hello solitary hand・番外編

名前設定

hello solitary hand
苗字
名前
ミョウジ
ナマエ


それは何気ない日常の一コマから始まった。


「なぁ綺羅子ちゃん。ちょっといいか?」

「何?ちゃん?」

「この髪型ってさ、綺羅子ちゃん出来る?」

「嗚呼、編み込みのハーフアップね。これと同じ様にするなら毛先を巻くからアイロンが必要だけど、出来ると思うわよ」

「そっか。じゃあさ、ちょっとやり方教えてくれないか?自分でやろうとしてみたんだが、どうしてもぼさぼさに成っちゃうんだ…」

「え?これを…ちゃんが…?」

「あ、否…。やっぱ、背伸びし過ぎかな…。こんな清楚系お姉さんみたいな髪型…」

「ううん、そんな事ないわ!絶対似合うわよ!あ、でもそれならも前髪も巻いて流した方が良いわね!」

「前髪を…巻いて…流す…?」

「えっとね、例えばこんな感じで…」

「あら。お二人で楽しそうに何のお話ですの?」

「嗚呼、聞いてナオミちゃん!ちゃんが、ヘアアレンジに挑戦してみたいって云うのよ!」

「え!?本当ですのさん!?」

「あ~…、うん、まぁ…。ちょいと出かける用事があって、それ用に身なりを整えたくてね…」

「それでしたら私、ずっとさんにやって欲しかったアレンジがあって…」

「あ!ずるいわよナオミちゃん!私だってちゃんの髪を弄ってみたいと思ってたんだから!」

「あの…、ホント、こういうの出来るように成れば十分だから。あんまり難易度高い奴は…」

「ではせめて、そのアレンジに合わせたお洋服と装飾品のコーディネートを」

「嗚呼、それは有難い。私、髪留めのクリップくらいしか持ってないからね。ただ、洋服の方はもう青いワンピースって決まっちゃってるんだが…」

「あら素敵!さん肌が白いですから、寒色系が善く映えますものね!」

「ねぇ。この際だからメイクもちょっと変えてみない?目元にもう少し色を入れたら絶似合うわよ!」

「お…おう…。でも私、化粧品あんまり持ってないぞ…?」

「そんなの私のを貸してあげるから!そうだ、折角だからリップももうちょっと華やかな色にしてみましょう!」

「でしたら、爪の方も何か塗って差し上げましょうよ春野さん!」

「いいわねナオミちゃん!色を入れるのも在りだけど、此処は敢えてコーティングだけに抑えて、全体とのバランスを…」

「あ!でもお出かけのシーンによっては、もう少し攻めてみてもいいんじゃありません?」

「一理あるわね。ちゃん、その出かける用事って具体的には何処に行くの?」

「ん?……あ~…、何処だろう…。まだ決まってなくて…」

「え?でも、さんが態々装いを改める程のご用事なんでしょう?」

「…うん。まぁ…」

「あ!もしかして極秘の潜入調査とか?」

「否、そうじゃない。完全な私用だよ」

「私用?」

「どんな?」

「………逢引デート

「「へ?」」

「今週末、逢引デートする事になったんだ。……太宰と」







****







「―――で、どうして僕達迄呼び出されたんでしょうか?」


麗らかな陽光が差し、疎らに人々が往来する穏やかな風景。その一角で陽光の恩恵を遮る物陰に隠れた勤め先の先輩達に、僕は心からの疑問を投げた。


「もう、ご用件は先程お伝えしたじゃありませんか。もう忘れてしまわれたんですの、敦さん?」

「気を引き締めて敦君。これは探偵社が扱う中でも間違いなく最難易度を予想される案件。先ず間違いなく、一筋縄ではいかないわ」

「最難易度の案件って…。でもこれ……、


ただ太宰さんとさんの逢引デートを覗き見に来ただけですよね?」


その瞬間、物陰から双眼鏡を覗き込んでいた二人がほぼ同時に振り向いた。心なしか、その表情は今迄僕が見て来た二人のどんな表情より真剣みを帯びていた。


「敦さんはさんが心配じゃありません事!?他の殿方ならいざ知れず、相手はあの太宰さんですのよ!?」

「敦君。私達は遊びや興味本位で此処に来てるんじゃいの。これはあくまで、ちゃんを守る為の重要なお仕事なのよ。判って呉れるわね?」

「…は、はぁ…」

「諦めろ敦、ああなってはもう何を云っても無駄だ」

「国木田さん…」

「ごめんね敦君…。ナオミがどうしてもってきかなくて…」

「あら兄様、ナオミのお願いを聞くのが不満ですの?」

「い、否…、そう云う訳じゃ…あっ!」

「うふふ、兄様にもしっかり協力して頂きますからね?寧ろこういう時こそ、兄様の異能が一番頼りになりますもの…」

「鏡花ちゃんも、得意の隠密行動頼りにしてるわね」

「…頑張る」

「はぁ…」


此処に呼び出されてから何度目になるか判らない溜息を吐いて、僕は改めて招集されたメンバーを見やった。僕、鏡花ちゃん、国木田さん、谷崎さん。そして僕らに声を掛けたナオミさんと春野さんだ。

『最重要案件』と聞いて鏡花ちゃんと二人急いで招集に応じた結果云い渡されたのは、『太宰さんとさんの逢引デートを監視する』と云うよく判らない仕事だった。と云うかこれ、本当に仕事なんだろうか?


「国木田さん」

「何だ?」

「ナオミさんや春野さんは仕事だって云いますけど、国木田さんはこれどう思います…?」

「“仕事”、と迄呼ぶ気は流石にない。が…」

「が?」

「つくづく遺憾ながら、俺はあの二人の拗れに拗れた恋路に二年もの間巻き込まれて来た。太宰に距離を置かれ気落ちしたに気晴らしがてら武術の指南をし、逆にから距離を置いた事で自爆し続ける唐変木の阿呆臭い愚痴を厭と云う程聞かされてきた。だからこそ、俺は今も帰らずこの下らん監視ごっこに付き合っているのだ。考えてもみろ、もし万が一この逢引デートでまた奴等の間に何か問題が発生すれば、俺は再び犬も食わない痴情の縺れの渦中で板挟みにされるのだぞ…。それだけは絶対に阻止しなければならん。漸く解放され手に入れたこの自由を、またあの七面倒なバカップル共に奪われて堪るものか…っ!」

「あ…、その…。頑張って下さい…」

「しっ!お二人ともお静かに!」


完全に鬼の形相で眼鏡のブリッジを上げた国木田さんに、僕はそれ以上言葉を掛けるのを辞めた。その時、物陰から辺りを見回していたナオミさんが声を潜めて僕達を制した。見ると春野さんも口に人差し指を当てながら手招きをしている。その通りに物陰から覗いてみると、見慣れた蓬髪が見慣れない装いで噴水の前に立っていた。


「黒のパンツと白地に黒のストライプシャツにグレーのジャケット…。一見シンプルに見えるけれど、だからこそ素材の良し悪しが全てを左右する装いね。しかも、普段掛けもしないサングラスを態々ワンポイントとして胸元に引っ掛けておくなんて…。完全に自分の顔の良さを理解しているわあの人」

「でも、待ち合わせ迄まだ十五分ある…」

「そンな…、あの太宰さんが約束の時間より早く来るだなンて…」

「いいえ兄様。あれは恐らく普段時間にだらしないご自分の性質を逆手に取った戦略。約束の時間より早く到着し、敢えて待つ事でさんのハートを初手から掴もうと云う巧妙な作戦ですわ」

「何でもいいが、時間通りに行動できるなら仕事でもそうしろ」

「て云うか、あの二人って同居してるんですよね?何で態々待ち合わせなんてしてるんですか?」

「太宰さんからの提案らしいですわよ?“その方がわくわくするから”って」

「はぁ…」

「あ!皆見て、ちゃんも来たわよ!」


春野さんの声にその場の一同が目を向けた。その先に見えたさんの姿に、僕は目を見開いた。緩く編み込まれたハーフアップ。色のある華やかな化粧。見慣れない黒のパンプスが踏み鳴らされる度、白いシフォン生地の羽織の下で鮮やかな青いワンピースがひらりと揺れる。何時もの簡素な出で立ちとは全く違う、女性らしい装いに言葉すら浮かばない。他の皆も、僕と同じ様に普段と全く違うさんの姿に驚いている様だ。


「誰ですか…あの人…」

「もう兄様ったら!さんに決まってるじゃありませんか!」

「凄いでしょう?私とナオミちゃん完全監修の下、ちゃんのポテンシャルを全て引き出した結果よ!」

「馬子にも衣装と云うヤツか…」

「綺麗…」

「うん…、そうだね…」

「ただ、ちゃんを大変身させた迄は良かったんだけど、そのお披露目先がねぇ…」

「正直云って、あの姿のさんを前にして、太宰さんが何処まで常識的な行動を保っていられるか心配で…」

「なら…、あそこまで気合入れなくても良かったんじゃ…」

「仕方なかったのよ。だって楽しくなっちゃったんだもの!」

「そうですわ!あんな磨き甲斐のあるダイヤの原石を前にして、手抜きなんて出来る訳ないじゃありませんか!」

「おい、もう少し静かにしろ。奴等の会話が聞こえん」

「あ、それでしたらご心配なく。既にさんの鞄に盗聴器を」

「何してるんですかナオミさん!?」

「だって、あのお二人の尾行ですもの。これくらいの仕込みは当然ですわ」


そう云ってナオミさんは取り出した受信機の電源をいれた。すると其処から、耳馴染んだ二人の声が聞こえてくる。


『太宰!?え?何で先に?』

『やぁ。何でって、男が逢引デートで女性を待たせる訳にはいかないだろう?だからちょっと早めに来て待ってた』

『ごめん…、待たせて…』

『謝る事は無いよ。私がそうしたかっただけだし、だって時間より早く来てくれてるじゃないか。まぁ、もし君が遅刻して来たとしてもそれはそれで楽しそうだけどね』

『え?』

『だって“君が何時現れるんだろう”って、ずっとわくわくしながら過ごしていられるもの』

『太宰…』


「おい、あのバカップル共一回投げ飛ばして来て良いか?」

「国木田さん抑えて…」


『それより、ちゃんと私が見立てて上げた服を着て来てくれたんだね。とても似合ってるよ』

『まぁ、約束したからな』

『それに今日はとても華やかで素敵だ。髪や化粧は自分で?』

『綺羅子ちゃんとナオミちゃんにも手伝ってもらった。装飾品とかも貸して貰って』

『それはそれは、後で二人にお礼を云わないとね』

「「「!!」」」


その時、さんとの会話に花を咲かせていた太宰さんの眼が、僕達が潜んでいる物陰に向けられた。鋭利な鳶色が全て見透かして居るとでも云う様に弧を描く。


『太宰も今日は何時と違うんだな』

『当然。の為にちょっと気合を入れてみました!如何だい?決まってるかな?』

『うん!何時にも増して男前だ』

『うふふ、も何時にも増して綺麗だよ。社の皆にも見せてあげたいくらいだ』

『ん〜、それはちょっと気恥ずかしいかな…』

『なら仕方ない。と云っても、抑々今日のの装いは私の為のもの・・・・・・だからねぇ。まぁ?精々遠目で眺めるくらいなら許してあげても善いけど』


そう云って太宰さんはさんの腰に手を回して抱き寄せた。柔らかそうに揺れる髪にそっと頬を寄せて、さん越しにまた此方に眼を向けた太宰さんはニヤリと笑ってべぇっと舌を出す。


「………彼奴…完全に気付いてるな…」

「や、矢っ張りやめておきましょうよ…。此の儘だと、太宰さんにどんな目に遭わされるか…」

「いいえ、寧ろ好都合ですわ。私達の眼がある事を自覚して居るなら、太宰さんも妙な真似は出来ない筈。此の儘尾行を続行しますわよ」

「あ!二人が動いたわよ!」


見るからに仲睦まじく手を繋いで歩き出した二人に、春野さん達は息を潜めて着いていく。そんな社の先輩達にまた溜息を吐いた僕の肩を、隣にいた鏡花ちゃんが静かに叩いた。





****






「こ、此処は…」


二人を追って辿り着いたその場所を見上げる。広い敷地、多種多様な広告と展示、行き交う人々の賑わい、思わず見上げてしまう程大きなショッピングモールだ。


「え?大丈夫なんですか此処で…。確かさんって人が多い所は苦手なんじゃ…」

「だよね…。まぁ太宰さんが一緒なら、さんも異能で人を弾く事は無いだろうけど…」

「いいえ、逆よ」


その時、小声で話す僕と谷崎さんに春野さんが眼鏡のブリッジを上げて反論を呈した。


「確かにちゃんは人混みが苦手だけど、こう云う場所への興味が無い訳じゃないの。実際に、私達と一緒に居酒屋さんに行ける様になった時も凄く喜んでたし」

「そして兄様の云う通り、太宰さんが付いていればご自身の異能を心配する必要も無い。ある意味、太宰さんとの逢引デートだからこそ来られた場所と云う訳ですわね」

「恐らくそれだけでは無いぞ」


完全に解説者が定着して来た二人の横で、更に国木田さんが前を歩く二人の後ろ姿を指さした。その先に視線を移すと、今迄手を繋いでいただけだった二人の距離が更に縮んでいる。それも太宰さんの肩に掛ったジャケットの下にさんの姿が殆ど隠れてしまう程の密着状態だ。一瞬太宰さんが何時もの調子でさんにくっついているのかと思ったが、よく見ると寧ろさんの方からぴったりと太宰さんに寄り添っている様だ。その光景に、第三の解説者となった国木田さんが逆光に輝く眼鏡を上げた。


「幾ら太宰が一緒とは云え、慣れん人混みはにとっても不安な筈だ。結果、安心感を求めて必然的に太宰との距離が近くならざるおえなくなる。奴め、その事も計算尽くなのだろう。その証拠に、見ろ。先刻からチラチラと此方に腹の立つニヤケ面を向けて居る…」

「うわ…本当だ…。凄いドヤ顔…」

「完全に見せつけに来てますねアレ…」


そうこうしている間に太宰さん達はケーキ屋さんの前で足を止めた。少し話した後其の儘入店した二人を追って、僕達も店に入り仕切りを挟んだ隣の席に座った。其の儘だとさんにバレてしまうので、細雪で別の映像を映しながら僕達はなるべく会話を控えて二人の声に耳を傾ける。


「注文は決まったかい?」

「ん〜、もうちょっと。もうちょっと待って。季節限定は魅力的だが、矢張り定番も捨てがたくて…」

「なら私がこっちを頼むから、君はその限定品を頼むと善いよ。後で半分わけてあげる」

「良いのか!」

「うん。だって私、美味しそうに食べる君の顔が大好きなんだもの」

「っ!有難う太宰。私も美味しそうに食べる君が大好きだぞ!」


そんな会話を真横で聞いていた国木田さんが、口元を押さえながら珈琲をブラックで注文した。鏡花ちゃんがメニュー表の苺ショートを見て目を輝かせていたので、それも一緒に頼んでおいた。暫くして品物が届くと、隣からさんの歓声が上がる。


「わぁ…!美味しそうだなぁ!矢張りお店の品は見た目から一味違うな!」

「そうかい?私は、君が作ってくれるケーキも負けてないと思うよ?何せあの組合ギルドの長にスカウトされた程だ。もし君がお店を開いたら、私は毎日の様に通っていただろうねぇ」

「ふふ、有難う。でも私の作る物が美味しくなるのは、多分好きな人の為に作ってるからだぜ?」

「おや、それじゃあ矢っ張り今の方が良いかなぁ。君が私の為だけに作ってくれた料理を毎日食べられるんだもの。…まぁ、仮に君が作ってくれた物じゃなくても、こうして君と一緒に食べられるだけで私は何でも美味しく感じてしまうのだけどね」

「私も、太宰と食べるご飯が一番美味しくて好きだぞ」


届いたブラック珈琲を一気飲みした国木田さんが二杯目の珈琲を注文した。鏡花ちゃんは苺ショートを数口頬張った後、ナオミさん達に一口づつ分けてあげていた。


「ん〜!美味い!ホント甘いものは至高だなぁ」

「善かったね。それじゃあ、はい。こっちのもどうぞ」

「お、有難う太宰!…ん、やっぱ定番メニューは安定の美味しさだな!じゃあ太宰にもお返し」

「あ〜ん。…うん、本当だ。美味しいね

「だろ?セットの紅茶も絶品だ。はぁ〜…幸せ…」

「ふふ…」

「何?」

「ん?別に?ただ、が可愛いなぁって思ってただけ」

「………おう、ありがと…」

「うんうん、最近大分素直になってきて益々可愛い」

「あ、否…。余り連呼しないでくれ…。流石に照れる…」

「照れた顔も可愛いよ?」

「おい、太宰!」

「ははは、ごめんごめん。だって本当に可愛いんだもの」

「……意地が悪い…」

「じゃあお詫びにもう一口あげる。ね?これで許して」

「………」

「ほら、あーん」

「……あー」


二杯目の珈琲を店員さんから引ったくり飲み干した国木田さんが、カップを持って直接厨房に三杯目を貰いに行った。僕も何だか喉が渇く様な変な感覚がして店員さんに水を頼むと、隣にいた谷崎さんもげんなりした顔で胸元を押さえながら一緒に水を注文した。しかしその間も、真横から二人の何とも云えない空気が漂ってきて、最終的に僕と谷崎さんもブラック珈琲を注文する羽目になった。






****







その後も二人の逢引デートは順調に進んでいった。ケーキ屋さんを後にした二人はショッピングモール内の雑貨屋さんや洋服屋さんや、果てには家電売り場に迄足を運んでいた。何ならこの時が一番さんのテンションが高かった気がする。「見ろ太宰!この調理器具油無しで揚げ物作れるんだって!凄いな!!」と、まるでロボットを前にした男子小学生の様に眼を輝かせる彼女を、太宰さんはまるで我が子を見る様な実にほっこりした眼で見つめていた。尚、その間尾行を続けていた僕達は度重なる惚気と糖度に何度も膝を折りかけた。主に国木田さんが。ただ女性陣はそうでもなかったらしく、時折真剣な顔で解説を口にしつつも、後半は普通にウィンドウショッピングを楽しんでいた。

そして大分日が傾いて来た頃、二人は漸くショッピングモールを後にした。


「あの…ナオミさん、春野さん…。これ何時迄続けるんですか?」

「勿論お二人の帰宅を見届ける迄ですわ」

「えぇ…っ、もうやめましょうよ…。僕達は兎も角、国木田さんはもう限界ですよ…」

「離せ谷崎!珈琲を!否、この際苦ければ何でも良い!この甘ったるい胸焼けを掻き消すものを寄越せ!!」

「国木田さん落ち着いて!」


完全にカフェイン中毒を起こし、自販機に走ろうとする国木田さんを谷崎さんが必死に止めていた。その異様な光景を前にして尚、春野さんはごく普通に困った様な溜息を吐いた。


「国木田さんには申し訳ないけれど、まだ撤収する訳にはいかないわ。寧ろ一番危険なのはこれからなんだから」

「ええ。幸い此処まで太宰さんに不審な動きはありませんでしたけど、それすら私達を油断させる為の策略である可能性がありすわ。此処で私達がすんなり帰ってしまったら、監視の眼から解き放たれた飢獣…、基太宰さんが灯りの燈り始めた夜の街にさんを連れ込まないとも限りません」

「…………否、幾ら太宰さんでもそれは無いんじゃ…」

「無いと云い切れるの敦君。本当に?」

「…………いいえ…」

「あ、止まった」


一人真面目に見張りをしていた鏡花ちゃんが零した声に、国木田さんと谷崎さんを除いた全員が物陰から様子を伺う。何やら二人で話している様だが遠くてよく聞こえない。するとナオミさんがすぐ様盗聴器の受信機を起動させた。如何やら、これから如何するか相談している様だ。


『ん〜。私はもうちょっとブラつきたいかな』

『おや珍しい。君が家に帰りたがらないなんて』

『だって、折角君と出歩いてるんだし。もう少し外で一緒に居る時にしか出来ない事をしたい…』

『ふふ、嬉しい事を云ってくれるね。成る程、“外で一緒に居る時にしか出来ない事”…か…。それじゃあ、ちょっと私に着いてきてくれるかい?』

『良いけど、何処行くんだ?』

『うふふ、とぉっても素敵な所だよ』


「「「!?」」」


その会話を聞いていた全員の空気が完全に凍った。しかしそんな僕達の状況など知る由もなく、さんが不思議そうに鸚鵡返しする声が聞こえる。


『素敵な所?』

『そう。誰にも邪魔されず、二人っきりで朝まで楽しめるとびっきりの場所』


首を傾げるさんを抱き寄せる太宰さん。その姿が小動物に鼻先を近づける狼に見えた。抱き締めた事できっとさんからは見えないで在ろうその顔は、紫がかった空の下で怪しく微笑む。今すぐにでも飛び出して行きたいのに、その場の誰もが暗がりにギラつく鳶色を前に動けずに居た。只一人、その状況を理解していないであろうさんが、実に呑気な声で問う。


『何処だそれ?』

『うふふ、そ・れ・は…』









****








「良かった!!ただのカラオケ店で!!」


太宰さんがさんを連れてやって来たカラオケ店。その別室を借りて漸く腰を落ち着けた僕は、心からの安堵を込めて両の拳を卓上に叩きつけた。他の皆もすっかり脱力した様に各々長椅子に鎮座している。


「完全に踊らされましたわね…」

「ええ、明らかにこっちを見ながらしたり顔してたものね…」

「ま、まぁでも良かったじゃないですか…。ただのカラオケ店で…」

「初めて来た…」

「あ、実は僕も。と云っても、そんなに歌に自信は無いけど…」

「ふん。孰れにしろ好都合だ。あの阿呆共がイチャつく姿をこれ以上見ずに済む」

「いいえ、安心するのはまだ早いですわ。万が一に備えて、一応会話だけはちゃんとチェックしておきましょう」

「そうね。流石にカラオケ店で何かあるとは思えないけれど、相手はあの太宰さんだし用心に越した事は無いものね」

「二人の太宰さんに対する信用の無さが凄い……」

「でも態々逢引デートでカラオケに来るって事は、太宰さん相当歌に自信があるのかな?」

「どうでしょう?国木田さん知ってます?」

「却説な。偶に鼻歌を歌っているのを耳にするが、抑々歌詞が巫山戯過ぎていて歌唱力どころの話じゃ」


『真っ暗な程に〜、きれいな、瞳が、瞬く〜♫そっと抱き寄せて〜、優しい、獣の、声でYou can do, we can do, try♪』


「「「……………………え?」」」








****








生きてて良かった。最近そう思う事が大変増えたがその中でもトップクラスに生きてて良かった。有難う神様本当に有難う。

異能力三組織三つ巴の戦争が終幕し、漸く何時もの日常を謳歌出来る様になった私達は、また厄介事が始まる前にと念願の逢引デートを決行する事と相成った。と云っても、今回は正式に恋人同士になってから初めてのお出かけになる。結果自然と下準備にも気合が入って柄にもなく粧し込んでしまったが、本音を云うと気合の居れ過ぎを笑われてしまうのではと不安でもあった。しかし、待ち合わせ場所に行ってみれば太宰の方も普段とは違う装いで、しかも早めに行った私より先に来て待って居てくれたのだ。申し訳ないと云う気持ちが先に立ったのは確かだ。だが、それ以上にどうしようも無い程嬉しかったのも事実で、“華やかで素敵だ”とか“何時にも増して綺麗だ”とか、そんな今迄流していた月並みな言葉が自棄に鼓動を忙しくした。

一度行ってみたいと思っていたショッピングモールにも行けた。正直、最初は人の多さに喉が張り付くような感覚に襲われたけれど、太宰がずっと傍で話しかけてくれたから、何時の間にか彼以外何も気にならなくなっていた。最初に訪れたケーキ屋さんも、ずっと正面に居る太宰の顔を見ながら食べていた所為か、自棄に美味しく感じて。砂糖も居れていない筈の紅茶迄、何だかほんのりと甘く感じた。その後も、雑貨屋さんや洋服屋さんを見て回った。太宰が「どれか一つ買ってあげようか?」なんて云うから、「国木田君のカード払いじゃないならな」と返すと、太宰は残念そうに肩を落として「じゃあ贈り物はまた今度だね」と苦笑した。後で国木田君のカードは返させようと心に誓った。家電コーナーが一番楽しくて、最新のオーブンレンジとかフライヤーとか炊飯器とかを眺めながら、これが在ったらもっと色んなものが作れるのになぁと脳内で給料明細と家計簿との相談を繰り広げた。一瞬心の太宰が「国木田君のカード」と囁いたが、寸での所で踏み止まった。

そんな愉快な時間を過ごして夕暮れを迎えた道中、不意に太宰からこの後の事を聞かれた。未だ遊んで歩くか、それとも帰るか。きっと、外を歩き回るのに慣れていない私を気遣っての提案だったのだろう。けれど、折角何時もと違う格好をして太宰と一緒に外を歩けるこの貴重な時間を、私はまだ楽しんでいたかった。何より、太宰が一緒なら何処に行ってもきっと私は怖い思いをする事は無いだろう。だからその意思を伝えると、太宰は本当に嬉しそうに微笑んで私を此処・・に連れて来てくれた。


そう。誰にも邪魔されず、二人っきりで朝まで楽しめるとびっきりの場所。


「私もう今生に思い残す事は無いわ。私の二十四年の人生は今この時の為にあったのだ…」

「おやおや?それじゃあもう次の曲は聞かなくても善いのかなぁ?」

「是非聞かせて下さい!お願いします!!」

「うふふふふ、それじゃあお望みの儘に。さぁ、私の美声に心ゆく迄酔いしれてね!」


足取りも軽やかに連れて来られたカラオケ店。そこで始まった太宰治ワンマンライブ。現在、開始一時間足らずで私の聴覚は既に天国での耳ヘブンズ・イヤー状態だ。助けて、太宰の声がいつも以上に美しい。

音楽とは無縁ですっかり忘れていたが、元々太宰もとんでもない歌唱力の持ち主だった。しかも中也とはまたベクトルが違っていて、どちらかと云うとバラード曲が似合う綺麗な歌声だ。中也の歌を“格好いい”と表現するなら、太宰の歌は正しく“美しい”と呼ぶに相応しいだろう。そんな超絶歌唱力の持ち主が、甘いラブソングからムーディーなジャズソング迄、己の持ち味を遺憾なく発揮出来る選曲をここぞとばかりにデンモクに入力しまくっている。しかも歌いながらこっちに向けてやれウィンクだの投げキスだの、果てにはCメロの伴奏が薄くなる所を見計らって囁く様に歌いながら顎クイ迄してくる始末。ファンサが完全に殺しに来てる。明らかに生きて返す気が無い。現にほら、今だって急に方向転換して激しめのロック歌い出したばかりか、態々マイク外して耳元にウィスパーボイスかまして来てんだぞ。確実に息の根止めに来てるじゃん。もう止めて、私のライフはもう零よ!


「却説、お次は~…って、大丈夫?」

「あぁ…、幸福です」


たった一人しか居ないオーディエンスはファンサの過剰摂取で殆ど灰になって長椅子に伏していた。だが、喩え此処で力尽きたとしても悔いは無い。取り敢えず来る共食い編で頭に包帯巻いたロン毛とエンカウント出来なくても、絶対留置所行って断言して来よう。“幸福の在処は此処です”と!


「ねぇ?本当に大丈夫?何か軟体動物みたいになってるけど」

「はは…大丈夫大丈夫…。DOKIDOKIで壊れそうな一〇〇〇%LOVEに、骨格丸ごと融解しただけだから…」

「あ、それも歌ってあげようか?」

「歌えんの!?」

「うん。でも私、そろそろの歌も聞きたいなぁ」

「え…。待て待て、私君みたいに上手くないんだが…」

「上手い下手じゃなくて“の歌声”が聞きたいの。この際童謡でも良いからさ」

「否、それもそれで何かなぁ…。必死に童謡歌ってる姿見られるのも恥ずかしいし…」

「え~、可愛いと思うけどなぁ…。あ!それじゃあ、私と一緒に歌うのなら如何?」

「一緒に?」

「そう!所謂デュエットと云うヤツだよ。それならも少しは気が楽なんじゃない?」

「……まぁ、黙ってガン見されるよりは良いが…。抑々歌えそうなデュエットソングなんて…、あ…」

「何?」

「一つだけあったわ…」







****








「雪だるまつく~ろ~、ドアを開けて~♪一緒に遊ぼう、どうして、出てこないの~♫」

「きゃー鏡花ちゃん可愛いー!」

「本当ね。初めてなのにとっても上手だわ」

「完全に飽きてるな、彼奴等…」

「まぁ…幾ら上手いとは云え、ずっと太宰さんがマイク離さない儘ですしね…」

「でも本当に上手ですよね。矢っ張り太宰さんは凄いなぁ」


受信機の電源を入れた瞬間、室内に響き渡った歌声にその場に居た全員が言葉を失った。よくさんが“太宰は声が良い”と云って居たが、その意味を漸く理解出来た気がする。とは云え、そんな美声もナオミさん達の心を永遠に掴み続ける事は出来なかったらしく、女性陣は僕達に受信機を預けて大分前からカラオケに興じている。そして僕はと云うと、盛り上がる彼女達を横目に受信機から流れて来る太宰さんの歌をイヤホンで聞いていた。


「ごめんね、敦君一人に受信機押し付けちゃって…」

「善いんですよ谷崎さん。太宰さんの歌を聞いているのは、僕も楽しいですし。…あ」

「? どうしたの?」

「いえ…、何か時折濁点の着いた様な短い呻き声みたいなのが聞こえてくるんですけど…。何だろうと思って…」

「え…ま、まさか心霊現象の類じゃないよね…?」

「ふん、馬鹿々々しい。カラオケ店に憑く幽霊など居るものか。大方、ノイズか何かだろう」

「国木田さん…」

「何だ?」

「足、すっごい震えてますけど…」

「………ただのカフェイン中毒だ」


曇りなき眼鏡でそう云い切った国木田さんに苦笑を漏らすと、不意にイヤホンの向こうから“デュエット”という言葉が聞こえて来た。


「あ、次さんも一緒に歌うみたいですよ!」

「何?彼奴が?」

「へぇ以外!さんて、自分から歌うイメージ無かったけどなぁ…」

「太宰さんと一緒にデュエット曲を歌うみたいです」

「え?何々?今度はちゃんも歌うの?」

「わぁ!私もさんのお歌聞きたいですわ!」

「私も…」


つい先刻迄自分達のカラオケに夢中になっていた女性陣が、話を聞きつけて再び集まって来た。その切り替えの早さに苦笑して僕は、両手を上げて皆を制した。


「お、落ち着いて下さい。今はまだ太宰さんが歌ってますから。さんの番はこの後です」

「なぁんだ、そうですの?」

「因みに太宰さん、今はどんな歌を歌ってるンだい敦君?」

「………それが…何と云うか…」

「如何した?」

「いえ、歌自体は何処かのアイドルが歌ってそうなヤツなんですが…、何だろう…さんの合いの手の熱量が凄い…」

「え?」

「あ…で、でも大丈夫です。今終わったみたいなので…。イヤホン外しますね…!」

「ちょっと、聞いてみたかった…」


ちょっと残念そうに肩を落とす鏡花ちゃんにまた苦笑して、僕は受信機からイヤホンを外すと音量を上げた。それを取り囲む面々は各々何処か期待した様に固唾を飲んでいる。だが―――


~♫~♪♬~


ピシリ、と音を立てる様に、イントロを聞いた瞬間何人かが固まった。その反応に首を傾げると、軈て受信機から此処一時間近く聞き続けた太宰さんの歌声が流れ出す。


『馬鹿いってんじゃないよ~、お前と俺は~♪ケンカもしたけどひとつ屋根の下暮らして来たんだぜ~♬馬鹿いってんじゃないよ~、お前の事だけは~♫一日たりとも 忘れた事など無かった俺だぜ~♪』

『よくいうわ ~、いつもだましてばかりで~♪私が何にも知らない~とでも思っているのね~♬』

『よくいうよ~、惚れたお前の負けだよ~♫もてない男が好きなら 俺も考えなおすぜ~♪』


「っ!?」


そして首を傾げていた残りのメンバーも漏れなく凍り付いた。て云うか、え?何この曲?ていうかこの歌詞?


「あ…あの…、これは…」

「えっと…でもほら…、これ凄く有名な曲だから…」

「そ、そうですわね…、偶々さんが歌える曲がこれしか無かったのかも…」


『三年目~の浮気ぐら~い、大目にみ~ろ~よ~♬』

『ひらきなお~るその態度が~気にいらないのよ~♪』


「―――っ!!」


『三年目~の浮気ぐら~い、大目にみてよ~♬』

『両手をつい~てあやまったって~、 許してあ~げ~ない♪』


「「「………………」」」


引き攣った笑顔を辛うじて浮かべていた春野さんとナオミさんが完全に沈黙した。つい先刻迄“さんの歌が聞ける”とわくわくしていた空気が嘘の様に重い。それでも無慈悲な迄に朗々と、太宰さんとさんのデュエットは続いていく。


『馬鹿やってんじゃないよ~、本気でそんな~♪荷物をまとめて 涙もみせずに旅だてるのかよ~♬馬鹿やってんじゃないよ~、男はそれなり~に~♪浮気もするけど 本気になれない、可愛いもんだぜ~♫』

『よくいうわ~、そんな勝手なことばが~♪あなたの口から出てくる~なんて、心うたがうわ~♫』


「………そう云えば…」


不意に何とも気不味い空気の中に、ぽつりと国木田さんの声が落ちた。


「太宰の奴が自宅に寄り付けなくなった反動で女遊びが悪化し始めたのも、丁度同居三年目・・・だったな…」


『私に~だって、その気に~なれば、相手はいるのよ~♫』


「「「……………」」」


『三年目~の浮気ぐら~い、大目にみ~ろ~よ~♬』

『ひらきなお~るその態度が~気にいらないのよ~♪』

『三年目~の浮気ぐら~い、大目にみてよ~♬』

『両手をつい~てあやまったって~、 許してあ~げ~ない♪』


ブチ……。

誰ともなく受信機の電源は落とされ、室内に静寂が戻った。けれど、皆一様に足元に眼を落としながら口を噤んでいる。無理もない。正直僕も何て云ったら云いか判らない。もしあの歌を歌ったのが別の人達なら、きっと“変わった歌があるんだなぁ”くらいで済んだと思う。でもそれを歌ったのは、よりによって“あの二人”だ。美女を見つければ片っ端から心中願いを出す太宰さんと、そんな太宰さんに同居人として四年も付き合って来たさんだ。はっきり云って洒落にならない。


「…さん…、矢っ張り太宰さんが遊び歩いてたの、実は怒ってたンですかね……」

「まぁ…、あの時点ではまだ恋人同士でもなかったからな……。立場上何も云えずに押し殺していた可能性はある……」

「しかもちゃんはちゃんで、理由も告げられずに太宰さんからずっと避けられてたものね…」

「冷静に考えると…、寧ろ怒ってない方がおかしいですわよね……」

「“その気になれば相手は居る”って云ってた…」

「そう云えばさん…、前職の上司の人を凄く尊敬してるみたいでした……。確か今は幹部をやってるって……」

「おい待て、彼奴の前職とは…。心算ポートマフィアだろ…っ」

「「「…………」」」


重い空気が更に氷点下迄急降下した。全員が真っ青な顔をして固まっている中、いち早く我に返った国木田さんが卓上に勢いよく手を着いた。


「全員今すぐ社に戻れ!緊急会議だ!もし本当にがポートマフィアに出戻ってみろ!?探偵社にとって大損失何処ろか、太宰の阿呆がポートマフィアに宣戦布告して全面戦争になりかねん!いいか!何としてでもを引き留めるぞ!!」

「「「了解!」」」


国木田さんの号令にその場の全員が立ち上がった。そして足早にカラオケ店を出ると、月が昇ったヨコハマの街を僕達は探偵社に向かって全力で走った。







****








「おーい、大丈夫か太宰?」


完全に某真っ白に燃え尽きたボクサーのポーズで長椅子に掛ける太宰。先程までトップアイドルもかくやと云わんばかりに輝いていたその美貌は、今や完全に憔悴しきっている。


「否…、思いの外歌詞が突き刺さって……」

「別に私は気にしてないぞ?あの頃はまだ付き合ってた訳じゃないし、浮気にならんだろ?」

「うん…、まぁそれはそうなんだけど…」

「はぁ…、判った。なら罰として一つ私のお願い聞いてくれ。それなら君も納得するだろ?」

「お願い…?」


漸く顔を上げた太宰に安堵した反面、実は何も考えていなかった事に焦る。だが折角の逢引デートの締めを、こんな落ち込んだテンションで迎えられるのは絶対に避けたい。出来ればこの場で直ぐに済むものが善いだろう。となると―――


「よし、じゃあ取り敢えず眼ぇ閉じて?」

「?…うん」

「で、其の儘頭ん中で六十秒数える」

「……判った」


素直にお願いを聞いてくれた太宰に、私は苦笑して手を伸ばす。柔らかな蓬髪を梳き、滑らかな頬を両手で包み込む様に撫でていく。すると親指の触れた目元に伏せられた睫毛が僅かに震えたが、あの美しい鳶色は未だその瞼の裏に隠れた儘だ。ちゃんと云い付けを守ってくれているのを再確認して、私はその唇にそっと口付けた。舌で軽く舐ると直ぐに唇に隙間が出来て、其処にするりと舌を滑り込ませる。多少はノってくるかと思ったが、されるが儘で動こうとしない舌を絡めてとって引き寄せ口先で甘めに食んだ。今日一日で蓄積された感情を還元する様に、出来るだけ丁寧に口付けを施す。太宰が大人しくしてくれているお陰か、“彼を愛でている”と云う実感がより強く感じられて気分が善い。突発的な思いつきだったが、案外名案だったかも知れない。だが“もう少し”と欲が出た瞬間に如何やら時間が来た様だ。私の肩を掴んで押し返すと、太宰は拗ねた様に口を尖らせた。


「…………の意地悪…」

「そう思えたんなら、一応罰として成立したみたいだな」

「幾ら罰だからって、あの時の意趣返し迄しなくてもいいじゃないか……」

「ん…?何が…」

「だから……、資料室の……」

「……嗚呼!あれか!そういやぁ君にも同じ様な事されたんだったな。うわ、懐かしいわ!」


漸く腑に落ちて手を叩くと太宰はこれでもかと云う程眼を丸くして、軈て余計にむくれた。


「あんなに怒ってた癖に…」

「ん〜、まぁあの時はなぁ…。丁度前日に色々あって気落ちしてたのもあったからさ。あ!でも、あれ他の女の子とかにやったら確実に通報されるからやめといた方が善いぞ?」

「は?する訳ないだろう。私だってちゃんと見境くらいありますぅ」

「…………おう、そうか…」

「そうだよ」

「ふふ、そうか……」

「何?」

「否…、きっと云ったらもっと拗ねられるからやめとくわ…」

「幸いな事にもう手遅れだよ。いいから云って」

「そうかい?じゃあ遠慮なく云うが…、

見境ある癖に、私にはキスしてくれたんだな…君…」


案の定、先刻以上に眼を見開いて太宰はまた顰めっ面でそっぽを向いた。けれどその顔は、明らかに赤く染まっていた。


「本当に意地悪」

「嗚呼、そうだな。私はとても意地が悪いんだ。だから、君が一々悩まなくても、存外図太く生きてけるんだぜ?」

「可愛くない…。…可愛いけど」

「否どっちだよ」


何とも矛盾した評価に思わず笑うと、不意に太宰が私の肩に額を預けた。何時もの様にその頭を撫でてやると、長い腕が私の胴に回される。




「何?」

「今日、楽しかった?」

「嗚呼、最っ高に楽しかった。もうすぐ終わってしまうのが心底惜しいくらいだ」

「また逢引デートすれば善い。何度だって私が君を楽しませてあげる」

「そりゃ頼もしいな。でも、太宰もちゃんと楽しくないと駄目だぞ?」

「私は大丈夫。君と逢引デート出来るってだけでもう楽しいもの」

「おう…、そうか…」

「ふふ、其処で照れるんだ?存外図太いんじゃなかったの?」

「それとこれとは話が別だ」

「そうかなぁ?は自分で思ってるよりずっと照れ屋さんだと思うよ。何せ、私の歌を聞いただけであんなに真っ赤になっちゃうんだもの」

「否、あれは仕方ないだろ。君はその美貌と共に己の美声が持つ破壊力についても自覚した方が善いぞ太宰君」

「うふふ、勿論全部態とだよ!」

「クッソあざてぇ…」

「それに、君の認識を改めさせたかったのだもの」

「へ?」


太宰の声に釣られて思わず下に向きかけた視線は、しかし長い指先に誘われて上を向いた。その先で微笑む鳶色が柔らかく弧を描く。


「君の心を奪える歌声の持ち主は、此処にも居るんだよ。

「―――!」


それ迄聞いたどんな歌声よりも甘く柔らかな声音に、私は漸く理解した。太宰が私を此処に連れて来た理由も、たった一人のオーディエンス相手に繰り広げられたワンマンライブの目的も、心臓が止まるんじゃないかと思う程降り注いだ過剰なファンサの意図も、全部理解してしまった。


―――全く、変な所で負けず嫌いなんだから。


そんな苦笑は内心に留めて、私は先刻なぞったその頬にまた指を滑らせる。何処か得意気にも見える鳶色に、私は賞賛を込めて微笑んだ。


「嗚呼、本当だな。根こそぎ全部持ってかれちゃったよ」


すると、得意気だった鳶色が一際嬉しそうに輝いた。それ以上何か云う前に思いっきり抱き締められて、仕方なく言葉を吐く代わりに彼の背中を撫でた。嗚呼、本当に格好良くて、頼もしくて、それと同じくらい可愛い。

―――私の一番、恋しい人。


「……なぁ太宰、折角だからさ。もう一曲だけ私の歌を聞いてくれないか?」

「え?まさかまたあれ歌うの?」

「いやいや。それじゃ申し訳ないと思うから歌うんだよ。今度は私一人でな」

「どんな曲?」


その問いに、私はデンモクを弄って曲名を表示すると太宰に差し出した。それを見て太宰は数度瞬きをして再び私に視線を移す。


「大丈夫なの?これ男の曲だよ?」

「大丈夫。それくらいの音程なら出るからさ。それに…」

「それに?」

「私がこの曲を、君に歌いたい」


すると太宰はまた僅かに眼を見開いて、軈て微笑むと確かに頷いてくれた。太宰が送信ボタンを押して私にマイクを渡す。デンモクでこの曲を見つけた時は正直驚いたが、同時に嬉しくもあった。この世界と私の居た世界はある程度同じだが明確な差異が存在する。それは異能であり、人であり、音楽もそうだ。だからこの世界にも、私が大好きだったこの曲が存在している事が嬉しかった。歌に自信がある訳では無いが、それでも彼の為に何か歌うのならこの曲を歌いたかった。


~♫~♪♬~


聞き慣れた懐かしいイントロが耳に溶ける。たった一人のオーディエンスになるべく視線を向けて、私は深く息を吸い込んだ。


「僕が僕でいら〜れる〜♪……」








****






「あ!お早う鏡花ちゃん。今日も可愛いねぇ」

「お早う」

「あの…ちゃん…」

「! 綺羅子ちゃん。ナオミちゃんも、お早う。いや~昨日は有難うね。本当に助かったわ!あ、そうだ。はいこれ、借りてた装飾品。もう、二人のお陰で昨日は凄く楽しかったよ!」

「楽し…かったの…?」

「うん!太宰とショッピングモール行ってな。ケーキ食べたり、色々見て回ったり、最後にはカラオケにも行ったんだ!」

「カラオケ…ですか…」

「そう、太宰って本当に歌が上手くてさ。皆にも聞かせてあげたかったよ」

「……貴女も…歌った?」

「へへ…、全然上手くないんだけどね…。でも、矢っ張り音楽とは偉大なものだね。“普段言葉にして云い辛い事”も、歌に乗せてならストレートに伝えられるんだから!」

「「「!!」」」

「あ!そうだ!良かったら今度社の皆ともカラオケに…、うわ!?え?鏡花ちゃん!?」

「……此処に居て…」

「お願いですさん!カラオケでも何でもお供しますから辞めないで下さい!!」

「何時でもミィちゃんに会いに来て良いから、転職なんてしないでちゃん!!」

「んんん???」




****




「ん?おやぁ、人様の逢引デートを陰でこそこそ覗いていた三人衆じゃないかぁ!どうしたんだい?次の逢引デート日でも探りに来たのか、うわ!?何、国木田君!?」

「おい太宰…、の歌の事だが…」

「ええ…、君達あそこ迄聞いてたの?本当にいい趣味してるねぇ…」

「その後…、大丈夫だったンですか…さん…」

「え?嗚呼、歌い終わった後にちょっと気不味そうな顔して俯いちゃったけど、直ぐに元に戻ったよ。別に上手い下手は気にしないって云ったんだけどねぇ」

「あ、あの…、矢っ張りさんは、太宰さんに向けてあの歌を…?」

「当たり前じゃないか敦君!君も聞いたのだろう?あの心の篭った歌声を!」

「「「!!」」」

「いやぁ…流石の私も心に沁みたよ…。が是非私の為に歌いたいと云って呉れてね。嗚呼、矢張り歌と云うのは有りのままの心がよく伝わる」

「太宰!今すぐに土下座して来い!!」

「今なら未だ間に合うかもしれません!さんが出て行っちゃう前に早く!!」

「両手を着いて駄目なら額迄着ければ善いんですよ!何なら僕お手本見せますから!!」

「……え?」


かくして、難攻不落の武装探偵社を一晩だけ戦慄に陥れたこの騒動は、後に“三年目の浮気事件”と呼ばれ、そこそこ長く語り継がれる事となったのであった。





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