hello solitary hand・番外編
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港湾都市ヨコハマ。
陸と海の双方に面した土地柄、常に多くの物資が行き交い、万国の貨幣が巡り、多種多様な人々で溢れる混沌の地。時に“魔都”と揶揄され恐れられるこの街は、しかし今宵も夢幻の様に輝く電飾で濃紺に染まった海を照らし出す。
そんな煌びやかな夜景の中、光に追われた影を凝らせ形を得た様な黒が一つ。夜の闇に同化して、どの建物よりも高い場所から街の全てを見下ろす支配者の居城。―――ポートマフィア本部ビルの一角で、不気味な笑い声が木霊していた。
「うわはははっ!やった、遂に完成だ!もう最後に寝たのが何日前なのかも、最後に風呂に入ったのが何日前なのかも、今着ているのが何日前に着替えた服なのかも覚えてないけれど、それでも僕はやり遂げたぞぅ‼︎うはははは!」
天井から降り注ぐ人口灯に照らされて、ボロボロの白衣を纏った男は歓喜に舞い踊る。すると不意に、幾重にも重なった分厚い鉄扉が次々と開き、難解な構築式がこれでもかと綴られた紙で埋め尽くされた研究室に一人分の影が増える。来訪者はその様を一眼見ると、呆れた様に溜息を吐いて頭を掻いた。
「おい梶井」
「ん…?やや!これはこれは中也殿!丁度いい所に‼︎」
「何が“丁度いい”だ。手前、幾ら本部の研究室内だからって一週間も音信不通で引き籠ってんじゃねぇよ。『せめて定時連絡は入れろ』って何度云やぁ覚えんだ?」
「何と!よもやそれ程の時間が経過していたとは…。いやぁ失敬失敬。研究に没頭するあまり、つい時間の流れを失念しておりました。だがしかぁし!そんな過失など些末な事。何せこの梶井基次郎、たった今世界を揺るがす驚天動地の大発明を完成させたのですから‼︎」
「否もっと反省しろよ。生存確認に駆り出されるこっちの身にもなれ」
「まぁまぁ、そう云わず。寧ろ、貴方はもっと喜ぶべきですぞ中也殿。この発明の完成それすなわち、貴方の願いの成就を意味するのですからな!」
「は?俺の“願い”?一体何の事だ?」
「またまたぁ!先日僕に“新薬”の発明を依頼されたではありませんか!ほら、我らが宇宙大元帥勅命の集会後、酒の席で!」
「お、おう?そう…だったか…?」
「そうですとも!故に僕はこの一週間。こうして寝食を忘れ、その“新薬”の発明に心血を注ぎ」
「あ〜、判った判った。取り敢えずその話は後だ。それより手前。まさかとは思うが、その集会で首領に依頼されてた件の方は忘れてねぇだろうな?」
「うはははは!それこそ“まさか”!この梶井にとって宇宙大元帥の命は何よりも優先すべきもの。ほらこの通り!依頼された当日中に完成させておきました!」
「だ・か・ら、それならその日の内に連絡しろってんだよ。はぁ…、まぁいい。ブツが出来てんなら、さっさと首領に献上しろ。…否、その前に先ず風呂入って来い」
「承知致しました!では、幹部殿の仰せの儘に―――」
その時。まるで踊る様に大袈裟なアクションで熱弁する白衣の下で、年季の入った下駄が床を埋め尽くす紙の一枚を踏み締め―――そして盛大に滑った。
「あ」
****
「その際、彼が手にしていた試験官二本が破損。中に入っていた“新薬”が飛び散り、空気中に漏れ出した成分が化学反応を起こして感染性を持つ構造体へと変異。それが研究室内の通気口を通ってポートマフィア本部ビル内を汚染する事態となった。すぐに森さんが異常に気付いて、ビル内を閉鎖するよう指示を出したんだけど、時既に遅し。外部へと拡散したウィルスは空気感染を繰り返し、その結果今に至る。―――と、云う訳なのだよ」
「…否、“と、云う訳”と云われても……」
数少ない安全地帯である資料室に立て篭もり、この悲劇の原因を聞かされた敦君は引き攣った顔で言葉を濁す。そして自分の背後にある扉を僅かに開くと、その先に広がる地獄の光景に彼は再び疑問を呈した。
「それで、どうしてこうなるんですか?」
「わん!わんわんわん!」
「わぉーん!わん!」
「きゃんきゃん!」
扉一枚隔てた向こう側。街の守護者たる武装探偵社の事務所で、多種多様な犬達が我が物顔で吠え散らかしていた。
断っておくが、あれらは決して保護された迷ヰ犬の類い等ではない。ここ数日で瞬く間に拡散し、今やヨコハマに住まう人口の八割が感染すると云う未曾有の大災害。何の前触れもなく、ある日突然己の姿が四足歩行の獣へと変貌する奇病。―――『ヨコハマ人犬病』の犠牲となった
「どうもこうも、先刻説明した通り。全ての元凶は、ポートマフィアが開発した二つの“新薬”さ」
資料室の扉を閉め直し、目を覆いたくなる様な惨状を遮った私は、しかし尚も聞こえる耳を塞ぎたくなる様な喧騒に溜息を吐いて、先刻説明した概要に補足を付け足していく。
「ポートマフィアの構成員は、その多くが常に命の危険と隣り合わせの日々を送っている。肉体的な疲労は勿論、戦闘になれば極度の緊張状態に晒され、“決して失敗できない”と云う任務のプレッシャーは相当のものだ。つまりポートマフィアと云うのは、とってもストレスが掛かるブラック企業のお手本の様な組織なのだよ」
「はぁ…、それと“新薬”と何の関係が…?」
「過度なストレスは視野を狭め、思考を鈍らせ、人を短絡的にさせる。合理的最適解を導く上で実に邪魔な障害だ。それにあの人は腐っても医者だからね。パフォーマンスの質を向上させる為に、過度のストレスに反応する新薬を作らせて、メンタルケアが必要な構成員を選別しようとしたらしい」
「じゃあ、新薬の片方は“ストレスに反応する薬”って事ですか?」
「その通り。そしてもう片方が一番の問題なのだけど…。あのミニチュア蛞蝓が、大して飲めもしない癖にまぁたガブガブ飲んで酩酊した挙句、あろう事か“私を犬にする薬”を作れと部下に命令したらしい」
「え?太宰さんを犬に…?…何で?」
「どうせ何時もの調子で私に悪態をついている内に、ノリで口走っただけさ。大した理由なんて無いよ。……ただ、その大した理由も無い酔っ払いの妄言を鵜呑みにして、本当に“人間を犬にする薬”を作られてしまったのが悲劇の始まりだ。
何せ私に投与する前提で作られているから、異能力に頼らない純度一〇〇%の化学物質。当然異能無効化は効かないし、作られたばかりで特効薬も存在しない。そんな厄介極まりない二つの新薬が融合した結果、
―――ストレスが一定のラインを超えると犬になってしまうウイルスが誕生してしまった訳さ」
「だからどうしてそうなるんですか⁉︎」
まるで毛を逆立てた猫の様に荒ぶりツッコミを入れる敦君。そんな彼の肩を叩きながら私はまたしても陰鬱な溜息を吐く。
「落ち着き給え敦君。君の気持ちはよく判る。実際私も、昔使っていた緊急回線で森さんに助けを乞われた時は、何も聞かなかった事にしてこの儘首吊り用の木でも探しに行こうかと本気で思ったものだよ。
しかし、放っておけばこの街のストレスフルな人々は須く犬に変えられ、ヨコハマは今以上に犬で溢れた地獄と化してしまう。だから仕方なく、パンデミック初期の段階で私はポートマフィアの援助要請を受諾し、特効薬の開発を手助けしてあげたと云う訳さ」
「ああ!菫さんが“太宰さんは先んじて事態収束の為に動いてる”って云ってたの、その事だったんですね。…あれ?でも、何で太宰さんが特効薬の開発を?作った本人に作らせればいいのに…」
「云っただろう?ポートマフィアは“とってもストレスが掛かるブラック企業のお手本の様な組織”だって」
「ま…まさか…」
「そう…。そのまさかだよ…」
森さんに泣きつかれ断腸の思いで向かった古巣。だが其処は嘗ての面影など微塵もなかった。内装が変わっていたとか、顔ぶれが変わっていたとか、そんな生易しいレベルじゃ無い。死を生産し、暴力を通貨とし、人の命を石ころ以下の価値で消費する、夜の支配者。街の暗部そのものと恐れられたポートマフィア本部ビル内が、―――犬畜生駆け回るワンワンパークに変貌していたのだから。
「否、本当に帰りたかった。出会い頭に私に吼えかかる躾のなってないチワワを見つけてなかったら、多分その儘記憶を消して帰ってた。それくらいの惨状だったよ。あ、因みに開発者の方は人間の儘だったのだけど、犬になった同僚達から凄まじい報復を受けていてね?特に芥川君の怒りようが尋常じゃなくて、ボロ雑巾の様な有り様だったよ。で、当の本人がもう使い物にならないから、“何とかしてくれ”と私にお鉢が回って来たと云う訳さ。嗚呼全く森さんときたら…、相変わらずとんでもない無茶振りをしてくれる…。私、武装探偵社に転職して本当に大正解だったなぁ。あはははは」
「あの…太宰さん…」
「何…?」
「その…、本当にお疲れ様でした…」
「………うん。ありがとう」
珍しく心からの労いを込めて、敦君は私に一礼した。そんな彼に頷いて、私はここ一週間の忌まわしい記憶を振り払う様に大きく伸びをする。
「とは云え、流石にこの手の分野は専門外過ぎて、私の頭脳を以ってしても特効薬の完成には至らなかったけどねぇ…」
「え…、それじゃあ…っ」
「ふふふ、安心し給え。特効薬は作れなかったけど、残っていた研究資料を読み解いて症状を相殺する“中和剤”の調合には成功した。今、ポートマフィアが量産してる所だから、明日の朝くらいには街中に散布出来ると思うよ」
「良かった!それじゃあ、明日の朝には皆元に戻れるんですね?」
「ああ。明日になれば、この悪夢の様な怪事件も幕を下ろす。犬に変わってしまった人々は元の姿に戻り、再び煩わしい人間社会の渦中でストレスフルな日々を送る事だろう」
「ええっと…、それもそれでどうなんでしょう?」
「人としてこの浮世を生きていくと云うのは、そう云う事なのだよ敦君。まぁもっとも、この武装探偵社に限っては例外かもしれないけれどね。何せこれだけ個性豊かな面々が、各々自分らしく我を通して自由に働いている職場だ。我が社の愉快な仲間達の中で、仕事や人間関係にストレスを感じてる人なんてそうそう居な「わんわんわん!わん‼︎」
「残念ですけど、既に探偵社内にも被害者が出てまして…」
そう云ってまた敦君が少しだけ扉を開けると、その隙間から鼻先を捻じ込んで怒り狂ったジャーマンシェパードが吼え掛かってきた。その目元には見覚えのある几帳面そうな地味眼鏡が掛かっている。
「そ、そんな…っ!まさか国木田君…なのかい…?」
「はい…。この騒動が始まってすぐ発症して、以来ずっとこんな感じです…」
「嗚呼国木田君、なんて姿に…!水臭いじゃないか。そんなに思い悩んでいる事があったなら、何故相棒たる私に相談してくれなかったんだい…⁉︎」
「多分、その相棒が悩みの種だった所為じゃないかと…」
「わんわん!わおん‼︎」
苦楽を共にした相棒の憐れな姿に、私は思わず目頭を抑える。そんな私の嘆きに応える様に、犬と化した国木田君は更にけたたましく吼え、資料室の中に入ろうと扉の隙間に頭を捩じ込んできた。
「ああ!落ち着いて下さい国木田さん!」
「こらこら、駄目だよ国木田君。ほら、お座り、伏せ、待て!」
「わおん‼︎」
「太宰さんも煽らないで下さい‼︎」
「ただいま〜」
その時、扉の向こうから帰還を告げる声がした。どうやら依頼に出ていた名探偵が戻ったらしい。つまりそれは、彼の付き人兼案内役である“彼女”の帰還と同義だ。まさしく吉報を告げるその声に私は勢いよく資料室の扉を開けた。
「おかえり菫!逢いたかったよ〜!」
花も色気も無いどころか、煩雑に散らかった研究室に詰め込まれ苦節一週間。愛しい恋人とは面会は疎か碌に連絡を取る事すら許されず、代わりに喧しい犬達と悲嘆に暮れる元上司に囲まれたストレスを、チワワ中也を弄り倒す事で相殺し続けた私の身体は、今や深刻な菫欠乏症に蝕まれていた。
一刻も早く菫に逢いたい。
あの小さく柔らかな体躯を抱き締めて、白く冷たい手に触れて、私だけを映す宝石の様な瞳を見つめ返して、甘く優しい彼女の匂いに満たされながら、愛おし気に私の名を呼ぶ彼女の声が聞きたい。
最早事務所内に溢れる本件の被害者達、基バラエティ豊かに居並ぶ犬の群れなど気にもならなかった。漸く訪れた悲願の成就を前に、私は踊る様な足取りで事務所の扉へと駆け寄り―――
そして眼前の光景に思わず足を止める。
「あれ?乱歩さん、菫は?」
両手を広げて出迎えた先に居たのは名探偵一人だけ。何時もその後ろに控えている彼女が居ない。すると乱歩さんは私の顔を見るや、何とも微妙な顔で肩を落とすと、何故かその場にしゃがみ込んだ。
「こら、逃げたって仕方ないだろ。大人しくしろ」
こちらに背を向けて、足元に居る何かと格闘する乱歩さん。その姿に嫌な焦燥感と緊迫感が心臓から体内を巡る。軈て、刻一刻と自分の心音が大きくなっていく感覚に冷たい汗が米神を伝い出した頃、乱歩さんは「よいしょ!」と掛け声を上げて私の方へ向き直った。
「一応聞くけど、説明要る?」
そう私に尋ねる乱歩さんの腕の中で、小さな胴長の犬が元々垂れている耳を余計にへたらせていた。「くぅん…」と悲し気な鳴き声を漏らしこちらを見上げる大きな両目。その目を見た瞬間、私の中で最悪の予想が確固たる事実として稲妻の様に響き渡る。
「わんわん!」
「わぁ⁉︎駄目ですよ国木田さん!離れて下さい‼︎」
すると、先刻資料室から踊り出た際、扉に鼻っ面をぶつけてひっくり返っていた国木田君が、まさしく血に飢えた狼の様に私に飛び掛かる。だが、私に噛み付く国木田君も、それを引っ剥がそうと奮闘する敦君も、何なら国木田君に噛まれた事で頭から滴る血で赤く染まった視界も、まるで他人事の様に実感がない。まさしく魂の抜けたマネキンの様にただ其処に立ち尽くす私を見て、名探偵は「矢っ張りこうなったか…」と、腕の中のミニチュアダックスフンドの頭を撫でた。
****
僅か一週間でこの街に嘗てない大混乱を齎した厄災『ヨコハマ人犬病』。探偵社で最初にその犠牲となったのは、国木田さんだった。
ある朝、突然『緊急事態』の報を受け社に駆けつけてみると、事務所の真ん中でこの世の終わりの様な顔をした大型犬が賢治君に頭を撫でられていた。その犬が国木田さんだと聞かされた時は、流石に何かの冗談だと思ったけれど、その後も街中から同様の事件解決を求める依頼が次々に飛び込んできて、僕はその冗談が現実なのだと受け入れるしか無くなった。
ただ国木田さんが初期に発症した事で、乱歩さんがこの奇病の原因が『過度のストレス状態』だと推理してくれたのは不幸中の幸いだった。お陰で未知のウイルスが猛威を振るう中、僕達は比較的冷静且つ迅速に行動する事が出来た。それに菫さんからも、“太宰さんが事態収束の為に動いてる”と報告があり、『太宰さんが動いてくれているならきっと大丈夫』と、そう信じて疑わなかった僕は、日に日に増えていく依頼に追われながら太宰さんの帰りを待っていた。そして、国木田さんが『ヨコハマ人犬病』を発症して一週間経った今日、何時もの様に探偵社の扉を開けると―――項垂れる国木田さん(犬)の隣に、もう一匹犬が増えていた。
「朝から春野っちがおろおろしてて、“始業時間になっても菫が来ない。心配で電話しても繋がらない”って言うから、与謝野さんと見に行ってやったんだ。そしたら、家中から引っ張り出したらしいお前の包帯とかシャツとかにくるまって、小さくなってる此奴が居た。まず間違いなく、ここ一週間“お前に逢えなかった”ストレスが原因だろうね。まぁ、発症しても中身は人間の儘だって事は判ってたから、散歩がてら依頼に連れてって、序でに河原でボール遊びして、今帰ってきた所……、ねぇ聞いてる?」
「……あの…、大丈夫ですか太宰さん?」
明らかにシュンとした顔のミニチュアダックスフンド。基、探偵社内における第二の犠牲者となってしまった菫さんを膝の上に乗せて、乱歩さんが経緯を説明するも、当の太宰さんは床の上に蹲った儘顔も上げない。普段の掴みどころが無い飄々とした言動は見る影もなく、口を開くどころか碌に身動いですらいないのに、丸まったその背中からはこれでもかと云う程暗いオーラが滲み出ている。
でも太宰さんの立場で考えてみれば、この反応も仕方ない事だと思う。国木田さんの時もそうだったが、僕もこんな姿になってしまった先輩に何て声を掛けたら良いか判らなかった。しかも太宰さんは犬が嫌いだ。自分の一番大切な人が、自分の嫌いな生き物に変わってしまったのだから、太宰さんのショックは相当なものだろう。
「げ、元気出して下さい太宰さん!『ヨコハマ人犬病』の中和剤は、太宰さんが作ってくれたんでしょう?なら…」
「敦君…、そう云う問題ではないのだよ…」
顔を伏せた儘、太宰さんは唸る様に僕の言葉を遮る。その声に持ち前の防衛本能が微かな危険信号を察知した。励ますつもりが逆効果だったかと嫌な汗が首筋を伝ったその瞬間、太宰さんは両手で顔を覆いながらも僅かに頭を上げる。
「幾ら緊急事態だったとは云え、菫の繊細さを理解していながら一週間も彼女を放置してしまった後悔と。逆に一週間私が傍を離れただけで、こんなにも精神をすり減らしてしまう菫の愛くるしさと。その愛くるしい菫が、こんな悲惨な姿になってしまった悲しみと。白昼堂々菫と飼い犬プレイを楽しんだと云う乱歩さんへの羨望と。そして何より、全ての元凶である森さんへの憤りとで、もうどうにかなりそうだ…。嗚呼…、この千々に乱れた心を私は一体どう受け止めればいいんだ…っ‼︎」
「どうしましょう乱歩さん。僕、太宰さんが何を云っているのか全然判りません」
「それが正解だよ。下手に首を突っ込んでも面倒臭いだけだから放っておくといい」
顔を覆う指の隙間から覗く太宰さんの両目は、未だ嘗て見た事のない異様な気迫を宿して揺れていた。でもそんな鬼気迫るオーラを纏った太宰さんを一蹴して、乱歩さんは自分の膝の上で縮こまっている菫さんの顔を両手で掴んだ。
「でも良かったな。明日ポートマフィアが中和剤を散布すれば、犬になった人達も元に戻れる。一週間も犬の儘だった国木田に比べたら、今日一日の我慢で済むだけマシじゃないか。だからお前も、何時迄も落ち込んでるじゃないぞ?寧ろ、この名探偵の膝の上で寛げる幸せに感謝してもっと喜ぶべきだ!」
「あの…乱歩さん…。幾ら犬になってるとは云え、菫さんも女性な訳ですし…。あんまり顔とか耳とか引っ張らない方が……」
「何で?別に厭がってないし大丈夫でしょう。なぁ菫〜?」
「イヤ…、でも…矢っ張りやめた方が…。その…太宰さんが凄い顔してるので……」
犬になった菫さんの顔をうりうりとさすり、遂には垂れた耳をパタパタする乱歩さん。動物に対する好奇心が勝ってか、今日の乱歩さんは矢鱈と菫さんを構いがちな気がする。その姿は、まさしく幼児に揉みくちゃにされるのをジッと耐える飼い犬そのもので、正直微笑ましく見えなくもないが、取り敢えず僕の足元に未だ膝を付いた儘、歯を噛み締めている先輩は違う様だ。一瞬でも目にしてしまった、明らかに人がしてはいけない顔を記憶から必死に追いやっていると、机越しに太宰さんの顔を見た乱歩さんがコテリと首を傾げた。
「何?太宰も菫犬触りたいの?仕方ないなぁ。はい、どーぞ」
「―――っ…!」
すると乱歩さんは、菫さんを抱き上げて机越しに太宰さんの前に差し出した。その瞬間、太宰さんは珍しく本気で驚いた様な顔をして床に座り込んだ儘、一
「っ…!ご、ごめん菫…っ。今のは違うんだ…。その、急に目の前に犬を突き出されて…それで思わず…」
でも、どうやらそれは条件反射の様なものだったらしく、一拍遅れて自分の行動に気づいた太宰さんは、慌てたように菫さんに駆け寄る。しかし、当然ながら菫さんは悲しそうに項垂れて、心なしか益々小さくなってしまった様に見えた。そんな二人の頭上に、名探偵の若干呆れた様な声が降り注ぐ。
「ちょっと〜、触るなら早くしてくれない?此奴こんな小さい癖して結構重いから、ずっと持ってるの疲れるんだけど…」
「ら、乱歩さん!だから、幾ら犬になってるとは云え、女性にそう云う云い方は…っ」
「もう、そんなに云うなら敦君が待っててよ。僕はお菓子食べてるから」
「いえ、待って下さい乱歩さん」
このやり取りに飽きてきたのか、乱歩さんが僕に菫さんを差し出したその時、太宰さんが遂に立ち上がった。
「菫は私の最愛の女性です。喩え姿が変わろうと、その事実に変わりはない。彼女が帰るべきは、この私の腕の中をおいて他にありません…っ」
「くぅん…」
何時になく真剣な眼差しで語られたその熱弁に、項垂れて居た菫さんが今日初めて顔を上げた。小型犬特有のくりくりとしたつぶらな瞳を見つめ返し、優しく微笑んだ太宰さんは―――直後、膝から頽れた。
「太宰さん⁉︎どうしたんですか⁉︎」
突然の事に思わず駆け寄ると、再び床の上に沈んだ太宰さんは、青ざめた顔で口元を抑えて居た。
「くっ…何て事だ…っ。一刻も早く菫を抱き締めてあげたいのに、視覚から伝達されたいかにも従順そうな忠犬の眼差しに身体が拒否反応を…」
「えっと…、何を云ってるんですか太宰さん?」
太宰さんの言葉が一切理解出来なかった僕は、思わずそう問うた。だが太宰さんは、まるで極上のホラー映画でも見た様に血の気の引いた顔で、震えながら尚も続ける。
「私が犬の何が嫌いかってね、敦君…。阿諛追従として恥ず、一片の矜持も無く人間に追従して尚、それを己が生の至福とでも云いたげな忠義面で人間を見つめてくる、その眼差し。私はそれが我慢ならないのだよ…」
「え…?あの…それの何が問題なんですか?」
「忠誠心とは、元あるプライドを完膚なきまでにへし折って植え付けるから楽しいんじゃないか…。それなのに、最初から“貴方様に従い粉骨砕身尽くします”みたいな顔で隷属されたら、つまらないを通り越して寧ろ嫌悪感すら湧いてくるだろう…?」
「はぁ…?」
矢っ張り太宰さんが何を云っているのか判らず生返事を返すと、視界の端で菫さんがまた俯いてしまった。一瞬、大好きな太宰さんに訳の判らない理由で拒否されて傷ついてしまったのかと慌てたが、よく見ると菫さんはギュッと目を瞑った儘大人しくしている。その意図に気づいた僕は、床に蹲る太宰さんの肩を揺すった。
「太宰さん、太宰さん!見て下さい、菫さんが目を瞑ってくれてますよ!これなら大丈夫なんじゃないですか?」
「っ!…菫。まさか君、私の為に…っ」
先刻まで青い顔で口元を抑えていた太宰さんは、菫さんのその姿を見て今度は感極まった様に手の中で言葉を詰まらせた。勿論、犬になってしまった菫さんに理由を聞く事は出来ない。それでも、これが犬嫌いの太宰さんの抵抗感を少しでも和らげる為の行動だと云う事は、尻尾の動きで何となく判った。力なく垂れ下がって居た尻尾が、まるで何かを期待する様に左右に揺れている。フリフリと振られるフサフサの尻尾の可愛らしさに、思わず笑みが溢れた僕の横で―――頭を抱えた太宰さんが、額を床に叩きつけた。
「ちょ、太宰さん⁉︎今度はどうしたんですか⁉︎」
「………あざとい…」
「……はい?」
「これ見よがしに尻尾を振って“私は今嬉しいです”アピールしてくる犬、本当にあざとくて厭無理…。そうやって尻尾を振っていれば、全人類と和解出来るに違いないと信じて疑わない様なその反応…っ。ああ…、これだから犬は…っ!」
「否…、多分犬の方は其処迄考えてないと思いますよ……?」
最早云いがかりの域に達した太宰さんの犬論。だが菫さんはそれにすら応える様に、今度は自分の尻尾を後ろ脚の間に挟む様にしてそっと隠す。犬になって尚、太宰さんを気遣うその姿に僕は思わず涙ぐんでしまった。太宰さんに至っては、まるで発作でも起こした様に胸を抑え虫の息になっている。
「菫…っ、君って人は……。くっ…ごめんよ。こんな姿になって、一番辛い思いをしているのは君の方なのに…。嗚呼私は…、私は…っ!」
「ねぇ!何でも良いから早くしてくれない?本当にもう腕が限界なんけど!」
「すみません乱歩さん。もう少し…、もう少しだけ待ってあげて下さい。太宰さん!さぁ」
僕の言葉に頷いた太宰さんは、意を決した様に菫さんを見据える。そして深く息を吐くと、その儘一気に菫さんへと手を伸ばした。太宰さんの両手は菫さんの長い胴をしっかりと押さえ、それを見た乱歩さんは長らく菫さんを支えていた手を離して「やれやれ」と振った。
「はぁ〜疲れたぁ!全く、この名探偵をこんなに待たせるなんて。罰として二人共、駄菓子屋さんでラムネ三本ずつ買ってきて……、ねぇ聞いてる?」
「はい、はい…っ。ラムネでもポテチでも何でも買ってきます。…グスっ」
「菫…。嗚呼、菫…っ!待たせてごめんよ菫〜!」
「……何でそんなに盛り上がってるんだ君達は…」
「すみません。思わず感動してしまって…。でも、本当に良かったですね菫さん。漸く太宰さんに逢えて」
そう云って顔を覗き込むと、太宰さんの腕に抱えられた菫さんが小さく頷いた様に見えた。未だ目を瞑り尻尾も隠した儘だけど、それでも菫さんが喜んでいるのは何となく判る。太宰さんもあれだけ犬を厭がっていたのに、小さな体をすっぽりと胸の中にしまって嬉しそうに頬擦りしていた。きっと菫さんを想う気持ちが、元々の犬嫌いを上回ったのだろう。多少見た目は違うけれど、見慣れた微笑ましい光景が戻ってきた事にホッとしながら、僕は試練を乗り越えた先輩に笑いかける。
「太宰さんも、おめでとうございます。正直普段は聞き流してましたけど、改めてお二人の絆の深さがどんなに凄いか実感しました。まさか、あんなに犬を毛嫌いしていた太宰さんが犬嫌いを克服出来るだなんて―――」
「え?私、未だに犬は嫌いだよ?」
「え゛?」
突然現れた一片の光もない真っ暗な鳶色に、僕は全身どころか声音すら凍りついた。でも、その発言に衝撃を受けたのは、どうやら僕だけじゃなかったらしい。たった今迄太宰さんの腕の中に大人しく収まっていた小さな頭が、弾かれた様に上を向く。その瞬間、朗らかでのんびりした声と共に事務所の扉が開いた。
「ただいま戻りました〜。さぁ国木田さん、どうぞお先に中へ。今ご飯とお水を持ってきますから待ってて下さ、わっ⁉︎」
「っ!菫⁉︎」
犬になった国木田さんの散歩から戻ってきた賢治君。それを見た菫さんが太宰さんの腕からピョンと抜け出して、一直線に扉の方へ駆けていく。自分の足の間を潜って突然外へと飛び出した菫さんに、流石の賢治君も驚きの声を上げた。そしてそれ以上に驚いた様な声を上げて、菫さんの後を追う太宰さんが廊下へと駆け出す。慌てて後に続いた僕が廊下に出た時には、菫さんは既に降り階段の前迄来ていていた。
「菫!待ってくれ菫…っ!」
太宰さんのその声に、短い四肢が動きを止める。
「菫…」
でも太宰さんが一歩足を踏み出した瞬間、菫さんは逃げる様に階段を駆け下り軈て見えなくなた。後に取り残された僕はどうすしたら良いのか判らなくて、ただ目の前に立ち尽くす砂色の背中を見詰める。菫さんに伸ばしかけた手を力無く下ろして黙り込む太宰さんが、今何を考えているのか。当然だけど、僕なんかの頭じゃ到底判りもしなかった。
それでも、たった今逃げ出してしまったもう一人の先輩の気持ちなら、何となく判る気がする。
太宰さんの声に一瞬だけ此方を振り向いた小型犬の丸い瞳は、先刻とは比べ物にならないくらい悲しそうで。今にも涙が溢れてしまうんじゃないかと思うくらい、
―――寂しそうに見えたから。
****
嗚呼、最悪だ。
最近あった最悪の中でトップクラスに最悪だ。
たった一週間、彼に逢えなかった程度でこんな体たらくを晒してしまった事も。
それがよりによって、彼が嫌うモノの中でツートップを張る生き物だった事も。
気乗りしない仕事を押し付けられて、疲弊いているであろう彼に余計な心労を掛けてしまった事も。
何より、
犬嫌いを押し殺して漸く彼が触れてくれたのに、たった一言発せられた“その言葉”に耐えられずに逃げ出してしまった自分が、
情けなくて、腹立たしくて、厭になる。
「くぅん…」
探偵社から逃げ出して、この一週間ですっかり犬だらけになった街中を駆け回り、重たくなった脚を止めた橋。その下を流れる川に目を落とすと、波打つ水面に犬とは思えない程辛気臭い顔をしたミニチュアダックスフンドが映っていた。恐らく私は今、生まれて初めて自分の顔を心から惜しんでいる。正直自分の顔なんて大した矜持も愛着もなかったが、それでも人間であるだけずっとマシだ。
「え?私、未だに犬は嫌いだよ?」
判っている。
あれは“犬”に向けた言葉であって“私”に向けた言葉じゃない。
私がこんな姿になってしまって尚、彼は変わらず私を好きでいてくれている。
判っている。判っているんだ。
それなのに。判っているのに、彼が紡いだ“嫌い”と云うその羅列が
―――誤魔化し様がない程に、痛い。
「わん!」
「⁉︎」
その時、背後で突然猛々しい咆哮が上った。思わず振り返えると、私の倍以上ある巨体を怒らせた大型犬が此方を睨んでいた。この『ヨコハマ人犬病』は姿だけが犬に変わる為、言葉を話す事は出来なくなるが、実は同じ元人間の感染者同士なら会話と云うか、ある程度の意思疎通は可能だったりする。現に今日一日、同じ境遇の国木田君とは互いに鼓舞し励まし合ったものだ。しかし、今明らかに敵意剥き出しの唸り声を漏らしながらにじり寄ってくるお犬様は、何を云っているのか全く判らない。つまり、此方は正真正銘の本物の犬。しかも、明らかに飼い犬の類じゃない。多分擂鉢街とかその辺で、日々死闘を繰り広げている系なガチの野犬さんだろう。
「わ、わん…。わうわん?(す、すみません…。何かご用でしょうか?)」
「ぐるるる…」
試しにコミュニケーションを図ってみたが、相変わらず大型犬は唸るばかり。却説どうしよう。これ迄幾つもの危機から私を救ってくれたマスター国木田の教えもこの姿では使えない。逃げるにしても、こっちはとうにスタミナ切れだし。仮に万全の状態だったとしても、こんな大きな犬から逃げ切るのは難しいだろう。そんな事を考えている間にも、大型犬は着実に此方との距離を詰めて今にも飛び掛かって来そうだ。思わず後退った私の後ろ足が、橋の向こうの虚空に抜ける。刹那、あるアイディアを閃いた私は迫り来る大型犬に背を向けた。それを見て大型犬は一際大きな咆哮を上げて、私に襲いかかる。が、その獰猛な牙が届く前に、私の体は橋の下を流れる川へと吸い込まれ水柱を上げる。その儘文字通り流れに身を任せて笹舟の様にぷかぷか遠ざかっていく私に、橋の上の大型犬がわんわん吠えたてているのが見えた。正直何がそんなに気に障ったのか判らないが、取り敢えず難は逃れられた様だ。そう内心で安堵しつつ、安全圏内迄流された私は陸地を目指して水を掻いた。
(……あれ?)
しかし幾ら前足で水を掻いても、私の体は水面をクルクルと回るばかりで全く前進しない。流石に焦って全身で藻掻いてみたけれど、それでも結果は同じだ。その時私は漸く思い出した。今の自分の姿が
―――犬の中でも特別短足の、ミニチュアダックスフンドだった事を。
って嘘だろ⁉︎マジかよ⁉︎幾ら短足代表とは云え犬掻きすらままならんてどう云う事ですか⁉︎何かペットの癒し映像とかで元気に泳ぐミニチュアダクスさんよく見るからいけると思ったのに、ここ迄泳げねぇもんなの?それともあれか?私がミニチュアダックスさんの潜在能力を引き出せてないだけか?てか今更だけど、何で私の犬種がミニチュアダックスフンドなんだよ⁉︎そりゃ他の皆に比べたら足の比率短いちんちくりんかもしれんが、ここ迄短足強調される程じゃねぇだろ‼︎……うん。だよね私が足短いんじゃなくて皆の足が長過ぎるだけだよね?あれどうしよう自信無くなってきたわもうやだ泣きそう…。
意図ぜず残酷な事実に辿り着いてしまった私のメンタルは、マリアナ海溝より深い暗闇へと沈んだ。しかもそれに引き摺られる様に、私の体迄もが流れゆく川の中にゆっくりと沈んできている。メンタルは兎も角、これ以上体が沈むのは拙いと必死に脚を動かすも完全に焼石に水だ。どうしよう。本当にどうしよう。嫌だ。私は、こんな所で溺れ死ぬ訳にはいかないのに―――っ!
「菫!」
その時、私を呼ぶ聞き慣れた声と共にザブンと水飛沫が上がる音がした。水面に浮き沈みする視界の端で、誰かが此方に向かって泳いでくるのが見える。それが誰なのか理解した私は、情けない事に緊張の糸が切れて
その儘意識すらも水面下へと沈んでしまった。
****
いい匂いがした。
アルコールと、薬品と、少しだけ甘い匂い。
その匂いがもっと欲しくて鼻先を擦り寄せると、大きな手が私の頭を優しく撫でる。よく知っている撫で方。でも、何時もより手が大きい気がする。何でだろうと思って重たい瞼を抉じ開けてみると、柔らかく緩んだ鳶色が嬉しそうに弧を描いた。
「おや。やっとお目覚めかい白雪姫?」
まるで飴玉の様な甘い笑顔に、内側からジワリと熱が滲む。その顔をもっと近くで味わいたくて手を伸ばすと、夢の様な視界の中に小さな獣の前足が映った。
「っ―――!」
その瞬間、夢の淵を漂っていた意識が現実へと切り替わる。周囲を見回すと見慣れた襖やちゃぶ台と共に、窓から差し込む夕陽が飛び込んできた。どうやら此処は私と太宰が住んでいる借家で、そして私は今太宰の懐に抱えられているらしい。其処迄理解した私は、すぐ様その場を離れようとした。が、それより先に長い胴をガッチリ抑えられて短い四肢が虚しく空を掻く。
「こらこら。何処に行こうと云うのだい?寝起き早々元気なのは素晴らしい事だけど、君の居るべき場所は此処だろう?」
そう云って、太宰は逃げ出そうとする私を再び懐に抱き締めた。正直云うと、それは嬉しい。それ自体は嬉しいのだが、今は何時もの様に此処に収まる訳にはいかない。だって、今の私は―――
「今君は、私が無理をして犬になった自分を抱き締めているのだと、そう思っているね?」
「っ⁉︎」
垂れ下がった耳を態々持ち上げて、内緒話でもする様に吹き込まれた言葉に息が止まった。それと同時に体の動きすら止まってしまった私を抱え直して、太宰は私の顔を覗き込む。恐る恐る目を向けた先に居た彼は、何時もと何も変わらずに微笑んでいた。
「却説と。それじゃあ君も落ち着いた事だし、早速話し合いといこうか菫?“突然私から逃げた事”とか、“私に断りもなく入水した事”とか。特に後者に関しては、再発防止の為にもじっくり話し合っておかないとね」
前言撤回。何時もより三割り増しお怒りでいらっしゃった。どうやら太宰君は川に飛び込んだ際、眼のハイライトを落としてきたらしい。てか“話し合い”も何も、今私言葉話せんのだけど。脳内でそんなツッコミを入れつつ今後の展開に身構える私の頭を撫でて、太宰は小さく溜息を吐くと仕切り直す様に口を開いた。
「まぁでも、先ず何より先にこれだけは云っておくべきだろう。
………ごめんね、菫」
少し眉を下げて、太宰は本当に申し訳なさそうに笑うと、不意に視線を横に向けた。其処には太宰の布団が敷かれていて、その上に彼のシャツや包帯が団子になっている。今朝、乱歩さんと晶子ちゃんが犬になった私を発見してくれた現場。この一週間、彼への恋しさを紛らわす為に私が積み重ねた、悪足掻きの残骸だ。
「私に逢えなくて、話も出来なくて、寂しかっただろう。こんな姿になって、私に嫌われるんじゃないかって、怖かっただろう。君に触れるのを躊躇う私を見て、悲しかっただろう。本当にごめん」
みっともない醜態の跡を当人に見られた羞恥心に俯いていた私は、その上思っていた事を全部云い当てられて益々顔を上げられなくなってしまった。だがそんな私を、包帯だらけの大きな手が今度は労わる様にそっと撫でる。
「ねぇ菫、確かに私は犬が嫌いだ。でも、それは私が君を嫌厭する理由にはなり得ない。喩え犬に成り果てようと、君が臼井菫である限り、私は君を手離したりしない。
だから安心して此処に居るといい。君の居場所は、此処だ」
そう云って、彼はまた私を抱き締めてくれた。何時もより広い彼の胸の中で、呼吸を繰り返す度に固まった体がゆっくりと解れていく。犬になった所為で何時もより濃く感じる彼の匂いが、この一週間でとっ散らかった私の脳内を徐々に溶かしていく。彼の腕の中が自分にとって一番落ち着く場所だと云う自覚はあったが、こんな姿になって尚それが有効だとは思わなかった。或いは、これが条件反射と云う奴なのだろうか。
嗚呼、これじゃあ正しく“パブロの犬”だ。
そんな事を考えていると、私の狭い額にふと柔らかな感触が落ちた。
「ごめん。本当はもっと沢山してあげたいのだけど、今はこれで我慢して」
思わず見上げた先でかち合った鳶色が、また申し訳なさそうに苦笑する。でも私からしてみれば、本来嫌いな筈の犬に此処迄してくれているのだから、寧ろ感謝しかない。そう伝えたいのに、相変わらず言葉と云うコミュニケーションツールを失った私には、彼への意思疎通が叶わない。まぁ操心術の権化と謳われた太宰君の事だから、多分先刻みたいに私の内心なんてお見通しなんだろうが。それでも矢っ張り、自分の想いはちゃんと自分で伝えたかった。
「菫?」
私の雰囲気が変わった事を察して、太宰がまた私の顔を覗き込む。より近づいたその顔を見つめながら少し思考した後、私は一か八かの賭けに出る事にした。
「―――っ!」
すぐ其処で太宰が息を呑むのが判った。埋めた距離を再び開くと、太宰は驚いた様に頬を押さえている。つい先刻、私が舐めた頬だ。言葉が使えない犬となった以上、意思疎通を図るには犬の方法を取るしかない。問題は犬嫌いの太宰に犬らしく好意を示した所で、逆に嫌がられないかと云う点だったが、幸い杞憂に終わったらしい。
少しだけ赤らんだ顔で嬉しそうに微笑んだ太宰は、私の額に自分の額を重ねて軽く擦り付ける。
「明日、朝が来るのを楽しみにしてて。一週間寂しい想いをさせてしまった分と、今日君を悲しませてしまった分、一日掛けて全部埋めてあげる。勿論延滞料金も込みでね」
嗚呼。それはきっと大変な事になるだろうなぁ。なんて、明日人間に戻った私を待ち受ける運命を、犬の私は他人事の様に思う。
それでも、人間の私は自分を抱き締めてくれる彼を、同じ様に抱き返す事が出来る。
同じ顔で微笑みあって、同じ唇を重ねて、同じ言葉で「愛している」と伝える事が出来る。
だから、早く明日になれば良い。
毎度私に碌でもないトラブルばかり放って寄越す神様に、そんな都合の良い祈りを捧げていると、また太宰が私の耳を捲って悪戯っぽく囁いた。
「その時は君も、さっきみたいな事してくれて良いよ?」
そんな台詞を吐いた彼は、その整った鼻先に小さな肉球の一撃を受けて短く濁った声を上げながらも、楽しそうに笑ってくれた。
****
その翌日、日の出と共に飛び立ったポートマフィアのヘリコプター数機が街の上空を旋回。散布された大量の中和剤は朝日に輝き、誰もが天を仰ぎ見る程の大きな虹を描いた。その虹はまるで御伽話の魔法の様に、街の至る所で声を上げる犬達の姿を連れ去り、晴れ渡る青空へと溶けて消えていった。そして後に残された人達は、漸く取り戻した自分の姿に歓喜し、僕等の街を混乱の渦に巻き込んだ『ヨコハマ人犬病』は発生から八日目をもって遂に収束した。
―――筈だった。
「きゃー可愛い!ほらほら兄様、見て下さいこの寝顔!」
「うん。本当に可愛いね。大好きな牛肉をお腹いっぱい食べて満足したのかな?」
「幸せそう」
「確かにねェ。だが、それならあっちも負けてないんじゃないかい?」
「社長。良かったですね。今なら思う存分撫でられますよ」
「……ああ」
「………国木田さん」
「何だ敦」
「どうしてこうなっちゃったんでしょうか…」
「…………」
僕の問いかけに『ヨコハマ人犬病』から復帰した国木田さんは、手元の書類に落としていた視線を上げて僕と同じ方を見やる。その先に居るのは、つい先日迄未知の感染症の対応に追われていた武装探偵の面々。だがそんな激動の一週間などまるで無かったかの様に、皆の表情は晴れやかに輝いている。その理由は、皆の注目を浴びながら我が物顔で寛ぐ二匹の猫だ。と云っても、勿論ただの猫ではないのだけど―――
「ふふふ、目が覚めたらまた一緒に遊ぼうね
「ほら見て下さい社長、巧く撮れましたよ。はぁ、本当に可愛いですね
そう。今皆が夢中になっている猫達は、賢治君と乱歩さんだ。
『ヨコハマ人犬病』の犠牲となり犬に変えられてしまった人々は、太宰さんが調合してくれた中和剤によって無事元の姿に戻る事が出来た。のだが、太宰さんが調合したのはあくまで“中和剤”。“特効薬”の様に症状そのものをの絶つのではなく、単に症状を相殺するだけ。謂わば『毒をもって毒を制す』と云うもので、中和剤そのものに致命的な副作用が存在した。その副作用と云うのが、“コレ”だ。
過度のストレスによって発症する『ヨコハマ人犬病』と入れ替わる様に発生した第二の奇病。恒常的なリラックス状態により発症し、身も心も更にだらけきってしまう恐るべき病―――『ヨコハマ人猫病』である。
「まぁ幸い、今回の発症条件は“恒常的なリラックス状態”だ。ウチが特殊なだけで、街全体で見れば被害は殆ど出ていない。諸悪の根源たるポートマフィアが現在開発している正真正銘本物の“特効薬”が完成すれば、今度こそ完全に収束する筈だ」
「え?でも今の状況って、太宰さんが作った“中和剤”が原因なんですよね?ならポートマフィアじゃなくて、太宰さん本人が作った方が早いんじゃ…」
其処迄云いかけた僕に、国木田さんは無言の儘視線すら動かさずにある方向を指差した。無骨で長い指が示す方には色硝子で囲われた接客スペース。思わず其処を覗いた僕は、一瞬で国木田さんの意図を理解した。
「きゃわいいにゃ〜きゃわいいにゃ〜。お顔ふわふわ、尻尾ふさふさ、肉球、肉球やわやわや〜」
「みゃ〜ん、ゴロゴロ」
「はわわ、ちょ、むり、かわ、自分からゴロゴロすりすりしてくれる猫ちゃんとか待って、むり、あ、あぁ、ぺろぺろまで…。ファ〜猫ちゃんの舌メッチャじゃりじゃりしてるしあわしぇ〜」
接客用のソファに倒れ伏した菫さんが、包帯塗れの黒猫に顔を舐められて幸せそうに溶けていた。その異様な光景に思わず息を飲んだ僕に気づいた黒猫が、ふと此方に目を向ける。何処となく…、否、完全に見覚えしかないその眼差しは、猫とは思えない程明から様に勝ち誇った様な弧を描いて、今度は菫さんの口元を舐めた。
「ん〜?なになに?もしかしてちゅーしてくれてるん?ふふふ、もう太宰君ってば猫ちゃんになっても甘えん坊さんだにゃ〜。はいはい、いいよいいよ〜いっぱいちゅーしようにゃ〜。ほらちゅ〜♡」
一見、過度に猫好きな先輩がデレデレしながら猫と戯れているだけの微笑ましい光景。でも、その裏に隠された本当の意味を悟った僕はそっとその場を後にした。
「……太宰さん。もしかしてこの為に態と“特効薬”じゃなくて“中和剤”を作ったんじゃ…」
「それ以外に何がある。まぁ、元々所構わず盛る煩悩の塊の様な男だ。外観的には健全に見える分、寧ろ猫になってくれていた方がマシ…」
「ひゃ、ちょっと擽ったいってば、そんなとこばっか舐めないで、あ、コラ太宰君、この中は入っちゃ駄目だよ、メッ!」
「くぉるぁああぁ太宰‼︎貴様、真っ昼間の仕事場で何をしておるのだこの淫獣があぁぁ‼︎」
まるで瞬間湯沸かし器の様に沸騰した国木田さんが、真っ赤な顔で接客スペースに突っ込んでいく姿を呆然と眺めながら、僕は比較的平和が戻った探偵社事務所に一先ず胸を撫で下ろした。すると不意に、何時の間にか隣に居た鏡花ちゃんが僕の手を取る。其の儘「貴方も来て」と彼女に手を引かれ、皆の輪の中に加わった僕は、その中心で眠る猫賢治君の余りに幸せそうな顔に思わず笑ってしまった。
本当はこんな呑気な反応をして居る場合じゃないと判っていたけれど、それでも、久し振りに見る皆の楽しそうな顔と、案外満更でもなさそうな賢治君や乱歩さんの顔を見ていたら、“もう少し此の儘でも良いのかな”なんて。猫好きでもある僕は、そんな不謹慎な事を考えてしまった。
でもそんな僕の思いとは裏腹に、意外にもこの騒動は拍子抜けする程呆気なく幕引きを迎える事となる。
と云うのも、“太宰さんが猫化した”との報を受けて怒髪天を突いた芥川が、件の新薬を開発した研究者をド突き回して文字通り不眠不休で開発に従事させたとかで、待望の“特効薬”が制作期間三日と云う驚きの早さで完成してしまったからだ。まぁ当の被害者三人は思いの外猫生活を満喫していたらしく、寧ろ拗ねたりむくれたり残念がったりしていたけれど。何はともあれ、僕等の街を長らく混乱に陥れた珍事件はこれにて完全解決を迎え。
後に魔都ヨコハマの新たな怪奇譚の一つとして語り継がれたのだった。