hello solitary hand・番外編
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―――それは、窓を叩いた一滴の雨粒によって幕を開ける。
「うわぁ…っ、とうとう降り出してきちゃったね…」
「あら残念。もう少しで終わる所でしたのに…」
「まぁ降ってしまったものは仕方ないさ。帰りの事は残りの書類片付けてから考えよう」
そう苦笑すると、大粒の雨が打ち付ける窓に眼を向けてい居た谷崎兄妹は、同じ様に苦笑を返して頷いてくれた。
現在時刻は二十二時一歩手前。本来であれば夕食を終え自宅でのんびり過ごしている頃合いだが、今日は突発的な緊急案件が何かと重なった上、よりによって事務員さん達の有給休暇にドン被りしてしまった。結果として案件そのものは何とか丸く収められたが、その後始末たる提出書類の作成に人手が足りず、こうして私達は深夜まで社のパソコンと睨めっこをしていると云う訳である。
「ホントすまんね二人共…。こんな遅くまで未成年を扱き使うなんて、いい大人が面目ない…」
「頭を上げて下さい菫さん。抑々これは事務方の仕事。なら、私が請け負うのは当然ですわ。ねぇ兄様?」
「うん。僕もナオミを手伝いたくて自主的に残ってるだけですから、どうか気にしないで下さい。と云うか、菫さんこそこンな時間迄付き合わせてしまってスミマセン」
「とんでもない。こっちも太宰が帰って来る迄やる事が無かったから丁度良かったよ」
「そう云えば太宰さんと国木田さん、大丈夫かな?外、大分荒れてきたけど…」
「確か依頼を終えて帰還する旨の連絡はあたんですよね菫さん?」
「うん。一応連絡は受けたけど、この天気だからねぇ…。多分氾濫する川とかにテンション上げた太宰が、何時もの調子で飛び込んじゃってるだろうから。帰って来るのはもうちょい後だと思うよ」
「あー、ありそうですね」
「流石菫さん。太宰さんの事なら何でもお見通しですわね」
「はは。“何でも”は判らんさ、私が判るのは私が判る範囲の事だけだよ」
そんな某巨乳委員長の様な台詞を合間に交えつつ雑談に花を咲かせている内に、長らく私達を仕事机に縛り付けていた戒め、基明日一番で提出しなければならない報告書その他諸々が遂に完成した。そして長時間同じ課題と向き合い、共に打倒した私達は凝り固まった体を各々に伸ばしながら互いを称え合う。
「はー、二人共お疲れ様。ホント助かったよ」
「いえいえこちらこそ。それじゃあ仕事も片付いた事だし帰ろっかナオミ」
「そうですわね。…と、云いたい所なんですけれど…」
そう言葉を濁すナオミちゃんの視線の先には、最早水滴通り越して滝の様に窓を流れ落ちる雨。そしてその向こうの暗闇には木の葉や新聞紙や、果てには何処かの紳士が取り込み忘れたのだろうトランクスが飛び交う始末だ。恐らく傘を差した所でメリーポピンズになる間もなくあれらの仲間入りを果たす事になるだろう。谷崎兄妹もそれは察した様で、私達は漸く解放された仕事机に誰からともなく沈んだ。
「嵐が治まる迄、待つしかありませんわね…」
「だね。僕一人なら未だしも、ナオミを危ない目に遭わせる訳にはいかないし」
「兄様…。ああん、そんなにナオミの事を想って下さるなんて!兄様大好き!」
「ちょ、待ってナオミ!苦しい!苦しいって‼」
「となると…暫くは此処で籠城か…。よし、んじゃ遅く迄頑張ってくれたお礼に、この菫パイセンがイッチョお夜食でも作って差し上げよう!」
「え、本当ですか⁉」
「うん。てか二人共、夕ご飯自体まだだったろ?実は賢治君から貰ったお裾分けが給湯室の冷蔵庫にあるんだ。“太宰さんとお二人でどうぞ”って云われたけど、折角だし皆で頂いちゃおうぜ!」
「わぁ、賢治君がくれた食材なら味は間違いないですね。僕もお手伝いします」
「いいっていいって。“二人へのお礼”だって云ったろ?谷崎君は気にせずナオミちゃんとゆっくりしててくれ」
「此処は菫さんのお言葉に甘えさせて頂きましょう兄様?それに、兄様だって今日は外回りの後すぐに書類仕事でお疲れでしょう?お夜食が出来る迄、ナオミが肩を揉んで差し上げますわ。勿論、その他の所も♡」
「え⁉否…気持ちは嬉しいけど、肩だけで大丈夫だよナオミ。ひっ⁉」
「あら兄様ったら、こんなに硬くなってしまわれて…。嗚呼、此処も凄い…」
「ひぃぃいい‼ナオミ!待って待って、アーーー‼」
聞き慣れた後輩の叫びを背に私は早速給湯室へと向かった。大自然の申し子賢治君から頂いたお裾分けラインナップを改めて確認しながら、私は脳内で献立を組み立てる。とは云え、二人に夜食の提案をした時から大体の方向性は決まって居た。複数人で食べる事を前提に、且つ嵐の中外回りで体が冷え切って居るだろう長身コンビの途中参加を考慮した場合、一番妥当なのは“鍋物”だろう。幸い必要な調理器具や人数分の食器は給湯室に備えてあるし、貰った野菜も大根や人参、白菜や茸類等、鍋にお誂え向きのものばかりだ。後は何かメインになる動物性蛋白質があれば云う事無しなのだが…。
(あ、そう云えば…)
私はある事を思い出し冷凍室の扉を開けた。其処には白い包みが一つ。包みを解くと中から凍り付いた赤い塊りが現れた。頂いたお裾分けの中でも賢治君が特に推してくれた赤身肉だ。
(そう云えばコレ、何の肉なんだっけ…)
何か賢治君が『村に宛てた手紙に皆さんの事を書いたら、“是非”って送ってくれたんです』とか云ってた気がするが、如何せん賢治君の眩い笑顔に脳を焼かれていた所為で細かい所が思い出せない。多分ジビエ系の肉だと思うが、まぁ賢治君がくれた食材なら何の問題も無いだろう。幸い血抜きや臭み取りなんかの下処理は既にされてるみたいだし、鍋のメインはこれでいいかな。
そして献立の内容を完全に定めた私は、こぢんまりとした給湯室の中一人調理に取り掛かる。後にこの選択を
―――心底後悔するとは夢にも思わずに。
****
「ぶえっくしゅん‼︎嗚呼…寒い…。凍えて死んでしまいそうだよ…」
「濁流の中洗濯物の様に半刻近く回り続けて生きとる奴が何を云っておるのだ。お前がその程度で死ぬタマなら俺も苦労せん」
「もう国木田君は冷たいなぁ…。はぁ、早く探偵社に戻って菫の温もりに包み込まれたい…。そしてその儘息絶えたい…」
「喧しい!大体こうなったのは、お前が氾濫した川に嬉々として飛び込みおった所為だろうが‼︎お陰で俺迄この有様だ、クソっ…」
吹き荒れる強風に負けじと叫ぶ国木田君の怒号を聞き流しながら、私は寒さにガチガチ歯を鳴らしてこの世の終わりの様な嵐の中を進む。最初こそこの悪天候を謳歌してはいたが、ここまで寒さが身に染みて来ると流石にそんな歓喜も消え失せてしまった。今は一刻も早く探偵社に戻り、私の帰りを待つ愛しい恋人の胸に飛び込みたい。きっと菫の事だから、私達が寒さに震えて帰還する事を見越して何か温かいものを用意してくれている筈だ。そんな彼女の姿を想像すると、血管の一本迄冷え切っていた筈の心臓がじわりと熱を帯びた様に感じた。
「おい…何をニヤついておるのだ…。寒さでとうとう頭がおかしく…、否それは元からか」
「ちょっと、随分と酷い事を云うねぇ国木ぃ〜田君」
「事実だろうが」
「まぁでも仕方ないか。愛する女性が健気に自分の帰りを待っていてくれる喜びなんて、寂しい独り身の国木ぃ〜田君には関係の無い事だもんねぇ〜」
「また濁流に放り込んでやろうか貴様―――っ⁉︎」
その時、暗闇の中ちらほらと灯っていた街の明かりが一斉に消え失せた。突然の事に一瞬言葉を失った国木田君だったが、改めて周囲を確認し状況を理解したらしい。
「停電か?」
「みたいだね。この嵐で電線が千切れたのか、発電所そのものでトラブルがあったのか、或いは…」
「原因探しはいい。それより早く社へ戻るぞ。今日俺達が解決した依頼の関係書類は、明日の朝一に提出するよう指示されている。もしこの停電でデータが飛んでいたらことだからな」
そう云って国木田君は冠水しかけた路上を駆け出した。確か提出書類の制作には、菫と谷崎君、ナオミちゃんの三人であたっていた筈。あのメンバーならさして心配する必要も無いとは思うが、突然の停電で二次災害が起こっている可能性もある。孰れにしろ、国木田君の云う通り早く帰った方が良さそうだ。そう結論づけて、私は一寸先すら朧げになった街を同僚の背中を追って走った。
慣れ親しんだ煉瓦造りの赤茶けた
「無事か谷崎?」
「国木田さん⁉︎」
「太宰さんも居るよー」
「災難だったな。何か被害はないか?」
「ええ、大丈夫です。ねぇナオミ?」
「はい。突然真っ暗になって驚きましたけど、兄様が一緒でしたから」
「今日あった依頼の書類データは?」
「それも大丈夫です。停電が起きたのは完成した後でしたし、バックアップもとってありますから安心して下さい」
「そうか…。ならば良かった…」
「ねぇ、それより菫は?」
「菫さんなら給湯室に…。丁度今から様子を見に行こうと…」
「給湯室?何でまた?」
「私達に夜食でも作っていたんだろう。この嵐の中外に出るのは危ないし、谷崎君やナオミちゃんにも、遅く迄仕事を手伝わせてしまったお礼をしたい。そうして二人を事務所に残し、一人給湯室に籠っていた所にこの停電が起こった…と、そんな所かな?」
「あ…はい、その通りです…。流石太宰さん、当たり過ぎてて寧ろ怖いくらいです…」
「ふふん。当然さ。私は何時だって、菫の事ばかり考えているからね!」
そう胸を張りながらも、私は足早に給湯室へ向かった。と云うのも、谷崎君の話に若干の違和感を感じてたからだ。こう云うアクシデントに見舞われた場合、彼女なら真っ先に仲間の安否を確認しに出てくる筈。だが停電が起こってそれなりの時間が経っているにも関わらず、菫は給湯室に籠った儘。と云う事は、危惧していた通り何かしらの二次災害が発生している可能性が高い。そんな事を考えながら扉を開いた私は、その先に広がっていた光景に不覚にも絶句した。
「…菫…?」
確かに其処には菫が居た。ただし、給湯室の床に
「菫‼︎」
すぐ様彼女に駆け寄り抱き起こす。一見して目立った外傷はないが、彼女の顔は暗がりの中でも判る程に熱を帯び苦しげな呼吸を繰り返している。明らかに只事じゃない。
「おいどうした⁉︎」
「え⁉︎菫さん⁉︎」
「国木田君、菫を医務室に運ぶから手伝って!谷崎君は今すぐ与謝野先生に連絡を!」
突然の事態に彼らも驚いた様だったが、修羅場慣れしているだけあってすぐ様行動に移ってくれた。私は謎の症状に苦しむ菫を抱き上げ、給湯室を後にする。国木田君に先導されながら、私は主人の居ない医務室のベッドに一先ず彼女を下ろした。
「何だこれは…、一体菫に何があったと云うのだ…」
「それは後で調べる。今優先すべきは菫の状態を確認する事だ。と云う事で国木田君、少し席を外してくれ給え」
「お、おい…太宰⁉︎」
「ああ、そうだ。無いとは思うけど、私が良いと云う迄絶対に覗かないように」
その忠告で察したのだろう。顔を真っ赤にして固まった国木田君を医務室から追い出して、私はベッドの周りを囲うカーテンを閉じる。彼女の体を一通り確認した結果、矢張これと云って外傷はなく、多少体温の上昇は見られるものの命に関わる程ではないようだ。少なくとも彼女の生命を脅かす事態ではないと判り安堵の息が漏れる。そんな私の耳に、控えめなノックと心配そうな少女の声が届いた。
「太宰さん。私です。ナオミですわ。菫さんのお加減は如何でしたか?」
「大丈夫、少なくとも命に別状は無いみたいだよ」
「そうですか…。良かった…」
「うん。でも彼女が何故こうなってしまったのか、早急に原因を突き止める必要がある。だからナオミちゃん。悪いけど暫く菫の事みてて貰えるかな?」
「ええ、勿論ですわ」
そうして私はナオミちゃんと入れ違いに医務室を出て、彼女が倒れていた現場である給湯室へと向かう。開け放たれた儘の扉から中を覗き込むと、室内を巡っていた灯りが私の顔を照らし出した。
「…はぁ。その様子だと、菫は問題なかった様だな…」
「ああ。多少熱はあるけど取り敢えずは大丈夫そうだ。こっちは何か判ったかい?」
「サッパリだ。見ての通り争った様な形跡は無い。ウチに恨みを持つ異能力者の襲撃と云う線も考えたが、それなら態々こんな時間を狙う意図が判らん…」
「そうだね…。今日は偶々人が残っていたけれど、本来ならこの時間は社員全員退勤済みで戸締りもされてる。もし狙いが菫個人だったとしても、もっと適した状況は幾らでもあった筈だし、受けた被害も中途半端だ…」
「だが、襲撃ではないとしたら何だ?まさか何処ぞの自殺
「あっはっは!ちょっと何云ってるのさ国木ぃ〜田君。幾ら私と菫が相思相愛以心伝心の仲睦まじい恋人同士だったとしても、そんな事ある訳…」
其処迄云い掛けて、私の目は懐中電灯の灯りに照らされたコンロに留まった。社内で宴会をする際に度々重宝されてきた土鍋が、蓋に空いた小さな穴から僅かに湯気を登らせて其処に鎮座している。国木田君も同じ事を考えたらしく、私達は無言の儘視線を合わせると土鍋の蓋にゆっくりと手を伸ばした。
「与謝野先生と連絡取れました!」
「うおぉおっ⁉︎」
まるで凡ゆる厄災を閉じ込めた呪いの箱の様に異様な気配を醸し出す土鍋。その蓋を開こうとした瞬間、突然飛び込んで来た谷崎君の声に国木田君が盛大に仰け反り悲鳴を上げた。
「ちょ、大丈夫ですか国木田さん⁉︎」
「谷崎!脅かすな阿呆‼︎」
「ス…スミマセン……」
「いやぁ、相変わらず国木田君は怖がりだねぇ。谷崎君グッジョブ!」
「褒めるな‼︎」
「あ、それより与謝野先生と連絡が取れました!状況を説明したら『診察に行ってやるから今すぐ迎えを寄越せ』と」
「ああ、確かに…。この嵐じゃ当然の返答だね」
「よし、ならば俺が車を出そう。谷崎、迎え先は与謝野先生のご自宅でいいのか?」
「あ〜…、それが…」
「何だ?」
「その…。与謝野先生、今日は退勤してすぐ春野さんの家で飲ンでたみたいで……」
「「…………」」
「電話越しで聞いた感じ…、大分出来あがっちゃってるみたいです…」
そう云って目を逸らす谷崎君に、再び私と国木田君の無言が重なる。酒豪揃いの探偵社内でも、与謝野先生の酒癖の悪さは別格だ。理不尽な絡み酒に始まり、ヘベレケ特有の奇想天外なテンションで周囲を翻弄した挙句、その蛮行は日を跨げば当人の記憶に留まる事すら無い。現に先日、私から取り上げた練炭と七輪を惜しみなく使い催された社の焼き魚パーティで、泥酔状態の儘魚を捌こうと彼女が持ち出したメスがこの給湯室の調理器具の中から発見されたと云う話を敦君から聞いている。正直不安しかない、だが―――
「それでも、無条件で菫を治療出来る医者は与謝野先生だけだ。加えて、あの御仁はこう云う特異な症例に対する知見も広い。仮に前後不覚の状態だったとしても、来て貰えるならそれに越した事はないよ」
「はぁ…。仕方ない。取り敢えず俺は春野女史の自宅に向かう。何か進展が在れば連絡しろ」
「判りました。お気をつけて」
「全く。下手をしたら泥酔状態の春野女史迄着いて来かねんぞこれは…。クッ…、考えただけで頭が痛くなる…」
「国木ぃ〜田君、ファイ!!」
「喧しい!人を煽る暇があるならさっさと原因を突き止めろこのワカメ脳‼︎」
そう私に怒鳴って懐中電灯を谷崎君に託した国木田君は、ズカズカと大股で階段を下って行った。大方、私が菫の近くを離れたくない事を察して送迎役を名乗り出てくれたのだろう。そんなお人好しの同僚に暗闇に隠れて笑みを溢した私は、改めてコンロに鎮座する土鍋に向き直った。
「ねぇ谷崎君。この鍋、何だか知ってる?」
「何って…。多分菫さんが作ってた夜食じゃないですか?賢治君から貰ったお裾分けがあるって云ってましたし」
「賢治君から?」
「はい。でも、流石にコレは関係無いでしょう。太宰さんなら兎も角、賢治君がくれた野菜に毒性のあるモノなんて混ざってる訳ありませんし」
「うん。国木田君と云い君と云い何?君達は私が常時毒茸を携帯している様な男だとでも思っているのかい?」
「違うンですか?」
「……一時マイブームで蒐集してた事ならある」
「あるンじゃないですか…」
そうゲンナリと項垂れる谷崎君から私は再び問題の土鍋に目を落とす。これが賢治君からの差し入れで作られたものなら、谷崎君の云う通り害があるとは思えない。だがそれでも、“何か”が引っ掛かる。その正体を暴き出そうと徐々に回転速度を上げる脳が、鼻腔から流れ込んできた臭いに動きを止める。眼前の土鍋から漏れ出した臭いだ。だが、その臭いの正体を確かめようと私が土鍋の蓋を開けるより先に、慌ただしく廊下を駆ける音が飛び込んできた。
「菫さんが目を覚ましましたわ!」
「本当かい⁉︎」
その知らせに医務室へ戻ると、ナオミちゃんの云う通り白いベッドの上で私の愛しい恋人が何もない宙を眺めていた。思わず駆け寄ると菫はこちらへ目を向ける。が、その目は何となく焦点が合っておらず、熱に浮かされた様にボーっとしている。
「その、菫さんずっとこの調子で…。呼び掛けても、反応が鈍いと云うか…」
「……菫。私の事は判るかい?」
「……」
「菫。私が誰だか、判る?」
「…………太…宰」
その返答を聞いて、私より先に後ろの谷崎兄妹の方が安堵の息を吐いた。確かに反応は鈍いが理解出来ていない訳ではなさそうだ。或いは、この原因不明の熱の所為で、思考にラグが生じているのかもしれない。そんな事を考えながら熟れた林檎の様に赤く色づいた頬を撫でると、菫は私の手を捕まえて自分から頬を擦り寄せた。
「……冷たい…。気持ちいい…」
「ふふ。そう。それは良かったね。所で菫、君に何が起こったか教えて欲しいのだけど。倒れる前の事、覚えてる?」
「太宰…。手、もっと……」
「え?ああ、はい」
だが菫は質問には答えず、何故か私の両手を掴んで自分の顔を包み込む様に触れさせた。確かに今の私は濁流での入水と嵐の行軍で骨の髄まで冷え切っている。そんな私の手は、熱に浮かされた彼女にとって文字通り救いの手なのかもしれないが、しかし臼井菫と云う女性を誰よりも知り尽くした私の中で確かな違和感が思考の端に引っ掛かった。
「ねぇ菫、一体どうし…」
「まぁまぁ太宰さん。きっと菫さんも、起きたばかりでフワフワしてらっしゃるんですわ。質問はもう少し落ち着いてからにして差し上げましょう?」
「う〜ん。まぁ確かに、この状態で事情を聞くのは無理そうだね…。仕方ない。それじゃあ菫の意識がハッキリする迄、もう少し給湯室の調査を……ねぇ菫、ちょっと手を離してくれるかな?」
「………」
「もしも〜し、菫お姉さ〜ん?」
「大丈夫ですよ、給湯室の方は僕とナオミで調べておきますから。太宰さんは菫さんと一緒に居てあげて下さい」
「え…でも…」
「菫さんも太宰さんに近くに居て欲しいみたいですし、何か判ったらすぐ知らせますから。ね、ナオミ?」
「ええ。なので太宰さん。菫さんの事お願いしますわね」
「あ、ちょっと…」
私の静止も虚しく、谷崎兄妹はまるで見合い中の我が子を残し離席する両親の様な、実に生温かい笑顔を浮かべて医務室から出ていった。普段なら間違いなく感謝しかない心遣いだが、何故だか胸騒ぎが止まらない。何か物的確証がある訳ではないが、これ迄数多くの怪奇に相対してきた“勘”とでも云うべきものが、私の中で何度も警告を繰り返す。―――“何かがおかしい”。
そしてその“何か”は、突如として現実に形を得る。
指先から皮膚の下を駆け脳髄へと至ったあまりによく知る痺れと、甘く熱を帯びた私の最も愛する声によって。
「……太宰の手…矢っ張り綺麗だな……」
「っ―――⁉︎」
人としての規格を遥かに凌駕する超常の産物。そう自他共に認める脳味噌が、視界から伝達された“その光景”を微塵も理解出来ない儘無様に空回る。その間も指先から伝わる生温い感触がゾクゾクと内側の神経を疼かせ、冷え切った心臓がドクドクと煩く脈を刻んでいく。そんな私を他所に、熱く朧げな瞳で引き寄せた私の手をぺろりと舐め上げた彼女は、まるで菓子を強請る子供の様に淡い桜色の唇に笑みを浮かべた。
「ねぇ…もっと欲しい。もっと頂戴…―――“治”?」
****
「〜〜〜っ‼︎ごめんくださいやっぱちょっとタイム‼︎」
「ぷっ…!ふふ、落ち着きなよ菫。色々おかしい事になってるから」
「だ、だって…。あの…えっと、あの…」
「うん。大丈夫。ちゃんと聞いてあげるから、慌てないで云ってごらん?」
「その…、太宰に触るのが厭だとか、そう云うんじゃ…ないんだ…。寧ろ太宰にはずっと触ってたいけど…、でも、その…理屈では判ってるんだけど…。いざ実践となると頭ん中わーってなっちゃって…」
「嗚呼、よしよし。君が私の事大好きなのは判ってるから。大丈夫。ね?」
「うぅ、ごめんな太宰ぃ…。二十四にもなってこんなんでキョドるとか、ホント情けない…」
「ん〜。でも菫お姉さんの場合、その二十四年の大半がこう云う事と無縁だった訳だし当然と云えば当然だと思うけどねぇ?」
「人生の大半喪女でスンマセン」
「別に責めてる訳じゃないって。寧ろ、そんな無理に背伸びしなくてもいいんじゃない?菫から率先して私を悦ばせようと努力してくれるのは嬉しいけど、無理に頑張らせるのは…否。それはそれで興奮するけど」
「おい」
「でも矢っ張り、私は君をちゃんと可愛がってあげたいからね。君にだけ無理をさせて自分だけ快楽に溺れる様な身勝手な真似は、したくないのだよ」
「…太宰」
「大丈夫だよ菫。喩え君がずっと受け身の儘だったとしても、私は君との交わりに不満を抱いたりしない。だって、君はこんなにも健気で愛らしい人なんだもの」
「ありがと太宰…。でもごめん、矢っ張りもうちょっとだけ頑張ってみる。私だって…、その、恋人として、太宰の事満足させてやれるような女になりたいし…」
「菫…」
「だから、もう少し待ってて。流石に君レベルは無理だろうけど、私、頑張るからさ」
「そうかい。判った。ならもうこれ以上何か云うのは、無粋と云うものだね。素敵な恋人が、もっと素敵な女性になるのを楽しみに待つとするよ」
「うん。ありがとな太宰…」
「よし。じゃあ話も纏まった事だし、今夜は何時も通り二人で頑張ろっか!」
「へ?…え?ちょ、待っうわっ!」
「さぁ菫。今夜はどうされたい?この蕾の様な愛らしい唇で私に教えておくれ。じゃないと、菫が好きなの一つずつ順番に試していくよ?」
「やめろ!それ普通に朝迄コースになるヤツじゃん‼︎」
「ええ?だって私を満足させる為に頑張ってくれるんでしょう?朝迄愛し合って君も私も大満足、まさにwin-winじゃないか」
「win-winっつーかwin-deathなんだよなー!ひっ、ちょ待って待って、ホント待ってって‼︎」
などと云う何時かの幸せな記憶を思い返しながら、私はようやっと目の前の光景を飲み下す。
記憶の中で恥ずかしそうに顔を赤らめ涙目になっていた愛くるしい恋人は今、同じく顔を赤らめ緩やかに弧を描いた瞳で熱っぽい視線を私に注ぐ。まるでおしゃぶりを咥えた赤ん坊の様に―――私の指を食みながら。
「あ…、あの…菫…さん…?」
「なぁに?」
「どうしたの、かな?」
「何が?」
「その…、どうして私の指を咥えているのかなって?」
「ん〜……。美味しいから?」
「ええ…」
はい待った。ちょっと待った。何コレどう云う状況?何で私は今職場の医務室で恋人に指を咥え込まれてねっとり舐め上げられているんだ?挙句『美味しい』って何?否、確かにこのシチュエーション自体は大変美味しいけれど。え?美味しいて云った?菫が社の医務室で私の指舐めて美味しいって云った?待って待って本当に何この状況。
支離滅裂な事態が次々と降り注ぎ、珍しく思考回路が焼き切れる様な感覚に襲われていると、不意にコンコンとノックの音が響く。
「失礼します。太宰さんちょっといいですか?」
そう云ってこちらが答える間も無く医務室の扉を開いた谷崎君に、私はベッドを囲う白いカーテンの内側から全力で普段通りの返事を返す。
「やぁどうしたんだい谷崎君。何か判ったのかな?」
「いえ、そうではなく…。太宰さんにタオルと着替えを持って来たンです。そンな格好の儘じゃ、幾ら太宰さんでも風邪ひいちゃうかもしれませンから」
「ああ、そうなんだ。有難う。じゃあその辺に置いてて貰えるかな?今私、ちょっと動けそうにないから」
「? 菫さん。まだ調子が戻らないンですか?」
「ええっと…。実はつい先刻また眠り込んでしまってね。私の手を握った儘だから動けないんだ」
正確には手を握った儘どころかぺろぺろされているんだけど。そんな註釈を内心で付け加える私に谷崎君は苦笑を漏らした。
「あ〜。菫さん、本当に太宰さんには甘えられるみたいですからね。でもそう云う事なら、タオルだけでも渡しておきま」
「おっと谷崎君!それ以上はいけないよ!」
「はい?」
そう鋭く云い放った私に、不思議そうな声を漏らす谷崎君。だが今、彼にこのカーテンを開けさせる訳にはいかない。確かに私と菫の関係は社員全員周知公認済みで、同僚の前で多少イチャついても基本的には流されるし、何なら昼前頃にツヤツヤした私とげっそりした菫が揃って出勤しても目くじらを立てるのは国木田君くらい。ハッキリ云って、“此奴等だから仕方ない”と完全に諦められている。だが、だとしてもこの状況は実に拙い。
探偵社の面々は同僚のプラーベートに口を出す程過干渉ではないが、それが社内で起こった事となれば話は別だ。しかも此処は、社の古株にして社員の誰もが畏敬の念を抱く与謝野先生の医務室。もしこの事が知れれば彼女の逆鱗に触れる事は必至。そうなった場合、『突然倒れた菫を介抱していたら急に色っぽい顔で指をしゃぶられました』なんて主張しても、私と菫の普段の行いを目にしている同僚達が信じてくれる筈がない。世界最強の名探偵が真実を推理し証言してくれれば話は別だが、あの御仁はああ見えて菫の保護者筆頭だ。菫の成長や人間関係の改善に繋がる事ならまだしも、彼女の立場を悪くして迄私の味方をしてくれるとは思えない。寧ろ私を人柱に彼女の繊細な精神と名誉が守られるなら、彼は一考する迄もなく口を噤むだろう。結果私は一人怒れる与謝野先生の前に放り出され、裏社会の猛者さえ震え上がるだろう地獄の制裁を下される事になる。如何に女好きの自殺
「ど、どうしたンですか太宰さん?急に…」
「すまない谷崎君。だが、私は君にこのカーテンを開けさせる訳にはいかないんだ。判るね?」
「いえ、微塵も」
「嗚呼、何て事だ。君はつい先刻私が云った事を忘れてしまったのかい?今このカーテンの中では、私の愛しい菫がすやすやと寝息を立てているのだよ?」
「それが何か?」
「男として、愛しい女性の寝顔を独占したいと思うのは当然の事だろう?」
「……はぁ?」
「ほら、喩えばナオミちゃんのあどけない寝顔を他の男に見られたら君はどう思「抑々ナオミが寝ている部屋に近づいた時点で細雪からのスタンガンですけど」……ああ、うん…。そう」
相変わらずナオミちゃんの事となるとノーモーションで殺気立つ谷崎君に、カーテンで仕切られた今の状況を二重の意味で感謝した。しかしそんな私の内心など露ほども知らない谷崎君は、小さく溜息を吐いて踵を返す。
「それじゃあ、タオルも着替えと一緒に置いておきますね。菫さんから離れられないのは判りますが、なるべく早く着替えて下さいよ?」
「ああ、有難う。そうだ、折角だからもう一つ頼みたい事があるのだけど」
「何です?」
「給湯室にあった鍋。矢っ張りちゃんと調べてみて貰えるかな?賢治君のくれたものを疑う訳じゃないけれど、何だか独特の匂いがあった気がするし。見た所、あれ以外に怪しいものもなかったしね」
「まぁ確かにそうですね…。判りました。ナオミと一緒に調べておきます」
「うん。それじゃあ頼んだよ谷崎君」
軽快な声音に万感の想いを乗せて、私は再び給湯室へと向かった谷崎君に希望を託す。泥酔状態なら兎も角、素面の彼女ではまず有り得ないこの言動。その原因として現状最も怪しいのがあの鍋だ。意識を取り戻した菫を優先して本格的に調べられなかったが、あの鍋に何らかの薬品ないしは異能が掛けられている可能性は十分にある。何にせよ、早く原因を見つけ出して対策を―――
「なぁ。何でこっち見てくんないの?」
「え?……っ⁉︎」
一瞬だった。疑問符が漏れると同時に視界が回転し、私の頭が柔らかい枕の上で僅かに弾む。そんな枕元に手を着いて私の顔を覗き込んで来た菫が何とも満足そうに笑んだ。
「へへ…。やっとこっち見てくれた」
「菫っ…、ちょ、ん…っ」
言葉を発する前に私の口は彼女に唇に塞がれた。滑り込んできた柔い舌が催促する様に私の舌に絡みつく。本来なら喜んで応じやる所だが、流石に今はタイミングが悪い。この儘流れに身を任せてしまったら、いよいよもって云い逃れが出来なくなってしまう。取り敢えず今は彼女を落ちつかせてなくては。そう考えを纏めた私は、自分の上に馬乗りになった菫の肩を押し返す。すると彼女は少し不満げに眉を寄せて、逆に私の顔を引き寄せた。そんな彼女に抵抗しつつも、私はできるだけ優しく諭すように説得を試みる。
「菫、ねぇ菫ちょっと待って。ね?いい子だから」
「何で?治、キス厭?」
「まさか。私が君とのキスを厭がるなんてあり得ない。ただね菫、ここは探偵社の医務室。つまり職場だ。判るね?」
「……うん」
「よぉし、いい子だ。それじゃあ、いい子の菫ちゃんは職場でこう云う事しちゃ駄目だって判るよね?」
「…でも、前にも医務室でキスしたじゃん」
「え?」
「三社鼎立で私が夜叉白雪に風穴開けられた時とか、Qの呪いから目覚めた時とか、治ここで私にキスしたじゃん」
「イヤ…、アレは…その……」
「それに白鯨戦の前にも、給湯室で『こういうシチュエーションも悪くない』って云った」
「それは…まぁそうなんだけど……。ほ、ほら。私この通りびしょ濡れだし!何なら泥水渦巻く濁流に飛び込んだ後だし。今凄く汚くて臭うから、何より先に着替えないと!」
「じゃあ手伝う」
「大丈夫大丈夫!一人で出来るから!ちょ、菫待って」
「治、暴れない。大人しくしてて」
シャツの釦を外しに掛かった菫を両手で制すも、その両手は小さく白い手に手首から掴まれ顔の両側に縫い止められた。だがこれで菫の手も塞ったと安堵したのも束の間、彼女はあろう事か私の胸元に顔を埋め口と舌を使って釦を外しに掛かった。慌てて拘束から抜け出そうと力を込めるも、顔の両側に押さえつけられた手首はビクともしない。
ウワーワタシノコイビトチカラツヨーイ。
じゃなくて。え?嘘?本気で動かせないんだけど。否、確かにここ一年で目覚ましいパワーアップを遂げていたのは知っていたけどここ迄だったの?『本気で抵抗したら私の拘束くらい解けるでしょう?』とか今迄散々煽ってきたけど、本当に本気出されてたら逆に私が組み敷かれてたんじゃないか。あ、でも。と云う事は矢っ張り菫も私に強引に迫られて押し倒されるのは満更でもなかったんだなぁ。うふふ、もう菫ったら本当に恥ずかしがり屋さんなんだから〜。ああでもその恥ずかしがり屋さんが私を脱がそうと躍起になってるこの状況、本気でどうしよう…。
「ん〜。全然外せない…。治は出来てたのに…」
「えっと…、難しいようなら諦めた方がいいんじゃ…きゃーーー⁉︎」
その日私は演技でも悪ノリでもなく、本気で本心から絹を裂くような黄色い悲鳴をあげた。だがそんな私を他所に、尚も菫は私の胸元に噛み付いてその儘力任せにシャツの釦を引き千切っていく。
「ちょっと菫‼︎それはワイルドにも程があるでしょ⁉︎」
「ごめん。後で縫い直しとく」
「そう云う問題じゃないから‼︎大体私先刻濁流に飛び込んだって云ったよね⁉︎やめなさい汚いか―――っ!」
あまりの衝撃に張り上げた声は、しかし一瞬で喉の奥に引っ込んだ。私の首元に顔を埋めた菫が、包帯の巻かれていない素肌をペロリと舐め上げる。その儘耳へと這い登ってきた唇が私の耳介を食み、吐息と色を含んだ声が直接鼓膜を揺らす様に語り掛ける。
「うん。矢っ張り美味しい。それに凄くいい匂い。なぁ、君の何処が汚いんだ、治?」
脳味噌が内側から溶け落ちる様な錯覚に、危うく思考を取り零す所だった。その妖艶な音色にゾクゾクと皮膚の下で疼く神経を抑え込んで、私は深く息を吐くと、あまりに近くで微笑む愛しい女性に静かに語り掛ける。
「ねぇ菫。何度も云うように、ここは君と私の職場だ。だからこんなはしたない事しちゃ駄目。すぐに降りて」
「……やっぱ…厭か?」
「違うよ。私個人としては、寧ろこの儘君に頂かれてしまうのも吝かじゃない。でも今の君は、間違いなく何らかの精神作用が働いている状態だ。原因はまだ判らないけれど、もうすぐ与謝野先生が来てくれる。だからそれ迄いい子にしてよう?」
「………」
「菫」
「……でも、今ならいける気がするんだ」
「え…?」
すると彼女は私の左手首から手を離して、其の儘私の頬を撫でる。その目には相変わらず妖艶な熱が滲んでいたけれど、何処か不安そうに揺れていた。
「今迄君にしてやれなかった事、今ならやれる気がする…。今迄沢山、可愛がって貰った分、ちゃんと返せる気がする。だから……」
懇願する様にそう零して、彼女は私の右手に指を絡めて握る。それに応えて彼女の手を握り返した私は、自由になった左手で同じ様に彼女の頬を撫でた。
「有難う菫。でも、矢っ張り今は駄目だ。元に戻った後、真面目で怖がりな君はきっとそれを後悔するから」
「………」
「だからね、菫。この続きは帰ってからにしよう」
「え…」
俯きかかっていた顔が僅かに上がった。その顔をより近くに引き寄せて、私は丸く見開かれた瞳を射止める様に視線を合わせる。そこに写っていた男の顔は、何の事はない―――獲物を前に舌舐めずりする獣のそれだ。
「誰にも文句を云われない場所で、二人っきり。たっぷり時間をかけて、私の事悦ばせて?」
「……いいの?」
「勿論。だから一緒に我慢してくれるかい?」
「………」
「ね?お願い」
「………もっかいだけ、キスさせてくれたら」
どこか拗ねた様に彼女はボソリと呟く。その愛らしいお強請りに小さく笑って、私は静かに眼を閉じた。こちらの意図を察したのだろう、視覚を失った暗闇の世界に柔らかな熱が降りた。それは一度だけ私の唇を食んで、軈て惜しむ様にゆっくりと離れる。再び眼を開けた先には、少しだけ満足そうな彼女が居た。その表情に漸く落ち着いてくれたと気を抜いた所為か、唐突に寒気がしてそれは大きなクシャミに変わった。
「大丈夫か治?」
「うん…。ごめん。色々あって忘れてたけど、流石に寒くなってきた…。先刻谷崎君が着替えとタオルを持ってきてくれてたから、ちょっと降りて貰っていいかい菫?」
「あ、じゃあ下も脱がした方がいいな」
「きゃーーー‼︎」
そう云って私のベルトに手を掛けた菫に、私は再び絹を裂くような黄色い悲鳴を上げた。
「ちょ、いいって菫!それくらい自分でやるから!」
「暴れないでくれ治!ベルト外せない!」
「外さなくていい‼︎少なくとも君は外さなくていいから‼︎わっ⁉︎」
私のベルトを外そうとする菫と、それを全力で阻止する私。そんな不可思議な絵面の儘揉み合っていた私達は、軈てバランスを崩し転倒。その勢いでベッドの周りを囲っていたカーテンを巻き込み、私と菫は床に転がり落ちた。
「いたた…っ!ごめん菫。大丈」
「よぉ、待たせたね菫ー!アンタの専属医様が来てやったよ!」
「遅くなってごめんね菫ちゃん!でももう大丈夫よ!与謝野先生がすぐに治して下さるわ‼︎」
「ああ!怪我じゃないのがちと残念だが、それはそれ。この
その瞬間、盛大な音を立てて医務室の扉を開け放った明らかに泥酔状態の女性二人組。しかしその上気した顔色は、みるみるうちに周囲の暗闇と同化していく。その視線の先には、千切れ落ちた白いカーテンに絡まって医務室の床に転がる私と菫。因みに今の私は菫にシャツの釦を引き千切られた事で胸元が肌蹴ており、更にその体制はと云うと、まぁ、うん。DEAD APPLE事件の折、汚濁でダウンした中也を澁澤の霧から守っていた時と同じ体制…、と云えば判って貰えるだろうか。
「うぅ…治、大丈夫か?…治?…あの…もしかして、怒った…か……?ご、ごめん…!私、いい子にしてるから。ちゃんと云われた通り我慢するから。だから…」
そして、突然黙り込んだ私の心情を曲解した菫の訴えによって、室内温度が回帰不可能なレベルまで下落した。絡まった白いカーテンが目元を覆っている所為か、外部の状況を一切理解していないらしい彼女の頭をそっと撫でて、私は穏やかに語りかける。
「大丈夫だよ菫。私は怒ってなんかいない…」
「ホント…?」
「ああ、本当だ。君は何も悪くない。…そう、君は何一つ、悪くないんだ…」
「そっか…。良かった。君を怒らせちゃってたらどうしようかと思った…」
「所で菫。私、どうしても君に云っておきたい事があるのだけど、聞いてくれるかい?」
「?…何?」
「これで二度目になるけれど、私の晩年は君に逢えて幸せだったよ。それと……さよなら」
「遺言はそれで満足かい?」
己が人生に於ける最愛の恋人にそう告げて、私は再び顔を上げた。この世の生きとし生けるもの全てを飲み込む様な絶対の暗闇の中、死神の鎌の様に冷たい光を放つ鉈を担いで、社の専属医様が私を見下ろしていた。
****
「菫さんにお裾分けした食材ですか?」
「うん。あの中に、何か変わったものとか入ってなかったかなって」
「ん〜。僕の故郷の山や畑で採れた事以外は普通のものだったと思いますけど…」
そう云って口元に人差し指を当てながら記憶を辿る賢治君を、僕とナオミは固唾を飲んで見守る。暫くして何か思い出した様に「あ、そう云えば」と、賢治君は声を上げた。
「お裾分けの中にあったお肉!あれだけ『番いのお二人以外には絶対渡さないように』って、注意書きがついてました!」
「番い?」
「菫さんと太宰さんの事です。村に宛てた手紙に『僕の先輩にとっても仲良しなお二人が居て、何時もくっついて離れないくらいお互いの事が大好きなんですよ』って書いたら、それを読んだ村の相談役が態々遠縁の親戚に頼んで取り寄せてくれたらしくて」
「因みに、それが何のお肉かご存知ですか?」
「さぁ?同封されていた書付けには『お前にはまだ早い』って書かれていたので詳しい事は判りません。でも『きっと役立つ筈だから是非渡して欲しい』とも書いてありましたし、きっと仲良しなお二人がもっと仲良しになるくらい美味しいお肉なんだと思います!良いなぁ、僕も早く食べられるようになりたいなぁ」
ぽわんと頬を染めて未知の美食に眼を輝かせる賢治君。その純真無垢な輝きに眼を細めながら、僕とナオミは昨晩この探偵社で巻き起こった怪事件の原因を何となく察した。
「あ、そう云えば菫さんと太宰さんはまだ出勤してないんですか?あのお肉がどんな味だったか、感想だけでも聞かせて欲しいです」
「あ〜…、うん。それがね…」
「だ・か・ら、誤解なんだって!太宰は私にひん剥かれそうになったから抵抗しただけなんだ‼︎つまり正当防衛‼︎今回の戦犯は一から十迄私なんだよ‼︎」
「何云ってるの菫ちゃん。社の医務室で男の人を襲うだなんて、そんな自殺行為…じゃなくて、そんな公序良俗に反する様な事、菫ちゃんがする筈ないじゃない」
「その信頼は嬉しいけどホントなんだよ綺羅子ちゃん!夜食に作った鍋!あれの匂い嗅いでたら何か頭クラクラしてきて、呼吸も荒くなるし身体熱いし、ヤバいって思って蓋閉めたけど間に合わなくて‼︎眼ぇ覚ましたら何か太宰が何時も以上に可愛く見えるし、メッチャムラムラするしで、もう辛抱堪らず私から押し倒しちゃったんだって信じてよ‼︎」
「悪いが“匂い嗅ぐだけで発情する鍋”なんて、信じろって云う方が無理な話だ。作り話ならもうちょっとマシなヤツをでっち上げな菫」
「ホントなんだよ晶子ちゃぁん。あ!乱歩さん良い所に」
「興味無いパース」
「頼む前から断らんで下さい名探偵様ー!ちょ、国木田君も晶子ちゃん止めて」
「病人に迄盛る淫獣には似合いの末路だ。放っておけ」
「待って見捨てないで国木田ニシパ!そ、そうだ、あの鍋!あの後あの鍋どうしたんだ⁉︎アレもっかいコトコトやれば、皆もきっと納得するから‼︎…って、アレ⁉︎何で、中身空っぽなん⁉︎昨日迄確かに在ったのに⁉︎」
「あ、スミマセン菫さん。実は…」
そう云いかけた僕の袖を陰でナオミが引き留めた。それでも声自体は届いていた様で、菫さんはまるで希望の光に縋る様に僕達の元へ駆け寄る。
「何だ谷崎君!あの鍋の事何か知ってるのか⁉︎」
「え…?ええっと、その…」
「すみません菫さん。実は菫さんが意識を取り戻された後、給湯室に戻ってそのお鍋を調べようとしたんですが。その時にはもう中身が
「「ええ⁉︎」」
それを聞いた僕と菫さんの声が重なった。その瞬間、また陰で袖を引かれた僕は反射的に口を閉じる。少しだけ視線を下げると、ナオミが上目遣いで僕に微笑んでいた。その意図を察した僕に、菫さんが真っ青な顔で震えながら縋り付く。
「ホントなのか…谷崎君…。中身…無くなってたのか……」
「…は、はい」
「そんな…。何で…」
全ての希望を絶たれ膝から崩れ落ちる菫さん。そんな彼女を労わる様に与謝野先生と春野さんがそれぞれ跪いて、小さく萎んだ肩を抱き寄せた。
「なぁ、もういいだろ?惚れた弱みもあるだろうが、それでも被害者のアンタがそう迄してあのスケコマシを庇う必要なんて在りゃあしないんだよ菫」
「ごめんね菫ちゃん。私、友達があんな目に遭ってたのに、また気付いてあげられなかった…。でももう大丈夫よ。今度こそ絶対に、菫ちゃんは私達が守るから!」
「でも私、本当に…」
「安心して、流石に私達も命迄取ろうだなんて思ってないわ。あんな人でも、一応は武装探偵社の仲間だもの。ね?与謝野先生」
「ああ。抑々
「綺羅子ちゃん…、晶子ちゃん…」
その言葉を聞いた菫さんの瞳に再び光が宿る。そして春野さんは更に深く彼女を抱きしめ、与謝野先生は優しく微笑むと徐に立ち上がった。―――両手に鉄鑢を握って。
「心配しなさんな。殺しやしないよ。ただ奴さん、随分と行儀の悪い愚息を持て余してるみたいだからねぇ。丁度いい長さになる迄此奴で削ってやるだけさ」
「入社試験の没案此処で採用しないで晶子ちゃん‼︎」
「さぁ、それじゃあ私達は気晴らしにうずまきで甘いものでも食べましょう。今日は私の奢りよ!」
「それは有難いけど待って、ホントやめたげて‼︎太宰が‼︎太宰の太宰がーーー‼︎」
鉄鑢を打ち鳴らしながら医務室に消えていく与謝野先生。春野さんに半ば引き摺り込まれる様に
そして後日、賢治君から菫さんと同じお裾分けを貰って僕が再び立ち尽くす事になるのは
―――また別のお話。