ掛けた私は、即座にこれがポオ氏の小説だと理解した。そして以前、誕生日の爆弾騒動の折、ポオ氏の小説を使って私が死んだと誤認させ爆弾のセンサーを騙したのを思い出し、同じ手を使う事にした。
則ち、辻堂殿を小説世界に取り込み、信号の発信機と共に現実世界から一時的に消えて頂いたのだ。
「考えてみれば、カール君があの船に居たのも、この原稿があったからなのかもしれませんね。孰れにしろ、本当に助かりました。この原稿が無かったら、ここまで円満解決しませんでしたもん。いやぁ、目立った貴重品だけ盗んでトンズラこいてくれた見る目のない悪徳警備員さん達にも感謝……ん?」
事の顛末と共に感謝の意を贈るも、本件のMVPはまるで時が止まった様に動かない。不思議に思い目の前で軽く手を振ってみると、途端にポオ氏は悲鳴をあげて卓上のファイルの上に置い被さる。その悲鳴は何と云うか、着替えを覗かれた乙女みたいな悲鳴だった。そんな声出たんだなポオ氏。
「はいお待ち!ご注文の品だよ」
その時丁度…と云っていいか判らないが、うずまきのおばちゃんが銀色のトレイを持って現れた。私は自分の紅茶を受け取り、何故かダウンしているポオ氏の前には珈琲の杯を置く。そして今回頑張ってくれた鏡花ちゃんには、色とりどりのフルーツで飾られた特大パフェを贈呈した。うん。そのキラッキラに輝くお目々でお姉さんは満足です。
「ありがとう」
「それはこっちの台詞だよ。ありがとうな鏡花ちゃん。私が居ない間、辻堂殿を守ってくれて」
「……それが、私のするべき事だと思ったから」
「うんうん。流石は鏡花ちゃん!それでこそ探偵社員だ」
探偵社に入ってから順調に成長している後輩。その頭を撫でて「偉い偉い」と褒め称えていると、不意に自分の頭を撫でる包帯塗れの大きな手を思い出した。
「どうしたの?」
「ん?いやぁ、何と云いますか…。可愛がってる子の成長って、かくも嬉しいもんなのかぁ…。って思って」
「そうなの?」
「うん。きっとそうなんだと思う…」
不思議そうに首を傾げる鏡花ちゃんの頭から手を離した私は、その手に目を向ける。嗚呼そうか。だから彼は毎回あんな満足そうな顔で私を褒めてくれるのか。
もし今後も私が成長する事で、彼にこんな想いを抱いてもらえるなら──
「私も、もっと成長しないとな…。太宰に喜んで貰える様に」
「「「……………」」」
誰にも聞こえない程の小さな呟き。その心算だった。なのに、何故かこんな時に限って店内で口を開く者は無く。シンと静まり返った空気の中、その場に居た全員が私を凝視する。何なら先刻迄卓上に突っ伏していたポオ氏迄顔を上げていた。
「あ!イヤ、無し!今の無し!全員聞かなかった事に…っ、せめて他言無用でっ!」
「菫ちゃん」
ぽろっと出てしまった失言に慌てて敷いた箝口令は、しかしおずおずとしたおばちゃんの呼びかけに断ち切られる。その声に思わず振り向くと、何とも生暖かい苦笑を湛えたおばちゃんが、カウンターを指さしていた。刹那、カウンターの向こうから覗く、ニヤけた鳶色と目が合う。
「………」
「………」
「………」
「………(ガタッ!)」
逃げた。全力で。最小限の予備動作で私は扉を目指す。が、何処ぞのアクション映画宜しくスタイリッシュにカウンターを飛び越えて来た包帯無駄遣い装置に敢えなく捕まった。
「おい待て!何でこんな時だけ無駄に身体能力発揮してんだよ巫山戯んな!」
「寧ろ今発揮せず何時発揮するんだい。ねぇねぇそれより、今何て云ったの?もっと何?私にどうして貰える様になりたいんだって?」
「白々しいわ!漂白剤の頂点でも目指してんのか君は!てか、何でカウンターの後ろに居るんだよ。居るなら居るって最初に云え!」
「いやぁ〜。国木田君が仕事しろってしつこいから、ちょっと匿ってもらってたのだよ。でもまさか、君のあんな愛くるしい言葉が聞けるとは、流石の私も夢にも思わなかったなぁ」
「喧しい!先刻のは無しだ無し!いや…、発言自体は取り消さないが…。取り敢えず君の脳内からは抹消しろ!いいな!」
「もうそんなに照れないでよぅ可愛いなぁ〜。じゃあせめて今のもう一回聞かせて。そしたら綺麗さっぱり忘れるから」
「そのスマホの録音画面は何だ莫迦!太宰の莫ァ迦!」
悲しい哉、逃走に失敗した私は何時もの様に後ろから抱きすくめられ、ニヤニヤと笑う太宰に真新しい黒歴史をイジリ倒される。そんな私達の攻防戦をBGMにおばちゃんは仕事に戻り、鏡花ちゃんはパフェを口に運び、ポオ氏は珈琲杯の中をスプーンでかき混ぜる。
「相変わらず仲が良いであるなぁ。……あの、所で…この原稿、君達の他に見た者は居るであるか?」
「どうして?」
「この原稿は6年前、乱歩君に推理勝負で敗れてすぐに書いた作品で…。その、当時は自暴自棄になって兎に角トリックの奇抜さばかりに固執していたと云うか…。抑々、この原稿自体とうの昔に処分していた筈、それがどうしてこんな所に…っ」
「つまり?」
「つ、つまり!これは若気の至りで迷走した結果産まれた産物であって、とても推理小説と呼べるものでは──」
「あれ?ポオ君来てたんだ」
その時ドアベルの軽快な音と共に我が社の名探偵が来店した。因みに私と太宰のいざこざは見向きもされなかった。相変わらずのスルー力である。
「ら、乱歩君!何故此処に⁉︎」
「急に此処の胡麻揚げ団子が食べたくなってさ!あ、そうだ。例の犯人、先刻箕浦君に引き渡して来たよ」
「どうだった?」
「多分それ程重い罪には問われないよ。結局、彼は誰一人傷つけてないからね。寧ろ、今回の事件で過去の悪事を暴かれた乗客達の方が、これから大変だろうね」
「そう…」
どこかホッとした様にそう呟く鏡花ちゃんの頭を、乱歩さんがぽんぽんと数度撫でる。その様は本当に小学生の兄妹みたいだった。正直、ちょっとだけ羨ましいと思ったのは内緒だ。
「はいはい。菫には私が居るからねー?おーよしよし、いい子いい子」
それはそうと、このペットを全力で可愛がる飼い主的ムーブはそろそろ物申した方がいいかもしれんな。
「その…我輩、用事を思い出したのでそろそろ失礼させて頂くである」
「そっか。あー所でさポオ君」
「な、何かな乱歩君?」
最早無我の境地で太宰に撫で繰り回されて居ると、汗ダラッダラで退席を宣言したポオ氏に、乱歩さんは曇りなき眼で告げる。
「“主人公を抹殺しに未来から来たメカオラウータンが、壁に封じられた黒猫の呪いを使って殺人を繰り返す”って、推理小説じゃなくてただのB級ホラーだと思うよ」
「あ゛ーーーーーーーー!!!!」
悲痛な叫びを上げるミステリ作家。それに構わず胡麻揚げ団子を注文する名探偵。その後ろで未だ攻防戦を続ける職場の先輩達。そんな騒がしい大人達を眺めていた和装の少女は、ふと自分の隣によじ登ってきたアライグマに気づく。
「………」
鼻をひくつかせて卓上の特大パフェを見つめるアライグマに、彼女は苺を一つ摘んで差し出した。それを受け取ったアライグマは数度匂いをかいで真っ赤な苺にかぶりつく。
「美味しい?」
「キュー!」
再び戻ってきたしっちゃかめっちゃかな日常。すっかり聞き慣れた心地よい喧騒の中で、少女はアライグマと微笑み合うのだった。