hello solitary hand・番外編
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誰もが一度は考えた事があるだろう理想論。
“将来、結婚するならどんな人が善いか”。
特に女の子と云う生き物は、殊更この手の話題に熱を上げ易い。
容姿に優れた人が善いとか。お金持ちな人が善いとか。自分を愛してくれる人が善いとか。家庭を大切にしてくれる人が善いとか。もうそう云うのどうでも善いから兎に角自分と結婚してくれる人が善い、とか。
そんな理想論の応酬は、得手して周囲の人間にも飛び火するもので。ただ周囲に居ただけで振られたその話題に、隅っこで息を殺して居た私は毎度同じ返答で茶を濁して居た。
「ごめん…、ちょっと想像つかないや…」
それは振られた話題から逃れる為のテンプレでもあったが、同時に本心でもあった。誰かと結婚して、子供を産んで、自分の家庭を築いて。そんな自分の未来予想図が、全くと云っていい程想像出来なかった。抑々、自分と結婚したいだなんて思う奇特な男性など、この世に居るとは思えなかったのだ。だからきっと、自分はある程度手遅れになってから親にせっつかれて婚活サイトでも巡って、“兎に角結婚出来れば誰でも善い”なんて人と結婚するんだろう。それくらいに考えていた。
―――そうなる前に消えてしまえたら、幸せなのにな。
そんな私の願いは、終ぞ叶う事は無かった。
私は今も消えずに、こうして息をしているのだから。
唯一誤算だったのは、そうして今も呼吸を続けている私がそれでも尚、
「ばばばばばばばーーーっ!げほ、ごぼぼっ!」
(あああああああーーーっ!げほ、ごぼぼっ!)
と云うか。幸せ及びその他諸々の過剰摂取で呼吸困難に陥っている事である。
「ぶっはぁ!はぁ、はぁヤッベ死ぬかと思った…っ」
却説何故私が自宅の浴槽で溺れ掛けているのかと云うと、話は昨日迄遡る。多忙を極め、疲労もレッドゾーンに達した我が愛しの旦那様の忘れ物。其処から様々な紆余曲折を経た結果、彼は今日一日休暇を取る事を許された。だが久し振りに夫婦水入らずで過ごせる喜びから、あれこれとリクエストを上げていった私は、最後の一つで彼の地雷を盛大に踏み抜いてしまった。否、断っておくが別に怒りの地雷がドッカーンした訳ではない。吹き飛んだのは堪忍袋の尾ではなく―――理性の箍だ。
まぁでも、それに関しては此方としても望む所ではあって。と云うか寧ろ待ち望んでいたものでもあって。溜まり溜まった欲望を満たそうとする様に、何時もより強引に獣の様に荒々しくこの身に喰らい付いてくる彼をより一層愛おしく思った程だ。その愛しさをぶつける様に求め合い満たし合い。そうして全てが終わった後も、私達は産まれた儘の姿で寄り添い合い、穏やかで幸福な余韻に浸りながら言葉を交わした。
互いに抱くどうしようもない程の愛を。この穏やかな時を共に過ごせる幸せを。そして、これから先産まれ来るかもしれない私達の子供の話を。
…………うん。
まぁつまり、
そう云う仮定の話をするに至る様な事をした。してしまった。我慢に我慢を重ね漸く果たされた一月振りの情事に、双方色んなブレーキが弾け飛んだ結果。遂に最後の境界線たる薄い隔たりすらも捨てて、本来の意味で正真正銘最後迄事が進んでしまったのだ。
無論私とて、一時のテンションに身を任せてそんな事を許す様な快楽主義者ではない。確かにテンション振り切れて色々と寛容にはなっていたが、それでもちゃんと私は私の意思で彼の申出を受諾した。よってあれは合意の上の事であり、そして私達は抑々夫婦であるからして、その行いに問題など一切ない。ないのだが…。一夜明けて、ばっちり睡眠もとった上で熱いシャワーにより覚醒した脳味噌が、昨日の出来事を改めて認識していくに連れて、色んな感情がバブルバスの如くブクブク浮き上がり、現在私は感情の飽和状態に陥っている。否だって…。え?嘘マジで?全く実感無いんですがこう云うもんなんですか普通?
そんな煩悶に頭を抱えながら、私は湯船の中に浸けた口でブクブクと泡を吐く。其の儘ズルズルとまた浴槽に沈めば、閉じた瞼に焼き付いた彼の顔がまた脳を燻らせる。
身も心も溶け合って、何もかも吐き出して、目眩がする様な愛しさの中、私の腹を優しく撫でる汗の滲んだ彼の顔。満足気で、穏やかで、幸せそうで、
まるで何かに安堵した様な―――愛しい男の顔が。
「はぁ〜〜〜……」
****
「はぁ〜〜〜……」
フライパンに並んだ二つの目玉に蓋をして、俺は性懲りも無く溜息を吐いた。そんな事をしても気が滅入るだけだと判っているのに、それでもすぐに同じ事を繰り返す自分に嫌気が差す。
嗚呼、本当に何やってんだ俺は。
確かに今の彼奴は俺の嫁で、彼奴自身もそれを受け入れてくれている。だが、だとしても線引きは必要だった筈だ。抑々ああ云うのはもっとこう、お互い冷静な時に話し合って、双方の合意の下計画性をもって実行すべき事だろ。それを何処ぞの青鯖じゃあるまいに、幾ら煽られたとは云え欲に任せてあんな事仕出かすなんざ…。否、まぁあれも一応お互い合意の上ではあったが…。その合意だって、盛り上がり最高潮で半分トビ掛けみてぇな前後不覚の状態での言葉だ。少なくとも、あの時の彼奴に真面な判断を下せる理性が残っていたとは思えねぇ。そしてそれを判った上で事を持ち掛けたのは、他ならぬ俺だ―――
「嗚呼…、クッソ……」
最低だ。最悪だ。そう自分を罵る反面、独りよがりな“その感情”がどうしても拭いきれないのだから笑えない。
一糸纏わぬその姿を俺だけに晒して、求める様に縋り付き、与えてやる快楽に酔いしれながら、幸せそうに微笑む女。俺が何よりも欲した女。
その誰よりも大事な筈の女に、浅ましく身勝手な欲をぶち撒けておきながら、どうしようもなくそれを歓喜する自分がいて。そんな碌でなしが、俺の頭の中で馬鹿みてぇに同じ言葉を繰り返す。
“これでやっと俺は、―――
ピー!ピー!ピー!
「っ!?うぉ!?」
けたたましい警報に意識を引き戻されてみれば、フライパンに被せた蓋の隙間から黒い煙が漏れ出していた。慌てて火を止め蓋を開けると煙が空気中に広がり、後に残っていたのは無残な卵の焼け跡。
「……チッ。ったく、ホント何やってんだか…」
遂に口から出た悪態は焦げ臭い煙と共に霧散する。それすらも何故か苛立たしくて。そんなフラストレーションを振り払う様に、俺は炭と化した朝食のなり損ないを三角コーナーに放り込んだ。
****
「……よし」
窒息と復活を繰り返した末、何とか浴室からの生還を果たした私は、リビングの扉の前で今一度己に喝を入れる。未だ頭の中は混沌の極みだが、抑々まだ妊娠するって確定した訳じゃないし。そんな悩んでも仕方ない“もしも”に思考を費やすより、目を向けるべきは今この時だ。そう自分に云い聞かせた私は、今この時、遅めの朝食を準備してくれているであろう愛しの旦那様に感謝を伝えるべく、大きく息を吸って扉を開けた。
「ただいま中也!朝ごはん作ってくれてありが…とう……」
つい数秒前に意気込んだ感謝の言葉は、しかし覚束ない不完全燃焼に終わった。その理由はと云うと、キッチン前の食卓に座した中也が、ただならぬオーラを放ちながらゲンドーポーズで項垂れていたからだ。
「あの…、中也…さん?」
「っ!お、おう菫。随分風呂長かったな!」
「え…、嗚呼、うん。待たせてすまん…」
「別にそう云う意味で云ったんじゃねぇよ。ほら来い。目も覚めて腹減ってるだろ?」
まるで先刻迄の空気を掻き消すように景気の良い声を上げた中也は、そう云って私を促すと珈琲を入れ始めた。そんな明らかに挙動不審な彼に首を傾げつつも、私はそれ以上言及せず大人しく席に着く。卓上に視線を落とすと、皿の真ん中に鎮座したスクランブルエッグが真っ先に眼に入った。その周りに添えられたウインナー、レタス、ミニトマト。隣の器には湯気の立つ白いスープ。そして、私の目の前に淹れたての珈琲を追加した中也は、其の儘流れる様に食パンを二枚トースターにセットして自分の席に着く。
「ほぁ〜…」
「ん?どうした?」
「否、改めて“ウチの旦那様ハイスペックだなぁ”って痛感しまして…」
「これくらい普通だろ」
「いやいや多分普通じゃない。だって完全に一から作っただろコレ。てか何このお洒落なの、何スープ?」
「豆乳にベーコンと冷凍野菜適当に突っ込んでコンソメで味付けしただけだ。お前でも作れるぞ」
「しかも寝起きの空きっ腹に優しく栄養バランス迄花丸な奴だった…っ」
「んな事よりさっさと食え。折角の飯が冷めちまうだろ」
「あ、うん。いただきます。それと…」
「はぁ…。今度は何だよ?」
「えっと…。朝ご飯、作ってくれて有難う中也」
「っ、……おう…」
漸く真面な形を得た感謝の言葉に、中也は照れ臭そうにそっぽを向いて口を尖らせる。そんな何時もの反応に小さく照れ笑いを返して、私は話題の豆乳スープに早速口を付けてみた。まろやかで優しい味わいがじわりと舌を包み込む。お風呂でしっかりと暖まってきた筈なのに、胃へと流れ込んだその温度に何だかほっこりした。
「美味いか?」
「うん。中也が旦那様でホントに善かった」
「はぁ…、ったくお前は…。たかがスープ一つで現金過ぎんだろ。…ほらパン焼けたぞ」
「うん。そーゆー所だぞ中原」
「お前も中原だろうが」
「あ!そうだったわ。え、ちょ、待っ、何この幸せの不意打ちヘッドショット…」
「パン此処置いとくぞ。早く食えよ」
流石の中也も遂にツッコミを諦めたらしい。呆れ果てた様なジト目に苦笑して、私は珈琲杯の上に置かれたトーストにバターを塗った。普段私が作る時は卵を目玉焼きにしてラピュタパンにするのが定番なのだが、今日はスクランブルエッグなので代わりにイチゴジャムを塗る。“これもこれで美味しいんだよなぁ”ともしゃもしゃトーストを咀嚼していると、不意に珈琲片手にそれを眺めていた中也が何故かぎこちなく口を開いた。
「あ〜…。そう云やぁ、今日は一日家で過ごすって事で、希望に変わりはねぇか?」
「ん?嗚呼うん。折角のお休みだしな。君と二人だけでゆっくり過ごせると嬉しいなって」
「判った。確か、朝飯の後はソファーの前に菓子とジュース並べて映画見る。だったな」
「覚えててくれたのか…!」
「あのな。見聞きした事をそんなホイホイ忘れる様な奴に、マフィアの幹部務まると思ってんのか?」
「中也さん最高っス!自分、一生着いていきます!!」
「……」
そう云ってキレッキレの一礼を決めるも、中也からの返答は返って来なかった。また悪ノリし過ぎて呆れられてしまっただろうか。そう少し反省して、私はチラっと向かい側の旦那様を窺い見る。
「おう。知ってるよ」
窺い見て直ぐ、私はその光景に息を止めた。
呆れ顔でも照れ顔でも顰めっ面でもない。
まるで慈しむ様に、穏やかな微笑みを浮かべた私の伴侶が、当たり前の様にそう返した。
「っあ、あああ!そ、そう云えば!お家映画に欠かせないコーラとかポテチとか、ウチに備蓄無かったわ!買ってこないと!!」
「ん?嗚呼、ならこれ食った後に買ってきてやるよ。他に欲しいモンあったらリスト作っとけ」
「え?いやいやいや!いいよ!もう中也にはこうして朝ご飯も作って貰ったんだし。それくらい私が近場のコンビニでちゃちゃっと買ってくるって!」
「お前が行くより俺が行った方が早ぇだろ。第一お前、……っ…」
「……中也?」
何か云い掛けて口を噤んだ中也は、何故か険しい顔をして目を逸らす。心なしかその顔は赤らんでいる様に見えたが、その理由に思い至る前に中也は頭をガシガシ掻きながら声を上げた。
「兎に角だ!買い物出しは俺が行く。お前は家で観る映画でも選んでろ」
「ちょ、どうしてそうなる!?買い出しは私が行くから、中也こそ家でゆっくりしててくれ。折角の休みだろ!?」
「丸一日動かずじゃ身体鈍んだよ。いいから俺に任せとけ」
「なら待ってる間家でスクワットとかしてればいいじゃん!その方が明らかに運動量多いじゃん!大体、こちとら君に貢献出来る事が少な過ぎて頭抱えてるって昨日も云っただ―――っ!」
その瞬間、自ら地雷にドロップキックを決めた私の喉元で、残りの言葉が玉突き事故を起こす。久々の楽しい団欒に何時もの調子を取り戻していた脳内に、“昨日”そう口走った後の顛末が容赦なく溢れ出す。
まさしく指一本動かせなくなった私に覆い被さり、一心不乱に貪る、本能剥き出しの獰猛な―――碧い双眸。
「………」
「………」
結局その後、互いに声を発する事は暫くなく。卓上に並んだ朝食だけが黙々と、着実に、顔から火でも噴き出しそうな私達の胃袋へと消えていった。
****
自動ドアが開くと同時に、来客を知らせるあの独特の音が店内に鳴り渡る。ドアを潜る際に買い物籠を手に取ると、真っ直ぐドリンクコーナーに向かった菫が一番大きなコーラのボトルを取って其処へ入れた。
「あああ後はオレンジジュースも買っとこうな!中也さんは何か飲みたいのあるか!?」
「い、いや…。それで善いと、思うぜ…」
「そっか!じゃ、次はお菓子だな!」
明らかに挙動不審な儘おかしなテンションでずんずん進んでいく菫。その後姿を眺めながら、安堵に撫で下ろし掛けていた胸の下で、心臓がまた嫌な早鐘を打ち始める。
食卓に着いた時の菫はこっちが拍子抜けする程何時も通りで、腹の底に蟠っていたモヤつきが少しだけ晴れた。案外気を揉んでたのは俺だけだったんじゃないか。それはそれで不満には思ったが、兎に角此奴に余計な不安を与えていないならそれに越した事は無い。ただでさえもこの一月、此奴には寂しい想いをさせてきたのだ。これ以上、此奴に何か負担を掛ける様な真似をする訳にはいかない。だからこの買い出しも、まだ昨日の疲れが残っているだろう此奴の代わりに俺が行くと申し出たのだ。
だが、結果としてそれは悪手だった。否、此奴の本心が判った分、ある意味妙手と云えなくもないが。昨日の事を云い掛けた菫の顔が、徐々に熱を上げ動揺と困惑に染まっていく様を見て俺は確信した。少なくとも、此奴も昨日の事には何かしら思う所があるのだ。それに気付いてしまった俺の中で、またあの罪悪感と自己嫌悪がべたべたと心臓の内側に纏わり着く。嗚呼クソ…、何だって俺は―――
「なぁ中也。…中也?中也!」
「うおっ!?あ?嗚呼、何だ?」
「あ、否…。ポップコーンもあったから買ってこうと思ったんだが、普通の塩味とハニーバター味。中也はどっちが善いかなって」
「別に俺はどっちでも構わねぇよ。お前が好きな方選べ」
「………」
「? 菫?」
すると両手にそれぞれの袋を持った菫は、何故か不満そうな顔で口を噤んだ。それは普段俺に殆ど向ける事の無い表情で、一体何が此奴にこんな顔をさせたのかと内心大急ぎで思い起こしていると、不意に菫は俺の鳩尾の辺りにゴツリと頭をぶつける。別に痛みを感じる程のものじゃなかったが、それよりもこの様を他の客に見られるかもしれないと云う羞恥心の方が俺にとっては余程深刻だった。
「お、おい菫!?何だ、一体どうした…っ?」
「………私は、“中也が”どっちが善いか聞いてるんだが」
髪の合間から覗く険しい目元が、先刻より更に明確な不満を湛えて俺を見上げる。それはまるで欲しいものが手に入らなくてむくれる餓鬼の様で、本来年上である筈の其奴は尚も俺の鳩尾に頭を擦り付けながらボソボソ続けた。
「中也がさ…、私の事大事にしてくれるのは嬉しいし、私の事優先してくれるのも正直嬉しいけどさ…。私だって…君の事大事なのは同じなんだからな……」
「………」
「だから…、こう云う時くらい君の事優先させてくれよ。私は今“私が選んだもの”じゃなくて、“中也が選んだもの”が欲しいんだからさ…」
それは、此奴にしては珍しく真っ当な我儘だった。欲しいものをハッキリと主張して、それを通そうと駄々を捏ねる。その姿は出逢ったばかりのあの頃からは想像すら付かなかったもので。けれどそれは俺自身がずっと欲し続けていたものでもあって。意図しない形とは云え実現したそれを前に、顔が勝手に熱くなる。
「…あ〜…、おう。判った…。じゃあ、こっちので…」
「ホントにか?私が甘党だからって甘いの選んでないか?」
「違ぇよ馬鹿!籠ん中、塩気あるもんばっかだろ。なら甘いもんもあった方がバランス善いじゃねぇか」
「嗚呼成る程!確かにこれでしょっぱいものと甘いものの永久機関が誕生するな。流石中也だ!」
「はぁ…。お前、その何でも褒めるスタイル何とかしろよ」
「え〜、中也さんがそれ云いますか?」
「喧しい」
「いへへへ」
つい数秒前の不満顔が何処へやら。ニヤニヤと俺を覗き込む頬を摘んで軽く引っ張ってやったが、菫は全く気にした様子もなく嬉しそうに笑う。その間抜け面を見ていたら、心臓の内側に纏わりついていた陰鬱な感情がポロポロと剥がれ落ちていく様に感じた。
その後もあれこれ菓子を買い込んで。序でに隙を見て今朝切らしてしまった卵も籠に忍ばせた俺は、会計を済ませて菫と共に店を出た。真面な会話もなく、ぎごちない空間が空いていた行きと違い、帰りは他愛のない雑談に花を咲かせながら俺達はヨコハマの街を連れ立って歩く。その途中、恐る恐ると云う様に俺の手を彼奴の手が摘んで。此方の様子を窺うその視線から意図を察した俺は、出来るだけ平静を装い何でもない様な顔でその手を握った。それっきりまた会話は途絶えてしまったが、少しだけ距離を縮めて俺の傍に寄り添い歩く彼奴は、赤らんだ顔で下を見ながら、それでも満足そうな顔ではにかんでいた。
****
映画館で映画を見る事はそれなり好きだが、お家映画と云う素晴らしき文化もまた捨て難い。途中でトイレに行って内容を見逃すなんて事も無いし、好きなものを飲み食いしながら好きな体勢で映画を楽しめる。何より、映画に感極まって声を上げてしまったとしても人様に迷惑をかける事がない。実際私はお家映画では割と口数が多くなる方で、下手をすれば人と会話している時より饒舌だったりする。そう、例えばこんな風に―――
「ホンそれ!ノー推しノーライフ、判るぜミニオン!」
「否、多分此奴らとお前のそれは違うと思うぞ」
「何を仰る中也さん。つまり彼等は“ボス”と云う名の“推し”を求めて旅に出た訳だろ。現にほら、残された連中のこの魂の抜けた顔!完全に推し欠乏症で紅葉さんにドン引きされた時の私と同じ顔だ!」
「おい待て。何だそれ何時の話だ」
「ん?何時って…。私が君んトコの事務員になりたての頃の話だよ。ほら、君何かと忙しくって最初の一週間くらい顔合わせられなかったじゃん?あの時マジでしんどかったんだぜ?なまじ一か月間毎日会ってたから、もう深刻な中也不足で陸に打ち上げられた魚みたくなっててさぁ。しかも、譫言で君の名前連呼してるの紅葉さんに聞かれちゃうし……?中也?」
「………」
「中也さん?」
「煩ぇ。こっち見んな馬鹿」
「あれ?あれあれあれ?もしかして中也さん照れてます?」
「だぁ〜!!だから見んなっつってんだろ!大体その程度の事で腑抜けてんじゃねぇ!!」
「ふふ…。だってあの時の君は私の推しで、私の心の拠り所だったからな。まぁ勿論今は違うけど」
その言葉に一瞬息を飲んだ中也の膝に、私はゴロリと寝転がって大きく見開いた碧い目元をそっとなぞる。
「今の君は私の旦那様で、私の全てだ。あの頃とは比べ物にならないくらい、好きで好きでどうしようもない。愛してるぜ、あ・な・た」
「っ〜〜〜、いいから黙って映画見てろこの阿呆嫁…っ!」
「あはは、中也顔真っ赤むぐっ!」
硬い膝枕の上で笑う私の口は、詰め込まれたお菓子の甘味と塩味のコラボレーションに塞がれる。本来これは順番に食べる事で真価を発揮するんだがなぁ。なんて考えつつも、真上でコーラを一気飲みする旦那様の顔が何とも微笑ましく、そんな些細な苦情は咀嚼されたお菓子と共に喉の奥へと滑り落ちていった。しかも、私が口の中のものを飲み込んだのを見計らって、おずおずと飲み物を差し出してくれるのだから堪らない。嗚呼もう、本当に―――
「おい。何ニヤついてんだよ…」
「否なに…。幸せだなぁ、って思いまして…」
中也の膝の上でうつ伏せになりながら、飲み切ったグラスを弄びつつそう云うと、硬く温かな手がわしゃわしゃと私の頭を掻き回す。
「ホント、お安く出来てんなお前」
「そうかい?好きな人とこうして誰憚る事なくのんびり過ごせるって云うのは、実は結構贅沢な事だと思うぞ。中也は違うのかい?」
「………」
「……中也君?」
「っ…!…悪くは…ねぇよ…」
「うんうん。よく出来ました!」
「何がよく出来ましただ!餓鬼扱いすんな!」
「わっ!ははは、待って待って!頭、鳥の巣みたいになるからははは!」
今度はがっちりとヘッドロックをかけられて、先刻より盛大に髪を乱される。が、それも決して痛みが伴うものではなく、寧ろ擽ったいくらいの手荒さはじゃれ合いと呼ぶ方が相応しい。だが、不意に愛情すら感じられる様なその手が止まった。不思議に思い顔を上げてみると、久し振りに見る純度一〇〇%の敵意を宿した碧眼が、明確な殺気を滾らせてある一点を射抜いていた。
「あ、あの…、中也…さん?」
「ん?…嗚呼悪ぃ。何か彼奴見てたら無性に苛ついてよぉ…」
彼がそう云って指差す先には、我が家の大きなテレビ画面があり。そして私達がじゃれあっている間もずっと流れ続けていたのは、お子様から大人まで大人気な世界的マスコットキャラクターのスピンオフ映画で。映っていたのは丁度、そのラスボスたる女怪盗が自宅に戻り最愛の夫に出迎えられるシーンだった。それを見て全てを察した私は、この後見ようと思っていた魔法生物学者が主人公の某魔法ワールドシリーズをリストから外し、代わりにネズミの国御用達のライオンサクセスストーリー(吹替版)を新たに追加した。
****
「よし!後はサラダ作って終わりだな。中也、そっちはどうだ?」
「こっちももうすぐ仕上がるぜ」
「わぁ、ボロネーゼ美味しそう」
「味見するか?」
「え?いいの!?」
「おう。ほら」
「あ〜ん。熱っ!?」
「おいおい大丈夫か!?」
「ふっ…ふぁふひ…。ひはは…」
「ったく、がっつき過ぎなんだよ。おら、氷でも舐めてろ」
「むぐっ、ふぁひがほぉひゅふひゃ…」
冷凍庫から氷の欠片を取り出して口に突っ込んでやると、菫は安堵した様なシュンとした様なよく判らない顔で肩を落とした。その頭を軽く掻き回してやって、俺は残りの調理に戻る。小さな鍋にオリーブオイル、ニンニク、鷹の爪を入れて火にかけると、落ち着いたのか菫が冷蔵庫からサラダに使う野菜を取り出してきた。
「もういいのか?」
「うん。大丈夫!あと、熱かったけど味付けの方はバッチリだったぞ!」
「あの状態で味なんか判んのかよ」
「判るよ!煮込まれた野菜の旨味と挽肉の香ばしいジューシーさが赤ワインの下、見事なハーモニーを奏でており大変美味でございました」
「お、おう…、なら良かったがよ…」
そんな遣り取りをしながら、俺達は二人調理場で夕飯の準備を進める。餓鬼みてぇに菓子とジュースを並べて、餓鬼臭い映画を二、三本見続けていたら何時の間にかすっかり日が暮れていた。まぁとは云え、最初の映画に出てきた妙に苛つくナルシスト野郎を除けば、餓鬼向け映画でも案外楽しめるもので。特に二番目に見た映画なんかは、成長した主人公のライオンが矢鱈といい声をしていた所為か、その歌声が頭の片隅に焼き付いてしまった。
「〜♪俺達の〜合言葉〜♫」
「ハク〜ナ・マタタ〜♪」
「っ!?」
無意識下で小さく口ずさんでいた歌の先がすぐ隣から聞こえて、思わず眼を向けるとトマトを切る手を止めた菫が照れ臭そうに笑う。
「あ〜ごめん、つい。なんか見た後だと暫く頭に残るよな、この歌」
「あ…嗚呼…。そう…だな…」
餓鬼向け映画の歌を口ずさんでいたのを聞かれたのもそうだが、そこに合わせて一緒に歌われた事が酷く小っ恥ずかしくて。何時もの悪態で誤魔化す余裕も無かった俺は、馬鹿正直に本音を返す。それがまた羞恥心を悪化させて、それを振り払う様に俺は目の前の調理に意識を集中させた。
「子供が出来たら、きっと中也の歌、喜ばれるだろうね」
―――バキっ!
湯気の立ち始めた鍋に振りかけようと取った黒胡椒が、俺の手の中で木製のミルごと木っ端微塵に弾け飛んだ。
「中也!?え!?ちょ、大丈夫か!?」
「は!?あ、な、何がだ!?」
「何がって胡椒!!否、それより先ず手ぇ診せて!破片とか刺さってヘックショイ!」
「おいお前の方が大丈っダックショイ!」
「ぶふぁ!ちょ、中也さん何今の“ダックショイ”っつった?」
「煩ぇな!大体!お前が“餓鬼が出来たら”とか
失言に気付いた時には、既にその言葉は目の前の女の耳に届いた後だった。ちょっと考えれば判った筈だ。その事に一番不安を抱いているのは此奴で。今の俺が口走った言葉は、きっとそんな不安を増長させるものだったろう。そんな判り切った事を、俺は誰よりも大事にすると決めた女のその顔を見て思い知った。何時も困った事があった時にする様に、眉をハの字に寄せて。口元に弧を描きながらも、それでも確かに、俺を映すその瞳は寂しそうに揺れていた。
「あ、ヤバ!中也、鍋沸騰しちゃってる!」
「は?お、おい…」
不意にそう声を上げると、菫はすぐ其処で泡を立てる鍋の火を止めた。そして安堵した様に息を吐くと、俺の方を振り向いて何時もの様に笑う。
「危ない危ない。ちょっと具が硬くなっちゃったかもしれんけど、まぁセーフだよな」
「あ…嗚呼、悪ぃ…」
それは果たして何に対しての謝罪だったのだろう。自分自身ですら答えが出せない儘零れたその言葉に、菫はまた苦笑して肩を竦める。
「大丈夫大丈夫。抑々原因は私なんだし、中也は悪くないよ」
それもまた、一体どちらを指して云っているのだろう。頭の中でそんな問いが浮かんでも、口から出る事は終ぞなく。惚れた女相手に日和ってばかりいる自分の情けなさに、握った手の中に残っていた木片がまた小さく音を立てて砕けた。
****
最初に頭に浮かんだのは“失敗”の二文字だった。
朝お風呂に入っている時は、これから先どうなる事だろうと頭を抱えていたものだが、それは今日一日彼と過ごしていく中で段々と溶かされていった。結局の所、彼の傍が一番落ち着くのは変わらず。そして、彼の傍に居る時が一番幸せなのも変わらない。余りに優し過ぎて私の事ばかり気にかけるのは少し考えものだけど、それでも矢っ張り私は中也がいい。中也が居れば他には何も要らない。四年前、再会を誓い別れたあの日からずっと、私が欲しいのは“中原中也”ただ一人だ。
それを再認識すると同時に、彼もまた昨日の事について何か悩んでいるらしい事は何となく気付いていた。元々彼は責任感が強く、義理とか道理とかそう云うものを重んじる人だから、勢い付いた流れでああ云う事に及んでしまったのを悔いているのかもしれない。そう思ったから、私はあんな事を口走ってしまったのだ。彼を安心させたくて。君が心配する程、私は思い悩んではいないと言外に伝えようとあんな事を云ってしまった。
そして、その結果は失敗。
私のした事は完全に藪蛇だった。その原因も自覚している。私はただ“中也が傍に居てくれればそれでいい”と確かに再認識した。けれど、根本的な問題。“自分が子供を産み、育てる事になるかもしれない”と云う事に対する覚悟は、未だに固まっていなかったのだ。そんな中途半端な状態で、生意気にも彼を元気付けようだなんて驕った末路がコレだ。彼が口走った言葉を巧くいなせず、馬鹿正直に反応して、余計に彼を心配させてしまった。言葉はなくとも、声を飲み込み私を見つめる彼の表情を見れば厭でも判る。何か大きな失敗を演じてしまった様な顔で柄にもなく強張る碧い瞳に、本当は「大丈夫だよ」と云いたかった。「君が気にする事なんて何もない」と云いたかった。けれど、そんな事を云っても余計傷口を広げてしまうだけだから、私はせめて何とも無いような顔で調理を続けた。それ迄とても楽しかった筈の空気が、一気にお通夜の様に沈んだのをひしひしと感じて、いっそこの儘夕ご飯が完成しなければいいのにと馬鹿な事まで願う程だった。
嗚呼、どうしてこうなってしまったのだろう。折角久し振りに二人で楽しい時間を過ごせていたのに。こんな調子では彼との団欒を楽しむ事なんて、到底叶う訳が―――
「でな!そん時俺ぁグッと口を噤んで我慢したんだがよぉ。本当は彼奴らにもビシッと云ってやりたかったんだぜ?『世界一の嫁はウチの菫だ!』ってな!」
「おう…、そか…。そりゃ光栄だ…ははは」
―――あったわ。
否、確かに最初は危惧していた通り気不味い団欒がスタートしていたのだ。のだが、その所為か口数の少なくなった中也が酒の相手ばかりする様になり、速攻でヘベレケモードに突入した。お陰で彼は現在私の肩に腕を回した儘ソファーに踏ん反り返り、上機嫌でジャンジャン高級ワインの栓を開けている。うん。取り敢えず有難う酒の神様。今度から信仰する神を聞かれた際は“バッカス”と答える事を此処に誓います。
「俺だってなぁ、本当はお前の事組織の連中に自慢してぇんだよ。執務室で態とお前の手製弁当開けて『ウチの嫁凄ぇだろ』って自慢してぇんだよ菫〜」
「えっと…中也?気持ちは嬉しいが、一応私組織の裏切り者だからさ。な?それは我慢しような?」
「はは、判ってるって。大体んな真似したら、あっつう間にお前の事がヨコハマ中に知れ渡って、何処の馬の骨とも知れねぇ馬鹿が拐かしに来ちまうだろう?幾ら俺だってんな危ねぇ事ぁしねぇよ」
「ん?…ん〜?それは…ちょい過大評価が過ぎるのでは…」
「あぁ?なぁにが過大評価だよ!ほら見ろ、こんな可愛い女何処探したっていねぇって!なぁ?」
そう云いながら中也は私の頬を両手で包み、たった今“可愛い”と評した顔を揉みくちゃにする。正直こちらは飼い主に溺愛される愛犬の気分だ。しかし大分酔いが回ってきた所為か、中也は徐々に私の首元に凭れ掛かり、今度は覚束ない手つきで頭を撫で始めた。
「菫〜。ありがとな菫…。こんな不自由な生活に文句一つ云わねぇで…。俺が帰んのを、いっつも待っててくれてよぉ…」
「え…?」
予想だにしていなかったその言葉に思わず疑問符が漏れた。そんな私の肩に顎を乗せた中也は、もう片方の腕を回して私を抱き寄せると何時もより柔らかい声で続ける。
「お前が此処で待っててくれてるから…、俺ぁ是が非でも帰らなきゃならねぇって気になんだ…。敵組織との抗争だの、腹の探り合いだの、そんなもんに拘ってる場合じゃねぇってよぉ…」
「中也……」
「だから、やる事山積みで参っちまった時でもやって来られた…。早く片付けてお前の居る此処に帰りてぇって、そう思ったからよ…」
まるで独り言ちる様にそう零して、中也は私の米神にキスをする。だが当の私は、初めて聞かされたその事実を飲み込みきれずにいた。その言葉の一つ一つが身に余って、受け止めきれない程に温かくて。そんな私に追い討ちをかける様に、顔を上げた中也が酷く穏やかに微笑む。
「愛してるぜ菫。お前みてぇな出来た嫁貰えて、俺ぁ心底幸せだ」
「―――っ!」
普段なら絶対にしないふにゃりとした笑顔と、滅多に云ってくれない愛の言葉。そのダブルパンチを食らった私の思考回路が、感情のキャパオーバーを起こしダウンした。しかしそれでも尚容赦なく、彼は私を力一杯抱き締めると、その勢いに任せて後ろに倒れ込む。その儘まるで木天蓼を前にした猫の様に頬擦りを繰り返して、彼は何とも満ち足りた声で感嘆を漏らした。
「菫…、菫…。っとにお前は最高の女だよ…。気が利くし、よく働くし、料理も美味ぇしよぉ…。嗚呼…。首領の事もあるから餓鬼は男の方が助かるなんざ云ったが、やっぱ女でもいいかもなぁ…。きっとお前に似て、優しくて可愛い女になるぜ…」
「―――……」
その言葉が、動きを止めていた思考を再び動かし始める。息が詰まるくらい私にしがみついて、まるで堰を切った様に止め処なく言葉を吐き続ける夫。けれどそれは溢れそうな程の幸せな感情と共に、どうしようもない不安と罪悪感を私の中に満たしていく。
「……ちゃんと…優しい子に、育ててあげられるかな…」
「菫…?」
遂に口から零れ落ちてしまった言葉に、それ迄満足気だった中也が首を傾げる。けれど、狡い私はそんな彼を映す視界を左手で覆って、まるで懺悔でもする様に言葉を紡ぐ。
「私な…、自信ないんだ……。親として自分がちゃんと子供を育ててる姿とか…、全然想像出来なくてさ……」
閉じた瞼の上に感じる硬い金属の感触。本当はこれだって、私からしたら全くの想定外で。今享受しているこの温かく幸せな時間も、嘗ての私には想像すら出来なかったものだった。それを受け入れられたのは、優しく横暴なこの人が戸惑う私の手を引っ張り出して、しっかりと握ってくれていたお陰だ。それが“当たり前の事”なのだと、然も当然の様な顔で云い切ってくれたお陰だ。
でも、これから向き合う事になるかもしれない“これ”は違う。ただ与えられ、施され、感謝と愛しさと幸福感に浸っていられた今迄の様にはいかない。これから生まれ落ちるであろう命にとって、自分は“最初に関わる人間”になる。何も知らない真っ新な一人の人間に、与え、教え、守る最初の人間が私になるのだ。それがどうしようもなく、不安で、怖くて、仕方ない。
「私、ちゃんと優しい子に育ててあげられるかな…。困った時や、苦しい時や、泣いてる時に、周りの人に助けてもらえる様な優しい子に、育ててあげられるかな…。
もし私が親になったら、私はちゃんと―――
自分の子供の痛みを、判ってあげられるかな…」
私には判らない。それこそ想像もつかない。そう在りたいと願い、失敗し、諦めて全部無かった事になれば善いと希った私には。どうすれば、この世界で私を助けてくれた人達の様に優しい人間になるのかなんて。ただその優しさに救われ、縋り付くだけだった私には、判らないのだ。そんな未熟者が、果たして真面に人の親としてやっていけるのだろうか―――
「“私は”じゃねぇ、“私達は”だろうが」
真っ暗だった視界に光が戻った。目元を覆っていた左手の薬指に慈しむ様な口付けが落ちる。その手に指を絡める様に握って、彼は迷子でも見つけた様な顔で苦笑する。
「ったくお前って奴は…。お前が親になる時ぁ俺も一緒だ。それを勝手に俺抜きで話進めてんじゃねぇよ。一体亭主を何だと思ってやがる」
「で、でも…」
「でももへったくれもねぇ。大体、“親やってる自分が想像出来ねぇ”なんざこっちの台詞だ。何しろ俺は、―――親どころか八つより前の記憶がまるっきり無ぇんだからな」
そう語る中也に息が止まった。だがそんな私に彼は優しく微笑んで、あやす様に頭を撫でる。
「俺は親を知らねぇ。真っ当な家庭ってヤツにも縁がなかった。まぁ、小せぇ餓鬼の面倒見た事ならあるが、俺も含めて何奴も此奴も表側で生きられなかった日陰者だ。同じ悪党育てるならまだしも、堅気の育て方なんざどうすりゃ善いか見当もつかねぇ。それでも…、俺は何とかなるんじゃねぇかって思ってる。お前も一緒ならな」
「……え…」
「真っ当な家庭だの、ちゃんとした親だの、そんなもん俺は知らねぇ。正直なれるとも思えねぇ。だがよ…、お前も一緒だってんなら、何とかなるんじゃねぇかって。こんな日陰者の悪党でも、人の親になれるんじゃねぇかってよ…。少なくとも俺はそう思ってるぜ」
「……どうして…」
すると彼は、一瞬質問の意味が判らないとでも云う様に眼を見張り首を傾げた。しかしそれは徐々に困った様な苦笑に変わる。
「自分が惚れ込んで娶った女が、“いい母親になる”って思うのは―――そんなにおかしな事か?」
声が出なかった。呼吸する事すら投げ出してしまいそうだった。そんな私の頬をそっと撫でて、最愛の伴侶は穏やかに語り掛ける。
「安心しろ。もしお前が間違えた時は俺が何とかしてやる。だから、俺が間違えた時はお前が止めてくれ。それでも駄目な時は一緒に何とかすりゃあ善い。“家族”ってのは、そう云うもんだ」
「家族…」
「そう、“家族”だ。それだけは、俺も知ってる」
そう云って中也は徐に右の手首に眼を落とす。彼が其所に何を見ているのかは判らなかったけれど、細められた眼差しは何処か懐かしいものを見ている様だった。その表情に見惚れる私へ不意に視線を戻した彼は、少し照れくさそうに笑ってまた私を抱き締める。耳元に零れ落ちてくる言葉は、まるで寝言でも紡いでいる様だった。
「先刻は“変な事”なんて云っちまって、悪かったな…」
「……いいよ。其処迄気にしてない…」
「昨日も、勢い付いてあんな真似しちまって…悪ぃ…」
「あれも半分は私の自己責任みたいなもんじゃないか。中也が謝る必要なんてこれっぽっちもないよ。私達…、夫婦なんだからさ……」
「……そうか…。嗚呼…そうだな……。なぁ、菫」
「なぁに、中也?」
「もし本当に餓鬼が出来ちまったら…。お前…、産んでくれるか……」
ポツポツと交わされていた会話が静かに途切れる。少しの間、その問いに就いて考えて。たった今彼から贈られた言葉の数々を踏まえた上で、私ははっきりと答えを声にする。
「……うん。正直、上手くやれる自信なんて全然無いけど。でも、中也がお父さんになってくれるなら、頑張ってお母さんになってみる」
すると私の上に覆い被さっていた中也がもぞりと身動ぎ、私の額に自分の額を重ねる。
「そうか…。なら、これでやっと俺は…
―――お前の家族になれるな…」
「え……」
漏れた疑問符は酒気を纏った唇に押し戻された。深く、熱く、けれど重ねるだけのキスをして、中也は私の頭を抱え込む様に抱き締める。
「もう…、独りじゃねぇ…。寂しくなんかねぇぞ…、菫……」
「………」
それっきり、中也が言葉を紡ぐ事はなくなった。代わりに聞こえるのは気持ちの良さそうな寝息だけ。だから彼が云ったその言葉の意味も、結局聞けず終いになってしまった。
それは単に、この部屋で独り、自分の帰りを待ち続ける妻に向けた言葉なのか。
それとも、家族も友人も、自分を知る人間が誰一人居ない世界に放り込まれた、独りぼっちの女に向けた言葉なのか。
唯一確かなのは、その曖昧で抽象的な言葉が、今迄彼から与えて貰ったモノの中で何よりも、私の心を満たしてくれた事。満ちて溢れたそれは、軈てどうしようもない涙となって、安らかな顔で眠りこける彼の肩を僅かに濡らした。
****
「俺の記憶違いでなければ、君は“愛”や“希望”と云ったものを嫌悪しているんじゃなかったか?」
「嗚呼、嫌悪しておるとも。所詮あれらは光の世界で生きる者達の嗜好品。だのに、闇の中でしか生きられぬ者にまで叶わぬ夢を見せ、最後にはより深いどん底へと突き落とす。万人が皆平等に得られるものの様に見せかけて、その実あれ程不平等なものもそうあるまいよ」
「確かにな。だが…それなら何故君は、我が弟をその叶わぬ夢へと送り出した?」
すると、閑散とした地下室に茶器一式持ち込んで勝手に寛ぎ出した女傑は、嘲りを隠しもせずに鼻で笑った。
「おや。嘗て暗殺王と恐れられた男が、地下の土竜生活で遂に呆けおったかえ?」
「……そうかもしれんな。何せ俺には、君の云いたい事が全く見当付かない。と云う事で、白痴と化した哀れな元暗殺王にも判る様に話してくれないかマドモワゼル?」
「はぁ…、ほんにお主はつまらん男じゃのう…。理由など考える迄もない。―――あの子が強いからじゃ」
凡そ真面な答えとは思えないそんな漠然とした解答を然も当然の様に云い切って、彼女は手元の湯呑みを傾けた。
「喩え追い縋る闇に捉われようと、喩え身に余る光に焼かれようと、あの子は決して彼奴の手を離さんじゃろう。彼奴を手元に繋ぐと決めた時点で、あの子は既にそう腹を決めておる。そして、それを成すに足る力と立場も充分に得た。故に、我等には届かぬそれも、あの子ならば最後迄罷り通せると…。少なくとも
「……彼奴はそうかもしれない。だが、果たして彼女はこれから先も、彼奴の手元に繋がれ続ける事を望むだろうか」
「お主…。その眼は飾りかえ?直に彼奴と相対し語らっておきながら、よくもまぁそんな事が云えたものじゃのう。あれは元居た光の世界へ還る唯一の好機を自ら捨てて、あの子の手元に舞い戻った女じゃ。闇を裏切り、光に背を向け、何方にも属せぬ朧な黄昏の鳥籠に自ら納まった。全ては、愛する男ただ一人を得んが為に…。そんな女が、あの子の元を飛び立てると思うか?」
そう問われた俺の頭の中に、昨日この部屋を訪れた彼女の姿が蘇る。幸福に満ちた表情で弟の事を語る、誇らしげな義妹の姿が。
当ったり前です!何せあの人は、
「……フッ…」
「何を笑っておる。気色の悪い」
「否…?ただ、君がそうして我が弟夫婦に向けるそれもまた“愛”と“希望”である事を、君は気付いているのだろうかと…。そう思っただけさ…」
「っ!!」
すると、酢いも甘いも噛み分けた様に朗々と語っていた女傑は、まるで生娘の様に顔を赤らめて俺を睨む。しかし悔しそうに歪められた口元からは反論も悪態もなく、残っていた茶を一息に飲み切ると彼女はツカツカと扉へ向かった。
「おい。茶道具を忘れているぞ」
「それはお主にくれてやる。また訪ねて来た義妹に粗末な茶しか出せぬ様では、義兄として格好が着かんじゃろうからのう」
そう云い捨てて薄紅色の羽織が無機質な鉄扉の向こうへ消える。先刻迄彼女が着いていた席には、古風ながらも小洒落た湯呑みと茶筒が残されていた。確かにこの部屋にある茶道具よりは、遥かに上等な品物だろう。しかし―――
「流石に梅昆布茶は渋過ぎないか…」
再び無人となった地下室に落ちたそんな独り言は、受取手もなく軈て空気に溶けて消えた。
****
黒の革手袋を両の手に嵌めると、それを見計らっていた様にコートが肩に掛かる。鏡越しに視線を向けると、それに気付いた菫が照れ臭そうにはにかんだ。
「今日もビシッと決まってますな。流石幹部殿」
「そうかい。そりゃ光栄だ」
そんな遣り取りをしながら俺達は玄関に向かう。靴を履いて向き直ると、菫は愛用の帽子を俺に差し出しながら問うた。
「今日は夕ご飯どうする?」
「嗚呼、今日は…」
其処迄云い掛けて、俺は一度口を噤んだ。昨日突然入った休暇の分、今日は何時もより仕事が重なっているだろう。だが、それでも―――
「今日は夜更け前迄には帰る。だから、夕飯作って待っててくれるか、菫?」
「っ!―――うん。美味しいご飯作って待ってる」
帽子を受け取りそう云うと、嬉しそうに頬を染めた菫が徐に眼を閉じ僅かに顔を上げた。毎朝繰り返してきた習慣の儘、額に掛かった前髪を掻き上げてやると。まるで期待する様に目の前の顔が赤く綻ぶ。
「………」
そして俺は見送りに立ってくれた嫁に口付ける。何時もと同じ額ではなく、緩やかな弧を描いていた―――その唇に。
「っ…!?」
口元で菫が息を飲むのが判った。それでも後ろから頭をしっかりと捉えて、俺は自分の唇を深く押し付ける。本当はもう少しこうしていたかったが、これ以上やると仕事に行けなくなりそうで、名残惜しく思いながらも俺はようやっと顔を上げた。
「じゃあ、行ってくる」
「う…ん…、いってらっさい……」
最後にそう頭を撫でてやると、自分の身に起きた事を理解出来ていない様な呆け顔で菫は僅かに手を振る。それに苦笑して俺は玄関の扉を開けた。何時も通りの道を抜け、頭の中で今日の仕事のスケジュールを組み立てながら仕事場に向かう。だが、何時の間にかその頭はつい先刻見た赤い呆け顔を起点に昨日の出来事で徐々に塗り潰されていき、気付けば口の端が勝手に吊り上がっていた。
「あ!おはようございます中也さん!」
「おはようございます!」
「もう、昨日は突然休むから驚きましたよ!何かあったんスか?」
「嗚呼、ちょいと外せねぇ特別案件があってな」
上司の出勤に気付いて口々に声を掛けてくる部下達にそう答えながら、俺は今一度眼を閉じて瞼の裏に焼き付いたその笑顔に浸る。
何処にも行けない不自由な鉄格子の中で、それでも“幸せだ”と謳い“愛している”と囀る女。
俺が誰よりも欲し、その我を通してこの手に繋ぎ止めた女。
そんな彼奴が俺の帰りを待ち続けてくれるなら、暗闇に色褪せた鳥籠さえも、穏やかな黄昏に染まる楽園に思えた。だから―――
「よしお前ら!今日も気合い入れて行くぞ!」
だから俺は、今日もこの混沌渦巻く魔都を駆る。
愛する家族と今夜の団欒を、―――守る為に。