hello solitary hand・番外編
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拝啓
寒中には珍しく、麗かな日が続いております。
そんな陽気に当てられてか、将又何時もの気まぐれか、ともあれこうして筆を取ってみました次第です。お陰様で、柄にもない事をする自分自身に思わず吹き出すのを必死に堪えながら、この手紙をしたためております。なので、もし書き損じやしゅっぱいがあっても、貴方の広い御心を以て御容赦頂ければ幸いです。
却説、所で近頃の私はと申しますと、この通り一向に死ねない儘今日もこの浮世で呼吸を繰り返しております。これ迄手を変え品を変え、古今東西ありとあらゆる自殺法を試して参りましたが、それでも尚死に至る事が出来ないとは一体どう云う事なのでしょう。実に無念です。いっそこの憂いで吐いた溜息が為に酸素欠乏で死ねれば…あ、いいなそれ。ちょっと後で試してみよう。
しかし安心して下さい。確かに私は未だ大願叶わず嘆息を吐く毎日を過ごしておりますが、その中には存外にも、退屈や憂い以外の事柄だって多分に含まれているのです。
喩えばそう。こんな風に―――
「……ん、…あぁ…。おはよ…太宰」
「うん。おはよう菫。今日も素敵な朝だね」
本当に、ここ最近私が迎える朝はとても素敵で素晴らしいものです。腕の中に収まる小さな体温を感じながら微睡を抜け出し、眼を開いた先に在る愛くるしい寝顔を眺めながら彼女が起床する時間を待つ。それが最近の私の日課です。
「起床時間迄はまだ時間がある。もう少し寝ていても善いんじゃない?」
「ん〜…、そか?…そっか…、じゃ…もうちょい」
毎朝規則正しく起床する彼女は、しかし本当は朝が大の苦手です。ただその日の仕事に遅刻しない為に何時も早起きをしているだけで、用事のない休日などは昼時近く迄布団から出ようとしません。尤も、彼女がそう云った怠惰な朝を好む様になったのは、私と同衾する様になってからですが。
「……ふふ」
心底安心しきって眠る彼女は、まるで子供の様なあどけない顔をします。人一倍、否、寧ろ余計なくらい自立している彼女は、周囲からも“ちょっと風変わりなしっかり者”と評されていますが、実は結構な甘えたさんである事が最近判って来ました。正直、そんな彼女の一面を引き出すのは大いに苦労しましたが、その甲斐あって人目を憚る必要の無い時はこんな風にピッタリと私に身を寄せて、まるで仔猫の様に顔を擦り着けてくれます。勿論、彼女がそんな事をするのは私だけであり、彼女のこんな表情を堪能出来るのも私だけです。
その高揚感、優越感、満足感は、この私ですら言葉に変えられない程で。だからこそ、こんな素敵な朝が一分一秒でも長く続く事を、私は願わずには居られないのです。
「はぁぁああ!?え?何!?何でこんな時間に!?ちゃんと目覚まし掛けたのに!!」
「あ〜ごめん。私に寄り添う君の寝顔をもっと見ていたくて、つい止めちゃった☆」
「巫山戯んな太宰ゴルァアア!!」
嗚呼。寝ている時の甘えたな彼女は勿論可愛らしいけれど、こうして生き生きと気炎を上げる彼女も実に素敵です。
明確に敵対している相手は別として、臆病な彼女は基本、他人に対して当たり障りのない穏便な対応をとります。喩え心を開いた相手であったとしても、彼女は優しいのである程度の事は笑顔で受け止めてくれます。その慈愛と心の広さは、喩えヨコハマ港が百個分あっても足りない程だと私は思っています。よって彼女がこうして真正面から怒りをぶつけて来るのは余程怒髪天を突いた時か、或いは怒りをぶつけても相手が自分への態度を変える事がないと確信している場合だけです。無論私が受けているのは後者であり、つまりはこの阿修羅の様な怒り顔も、彼女が私の愛を心底信頼しているからこその表情なのです。
「ああん、ごめんよ菫。私のこの美貌に免じて許して?ね?」
「んなぶりっ子で誤魔化せると思うなよホント顔が善いな君!!」
「あれ?もしかしてこれだけだじゃ不満?やれやれ仕方ない。愛しい恋人に其処迄云われたら、男として応えない訳にはいかないねぇ。幸いこの時間じゃあどの道始業時間には間に合わないし、後一、二時間遅れたって結果は同じだ。と云う事で、お望み通りこの私が誠心誠意心ゆくまで可愛がってあげよう。さぁ、遠慮せずに私の胸に飛び込んでおい」
「よしきた!!四十秒で支度しなこのドスケベハーフミイラ!!」
またしても生き永らえ、始まってしまった新しい一日。それを告げる眩い朝日は、しかし私の眼には錆色にくすんで見えます。引き伸ばされた生を否応なく突き付けてくる朝は、あまり好きになれません。
けれどそんな憂鬱な朝も、
こうして私の顔面に服を投げつけ荒れ狂う彼女の姿を眺めていると、其処からふわりと世界が色づいていく様で。
そんな鮮やかな色に魅せられた私はようやっと、“仕方ないから今日も息をしてみよう”と云う気になるのです。
「こんっの、唐変木共がーーー!!!」
愛しい彼女の気炎が一日を彩る絵の具とするなら、彼の怒声は日々のスパイス、否、薬味、云うなれば葱の様なものです。彼は実に面白い人です。此処迄揶揄い甲斐のある人間はそうそう居ないでしょう。新しい職場で私は実に善い玩…、善い相棒に恵まれました。
「待ってくれ国木田君。君の怒りは尤もだが、抑々今回の戦犯は目覚まし止めやがったこの色男だ。そして私はその上で最善を尽くし、此奴の度重なる妨害行為の全てを捌き、たった今出社を果たした。その奮闘にせめて情状酌量の余地を見出してくれても善いと思うんだ。早い話しが私は無実だ」
「え〜、酷いよ菫。元はと云えば、君がその天使の様な寝姿で私を誘惑したのが悪いんじゃないか〜」
「国木田裁判長。純度一二〇%の冤罪です」
「そんな…っ。嗚呼、何て事だ!私をこんなにも魅了し、虜にしておきながら、その自覚が全く無いなんて…っ。これは危険です国木田裁判長!他の一般市民に同様の被害が出る前に、彼女には然るべき懲役刑を!収監先は勿論私!」
「意義あり。その刑なら既に服役中だ」
「っ!!…菫…。もう、君って人は!本当に天使の様に愛くるしい小悪魔さんなんだから〜。いっそこの儘終身刑にしちゃうぞ〜。ね〜?国木田裁判長?」
「っっっ……だぁぁあああ!!云われんでも、貴様等纏めて仕事机に括り付けてくれるわ!!今日の業務が片付く迄帰宅出来ると思うなよ、この脳味噌蜂蜜づけの大馬鹿ップル共がーーー!!」
「まぁまぁ落ち着き給え国木田君。大丈夫、仕事の遅れはちゃんと取り戻すよ。―――敦君が」
「ちょっと!?僕迄巻き込まないで下さいよ!!」
そして彼は生姜、じゃなかった、最近拾って来た新しい後輩君です。孤児院を追い出されて餓死寸前との事だったので、社で引き取る事にしました。自己評価が低く、ヘタレ気質で臆病なのがたまに傷ですが、弱者を見捨てず、己が身を挺して守ろうとする優しい子です。そして何より、非常に素直で大変揶揄い甲斐があります。
「耐えてくれ敦君。これも新人教育の一貫、謂わば乗り越えるべき試練なのだよ。私亡き後も、君がこの街の平和を守っていける様な立派な探偵社員に成る為の」
「否、単に面倒な仕事を押し付けたいだけでしょう!?僕はやりませんからね!!」
「ちぇー、じゃあ仕方ない。この前の“アレ”皆にバラしちゃおっかなぁ〜」
「はい?何の事ですか?」
「おや、恍ける気かい?アレだよア・レ。アレを知ったらきっと皆ビックリするだろうなぁ。敦君ともあろう者が、まさかあんな事をするなんて」
「あ…、あー!判りました!そうやって僕の不安を煽って、仕事を押し付ける気でしょう。その手には乗りませんよ!?」
「うふふふふ。そうかい?それは残念だ。じゃあ遠慮なく…。ねぇねぇ鏡花ちゃん!実はねぇ?敦君てば先日君の―――」
「わぁーーー!!やりますやります!喜んでやらせて頂きます!!」
「あれ?そう?じゃあお願いしちゃおっかなぁ。いやぁ!やる気に満ちた後輩を持って私は幸せだよぅ!敦君が居ればこの街の未来も安泰だね!」
嗚呼、本当に。こんなにも素敵な仲間達に囲まれて、私の日々は実に愉快です。
「おい、太宰君?」
「大丈夫だよ菫。同じ屋根の下暮らしていれば多少のハプニングは付きもの。そして敦君の様な思春期真っ只中の純情少年には、そのちょっとした事すら過剰に意識し、思考の坩堝に陥る要因となってしまう。今のはその性質をちょっと利用しただけ。だからそんな怖い顔しないで?私は敦君の秘密なんてこれっぽっちも知らない。本当だよ?」
「………。はぁ…、全く君って奴は。ホント碌でもない先輩だな」
「ふふ、だって私だもの」
そう。その通りです。
私は彼に衣食住を提供する事は出来ます。手に入れた居場所を守る術を教える事は出来ます。けれどきっと私は、貴方の様に身寄りの無い孤児を正しく教え導く事も、また彼女の様に心の痛みに寄り添い優しく擁護してやる事も出来ないでしょう。幾ら形を真似てみた所で、恐らく本質に至る事は出来ない。
何故なら私の本質は、正しさの方から嫌われた人間なのですから。
「まぁ…、でも」
「ん?」
「昔に比べれば、一〇〇倍くらいマシな先輩やってると思うぜ。君」
「………」
「よし敦君!私も太宰の書類手伝うから一緒に頑張ろう!」
「っ!有り難う御座います菫さん」
「コラ菫、敦!!この唐変木を甘やかすなと何度云えば―――」
それでも。喩え形骸的な真似事に過ぎないとしても。
その結果生まれたこの景色だけは、確かに本物で。
それが私には、柄にもなく好ましものの様に見えるのです。
「あれ?太宰さん?」
「やぁ、皆もお昼かい?」
「はい。もうお腹ぺこぺこです」
「珍しいですわね。太宰さん、今日はお弁当じゃありませんの?」
「いやぁ。実は時間が無かった所為で、今日は弁当を作ってもらえなかったのだよ。おまけに菫は乱歩さんと依頼に行ってしまってね。やむなくうずまきに駆け込んだって訳」
「おや、聞き捨てならないねぇ?そんなに云うなら溜まったツケ、耳揃えて払って貰おうかい?」
「嗚呼、おばちゃん!そんな事云わないで。勿論おばちゃんの作る料理は最高に美味しいさ!ただ私にとって菫の料理は更に特別なだけなのだよぅ!ね?谷崎君?」
「え!?僕!?」
「ほら〜。君だってナオミちゃんが自分の為に料理を作ってくれたら、どんな高級料理よりそっちの方が善いと」
「抑々ナオミの作ったものを他のものと比べるなンて馬鹿な真似する訳ないじゃないですか何云ってるンですか」
「……あ。うん……ゴメン」
「もう兄様ったら!ナオミも兄様が作って下さる料理が一番ですわ!」
彼等もまた武装探偵社の後輩達で、国木田君や敦君に負けず劣らず個性的な子達です。ただ、各々一歩でも対応を間違えると辺り一面更地になる可能性があるので、異変を察知したらそれ以上は踏み込まない事をお勧めします。
「はぁ…、矢張り菫の存在を感じられない儘の食事は味気ない…。嗚呼、菫。せめて今此処に君が居てくれたら、この蟹玉丼だって至高の味わいに感じられるのに…モグモグ…」
「そう云う割には着々と食べ進めてますね…」
「でも矢っ張り素敵ですわ。想い人が愛情を込めて作ってくれたお弁当なんて。ねぇ兄様、ナオミも兄様お手製のお弁当が食べたいわ」
「うん、いいよ。それじゃあ今日の帰りに材料買いに行こっか」
「あ!それなら丁度今朝収穫したばかりの野菜があるので、差し上げましょうか?」
「え?良いの賢治君?」
「はい。今年は豊作だったので、日頃お世話になっている皆さんにお裾分けして回ってるんです」
「それならウチにも一つ貰えるかい?菫は賢治君印の野菜の大ファンだからね」
「勿論ですよ!菫さんには僕が行けない時に何時も畑を見て貰ってますし、一つと云わず好きなだけ持って行って下さい」
「嗚呼。賢治君を許容する為に手伝ってた畑仕事、菫さんまだ続けてたンだ」
「はい!お陰で僕も助かってます。畑の水やりをしてくれたり、台風の前日はネットやビニールを被せてくれたり。この前も、僕が花子二号の出産に立ち会っている間、畑を守ってくれてましたから」
「守る?畑に鴉でも出るのかい?」
「いいえ、鴉じゃなくて“熊”です」
「「「………え?」」」
「実は最近、動物に畑を荒らされる被害が頻発していて皆困ってたんですけど…。この前僕の代わりに畑を見に行ってくれてた菫さんが犯人を見つけて、その儘捕まえてくれたんです」
「え!?待って、捕まえるって…熊を!?」
「と云うか、抑々何でヨコハマの畑を熊が徘徊してるんだい!?」
「どうやら市内の動物園から脱走して来たみたいです。責任追求を恐れた園長が秘密裏に揉み消して居た所為で、公にはなって居ませんでしたけど。それがこの前、お腹を空かせてウチの畑にやって来たらしくて…」
「それを…、菫さんが捕獲されたんですの?」
「はい!菫さん大活躍だったって、後で地主のお姉さんが教えてくれました!何でも襲い来る熊を見事な一本背負いで伸しちゃったとかで!」
「「「…………」」」
「? どうしたんですか皆さん?」
「あ、いえ。何でもありませんわ。さ、流石菫さんですわね、ほほほほ」
「……太宰さん」
「ごめん谷崎君、今は何も云わないで」
それと余談ですが、最近私の可愛い恋人が戦闘面で劇的な急成長を遂げています。いえ。無論、彼女がどんなに強くなろうと、彼女に対する私の想いは微塵も変わりません。変わりませんが、此の儘だと孰れ特異点の怪物級の相手に嬉々として突っ込んで行きそうで怖いです。私はどうしたらいいのでしょう。
「おやいらっしゃい春野ちゃん。休憩かい?」
「あ、いえ。ちょっと人探しを…、あ!居た居た。太宰さん!」
「え?私?」
却説、此方のご婦人は我が社の社長秘書で、最近私の為に女性らしい装いや振る舞いを勉強し始めた菫の良き相談相手でもあります。抜かりなく的確に仕事を熟す才女でありながら常に麗かな雰囲気を纏う彼女を、菫はよく“春の妖精さんみたいだ”と賞賛しています。
「珍しいね。春野さんが私を呼びに来るなんて。余程大事な用事なのかな?」
「はい。非常に重大、且つ太宰さんにしかお願い出来ない案件です」
「随分持ち上げるね。それで、具体的には?」
「ふふ、―――社長からの呼び出しです」
業種は違えど組織に属する以上、その頂点に君臨する長の命令は絶対です。ご存じの通り、私も嘗てはその手の命令に毎度辟易とさせられてきました。問題の調査、敵の殲滅、利益の献上と諸々の後始末。それらの面倒事を彼等は革張りの玉座に腰掛けた儘、ちょっと口先を動かす程度の労力で簡単に放り投げてきます。嗚呼本当に、あの蛞蝓さえ居なかったらもっと早くに職務放棄して半年くらい雲隠れ出来ていたのに。
失敬。あんな単細胞の事など記すだけインクの無駄遣いですね。本題に戻りましょう。
却説、色々後ろ向きな事ばかり綴って参りましたが心配には及びません。少なくとも現職の上司は、前職の上司よりずっと心ある御仁なのですから。
「来たか」
「はい。それでご用件は?」
「あの…福沢殿…。此方の青年は…?」
「我が社の社員だ。それなり頭の切れる男故呼び付けた。太宰、こちらは先日司法機関局の局次長に就任された上平先生。自身の邸宅の警備体制を見直すにあたり、我々の助言を得たいそうだ」
「はぁ…。しかし警備体制の見直しならその道のプロに相談するべきでは?」
「あ…っ、いえ、その…。前任の局次長が異能力者絡みの事件に巻き込まれて殉職しておりまして…。今後はその手の対策も必要かと思い、福沢先生にご相談させて頂いておりました次第です」
「そう云う訳でお前の意見を聞きたい。これが邸宅の見取り図と現在の警備体制の資料だ」
「どれどれ?……ん〜。ほうほう…、成る程…」
「あの…、福沢先生?先程も申し上げましたが、矢張り異能犯罪者に対抗するには、同じ異能力者を配置するのが最善だと思うのです。この世の摂理を外れた脅威に対し我々一般人は余りに無力。だからこそ、先生を始めとした正義の心を持つ異能力者の力が我々には必要で」
「いえ、それには及びませんよ」
「……へ?」
「此処。書面からは削除されている様ですが、実際は地下室の更に下に避難用のシェルターが設備されていますね?」
「な、何故それを…っ!?」
「地下室の通路にこんな不自然な行き止まりがあったら、誰だって気付きますよ。そんな事をして隠さなくても、此処から通路の此処迄を特殊防壁で囲って、警報器に赤外線や熱源感知センサーを導入しておけば、如何に異能力者と云えど容易に襲撃は掛けられません。その手の防御設備に詳しい業者にも幾つか心当たりがあるので、宜しければご紹介しましょうか?」
「っ…!否、待ち給え!ならば尚の事、その程度の対策で事足りる訳が無い。相手は常識外の出鱈目な連中なんだぞ!?喩えば…、そう!炎を操る異能力者なんかが襲って来たらひとたまりも」
「普通に放火魔が出た時と同じ様に対処すれば問題無いですよ。具体例を上げるなら…そうですね、
「なっ…!?」
「では太宰。警備体制の見直しにあたって、人員補充は必要ない。それがお前の見解か?」
「ええ。少なくとも、あるかどうかも判らない異能力者襲撃に備えて、態々異能力者を常駐させる必要性は皆無かと」
「そうか、判った。……所で太宰」
「はい?」
「話は変わるが、社員寮の住み心地はどうだ?」
「え…?…まぁ、別にこれと云って変わりは無く…」
「ならば良い。何せお前と菫が
「は…?え、共に…二年…?」
「……。…!あ〜はいはい。そうですね!確かにあの部屋は二人ではちょっと手狭ですがご心配なく!ご存じの通り、私と菫はそれはもう仲睦まじい
「あ…嗚呼、うむ…。それは何よりだ…。ごほん!…あー、
「へっ!?あ、はい。ええ…、そうですね。有難う御座います。ではその…、長居してもご迷惑でしょうし、私はこれで失礼致します…っ!」
「承知した。客人のお帰りだ」
「はい!どうぞ此方へ、玄関迄お送りしますね!」
「………。わぁ、春野さんすっごい良い笑顔〜」
「……太宰」
「はは、すみません。でも社長だって、その心算で私を呼び付けたのでしょう?」
「彼処迄あからさまにやれとは云っていない」
全く前職の上司に比べて、この御仁は熟く謀が下手です。と云うより、単純に策を弄して盤面を転がすのが苦手なのでしょう。それがこの御仁の数少ない短所であり、同時に社員から信頼され慕われる長所でもあります。まぁ幸いにもこの鉄鋼をも穿ちそうな目力のお陰で、外部の人間がその真意を看破する事は殆どありませんが。
「司法機関局と云えば、異能特務課と犬猿の仲で有名だ。前任の局次長が異能力者の関わる事件で殉死したとしても、目の仇にしている特務課に頼るなんて論外。だから民間組織である探偵社を取り込み、異能力者の後ろ盾を得ようとした。と、大体そんな所ですか?」
「嗚呼。政府の会合で挨拶を交わしてから矢鱈と絡んで来る様になってな。立場上無碍にも出来ず、どう扱ったものか考えあぐねていた…」
「それはお疲れ様です。所で、あの御仁が菫に眼を付けたのは…一体どう云った経緯で?」
「先日、彼の遣いを名乗る若い議員が社へ来訪した。…が、丁度その時間帯は人が出払っていたらしくてな。応接に当たったのが事務所に一人残っていた菫だ」
「嗚呼成る程。……それはまた見る眼が無い」
「……。太宰」
「ご心配には及びませんよ社長。大方そのお遣い君には、彼女が素直で扱い易そうなお人好しに見えたのでしょう。だから自分達のお膝下に呼び寄せて懐柔し、探偵社を掌握する足掛かりにしようと考えた。しかしその思惑はたった今綺麗さっぱり玉砕しました。まぁ抑々、表層で喉を鳴らす愛らしい猫しか見えない様な連中じゃあ、その下から飛び出して来た熊をも倒す猛虎に腰を抜かすのが落ちでしょうけど」
「熊?」
「嗚呼いえ、こっちの話です。兎も角そう気を揉まずとも、これ以上深追いする心算はありませんよ。この件はこれにて一件落着。全ては貴方の素晴らしい計らいのお陰だ。お気遣い有難う御座います、社長」
「……判っているなら、善い」
部下の性質を把握し、状況に応じて常に先手を打ち続ける。それは組織を円滑に回す上で必要な事です。そしてこの御仁も、その方法論に則って判断を下します。あの人と同じ様に。
けれど一つだけ。この御仁とあの人とでは、求めるものが違います。
あの人が合理的最適解の崇拝者とするなら、この御仁は人が救われる最良解の求道者と呼ぶべきでしょうか。回りくどく面倒で、骨ばかり折れる損な役回りと知りながら、それでもこの御仁は、合理的な最適解には眼もくれずに進むのです。人の心だなんて、そんな曖昧で何の利益も生み出さないものの為に泥を被って道を拓くのです。
だからこそ私は、今もこの組織に身を置いています。
人が救われる最良解。それを第一とするその在り方は
きっと貴方の云う佳い人間の在り方だと、そう思うから。
「所で太宰」
「はい?」
「社員寮の事だが、本当に不便は無いか?」
「……」
「……」
「……ふふ、ええ勿論!お陰様で実に快適ですよ」
「ただいま社長ー!ねぇ見て見て、帰り道に猫が居たから写真撮って来てあげたよー!」
「私も動画撮って来ました!ほら、見てくださいこの天使の様な欠伸顔!」
嗚呼、そう云えば大事な報告が未だでした。私はこの探偵社で、実に驚くべき出逢いを得たのです。異能を待たざる身でありながら、異能の特異性をも軽々と飛び越えて見せる驚くべき存在。推理力と云う括りで論ずるなら、恐らくこの私ですら遠く及ばないであろう
世界最強の名探偵に。
「判った。判ったから少し落ち着けお前達。依頼を終えたのなら、先ずはその報告書を」
「それなら後でやるって。菫が」
「はい!納期の鬼マスター国木田も閉口するくらい、バッチリ期限内に提出してみせますのでご心配なく。それより今は、このアガった猫ちゃんへのパッションを社長と共有したいんです!同じ猫派として!ね!ね!」
「それに社長、最近面倒な会合ばっかりで疲れてるでしょう?だから猫でも見てリフレッシュしてよ。ほら!ちょっとブレてるけどいっぱい撮って来たんだよ!」
まるで小学生の様にはしゃぐこの御仁は、しかし我が探偵社の主柱とも云える人物です。一見から千の要素を読み解き、寸分の狂いなく真実を暴き出す名探偵。もしこの御仁とポーカー勝負をしたなら、貴方でも勝つ事は難しいかもしれません。厳密には異り、その在り方に至っては全くの別物。しかし何処か近しい様にも思える。そんな実に奇妙で珍しい感覚を覚える、面白くも頼もしい先輩です。
「はぁ…。……少しだけだぞ」
「やったー!菫、お茶とお菓子の用意!」
「はいな!っと…、おお太宰も居たのか」
「ちょっと今気付いたのかい?」
「へへ、すまん。テンション上がりまくっててついな。折角だから太宰も一緒にお茶するか?」
「ん〜、じゃあお言葉に甘えて」
「よっしゃ!それじゃあ皆さん、ちょいと待ってて下さいね〜」
今の彼女の姿を見たら、貴方は何を思うでしょうか。
まるで踊る様な軽い足取りで、本心から溢れた笑みに顔を綻ばせて、何の気負いも無く職場の上司や先輩との会話を楽しむ。それが今の彼女です。あれだけ厳重に被り込まれていた猫は、少なくともこの場では見る影も在りません。彼女のこの変化には、勿論私も一役買った自負があります。
けれど、その大半は
痛がりで、臆病で、隠し事が上手な彼女に、当たり前に寄り添い支え続けた探偵社の仲間達の功績です。
そして彼等が其処迄の世話を焼いてくれたのは、あの人付き合いの苦手な彼女が、新たな仲間を受け入れようと自らの意思で奮闘した結果であり、
その根底にはきっと、貴方が遺した言葉が根付いているのだと、私は思います。
「あ、そうだ太宰」
「はい?」
「トドメは刺しといてやったから、安心して良いぞ」
「え?」
「だから、あの面倒臭そうなおじさん。先刻ビルの玄関ですれ違ったから、菫を含めてウチの社員がどう云う連中か、この僕が猿でも判るくらいしっかりと懇切丁寧に教えてやった。ラムネ味のグミみたいな顔色で帰ってったから、もうウチにちょっかい掛けて来ないと思うよ」
「「…………」」
「………」
「……ぷっ、ふふふ。ははは!」
「乱歩……」
「だって社長も、あんなのもう相手したくないでしょう?」
「くくっ…はぁ…、いやぁ有難う御座います。流石乱歩さんだ」
「お礼はお前の分のお菓子でいいよ〜」
嗚呼全く、心ある上司と頼れる先輩を持つと悩み事が少なくて助かります。
「え〜、本日はお日柄もよく、お集まりの皆様におかれましては、突然の宴席にご参加頂き誠に」
「あーもう長い!んな堅っ苦しい挨拶後にしな国木田!さぁアンタ達、盃は持ったね?それじゃあとっとと、カンパーイ!」
「「「カンパーイ!」」」
却説話は変わりますが、こと人生に於いて酒とは決して手放せない必需品です。何の面白味もなくただ無情に過ぎて行く時間も、たった一杯の酒盃を添えるだけでその味気なさを多少紛らわす事が出来ます。嘗て貴方と共に過ごした酒場での取り止めない時間は、私にとって数少ない価値ある記憶です。
まぁ、此処で流れる酒の時間は、あの頃よりずっと騒々しく賑やかですけれど。
「それでさぁ、指の間にメスを順繰りに突き立てながら段々と速度を上げてってやったんだが、五周した辺りで奴さん失神しちまってねェ!ったく最近の患者は根性無いにも程があるよ。アンタもそう思うだろう国木田ぁ?」
「仰る通りです与謝野女医!全く最近の若者は心身共に弛んどる!一社会人たる者、もっと理路整然且つ堅実な目的意識を持ち、それを遵守する事に命を掛けて日々を暮らすべきなのだ!!」
「いやぁ〜、まさしく“混沌此処に極まれり”って感じだねぇ」
「まぁこの面子で飲めば当然の帰結だろ。敦君と鏡花ちゃんも負けずにどんどん食べて良いからな?」
「有難う御座います!給料日前で、もう冷蔵庫には豆腐ともやししかなくて…。あ、これ残ったら持って帰って良いですか?」
「おかわり」
「未成年は未成年で実に逞しいね」
探偵社の大人組はその半分以上が蟒蛇の名を欲しい儘にする酒豪達です。その為我が社では、終業後にこうしてちょくちょく酒の席が設けられています。まぁ前職でも一応そう云う機会はありましたが、私としてはこっちの酒宴の方がずっと好ましく感じます。
とは云え、開放的な気分に浸れる酒の席では、矢張り困った事もそれなりにあるもので
「うぉい太宰〜。アンタのその異能、本…ッ当に邪魔だねェ。それさえ無けりゃ、アンタ医務室の常連になってただろうにさ」
「あはは。有難う御座います。本…ッ当にこの異能で良かった私」
我が社の医務室を預かる専属医先生は、酔うとよくこうして私の異能に苦言を漏らします。彼女の持つ治癒能力は、余程特殊な状況下で無い限り私には使えません。それが彼女には随分とご不満な様ですが、私の方はあのエキセントリックな凶行の生贄…、じゃなかった治癒対象から除外された事に心から安堵して居ます。その安堵は、この私が己れの天命に幾ばくかの感謝を捧げたく成る程です。
「ったく、こんな毎日の様に怪我して来る男、
「これこれ、晶子ちゃん其処迄。それ以上は接近禁止。この色男は私のだ」
「はは、安心しな菫。私が興味あんのは此奴の身体だけさ」
「与謝野女医、その発言は色々と語弊が在り過ぎるのでは…」
「そうか。ならば善し」
「ちょ、菫!?」
「おや?意外だねェ。幾らアンタでも多少は妬いて来るかと思ったんだが」
「太宰の外見に興味を惹かれてしまうのは、美意識を兼ね備えた人間である以上仕方のない事だ。だってほら、ご覧よこの神がしんぜ給うた造形美。この美しさに感銘を受けないのは寧ろ人としてどうかと思うぞ」
「…菫…っ」
「後、その辺一々ほじ繰り返してたら辺り一面焦熱地獄と化すしな」
「其処迄酷くないよ!?」
「安心しろ太宰。今の君が私を一番に想ってくれてるのはちゃんと判ってる。だから私も、君が背負うどんな過去も未来も全て受け入れ愛そう。大丈夫。君が女性関係で幾ら焼け爛れようと、全身の発汗機能がほぼ死滅するレベルの大火傷を負おうと、私は喜んで君の盾となり明治政府打倒の礎としてこの命を捧げるさ」
「お前は一体何の話をしておるのだ菫?」
「勝って下さいませ、太宰様。菫は一足先に...地獄でお待ちしてます...」
「発汗機能が失われる程重度の全身火傷…。それなら心停止二分後からの蘇生で
「敦くーん。漂白剤の日本酒割追加でー。最愛の恋人に先立たれた挙句、泥酔したマッドドクターの玩具にされるくらいなら今此処で自決するー」
「すみません。注文はメニューの中からお願いします」
「はい、メニュー表」
そして、茶番を繰り広げる酔いどれ達に全く動じずメニュー表を差し出してくれたこちらの可憐な少女は、敦君同様先日入社した我が社の新人です。
今でこそこうして平穏な日常風景に溶け込んでいますが、彼女もまた、嘗ては私達と同じ夜に居ました。まだ幼い身でありながら、しかし彼女には拭いきれぬ程明確な殺しの才能が秘められて居ます。正直云って彼女が生まれ持ったその力は、この探偵社ではなく元居た暗闇でこそ真価を発揮するものでしょう。
それでも、彼女はこちら側を選びました。
己の才に抗い、己の才に打ちのめされ、一度は諦め掛けた事もありましたが、最後に彼女は人を殺さない道を選びました。
そして今も、彼女はその道を進む為に戦い、その度に証明し続けています。
自分の持つ才能以外の可能性を、人は変われるのだと云う事実を、
殺しの才能があろうと、元殺し屋だろうと、
善人になる資格は、十分にあるのだと云う事を。
「このお鍋具沢山で美味しいね鏡花ちゃん」
「お豆腐も美味しい」
「いやぁ〜、鏡花ちゃんもすっかり探偵社に馴染んだようで良かった良かった。私も右腕の骨を折った甲斐があったと云うモノだよ」
「其処は比喩に留めといておいて欲しかったな…」
「………」
「? 鏡花ちゃん、どうかした?」
「……前に作って貰ったお豆腐も、凄く美味しかった」
「え?」
「それって、もしかして前に太宰さんが作ってくれた堅豆腐の事?」
「嗚呼。あれは太宰君の創作料理の中で珍しく人体に悪影響を及ぼさない代物だからな。まぁ調理の過程で鋸が必ず一本犠牲になるけど…」
「ウチは夜叉白雪で何とか食べられる薄さに切りましたね。でも独特の歯応えがあって、確かに美味しかったですよ!」
「また食べたい」
「ふふ、勿論。実を云うとね…、あの堅豆腐が君達に大好評だったと聞いて、私もより良いモノを作ってあげねばと密かに改良を重ねていたのだよ。そして遂に、先日その改良版が完成した。その名も“太宰特製、真・堅豆腐”!味も堅さも以前の三割増し!あの硬度ならもう夜叉白雪の斬撃も通らないぞ!!」
「一体何と張り合っておるのだお前は」
「ん?待ちな。ってぇ事は、こないだ菫が豆腐切ろうとして
「あ〜、うん…。その節はマジで申し訳なかった…。ウチにある工具じゃ文字通り刃が立たなくてさ。流石にチェーンソーならいけるかと思ったんだが…」
「派手に火花を散らして熱戦を繰り広げた末に、刃が耐えきれずに砕け折れたもんね!あ〜あ、砕けた刃がもう少し下に飛んでくれてたら私の首が落ちてたのに…。勿体無かったな〜」
「それは最早豆腐を名乗って良い代物ではないぞ…」
「失礼だな国木田君。確かにチェーンソーでも傷一つ付かない硬度を誇ってはいるけれど、胃に入ればちゃんと消化されて栄養素として吸収されるよ。……多分、きっと、恐らく」
「大丈夫。探偵社員は諦めない。必ず切り刻んで食べてみせる」
「僕も手伝うよ鏡花ちゃん。少し量が減っちゃうけど、虎の爪なら何とかなるかもしれない」
「フッ、流石は私の後輩達だ。その意気込みや善し。だが!果たして私の最高傑作を撃破し食す事が君達に出来るかな!?」
「実は食わせる気無いだろお前」
現世に生を受けてこの方、私にとって世界とは醒める事のない夢でした。
たかだか数千
そんな中で吸う空気は余りに錆臭く喉に貼り付いて、辿り着いた臓腑の底からじわりじわりとこの身を蝕んでいきます。
それが私にとっての人生でした。
それが私にとって生きると云う事でした。
けれどその中には、実に些細ではありますが意外な“想定外”が存在していました。
否、それを想定外と呼ぶには少し大袈裟かも知れません。より正しく表現するなら、それは酒盃の側面に留まった小さな気泡の様なものです。
指先でちょっと盃を弾いただけで、琥珀色のアルコールを抜け世界に溶けて消える小さな泡。
想定の範囲内にありながら、けれど私が考えもしなかった些細なズレ。
それは確かに存在していて。それがあるから、私は未だこうして此処に居るのです。
彼等の様に。彼女の様に。貴方の様に。
その泡を酒と一緒に飲み込んで初めて、私はようやっと真面な息が出来た様な気になれるのです。
「まぁ、最悪社長にお願いすればいけるだろう」
「お前は社長の達人技を何だと思っておるのだこの唐変木二号」
「あ〜。ならもういっそ探偵社員全員参加で、最初に切れた奴には豪華賞品なんてのはどうだい?酒宴の余興にはもってこいだろう?」
「豪華賞品!これは益々負けられないね鏡花ちゃん!」
「頑張る」
ただ一つ確かなのは、
貴方に食べさせ損ねたあの堅豆腐が、今後も存外に重宝されそうだと云う事です。
「よいっ…しょ。ほら、着いたよ菫?」
「ん〜?おうそっか…、大義であった。よしよし」
「ふふ、お褒めに預かり光栄ですお姫様」
「其処はお殿様が良い。あ、将軍でもありだぞ。めっちゃ強そう」
「残念だけど其処はちょっと譲れないかな。それより一度背中から降りてくれない?外套脱いで来るから」
「……やだ」
「えー…」
「別に外套着た儘でも良いじゃん。それは君のアイデンティティだろ。それに、室内で外套を着てはいけないと云う法律は無い」
「でもこの儘だと、君の事を抱き締めてあげられないよ?」
「……」
「それに頭を撫でてあげる事も出来ないねぇ?」
「………」
「後、キスもしてあげられないけど…。本当にこの儘で良いの?」
「……………五秒で戻って来いよ」
「善処します」
却説。冒頭で私は彼女の甘えたな一面に就いて僅かに言及しましたね。けれどそれは、何も微睡みに揺蕩う朝に限った話ではありません。こうて好きなだけ酒を飲んだ後、酩酊して意識が曖昧になった彼女は実に愛くるしい甘えん坊さんに変身します。普段以上に私の存在を求め、普段は滅多に云わない様な我儘も次々と要求してくれます。と云っても、実際それは我儘と呼ぶには余りに小さく可愛らしい駄々ですが。
「はい、お待たせ。寂しい想いをさせてごめんね?」
「許してやるから抱っこ」
「はいはい」
「ん〜…。太宰」
「何?」
「好き」
「…ふふ。うん、私も好きだよ菫」
「なぁ太宰」
「なぁに?」
「今日も一応仕事して偉かったな」
「それはどうも」
「でも目覚まし止めやがったのはマジ絶許」
「えー、まだ根に持ってたの?ごめんって、ちゃんと反省してるから」
「反省したなら明日に活かせ」
「気が向いたらね」
二人きりの空間で、彼女の存在だけを感じながら、取り止めもなく紡がれる言葉の羅列は鼓膜から私の中に染み込み、何とも云えない満足感と安堵を血液に乗せて全身に巡らせていきます。その感覚が余りに心地良くて、いっそこの儘死んでしまえたらどんなに素敵だろうと。そんな事を私は何時も夢想してしまうのです。
「あ、それと…な…太宰」
「はいはい。今度は何だい?」
「………」
「……… 菫?」
「……今日も死なないでくれて、ありがと」
「―――……」
嗚呼、矢張り 貴方の
否。
ねぇ、織田作
矢張り君の云った事は、正しかったよ。
善も悪も、私には大差なかった。
そして、沼底の様な悪に浸り切っていたあの頃よりは、佳い行いをして日々を見送る今の方が、幾分か素敵なのも確かだ。
正直柄では無いけれど、そんな時間の使い方にも段々と慣れてきた様に思う。
でもね。それでも私は、
「………駄目だよ菫」
それでも私は、だからこそ
「そんな甘言じゃ、私を誑かすには足りない」
だからこそ今も、私は死を希わずにはいられない。
君に示された生き方を試みて、時間が重なっていく程に、記憶が重なっていく程に、
其処に価値が重なっていく程に。
私はどうしても、約束された終末を想ってしまう。
君と、安吾と、三人で過ごしたあの時間の様に、何時か必ず訪れる崩壊の時を思ってしまう。
だから、きっと君は浮かない顔をするだろうけれど、私は今もこの命に約束された唯一の終わりを待ち望んでいる。
漸く価値を見出せたものを、このガランドウに降り積もった温度を、また失う前に。
「……そっか。そりゃ残念だ」
「………」
「じゃあ作戦変更」
「ん…っ!?……はぁっ。ちょっと、キスは嬉しいけどもう少し情緒ってものを考えて…っ…!」
「…ぱぁっ、へへ。だって君、何だかんだ実力行使が一番効果あんだもん。文句があるなら、早く白旗振って降参するんだな」
「冗談。こんな子供騙しのキスで私を手玉に取ろうなんて二千年早いよ」
「おい、今朝は“私の虜”とか云ってなかったか?」
「うん、云ったね。でも、君の手の平で転がされてやるかどうかは別の話だ。確かに私は可愛らしい我儘を云って甘えてくる君が好きだけど、私にいい様にされて慌てふためく君もだぁい好きだからね」
「悪趣味な上に悪食で雑食とか救いようがねぇな」
「おや?そんな救いようのない男に惚れちゃったのは何処のだ「私だ」
「…ぷっ、ははは!素直で宜しい」
でも困った事に、この小さな重みを、匂いを、鼓動を、温もりを、一度手にしてしまうと、途端に手離すのが惜しくなってしまうのもまた事実で。
こんなにも死を望んでいながら、もう少し、あと少しと、中々布団を出られないものぐさ太郎の様に、ダラダラとこの時間を引き伸ばしながら、一日一日を私は死に損ない続けている。
だから残念だけど、私がその終わりを迎えるのは
もう少し、あと少し、先の事になりそうだ。
「却説それより。安直な実力行使に打って出たからには、当然逆襲に遭う可能性も織り込み済みだなんだろうね?」
「ん?嗚呼、別に良いよ?明日は休みだし、私もそのつもりで仕掛けたしな。うん。そう!これぞ正しく『計画通り』」
「………君、何か段々と狡猾になってきてない?」
「お陰様でな。こりゃ君を手の平で転がすのに二千年も要らないんじゃないか?」
「……その得意顔、すぐに崩して縋り付かせてあげるから覚悟して」
「どうぞご随意に。君がそうやって躍起になってる間に、今日が終わってまた明日が来るなら、私としては願ったり叶ったりだ」
「……はぁ…、全く。これじゃ小悪魔を通り越して女狐じゃないか」
「その女狐に惚れたのは何処の誰だ?」
「………私」
「はは、素直で宜しい」
却説。それではこの他愛もない駄文も、そろそろ結びとさせて頂きます。此処迄長らくお付き合い頂き感謝致します。この先も私が死に損なってまた時が過ぎたなら、また続きを書く事もあるかもしれません。
どうかそれ迄、余り期待せずにお待ち頂ければ幸いです。
敬具
****
紙面を撫で上げる赤い火が、風に揺れる鮮やかな花弁の様に見えた。
手にしていた便箋だったものは、最早その形を殆ど留めていない。ゆらゆらと揺れる火に食い破られた最後の一片を手放すと、それは風に乗って舞い上がり、とうとう灰も残さずに燃え尽きた。
その最後を見送って、私は再び足元に眼を落とす。
そんなに長くない月日の中で、それなりに苔を纏った墓石が変わらず其処にあった。
―――別に、死者に言葉が届くだなんて思っている訳じゃあない。
死んだ人間に先は無い。故に何を叫ぼうと、何を祈ろうと、その言葉が死者に届く事は無い。
と云うか、それでは“死”が持ち得る意味が無に帰してしまいかねないので心底御免被る。
判っている。理解している。私が綴ったあの言葉は、私以外には何の意味も持たないのだと。
それでは何故、私はあんな手紙をしたためたのか。
理由は簡単、―――自分の為だ。
云ってしまえば、これは身辺整理の様なものなのだろう。日々の中で積もり積もった出来事。彼に話したかった出来事。しかしそれを聞いてくれる彼はもう居ない。だから手紙を書いた。彼に読んで貰う為じゃない。私が私の為に書いた、―――親友宛の私の手紙。
「…………」
そう長い時間此処に居た心算はなかったのだが、見ればヨコハマの海と空は黄昏の光に染まっていた。彼が死んでしまったあの時と、同じ色だ。
「それじゃあ私は行くよ。……またね織田作」
その言葉にも当然返事はない。それを理解して尚口にするのは、律儀な恋人の癖が移った所為だろうか。そんな事を考える自分に嗤って、私は墓石に踵を返した。見慣れた街を通って、歩き慣れた道を進む。そして何時もの様に煉瓦造りの赤茶けた
「あ、太宰さん!もう何処行ってたんですか!?」
「くぉるぁああ!!何処をほっつき歩いておったこの唐変木!!」
「嗚呼!ちょ、国木田さん急に暴れないで…熱っ!」
「きゃあ!大丈夫ですか兄様!?お怪我は!?」
「何だい怪我したのかい谷崎?よし、すぐに治してやるよ」
「いいかい皆。先刻僕が推理した豆腐の弱点、ちゃんと狙うんだよ?」
「はーい!」
「了解」
「頑張って下さいね社長!私、応援してますから!」
「うむ」
開いた扉の向こうから、後退りしそうになる程の光と人の声が次々と溢れ出す。すると慣れ親しんだその光景の中から小さな影が一つ、軽やかな足取りで私の前へと躍り出た。
「おかえり太宰。待ってたぞ」
「うん。ただいま菫」
白く冷たい小さな手が私の手を取って室内へと招き入れる。その手に引かれて、私は酒宴の準備が整えられた卓を囲む皆に並んだ。すっかり日常風景として定着したその顔を順に眺めていると、満たされた酒盃が視界に現れる。低い位置から此方を見上げる最愛の笑顔に笑い返して、私はその盃を受け取った。
「はい!それじゃーせーの!」
「「「カンパーイ」」」
盛大な音頭に合わせて、低い天井に次々と盃やグラスを持った手が掲げられた。その中に混ざった自分の手を眺めながら、私は一人眼を閉じて瞼の裏に思い描く。
孰れ来る終わりを。生きると云う行為に組み込まれた絶対の終末を。自分の待ち望むそれを、瞼の裏に思い描く。
嗚呼、でも
もしその最後に一つだけ贅沢が許されるなら、今度こそちゃんとお別れが云えると善い。
最後にそれを云うべき相手が居る人生は、善い人生だ。それが心底辛くなる相手なら、云うことはない。
本当は彼にもそれを云うべきだったのに、あの時は気付くのが余りに遅過ぎて、云いそびれてしまったから。
だからどうか、何時か私が本懐を遂げて終わりを迎えたその時は―――
そんな祈りを込めて、私は小さな泡の浮かぶ琥珀色のアルコールを飲み干した。