hello solitary hand・番外編
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―――学生時代。大人になる前の執行猶予。その時分を“青春”と最初に銘打ったとされる文豪に、私は心底物申したい。
「何余計な事してくれてんだ」と。
抑、“青春”とは本来“春”そのものを示す言葉であり、それを人生における若々しく元気で力に溢れた時代を指す言葉として、何処ぞの高名な文豪が定着させたのだそうだ。正直、スタンダードに人生を謳歌している若者になら、それで何ら問題はないと私も思う。真っ当に、素直に、清く正しくこの年頃迄育成を成功した、“青春”と云う眩い言葉を掲げるに恥じぬ選ばれし猛者達ならば。しかし、若い時分のあり様など十人十色であり、それを十把一絡げに“青春”と銘打つのは大分々々無理がある。
少なくとも、真っ当なスタンダードからあぶれた捻くれ者達にとって“青春”とは、大人達の思い出補正から生み出された形無き幻想に過ぎないのだから―――
****
「ごめんよ先生、ちょっと隣座らせて貰っていいかな?」
そう声を掛けるとベンチの上で日向ぼっこをして居た三毛猫は、大きく欠伸をして端の方に移動してくれた。
「有難う。はい今日のショバ代」
手提げに忍ばせておいたチュールの封を切って差し出すと、三毛猫は何時もの様にそれをペロペロと舐める。その様を眺めながら表情筋を融解させていると、不意に後ろから私を呼ぶ声がした。
「菫〜!」
「あ、中也〜!」
視界に入った赤いブレザー姿に手を振ると、彼は小さく手を上げて応えてくれた。先生に空けて貰ったもう一人分のスペースを再度軽く払って、私は同席者が辿り着くのをウキウキと待つ。
「悪ぃ、待ったか?」
「否、私も先刻来た所だ。なぁ先生?」
「にゃーぅ」
「それより早くお昼にしようぜ。私お腹ペコペコだ」
「おう。今日は何作ってきたんだ?」
「昨日の夕飯をアレンジしたアスパラの胡麻和えと南瓜グラタン。あとは何時もの卵焼きとメインディッシュはミニハンバーグだ。中也は?」
「ん」
答える代わりに、中也はお弁当の蓋を開けて見せてくれた。詰まって居たのは定番の卵焼きに唐揚げ、椎茸と根菜の煮物に一口サイズの焼き鮭等。
「おお!今日は煮物詰めて来たんか!」
「どっかの誰かに矢鱈とリクエストされたからな。おら、お前も早く弁当出せ。今日は卵焼きと交換してやる」
「え?いやいやいや、卵焼きは中也のにも入ってるじゃん。ここはミニハンバーグと交換で」
「バァカ、そりゃお前のメインディッシュだろ。構わねぇよ。俺とお前のじゃ味付けが違うしな」
「う〜ん…。まぁ、確かにウチの卵焼きは乱歩さんの要望で甘めに作ってるが…、あ!」
催促されてお弁当箱を開けると、その瞬間中也が卵焼きを摘み上げて口中に放った。それを数度咀嚼し飲み込むと、彼は押し付ける様に自分のお弁当箱を差し出す。
「ご馳走さん。これで交換成立だ。早く持ってけ」
「はぁ…、全く…。君の善良さは横暴が過ぎるぞ」
「煩ぇ、俺は俺の食いてぇモンを指定しただけだ」
仕方なく私は差し出されたお弁当箱から煮物を取って、自分のお弁当に移す。それを見届けた中也は実に満足そうな顔で笑んだ。
―――中原中也。
今年から本校に通う事になった転校生であり、転校初日で本校のヤンキー連中を漏れなく平伏させた猛者である。とは云え彼自身に其処迄の危険性はなく、ヤンキーはヤンキーでも雨の中捨て犬に傘を差し出す系の心優しきヤンキー君だ。それこそ、こんな人気のない所で一人飯に興じる陰キャとお弁当のおかずを交換してくれる程に。
「ふぁ〜…、やっぱ美味ひぃ〜。中也の作る和食に外れ無しだな。先ず出汁から違うもん」
「そうかい。じゃあ、精々姐さんに感謝すんだな」
「姐さん?中也、お姉ちゃん居るのか?」
「ん?嗚呼、否…。兄弟は居るっちゃ居るが、あの人はそう云うんじゃねぇよ。何つーか…、面倒みてくれる恩師っつーか…。煮物だの何だの、その辺の作り方はあの人から教わったからな」
「ほほう。こんな美味しい料理を教えてくれるお姉さんに面倒をみて貰えるなんて…。中也君も隅におけませんなぁ〜。このこの〜」
「馬鹿ちげーよ!あの人は…、アレだ!身内みたいなもんで、お前が思ってる様な事ぁこれっぽっちも」
「うんうん。そうやってふとした瞬間に“何だ、この胸のときめきは…っ”ってなるんだよな!少女漫画とかで見た事あるぞ、そう云うシチュエーショむごっ!?」
「もうお前は黙って飯食ってろ!」
見事なシャウトを決めて私の口に次々とおかずを詰め込む中也。だが不意に、それ迄柔らかだった眼光が一気に殺気を纏った。それに気付いたのとほぼ同時に、私の横顔を一陣の疾風が唸りを上げて突き抜ける。
「おっと!危ないなぁ。女性に向かって物を投げるなんて最低だよ中也?」
「そう思うんなら其奴の半径3メートル以内に近付くんじゃねぇよ青鯖」
「うわぁ、これだから距離感の概念が欠如したヤンキーは。仮にも上級生の先輩に対して“其奴”呼ばわりなんて、馴れ馴れしいにも程があるよ。ねぇ、菫?」
「ブーメランで切腹するのは楽しいかい太宰君?」
のしっと頭に掛かった重みと降り注ぐ声で相手を特定した私は、口の中のものを飲み込んで大きな溜息を吐く。すると、つい先刻私の背後でペットボトルの豪速球を躱した乱入者は、余計ベッタリと背中に貼り付いて体重を掛けた。
「ちょっと菫〜。せめてこっちを向いて云ってくれる?私のこの美貌をこんな間近で見られるなんて、本当はかなり貴重な事なのだよ?」
「否、近過ぎて寧ろピンボケするわ。てか重い。頼むから自立してどーぞ」
「もう、冷たいなぁ。本来人間は、他者に支えられないと立って居られない生き物なのだよ?ほら、『人』と云う字も大きい方が小さい方に寄りかかって出来ているじゃないか」
「その身も蓋もない教訓、誰情報?」
「森先生」
「あんのロリコン養護教諭が…」
「ねぇ、それより今日の弁当は?私お腹空いちゃったよ〜」
そう云って、まるで餌を強請る犬猫の様に人様の頬に米神を擦り寄せてくる長身の男子高校生。
―――その名を太宰治。
入学から現在迄ぶっちぎりで不動の学年主席を貫き通し、それ以上にぶっちぎりでトラブルメーカーの名を欲しい儘にした本校きっての天才兼問題児だ。尚、担任たる国木田先生からの評価は最底辺だが、校内女子からの人気はダントツの超プレイボーイでもある。
「おい!何時迄其奴にへばり付いてんだ、いい加減離れやがれこの背後霊野郎!」
「はぁ?私が君の指図を聞く訳がないだろう馬鹿じゃないの?」
「なぁ、取り敢えず喧嘩はお弁当食べてからにしないか?此の儘だとまた昼休みが終わっちゃうぞ…」
「おお、中也君!丁度いい所に」
その時凍える様な声が私達の間に降って湧いた。反射的に三人で目を向けた先で、しなやかな黒の長髪が揺れる。見事な快晴の下、マフラーと耳当てをしっかりと着込み寒そうに身を縮めた壮年の男性が、両手にスーパーのビニール袋を提げて小走りに駆け寄って来た。
「蘭堂先生!どうしたんですかその荷物?」
「明日の授業で行う調理実習用の食材だ…。日が高い内にと買い出しに出たのだが…、矢張り外は寒いな…うう…」
「先生。今の気温25℃超えてますよ」
「それより、俺に何か用かよ先生」
「嗚呼、そうだった。中也君、悪いが今からこの食材を冷蔵庫にしまうのを手伝ってはくれまいか?」
「は?…まぁ、別にいいがよぉ。二人掛かりでしまう様な量かコレ?」
「否、単純に私が冷蔵庫を開けられないのだ…。扉を開けた瞬間流れ出すあの冷気、とても耐えられる気がしない…。況してや冷凍庫など開けようものなら、指先から瞬時に凍り付く自信がある。嗚呼…、考えただけで寒っ…」
「それでよく家庭科教諭の資格取れましたね蘭堂先生」
「返す言葉もない…。教師として不甲斐なしと自分でも自覚している…」
「まぁまぁ、そう気を落とす事ありませんって。蘭堂先生の授業は判り易いって生徒からも人気ですし、私も先生の調理実習は大好きですよ?」
「うぅ…、有難う臼井君…。生徒にそう云って貰えると多少気が楽になる…」
「ほら、それより食材しまうなら早く行こうぜ。先生と違って、ナマモノは暑さですぐ駄目になっちまうからな」
そう云ってお弁当の残りを一気に掻っ込んだ中也は、ベンチを立って蘭堂先生の持つ袋を一つ受け持った。
「悪ぃ菫。そう云う訳でちょいと行ってくる」
「嗚呼、今日も有難うな中也」
「おう。お前も糞鯖に餌やったらすぐに戻れよ」
私の背後を睨みつける中也に太宰がベーと舌を出す。それを見て露骨な怒気を滲ませながらも、寒さに震える蘭堂先生の限界を察してか、中也は苦々しい顔で踵を返した。「本当に助かる。ポールにも昔、こうしてよく手を貸して貰ったものだ」と何処か懐かしそうな声を漏らす蘭堂先生と、むず痒そうに頭を掻く中也。そんな二人の背中が何故だか微笑ましく思えた。
「君、そんなに好きだったの?
「………。……何で知ってんだよ…」
「質問してるのはこっちなんだけど」
「……はぁ。蘭堂先生の調理実習が大好きなのは本当だよ。新しい料理のレパートリーが増えるからな。でも“クラスメイトと楽しくお料理作りましょう”なんてムリゲー、変に首突っ込んだ所で場の空気を乱すだけだ。なら、自分の分を弁えて皿洗いに徹していた方が余程いい。ただの適材適所。私のコミュ障陰キャ振りを知ってる太宰君なら判るだろ?」
そう云って振り返ると案の定、表情を消した鳶色が私を見下ろして居た。“流石美少年は無表情でも美少年だな”、なんて脱線した所感を抱きつつ私は肩を竦めて苦笑する。
別に人間関係が嫌いな訳じゃ無い。それでも、昔から人付き合いは苦手だった。大勢の人間が思い思いに行き交い、語らい合う昼休みの教室が酷く落ち着かなかった。だから何時も4限目の鐘が鳴るとすぐに教室を出て、昼休みの喧騒からなるだけ離れた校舎裏のベンチでお弁当を広げて居たのだ。其処に孤独感は無かった。ポカポカと暖かい陽光の下、時折風に運ばれてくる遠い潮騒の様な賑わいに耳を澄まして。穏やかに安らかに、私は昼のひと時を謳歌して居た。
新学期。桜舞い散るこのベンチで、猫とお弁当を奪い合う転校生に出会う迄は―――
「全く…。そう迄して人付き合いを避ける癖に、何であの蛞蝓にはあっさり懐柔されるかな…」
「ん~、そう云われてもなぁ…。“何か自分のテリトリーにおっかないヤンキーが居る”ってガクブルしてたとこに、兄貴力と男気の原液叩き込まれた挙句、とどめに美味しいお弁当迄振る舞われたら、回避もガードも間に合わずにKO負けするのは仕方ないと思うんだ。つまり、ギャップこそ最強だったと云う事だ」
「単に餌付けされただけじゃない」
「否定はしないが、それを君に云われるのはちょいと遺憾だぞ」
膝の上を占拠する端正な貌に苦言を吐いて、私はその高く整った鼻先を軽く指で押した。
何時の間にやら習慣化して居た中也と私のお弁当同盟。その結成から数日後に現れた、と云うか軽快に首を突っ込んで来たのがこの太宰だ。私もこの学校に席を置く者として名前くらいは知って居たが、まさか自分が直接関わる日が来るとは夢にも思わなかった。しかも彼はどうやら中也と元々面識があるらしく、その上中也を揶揄い倒す事に無上の喜びを感じている。この昼休みの乱入もその一環なのだろうが、そうやって日々トンチキ騒ぎを演じている内に、何故か私が彼のお弁当係として定着してしまい今に至る訳だ。
「ちょっと…、何だいそのやれやれと云わんばかりの顔は。この私の胃袋を掴んで毎日弁当を要求されるとか、寧ろこの上ない栄誉に歓喜する所だよ?」
「じゃあその栄誉に歓喜出来る女の子に要求してやれ。大体君が私にお弁当要求するのだって、殆ど中也への嫌がらせがメインじゃないか」
「………うわ…」
「何?」
「あー、はいはいそうだったねー。君はそう云う人だったねー。はぁ…、全くこれだから菫は…」
「何故私はエーミール風にディスられているのか…」
「もういい。それより早く弁当頂戴。鈍感な先輩の相手してたら本当にお腹空いてきた」
何故か勝手に不機嫌を拗らせた太宰に催促され、私は首を傾げながらも作ってきたお弁当を彼に手渡した。その時、まるで見計らったかの様に昼休みの終わりを告げるチャイムが校内に鳴り響く。
「あ〜、矢っ張りまたこうなった…。太宰、5限目は?」
「勿論サボるに決まってるじゃない」
「だよなぁ…。じゃあ、食べ終わったお弁当箱はまた下駄箱の上にでも置いといてくれ。帰りに回収するから」
「ねぇ、偶には菫も一緒にサボっちゃおうよ。一度や二度授業を飛ばしても、大した支障なんて出ないんだし」
「それは君みたいな破格の天才だけだ。況してや中間テストを来週に控えたこの状況でサボりとか、普通に自殺行為だろうが」
「嗚呼、そう云えばあったねそんなの。…と云う事は来週からは午前授業か!わぁいやったー!ねぇ菫、折角だから放課後に二人で遊びに行こうよ」
「悪いが一般的頭脳の私はテスト対策って重要任務があるんだ。よってテスト期間は即行で帰宅する」
「なら私が君のテスト対策を手伝ってあげる!私の手腕を以てすれば、高校のテストくらいチンパンジーでも満点を取れるよ!」
「ウチには頼れる名探偵が居るので間に合ってます」
「え〜。じゃあ、せめてテスト最終日だけでいいから一緒に遊ぼうよ。ねぇ、それならいいでしょう?」
「残念だが、その日は既に先約がある」
「“先約”?…一体誰の?」
「っ!!」
その瞬間、玩具売場でのたうち回る五歳児さながらのテンションが一気に氷点下迄下落した。自ら掘った墓穴を自覚した米神を冷や汗が伝う。が、そんな私の耳に、天の助けとばかりに5限目の開始を知らせるチャイムが響いた。
「いっけね!授業始まっちゃったわ!すまん太宰、兎に角そう云う事だから今回は諦めてくれ!それじゃあまたな!」
口早にそう云い切って、私は脱兎の如くその場から走り去る。太宰の反応は気になったが、後ろを振り向く勇気は無かった。振り向いたが最後、この場を逃げ出す千載一遇のチャンスを棒に振ってしまうと確信したからだ。
だがそれと同時に、私にはもう一つの確信があった。
次に太宰と会う時、“絶対碌な事にならない”と云う火を見るより明らかな確信が。
****
爽やかな青空の広がる昼下がり、老若男女様々な人々が行き交う映画館の一角で、私は待ち合わせ相手に深々と頭を下げていた。
「って事で、今回は完全に私のミスだ。ホントすまん」
「そう落ち込む事はないよ菫。誰にだってミスはある。大切なのはその経験を次回に活かす事さ」
「ミスそのものの分際でいけしゃあしゃあと語ってんじゃねぇよ死ね」
額にくっきりと青筋を浮かべて眼を釣り上げる中也。満面の笑みを浮かべてちゃっかり私の肩を抱き寄せる太宰。そんな何時もの光景に、私は再び深い溜息を吐いた。
「予想はしてたが、矢っ張りこうなったか……」
「当たり前じゃないか。何せ私は寝ても覚めてもどうすれば中也に厭がらせ出来るかばかり考えているのだよ?そんな私が、中也のお楽しみイベントを見逃すなんて有り得ない。と云うかそれ以前に、中也の分際で菫と放課後
「その前に手前だけは死なすわゼッテェに」
「なぁ太宰。云っとくが、私達はただ見たい映画が被ってたから一緒に見に来ただけだ。そしてその映画は確実に君の趣味には合わないと断言出来る。よって私達と此処に居ても、君は学生時代の貴重な二時間を無駄にするだけだぞ?」
「もう何さ菫まで!菫は私と中也どっちが大事なの?」
「先着順で云ったら、今回優先されるべきは中也との約束だ。もし太宰も見たい映画があるなら、今度付き合うから」
「やーだー。私を差し置いて二人だけで楽しい時間を過ごすなんて絶対許さないー。どうしても私を仲間外れにするって云うなら、スクリーンの前で首吊って死んでやるからねー」
「「………」」
何時もの駄々っ子ムーブをかます太宰に、どちらともなく顔を見合わせた私と中也は無言の儘互いに深く頷いた。“此奴ならやりかねない。否、絶対やる”と。
「チッ、仕方ねぇな。おい糞鯖。着いて来んのは構わねぇが、ゼッテェ静かにしてろよ。判ったな?」
「え、ナニソレ?力の限り騒げって云う振り?」
「頼むよ太宰…。私達は兎も角、純粋にこの映画を見に来たお客さん達迄巻き込まんでくれ。な?キャラメルポプコーン一番大きいの買ってやるから」
「あ、じゃあ二人で一緒に食べよう菫!と云う事で私、菫の隣ねー!」
「ったく、餓鬼かよ…」
「はいはい。それより早くチケット買おうぜ。三人並びの席がなくなったら困るしな」
「そう云えば、今更だけど君達一体何の映画見に来たの?」
「本当に今更だな」
「アレ」
映画館のロビーに点々と貼られた映画のポスター。その一つを指差して見せると案の定、背中に貼り付いた美貌が硬く強張る。熱烈なファン達の希望から満を待してスクリーンデビューを果たした感動のハートフルミュージカル。
―――『劇場版少年と子犬』のポスターが其処にはあった。
****
上映を終え灯りを取り戻した館内から各々退席していく観客達。しかしエンドロール後から暫くしても感動の余韻冷めやらず、退席どころか立ち上がる事すら出来ぬ儘私と中也は目頭を抑えていた。
「くっ…。やっぱいい話だったなぁ…『少年と子犬』…」
「嗚呼…全くだ…。良かったな子犬…。あんな素敵な少年に拾って貰えて…ぐすっ」
「ねぇ、君達歳幾つ?」
「仕方ないじゃん…っ。太古の昔から子供と動物のタッグは最強の涙腺ブレイカーなんだよ…。況してやラストにあんな…あんな展開になるなんて…っ。嗚呼ヤバい…ポケティ尽きた…」
「ほらよ使え」
「ぐすっ…、ありがと中也…」
「気にすんな。まだまだあるから欲しくなったら遠慮なく云え」
「否、どんだけポケットティッシュ持参して来てるの中也。完全に泣く気満々じゃん」
「ち、違ぇよ!これはあれだ…。偶々路上で貰ったのが貯まってただけで…」
「知ってる中也?路上で鼻セレブは配らないのだよ」
「うぅ…子犬…。嗚呼子犬よ…っ、ホント、ホントよがっだなぁぁあ~」
「あの…お客様…。次の上映の準備が在りますので、恐れ入りますがそろそろご退席を…」
「あ、はい。すみません。ほら菫一回外に出よう?ね?」
「立てるか菫?」
「ぐすっ…、すまん二人共…。何か久し振りに本気で泣いたら…、涙腺バグった…ずびっ…」
「いいよ、気にしないで。ただ…此処じゃあ何かと忙しないから、落ち着いて気兼ねなく泣ける所に行こうね?」
「あ?んだよそれ。海辺にでも行く心算か?」
「はぁ、あのねぇ…。あるだろう?もっと他に。誰にも邪魔されず、気兼ねなく大声を出せて、菫の大好きな甘い物も食べられる。―――とっても楽しい最適な場所がさ」
「「?」」
****
「LALALA~♪LALALA~♪ZINGEN、ZINGEN、KLEINE、VLINDERS♫LALALA~♪LALALA~♪ZINGEN、VLINDERS、LA~LA♫ミルク色のよあけ~ぇ♫」
小型のミラーボールが回転する薄暗い室内で、ハートフルなメロディーが圧倒的歌唱力によってロックテイストに塗り替えられていく。が、それはそれで実に味わい深く、私はつい先刻見たミュージカル映画の主題歌を熱唱する中也の歌声に聴き入っていた。
太宰の提案でやって来たのは映画館の近くにあったカラオケ店。確かに此処なら幾ら泣き喚いても周りに迷惑は掛からないし、この溢れる感動を歌と云う形で昇華出来る。と云っても、歌っているのは主に中也で私は専ら聞き専だが。それでも、彼のえぐい程の歌唱力で再構築される『少年と子犬』メドレーは、映画で感じた感動を彷彿させるのと同時に、何か身体の奥から気力の様な物が沸き上がってくる。
「失礼します。こちらご注文の品です」
その時、部屋の扉をノックして従業員のお姉さんが入って来た。持ち込まれたのは山盛りのポテトと大きなピザ。そして圧倒的存在感を迸らせその中央に鎮座するハニートーストだ。
「ナニコレ、デッカ!?」
「うふふ。此処の名物らしいよ。インスタ映えもバッチリで女の子達に大人気なんだって。気に入ってくれた?」
「うん!スッゴイ美味しそう!コレ絶対乱歩さんが好きなヤツだ!」
「見たとこ食パンに飾りつけしてるだけみてぇだし、お前なら作れんじゃねぇのか?」
「おお確かに!よし、じゃあ参考資料としてちょっと写真撮っとこう!ふふ、コレ作って出したら乱歩さんきっと大喜びだろうなぁ」
「あ~…うん…。そう云う理由で写真を撮る人は、初めて見たよ…」
「まぁ、だが丁度いい。学校のあとすぐ映画見に行って、流石に腹減ってきたしな」
「はい駄目ー。これは菫の為に注文したんだから、中也にはあげませーん」
「手前…っ」
「太宰。流石に私でもこれ全部は食べきれんよ。三人で食べよ?な?」
「え~。じゃあ私の分は菫が食べさせてくれる?そうしたら中也にも少し分けてあげて善いよ」
「はぁ!?巫山戯んな!何で手前なんかにんな事」
「はい、あーん」
「あ~ん」
「乗るな菫!!」
「まぁまぁ、こんなんで済むなら安いもんだろ?それに中也だって、よく私の口にお弁当のおかず突っ込んでくるじゃん」
「ば、馬鹿!それとこれとは話が」
「ねぇねぇ菫〜。私からもお返し。はい、あ〜んして?」
「あー」
「菫!!」
「ひゅふひゃほはへふは?ほは、はーん」
「要らねぇよ馬鹿!もういい、んな甘ったるいモンお前らだけで食ってろバーカ!!」
口の中のものを咀嚼しながら別のフォークで中也にもハニートーストを差し出すも、彼は真っ赤な顔でそっぽを向いてまたデンモクを弄り始めた。だがそれは、何時の間にか私の隣から消えて居た包帯だらけの大きな手に取り上げられる。
「ちょっと、幾ら何でも君ばかり歌い過ぎでしょ。と云うか、何でもかんでも問答無用でロック化させるのやめてくれない?あとエコー掛け過ぎでうざぽよ」
「あぁ!?いいだろ別に。俺は俺の歌いたい儘に歌ってるだけだ、邪魔すんな!」
「中也のワンマンライブはもういいから、私は菫の歌が聞きたいなぁ。ねぇ菫、君も何か歌ってくれないかい?」
「ひふぁはひほーふぁへへふははふふぃー」
「ごめん、なんて?」
「今ハニトー食ってるから無理だとよ」
「何で判るの中也」
「あ?何でも何も、聞きゃ判るだろうが」
「あー…うん。判った。ごほん…、じゃあ仕方ない。代わりにこの私がこの美声を余す所なく披露してあげようじゃないか!中也の口直しにね!」
「最後の一言が余計だ!大体手前の眠たくなる様な歌なんざお呼びじゃねぇんだよデンモク返しやがれ!」
「眠たくなるのは君の感性が大雑把に出来てるせいだろう!真面な人は私の透明感ある歌声に心洗われ魅了されるのだよ!よって今の菫に必要なのは私の癒される歌声だ!!」
「ぬかせ!それなら寧ろ景気の良いハードロックの方がテンション上がんだろうが、引っ込んでろ!!」
「だ・か・ら!それはもうお腹いっぱいだって云ってるの!!菫だってこの全自動ロック変換機の歌より、私の明朗たる歌声を聞きたいよね!?」
「上等だ!おい菫、お前からもはっきり云ってやれ!手前の子守唄なんざ喜ぶのは昼寝中の幼稚園児くらいだってな!」
「どっちも聞きたいので、是非デュエットでお願い致します!」
手持ちの蛍光ペンを惜しみなく使い、即席で仕上げた二冊のノート。『一緒に歌って』、『ハモり聞かせて』と綴られた其れ等を両手に持ち、私はさながら推しのライブ真っ只中のファンが如く狂った様に、しかし守るべきマナーの範囲内で振って見せる。それを目の当たりにした当の二人は、珈琲と青汁の粉末を一気飲みさせられた様な苦々しい顔で互いに顔を見合わせて居た。
****
「嗚呼…幸福です…。私の葬式では是非お経の代わりにこれを流して欲しい…。迷う事なく極楽浄土に行ける気がする。否、寧ろ此処が極楽浄土か…」
あの後、ロックの神とバラードの神に愛されし二人の奇跡的ハーモニーを堪能した私は、解脱を果たした釈迦の様に凪いだ心で、この二人と同じ時代に生まれ落ちた幸運を八百万の神々に感謝した。序でに途中からスマホで録音したこの音源は、帰宅後バックアップを取る迄絶対に守り抜く。喩えこの命に代えても!
「クッソ!ちょろちょろ跳ね回りやがって、蚤蟲か鬱陶しい!」
「はぁ?それを云うなら君の方だろう?サイズ的、に!」
「んだとコラ!俺は未だ高校生だ!これから伸びんだよ!これから!!」
「いやいや現実を受け入れなよ中也。それ初めて会った時も云ってたじゃん。あれから君1ミリでも伸びた?寧ろ縮んだんじゃない?」
「少なくとも5ミリは伸びたわ嘗めんな!!」
「はい隙あり〜」
「あ!待っ」
しかし中也の静止も虚しく、画面の向こうで金棒を構えた美少女が無慈悲なビームを放つ。その一撃が決め手となり、それ迄優勢を保って居た中也の残りHPは見事に0へと還っていった。
「てんめぇ…っ」
「うふふ、駄目だよ中也〜?勝負の最中に気を散らすなんて。まぁ喩え全力で集中していたとしても、結果は同じだろうけどね〜」
いっそ拍手を送りたくなる様なドヤ顔で踏ん反り返る太宰。血が滲みそうな勢いで奥歯を噛み締める中也。そんな二人の対決を観戦する私が居る此処は繁華街のゲーセンだ。あのカラオケ店で最終的に何時もの小競り合いを始めた二人は、対戦型格闘ゲームにて勝敗を決する運びとあいなった。ついでに現在の戦績は太宰の5戦5勝。と云っても、旗色が悪くなると太宰がアレコレ茶々を入れて中也を妨害するので、正直これを正当な勝利と呼ぶべきかは疑問が残るが。
「クッソ、もう一回だ!手前今度は口閉じてろ!一言も発するな!そうすりゃゼッテェ俺が勝つ!!」
「うわぁ〜、負け惜しみも此処迄くるといっそ哀れになるねぇ。単に君が注意散漫なだけだろう?」
「中也。私が耳塞いどこうか?そしたら太宰の声聞こえないだろ?」
「「はぁ!?」」
「え…。否、だって私、特にやる事ないし。それでフェアになるなら手伝うが…」
「ばばば馬鹿かお前!要らねぇよ!それくらい自分でやるわ!!」
「否、自分で耳塞いだらゲーム出来んだろ」
「駄目駄目!そんな羨ましい真似絶対許さない!だって君達の身長差でそんな事したら、中也の後頭部に菫の胸が当」
「手前はマジで黙ってろ万年発情野郎!!」
ゲーセンの騒音に負けない程の怒号を上げた中也は、置いてあった鞄を思いっきり太宰の顔面に投げつける。が、最早お約束とばかりにそれは躱され不発に終わった。普段ならそれだけで済んだのだが、此処は不特定多数の人間が利用する遊技場。そして、本来の的を外れた鞄の豪速球は、
唸りを上げて後方に居た客の後頭部にクリティカルヒットした。
「「「あ」」」
三者三様、純粋な反射から出た声がけたたましい喧騒に潰される。そして、結構な積載量を誇る学生鞄の投擲を受けた相手は、正面にあった電子画面との玉突き事故を起こし、完全に沈黙して居た。代わりに声を上げたのは、不運な被害者と共に遊戯に興じて居た友人らしき人々。しかもその出で立ちは…。うん、まぁ、言葉を選ばず云うならば、コンビニ前でしゃがみ込みながら周囲を威嚇する系のお兄さん達でした。
「よっちゃぁあん!?」
「しっかりしろよっちゃん!おい!」
「手前ら、よくもよっちゃんをやってくれやがったなおおん!?」
「ほら、だってよ中也」
「あ〜…。その、悪ぃ…」
「悪ぃで済んだら公開処刑なんざ存在しねぇんだよ!!大体何だ手前、見慣れねぇ制服着やがって…。一体
「「あ」」
純粋な反射から出た声が再び喧騒の嵐に掻き消される。ただし、その声を落としたのは私と太宰の二人だけだった。そして、ただ一人沈黙を守っていた中也は実に深い深呼吸の後、漸く言葉を吐く。
「……おい太宰」
「はいはい。菫には私が付いてるから、お好きにどうぞ」
「あの…、中也?」
「悪ぃな菫。ちょいと別のゲームで遊んでてくれ。なぁに、すぐ戻るからよ」
そう云った中也は、文句の付けようのない百点満点の笑顔で私の肩を叩いた。そしてコンビニ前ガーディアンズの方へと足を踏み出した彼と入れ違いに、此方へと歩み寄った太宰がさり気なく私の肩を抱いて反対方向へと導く。正しく流れる様な阿吽の呼吸に内心感嘆を漏らしながらも、私は背後から遠ざかっていく見ず知らずのヤンキー達へ厳かに黙祷を捧げた。
「却説。邪魔者も消えて、漸く二人きりになれたね菫。今度は何処に行こうか?」
「否ナチュラルにゲーセン出ようとすんな。中也が未だだろ」
「え~、いいじゃない。放っておきなよあんなミニチュア喧嘩番長」
「駄目だ。幸い時間潰しには事欠かない場所なんだし、何かゲームやって待ってようぜ?」
「あ!なら、折角だしアレなんてどう?」
そう云って太宰が指さした先には、キラキラと輝く加工を施されたキメッキメの女の子が印刷されたボックスが点在していた。そう、年頃の女の子の大半が必ず通るとされる女学生の登竜門―――プリクラである。
「え、ヤダ」
「何で!?」
「写真撮られるのあんま好きじゃないし。抑々あの空間、何かキラキラしてて膝が震えるコワイ」
「大丈夫大丈夫、私が付いて居てあげるから!ね?」
「ちょ…待て待て待て。いい!いいってばマジで!」
しかしそんな抵抗も空しく、私はあれよあれよと云う間に撮影機の一つに引き摺り込まれた。この際恥を忍んで白状すると、私はこれまでの人生の中でプリクラなどと云うもを撮った事が無い。初めて見る撮影機の内部で謎の緊張から段々背中が丸まってくる。何で後ろ緑色なんだ?この足元の線何だ?てか何で正面にこんないっぱいシーリングライト付いてんの?
「人数は二人、美白は…、其処迄上げなくていいか。菫肌白いし。あ、背景はどれがいい?」
「は?拝啓?敬具?」
「落ち着いてよ。何も緊張する事なんて無いから。ほら、此処で背景の種類を選べるんだ。菫はどれがいい?」
「え…、あ~…えっと…」
『残り10秒だよ!』
「へぇあ!?じゅ、10秒!?あ、あ…、じゃ、じゃあコレ!」
『撮影準備オッケー!アップから取るよ!カメラに寄って、二人でハートを作っちゃおう!』
「へ?何?ハート?何で?」
「ほら菫、右手出して。そう、この形で、この位置」
『3、2、1』
―――パシャ!
『こーんな感じ!次は全身を撮るよ!線の後ろに下がって』
「あ、はいはいはい!」
まるでAI機能を搭載された家電と初めて会話するお婆ちゃんの様に、自動音声に返事をする私を太宰が時折噴き出しながらサポートする。そうして撮影が終わる頃には、明らかに写真撮影で襲い来る以上の疲労感が私の身体を苛んでいた。だがホッとしたのも束の間。今度は右側の部屋に行くよう指示され、其処で私は数時間前に解いたテストよりも難解な問題に直面した。
「え?何“落書き”って…。へのへのもへじ書けばいいのコレ」
「うん。基本的に何を描くかは当人の自由だけど、取り敢えずそれだけはやめておこうね。定番は名前とか日付とか。まぁ、困ったらこうやってスタンプとか使うとそれっぽくなるよ。ほら、猫耳菫の出来上がり」
「何で君そんなスラスラ描けるん?」
「女の子って大概、
「へぇ…」
「あ、もしかして妬いてる?」
「否、単純に凄いなぁって思っただけだ。そんな統計が取れる程色んな子と遊びに行くなんて、私には絶対無理だからな」
それ以上でもそれ以下でもない、思った儘の所感を述べて私は太宰に云われた通りスタンプの中から使えそうなモノを吟味する。『ずぅっと大好き』とか『今日はデートの日』とか『ラブラブで困っちゃう』とか云うのがあったが、どれも当てはまらないのですっ飛ばし、結局定番だと云う日付のスタンプに落ち着いた。後は名前書くんだっけかとペンを走らせるも、線がガクガクしてどうしても不恰好になってしまう。え?プリクラマスターの皆さんどうやってあんな可愛い丸文字とか書いてんの?普通に無理なんだが。
「ねぇ菫。今日…、楽しかった?」
「ん?…嗚呼うん、楽しかったよ」
自分の名前一つ満足に書けず落書きペンとの格闘を繰り広げて居た私は、画面と睨めっこした儘返事をする。
「歳の近い子と出かけるなんて、乱歩さんと晶子ちゃんくらいとしか無かったからな。それに二人共カラオケとかゲーセンとか、そう云う所あんまり興味無いから中々に新鮮だった」
「うふふ。なら、今度はもっと楽しい場所に沢山連れて行ってあげるね」
「おお、そりゃ有難い。君達と一緒なら、きっと何処に行っても楽しいだろうからな」
「……君達?」
「おう!君と私と中也の三人でさ。今日みたいにまた遊ぼうぜ」
『落書き時間、残り30秒だよ!』
「うわ!これも時間制限あんの!?ちょ、未だ名前書けてないのに!」
「……菫」
「ん?何―――」
歪んだ線ばかりを生み出していた落書きペンが、初めて真っ直ぐな線を描いた。しかしそれは、私の手から滑り落ちるに任せてフレームの枠迄走り去る。コードの先でぶら下がったペンが機体を二、三度叩いた。それを捕まえた太宰がフレームを縦に分断した線を消し、不恰好な落書きをスタンプで上塗りする。その瞬間、あの軽快な自動音声がタイムアップを告げた。
『落書き終了〜!プリは隣の印刷口から出てくるよ!それじゃあまたね〜!』
「………」
太宰は無言で落書きコーナーを出た。だがそれを理解しても、私の足が動く事はなかった。と云うか、足どころか視線すら完全に静止している。ただ、唯一私の右手だけが、たった今重なったそれを確認する様に無意識の儘唇に触れた。
「菫」
「―――っ!?」
その時不意に、落書きコーナーの垂れ幕が再び開く。其処に居たのはよく見知った蓬髪の美少年。だが、普段子供の様な駄々を捏ねる端正な美貌は、自棄に大人びた笑みで艶やかに彩られている。初めて見るその表情に、遂に呼吸迄もが停止した。
「また撮ろうね菫。勿論、今度も二人きりで」
そう云って包帯だらけの大きな手が、自分の唇を覆う私の手を取って小さなカードを握らせる。漸く完成した人生初のプリクラ。互いの手を合わせてハート型を作る私達の下には、
『今日はデートの日』と云うスタンプが押されて居た。
****
「「「本日は誠に失礼致しました!!どうぞお気を付けてお帰り下さい中也さん!!!」」」
「おう。手前らもあんま暗くなる前に帰れよ」
「君って本当に喧嘩する度舎弟が増えていくね」
ゲーセンの出入り口で綺麗に整列しながらキレのある一礼を決めるヤンキー集団。そんな仰々しい見送りを受け合流を果たした中也に、太宰はうんざりと口元を歪める。
「あ?別に舎弟じゃねえよ。ただ、どっちが上か判らせてやったらああなっただけだ」
「げぇ〜ヤダヤダ。これだから肉体言語でしか対話出来ない蛮族は…」
「ん?太宰か?」
その時夕暮れに染まった繁華街の雑踏から声が上がった。それを聞いた太宰はそれ迄の苦々しい顔が一転、パァアっと眼を輝かせて振り返る。其処にに居たのは、片手に熨斗の着いた箱を抱えた赤毛の無精髭。
「織田作!どうしたんだい?豪く大荷物じゃないか」
「嗚呼。商店街の福引で特賞の冷凍タラバ蟹が当たってな。俺一人じゃ食べきそうにないから、丁度お前と安吾を呼んで今夜は蟹鍋にでもしようと思っていた所だ」
「わぁ行く行く!ふふ、三人で鍋を囲むなんて随分久し振りだね!」
嗚呼。そう云えば、今年から赴任してきた教育実習の織田先生は何故か太宰に大層懐かれてるって誰か云ってたっけ。そんな風の噂をぼんやりと思い出していると、思考の海に沈めて居た意識が不意に呼び戻された。
「菫」
「へっ!?あ、え?」
「また明日、学校でね」
「っ!」
夕陽に染められた朱色の笑みが別れを告げる。隣に並んだ織田先生と共に段々小さくなっていくその背中は、矢張り何時もの子供っぽい後ろ姿なのに、その見慣れた後ろ姿にすら心臓が煩く騒ぎ立てる。
「おい」
「ひゃい!?」
またしても意識外から声を掛けられて、私は無様に飛び上がる。だがそんな羞恥心など、仏頂面で此方を睨め付ける碧眼の前に一瞬で霧散した。
「ちゅ…中也…?」
「…………」
「あ…あの…、中也…さん?」
「………家、どっちだ」
「へ…?」
「家、何処に在んのかって聞いてんだ」
「あ~…えっと…。こっち」
「そうかよ」
すると中也は私が指さした方へ向かって歩き出した。その足運びは心なしか何時もより乱雑に見えて。両手をポケットに突っこんで丸まった背中を追い掛けながら、私は恐る恐る彼の顔を覗き込む。
「あの…中也って、家こっちなのか?」
「………逆方向」
「は?ちょ、何で!?いいよ中也。別に其処迄暗くもないんだし」
「煩ぇ。何処をどう通って帰ろうが俺の勝手だ」
そう返した中也は、相変わらずの仏頂面で此方を見向きもしない。確かに彼は元々ぶっきらぼうな所があるが、此処迄不愛想な態度を取られたのは初めてだった。要は、一目で判る程明確に機嫌が悪い。その原因に就いて思考を回した私は、真っ先に思い当った“ソレ”に思わずポケットの中のプリクラを握り締める。
(落ち着け…。あんなの、どうせ太宰の何時もの手だろ…っ)
そうだ。最近接点が増えた事で忘れそうになるが、あのイケメンは正真正銘の遊び人だ。現にプリクラ撮った時だって、色んな女の子と
あんなのに、深い意味なんて―――
そう思うのに。思いたいのに。感触さえ真面に覚えていない“其れ”が消えなくて。頭の中が煮立って仕方ない。
「菫」
「っ!あ、うん。何?」
「次、どっちだ?」
中也にそう問われて、私は改めて辺りを見回す。どうやら無意味な煩悶に時間を費やしている間に、家のすぐ近く迄辿り着いてしまっていたらしい。見慣れた住宅地の風景に、私は何故かホッと息を吐いて中也に向き直る。
「否、此処迄来ればもう本当に大丈夫だよ。ウチ、もう其処の角曲がって直ぐだし」
「……そうか。じゃあ、土産だ」
「わ!?」
そう云って中也は私に何かを放って寄越す。慌ててキャッチしたそれは手のひらサイズの猫のマスコットだった。
「可愛い!どうしたんだこれ?」
「お前らと合流する前にクレーンゲームで取った。結局今日一日あの馬鹿とやり合ってばっかで、碌に楽しませてやれなかったからよ」
「そんな…。私すっごく楽しかったぞ!それに…、悪い事したのは寧ろ私の方だし…」
「何が」
「太宰に今日の事バレちゃったの…、私の所為だし…」
「彼奴が俺に嫌がらせすんのは何時もの事だ。お前が気にする事じゃねぇ」
「中也…。…ありがと。この子、大事にするな!」
「………」
「?……中也?」
「……お前は…どうだったんだ…」
「……へ?」
「俺が居ねぇ間、彼奴に…
―――太宰に、何もされなかったか」
「っ…!」
その声が鼓膜を震わせた瞬間、反射的に息を飲んだ。そのあとすぐに、自分がまた性懲りもなくミスを犯した事を理解した。理解した時には遅かった。その一呼吸だけで凡てを見透かした様に、碧い瞳が僅かに細められる。
「やっぱそうか…」
聞き漏らしてしまいそうな小さな声がした。それを拾って返す間も無く、中也が再び足を踏み出す。他でもない―――私の方へ。
「あ、あの…中也…?中也待って、ちょ…っ」
静止の声は恐らく届いているのだろう。ただ聞き届けて貰えていないだけだ。結果、あっと云う間に距離を詰められた私は塀と彼の間に追い込まれる。
「ちゅ…中也…さん…。近い…近い…です…っ」
「あの糞鯖は何時もこれ以上近ぇだろ」
「それとこれとは…ちょっと話が…」
背後の塀に可能な限り貼り付いても、顔の横に肘まで着かれては最早どうしようもない。互いの呼吸すら薄っすらと感じられてしまう程近くにある顔を直視なんて出来る訳もなく、硬く眼を瞑って俯いて居ると、またあの小さくか細い声がすぐそこに落ちた。
「それとも…、俺に同じ事されんのは
―――厭か」
「っ―――!」
瞬時に上げた視界の先で、揺れる青空の様な瞳と夕陽より真っ赤な顔が見えた。その光景に声を出す余裕も無く、強張る口元を硬い指先がなぞる。
「3秒待ってやる。厭なら手で塞げ」
マスコットを握って居た手がビクリと震えた。頭の中で様々な考えが浮かんでは消えていく。凄まじいスピードで流れる体感時間を差し引いても、きっとその間は3秒以上はあっただろう。それでも、その硬い指先が私の横顔を捉えても、私の手は終ぞ動く事は無く。まるで上から塗り潰そうとでもする様に、深く深く、重なったそれは最後に口先を啄む様に食んで離れた。
「……」
「……」
言葉どころか、喉を震わせる方法すら判らなくなっていた。辛うじて判ったのは、すぐ其処で顔も耳も首元すら真っ赤にした、私の―――
「~~~っ」
何かに耐えきれなくなった様に中也は途端に駆け出した。しかしその足は5メートル程進んだ所で止まり、彼はもう一度此方を振り返る。
「また明日、学校でな…っ」
それだけ云うと中也は今度こそ走り去り見えなくなった。呆然とその背中を見送っていた視線が、ゆっくりと手元の猫に落ちる。心臓の鼓動が、馬鹿に大きく聞こえた。
「あれ?お前まだ帰って無かったの?」
猫のマスコットを映していた視界が、今度は黒い学ランと学生帽を映し出す。溢れんばかりに駄菓子が詰まった紙袋を抱えて、年上の同居人が首を傾げていた。
「乱歩…さん…」
「珍しいな。お前がこんな時間迄家に帰ってないなんて……」
其処迄云い掛けた乱歩さんは、不意に口を閉ざした。開かれた翡翠が私を映し、軈て再び閉ざされると乱歩さんは何か納得した様に、しかし一方で何処か呆れた様に肩を竦めた。
「嗚呼、成程…。“青春”だねぇ」
「っ!!」
バグりまくっていた脳がその言葉を咀嚼し飲み下すにつれて、頭どころか全身がどんどん熱くなる。そして―――
「ああああああああ!!!」
遂に許容熱量の限界を超えた私は、断末魔を上げて一直線に自宅へと駆け込んだ。更に其の儘玄関に靴を脱ぎ散らかし、何度か踏み外しながらも階段を上って自室へと滑り込む。
「ちょっと、何の騒ぎだい!?」
「ただいま〜」
「乱歩。今のは菫か?一体何が…」
「大した事じゃないよ。お腹が空けばその内降りて来るさ。……あ、所で福沢さんか与謝野さん、赤飯の作り方って知ってる?」
「「は?」」
揃って疑問符を浮かべる二人にそう問いながら、名探偵は自宅の階段を見上げる。その視線の更に上で、自室のベッドにダイブした儘虫の息になって居た私は、全身を焦がす熱からどうにか逃れようと揉んどり打って居た。しかし、幾ら足掻こうと脳味噌と云う手の付けられない場所に刻み込まれた記憶は消す事など叶わず、文字通り悪足掻きにしかならない。いっそ何もかも私の見た夢なのではと都合のいい自己暗示を試みるも、スマホの音源に、人生初のプリクラに、可愛い猫のマスコットと、揺るぎない物的証拠がこうも並んでは現実逃避と云う気休めすら儘ならない。
その挙句どちらも“また明日、学校で”だなんて…。
一体明日から私にどの面下げて登校しろと云うのか。
抑々、こんなの陽キャパリピリア充の選ばれし猛者にのみ許されたイベントだろうが!少なくとも校舎裏のベンチで一人飯を楽しむ様なコミュ障陰キャに発生するイベントじゃねぇよ!!運営さん不具合修正メンテ早よ!
しかし、幾ら心の中でそう叫んだとて、運営さんと云う名の神様は起きてしまった不具合を修正なんてしてくれない訳で。明日から待ち受ける波乱のイベントの数々は予測可能回避不可能な訳で。ログアウトすら叶わないムリゲー通り越して鬼畜ゲーに気付かず手を出してしまって居た愚かなユーザーは、苦し紛れにせめてもの悪態を吐くしかなかった。
「―――青春の…馬鹿野郎…」
そうして、かの名高かき文豪が銘打った形無き幻想は、真っ当なスタンダードからあぶれた捻くれ者達までもを容赦なく染め上げる。
若き命が輝き萌ゆる春の“青”ではなく
太陽さえも燃やし落としてしまいそうな、
―――夕陽の“赤”に。