hello solitary hand・番外編
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「―――と云う事で、無事一件落着したんですって!」
「まぁ、上手く事が運んだんなら何よりだよ」
「ええ、早期解決出来て良かったですわね」
「その子もまだまだ若いんだし。人生これからだよ」
―――カンカラカーン。
「おや、皆で仲良く女子会かい?良いねぇ。何だか店内まで華やいで見えるよ」
「あぁ菫ちゃん。いらっしゃい」
八つ時に本格派のティータイムを求めて喫茶処“うずまき”の扉を開けると、そのカウンター席には既に綺羅子ちゃん、晶子ちゃん、ナオミちゃんの武装探偵社ガールズが陣取っており、店のおばちゃんと何やら話し込んでいた。折角なら鏡花ちゃんも誘って来れば良かったなぁなんて思いつつ、空いているカウンター席に座る。
「で、皆で楽しそうに何の話してたんだい?」
「別に楽しかないよ。女心を弄んだ屑が然るべき地獄に堕ちたって話さ」
「エ、ナニソレ怖イ…」
曰く。先日綺羅子ちゃんが“最近婚約者の行動がおかしい”と、ご友人からお悩み相談を受けたとの事。その相談内容を武装探偵社ガールズwithうずまきのおばちゃんで審議した結果、満場一致で“黒”と判定。録音機能付き防犯カメラの設置を促した所、ゴロゴロと浮気の証拠が転がり出し、この度晴れて相手有責の上慰謝料ふんだくって婚約破棄と相なったそうな。
「まぁ、“急な仕事で
「“携帯端末を肌身離さず持ち歩くようになった”時点で、私は黒だと思ってましたわ」
「私も“婚約者の人から女性ものの香水の匂いがした”って云われた時に、もう駄目かなぁって…」
「“金遣いが荒くなる”ってのもよく聞く話だったしねぇ。お客さんにも、知らない内に貯金使い込まれてたって人居るし…」
「へ〜。そんな昼ドラみたいな事、本当にあるんだなぁ。くわばらくわばら」
「なぁに呑気な事云ってんだい。明日は我が身だ、アンタも気をつけなよ?」
「ん?何を?」
「何って…。アンタまさか、彼奴の女癖の悪さ忘れた訳じゃないだろうねェ?」
その言葉の意味を脳内で反芻し数秒遅れで理解した私は、呆れ顔で頬杖を着く晶子ちゃんに嬉々としてサムズアップしてみせた。
「大丈夫!ウチの太宰君ならそんな証拠を残す様なヘマはしない。きっと乱歩さんレベルの推理力をもって漸く解き明かせる程完璧に隠蔽してくるだろうから問題ないさ‼︎」
「問題しかないわよ菫ちゃん!」
「おお!ナイスツッコミ綺羅子ちゃん!まぁ、冗談はさておき」
「菫さん…。その冗談はちょっと笑えませんわよ…」
「大丈夫さ。だって…ほら、太宰の一番は……私な訳だし……」
「「「…………」」」
「…………」
嗚呼、どうしよう…。初手に小粋なジョークをかまして、小っ恥ずかしい惚気を相殺しようと目論んでみたが、どうやらご破算に終わったらしい。同僚達の真っ直ぐな視線に火が出そうな顔を片手で覆っていると、不意に湯気の立った杯がコトリと音を立てて視界に現れた。
「はい。何時もの紅茶とケーキのセット、お待ちどう様」
「あ…、ありがとうおばちゃん!」
反射的に声の方へ目をやって感謝を伝えると、何とも生暖かい笑顔を浮かべたおばちゃんにウインクされた。流石は長年接客業をこなしてきただけある。場の空気を読んだ見事な対応に尊敬と恥ずかしさが込み上げて来た。そんな私の頭をポンポン撫でて、頬杖を着いた儘の晶子ちゃんが苦笑を漏らす。
「悪かったよ菫。アンタの云う通りだ。少なくとも、今の彼奴はアンタ以外見えちゃいないようだからねェ」
「そうね。毎日あんな犯罪一歩手前の愛情表現を繰り返している人が、他の女性に現を抜かすなんて確かにあり得ないわ」
「寧ろ、あれだけ菫さんとの相思相愛を声高に自慢しておいて浮気に走ったら、人間以前に諸々失格ですわ」
「大体菫ちゃんに胃袋掴まれてる限り、ホイホイ別の女に鞍替えなんて出来ないだろうしねぇ」
口々に賛同の言葉をくれる皆に羞恥心が上限値を叩き出すのを感じながらも、どうにか僅かに顔を上げた私は、勝手に緩んでしまう真っ赤なニヤけ顔で小さく頷いてみせた。
―――カンカラカーン。
その時不意に、来店者を知らせるベルの音が店内に響き渡り、開け放たれた扉を赤い振袖が縫う様に通り抜けて来た。
「おや鏡花ちゃん!丁度良かった。今皆で女子会やってた所でね。君にも声を掛けたかったなぁと―――」
「鏡花ちゃん待って!矢っ張り、いきなり菫さんに見せるのは…っ」
すると自重に従って閉まり掛けていた扉を再び開いて、今度は敦くんが店内へと駆け込んできた。その慌てた表情に、何かしらのトラブルの匂いを嗅ぎつけた私は、頼れる先輩らしく姿勢を正して彼らに向き直った。
「どうしたんだい二人とも?ほら、先ずは座ってから落ち着いて話してごら………」
余裕ある笑顔で其処まで云い掛けて、私の口は其の儘止まった。何故かと云うと、私に向かって真っ直ぐ駆けてきた鏡花ちゃんが、ケータイの画面を突きつけてきたからだ。まぁいきなり目の前に何かを突きつけられたら、そりゃ大体の人はビックリすると思う。が、残念な事に私の動きが止まったのは、そんな人間としての条件反射が作用した所為では無かった。
呼吸どころか、心臓の鼓動に至る迄止まってしまったのではないかと錯覚してしまう様な、完全なる静止。そんな静止を私に齎したのは、ケータイの画面に映し出されていた
そこに写っていたのは、砂色の外套を着た黒い蓬髪の美青年。まるで美を追求する芸術家が描いた国宝級の絵画と見紛う様なその笑顔は、いつ見ても私の心に感動と安らぎと感謝の念を抱かせてくれる。…筈なのだが、今回はそうはならなかった。理由はまさに文字通り“一目瞭然”。
―――その笑顔の先に見知らぬ美女がいらっしゃった為だ。
「………………ん?」
「先刻、街中で見つけた」
私にそう告げた和装の美少女は、背後に薄っすら夜叉が浮かんでいた。
****
先日コミュ力強化の為に購入した心理学の本に書かれていた事だが、人間には“返報性の原理”なる心理効果があると云う。
何でも、相手から何かを受け取った時に「こちらも同じようにお返しをしなくては申し訳ない」と云う気持ちになるとかで、好意的に接してくる相手には、こちらも好意的な態度になるのが人間の心理との事。つまり相手に笑顔で対応されたら、自然とこちらも笑顔を返すのは至極当然の反応なのだ。ほらコンビニとかでも、店員さんに「ありがとうございましたー」とか笑顔で云われたら、それが面識無い人でも笑顔で会釈を返すじゃん。しかもそれがメッチャ美人のお姉さんだったら、余程拗らせた純情ボーイでも無い限り笑顔になっちゃうもんじゃん。そう云うもんじゃん人間って。
「そうさ…。まして相手はコミュ力お化けの太宰君。寧ろ、笑顔で対応しない方がおかしいんだ。よってあれはごくごく普通の日常写真だ。てか美男美女を被写体にした美術作品だ。あー、いっそヨコハマのPRポスターに採用して貰うべきでは?フッ、ナイスアイディアだ私にしては冴えてるなはははははははは」
と云う具合に、誰がどう見ても精神科を勧められるくらいのキョドリっ振りで、現在私は自宅の茶の間の隅に三角座りを決め込んでいる。正直自分でもこの狼狽っぷりはヤバいと自覚はしているが、何分事が事だけにメンタルのリカバリーが追いつかない。結果、私の脳は更なる安心材料を求めて、もう何度目になるか判らない記憶のプレイバックを始めた。
「社に戻る途中、偶然太宰さんを見かけて…。また何時ものサボりかなぁって思って見てたんですけど…」
「この女の人と一緒に花屋に居た。遠かったから会話は聞こえなかったけど、二人で相談しながら花を選んでたみたい」
「その…、こう云うの良くないとは思ったんですけど、僕達も気になっちゃって」
「花屋を出た二人の後を着けた。それで、着いたのが此処」
「結構名のある旧家のお屋敷だそうです。近所の方の話だと、太宰さん最近よく此処に出入りしてるみたいで…」
―――ゴンゴンゴンゴンゴン!
そして案の定、敦君のこのセリフで耐えきれなくなった私は、背後の壁に頭を連打する事で脳内プレイバックを強制終了させた。帰宅してからと云うもの、私はこうして全く生産性の無い奇行を繰り返している。この儘では壁に風穴を穿ってしまうのも時間の問題だ。
「大丈夫…大丈夫……。これきっとアレだ。前にあったダイエット騒動と同じ類いのアレだ。“実は全部勘違いでしたチャンチャン”で終わるアンジャッシュ系コメディパートなんだ。そうに決まってる……っ」
まぁ確かに?我が最愛の恋人殿基太宰君は、好きなものの欄にはっきり“美女”と明記される程の、自他共に認める生粋の女好きだよ?現に十六其処らで火に焚べられる宝石に対する感想が「女性に贈れば喜ばれるのに」だったり、爆弾付きの脅迫文送られても「心当たりが何人かいたけど」とか平気で宣ったり、挙句同僚に好きな女性のタイプを聞かれて「女性は皆好きだよ」なんて云い切るThe・プレイボーイ。それが太宰治と云う男だ。
だがしかし!だとしてもだ!
八つ時にうずまきさんで公言した通り、今の太宰の一番は私だ。うん。この際はっきりと声高に心の中で宣言させてもらうが、太宰に一番愛されてるのは私だからな!よってあの美人さんと太宰の間には何も無い!家に出入りしてるってのもアレだ!きっとこれから始まる何か遠大な計画に必要なプロセスに違いない。あの美人さんの家に出入りする事が、今後ヨコハマを狙う巨悪を打ち破る為に必要なのだ。私の凡庸な頭じゃ理解出来ないだけで、何か事情があるに決まってる。イヤホントマジで別に現実逃避じゃねぇから!コレ
―――カンカンカン…
「っ!」
その時、薄い壁の向こうで聞き慣れた鉄階段を踏み鳴らす音が聞こえた。頭が思考するより早く動き出した体が、一直線に玄関へと駆け出す。そしてガチャリとドアノブの中で鍵が回る音がすると同時に、私は我慢出来ず内側から扉を開け放った。
「太宰!」
「ぶぎゃっ!?」
バーンと勢いよく扉が開く音と共に、潰れた蛙の様な悲鳴が上がる。が、それすら耳に入らなかった私は、目の前でよろける痩身思いっきり飛びついた。
「太宰!嗚呼太宰、おかえり…っ…よく帰ってきてくれたな!」
まるで数十年振りの再会を果たしたかの様に、全身全霊の抱擁をもって恋人を出迎えた私は、何時もの様にぐりぐりと彼の胸板に額を擦り付けた。
「―――っ」
鼻腔を満たしていく彼の匂い。アルコールと薬と何処か甘い匂い。其処に混じって、
「イタタ…。もう、どうしたんだい菫?今日のお出迎えは何時になく熱烈だね。私が居なくてそんなに寂しかったのかい?」
「え……。あ、あぁうん。そうなんだ。今日は帰り、バラバラだった…から…」
「菫?」
「急に扉開けちゃってごめんな太宰。ほら、早く晩ご飯にしよ?」
「うん…。………ねぇ菫」
「ん?何?」
「何かあった?」
包帯だらけの大きな手を引いて玄関に上がると、不意に足を止めた太宰が背中越しにそう問うてきた。何時になく真剣なその声に、思わず飲みかけた息を意地で止めて私は振り返る。
「実はな、今日買い出しの時に買おうと思ってた日本酒が売り切れててな…。値段の割に美味しいヤツだったから、地味にショックでさ。あ!でも代わりに他の銘柄の買ってきたんだ!完全にパケ買いだけど、結構美味しそうだったぞ。だから早く飲もうぜ!」
そう笑って太宰を室内に引っ張り込んだ私は、彼をちゃぶ台の前に座らせると外套を脱がせてハンガーに掛ける。その時また先刻と同じ花の匂いがして、思わず手が止まった。明らかに不自然な行動を取ってしまった自分に内心で悪態を突きながらも、せめて会話だけは続けなければと口を開くが、頭の中でぐるぐると回るあの写真が邪魔で巧く言葉が出てこない。
「矢っ張り何かあったね?」
ふと背後から気配がして、それに気付いたとほぼ同時に私の背中を暖かな重さが包む。耳元で囁くその声は、私の挙動不審を完全に見抜いていた。判ってはいたが、矢張り彼相手に隠し事は無理な話だったようだ。
「ねぇ、私にも云えない事?もしかして、またあの魔人がちょっかい出して来たとか?」
「あ、イヤ。それはナイ。てか、そうだったら寧ろ真っ先に君に云ってるって」
思いの外大事に捉えられていた事に思わず苦笑が漏れた。だが、この儘正直に原因を話すのも躊躇われる。『今日花屋で美人なお姉さんとお花買ってたよねー?しかもその美人なお姉さんのお宅に上がってったんだよねー?てかその美人なお姉さんのお宅によく出入りしてるんだってねー?ねー美人なお姉さんとはどう云う関係?』なんて完全に浮気容疑の尋問だ。幾ら太宰でも流石にいい気はしないだろう。寧ろ『酷い!私こんなに菫の事愛してるのに、信じてくれてなかったの⁉︎』と面倒な拗ね方をされるのが目に見えている。却説、どうしたものか…。
そんな事を考えていたら、不意に米神の辺りでチュッと小さなリップ音がした。思わず振り返ると、その儘顔を引き寄せられて今度は思いっきり口にされた。幸い舌を入れられる事は無かったが、代わりにガッツリ顔を固定されて手当たり次第にキスを落とされる。
「ちょ、ま…。何太宰君⁉︎どうしたん⁉︎」
「別に?菫が落ち込んでるみたいだから、励ましてあげてるだけ」
「イヤ、何処の国の励まし方だコレ⁉︎」
「え?嬉しくないの?そっか〜、じゃあもう少し上級者向けに」
「ストップ太宰さん‼︎せめてご飯とお風呂クリアしてから私にして…っ‼︎」
スルリと流れる様な手付きで、然も当然の様に服の裾を捲り出す太宰に私は全力で静止を促した。だがその手はあっさり服の裾を離すと、その儘私を腰から抱き寄せて、気づけば私は太宰の腕の中にすっぽりと収まっていた。
「安心しなよ。確かに君の事は何でも知りたいと思ってるけど、流石に女性の秘密を片端から暴く様な無粋な真似はしない。だから、君が本気で云いたくないなら、聞かないであげる」
此処には私達しか居ないのに、まるで内緒話をする様に太宰は私の耳元でそう囁いた。その所為でピッタリとくっついた私の米神に少し頬を擦りつける様にして、「ただ」と太宰は続ける。
「私の前では、無理に明るく振る舞おうとするのはやめてほしい。理由が判らなくても、君が抱く感情なら、私はちゃんと受け止めてあげるから」
「っ…」
まるで幼児に云い聞かせる様にそう頭を撫でられて、羞恥心より先に安心感が湧いてくる辺り、近頃の私は本気で重症だ。しかも、そんな自覚がありながらその安心感に抗いもせず、望んでズブズブ沈んでいくのだから始末に負えない。
でも、だからこそ―――
「なぁ…太宰……」
「ん?」
「………私な…、太宰の事、一番好きだ」
「菫…?」
「誰よりも君が好きだ。ホントに、心から君を愛してる。こんなに好きなのは君だけだ。本当だからな」
突然何の脈絡も無い告白をかまされた太宰は、当然ながらキョトンとしていた。でも矢っ張り、太宰が知らない所で知らない美人さんと仲良くしているのはモヤモヤして、さりとて直接聞き出す度胸もない私は、せめてもの悪足掻きに、覚えたての心理学に早くも縋った。
そして、そんな突拍子もない告白の大盤振る舞いに、我が最愛の恋人殿は―――何とも嬉しそうな顔で吹き出した。
「うん。知ってる。私も菫の事だぁい好き。他の誰かと比べようだなんて考えすら起きないくらい、君を一番に愛してる」
「―――っ!」
頭上から降り注ぐその言葉は、見えもしないのに甘くキラキラと輝いている様で。まるで金平糖の雨みたいだと頭の片隅で零しながら、今度は私から手を伸ばして太宰の顔を引き寄せる。唇を重ねた瞬間、嗚呼矢っ張り大丈夫だったと、そう確信した。先刻迄の焦燥感が嘘の様に消え失せる程、私のキスに太宰は優しく応えてくれたから。
「ふふ。今日の菫は本当に熱烈だね。今度は一体何に影響されたのかな?」
「内緒だ。女の秘密は守ってくれるんだろ?」
「はいはい。まぁ、元気になってくれた様で良かったよ」
「おう!流石太宰だな!君に勝るメンタルケアラーは居ないよ」
「ありがとう。でも、これは君だけの特別待遇だからね?それだけ私に大事に思われてるって事、ちゃんと自覚し給えよ?」
「うん!私、こんな素敵な太宰にこんな愛されて、ホント幸せ者だな!」
嗚呼、私は何て愚かだったのだろう。ちょっと考えれば判った事じゃないか。こんなに私の事を大事にしてくれてる太宰が、浮気なんてする訳ない。それなのに、たかが美人さんと微笑み合っていただけで、あんなにも狼狽えるだなんて。全く己のミニマムチキンハートに呆れて物も云えない。しっかりしろよ私。こんな最高の恋人捕まえて浮気を疑うとか失礼にも程があるだろ。裁判やったら即死刑判決の大罪ですよ。寧ろ、あの太宰治が私を好いてくれていると云う奇跡に感謝して、もっと彼を大事するべきだろ私。嗚呼そうか。これが噂の“返報性の原理”と云う奴か。そうと判れば早速行動あるのみだ!
「なぁなぁ太宰!確か明後日非番だったよな?よかったら久々に
「え?でも菫、明後日は出勤日じゃ…」
「そんなん、午前中の内にマッハで仕事片付けて半休捥ぎ取ればいいって。最近はもっぱらお家
「ごめん菫。その日は先約があるから、
****
「「「怪しい」」」
「待ってくれ皆、違うんだ。これは違うんだよ…。お願いだから話を聞いてくれ…」
喫茶処うずまきの中でも、一番奥にあたる色硝子に囲われたテーブル席。其処に居並ぶ見目麗しい淑女御一同様を前に、私は誠心誠意頭を下げて懇願した。
「おいおい、何でアンタが云い訳してんのさ。アンタは浮気された側だろ?」
「されてねぇもん‼︎太宰の一番は私だもん‼︎太宰だってそう云ってたもん‼︎」
「でも、
「うぐっ‼︎き…鏡花ちゃん…。太宰お兄さんにだってプライベートはあるんだよ。今回は偶々都合が悪かっただけさ。現に、別日の
「でも帰ってきた時、太宰さんからお花の匂いがしたのよね?」
「イ゛、イヤ〜ほら。あの日は太宰君がお花屋さんで目撃された日だったし?ならフローラルな香りの一つや二つしたって不思議じゃないさ綺羅子ちゃん」
「それに最近の太宰さん、明らかにスマホを見る頻度が増えてますわ。矢張り例の女性と連絡を取っているんじゃ…」
「ナオミちゃん!太宰さんは顔が広いんだ。きっと異能特務課辺りからまた極秘案件を依頼されているだよ。でなきゃ、古巣の元相棒に嫌がらせしてるんだ!全く困った男だよなあはははは‼︎」
「取り敢えず、奴さんの財布事情だけは注意しときなよ?今朝国木田が、“覚えの無い金融機関から督促状が来た”って怒り狂ってたからねェ」
「あ、それは大丈夫だよ晶子ちゃん。太宰の金欠と国木田君たかりは通常運転だからな」
嗚呼、矢張りこうなってしまったか…。予想通りの四面楚歌状態に頭を抱えたくなった。まぁ実際彼女達に疑いの目を向けられているのは、ここに居ない我が最愛の恋人殿な訳だが…。
「このまま話し合っていても平行線ですわね。兎に角、今は論より証拠が必要ですわ」
「問題は、“調査対象が太宰さん”って所よね。幾ら私達でも、下手に動けばすぐバレてしまうし…」
「乱歩さんに推理して貰ったら?」
「多分“興味ない”って断られるのが落ちだよ。それなら寧ろ、花袋の奴に通信機器諸々ハッキングさせた方が……」
「浮気調査に世界最高の推理力と軍の電脳部隊相当の情報処理能力投入しようとしないでお願い‼︎」
「ですが、この儘じゃ菫さんもスッキリしませんでしょう?」
「いやぁ、私は大丈夫だからさ。ね?何度も云うように太宰が浮気なんてする筈ないし…」
「それ、彼奴の知り合いの前で云ってみなよ。十中八九精神病院に放り込まれるだろうからさ」
「若しくは精神操作の異能を疑われると思う」
「“恋は盲目”って云うし、一回落ち着いて客観的になりましょう菫ちゃん」
「あー…まぁ、確かに自分が太宰に対して多少甘いのは自覚してるが…。でも皆だって、相手が太宰だからって事態を悪い方に考え過ぎてやしないか?一度太宰への先入観を捨てて、一般的な普通の男性の行動として考えてみようよ!な?」
「普通の男は日常的に自殺未遂しないよ」
「仕事を放棄して昼間から飲み歩いたりもしないわね」
「依頼に来た初対面の女性を口説いたりもしませんわ」
「それ以前に、史上最年少でマフィアの幹部になった人を一般的に考えるのは無理」
「〜〜〜っ!な、なら!
「あの人はあんな事、絶対しない」
「私が居る限り、兄様に他の女性の事を考える余裕なんて与えませんわ」
「乱歩さんと賢治君は完全に食欲優先だし」
「国木田と社長に至っては、女と仲良く花屋で笑い合ってる絵面から想像出来んしねェ」
「アー、ウン。ソダネー」
ガッデム…ッ!なんてこった。どの角度から云い繕ってもマイナスイメージが全然払拭出来ないぞ太宰!何故だ。確かに皆が云う事は漏れなく事実だし、何ならもっと酷いエピソードなんて星の数程あるけれど。それでも太宰にだって、良い所は沢山あるんだぞ。ただちょっと日頃の行いが災いしてるだけで、本当は心優しく…は無いかもしれないが、少なくとも私にはメッチャ優しい自慢の恋人なんですお願いだから信じて下さい。
改めて自分の恋人への信用の無さを思い知らされた私は、手元の杯を掻き回しながら必死に説得材料を探した。そんな私を見て、晶子ちゃんが困った様に溜息を吐く。
「なぁ菫。
「晶子ちゃん…」
「
俯き加減に話していた晶子ちゃんが、ふと顔を上げた。何時も凛としてはっきりとものを云う彼女にしては珍しく、何処か云い辛そうに眉根を寄せて、晶子ちゃんはゆっくりと口を開いた。
「もし…。もしだよ菫。
―――アンタそれを、本当に許せるかい?」
****
黄昏に染まった海は静かに潮騒を奏でていた。其処に頭上を通過していく海鳥の声が重なり、更に遠くから疎な人の声がする。まさしく港町における理想的な日常音。その完成されたハーモニーを、陰鬱な溜息が台無しにした。
「はぁ〜〜〜……」
ベンチに腰掛け、夕陽の沈みゆく雄大な海を眺めて大分経つ。が、残念な事に、心洗われる筈のその景色は、私の脳味噌に届く事無く眼球の中で蟠っていた。まぁそれも当然だろう。何せ今私の脳味噌は、現在進行形で送られてくる視覚情報さえ受け付けられない程の大問題を審議しているのだから。
「もし…。もしだよ菫。
―――アンタそれを、本当に許せるかい?」
女傑の代名詞と云っても過言じゃない晶子ちゃんが、何ともらしくない顔で投げかけて来たその問い。
対する私の答えは勿論―――“Yes”だった。
だって考えてもみてほしい。再三述べた通り、太宰は根っからの女好きなのだ。それは彼を知る者なら周知の事実で、そんな太宰がたった一人だけを選んで恋人の席に座らせている事自体、本来なら驚天動地の大事件だったのだ。況して、彼は私と付き合い出してからと云うもの、女遊びは疎かナンパすらしなくなっていた。
太宰と付き合うなら、それくらいの覚悟はしとけって話だ。
万象を見通すその超越した頭脳が故に、独自の価値観を持ち、自由奔放で、掴み所のない浮世離れした孤高の桀人。それが太宰治と云う男だ。一般常識だとか普通の倫理観だとか、そんなものに準じられるくらいなら最初から誰も苦労していない。と云うか、寧ろ今までが順調過ぎたくらいだ。普通に…と云うには些か度が過ぎていたエピソードも多分にあるが、それでも。あの太宰が、他に目もくれずこんなコミュ障陰キャ女を猫可愛がりしてくれていた事自体、本当に奇跡だったのだ。―――そして、その奇跡はきっとこれからも続くのだろう。
現実逃避とか自己暗示とかそう云うんじゃなく、これは今ここに存在する確かな事実だ。この世界に迷い込んでからの四年、誰よりも長く傍に居てくれた彼が積み重ねてきた全てが、それを証明している。だから晶子ちゃんの云う通り、仮に太宰が他の女性に靡いたとして、それは所詮“お遊び”止まりだろう。
ならば問題ない。
彼がこれからも私を一番に愛してくれるなら。
彼がこれからも私の許に帰って来てくれるなら。
彼がこれからも私に、“死ぬまで傍に居て欲しい”と願ってくれるなら。
それ以上、望むものなんてない。
それ以上を望むなんて、流石に強欲が過ぎる。
どんなに深く想い合っていたとしても、相手の心まで束縛する権利など無い。心の自由を取り上げて支配した所で、得られるのは愛じゃない。それはただの洗脳だ。何処ぞの道化師じゃないが、そんな事するくらいならチェーンソーで身体を真っ二つにされた方がましだ。だから、この“邪推”が真実だったとしても、私はそれを受け入れて許すべきなのだ。彼が変わらず私を一番に想い続けてくれるなら、私が彼を咎める理由なんて何処にもない。だから、もし太宰が浮気をしていたとしても、
私はそれを―――
「許せる。…………くらい、度量の広い女でいた心算だったんだけどなぁ……」
許せると思っていた。何せクロスカウンター気味に互いの意見を擦り合わせたあの夜ですら、「女遊びは構わんが」なんて大口を叩いていたくらいだ。それが、いざ現実味を帯びて来た途端この様である。その気になれば、真実を突き止める方法なんていくらでもあると云うのに。判り切った解決方法を前に二の足を踏んで、足りない頭であーでもないこーでもないと仮説の堂々巡りを繰り返している。嗚呼、何だこの状況は。どうしてこうなった。何時から私はこんなにも他人に執着するようになってしまったんだ。自分で云うのも何だが、他人との線引きは出来ていた方だと思っていたのに。と云うか、出来過ぎて仲間内から何度か苦情を賜る程だった筈なのに―――
「あーもう…。だから云わんこっちゃない…」
出来ていた筈の線引きが揺らぎ始めた原因。
無論それは、初めての恋人にどっぷり溺れてしまった私の脆弱なメンタルだ。
だが正直云に云うと、
―――その初めての恋人にも少なからず原因はあったと思う。
責任転嫁承知で厚顔無恥な事を云うが、あんなド豪いイケメンに、持ち前の美貌と美声を完全に理解したパーフェクトコニュニケーションで蝶より花より過保護に甘やかされた挙句、年甲斐の無い我儘すら嬉しそうに全肯定されたら、厭でも自己肯定感を抉じ上げられてしまうだろう。あんな用法要領ガン無視で情け容赦なく愛でられたら、幾ら彼氏居ない歴=年齢を誇る拗らせ喪女でも、身の程忘れて調子付いてしまうだろう。少なくとも、あのドロッドロの蜂蜜漬けの様な太宰式英才教育の悪影響が今、太宰への過度な独占欲となって私の心の余裕を食い潰しているのは間違いない。よって原因の一端は太宰にもあると思う。と云うか絶対ある。
てか冷静に考えたらヤバくないかあのイケメン?だってあれだろ?多分今迄もこうやって付き合った女の子の自己肯定感散々爆上げさせといて、ある日フラっと居なくなってその儘バイバイしてたんだろ?うん。そりゃ相手の女の子もメンヘラすっ飛ばしてストーカーにワープ進化するわ。爆弾盛り付けた皿に脅迫文添えてプレゼントしたくもなるわ。今更ながらマジで身から出た錆だったんだなアレ。
「はぁ…。その内私も、太宰に爆弾送り付けるようなメンヘラに進化したらどうしよ……」
「おや、それは楽しみだ。苦しまず即死出来るよう、火薬は多めで頼むよ!」
「っっっ―――!!?」
背後から掛けられたその美声に、内臓が肋を突き破って飛び出たかと思った。転げ落ちる様にベンチから離れ振り返ると、其処には渦中の悩みの種がベンチの背もたれに頬杖を着いてニコニコと微笑んでいた。
「やぁ菫。君がこんな所で黄昏ているなんて、珍しい事もあるものだねぇ」
「あ…、あぁ。ちょっと、考え事を―――」
その先に言葉は続かなかった。
動揺から回復した視覚が、彼の手にある
「太宰…、その花……」
太宰のもう片方の手には花束が抱えられていた。瑞々しい色とりどりの花が小洒落た包装を纏って咲き誇っている。ドクリと身体の中で何かが脈打って、脳内にあの写真の像を結ぶ。見知らぬ美女と微笑み合っていた時と同じ様に微笑んで、太宰は腕の中の花束に目をやった。
「あぁ、綺麗だろう?矢っ張り、女性への贈り物と云えば美しい花が定番だからね」
「贈り…物……」
“贈り物”。大好きな彼の声が紡いだその言葉に呼吸が浅くなる。腹の底がグルグルして、誰かに内臓を掻き回されてるんじゃないかと思った。そんな私に太宰は胸を張って得意気に笑った。
「そう!この私が厳選に厳選を重ねて選び抜いた逸品だ。色合いや形のバランスもさることながら、香りの相性もバッチリ考えて、―――⁉︎」
太宰の声が止まった。止めたのは私だ。ベンチ越しに身を乗り出し、包帯の巻かれた首元に両の腕を巻き付けて縋った。矢張り彼の匂いと一緒に花の匂いがする。太宰が選んだと云う花の匂い。それは確かにいい匂いだったけれど。でも、彼の匂いに混ざって香ってくるその匂いが、どうしようもなく―――
「厭だ」
「菫?」
「厭だ…。厭だ、厭だ太宰…っ。もう行かないでくれ。お願いだ…」
腕を回した首元から更に手を伸ばして、爪を立てるようにして外套の背中を掴んだ。ドクドクと脈打つ首筋に顔を埋めて、こびり着いた花の匂いを塗り潰す様に額を擦り付ける。
「私、もっと頑張るから…っ。太宰の事も、もっと大事にするから…。だから、あのお姉さんのとこ…もう、行かないで……」
頭の片隅に追いやられた理性が“落ち着け”と何度命じても、無様に強張った口は云う事を聞かずに尚も言葉を吐き続ける。嫉妬と、独占欲と、承認欲求を綯交ぜにしたドス黒いドロドロとした依存心を言葉に変えて、聞くに耐えない身勝手な訴えを吐き散らす。
「厭だよ太宰…、他の誰かなんて見ちゃ厭だ…。遊びでも…無理だ……。そんなの我慢出来ない…。太宰は…、太宰は私のだ……。私以外の誰かになんて、絶対やるもんか……っ」
それは男に縋る女と云うには余りに稚拙で、寧ろ自分のものを取られまいと駄々を捏ねる子供の様だった。
嗚呼全く。何だこのみっともない有様は。引き留めるにしたってもう少しマシなやり方なんて幾らでもあったろうに。そう自分で自分に呆れながらも、今の私にはこれからどうするか考える事は疎か、この惨事を繕う余裕すら無かった。
せめてこれ以上の醜態は晒すまいと、今にも決壊しそうになる目元を白い包帯に押し付けるのに必死だったから。
「……はぁ〜〜〜…」
「っ‼︎」
その時、顔の横で深い深い溜息が聞こえた。
息が止まる。鼓動は煩い程聞こえるのに、身体中から血の気が引いていく様に感じた。
ひと時の平和の中で薄らいでいた感覚。
生命活動すら投げ出してしまいたくなる様な“恐怖”に震える手は、けれど矢張り、その砂色の背中を手離せずに縋り付いていた。
そんな往生際の悪い私に、包帯だらけの大きな手が触れる。
「嗚呼…、全く。君は本当困った人だね……」
あまり温度を感じない綺麗な手は、そっと自分の首元から私を引き離すと、其の儘頬を撫でて上を向かせた。
其処にあったのは、私の最も愛しい貌。
漸くまともに交わった鳶色は薄く細められ
そして、私を見下ろした彼は―――
「え……?」
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武装探偵社御用達の喫茶処・うずまきのテーブル席に、ぎこちない笑顔で座っていた敦君が僅かに首を傾げた。
「
「そう!あの屋敷に住むお婆ちゃんが昔生け花教室を開いていたと聞いてね。個人的に教えてもらっていたのだよ」
「はぁ…。でも、何でまた生け花なんて…」
「厭だなぁ敦君。そんなの、“菫の為”に決まってるじゃないか」
そう云いつつ太宰は、“よくぞ聞いてくれました”と云わんばかりのテンションで意気揚々と語り出す。
「君も知っての通り、私の可愛い菫は可愛さだけでなく強さも兼ね備えた素晴らしい女性だ。国木田君や社長に武術の指南を受ける様になった彼女は、驚くべき早さで成長を遂げ、今や武装探偵社の“武装担当”として申し分ない戦闘力を有している。それはいい。それはいいんだ。荒事が日常茶飯事な探偵社に籍を置く以上、それは菫自身の身を守る為に必要だと私も理解している。
ただ。ただだよ?最近の菫はちょーっとワイルドが過ぎるんじゃないかなぁって。イヤ、菫が菫である限りどんな彼女でも私は愛する自信があるけれど。それはそれとしてそろそろ軌道修正しないと、取り返しの付かない領域に到達してしまうんじゃないかなぁ、と。
そんな危機感に駆られて悩み悩んだ結果、“武術の指南を受けた事で菫が勇ましくなってしまったのなら、逆に女性らしい習い事をすれば、彼女の失われたお淑やかな部分を取り戻せるんじゃないか”と云う結論に至った訳さ」
「それで生け花を?」
「うん!矢張り女性には花がよく似合うからね。ただ、人付き合いが苦手な彼女に、いきなり生け花教室へ通わせるのも酷だから。教室には私が通って一通り作法を覚えてから、菫に指南してあげようかと思って」
「それじゃあ、あの日太宰さんが花屋に居たのは…」
「単純に素材の買い出し。ただ、あの時は習い始めの頃だったから、普段買い出し担当をしている屋敷の使用人さんに同伴して貰っていたんだ。あ、因みに彼女、既婚者で二児の母ね。私との接点だって、屋敷を出入りする時に軽く挨拶する程度で、連絡先すら知らないよ。
それがまさか、こんなあらぬ誤解を生み出していようとは。流石の私も思ってもみなかったなぁ〜」
「うっ…。あ、あの…。すみませんでした。見知らぬ女性と一緒に居たってだけで、変に勘繰ってしまって……」
「いやいや、いいのだよ〜。間違いは誰にでもある事さ。それに自覚が無かったとは云え、疑われる様な行動を取っていた私にも責任はある。
イヤ寧ろこれは、愛する恋人に不安な想いをさせてしまう様な希薄な愛情表現しかしてこなかった私の落ち度だよ。私が彼女の事をどれ程愛しているか、ちゃんと伝わっていれば浮気を疑われる事も無かった筈だ。“判ってくれているだろう”なんて驕っていた自分が情けない。如何に相思相愛とは云え、矢張り他人同士である以上は伝える努力を惜しんではいけなかったのだよ。
―――ねぇ、そうだろう菫?」
そして、一人満足げに演説を締め括った太宰は、再び私へと視線を移す。ここ迄の会話中どころか、うずまきに入店以降ずっと
「嗚呼、私の愛しい人よ。君が自分の気持ちに素直になれない恥ずかしがり屋さんだと知っていながら、私はなんて薄情な男だったのだろう。君の照れ隠しを間に受けて、十分な愛情を注いであげられていなかった私の至らなさをどうか許しておくれ」
何時もの数倍甘ったるい声でそう囁きながら、太宰は私の顔を覗き込んで頭を撫でる。だが髪を梳くその指先が、流れる様に耳や首筋をスルリと掠めていく所為で下手に口を開けない。だが必死に奥歯を噛み締めて閉口している私に、太宰は尚も悲劇の主人公さながらの憂いに満ちた口調で一人語り続ける。
「可哀想に。こんなにも震えて。怖い想いをさせてごめんよ。でも昨日説明した通り、私から花の匂いがする様になったのは、生花に触れる機会が増えたからだし。スマホを見る頻度が増えたのは、生け花教室の予定を擦り合わせて居たからだし。
今度はテーブルの下で、もう片方の手が膝から這い登る様にして太腿に置かれた。更に頭を撫でていた方の手が実に自然な流れで頬に添えられ、その反対側には至近距離の太宰の顔。流石に行きつけの喫茶処で、しかも未成年の後輩君の目の前でこれは拙いと、私は息を整えながら慎重に言葉を繋げた。
「だ…太宰…さん…。その、出来ればもう少し…離れて…っひ⁉︎」
その瞬間、耳元に息を吹きかけられ、私は慌てて口を抑える。そんな私を更に抱き寄せると、太宰は見るからに困った表情を浮かべて、私の米神に額を擦り寄せた。
「もう、またそうやってすぐ照れ隠しする。本当はもっとくっついていたい癖に。菫は本当に恥ずかしがり屋さんなんだから。でも安心して、私はちゃんと判ってるから大丈夫だよ」
「あの…太宰…。こう云うのは…せめて、人の居ない所で……」
「駄ー目♡寧ろ、私がどれ程君を想っているか、今一度周囲に知って貰った方がいい。善意の忠告も、場合によっては不安を煽る風説になりうる。まぁ菫は怖がりだから仕方ないとは思うけど、認識を改めて貰えるならそれに越した事はないからね」
「「「…………」」」
完全に態と聞こえよがしに話す太宰を背に、カウンター席の探偵社ガールズが各々気拙そうに視線を逸らしたのが気配で判った。何なら向かいに座る敦君も、汗びっしょりで目がバタフライしている。如何に日頃の行いが災いしたとは云え、流石に皆少なからず後ろめたさは感じているらしい。そしてその後ろめさから、誰も身動きが取れないのを良い事に、やりたい放題の太宰は寧ろ見せつける様に過剰なスキンシップをかましてくる。
「ふふふ、可愛い。君は本当に可愛いね菫。どうやら私の悩みは取り越し苦労だった様だ。少なくとも、今こうして私の腕に抱かれて居る君は、繊細で恥ずかしがり屋な愛くるしい乙女そのものだもの。変に小細工を弄さずとも、最初からこうしてあげていれば良かったんだね?」
「太宰待って…っ、ホント待って…。この際生け花でもお茶でも日本舞踊でも何でもやるから、一回落ち着いて…」
「おや、落ち着くべきなのは寧ろ君の方なんじゃないかい?ほら大丈夫。この通り私が愛しているのは君だけだ。他の誰かに奪われるんじゃないかと、不安に思う必要なんて何処にもないのだよ。ね?だから君も安心して私に身を委ねて。この身も心も、君の全ては私のもの。けれど同時に、私もまた、何もかも全て君のものなんだろう?」
「イヤ…でも、これ以上はちょっと…」
「どうして?君が私に云ったのだよ?“行かないで”と。それにこうしていれば、私の目には君しか映らない。君の望み通り、他の女性の許へ行く事も、他の女性を見る事も出来ない。万事解決じゃないか」
「あ、あれは……そう云う心算で、云ったんじゃ…っ」
「ならどう云う心算だったんだい?私をあんなにも熱い抱擁で引き留めて、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で、“太宰が他の女性と遊ぶのは我慢出来ない。だからもう行かないで”って懇願してきたこの可愛らしいお口は、一体私にどうして欲しかったのかなぁ?」
「っ〜〜〜‼︎」
私の顔を固定しつつ、指先で耳朶や目元を撫でていた手が、顎のラインを通って口元へと滑り、今度は私の唇をふにふにと押す。挙句記憶に新しい黒歴史を公衆の面前で暴露され、気分はすっかり公開処刑だ。そして、当の処刑人は昨日と同じ様に
―――先日の数十倍嬉しそうなニヤケ顔で、吹き出すのを我慢する様にプルプルと震えていた。
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「あ、社長!おかえりなさーい!」
「む?乱歩、何をしている?」
「今日って、午後から特捜本部の偉い人が来るんでしょう?彼処の連中、勝手に僕等を商売敵扱いして敵視してくるから、面倒な事云わせないように案山子を立ててたんだ!」
「案山子?」
年季の入った鋭い双眸が、疑問符を浮かべて僅かに見開かれる。其処に映ったのは、長年苦楽を共にした名探偵の得意げな笑顔と、色鮮やかに咲き誇る花々。一見すると微笑ましいその光景。だがその微笑ましい光景は、ある一点の“異物”によって、世にもチグハグな奇怪画へと昇華される。
その花々が生けられている
―――人の頭の様な形にカットされた緑の吸水スポンジによって。
「…………呪術の依代か何かか?」
「さぁ?菫の机の上にあったのを借りて来ただけだし。出所とか興味ないからどうでもいいよ」
天上天下唯我独尊を体現する自由奔放な名探偵のその言葉に、組織の長はそれ以上の追求は無意味だと悟り、件の案山子に再度目を落とす。
瑞々しい花々からは、その美しさに見合う芳しい香りがする。が、その美しさが完璧であればある程、その下に鎮座する給水スポンジの異物感が極まって見える。この手の芸術にはあまり明るくはないが、近頃はこう云った造形が前衛的と評されているのだろうか。否、それにしては何か並々ならぬ念の様なものを感じる。特に左側の頭部から目元にかけて、花を幾つも突き刺されたこの給水スポンジからは、怨念と云うか恨み辛みと云うか、孰れにせよ、動乱の変革期を戦った剣客を一瞬でも戸惑わせる様な何かが、甘い花の香りに混ざってそこはかとなく漂っている様な気がした。
「まぁ兎に角!こんな訳の判らないキモコワイ置物があったら、揚げ足取る気満々のお偉いさんも、気になってそれどころじゃなくなるでしょう?」
年嵩の武人が長々と探っていたそれを、たった一言で片付けて見せた名探偵は、期待に満ちた顔で彼の顔を覗き込む。自分が何を期待されているか、今度はすんなり理解した武人は、着物の袖に納めていた手を抜いて、昔より幾分か高くなったその頭にポンと乗せた。
「あぁ。確かに、鬼瓦としては申し分ないな」
そうして武人と名探偵は笑い合う。二人が佇む社長室には麗らかな陽光が差し込み、聞こえるものと云えば窓の外で囀る小鳥の歌声のみ。故に、彼等は階下の様子など知る由もない。
滑り落ちた花の中で、蜜に溺れる虫の様に息も絶え絶えとなった持ち主の命乞いも。
その花を摘み取って、逃げ出そうとする虫を蜜の中へ押し戻しながら、これでもかと愉しげにほくそ笑む作り手の甘言も。
花より団子と茶の用意を始めた二人には、聞こえる事など無かったのである。